【寄稿】産経新聞で「イスラーム国」の思想と組織を解説

おはようございます。今日から週末にかけて開かれるとある国際政治系学会に行って参ります。末端のお役目を果たしながら勉強もさせていただく所存です。

本日の産経新聞朝刊に、「イスラーム国」の背景、思想、組織原理についての2回の解説の第1回が掲載されています。

池内恵「寄稿・イスラム国の正体(上)存立根拠はローカルな内政対立」『産経新聞』2014年11月14日朝刊

今回はローカルな内政対立と社会の深い亀裂構造の中で、特定の勢力に一定の支持を受けたことで領域支配が可能になったという側面を取り上げています。それは同時に、社会からの支持や黙認を受けにくい地域ではそれほど広がらないということも意味します。

いわばローカルな要因を「主」として、そこに加勢するグローバルな要因を「従」とした分析です。

明日の次回は思想・組織原理で、グローバル・ジハード思想の2000年代の展開という、私のお馴染みのテーゼを軸に思想・組織原理とその帰結を解説します。

こちらはグローバルな側面を取り上げ、イデオロギーの拡散がもたらす宣伝・募集効果や、非集権的・分散型組織が各国に及ぼす脅威の性質を取り上げるものとなります。

10月の日本人学生参加希望事件以来、新聞・雑誌がどこもかしこも特集特集と騒ぐ事態になって、紙・誌面が同工異曲になっていますが、対象に目を凝らしていればすでに変化が生じております。せっかく関心が高まったのであれば、持続的に注視していってほしいものです。

そのような変化を見届ける持続的報道の指針にもなるかと、現段階での認識の視座を示してみました。

「イスラーム国」に対する国際的な関心の推移や対処の枠組みは、6月のモースル陥落の「衝撃と惧れ(shock and awe)」が沈静化し、急激な拡大を差し止めて膠着状態となり、長期戦・思想宣伝戦が主となってきています。

過激主義も「正しく怖がる」知恵が必要であります。

【ラジオ】今夜8時55分~9時20分、J-Waveに生出演

J-WaveのJam the Worldという番組内のBreakthroughというコーナーに8時55分ごろから9時20分ごろまで出演します。

テーマは緊迫するエルサレム。

聞き手は竹田圭吾さん。

J-Wave Jam the World

今日は午前中はじっくりイランに関与した企業人にインタビュー。こちらが聞く側。勉強になりました。もう4回になるヒアリングだが、本当に面白い深い話が出る。

午後は数件インタビュー。こちらは聞かれる側。

合間に大学のお仕事。細切れでいろいろミスる。

さらに夕飯食べてからラジオへ。聞かれる側。

もうへとへとです。声が出るか心配。

【秘蔵映像】オンリー・イエスタデイ~あの頃みんな若かった:現代の京都学派とは

先日紹介した『文藝春秋』12月号、好評発売中であるようです。

こちらは電子書籍でも読めます(【コレ】とか【コレ】とか)。

ちゃんと販売期限が切られているのね(この号は来年2月9日まで)。そうでないといけません

『文藝春秋』は海外向け配信もあるんですね。

同年代の俊英に出会ったら電子版で読んでくださったとのこと。「この著者らしい無意味に難解な言葉で言いかえれば」をすらっと諳んじて笑ってくださった。

なお、ここで取り上げた日本思想のダメ状況の症状の例として取り上げた、社会学者によるエンデ『自由の牢獄』のとんでもない誤読に基づくイスラーム論は、『アステイオン』の1998年夏号(第49号)に載ったものである。

サントリー文化財団が編集している『アステイオン』(最新号)は、ウェブではほとんど読めない。最近少しずつウェブ上に情報を載せるようにし始めていて、バックナンバーの目次や表紙が見られるようになっているけれども、第50号以前は目次も載っていない。

というわけで1998年夏の第49号はウェブ住人にはその姿形も想像がつかないだろう。

なので私のリアル蔵書から、表紙印影をここに特別公開してしまう。

アステイオン第49号1998年夏

いや、幸せな時代でしたね。

「巻頭二大論文」が

グローバリズム=虚構
自由主義=牢獄

と華麗に断定して否定していれば良かったんですからねー。その先は何も考えていない。その先が本当に大変なのに。

この時代、まだまだ日本は国際社会に本当に触れることもなく、法・制度的には自由でも、社会からの同質化圧力の下で自由は実際にはなかった。グローバル社会についても、自由についても、本当は何も分かっていなかった。

ナショナリズムの障壁に守られてグローバリズムは遠い世界の出来事だった。もともと自由ではないので自由の根拠が何なのかも知らないでいられた。

だから安易に「グローバリズム=虚妄」「自由は不自由」などと一方的に日本語で断定して悦に入っていられた。それらは翻訳教科書の中の観念でしかなかったから、「全否定して超克する」という空疎な議論が可能になった。

これを英語で言ったら「この人は哲学の基礎的なところを分かっていないのではないか?」とばれてしまう(あるいは、まさか大学の文学部の先生がそこまで無知なはずないだろうと思われて、ただ理解不能になる)。

思想界にはまだバブルの余韻があった。むやみに金回りが良かったから「近代の超克」をいつの間にか成し遂げた気になっていた。正確には、バブル時代に人格形成をした人たちがこの頃フル活動で文章を書いており、それを載せてくれる雑誌がまだいっぱいあった。団塊世代の転向組・反近代論者と、1960年前後生まれのバブル入社組が、スカーと無知を放散していて、それが「現代思想」だと思われていた。

この人たちは幸運な時代に生きていた。

「海外留学なしで外国文献を数冊つまみ食い(読み間違い)して振りかざして日本語で分かりにくい文章を(そもそも本人がよく分かっていない)書いていれば評価された、インターネット普及以前の最後の時代」の産物です。

なお、

上は団塊世代の京大教授(人間・環境学研究科)
下はバブル入社組の京大助教授(人間・環境学研究科)
(いずれも当時)

現代の京都学派ですな。

編集後記は「“今を時めく”京都大学の二人のスター学者の「競作」で巻頭を飾ることができました」と高揚感に溢れています。

これでは「文学部や教養課程はいらん」と言われてしまうのも無理はないな・・・

インターネットやデータベース、アマゾンなどで、リアルタイムに海外の最先端の学術成果が手に入るようになると、こういった日本ローカルの勇ましい議論はさすがに恥ずかしくて言えなくなったはずだが・・・・まだ言っている人がいるなあ。「え、グローバリズム?虚妄でしょ。自由なんてない」と言ってみせる人たち。その人たちがそんなことを言っていられる経済基盤と自由は誰がどこで確保しているんでしょうね。これぞフリーライダー問題。

団塊世代・バブル入社世代は大学でもメディアでも過剰に大きな席を占めてしまっていて、その座を明け渡さない。学問はそういうものだと勘違いした固定読者層がいるから、そういう読者向けの商売になると編集者がハイエナのように群がり原野商法的出版を繰り返す。

そこに媚びて仕事をもらわなければならない人たちが私の同世代や下の世代の中にもいる。それを止められるわけではないが、違う道を示したい。

* * *

なお、実は現在『アステイオン』の編集委員を末席で務めさせていただいておりまして、先日の編集会議では、「検証特集をやろう!」「バックナンバーを書評して表紙写真を再録」とか盛り上がっておりました。サントリー財団って良いところですな。

実際、「ニューアカ」「脱構築」から、言うだけ番長系「反近代」のお歴々をもてはやしてきた黒歴史は、日本思想史の重要な局面として対象化しないといけない。

そんな作業は国際的な業績になりにくいことと(嗚呼グローバル・スタンダードの非情さよ)、存命の方が多い(当たり前だ)のでやりにくいというところが難関だが。

【寄稿】『文藝春秋』12月号にて「イスラーム国」をめぐる日本思想の問題を

今日発売の月刊『文藝春秋』12月号に、「イスラーム国」をめぐる日本のメディアや思想界の問題を批判的に検討する論稿を寄稿しました。

池内恵「若者はなぜイスラム国を目指すのか」『文藝春秋』2014年12月号(11月10日発売)、第92巻第14号、204-215頁

文藝春秋2014年12月号

なお、タイトルは編集部がつけるものなので、今初めてこういうタイトルだと知りました。内容的には、もちろん各国の「若者」の一部がなぜ「イスラーム国」に入るのかについて考察はしていますが、若者叩きではありません。むしろ、自らの「超越願望」を「イスラーム国」に投影して、自らが拠って立つ自由社会の根拠を踏み外して中空の議論をしていることに気づけない「大人」たちへの批判が主です。

*井筒俊彦の固有のイスラーム論を「イスラーム教そのもの」と勘違いして想像上の「イスラーム」を構築してきた日本の知識人の問題

*「イスラーム国」が拠って立つイスラーム法学の規範を受け止めかねている日本の学者の限界はどこから来るのか(ここで「そのまんま」イスラーム法学を掲げる中田考氏の存在は貴重である。ただしその議論の日本社会で持つ不穏な意味合いはきちんと指摘することが必要)

*自由主義の原則を踏み越えて見せる「ラディカル」な社会学者の不毛さ、きわめつけの無知

*合理主義哲学と啓示による宗教的律法との対立という、イスラーム世界とキリスト教世界がともに取り組んできた(正反対の解決を採用した)思想問題を、まともに理解できず、かつ部分的に受け売りして見当はずれの言論を振りかざす日本の思想家・社会学者からひとまず一例(誰なのかは読んでのお楽しみ) といったものを俎上に載せています。すべて実名です。ブログとは異なる水準の文体で書いていますので、ご興味のある方はお買い求めください。 「イスラーム国」「若者」に願望を投影して称賛したり叩いたりする見当はずれの「大人」の批判が大部分ですので、これと同時期に書いたコラムの 池内恵「「イスラーム国」に共感する「大人」たち」『公研』2014年11月号(近日発行)、14-15頁 というタイトルの方が、『文藝春秋』掲載論稿の中身を反映していると言っても良いでしょう。 『文藝春秋』の方は12頁ありますが、これでも半分ぐらいに短縮しました。

*「イスラーム国の地域司令官に日本人がいる?」といった特ダネも、アラビア語紙『ハヤート』の記事の抄訳を用いて紹介している。もっと紙幅を取ってくれたら面白いエピソードも論点もさらに盛り込めたのだが。 おじさん雑誌には、おじさんたちの安定した序列感によるページ数配分相場がある。それが時代と現実に合わなくなっているのではないか。 原稿を出してやり取りをする過程で、これでも当初の頁割り当てよりはかなり拡張してもらいました。しかしそれを異例のことだとは思っていない。まだ足りない、としか言いようがない。 はっきり言えば、このテーマはもうウェブに出してしまった方が明らかに効率がいい。ウェブを読まない、日本語の紙の媒体の上にないものは存在しないとみなす、という人たちはもう置いていってしまうしかない。なぜならばこれは日本の将来に関わる問題だから。 国際社会と関わって生きている人で「日本語の紙の媒体しか読みません」という人はもはや存在しないだろう。 私としては、『文藝春秋』に書くとは、今でも昔の感覚でいる人たちのところに「わざわざ出向いて書いている」という認識。 なぜそこまでするかというと、ウェブを読まない、しかし月刊誌をしっかり読んでいる層に、それでもまだ期待をしているから。少なくとも、決定的に重要な今後10年間に、後進の世代の困難な選択と努力を、邪魔しないようにしてほしいから。 時間と紙幅と媒体・オーディエンスの制約のもとで、その先に挑戦して書いていますので、総合雑誌の文章としては、ものすごく稠密に詰め込んでいます。多くの要素を削除せざるを得なかったので、周到に逃げ道を作るような文言は入っていない。 それにしても、この雑誌の筆頭特集は、年々こういうものばかりになってきている。 「特別企画 弔辞」(今月号)に始まり・・・ 世界の「死に方」と「看取り」(11月号) 「死と看取り」の常識を疑え(8月号) 隠蔽された年金破綻(7月号) 医療の常識を疑え(6月号) 読者投稿 うらやましい死に方2013(2013年12月号) これらがこの雑誌の主たる読者層の関心事である(と編集部が認識している)ことはよく分かる。よく分かるが、こればかりやっていれば雑誌に未来がない、ということは厳然とした事実だよね。 今後の日本がどのようにグローバル化した国際社会に漕ぎ出していくのか、実際に現役世代が何に関心をもって取り組んでいるのかについて、もっとページを割いて、掲載する場所も前に持っていかないと、このままでは歴史の遺物となってしまうだろう。 その中で、芥川賞発表は誌面に、年2回自動的に新しい空気を入れる貴重な制度になっている。 しかし普段取り上げられる外国はもっぱら中韓で、それも日本との間の歴史問題ばかり。朝日叩きもその下位類型。基本的に後ろ向きな話だ。 そのような世界認識に安住した読者に、国際社会に実際に存在する物事を、異物のように感じとってもらえればいいと思って時間の極端な制約の中、今回の寄稿では精一杯盛り込んだ。 15年後も「うちの墓はどうなった」「声に出して読んでもらいたい美しい弔辞」「あの世に行ったら食べたいグルメ100選」とかいった特集をやって雑誌を出していられるとは、若手編集者もまさか考えてはいないだろうから、まず書き手の世代交代を進めてほしいものだ。 しかし『文藝春秋』の団塊世代批判って、書き手の実年齢はともかく、どうやら想定されている読者は「老害」を批判する現役世代ではなく、団塊世代を「未熟者」と見る60年安保世代ならしいことが透けて見えるので、これは本当に大変だよなあ、と同情はする。

【寄稿】山形浩生さんと「イスラーム国」について対談(『公研』10月号)

