グローバル・ジハードの連動か:金曜日に3件のテロ(チュニジア、クウェート、フランス)

Braking News Al Jazeera Eng

本日、6月26日の金曜日、中東各地に加え西欧でも、グローバル・ジハードに感化されたか呼応したと見られるテロが並行して生じています。相互の関連は不明です。関連がなくても(むしろ関連のない人と組織が)、呼応してテロを連動させることがグルーバル・ジハードの基本メカニズムです。

(1)チュニジアの西海岸の主要都市スース近郊のビーチ・リゾートにあるホテル(Riu Imperial Marhaba hotel)を狙ったテロで少なくとも27人が死亡(GMT13:00前後)。なおも銃撃戦が続いているという報道もある。
http://www.aljazeera.com/news/2015/06/gunmen-attack-tourist-hotel-tunisia-150626114019519.html
http://www.bbc.com/news/world-africa-33287978
http://www.bbc.com/news/live/world-africa-33208573

(2)クウェートのクウェート市でシーア派のイマーム・ジャアファル・サーディク・モスク(Imam Ja’afar Sadiq Mosque)が爆破され、少なくとも8人が死亡。
http://www.aljazeera.com/news/2015/06/deadly-blast-hits-kuwait-mosque-friday-prayers-150626103633735.html
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-33287136

(3)フランスのリヨン近郊サン=カンタン=ファラヴィエール(Saint-Quentin-Fallavier)で米国系企業Air Productsの工場が襲撃され、少なくとも一人が殺害された。犯人は一人が銃撃戦で射殺され、一人が逮捕されたとする報道がある。「イスラーム国」の黒旗を掲げていた、車に爆発物を積んでいたとの報道もある。勤め先の上司を殺害し遺体の首を切断して襲撃現場に置き、メッセージを残したとされる。
http://www.theguardian.com/world/live/2015/jun/26/suspected-terror-attack-at-french-factory-live-updates
http://www.bbc.com/news/world-europe-33284937

クウェートの事件については、ラマダーン月の金曜日で集団礼拝に多くの人が集まるのを狙ったと見られる。サウジアラビア東部州で先月続いたシーア派モスクへのテロがクウェートに波及したことになる。

https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203169783844486
https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203171393244720
https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203171435885786

チュニジア・スースの事件については、ラマダーンと暑気払いを兼ねて金・土曜日の週末を現地人も外国人居住者も近郊リゾートなどで過ごすことが多いところを狙ったのだろう。

フランス・リヨン近郊の事件については、ローン・ウルフ型の小集団による自発的な犯行の可能性が高いが、詳細はまだ確定できない。

なお、池内はチュニジアにもクウェートにも、フランスにもいませんので、関係者はご安心ください。

チュニジアは今年2月の調査の裏を返し、3月のバルドー博物館襲撃事件以降の雰囲気を知りたかったが、明らかにチュニジアの安定を揺るがそうとする扇動が行われていて、呼応する集団がいることが感じられる状況では、身を守る手段を持っていない以上回避しました。

イラクとシリアの「イスラーム国」の活動が次に波及するのであれば、アラブ湾岸産油国のシーア派を抱えた国になるので、クウェートとバーレーンも調査の候補にしていたが、これも結局回避していました。直前まで検討して、最も危険が少ないところに渡航して、安全な距離をとって観察しています(前回のチュニジア渡航ではまだ安全だったチュニスからリビア情勢を見ていました)。

しばし現地調査で脳内リニューアル中。ニュースのリツイートでもどうぞ

中東某国に来ております。

いろいろと課題や締め切りを抱えながら移動中。

今取り組んでいるプロジェクトの調査をしながら、書いている原稿を進め、次の課題、その次の課題、そのまた次の課題の仕込みを並行して行っている、というような具合でしょうか。

やはり現地時間で現地の空気の中で生活していると、活性化します。現地時間に時計をリセットするたびに、中東研究者としてのOSがアップデートし更新されていくような気がいたします。