「イスラーム国」関連の解説仕事の刊行情報をまとめていく作業の続き。

そういえば『公研』に対談を出していた。

池内恵・山形浩生(対談)「「イスラーム国」に集まる人々」『公研』2014年10月号(第52巻第10号・通巻614号)、36-54頁

『公研』2014年10月号表紙

『公研』の発行元は公益産業研究調査会という電力系の団体。『公研』は会員企業とメディアなどの決まった配布先にのみ流通している、一般には手に入りにくい媒体だが、政治経済や国際関係についての情報誌として質は非常に高い。非営利なので、商業出版ではもう不可能になったハイブローな特集や議論の切り口が可能。研究者が噛み砕いて話したことをそのまま載せてくれるし、的確に編集してくれる。

電力会社が団体のスポンサーになっているので電力業界には当然広く流通している。また、出版やメディアの業界にはどこからか入手して丹念に読んでいる人がいる。書き手である研究者の動向を察知するのには有効なメディアなのだと思う。電力業界のバーチャル政策シンクタンクのような位置づけなのではないかと思う。私が普段、専門分野を横断した研究会などでご一緒する機会がある方々が非常によく載っており、彼らが普段クローズドの研究会などで話してくれているような内容が、そのまま活字になっているという意味でも、なんだか不思議な感じがするメディアだ。

普通は、専門家と率直に話し合った時に出てくるような内容がそのままメディア上で活字になっていることはあまりない。普通は日本のメディアのどこかで各種のフィルター・バイアスがかかっていて、それらを解除したり補ったりして読むような工夫がいる。そんな工夫をして読むのは面倒なので、専門的な内容はこういった専門家から直接聞ける機会に聞くか、彼らが共通の情報源にしている英語の媒体に直接あたってしまう、ということになる。『公研』は例外的なメディアだ。もちろん電力に関する問題については、団体に寄付する企業が業界の利害関係者なので、構造的に、中立という訳にはいかないだろうし、読む方もそう思ってくれないだろうが、国際問題に関する限り、非常にストレスなく議論を展開できる媒体である。「買ってくれる読者の興味に応えろ、いい気分にさせろ」という要求がないからである。

「イスラーム国」問題について、話したいことを話したい形で、話したい量だけ論じられたのは、この対談だけではないかと思う。コメントを取りに来る媒体は多かったが、非常に紙幅が限られているだけでなく、そもそもこちらが明確に「この部分だけを強調してはいけませんよ」と念を押した部分だけを強調どころかそれだけ取り上げるといった、完全に駄目なものが多かった。

そんな中、談話の形では『公研』の対談で言いたいことをすべて言ったので、特にこれ以上何かを言う気がしない。

対談をした時期も9月半ばである。10月6日に日本人大学生の参加未遂への捜査が表面化して以降のメディア・ハイプとは無縁に、先に企画され実施されていた対談。しかし10月以降の騒ぎを受けても、付け加えることは特にない。これは編集・企画がしっかりしているからです。

それにしても、「イスラーム国」で「山形浩生」を出してくる『公研』編集部のセンスは非常に良い。

実は個人的な理由で山形さんとは知り合いだったのだが、仕事でご一緒するのは初めて。

私が山形さんの名前を出したのではなく、編集部が私をまず私を一方の対談者として日程を押さえたうえで、対談相手の筆頭候補に挙げてきたのである。

以前から、この問題だったら、全く別の切り口で山形さんに聞くと面白いのじゃないか?と思っていたが、そのような企画は、商業出版の雑誌や新聞の編集者の発想からは到底理解されそうもない(要するに国際問題というと何でもかんでも「佐藤優」の奈落に落ち込んでしまう人たち)ので、黙っていたら、『公研』がこの名前を出してきたので、喜んで対談を引き受けた。

本業の傍らのピケティの大著急速翻訳で忙しいはずなので、引き受けてもらえるか半信半疑で山形さんを希望したのだが、快諾していただけた。「イスラーム国」の問題は、一方で中東地域の内側からの文脈を見て、そこには日本からの思い入れや投影を排除しなければならないが、他方でグローバルな何らかの共通現象に絡んでいるので、そこは中東研究者の狭い知見からの当て推量では力が及ばない。その意味で、山形さんが中東・イスラームに関してはひたすら聞き役に徹した上で、ネットワーク的組織論についてのコメントで返してくれたのはすごくよかった。

『公研』の巻頭随筆「めいんすとりいと」(←すごく昭和な感じの欄の名前・・・)にも3・4号に一回ぐらいコラムを書いています。11月号にはコラムが載る。

【寄稿】『中東協力センターニュース』に寄稿

溜まっている掲載記事の紹介を続けます。

『中東協力センターニュース』10/11月号に、連載「「アラブの春」後の中東政治」の第8回が掲載され、ウェブ上でも公開されました。

池内恵「中東新秩序の萌芽はどこにあるのか—「アラブの春」が一巡した後に(連載「アラブの春」後の中東政治 第8回)」『中東協力センターニュース』2014年10/11月号、46-51頁

今回の注にも記しましたが、「「アラブの春」後の中東政治」という連載タイトルもそろそろ役割を終えた(次の段階に入った)と見られるので、次回以降はまた別の連載タイトルを考えるか、あるいは毎回単発という形にするか、検討中です。

連載のこれまでの回については、

「【連載】今年も続きます『中東協力センターニュース』」(2014/04/03)

「【寄稿】イラク情勢12のポイント『中東協力センターニュース』」(2014/07/03)

に記してあります。

この雑誌は「業界」に出回るので、エネルギーや商社など、中東に直接の接点を持ち、現実的な関係・関心を持っている人に届きやすい。つまり「娯楽として楽しければいい」という発想ではない人たちに届くので書きやすい(同時に、寄付で成り立っている団体と事業の性質上、無料でウェブで公開されるので、ある程度公共性も担保されている)。

このような「業界」によって読者の質量と資金的支えがなされている媒体に書くということは、常にそれだけやっていると大学の研究としての市民社会的公共性に制約が出てくる危険性を伴うといえども、中東の現実(日本での幻想ではなく)にコミットしたステークホルダーに直接届けられるという意味で欠かせない。

アカデミックな学会は規模と多様性がある程度以上の厚みがない場合は議論が行き詰まる傾向がある。しかしだからといってメディア・商業出版業界の提供する、不特定多数の消費者に「どっちが面白いか」という基準で評価される場に、常にいたくはない(たまにはいいが)。学術的な作品の成否を計るのに、情報に制約のある一般読者・消費者の「どっちが面白いと私は感じるか」という声を代用してしまっては、議論が発展しなくなる。

もちろん、興味本位の消費市場の論理が、専門家の業界での狭い視野・仲間内の事情で見えなくなっている・言えなくなっていることを社会的に選択するバイパスになることもあるかもしれないから、私は日本の「需要牽引型」の学術出版を全く否定はしないしその過去の功績にむしろ強くシンパシーを抱いている。だが部外者の興味本位の消費の対象となる商業出版市場に選択機能を委ねるしかなくなる状況は、専門家の業界が本来持っているべき、適切な議論を取捨選択して高度化していく機能が低下しているということを意味する。まずは専門家の業界を正常化・高度化するべきだ。しかし規模の制約から、日本では限界がある分野もあるだろう。ある程度の量を確保しないと競争が働かない(一つのヤマにまとまって付和雷同するのが多くの参加者にとって合理的な選択になってしまう)。

しかし、小規模・閉鎖業界の制約をバイパスする可能性がある消費社会の市場による選択機能も、現状を見る限りは、悪い方に行っているね、というのが私の観察。メディアが多様化し無料化して、産業として苦しくなっていることが根本の原因と思う。こちらも規模の問題が効いてきている。「貧すれば鈍す」というやつね。ネタとしてウケる話を乱造する特定の論者(元外交官、(元)社会学者・宗教学者:これらは何時「元」となったか判然としないが)の議論が、完全に間違っていたり一行も原典に当たっていなかったりするにもかかわらず、顔と名前が知られているといった程度の理由で雪崩のように集中して出版・発信される。それらが議論の参照軸になる。

それでは、国や社会としては自滅ですね。どんなにアメリカの社会や政府や政策に問題があっても、あちらには国の政策を定めていくための専門家の育成と研磨のシステムがある。日本とは気が遠くなるほどの差がある。移民社会・競争社会・流動性の高い社会は、こと卓越した専門性を組織的に、大きな規模で生み出していく面では強い。そこに膨大なお金が流れて巨大な産業になっている。日本では人とお金の流れが乏しく、消費材としての書籍・雑誌の市場によって買い叩かれて消費されているのが現状。

商業出版社の採算が苦しくなっているから、以前には大きな企業の一部の部門が担っていられた、ある種の公共的なレフェリー機能やフォーラム機能が果たせなくなって、ひたすら数をこなすようになっている。ミニコミ的に特定の読者にのみ最初から絞った出版も多い。要するにネトウヨとネトサヨ的な単争点のポジショントーク、結局は「ネタ」的な議論が中心になり、そうなっていることに当事者が気づいていない場合も多い。原野商法で土地を交わされた人から、転売してあげる、といってまたお金を取るような、同じことにひっかかる人を何度もひっかけて商売する出版物が本当に多くなった。

会社を存続させるための粗製乱造の本のライターとして研究者が使い潰されるようになっており、他方でまともな書き手、まともな所属機関はそういったものを評価しないから、消費財としての文章を提供する市場からは書き手が無言でexitする。読者は質の低いもののみ供給されていることに気づけなくなる。そうすると言論の質としても、経営としてもダウンスパイラルに入る。

日本は民主主義の国なので、社会の知的水準が下がれば自らの国の運営・判断の質にやがて影響してくる。

あるいは、そのような趨勢を見て、社会は質の低い議論に影響されているから相手にしなくていい、というエリート主義・テクノクラート支配が進んで、大多数の国民が判断・意思決定から実質的に疎外される可能性もある。無知な状態に満足した国民は「リスク要因」としかとらえられなくなり、「資産」ではなくなる。それでもいいのでしょうか?

「売れている面白い本が良いんだ、お前も面白い本を書けば読んでやるよ」という、ネット上で匿名で発言されがちな議論は、自分で自分の首を絞めている。そういうことを言う人は、消費者として生産者に上から目線で接しているつもりになりながら、実は圧倒的に損しているのです。

そもそも希少性の高い情報・知見を持っていれば、一般消費者にウケるための文章を書く必要はない。知らない人が損する、というのが世界の原則だから。

もっとも、少なくともそういった愚かさが可視化されるようになったことが、ウェブの効果とも言えるかもしれない。

消費者=神様になったつもりでの議論自体が、格差社会で落ちこぼれる人を自己満足させようとする「陰謀」なんだ、という風に見た方がまだましなんじゃないかと思う。そういう陰謀をやっている主体はいないと思うが、客観的に見てそういう風に見えることは確かだ。

これまで「知らない人も損していない」と思っていたのは、第一に幻想であるが、第二に、戦後はほとんどあらゆる分野について、「ほどほど」の程度の情報を米国が日本の官僚を通じて注入してくれて、それを受け取った官僚は「ほどほど」の水準で広い層の国民に便益を均霑するという原則のもとに動いていたからだ。今後は、自ら情報を求める人が得する社会に不可避になっていく(すでになっている)。そこに付け込む怪しい産業はいつも通り出てくるのだろうけれども。

でも私は全く諦めていなくて、下方向への競争から離脱して公共的な出版・情報流通を担う主体と資金をどこで確保するか、日々に秘策を練っておりまする。そこに賛同できる人は来てください。

【寄稿】『ウェッジ』11月号に、グローバル・ジハードの組織理論と、世代的変化について

「イスラーム国」のイラクでの伸長(6月)、米国の軍事介入(8月イラク、9月シリア)、そして日本人参加未遂(10月)で爆発的に、雪崩的に日本のメディアの関心が高まって、次々に設定される〆切に対応せざるを得なくなっていましたが、それらが順次刊行されています。今日は『ウェッジ』11月号への寄稿を紹介します。

池内恵「「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード」『ウェッジ』2014年11月号(10月20日発行)、10-13頁

11月の半ばまでの東海道新幹線グリーン車内で、あるいはJRの駅などでお買い求めください。

ウェッジの有料電子版にも収録されています。

また、この文章は「空爆が効かない「イスラム国」の正体」という特集の一部ですが、この特集の記事と過去の別の特集の記事を集めて、ブックレットのようなサイズで電子書籍にもなっているようです。

「イスラム国」の正体 なぜ、空爆が効かないのか」ウェッジ電子書籍シリーズ「WedgeセレクションNo.37」

電子書籍に収録の他の記事には、無料でネット上で見られるものもありますが、私の記事は無料では公開されていません(なお、電子書籍をお買い求めいただいても特に私に支払いがあるわけではありません。念のため)。

なお、『週刊エコノミスト』の電子書籍版に載っていない件については、コメント欄への返信で説明してあります。

【寄稿】週刊エコノミストの「イスラーム国」特集(読書日記は「ゾンビ襲来」で)

クアラルンプール/セランゴールより帰国。会議終了後に、復路の夜便の出発まで若干時間があったので、伊勢丹やイオンが入っているモールの中を2時間ほどひたすら歩いた。撮った写真などを整理したらここで載せてみたい。

それはともかく、早朝に成田に戻ってからコラム×1、発表原稿(英語)×1、校正×2をメールやFAXで送信したので休む暇がない。

「イスラーム国」がらみで集中した原稿依頼に応えられるものは応えて、先月末までにどうにかほぼ全て終わらせて(まだ2本ぐらいある)マレーシアに出発したのだったが、それらの掲載誌が続々送られてくる。封を開ける暇もない。コメントなどはどこにどう出たのか確認するのもままならない。

とりあえず今週中に紹介しておかないといけないものから紹介。

昨日11月4日発売の『週刊エコノミスト』の中東特集(実質上は「イスラーム国」特集)に解説を寄稿しました。

また、偶然ですが、連載している書評日記の私の番がちょうど回ってきて、しかも今回は「イスラーム国」を国際政治の理論で読み解く、という趣旨で本を選んでいたので、特集とも重なりました。

エコノミスト中東特集11月11日号

池内恵「イスラム成立とオスマン帝国崩壊 影響与え続ける「初期イスラム」 現代を決定づけたオスマン崩壊」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、74-76頁

池内恵「「ゾンビ襲来」で考えるイスラム国への対処法」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、55頁

「イスラム成立とオスマン帝国崩壊」のほうでは、かなり手間をかけてカスタマイズした地図を3枚収録しています。これは他では見られませんのでぜひお買い上げを。

(地図1) 7世紀から8世紀にかけての、ムハンマドの時代から死後の正統カリフ時代、さらにアッバース朝までの征服の順路と版図。これがイスラーム法上の「規範的に正しい」カリフ制の成立過程であり、版図であると理想化されているところが、現在の問題の根源にあります。

(地図2) また、サイクス・ピコ協定とそれを覆して建国したトルコ共和国の領域を重ね合わせて作った地図。ケマル・アタチュルク率いるオスマン・トルコ軍人が制圧してフランスから奪い返していった地域・諸都市も地図上に重ねてみました。

(地図3) さらにもう一枚の地図では、セーブル条約からアンカラ条約を経てローザンヌ条約で定まっていった現在のトルコ・シリア・イラクの国境について、ギリシア・アルメニア・イタリアや英・仏・露が入り乱れたオスマン帝国領土分割・勢力圏の構想や、クルド自治区案・実際のクルド人の居住範囲などを、次々に重ね合わせる、大変な作業を行った。

「サイクス=ピコ協定を否定」するのであれば、地図2と地図3の上で生じたような、領土の奪い合い、実力による国境の再画定の動きが再燃し、諸都市が再び係争の対象となり、その領域に住んでいる住民が大規模に移動を余儀なくされ、民族浄化や虐殺が生じかねない。そのことを地図を用いて示してみました。

この記事で紹介した地図を全部重ねてさらにクルド人の居住地域を加えたような感じですね。頭の中でこれらを重ねられる人は買わなくてもよろしい。

* * *

それにしてもなんでこのような面倒な作業をしたのか。

6月のモースルでの衝撃的な勢力拡大以来、ほとんどすべての新聞(産経読売日本経済新聞には解説を書きました)や、経済誌(週刊エコノミストと同ジャンルの、ダイヤモンドとか東洋経済とか)が、こぞって「イスラーム国」を取り上げており、多くの依頼が来る。10月6日に発覚した北大生参加未遂事件以来、各紙・誌はさらに過熱して雪崩を打って特集を組むようになった。そのためいっそう原稿や取材の依頼が来る(毎日1毎日2毎日3=これはブログに通知する時間もなかった)。

忙しいから断っていると、あらゆる話題についてあらゆる変なことを書くようなタイプの政治評論家がとんでもないことを書いて、それが俗耳には通りやすいので流通してしまったりして否定するのが難しくなるので、社会教育のためになるべく引き受けようとはしている。しかしすべてを引き受けていると、それぞれの新聞・雑誌に異なる切り口や新しい資料を使って書き分けることは難しくなる。

私は純然たる専従の職業「ライター」ではないので、あくまでも「書き手」として意味がある範囲内でしかものを書かない(そのために、必要なときは沈黙して研究に専念できるように、大学・研究所でのキャリア形成をしてきたのです)。あっちに書いていたことと同じことを書いてくれ、と言われても書きにくい。

しかし今回の特集では、私に「イスラーム史」から「イスラーム国」を解説してくれ、との依頼だったので、非常識に〆切が重なっていたのにもかかわらず引き受けてしまった。同じ号に書評連載も予定されていたのでいっそう無謀だったのだが。それは時間繰りに苦労しました。

単に漫然と概説書的なイスラーム史の解説をするのではなく、メリハリをつけて、本当に今現在の問題とかかわっている歴史上の時代だけを取り上げる、という条件で引き受けた。

イスラーム国を過去10年のグローバル・ジハードの理論と組織論の展開の上に位置づける、というのが私の基本的な議論のラインで、それらは昨年にまとめて出した諸論文を踏まえている。これらの論文で理論的に、潜在的なものとして描いていた事象が、予想より早く現実化したな、というのが率直な感想。

しかしもちろんそれ以外の切り口もある。例えばもっと長期的なイスラーム法の展開、近代史の中でのイスラーム法学者の政治的役割の変化、イスラーム法学解釈の担い手の多元化・拡散、ほとんど誰でも検索一発で権威的な学説を参照できるようになったインターネットの影響、等々、「イスラーム国」の伸長を基礎づける条件はさまざまに論じることができる。

そういった幅広い視点からの議論の基礎作業として、現在の中東情勢の混乱の遠因となっている歴史的事象や、「イスラーム国」の伸長を支える理念・規範の淵源は歴史のどの時点に見出せるのか、まとめておくのは無駄ではないと思ったため、引き受けました。専門家なら分かっている(はずなんだ)が一般にきちんと示されていることが少ない知見というのは多くある。今のようにメディアが総力を挙げて取り組んでいる時に、きちんと整理しておくことは有益だろう。

漫然と教養豆知識的に「イスラーム史を知ろう」といって本を読んでも、現在の事象が分かるようにはなりません。「あの時こうだったから今もこうだ」「あの時と今と似てるね」といった歴史に根拠づけて今の事象を説明するよくある論法、あえて「池上彰的」とまとめておきましょうか、これは日本で一般的に非常に人気のある議論です。しかし多くの場合、単なる我田引水・牽強付会に過ぎません。娯楽の一つとしては良いでしょうが、それ以上のものではありません。かえって現実の理解の邪魔になることもあります。

「イスラーム国」への対処の難しさは、それがイスラーム法の規制力を使って一部のムスリムを魅惑し、その他のムスリムを威圧し、異教徒を恐怖に陥れていることです。

イスラーム法の根拠は紛れもなく預言者ムハンマドが実際に政治家・軍事司令官として活躍した初期イスラムの時代や、その時代の事跡を規範理論として体系化した法学形成期の時代にある。それらの時代についての知識は漠然とした教養ではなく、今現在のイスラーム世界に通用している規範の根拠を知ることになる。

その意味でまず「初期イスラーム」の歴史について知ることは有益。

それに次いで、オスマン帝国の崩壊期の経緯を知っておくことにより、今現在の中東諸国の成り立ちとそこから生じる問題、しかし安易に言われがちな代替策の実現困難さも分かるようになります。

初期イスラームとオスマン帝国崩壊の間の長大なイスラーム史は、現代中東政治の理解という意味では、極端に言えば、知らなくてもいいです。極端に言えば、ですよ。

* * *

さて、今回で連載6回目になる読書日記(前回までのあらすじはココ)の方は、ダニエル・ドレズナーの『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口功一・山田高敬訳、白水社、2012年)を取り上げた。

かなり前から今回はこのテーマとこの本にしようと決めていたのだが、それが中東・イスラーム国特集に偶然重なった。

「イスラーム国」は、概念的には、「国際政治秩序への異質で話が通じない主体による脅威」ととらえることができる。ドレズナーはまさにそのような脅威を「ゾンビ」のメタファーを用いて対象化し、そのような脅威に対する各国の想定される動きを国際政治学の諸理論のそれぞれの視点から描いて見せた。「イスラーム国」について各国がどう動き、全体として国際政治がどうなるかは、「ゾンビ」への対処についてのドレズナーの冗談交じりの大真面目な仮説を念頭に置くとかなり整理される。リアリストとリベラリスト、それにネオコンの視点を紹介したが、国内政治要因とか官僚機構の競合と不全とか、この本を読むと、「ゾンビ」を当て馬にすることで理論的な考え方が、やや戯画化されながら、非常によく頭に入る。ドレズナーは活発にブログなども書いていて時々物議も醸す有名な人だが(本来の専門は経済制裁)、本当に頭のいい人だと思う。

「イスラーム国」と中東政治の構造変動についての最近書いた論稿は、すでに出ている『ウェッジ』11月号、来週明けにも発売の『文藝春秋』11月号、『中東協力センターニュース』や『外交』など次々に刊行されていくので、出たらなるべく遅れないように順次紹介していきたい。

今日のアンワル

さて、昨日から参加しているマレーシアでの会議なんだが、今日がメインの講演などが行われる日。

しかしホスト役のアンワル・イブラヒムをめぐる政治的裁判のウォッチングが主たる関心事になりかけている。

アンワルは朝に最高裁に出頭しなければならなくなったので会議のスケジュールも大いに乱れた。

会議が行われているのはクアラルンプールの西に隣接したセランゴール県のペタリン・ジャヤ(Petaling Jaya)という新興住宅地のようなところ。イオンとか伊勢丹も入っている大規模モール(1 Utama City Centre)の中のホテルが会場になっている。

裁判の方はクアラルンプール南方の行政都市プトラジャヤ(Putrajaya)で行われているので、そっちからアンワルが帰ってくるのを待つために会議のスケジュールは大幅に乱れた。だらーんと待ってました。

今日結審するかもと言われていたので報道も詳しくなった。しかし判事に何らかの不都合があったとかで明日までやることになったようだ。

法廷に入る。

Anwar’s Appeal: Proceedings to be continued tomorrow, The New Straits Times, 3 November 2014.

アンワル出廷11月3日

出てきた。
Anwar’s Appeal: Judges praised by Anwar, The New Straits Times, 3 November 2014.

アンワル法廷から出てくる

後で聞いたところによると、在職中はアンワルを弾圧する側に回っていた判事が退職したので被告側の弁護士に雇っているらしいです。

Anwar’s Appeal: PKR members deliver speeches, The New Straits Times, 3 November 2014.

Anwar’s Appeal: “Arrest Anwar”, chants Saiful’s supporters, The New Straits Times, 3 November 2014.

しかし記事を読んでみると、法廷で争われている内容は非常にくだらない。

Anwar’s Appeal: Male Y DNA obtained lawfully, The New Straits Times, 3 November 2014.

まあこういうことを延々とやって政敵を弱らせるのが目的なんだろうね。「くだらない」と書けないのは報道の自由がないのか、新聞が党派的なのか。だぶんどっちもなのだろうと思うが。

アンワルが帰ってくるのに合わせて午後のパネルを遅らせて・・・

着席。開始。

アンワル着席

このパネルのキーノートはスリン・元タイ外相・ASEAN事務総長。タイ南部マレー半島のパッタニー県出身のムスリム。演説うまい。ハーバード出。

スリン講演

そしてアンワル登壇。下手をすると最後の公式演説になってしまうのか。

アンワル演説

アンワルの政治漫談炸裂。

アンワル退席

終わると支持者たちに囲まれる。

ヌールルイッザ

娘さんのヌールルイッザさんも国会議員。

動員をかけられていたようで、アンワルの演説の時だけいっぱい地元の大学生(大半が女子)が詰めかけ、終わったら帰っちゃった。

というわけで予定よりもはるかに遅い時間にはじまった、私など外国人の研究者が出るパネル(司会は白石隆先生でした!!)ではぐっと聴衆が減っていた。おかげで気楽にしゃべっていました。

軍の政治からの分離など、インドネシアの民主化の経緯はちゃんと勉強しなければと思いつつできていない。エジプトはインドネシアで10年かかったことを1年でやろうとして失敗した感じ。勉強させていただきました。

7時前にやっと終わってぐったり。休む間もなく公式ディナーへ。

アンワル最後の晩餐

自由席だったので私もずうずうしくメインテーブルに席をゲットして至近距離で密着。

手前はトルコのダウトウル首相の首席補佐官。

写っていないが私の左側はスリンさんでした。こっちもタイでクーデタがあって、既存の政党政治家が一斉に排除されたのでロンドンにいることが多いようです。

「刑務所ではこれは食えないからな」みたいなジョークを言いながら残さず食べていたアンワル。ちなみにメインは巨大なラムチョップでした。

上に挙げたAnwar’s Appeal: Male Y DNA obtained lawfullyという記事によると、主任検察官が「明日結審する可能性はあるが、どうかな(Shafee said that it was possible for the case to be wrapped up tomorrow, but he doubted so.)」と言っているとのことなので、まだまだ裁判も伸びるかもしれません。そもそもずっとこうやっていやがらせし続けて消耗させるのが主たる目的の裁判なのだろう。

その割には政権は選挙でどんどん弱くなっているので、いやがらせの効果は疑問だが。

アンワルがマハティールと骨肉の争いを始めたのが15年前。50代前半の生きのいい政治家だったのが今や67歳になってしまった。

非民主的体制を維持することで費やされる機会費用の大きさを感じさせる一日でした。

アンワルどうなる

「イスラーム国」日本人渡航計画騒ぎで10月のスケジュールは壊滅。

ひと月で原稿を4万字ぐらい書きました。時間的にも体力的にも墜落寸前まで行きましたが、ぎりぎりで大方終え、連休は会議のため日本脱出。少し休ませていただきます。

マレーシア・クアラルンプール行き。

ASEANシフトの一環です。恐れと憎しみが向かい合う欧米・中東を逃れて希望のアジアへ(ドミニク・モイジ『「感情」の地政学――恐怖・屈辱・希望はいかにして世界を創り変えるか』の受け売り。クーリエでの国際政治を読み解く10冊でも実は入れておきました。全部リストアップしてしまうと版元に悪いのでブログには書かなかったけれど)。

成田2サテライトJAL

中東に行くにはスターアライアンス系か湾岸系に乗るので、ほとんど行ったことのないことのないターミナル2のサテライトへ。JALは久しぶり。マレーシアやオーストラリアにはANA自社運航便がないんですね。

成田KLフライト1

上空は晴れ渡っていい気持ち。

成田KLフライト2

雲にもいろんな形がある。

窓閉めて、書評の〆切りが来ているイスラーム金融関連の本を読みながら(←マレーシアに行く途中で読むと気分が乗る)・・・

気づくと窓の下には・・・

マレーシアKL椰子1

もしかしてニッパ椰子?