先週からイスラーム教の断食月のラマダーン月が始まっており、日中はほとんど物事が動かず、多くの店が終日締まっております。しかも酷暑ということで、観光には全く向かないシーズンですが、研究上はいろいろと発見したり考えることが多い有益な時間を過ごしています(滞在費が安く上がるのもいい)。

インターネットで世界中からどんな人が見ているかわからないので、中東に来ていても、ブログやフェイスブックではリアルタイムに書かないことが多くあり、全く書かないことも多いです。

ただ、移動しながらWiFiをつないでニュースを読む時間が増えますので、このブログの右側の窓に表示される@chutoislam でのリツイートが普段より増えるかもしれません。

あと、今見聞きしていることとは一見直接関係のない(深いところで研究上は繋がっている)、読んでいる本についてなども書いてみましょうか。

【寄稿】雑誌『Transit』のイスラーム世界特集号にインタビューで解説を

発売中です。


『TRANSIT(トランジット)特別編集号 美しきイスラームという場所2015』(講談社 Mook)

この雑誌は写真や紀行文が中心で、イエメンなど、写真家たちが過去10年以上かけて撮ってきた作品が収録されています。

内容についてはこちらからも

ただ、今回はイスラーム教やイスラーム史の概説や、近現代の中東やアフリカの政治史についても多くのインタビュー記事を載せて、入門書のような形になっています。

文化・アート系の雑誌では、対象の芸術方面に偏り、どうしても現実の社会や政治を見ず、宗教の精神性を求めても政治性を見ない傾向がありましたが、今回はかなり勉強していろいろ聞きに行っています。

(「イスラーム」という言葉で「イスラーム教」の宗教教義と「イスラーム諸国」の政治史と「イスラーム世界」の地理範囲と「イスラーム文明」の芸術文化表現とをいっしょくたに表現したり、「イスラーム過激派」と「イスラム国」で音引の有無を使い分けるなど、かえって混乱させる用語を使ってしまっていますが、これは編集部やライターが混乱しているというよりは、話を聞いた専門家の業界が混乱した議論をしてきたことのツケですので責められません。むしろ文章の中では「イスラーム世界」と「イスラーム(教)」をそれなりに分節化できているなど、混乱したこれまでの日本の「イスラーム」をめぐる言説体系に取り組んで、理解可能な表現を模索している様子があります)

私自身は次の二本の記事の中で、グローバル・ジハードの近年の展開について解説しています。

「アルカーイダがフランチャイズ化!グローバルジハードの展開と行方」106−109頁

「『アラブの春』が招いた大混乱とブラック企業化するイスラム国」110−113頁

昨日は磯崎新さんとのトークでしたが、そこでも話題に出た、湾岸産油国の現代建築などについても取り上げられています。

【出演情報】本日19時20分頃からTokyo FM(@小田嶋隆)に出演

本日、Tokyo FMの Time Lineという番組(19:00-19:52)の中の このコーナーに出ることになってしまった。6月18日(木)小田嶋隆●世に溢れる「反知性主義」という言葉の正体(19:20~19:37)

こういった話は全てお断りしているが、こないだこれについてうっかり書いてしまったことと、仕事帰りということでなんとなく引き受けてしまった。

井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった

駒場の東大の生協で発売されたばかりのこれを買ってきた。


『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門』(毎日新聞出版)

「タイトルがね〜」とくさしながら読み始めたが中身がすごく真摯でかつ単刀直入なので引き込まれてしまって、タイトルなど気にならなくなった。いや、本当に、リベラリズムのことは嫌いにならないでください、と心の底から思った。

(「人文系の先生のことは嫌いでも、人文系学部は社会に必要だから嫌いにならないでくださ〜い」とか応用が効くような気もしてきた)

この著者は、私が大学に入った頃、1・2年の教養学部の頃に『共生の作法』(創文社、1986年)を読んで以来、本が出るたびに買って読んできた。

思い出深いのはやはりこれでしょうか。この本のインパクトはすごかった。


『他者への自由―公共性の哲学としてのリベラリズム』(創文社、1999年)