金子光晴だ!

赤錆〔あかさび〕の水のおもてに
ニッパ椰子が茂る。
満々と漲〔みなぎ〕る水は、
天とおなじくらゐ
高い。
むしむしした白雲の映る
ゆるい水襞〔みなひだ〕から出て、
ニッパはかるく
爪弾〔つまはじ〕きしあふ。
こころのまつすぐな
ニッパよ。
漂泊の友よ。
なみだにぬれた
新鮮な睫毛〔まつげ〕よ。
〔以下略〕(金子光晴「ニッパ椰子の唄」より)

でもよく見ると妙に列になって生え揃っているし、沼沢地よりは地面も堅そうなので、ニッパ椰子ではなくて普通の椰子を植林したのかもしれん。まあいいか。
マレーシアKL椰子3

再び「ニッパ椰子の唄」より

「かへらないことが
最善だよ。」
それは放浪の哲学。
ニッパは
女たちよりやさしい。
たばこをふかしてねそべつてる
どんな女たちよりも。
ニッパはみな疲れたやうな姿態で、
だが、精悍なほど
いきいきとして。
聡明で
すこしの淫らさもなくて、
すさまじいほど清らかな
青い襟足をそろへて。
金子光晴『女たちへのエレジー』 (講談社文芸文庫)より

・・・・注釈をつけると金子光晴は、今なら若干メンヘラ気味と言われたかもしれない詩人の森三千代とくっついたり離れたりしながら将来の見えない放浪の旅を続け、こういった詩を書きました。

せっかくだからここで、金子光晴の破れかぶれ放浪自伝を、『マレー蘭印紀行』に加え、「三部作」の『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』を挙げておこう。



さて、空港に到着。お隣のゲートは、今年さんざんだったマレーシア航空機。

KL空港マレーシア航空機

タクシーでホテルに付いたらすぐにレセプション。

今回の主役はこの人(分かる人には分かるすごく偉い先生も写っています)。

アンワル1

アンワル・イブラヒム元マレーシア副首相。

ムスリム学生運動を指導して、マハティール首相に取り立てられ政権入り。後継者に指名されていたが、1998年のアジア通貨危機をきっかけにした内政危機でマハティールと決裂。

後継者に任命してくれたマハティールは一転、徹底的にアンワルを攻撃するようになり、それ以来、同性愛とか職権乱用とか、まあ普通に考えて濡れ衣だろうな、と見られる嫌疑をかけられては投獄され、風向きが変わると出てきて活動を再開する、という形でやってきて、今も裁判を続けている。

しかし野党を率いて、昨年5月の総選挙では総得票数では与党を超えるまでに伸長して、ナジブ政権を追い詰めている。

アンワル2

今回の会議は、絶妙に、マレーシア内政の政争にぶつかってしまった。蒸し返された「同性愛疑惑」裁判でアンワルに禁固刑の判決が下り、それに対する最高裁への上告審が先週10月28日から始まり、明日本人が最高裁に出廷して最後の弁論をし、それでも上告が棄却されて判決が確定すると、明後日にも収監されてしまうかもしれないという危機的状況にあります。

「「同性愛行為」事件でアンワル氏の審理開始 マレーシア最高裁、収監も」『産経新聞』2014年10月28日

この裁判の動向は各国で注目されていますが、とりあえずガーディアンから。

Anwar Ibrahim begins appeal against sodomy conviction, The Guardian, 28 October 2014.

アンワル出廷

政府寄りなのでまったく公平とは言えませんが(そもそものマハティールとの決裂以来ひたすら「疑惑」をかけられているという経緯を書いていない)、マレーシアの英字紙The New Straits Timesで、与野党の最近の法廷内・法定外での闘争の細かいところを押さえると、

Chronology of Datuk Seri Anwar Ibrahim’s sodomy trial, The New Straits Times, 27 October 2014.

Tension mounts as supporters of Anwar, Saiful camp, The New Straits Times, 29 October 2014.

Anwar’s appeal enters third day, defence continues with submission, The New Straits Times, 30 October 2014.

Anwar sodomy appeal: Prosecution to begin submission tomorrow, The New Straits Times, 30 October 2014.

アジアで政治家をやるのは大変です。それでも中東よりずっと平穏な気もしますが・・・

主役が会議の最終日には収監されてしまいかねないという劇的な展開になっております。

詩とか読んでノスタルジーに耽って一休み、という訳にはいかないようです。

最終日は本来は、イスラーム世界の民主主義の現状について、会議の結果を宣言文にして出す計画なのですが、別種のマレーシア内政に関わる政治的声明を出さねばならなくなってしまうのか。

欧米系のNGOが会議を仕切っているのであれば、非常にストレートに非難声明を出すのでしょうが、日本のやり方は内政干渉や上からの説教という形は取らないのが普通だ。しかし民主主義に関する会議を開いていて、最中に主催者が投獄されても何も言わないという訳にはいかないでしょう。緊張しますね。

スリン・元タイ外相・元ASEAN事務総長、ハビビ・元インドネシア大統領など、ムスリムでアジアの民主化を担ってきた人たちが会議の参加者なので、そういった人たちの発言が注目されます。

イスラーム世界の民主主義の経験を相互に共有し、達成点と問題点を洗い出して将来の方向性を見出していく、という今回の会議のテーマに、ある意味ぴったりの展開ですが、前途の困難さを再確認させてくれます。

イスラーム報道の適正化に向けて

週末に校了間際の〆切りが3本もあるという異常事態に追いつめられています。日本のイスラーム認識・報道にも関係する論説がそれらの一本なので、日本の新聞・雑誌も見ないといけない。

「イスラーム国」の実態をみて、またそれを擁護する人々の言説の実態も見て、少しずつ議論の焦点が絞られてきたように思います。とにかく文章を書く人は、中二病的超越願望を捨てて、今そこにある問題にどう取り組むか考えた方がいい。

良かったのがこの社説。

「社説:カナダ銃撃 「イスラム国」の幻想砕け」『毎日新聞』2014年10月25日東京朝刊

自由主義社会の国民メディアの社説が言うべき点を押さえている。

重要なフレーズをいくつか抜き出してみる。冒頭に*をつけたところが毎日の社説からの引用。段落を変えて私の補足。大学教員とか文章を扱って論理的に考えることが仕事の人でも本当に思い込みで正反対に受け止めるので、重要部分に下線も引いておく。

*「だが、そもそもテロに大義はない。「イスラム国」のせいで「イスラム教=恐ろしい宗教」といったイメージが独り歩きしているのも問題だ。同組織の異教徒虐殺や女性の性奴隷化などは決して許されないし、その激越な主張を支持する人は、16億人とされる世界のイスラム教徒の中で、まさに大海の一滴に過ぎまい。」

「テロに大義はないということでは合意できますよね?面白半分の人も本気の人も、大義はあるということであれば対話できませんよ」ということ。新聞社説でそこまではっきり言えないということなのか、そこまで覚悟が決まっていないのか分からないが、本当はそこまで言わないと、在特会とかも批判できなくなる。

そして「イスラム教=恐ろしい宗教」という偏見があってはならないのであれば、最低限「テロに大義はない」という点は合意してくれますよね?テロを正当化する人は16億人のイスラーム教徒のごく一部ということで良いですよね?という点は、やはりいうべきこと。少数のノイジー・マイノリティが「テロに大義はある」と逆説あるいは暴論で言ってお互いに盛り上がっているとしても、新聞社説が相手にして取り入れることではありません。

これはいわば自由社会における「踏み絵」です。「理解・寛容」は他者への暴力や支配を主張し行動する者には適用されないというのが自由社会の大原則です。「つまらない」かもしれませんが、それを主張し続けないと自由社会は維持できないのです。

*「にもかかわらず、日本を含む世界各国で「イスラム国」への合流を望む者が後を絶たないのは、この組織が世界の不合理に挑戦しているような幻想があるからだ。」

正しく「幻想」です。

やっと新聞でこう書くところが現れた。事実を突き付けられんと書けんのか、という気はするが、新聞に先を読む能力など期待してはいかん、ということなのだろうね。せめてこれまで書いてきたことを(暗黙の裡に)否定してでも態度を変えたことを評価しないといけない。

過激派が何か世界の不合理に挑戦してくれているような幻想に寄り掛かかる新聞社説や、過激派の暴力による威嚇をある意味強制力として味方につけて語る新聞社説は多かった。過激派があたかも「弱者」を代表しているかのようなすり替え情報を各所で挟むことでそれが歴然とした暴力による威嚇であることを漂白して、政権や社会全般を批判する素材に使う新聞社説は実に数多く繰り返されてきた。データベースなどで体系的にまとめると良いが、時間がないので誰かがやってください。

日本赤軍も連合赤軍も、今見ると「何でこれが」というぐらい好意的に新聞社説で取り上げられてきた。「彼らの手段はいかんが、言っていることは分かる。社会が悪い」といういつもの論法だった。

実際に「彼ら」言っていることは「俺たちは明日のジョーである」といったいかにも元気の溢れる若い人が少ない知識・情報から絞り出したんだろーなートホホな妄言だったりしたのに、新聞社説はそれはスルーして勝手な思い入れを盛ってきたのである。

だから今「イスラーム国」に共感・参加などと言っている若者の発言、というものについて私が「自由主義社会における愚行権の行使」であると書いているのは、「新聞記者もさんざん愚行権を行使していたな~」というのと同じ程度にしか批判していない(しかもきちんとその権利を自由主義社会に所与のものとして認めている。あの、権利を認めるとは、その際に刑法を逸脱しても罪に問われないと認めるということではありませんよ)。そういった私の論評に対して「若者に厳しすぎる」とか「彼らの内在的動機を理解せずに表面的過ぎる」といった批判は、読みが浅すぎるのと、歴史を知らな過ぎる。若者だけじゃなくて、昔若者だった今の年寄りも、昔も今もヒドかったんです。そもそも上から目線で私と若者の双方を理解したり諭したりする視点をそういう方々はどこから手に入れたのか。勝手に人間に序列をつけて上下関係で「上の立場」からモノを言えば下は従う、という疑似封建社会に未だに生きている人が多すぎる。そういうモノの言い方では自由世界で人を説得できないんです。そもそも、匿名で個人的に言ってきたり、陰で仲間でごそごそ言っているのは言論ではない(と言うと「言論がなんだ!俺様が貴様に意見してやってるのだ!」と完全に自由社会を否定する大人って多いですな。そういう意味で、日本の軍国主義化はあり得えないことではないと思っています)。

私が最初に書いた本(『現代アラブの社会思想』)の中で、日本赤軍の人たちが実際に言ったことと、日本の「意識高い」系の人たちが勝手に読み取ったことのギャップをからかったら、編集者から「読者に受け入れられないからやめた方がいい」と言われてかなり和らげた。あれでもかなり和らげてあるのです。本を買うのはそんな読者ばかりだった(と編集者が想定している)時代は、今と比べて人々のリテラシーが高かった時代だとは思わない。単に流行が違うだけ、というのと昔はメディアが本や新聞しかなかったから本や新聞に何でもかんでも詰め込んで大量に刷れば売れた。今は代替肢があるからそう売れないと言うだけだ。

*「たとえば20世紀初頭、列強が中東を恣意(しい)的に線引きしたこと(サイクス=ピコ協定)への反発は昔からある。だが、同協定に異を唱え、すでに独立した国々の中に力ずくで別の国をつくろうとする「イスラム国」もまた、恣意的な線引きをしようとしているのだ。」

ここも重要。「カリフ制」という未知なる観念に勝手な思い入れを投影して、国民国家を超えたユートピアを胸に抱いて共感してしまう人が、なまじ勉強した人に多いが、「イスラーム国」の本人たちが「国家」と言ってしまっているところで疑問を持たないといけない。イスラーム法学的には「国家」が出てくるのはおかしい。ひたすらカリフ制とだけ言っていなければいけないはずだ。

しかし彼ら自身の宣伝文書でひたすら「国家」と言って続けているのである。このあたりが、結局はイラクとシリアでの武力闘争と領域支配を担っているのは旧バアス党幹部なんだろうな、と強く推測される理由だ。

「イスラーム国」はどう見ても領域国民国家を作ろうとしている。近代の国民国家の原理であれ実態であれ、超越などしていない。単に「国民」の定義をスンナ派イスラーム教徒(のうち自らに従う人々のみ)だとしているだけです。既存の秩序を破壊することはできても、新しい理念に基づく秩序を生み出せるとは思えない。

「民族主義に基づいて国民国家を作ったから弊害として民族対立とか国家を得られない民族とかが出てきた、民族浄化や住民交換などの悲劇が起こった」という批判をするのはいいのだが、だから歴史の勉強でうろ覚えに知っている「特定の宗教を上位の規範とした帝国」に戻れ、というのは単なる退化でしょう。国民国家で辛うじて提供していた権利すら各個人から剥奪され、劣位に置かれることを認めるか去るか、そうでなければ殺されても仕方がない、という境遇に落ちる人々が膨大に出てくる。それで平和が達成されるかというと、客観的には達成されないが、支配宗教の側の主観では、異を唱える人がいなくなれば平和になる、というのだから、やはりその過程で大戦争と民族浄化あるいは大規模な住民移動が不可欠となる。しかもそのようなジェノサイドは、平和を達成する過程でのやむを得ない事象として正当化されてしまう。