その当時の東大の(ある程度勉強する)学生の間では、井上達夫先生というと、とにかく圧倒的な議論のキレとそしてあの迫力(あと地底から湧いて出るような声の響きにゾクゾクします)で、ほとんど「神」扱いされていた記憶がある。実力と実績と地位が伴った本当の「権威」(あるいは好きではないが「権威主義」の源泉になりそうな人)はどの辺りかというと、私の感覚では、客観的に見て、この先生になりそうなんだが、メディアなどの扱いは必ずしも常にそうではないようだ。学問の世界での評価・相場観と、世間の認識には、ズレがある。

日本・欧米を素材とする法哲学は私にとっては直接の専門分野ではなく、正直、法律には全く興味を持てなかったので専門研究上の接点はないが、イスラーム思想を研究する際に、法哲学概念の比較を行う際にはそれなりに念頭に置いて参照した。まあ両者が離れすぎているんで比較研究とか論文に書くにはふさわしくないんだが、参照軸として有効ですね。

それよりも何よりも、啓示の律法の絶対的な優位・支配が貫徹しているイスラーム思想を、相対化するために、対置させる確固とした思想の基盤を必要としていた。私にとっては、イスラーム思想の規範に対峙してぎりぎりの共生の地点を見いだしうるのはリベラリズムしかないとやがて思い定めることになり、井上達夫先生の文章は、直接の研究のためになるというよりは、イスラーム思想と向き合う際の支えとなった覚えがある。

さて、緻密・濃厚・時にデモーニッシュに論を進めるこの先生の文章は、一般的に言ってそれほど読みやすいとは言えない。

しかしこの本はタイトルでも十分すぎるほど明らかにしているように、一般向けに、誰にでも分かるように書いてある。

第一部では憲法改正とか従軍慰安婦問題とか安保法制とか、今現在議論が沸騰している問題に、リベラリズムの思想から応えてみせる。
第二部では主要著作の要点をかいつまんで話してくれているし、思想的・学問的な歩みを振り返っているところも、単なる読者であってこの先生の「学派」には接点のない私にとっては知らなかったことが多く、興味深い。

「井上達夫思想への入門」として非常によくできていると思う。

骨格・土台においては非常に手堅く洗練された思想・理論の入門であるこの本は、しかし今現在の政治的な議論(とその混乱)への非常に良い解毒剤になっている。おそらく編集者とともになんらかの予感があったからあえてこういう体裁で出したのかもしれない。

著者はリベラリズム思想を独自に展開する過程で、一方で欧米の自由主義者、ジョン・グレイとかジョン・ロールズを批判的に継承しながら議論をしていく。他方で、日本の「リベラル派」の抱えた問題を痛烈に批判していく。

現在の政治的な議論においては、日本のリベラル派批判の部分が注目されるかもしれない。実際タイトルがそのものずばりこれなわけだし。

帯には「偽善と欺瞞とエリート主義の「リベラル」は、どうぞ嫌いになってください!井上達夫」なんて宣言してある。固い重ーい先生がすごく弾けちゃっている感じに一抹の不安があったのだが読んでみたら、上に書いたように、ちゃんとした本でした。

ウェブ上ではすでに政治的な議論についての要点が紹介されていた。自衛隊と安保条約の憲法問題について、日本のリベラル派の主要な立場を「修正主義的護憲派」と「原理主義的護憲派」に分け、それぞれの矛盾と欺瞞をつく。

修正主義的護憲派は「新しい解釈改憲から古い解釈改憲を守ったにすぎない」として、解釈改憲に反対しているという主張を「ウソ」だと突き放す(49頁)。

他方で原理主義的護憲派は「自衛隊と安保が提供してくれる防衛利益を享受しながら、その正当性を認知しない。認知しないから、その利益の享受を正当化する責任も果たさない」のであって、これは「許されない欺瞞」であるという(50頁)。