「国家」を構成する「国民」が民族ではなく宗教に基づいているというのは特に珍しいことではない。旧ユーゴスラビア連邦の諸民族構成のうち一つが「ムスリム人」だった。ボスニアの「ムスリム人」とセルビア人とは人種的形質や言語は元来はほとんど変わらない(ただしムスリムと正教徒は基本的には通婚しない、というか通婚したらイスラーム法上自動的にイスラーム教徒になるので、徐々に形質的差異が出てきていてもおかしくはないが)。宗教的差異が民族区分とされたのである。社会主義というイデオロギー的紐帯と、それを背後で強制するソ連の存在がなくなったら、そのような民族単位での独立闘争が始まった。

そのムスリム人がボスニアを独立させようとして、戦争になった、というのと、現在の「イスラーム国」の領域支配は同種のもの。といってもバルカン半島ではイスラーム法学はほとんど通用していないから宗教や教義を持ち出して対立や殺人を正当化はせずに、単に民族が違うと言って殺し合った。イスラーム法学が通用していたらそんなことはなかったかというと、そうではなくて、イスラーム法学的にボスニア領内のセルビア人(キリスト教徒)は劣位の存在に置かれるが我慢せよ、それを認めないなら討伐だ、と言う人たちが現れて、いっそう紛糾したことだろう。

なおボスニア紛争やコソボ紛争では、欧米はムスリム人・ムスリム系住民の側にかなり肩入れして、現地では欧米への感謝の念は強いのだが、イスラーム世界全体ではこの点はまったく考慮されず、常に「欧米がイスラーム世界を攻撃している」ということになっている。

*「こうした現状に「否」を突きつける主体は、あくまで中東とイスラム圏の国々である。ネットを駆使して自らの主張を発信する「イスラム国」に対し、中東の国々やアラブ連盟(加盟22カ国・機構)、イスラム協力機構(加盟57カ国・機構)などの組織はもっと反論していい。」

これも言わなければならない点だ。というのは、こういった事象が持ち上がるたびに、イスラーム諸国の知識人も、アラブ連盟など国際機構も、「イスラームに対する偏見を持つ欧米」を非難するのみで、実際に紛争を起こす人たちの根底にある思想が、イスラーム教に基づいてどう間違っているのかを言わないからだ。結局、「欧米が悪い」という印象だけが残り、新たな過激派の理屈にも取り入れられてしまう。

「それでもカリフ制の理念の方は正しい!「イスラーム国」をやっている連中が間違って解釈しているだけだ」と論じたい人は、「イスラーム国による殺害や奴隷化は支持しない」とはっきり言うべきだしその根拠を示すべきだ。つまり「正しいカリフ制の理念ではこのような根拠から異教徒の殺害や奴隷化は禁じられている」とイスラーム法学の理念を明示して主張しなければならない。それも欧米や日本に対するだけでなく、「イスラーム国」側に対して言わないといけない。

もちろん、「イスラーム法学上は多神教徒の征服や奴隷化は正しい行為なのです。そうならないように改宗するなり立ち退けばいいのです」と思っている人はそう主張すればいい(ただし本当に立ち退かせたり、立ち退かない人を殺害する行為を賞揚した場合は刑法上の何らかの制約が課される可能性はあります)。

イスラーム法学的な説得をしたくない、する必要がないという考えの人は、「イスラーム法学の適用やカリフ制の復活は現代において必要がない、違法である」といった議論を正当化して示さないといけない。説得的な根拠を出して、欧米人相手にではなく、「イスラーム国」に共感したり、「イスラーム法学」の有力な規範を提示しているからといって黙認したりしているイスラーム教徒に対してきちんと示すべきだ。もっとも現在のイスラーム世界で、イスラーム法学は効力がないと議論するのはよほどの勇気がいる。だからやらないのだろう。

なお、現状では数少ないイスラーム法学者からの「イスラーム国」批判は、例えば異教徒の迫害と奴隷化について、「ヤズィーディー教徒も啓典の民だ」と反論するというものなので、外から見ると、反論になっていない。「イスラーム国」がDabiqなどでヤズィーディー教徒を「啓典の民ではない」と主張していることに対してのみは一応の反論になっているが、ではヤズィーディー教徒も啓典の民だとするイスラーム法上の根拠は明確ではない。単に各国の政府に近い法学者が政治的必要から個人的見解で断定しただけ、というのではイスラーム法学的にはほとんど説得力がない。

「イスラーム国」と同じイスラーム法学上の「啓典の民」という観念を持ち出してしまっている以上、「イスラーム国」のより明確な明文規定や有力なイスラーム法学書に則った議論の方が有利である状況は代えがたい。むしろ議論を強めているのではないかとすら思う(結果的に、多くのイスラーム教徒が「イスラーム国」批判のイスラーム法学者たちの論拠の希薄さに愕然として「現代においてイスラーム法学に依拠したら駄目だ」と思うようになることを期待しているとすれば、穏健派イスラーム法学者たちのものすごい捨て身の作戦だと思うが、たぶんそんなことではないと思います)。

「啓典の民」という概念は異教徒を平等に扱うものではない。少なくとも自由主義社会における宗教間関係にはなじまない。

「啓典の民」という観念は、あくまでも優位な側からの劣位な側への恩恵としての生存の許可というロジックなので、支配しているイスラーム教徒の側が「啓典の民が歯向かった」と判断すれば即座に「改宗するか、去るか、討伐か」という三択を突き付けることが正当化されてしまう。「啓典の民だから許せ」というのは、「イスラーム国」批判になっていないのである。「イスラーム国」としては「啓典の民として認めてやるから寛容に接してやると告げたのに、異教徒が悪態をついたから追放・殺害・奴隷化した」と言えばいいだけになってしまう。水掛け論にすらなっていない。「啓典の民だから許せ」という議論は「イスラーム国」の立場を補強しているとすら言える。

近代思想史において「穏健派」のイスラーム法学解釈(あるいはイスラーム法擁護論)が、「過激派」のジハード論を結果的に支えている構造については、池内恵「近代ジハード論の系譜学」(日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁)で書いておきました。

なお、ユースフ・カラダーウィーをはじめとした主要な「穏健派」「中道派」とされてきたイスラーム法学者も、この「啓典の民の生存を認めるからイスラームは寛容だ」という説を定説としてきたので、短期間に異教徒との平等説でイスラーム法学を組み替え直すことは難しいだろうと思う。

これについては、池内恵「「イスラーム的共存」の可能性と限界──Y・カラダーウィーの「イスラーム的寛容」論」(『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、2004年、初出は『現代宗教2002』2002年4月)に詳述してあります。

なお、これと対になる論文が、池内恵「文明間対話の理論的基礎──Ch・テイラーの多文化主義」で、同じく『アラブ政治の今を読む』に収録してあります。(この本は絶版とは聞いていないが、中央公論新社も一生懸命売る気がないんだろうね)

基本的には、この時考えていた理論的な対立点が、現在「イスラーム国」をめぐる問題として表出しているものと考えていますので、世代は新しくなっても思想的な問題は変わらないのだな、と実感しています。また、それをイスラーム法学上批判しきれないイスラーム世界の問題として、あるいは勘違いして自由主義社会の原則を放棄して共感する日本のメディア・知識人の論調としても現れてきているものと思います。

それにしても、「イスラーム教の理念は自由主義の原則とは合わない部分がある」ということは、イスラーム教徒の側はごく当然に主張する、当たり前のことです。極端に欧化して生活の基盤を欧米や日本に移した人を除けば、大多数のイスラーム教徒はそのように明言します。ただ、留保をつける場合はあります。その場合は、「イスラーム教こそがより優越した自由主義を実現します。イスラーム教では正しい宗教であるイスラーム教を信じる自由があります」と主張します。これが教科書的な回答です。カラダーウィーのような有力なイスラーム法学者が定式化してくれている欧米との対話・教義論争の作法としてすでに定着しています。

ですので、この点を指摘することは、「イスラーム教を揶揄する」といったこととは全く違うのです。単に、日本の常識とは違う別の基準があると指摘しているだけです。そのことを日本の、しばしば「自由」を主張する、往々にして「反体制」に立っていると自覚しているらしき人々が理解しておらず、このような指摘を行なうことを非難する側に回るのは、自分の認識の前提を疑う視点を持たず、他者・他文化に対する想像力を欠いているからではないかと観察しています。「隣の芝生は青く見える」というの異文化理解でも寛容でもない。

逆に、イスラーム教は「自由主義が絶対ではない」と主張しているのだと受け止めて、安易に「そうだそうだ」と同意し、「だから欧米みたいな自由などいらない」という自己の信念を補強したものとのみ受け止める権威主義的な人も日本社会には多くいます。そういう人は「イスラーム?遅れた国の遅れた宗教だろ?」といった偏見を露骨に持っている場合が多くあります。このような人々は、自分が享受していると思っている自由がいかなる根拠に基づいているのか忘れがちであると観察しています。

要するに社会における議論は、このような不完全な認識を持った、それぞれの思い込みを抱え込んでガンコに変えようとしない人々の間で行われるので、理想社会はそう簡単に成立しないのです。

思想研究は、そのような不完全な社会で、現に行われている議論を整理して、適切な方向に向けていくささやかな作業と考えています。「あの人はスゴイことを言っている!」と一部の人にカルト的に尊敬されたいのであれば思想研究はやらない方がいいと思います。

自由主義者の「イスラーム国」論・再び~異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか

今日の『朝日新聞』に、「イスラーム国」についての識者の発言が載っていました。

特に、「イスラーム国」に関して、当事者でもある、中田考さんの発言が注目されます。

まず、私は、世界にはこのような多様な考え方があるということを知ることは大切だと思います。そもそも新聞とは、その厳しい制約条件から、中立的でも、客観的でも、卓越的でもあり得ないものである以上、様々な意見が、さほど正確なフィルターなしに載ってしまっても、やむを得ないものだと思います。

重要なのは、「朝日に載ったから正しい」などと思わないことです(その逆に「朝日に載ったから間違い」と思う必要もありません)。朝日や岩波に載った、ということのみをとって、その意見が真であるとか権威的であるとか、特に知識業界に身を置く人たちが思う状況がかつてありました。朝日に載った意見に反対すると学界で干されて大学で就職できなくなってマスコミ全般から干される、という恐怖を抱かざるを得ないような自縄自縛の状況がありました。しかし、それは過去のものです(と思いますが、そうではない業界がまだあるということも伝え聞いてはおりますがここでは等閑視しておきます)。朝日新聞を批判したり、あからさまに意見が違ったりすると朝日新聞の紙面に載らなくなることは確かですが、長い話を短くすると、一私企業のやることなので、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

ですので、いろんな意見がこの世にはあるんだなーと思いつつ、どこがおかしいか、自分の頭で考えられるようになればいいのではないかと思います。もちろん「おかしい」というのは特定の基準を定めたうえで言えることです。この世の中にある基準は一つではありません。

そして一番重要なのは、複数の基準が世界には存在することを認めたうえで、自分が属す社会・政治共同体ではどの基準が適用されるべきなのか、よく考えることです。それは自分が生きていく社会を選び、その社会を自分も一員としてどう形作っていくかを主体的に考えて、発言し、行動していくことの、第一歩です。自分が属すと決めた(あるいは生まれ落ちて育ってそこ以外に行く場所がない)社会の基準を、さらに磨いていく営為に参加することで、われわれは本当の意味で社会の一員となるのです。

その過程で、異なる基準を持った人々の存在を、どのような論理で、どこまで認めるか(あるいはどこからは認められないか)も、考えていくことが必要となります。

政治思想とはそういうものです。思想研究というと、無意味に些末な点をこねくり回して人を煙に巻くことだと思われているかもしれませんが、本当はそうではないのです。人々が自分が属する社会の基準を認識し、守り、改めていくことを助けるのが政治思想研究です。自分の社会の基準とは異なる他の基準を持つ人々の存在を認識し、その論理を見極め、どの地点で折り合いがつけられるのか(つけられないのか)、指針を示すのも、政治思想研究の役割です。

本当は政治思想とその研究とは、それぐらいわかりやすいものなのです。

私が「イスラーム政治思想」を研究しているというのも、そのような意味での政治思想研究をしています。

突飛な説を立てて超越的に自らの属する社会を否定したり他者に上から説教する根拠を得ようとして研究をしているわけではないのです。

なお、メディアというものも、社会の規範を読者が社会の一員として築き上げていくための場を提供することが、その本来の使命と思いますので、朝日新聞もやがてそのような役割を認識し、適切に担っていく作法を身につけていくことを、期待してやみません。

さて、中田考さんは、今回のインタビューでも、嘘は言っていません。ただし日本社会の大多数の人が想定しない(したがらない)前提に立って言葉を用いているため、正反対に意味を受け取る一般読者、あるいは知識人がいるかもしれません。また、逆に、日本社会の多くが決定的に忌避・拒絶するであろう点については、寸前のところまで口にしながらも、触れていません。ご本人があえて触れなかったのか、記者が自粛あるいは善意で紙面に載せなかったのかは、分かりません。

例えば、「イスラーム国」に参加する人たちの背景として、中田さんは、「7世紀に完成したイスラム教の聖典コーランの内容を厳格に解釈し、実行するためには武力闘争を辞さないと考える。出身国では迫害され、居場所がありませんでした。」と語っています。

気になるのは、「イスラーム国」の参加者が、「迫害され、居場所が」ないがゆえに参加したとされることです。ここではそもそもいかなる事例を挙げての議論か分かりませんので、実証性を議論することはできず、中田さんの「意見」「主張」にとどまるというところがありますが、これが中田さんの意見だとした場合、中田さんが認定している「迫害」とは何のことでしょうか?