池田信夫さんの引用していない部分にはもっとすごい炸裂トークがある。例えば日本での典型的な「リベラル派」とされるこの原理主義的護憲派の近年の堕落が著者には感覚的にかつ論理的に許し難いようで、「最近の原理主義的護憲派の論客の中には、こうした欺瞞をあっけらかーんと認めて、それが大人の知恵だ、みたいなことを言う人がいる」と実名・著作を挙げて批判。何が問題かというと、「要するに、原理主義的に護憲を世間に主張しながら、実際には自衛隊と安保を認めていることを、みずから世間にバラしている。護憲批判派が読みうる公刊された本の中で。他者の批判的視線を無視した「お仲間トーク」というのか、この神経がわからない」(51頁)

そういう行為は「いわば、通勤電車のなかでお化粧にはげむ若い女性と同じですね。その女性にとって、ほかの乗客の視線は無きにひとしく、ただのモノでしかない。こういう原理主義的護憲派にとって、彼らに批判的な人々の存在など無きにひとしく、ただのモノだと思っている。相互批判的な対話のパートナーとして認知していない」(51頁)

・・・と電車で見かけた女性も巻き込んで怒りの対象にしておられます。「還暦すぎたからといって円くなっていられない。「怒りの法哲学者」として、角を立てて生きていきますよ」(195頁)だそうですので。

井上先生にとっては何よりも、日本の「リベラル派」の言動における公共性の欠如が許し難いのでしょう。

日本のリベラル派の底浅い党派的言動への怒りと、欧米のリベラリズム思想への理論的な批判は、次元と場面を異にしているけれども、どこか通じるところがある。例えばグレイが「不寛容への寛容」を認めてしまいリベラリズムの普遍性の主張をあからさまに取り下げることや、ロールズが立憲民主主義の伝統を持たない社会へのリベラルな正義原理の適用を諦め、不平等や独裁すら一定の「節度」のもとで黙認する姿勢に、著者は失望する。これらは「寛容」の負の側面であるとする。「寛容」を主張することで往往にしてその背後で放棄される「啓蒙」の側面を著者は再度重視する。もちろん「啓蒙」には負の側面もある。しかし日本には「啓蒙」がその肯定面でまだまだ必要であるというのが著者の立場だろう。

1980年代末から90年代初頭にかけて、昭和天皇崩御から冷戦崩壊の時期に、著者は気づかされた。「保守派が言う「伝統」も含めて、戦後日本のなかに、リベラリズムの足場になるようなものが実はなかった。その怖さを実感しました。ショックでした」(106頁)

「リベラリズムは、啓蒙と寛容という二つの伝統から生まれたと言いました。
しかし、啓蒙にも寛容にも、これまで言ったように、ボジとネガがある。
両者のネガを切除し、そのポジどうしを統合させるための規範的理念が、私が考える正義なんです」(20頁)

20〜30頁あたりで、著者の正義論の骨子が、これまでになく平易に語られています。

その上で国家・国旗問題や従軍慰安婦問題、アメリカやドイツの歴史認識や「謝罪」と日本との比較、そして集団的自衛権など、政治問題といった具体的な課題に著者のリベラリズム思想を応用していく。

集団的自衛権については著者は反対だが、「なんらかの集団的な安全保障ネットワークは必要です」という。国際政治学者や安全保障研究者ではないので、具体的にどうすれば、という話にはならない。昨年の安倍内閣の集団的自衛権行使容認の閣議決定によって、アメリカに対する交渉カードを政府が自分から捨ててしまった、と批判し、「安倍政権は、日本の国益と政治的主体性を本当に守ろうとしているのですか」と問いかける。違憲論ではなく戦略的に主体性がなく、戦術的に稚拙と批判するのですね。

そして日本の「リベラル派」の枠を打ち破るのが、憲法9条削除論です。

「九条解釈としては、文理の制約上、絶対平和主義を唱えているとしか、捉えようがない」(46頁)ことから、先ほどの「修正主義的護憲派」や「原理主義的護憲派」のような、嘘や欺瞞を抱え込まざるを得ない。そのため、「私は、憲法九条を削除せよ、と主張しています」(52頁)と言い切る。

「私は、安全保障の問題は、通常の政策として、民主的プロセスの中で討議されるべきだと考える。ある特定の安全保障観を憲法に固定化すべきではない、と。だから「削除」と言っている」(52頁)

この本で繰り返し出てきますが、九条があることで「リベラル派」が抱え込む欺瞞と、その状態に安住できさえすることによって極まる知的堕落が、著者にとって我慢ならないようです(正義論の法哲学者はこうでなければなりません)。

「だから私は、安倍政権の姿勢を批判する論理的および倫理的資格が、護憲派にあるかというと、ないと今思っています。解釈改憲OKの修正主義的護憲派にも、違憲事態固定化OKの原理主義的護憲派にも、そんな資格はない」「これ以上、立憲主義をコケにすべきでないと考える点で、護憲派とは違う」(54-55頁)

天皇制についての提言にも共通しますが、この著者はいくつか、いかにも思想・理論家の学者が言い出しそうな、政策論としての実現可能性はきわめて低いが論理的には筋が通った解決策を提示します。具体的な政策としてというよりも、何が政策の目的であるか、実現されるべき価値であるかという面で、深く受け止める価値があるでしょう。

もし著者のような筋道で社会の多くの人が考えるようになれば、議論はもっとずっとまともになるでしょうし、その結果としての選択もましなものになるでしょう。時に重苦しく感じられる普段の著者の文章は、そのような根本的な楽観主義に貫かれているが故に、慣れると極めて心地よい読書体験となるのです。今回の本は、苦行の部分を飛ばしていきなりハイになれるようなそんな本です(著者も?)。

「学者の言うことを聞け」というのは、都合のいい時だけ都合のいい「権威」を祭り上げて付和雷同を誘い、異論を権威主義で黙らせるといったことではないのです。根本的に、広く深く考え抜いた数少ない知性による、時に突飛にも見える問いかけを十分に聞き取り、そこから社会が民主的制度の中で判断していくということだと思います。そのために学者は一日二十四時間、頭が割れるほど考えていてくれるのですから。

 

 

【寄稿】『週刊エコノミスト』の読書日記、ついでに資源安で商社は、重信房子の出身校など

本日発売です。

池内恵「世間が関心を持つと本質は見えなくなる」『週刊エコノミスト』2015年6月23日号(第93巻第25号・通巻4402号、6月15日発売)、57頁

『週刊エコノミスト』の読書日記連載も12回目になりました。先日このブログでお伝えしましたように、今回は開沼博さんの『はじめての福島学』(イースト・プレス、2015年)併せて著者の最初の本『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)

なお今回も電子版には収録されていません。


『エコノミスト』2015年 6/23 号

今回の特集は「商社の下克上」だそうで。

資源価格の低下は中東の産油国にも影響を与えるけれども、日本の商社にも影響を与えるのですね。

私はあんまり熱心に読んでないが「名門高校の校風と人脈」という連載があって、それなりに歴史のある高校の有名な卒業生を列挙しているのだが、今回は「都立第一商業」。

重信房子がここの卒業生だそうだ。

紹介文によれば「日本では犯罪者だが、アラブ世界では英雄視されている」という。間違いではないが、これは多分に日本側に流布している言説で、あちらのパレスチナ・ゲリラ筋の間で日本と関わりがある人が義理で「重信房子」の名前を言及するかもしれないが、一般的には誰も知らない。そもそもパレスチナのゲリラの非主流派の組織や人物のことを、アラブ世界の人々の大多数は忘れている。

東西冷戦が激しかった頃の日本と欧米の言説空間の中で「重信房子」幻想が生まれただけで、あまりアラブ世界の現実政治にも社会にも関係がなかった。日本との接点がなさすぎるので微かな接点ということで重信房子は取り上げられるけれども、基本は日本側の幻想・神話であると思った方がいい。