もし、「迫害」の原因が、「イスラーム国」に参加する人たちの信仰なり行動なりが、ジハードによって他者を武力の下で支配下に置くことを目指す活動、あるいはその宣伝だったのであるとすれば、西欧社会に居住していれば、西欧の市民社会の規範に反し、西欧諸国の法に反するので、社会の中で白眼視されたとしても、あるいは警察・司法当局のなんらかの捜査や訴追の対象となったとしても、それを一義的に「迫害」すなわち不当な行為ととらえることは、西欧諸国の規範・法制度上は適切ではないでしょう。むしろ、西欧諸国では当然に課される制約を課されたということではないでしょうか。もちろんその制約を課すための手段は、適正な法的基準の枠内にとどまることが求められるのは言うまでもありません。また、クルド民族の義勇兵として戦闘に参加するために渡航することを公言する人々については制約が課されていないではないか、といった法の下の平等という観点からの批判も可能かと思われますが、それだけではジハードによる武力の行使の称揚あるいは準備を正当とし、それに対する制約を「迫害」とする根拠とはならないように思います。

もちろん中田考さんが、イスラーム法学の観点から、いかなる理由であれ、世俗の国民国家の法などの、イスラーム教に基づかない社会規範によって、ジハードに制約を課すことは(イスラーム法上)違法であると考えておられることは、ほぼ確かなものと思われます。

しかし西欧諸国にもイスラーム法が適用されるべきだと言う中田さんの主張(あるいは暗黙あるいは明示的な前提)は、西欧社会においては、妥当ではないでしょう。

あるいは、西欧の法制度上もグレーゾーンあるいは違法とされるような制約がジハードの使嗾、宣伝、準備に対して課されたのかもしれず、それを中田さんが念頭に置いているのかもしれません。すなわち、イスラーム法学上のみならず、西欧の法体系上も違法の可能性がある制限がジハードに対してあるいは信仰行為一般に関して課されたと非難されているのかもしれません。そのあたりはこの記事からは分かりません。

なお、これは記者のまとめ方、デスクの論点の立て方に難があり、実際には中田さんはアラブ諸国あるいはイスラーム諸国で政権に対してジハードを行なったうえで弾圧され、シリアやイラクに流れ着いた勢力のことを言っているのかもしれません。その場合は、イスラーム教が支配的価値観であり、憲法にもイスラーム法が世俗法を超越すると規定されているにもかかわらずイスラーム法を施行していない政権に対するジハードは正しく、それを制約する政権の施策は違法であると中田さんがとらえていることはほぼ確実です。ただ、その場合「迫害」という言葉を中田さんが本当に使ったのかというと、若干疑問です。むしろ「弾圧」でしょう。「迫害」という場合は異教徒からの宗教的な迫害、つまり欧米でイスラーム教徒の儀礼や生活規範を制限された、といった事例を通常は意味します。意図して異なるイメージを抱かせる言葉を使ったのか、記者の固定観念から、すべて西欧諸国の事例を意味していると思い込んで「迫害」と記したのかは不明です。

シリア・イラクでの「イスラーム国」をはじめとした武装組織へ流入する義勇兵は、大多数が近隣アラブ諸国からきているという事実は、日本の報道では忘れられがちです。大多数は、「アサド政権が国民を弾圧しているからジハードで打倒する」というシンプルな論理で参加しているものと見られます。そこには「反欧米」という契機は希薄あるいは二の次なのです。ですが、日本では、これが反欧米の運動として理解され、であるがゆえに反欧米論者によって熱く期待されもするという状況があり、メディアはそれに大きな責任を負っていると考えています。もちろんメディアに気に入られるような説を、巧みに空気を読んで提供する研究者にも問題はありますが、記者がきちんと選別できれば歪んだ議論は紙面に載ることはないのです。

なお、私の推測では、中田さんであれば、ジハード戦士が西欧から来たかアラブ諸国から来たかはあいまいに、一緒にしてしゃべると思います。同じ一つのイスラーム共同体(ウンマ)なのだからどこから来ようと同じだ、ということではないかと思いますが、信仰の立場からではなく、政治学的に分析するのであればこれらは分ける必要がありますし、メディアもきちんと分節化する必要があります。

また、中田さんは、「イスラム教徒ならば国籍や民族で差別されることはない「イスラムの下の平等」が、コーランの教えの核心です。」と仰っています。

ここで中田考さんは正確に、「イスラム教徒ならば」と述べておられます。ここでは、異教徒が差別される(イスラーム法学者の立場から異教徒に説明・説得する場合は、「制限された、イスラーム教徒とは異なる権利を与えられる」)のは当然であるという前提があります。異教徒が制限された権利に満足できなければ、立ち退くか、あるいはイスラーム教に改宗する自由があるというのが、主要なイスラーム法学者の立場です。中田さんはこれについてはかねがね、隠すことなく、公言しておられます。ここで異教徒は差別される、されて当然であると記事中で明言していないのは、記者の前で発言をしなかったからなのか、あるいは記者がそれを記さなかったからなのか、読者には知る由もありません。

これはヤジーディー教徒への迫害があったのかなかったのか、征服下の異教徒の殺害や奴隷化があったのかなかったのか、そもそも「イスラーム国」はそのような異教徒への迫害を正当化しているのかいないのか、「イスラーム国」による異教徒の迫害の正当化根拠がどの程度宗教的な正当性を持っているのかという、国際報道上の重要な論点について判断するために不可欠な情報であっただけに、記事で触れられていないのは残念でした。

なお、日本でこの記事を読んで中田さんあるいは「イスラーム国」またはその背後にあるとされる理念に共感していらっしゃる方々は、「国籍や民族で差別されることはない「イスラムの下の平等」」という部分のみ捉えて、行き詰った近代国民国家に対するイスラームの比較優位性と受け止めていらっしゃる可能性があります。記事のタイトルでも「平等の理想」とのみ記されていることもあって、「イスラム教徒であれば」という留保を中田先生がつけておられることを見落としていらっしゃる方もいるかもしれません。そのような方がもしいらっしゃるとすれば、そのような理解は、少なくとも中田さんが念頭に置いている議論とは、少し違う、ということを、知っておいた方がいいと思います。

もちろん、誤解や想像や思い入れを含めて、あらゆる信条・信念を持つ自由が日本では保障されています。

イスラーム世界では、イスラーム法が適用される限り、異教徒がイスラーム教徒と平等で差別されない権利は、認められません。これは穏健とされる法学者の解釈でもそうです。そのため、サウジアラビアだけではなく、エジプトでも、その他大部分のイスラーム諸国でも、異教徒が教会・礼拝施設を作ることは明確に禁止されているか、極めて困難です。もちろん、イスラーム教徒に対して異なる宗教への改宗を働きかけることは明確に違法であり、イスラーム教徒の目に触れるところで明確な信仰行為を行うことも認められません。あからさまに異教、特に多神教の宗教的象徴を身にまとうことも、身体・生命の危機を覚悟しなければならない行為です。ですので、「カイロ西本願寺派寺院」といったものは存在しないのです。これをもって宗教への迫害が行われているとは、イスラーム世界の各国の社会での圧倒的に支配的な規範では、とらえられていません。イスラーム教の真理が広まることを阻害しないための当然の制限とされています。

もちろん、世界のイスラーム教徒が差別主義者であるとここで言っているわけではありません。多くのイスラーム教徒は、穏健な解釈に従って、ユダヤ教徒やキリスト教徒といった「啓典の民」であれば「庇護民」として、(本来であれば)異教徒に課される人頭税を払えば、宗教を維持したまま生存を認められるがゆえに、イスラーム教は寛容であると信じており、実際に友好的に接してくれます。

多神教徒については、「啓典の民」に入らないことから、その法的立場は脆弱ですが、実態としては近代世界においては仏教徒なども、啓典の民同様の分類をされ、少なくとも戦争状態にない平時においては、生存を許されています。つまり、原則としては不平等だが、実態としては不平等はそれほど徹底されてはいないのです。

(1)西欧に端を発する近代の「原則として平等だが、社会の実態として平等ではない場合がある」社会と、(2)イスラーム法に依拠する「原則として不平等だが、社会の実態としてはそれほど不平等ではない場合がある」社会では、どちらが優れているのでしょうか。

その判断は信仰によって異なります。日本では、西欧社会とほぼ同様に、(1)が優れているという人が多いのではないかと思います。

しかし世界は広く、(1)の状態が望ましいと信じない人が多数である世界もあります。イスラーム教を信じる人々にとっては、アッラーの示した絶対普遍の真理を護持することが第一の優先事項ですので、(2)の、原則としての不平等は当然とされます。

ただし人間の情としては、友人となった人が異教徒だからと言って差別するということは普通はないでしょう。また、今現在異教徒であるということは、将来において改宗するという可能性があるため、むしろ、一定期間は、非常に歓待的になるという場合も多く目にしてきました。

なお、歓待されて過ごしてもなお改宗をしないことを不審がられ、嘆かれることはあります。長期間にわたってイスラーム世界に滞在し、イスラーム教について学びながら、なおも改宗しない場合は、改宗する意図が最初からない、すなわち悪意があるという嫌疑がかけられる場合もあり、あるいは自明の価値規範を認識できない、何らかの欠陥のある人物と疑われる場合もあります。

世界は広いのです。そのような世界があると知ったとしても、拒否しないでください。非難しないでください。それは状況によっては「迫害」あるいは「誹謗中傷」と受け止められる可能性がありますので厳に戒めてください。

私自身は、少なくとも日本国内では、「原則としては平等」が社会の規範であるべきであり、社会の実態もそれに極力近づけていくべきであると考えています。

「原則としては平等」という規範があるにもかかわらず、社会の実態は平等でないではないか、という批判があります。しかしそのような批判が可能になるのは、「原則としては平等」という規範があるがゆえです。その規範がなくなれば、特定の宗教が優越することが当然であり、その状態を不平等ととらえて批判すること自体が宗教への挑戦として「処罰」されることになりかねず、そのような処罰が「迫害」であり得るとする根拠そのものが消滅します。

実態として平等ではないではないか、という批判から、あるいはもっと漠然とした社会に対する怒りから、「原則として不平等」という規範の方が優れていると主張することは、破れかぶれの暴論や、面白半分の極論でないのであれば、矛盾です。そもそも不平等を批判する根拠を放棄したことになるからです。

「イスラーム教が正しいからそれに及ばない宗教は制限されてしかるべきだ」と主張するのであれば、信仰の表明ですから、尊重されるべきであると思います。ただし異教徒への権利の制限を実際に施行することを主張するさらには行動に移さない限りにおいては。

自由社会を守るとは、自由な社会を可能にしている規範がどのようなものかを熟知し、それを維持し刷新し、それによって、極力多くの、多様な価値観を持った人たちを迎え入れることを可能にしていくことです。日本は法制度上は自由ですが、市民社会の実態としてはその自由が徹底されているとは言えません。それは国・政府による直接の自由の侵害に由来するというよりは、相互監視・同質化を迫る社会の側に多くを起因しています。

また、自由な社会において、異なる規範を持つ他者をどのような形で受け入れるか、基準が社会通念として定まっていません。他者を受け入れるためには他者の護持する規範も知らなければなりません。そのためには、他者の規範の、自分にとって心地いい部分だけを知るのではなく、自分にとってきわめて不都合なこともある、想像もしない別の論理によって、他者の社会が成り立っているということに気づかされるのも必要です。

日本では、他者の規範とは、日本社会への不満、あるいは日本社会の権力構造の背景にある米国への不満を表出するための憑代として、断片的に導入され、かつ短期間に次の流行の憑代が現れるために、すぐに忘れ去られる傾向があります。

しかしイスラーム教のような力強い世界宗教は、一時的に日本で都合のいい部分だけが取り入れられ、後に忘れ去られたとしても、それとは無関係に続いて行きます。グローバル化によって、情報化の進展によって、日本をイスラーム世界から閉ざしていることは不可能です。

「イスラーム国」の台頭によって、本当の意味での、生々しい他者の存在を、その理念を、日本は目にし始めています。

トルコと米国の当面の妥協──イラクのクルド武装組織をシリアに投入

シリアでの「イスラーム国」への対処について、決定的な鍵となるトルコの姿勢が具体化しつつある。

米国のトルコへの強い参戦圧力と、独自の解決策や懸念を擁してそれに抗してきたトルコとの外交的なせめぎ合いに変化がみられた。

注目されるのはこの二つの動き。

10月19日:米軍がシリア北部コバー二ー(アラブ名アイン・アラブ)のクルド武装勢力YPGに殺傷力を持つ武器を投下。

10月20日:トルコがイラクのクルド武装勢力(ペシュメルガ)に、コバー二ーの戦闘に参加するためにトルコ領内を通過することを許可。

米軍は、19日の武器供与に関して、イラクのクルド武装勢力に米国が供与したものをシリアに運んでいるだけ、というややこしい法的な説明をしている。また、現地の「クルド部隊(Kurdish forces)」に供与するために投下すると記すだけで、具体的に宛先を明記していない。

なぜイラクのクルド勢力に与えた武器を迂回して(と言っても米軍そのものが運搬して届けるのだが)シリアに回すなどというややこしい方法を取るかというと、オバマ政権が固執してきた「シリア内戦のいかなる勢力にも致死性の武器を供与しない」という方針を変えていないと言い張るためである。

シリアの反体制を支援するのだけれども、致死性(lethal)の武器は与えない、というオバマ政権の政策は、現場では珍妙な帰結をもたらしていた。要するに、暗視ゴーグルとか通信施設なら供与していい、というのである。そんなものいくらもらっても役立たんよ、と言われることが分かりきっているものを供与しようと持ちかけ続けたことで、米国がシリアでまるで相手にされなくなったことはいうまでもない。

また、コバー二ーで戦っているのは人民警護隊(YPG)という組織だが、この組織はトルコのクルド民族主義の反体制武装組織PKKとの関係が深いシリアの民主統一党(PYD)が主体になって組織した自警団と見られている。欧米はPKKと共にPYDもテロ組織と認定してきた。YPGに武器を供与したと公式には言いにくい。