ただ、最近暇つぶしに(暇じゃないが逃避で)、「重信房子」幻想が炸裂している1970年代〜80年代前半の娯楽小説を1円とか100円とかで買ってきて読んでいるのでそのうちご紹介したい。〜くだらなくて脳みそが溶けそうになります〜

ちなみに『週刊エコノミスト』の記事では重信房子は辛淑玉と並べられていた。

新書で資源・エネルギー問題を読むなら

エネルギーアナリストの岩瀬昇さんという方(直接面識はないが、ちょこっとだけ接点があった人のお父上であると聞く)のブログはちょくちょく見て勉強しているのだが、今日はこのようなエントリが掲載されていた

新聞などの企業・総合メディアは、専門家の個人メディアの登場により、その水準を即座に検証され判断される受難の時代には行った。刺激されて新たな水準に上がるといいのだが、諦めてしまって居直ってしまわいないか心配になる。この社説と同様なことを言って迎合してくれる「専門家」は常に現れるわけだし。そうなると信頼できる、ポイントをついた議論を求める人は、一層メディア企業を介さず個人をフォローすることになり→そうなると価値が高まるし、手も回らなくなるのである種の有料化やクローズドな媒体に移行する方向に進んで→それを知っていてお金を払う気のある・払える人とそうでない人で、知識による社会の二極分化が固定化されてしまいかねない。

私な二極分化を憂える立場で、公共的議論の場を作り水準を高めようと努力しているが、しかし企業・組織の側が硬直して、二極分化を推し進める側に回って無知な側に大量に売って生き延びよう、というつもりでいるんだったら、こちらは矜持を保てる水準の思考・言論を展開してかつ適切な読者を独自に確保して生き延びることを考えなきゃいけないな、と思う。理想への期待を放棄することなく、人間社会の愚かさに対する備えも怠らない、ということでいいのではないでしょうか。

岩瀬さんのこの本、ずいぶん売れて手に入りにくかった記憶があるのだが、社説界隈には浸透していなかったのか・・・


岩瀬昇『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか? エネルギー情報学入門』(文春新書)

「新書」という媒体のあり方、近年の実態については色々と言いたいことがあって、それについてはこのブログでしょっちゅう書いていて、また自分がいざ新書という媒体で『イスラーム国の衝撃』を出した際にも、アンビヴァレントな思いが去来したのだが(それについてもあちこちで書いている。『文學界』の最近の寄稿にも)、企業などの現場で長い間経験を積んできた方が、総まとめや区切りの意味で一冊にまとめる、という場合の媒体としては優れていると思う。

実務家の人は、いわゆるアカデミックな書き方はしない人が多いだろうが、情報や知見の実質があれば良い新書は成り立つ。本を出して生計を立てるわけではないから変なものを急いで書いたりしないだろうし。書いたら読者には役に立つし、それをきっかけに講演などが増えたりするのだろう。まとまったテキストがあると主催者・聴衆・話し手のいずれにとっても良いわけだし。

この本、私などが紹介しなくてもとっくの昔に売れてしまっていたのだけれども、改めてここでも紹介。

【ご案内】磯崎新さんとのトーク@青山ブックセンター本店(6月21日)

来週の日曜日の昼に、こんなんやります。

磯崎新連続対談 第3回 神話都市:イスラム 磯崎新 × 池内恵 トークイベント「未完プロジェクトの現場から――日本・中国・チベット・イスラムの都市と文化」2015年6月21日(日)13:00~15:00、青山ブックセンター本店

ABCトーク磯崎新・池内恵2015年6月21日

建築家の磯崎新さんと。

私は主に聞き役です。

磯崎さんがペルシア湾岸や中東の王族や政府の大規模プロジェクトにコンセプト作成の段階から関与してどのような者を見てきたか、建築家は権力を持っていてメガプロジェクトを決定・決済する人そのものの懐に入るので、普通には見られない政治や社会の内幕や、権力者の横顔について聞けるかもしれません。