20日のトルコの動きにしても、シリアではなく「イラクの」クルド武装勢力をわざわざトルコ領内を通ってコバー二ーに行かせる、という話である。これは、シリアのクルド武装組織とトルコは関係が悪いが、イラクのクルド武装組織(ペシュメルガ)とは同盟と言っていいほど関係が良いからである。

シリア「イスラーム国」についてのトルコの立場については、このブログで何度も取り上げてきたので、丹念に読んできた人にとっては、これらの動きが何を意味するか、分かるだろう(「トルコ」で検索してみてください)。

フェイスブックでは通知してあったのだけれども、この動きが表面化する直前までの状況について、『フォーサイト』でまとめておいた。有料ということもありこのブログでは通知が後回しになっていた。

池内恵「「イスラーム国」問題へのトルコの立場:「安全地帯」設定なくして介入なし」《中東―危機の震源を読む(89)》『フォーサイト』2014年10月17日

ここで書いておいたのは次のようなこと。

米国はトルコを、シリアの「イスラーム国」掃討作戦のための現地同盟国として空爆参加そして地上部隊を出させたい。

それに対してトルコは、「イスラーム国」掃討のために、トルコとシリアで反トルコ政府の活動をやって来たクルド武装勢力PKKとその関連組織であるシリアのYPGを支援することは許せないとする。また、アサド政権の弾圧こそが問題の根源である以上、アサド退陣をもたらさない解決策はあり得ないとして、シリア北部に飛行禁止区域を設定しシリアの反政府勢力の安全地帯とする構想を提示している。

安全地帯構想自体は、1991年の湾岸戦争の際にイラク北部に設定したものがあり、それを基礎に現在のイラクのクルド地域の自治が成立した。イラクのクルド地域政府は中央政府との関係を薄れさせ、トルコの経済圏として繁栄してきた。

同じようなことをシリア北部でも行うならトルコは対「イスラーム国」の参戦に同意するだろう、というのがこの分析の段階での将来見通しだった。

このように異なる思惑を持つ米・トルコの同盟国同士が綱引きをしてきた。『フォーサイト』の記事では、米は「トルコが参戦に同意した」という情報を盛んに流して既成事実にして参戦に追い込もうとし、逆にトルコは欧米諸国がトルコの提示した安全地帯構想を受け入れた、という情報を流すという様子も描いておいた。

そうこうしている間に現地の状況変化が進んでいった。コバー二ー陥落寸前かというところまで一時は行って、欧米メディアの危機意識が高まったが、逆にクルド武装勢力への西欧諸国からの武器供与が進んで、かなり反撃しているという報道も最近は出るようになった。

対「イスラーム国」の抵抗戦で戦果を挙げ、クルド民族主義がシリア側でもトルコ側でも高揚し、PYGは欧米諸国から、それまでの「テロリスト」という扱いではなく、「フリーダム・ファイター」としてもてはやされるようになっている。トルコのコントロールが効かない状況になりかけている。

ここで米国が、イラクへ一度供与した武器をクルド勢力がシリアの民族同胞に移送したいというから移送した、という無理な理屈でシリアのクルド勢力に武器を供与し、決定的な圧力をかけた。

トルコはこれに正面からは同意していないけれども、イラクのクルド武装組織をコバー二ーでの戦闘に参加させる、つまりシリア北部の紛争で、トルコに敵対的なPKK=PYD系の武装組織に主導を握らせず、息のかかったイラクのクルド武装組織を導入することで、トルコのコントロール下での解決を図っていると言える

これは米とトルコの、当面のぎりぎりの妥協だろう。米国はトルコが対「イスラーム国」連合で協力姿勢に転じたと宣言し、トルコは自らの提示する安全地帯構想への第一歩と主張できる。湾岸戦争以後にやったイラク・クルドへの解決策をシリア・クルドに対しても適用する、という形である。

10月20日の米公共放送PBSの「ニューズアワー」の報道と論評は問題の根幹をうまく描いている。NHKBSでも21日午後に英語字幕・翻訳付きで放送していたが、ホームページでは英語のトランスクリプト完備で全編を視聴できる。

英語教材として、PBSは最適ではないか。きちんと発音しているし論調も客観的で冷静だ。

“U.S. airdrops military aid for Kurds fighting Islamic State in Kobani – Part 1,”PBS, October 20, 2014 at 6:35 PM EDT

“Why U.S. and allies can’t afford to let Kobani fall to Islamic State – Part 2,”
PBS, October 20, 2014 at 6:30 PM EDT

Part 1で、米軍のシリアのクルド勢力(YPGあるいはPYD)への武器投下について、エルドアン大統領が公式には決して認めていない様子が、キャスターのレポートと記者会見の抜粋で報じられている。

MARGARET WARNER: Previously, Ankara has insisted it wouldn’t allow men or materiel cross its border to aid Kurds in Kobani. That’s mainly because the Syrian Kurdish fighter group in Kobani, called the PYD, is allied with a Kurdish group in Turkey, the PKK, that waged a bloody 30- year insurgency.
Just yesterday, after President Obama notified him of the coming U.S. airdrops by phone, Turkish president Recep Tayyip Erdogan made his displeasure clear.

まずキャスターがトルコはコバー二ーのPYDへ武器供与することに強く反対してきたと指摘する。米軍による武器供与に関して、先立つ18日に行われていたエルドアンの発言が注目された。

PRIME MINISTER RECEP TAYYIP ERDOGAN, Turkey (through interpreter): The PYD is, for us, equal to the PKK. It is also a terror organization. It would be wrong for the United States, with whom we are friends and allies in NATO, to talk openly and to expect us to say yes to supplying arms to a terror organization. We can’t say yes to that.

「PYDは、われわれにとってはPKKと同じです。これはテロ組織でもある。NATOの友邦である米国が、おおっぴらに、テロ組織に武器を供与することに賛成せよと言うのはよくないでしょう。賛成するとは言えませんよ」

これに対してケリー国務長官のしどろもどろの弁明は次の通り。

JOHN KERRY, Secretary of State: While they are a offshoot group of the folks that the — our friends the Turks oppose, they are valiantly fighting ISIL. And we cannot take our eye off the prize here. It would be irresponsible of us, as well as morally very difficult, to turn your back on a community fighting ISIL, as hard as it is, at this particular moment.

「彼らは、われらの友人トルコが反対する人たちの分派集団だが、彼らは「イスラーム国」と勇敢に戦ってもいる。この好機を見過ごすわけにはいかない。「イスラーム国」と戦っている人たちに背を向けるのは、無責任だし、倫理的に難しい。しかもこんな大事な時なんだから」

BBCの「なぜトルコはイラクのクルドに「イスラーム国」と戦わせたいのか」も合わせて読んでみたい。

“Islamic State: Why Turkey prefers Iraq’s Kurds in fight against IS,” BBC, 20 October 2014 Last updated at 16:52

解決策というよりは当座しのぎの対応である。イラクとシリアのクルド武装組織が協調できるのか、それがトルコでのクルド民族主義に波及しないのか、協調ができた場合は今度はクルド領域もイラクとシリアでつながってしまってイラク国家の崩壊がいっそう進むのか、等々、新たな問題を引き起こしそうな対処策だが、このようなその場その場の対処策を繰り返しながら、現地の諸勢力の間の勢力均衡が達成されるまで紛争は続きそうだ。

第1次世界大戦後のトルコ・シリア・イラクの国境画定も同じような状態だったのだと思う。あの時は唯一当事者能力があったトルコ軍が、ふがいないオスマン帝国スルターンから離反して共和国の独立戦争を戦って、ある程度失った土地を奪い返して今の国境線になったのでした

今回は、「イスラーム国」が実効支配を固めて独自の国家をイラク・シリア国境地帯に確保するか、クルド民族主義が一体化して国を作るのか、あるいはトルコやイランなどの地域大国が勢力圏を拡大するのか、将来は未確定である。

【地図と解説】「イスラーム国」への参加者の出身国~ご一緒した常岡さんのこと

今日は長い論文をぎりぎりで出したり授業を本格立ち上げしたり編集者が来たり研究会があったりで丸一日全く息抜きなし。

ということで、以前のテレビ出演の発言記録をリンクして、ちょっと地図で補足するぐらいにしておこう。

2014年9月20日(土)の「NHK週刊ニュース深読み」の文字おこしがアップされていました。

NHK深読み

NHK側が持ってきた「イスラーム国」の解説は、正直私にもよく理解できない代物なので、コメントしません。いろんな情報を無理やりつなぎ合わせたんだな、と思います。日本人の基本素養にはイスラーム教も中東世界事情も入っておらず学校でも習わず、一般的に伝わる情報は日本人から見れば否定的に見られる事象のオンパレード(だって現地には一般庶民の次元でも平和主義者とかいないですし、日本のメディアが期待するようなイイ話ってないですよ)であるのに対して、モノの本を読むと断片的に妙に理想化した話が入ってくるので、どう頑張って理解しようとしても分裂してしまう。

私のコメントについては、なるべく分かりやすくしていますし、そもそも流れがはっきりしない中で突然振られた話題に応答し、かつ分かりやすく話さないといけないので、用語の厳密性にはやや欠けている部分があるでしょう。ただ、基本的には間違ったことは言っていません。

ご一緒した常岡さん(写真で右から二番目のヒト)とは、この番組でご一緒した以外に付き合いはありませんが、チェチェン紛争の取材に基づくルポや発言については注目してきました。チェチェン紛争から流れ出てシリアに行きついたゲリラを伝手に取材をしているらしきことも漠然と知っており、お話を聞きたいと思っていました。番組の中でしかお話しできませんでしたが、貴重な機会になりました。

その後、「イスラーム国」への参加希望学生の出現で、同行取材をしようとしていたとして公安当局の捜査を受けたことで有名になってしまいました。以前にも人質になったことで有名になったり、いろいろと不運な方ですね。

常岡さんの話には、実際に行ってきた人ならではの貴重な知見が数多く含まれています。ただ、常岡さんは基本はビデオジャーナリストでどうやら文章の人ではないようで(すみません気に障ったら)、言葉では断片的・断定的に議論をする様子があります。見てきたわけではない全体像は議論しないのと、見てきたことを相対的にあるいは批判的に位置づけるという議論の仕方をしません(時々します)。

私が推測するに、常岡さんの最大の強みは、チェチェンのゲリラでシリアに来ている人たちの「以前」と「今」の両方を見ている数少ない外部の人間なことです。これをやって来た人はなかなかいません。

常岡さんは1990年代末から2000年代半ばのチェチェン紛争に何らかの理由で行きついて長く取材してきたことで、幾人かの有力なジハード戦士へ食い込み、彼らがロシア領のチェチェンやダゲスタンを逃れて中東に流浪し、シリアで内戦に参加しているところを今取材している、という形です。

(なおこの英語記事は、ロシアに敵対するチェチェン・ゲリラをはじめとしたグローバル・ジハード運動の当事者を悪魔化した報道を国策でやっているロシアのメディアRussia Today=RTの報道ですが、今回はむしろ「イスラーム国」に好意的なトーンです。まあロシアの国策メディアは常に欧米のメディアが言っていることの逆を言うだけなので、現在は欧米メディアが反「イスラーム国」一色だからそれに水をかけている、という面はありますが、通説への一定の相対化の視点として、信じ込んではいけませんが、読んでおく価値はあります。ロシアのメディアは嘘をついたり歪曲情報を流す際にも、頭がいいな、と思うことがよくあります。担当者は嘘と知っていてやっている、騙されて信じ込む人をからかっている、そんな絶妙な諧謔味を堪能させてくれます。それは欧米で騙されてしまう人の心理や背景を熟知しているからでしょう)

さて、常岡さんは、「使用前」「使用後」ではないですが、「そもそもどういった人がシリアの内戦に義勇兵として参加していて、どういうルーツでどういう思想や経緯がある人なのか?」という疑問に、部分的にですが、かなり重要な知見をもたらしてくれます。ただし、チェチェンのゲリラはシリアの内戦の当事者として代表的とは言えないので(重要な役割を持っている可能性があるとは思いますが)、そのあたりは相対化する必要があります。また、知見がオリジナルなので第三者の検証は難しいでしょう。

といっても、常岡さんは現在までにシリアについては、テレビのコメントやツイッター等で断片的に語ったのみなので、見てこられたことの全体像がよく分からないのです・・・たぶん常岡さんの頭の中にだけ入っていることがたくさんある。

思想的背景や言語がよく分からない公安当局の聴取ではなく、きちんとした調査研究機関が対価を払って徹底的に聞き取りをして、情報源の秘匿という意味で公にすると不都合な部分は鍵をかけて非公開にするなりして、将来のために記録に残しておいてほしいと思います。いやもちろん常岡さんが本を書いてくれればいいんですが、今回の騒ぎもあり、今後の取材もあり、なかなかまとめられないでしょう。

常岡さんはおそらくチェチェン系の繋がりを基礎に、「友達の友達」を紹介してもらって取材する、と言うことをやっているはずなので、当然偏りが出てきます。常岡さんはアラビア語ができないので、どうしても大多数を占めるアラブ系の義勇兵とのつながりの深まりには制約が出るでしょうし、実際にシリアでイスラーム国が何をやっているか、言葉を読めないと目にしていても見逃してしまうこともあるでしょう。また、ムスリムと言ってもイスラーム法学は、友人から断片的に聞くのみでほとんどご存じないのではないかと推測します。そのあたりは別の情報源から補足しながら話を聞く必要があります。

当たり前ですが、全部のことを知っている人などいないので、このようにアクセスが極端に難しいある一部分をすごく深く知っている人は大変貴重です。要は、一人の人の言うことを絶対視しさえしなければ良いのです。私の話も絶対視してはいけません。

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上記が一番重要なことですが、若干の言い訳。

私の一番最後の発言で、こんなことを言っています。

「ただ、”イスラム国”に入って来る戦闘員の大多数は、ヨルダンとかモロッコとかチュニジアとかサウジアラビアから来ているんですね。
欧米の人たちは100人といった数ですから、実はそんな大したことないんですけど、欧米の人たちは彼らが戻って来てテロをやるんじゃないかと、実際そういった事例もすでに出ているので、気にしているんですね。
われわれはその報道を見てしまうんですけど、実際は近隣諸国から何千人も来ているんですね。 」

この発言の趣旨は、「イスラーム国」の戦闘員の大多数は周辺のアラブ諸国からきているんで、基本は中東地域の問題。欧米からの戦闘員は割合は実は低い、ということ。

このことを議論する際に、「欧米の人たちは100人といった数」と言ってしまっているようですが、実際には欧米諸国からの義勇兵は「100人【単位】」と言いたかったのです。しかし「単位」はこの番組では難しいかな、と一瞬日和見した結果、正確ではない表現になりました。

西欧諸国からは100人単位、アラブ諸国からは1000人単位で来ているので、桁が違う、というのが重要な点です。にもかかわらず西欧出身者が過剰に注目されるのは、帰国してEU域内も米国へも自由に動き回り、「ホームグロウン・テロリスト」となることを、欧米社会が脅威と感じているからです。欧米メディアが欧米社会のことにより大きな関心を抱くのは当然ですが、それが世界全体にとっても同様に問題であるかと言うとまた別の話です。

ただし「イスラーム国」もこれを利用して力を入れた宣伝映像には欧米出身者を多く登場させ、実際に宣伝効果を得ているので、欧米で注目されるということ自体に意味があります。それがアラブ諸国の現実にもフィードバックされますので、結果として重要になっています。

妥当な地図はこれ。報道によっては西欧からの参加者だけ地図に書き込んだりして、全体像の把握を妨げています。

イラク・シリアへの外国人戦闘員の出身国_BBC_14 Oct 2014
“Battle for Iraq and Syria in maps,” BBC, 20 October 2014 Last updated at 16:56

実数に即して円の面積が割り振られているので、全体としてどのあたりからきているからが一目瞭然です。その下にグラフも載っていますね。

イラク・シリアへの外国人戦闘員上位諸国グラフ_BBC_14 Oct 2014

フランスは「1000人」とかそれ以上のかなり適当な数を最初出してきていましたが、現在の集計では600~700人程度に落ち着いているようです。

「ヨーロッパ」の中で一番多いのはロシアですので(これを「ヨーロッパ」に入れること自体問題ですが)、チェチェン系が多数でしょう。これはシリアで紛争が始まる前からアフガニスタンなど各地を転戦しています。

なお、最後のところで常岡さんが「もう手遅れです」と叫んだまま、あえなく時間切れで番組が終了。

何がなぜどのように手遅れなのか言わないので(時間があったって言わないんじゃないのかな・・・)、聞いた人が勝手に各自の思い込みを読み込んでしまって話が紛糾する。いつも常岡さん言葉が足りない。。。天然炎上系。

でもそういう無防備なところが、ものすごく猜疑心が強くないと生き残っていないはずのチェチェン・ゲリラの古強者とかには安心されてしまう理由なんだと思う。

常岡さんの突撃取材から得られた知見には、例えば親日的なジハード戦士が、「申し訳ないが日本人もイスラーム教徒になってもらうよ」(ニッコリ)と言ったとか、一見ほのぼのとしており、他方で多少深く考えるときわめて重大な問題なんだが、イスラーム教に勝手な思い入れを投影している「思想家」社会学者などの頭にはどうしても入らないであろう、あからさまなイスラーム世界の真実が明らかになる一瞬が方々にあるのだけれども、なかなか理解されないんだろうなあ。

常岡さんは「うまく言葉で伝えることができていない」と思うことはあるが、歪めて伝えていると思うことはあまりない。その点は研究者の方が、これまでの自説の誤りを認めたくないがゆえに系統的に情報の選択や解釈を歪めてしまうことがあるので、常岡さんの議論(といってもツイッターでの突如の叫びだったりするが)を不快に感じたことはない。常岡さんが見てきたことは、日本語を用いて日本社会で認識させるには想像を絶する世界であり、かつかなりみっともなかったり、見たところ馬鹿っぽかったりするような卑近な日常を多く含むだろう。いつかそれらをまとまった文章にしてほしいと思う。

単に「その言い方じゃ理解されないだろうなあ」と思うことがあるが、しかしどう言葉を尽くしたって理解しない人は理解しない。このテーマに関する限り、理解しない人が(理解したつもりになっている人も含めて)日本社会で圧倒的多数だろう。

でも諦めてはいけない(これは自分に言い聞かせています)。

日本にはこういう金にならなくても変なことを突き詰めている人があちこちにいるので、そのような才能を生かす社会であってほしい。

今後のことを考えると、英語で「ツネオカタイホシタ!ゴウモンシタガクチヲワラナカッタ!」と世界に報じたうえで放免して(というか最初から逮捕しちゃいけません)、機材も帰して中東で取材してもらってほしい(そうしないと常岡さんが取材源を漏らしたとか、そもそも公安のスパイだったとかいった誤った情報が流れかねない)。もちろん危ない時はさっさと逃げ帰ってきてくださいこれまでと同じように。死んだら元も子もありませんし、常岡さんはそのことはよく分かっているから今まで生きているんだと思います。

【寄稿】本日の読売新聞朝刊文化欄で「イスラーム国」をめぐる日本のゲンロン状況を風刺

今日の読売新聞朝刊にコラムを寄稿しました。「イスラーム国」問題。文化欄ですから、日本の文化状況への批評ですよ。中東分析ではありません。念のため。

池内恵「「イスラム国」論 希薄な現実感」『読売新聞』2014年10月20日朝刊

たぶんウェブ上には今後一生出てきませんので、キヨスク・コンビニ等でお買い上げください。

新聞の文化欄のコラムは、ここ数年、打診を受けても「乗り気がしないなあ」と書いていなかったのですが、今回は、紙媒体とウェブ媒体を繋ぐ必要があるテーマでもあり、書いておきました。

ウェブに接していない読者には「イスラーム国」がサブカル的なネタになっているという現象そのものの存在を認識できないと思ったのか、編集部が長いリードをつけています。

逆に、ウェブに接し過ぎた人は自分たちがサブカルの枠にはまって現実を見ていないということに気づいていないわけで、それが今回のテーマなのですが、それが紙媒体にのみ載っていたらウェブ住人は未来永劫読まないわけで、仕方がないのでここで告知しておきます。

「イスラーム国」に行ってしまう人、良く知らずに「イスラームで超越」と脳内で期待する人、その中には一応名の通った「知識人(笑)」も交じっているという現象は、それに全く気づかず気づこうともしないタイプの読者(紙だけ読んでいる人)の社会があるからこそ生じてくるのだろう。

そういった破壊願望・超越欲求が脳内でショートしている人たち(「現状否定厨」とか呼んであげればウェブ言語で通じるのかな?)は、数は少ないとは思うのだが、(1)社会・経済状況の変化によって、以前より増えている可能性がある、(2)メディアの変化やそれに応じた国際関係の構造変化により、そのようなマイノリティの刹那的欲求が一時的に社会全体に影響を与えかねない(のではないか)、という点から、無視しておいてはよくないと思う。

そもそも中東研究とかアラビア語とかイスラーム教とかを専門でやる人は、信者にならずとも、とにかく現状は間違っていて自分は全く違う真理を発見した-と言いたいからそこに入ってきた、という人が多く、しかもそのような決定が高校卒業ぐらいで行われている(ほぼ大学入試の学部選択で決まるからね)ということから、あんまり信用できない判断だ。そんな年齢で社会の何が分かるというのだろうか?単に熱心にメディア情報の特定の部分に触れて「現状=悪」と思っちゃって「いすらーむ=超越」と期待しただけじゃないかな?

数少ないマイナーと傍からは見られる業界の専門家は、いざという時は国民的議論や認識、それに基づく選択に、大きな役割を果たしてしまう。だから、専門業界はどうせ変な人ばっかりだ、と放っておいてはいけないと思いますよ。専門業界が分業しつつ国民の一般意志の形成に資するサイクルを持っているのが先進国、そうでないのが後進国、という厳然とした区分があると考えた方がいい。日本はこの点で、どっちに入るかはギリギリ。

専門家は単なるオタクの変な人で世の中に恨みがあるので(でも国の予算とか業界仕切って一杯貰っているでしょ・・・)、専門能力が試される「いざ」というときには役立たない。仕方がないから専門性が特にない官僚がジェネラリストとしての経験から「おおよそ」のところで判断するから、国民の意志として選択される政策はそんなに間違ってはいないがピントが結構外れている、まあしょうがないでしょ、というところで我慢してきたのがこれまでの日本。

何かを「超越」したい人はこの構造を超越してほしいな。「あいつら全部だめだ、全部ぶっ壊せ」と「ラディカル」に語って自足するのではなく。

今、大学行政では「役立たない」文系への風当たりが強い(ことになっている)が、私は常に役立つものばかり大学が揃える必要は全くないし、役に立たないように見えることが「いざ」という時役に立つと思っているし、だから文系は必要だと思っているし、それを支えているような自負心もある(でも現に私を雇ってくれているのはバリバリ「役に立つ」ことばかりやると見られがちな「先端研」なんだよな・・・このアイロニーを理解できる文系人はいるのか)。

問題は「いざ」という時にも役に立つ気が全くない人たちが文系に集まりやすくなっていることだ。

「この世は全部ダメ」と本当に思っているのかネタで言っているのか傍から見ると区別がつかない、もしかすると本人たちももうよく分からなくなっちゃっている系の人々が、目測で数えるとだいたい8割ぐらいという、世間一般とは正反対の割合を占めている、イスラーム業界、あるいは思想業界一般について、私自身が職業上、付き合ってこざるを得なかった(といっても排除されていますが)ことにより、フィールドワークによって確かめた知見が今回のコラムには多く含まれております。

日本人戦闘員の系譜~戦後社会に寄る辺なき人たち

面白い記事が出ていた。

黒井文太郎「戦いたい!海外の戦場へ向かう日本人たちの系譜 元自衛官からイスラム国を目指した北大生まで」JBプレス、2014年10月17日

日本の戦後の裏面史でもあり、中東情勢の番外編とも言える。紛争の大勢に影響を与えることはついぞなかったが、思想・文化現象として興味深い。

私自身は、さらにマイナーな、戦場には出ないが「後方支援」した日本人たちのことが時折気になる。フィールドワーク(というかただぶらぶらしていただけ)の時代にすれ違った、日本の規格からは外れたたくましい、ちょっとずれた人たち。

この記事で取り上げられるのは名前が通った人たちだけだが、私の若い頃の観察では、レバノンなどの各民兵集団(政府軍にも)にたいてい一人ぐらい、「日本人空手教師」みたいのがいた。日本人というと「ジャッキー・チェン」だったり「カラテ・キッド」だったりといった強固なオリエンタリズム的固定観念が中東社会にはあります。そのイメージをなぞって演じていると、食っていくことぐらいはできて、ちょっと尊敬されたりもします。どの世界でも「先生」はそれなりに偉いからね。お金と権力はなくても、直接の生徒とその親には尊敬される。

ジャキー・チェンとカラテ・キッドの老師を足して二で割って、そこに黒沢明風の威厳を付け加えれば、アラブ社会のオリエンタリズム的日本人像にぴったり重なる。そんな風に演じているうちに、だんだん幻想と現実が混然と一体となっちゃって、時代劇のように話している日本人とか、いたな。そういう方々、もうかなりの年齢だと思うけど、どうしているかな。静かに帰国して日本社会のどこかにいらっしゃるかもしれない。

中東だけでなく、パリで中東系移民の子孫と思しき少年などからも大喜びで「アチョー」のポーズされました。皆さんもパリとかで歩いていて遠くの方からちょっとエキゾチックでかわいい男の子が目ざとく見つけてポーズ取ってきたら微笑んでやってください。「ここでもか・・・」と脱力とすると共に、フランスの移民コミュニティの存在が可視化されて便利。「アチョー」のあるところ、中東あり。

ただ、こういった日本人の印象も、時代の変化と共にだんだんなくなっていくんだろうねえ。アラブ人の子供がアチョーをやらなくなったらそれはそれで寂しいような気もする。

この記事でまとめてもらったのを読んで思ったこと。

戦後の平和主義になじめない、むしろ戦争する機会が欲しい日本人は左右両陣営に常にいて、オリエンタリズム的な幻想・憧れをもって中東に向かった。ある程度武器の扱いや戦闘に習熟している人はそれなりに活躍したが、あくまでも末端の戦闘員レベル。指揮官やイデオローグになった人はいない。日本赤軍の思想など誰もアラブ世界で知っている人はいないし聞く人もいない。せっかく来てくれたからととある勢力が匿っていただけで、他の勢力は無関心だったし、迎えてくれた勢力にとってもお荷物になっていたのでやがて何らかの取引(たいしたものは代償にならなかったと思う)で日本の官憲に順次引渡し。

記事4頁は何だか身につまされないでもない。

「2000年代以降の外国人兵士の需要は、イラクやアフガンのような民間軍事会社が主流になった。そこでは実績のある各国の軍特殊部隊OBなどが優先される。実績に加え、戦闘技術や語学など要求されるスキルも高い。こうした世界には、なかなか日本人では入っていくことが難しい。」

最近は企業が進出し、本職OBが参入し、グローバル化で語学や情報・先端兵器の扱いも知らないといけないので、戦闘を夢見る日本人ではなかなか入り込めない、とのことですね。

国際戦闘員の世界にも英語化・市場原理主義が貫徹し、日本のその方面の人たちにとっては、グローバル人材の育成が急務となっているようであります。いずこも同じ秋の夕暮。