イスラーム教をなぜ理解できないか(5)米保守派による共鳴

日本の「こころ教」によるイスラーム教理解の阻害、欧米のリベラル・バイアスや、ルター的宗教改革を普遍的モデルとしてしまう問題などを取り上げてきたが、そういえば、今、仕事で依頼されてこの本をずっと読んでいて、関連書籍と合わせて検討しているのだけれども(遅れています)、ここでも関連する議論が出てくる。


ウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金 上 イギリス、アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか』

アメリカの保守派と目され るウォルター・ラッセル・ミードも、イスラーム教のいわゆる「過激派」と論じられがちなワッハーブ派やサラフィー主義と、アメリカのプロテスタントとの類似性を論じている。そして、ミードはアメリカの活力と指導力の発展の過程では、負の側面はあれども、「過激」なプロテスタントの運動が不可欠な要素だったと肯定的評価をしているのである。間接的に、ワッハーブ派はサラフィー主義についても、長期的に見れば、イスラーム世界の発展に肯定的な意味を持つ可能性があると示唆している。

「西洋のマスメディアでは、一方の側に、開かれた社会の自由【ルビ:リベラル】な理念と相性が良いと考えられているキリスト教の価値観を置き、もう一方の側に、イスラームの本質的な一部であるとみなされ、閉鎖的で無知蒙昧だと思われている価値観を置き、これら両方の価値観は永遠に相容れることはないと言われている。

これはほぼ間違いなく間違っている。カトリックは最終的に開かれた社会との和解に至るまでに、その社会の価値観に抵抗する長く苦い歴史を経てきた。プロテスタントでさえ、当初は開かれた社会を受け入れようとはしなかった。イスラームを外部から観察する人びとのなかには、イスラームがもっと寛容で開かれた信仰となるような「イスラームの宗教改革」が起こってくれればと願っている者もあるが、彼らは宗教改革の本質についてもイスラームの現状についてもよく分かっていない。

あらゆる文化にはそれぞれ固有の特徴があるとはいうものの、イスラームのワッハーブ派とサラフィー主義の運動およびそれらに根ざす政治運動は、〔キリスト教の〕宗教改革における最も急進的なプロテスタント諸派の運動と不気味なほど似ている。・・(中略)・・ワッハーブ派もその他の現代の改革派ムスリムたちも、イスラームの本源回帰を望んでいる。それはちょうどピューリタンが使徒時代の純粋なキリスト教への回帰をめざしたのとよく似ている。」(ウォルター・ラッセル・ミード著、寺下滝郎訳『神と黄金 イギリス,アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(下)』青灯社、2014年、242−243頁)

非リベラルな思想が主流なイスラーム世界については、アメリカの保守派の良質な部分は、ある種の共感の力を持って理解を試みている面がある。

「マルティン・ルター、ジャン・カルヴァン、オリヴァー・クロムウェルは、彼らの教義や主義がワッハーブ派の教義とどれほど違っているにせよ(もとより彼ら三人の教義や主義自体がぴったりと一致しているわけでもないが)、それでも現代の改革派ムスリムたちの精神と神学には多くの点で敬意を払うことだろう。
 中長期的に見れば、これは明るい兆しである。プロテスタントの宗教改革は、それにいかなる問題があろうとも、近代の動的社会を発展に向かわせる環境をつくったことは確かである。その運動から生じた宗教闘争、教義上の革命、個人の改心体験、迫害、犯罪、政治闘争は、ベルグソンのいう動的宗教【ダイナミック・リリジョン】を発生させ、ひいては新たな社会を生み出すことを立証した。今日イスラームは活発な宗教となっており、世界が激変するなかで真性の声を聴こうともがいている。これはムスリム、非ムスリムのいずれをも等しく不安にさせ、時として恐怖させる危険な現象である。だがそれはまた、偉大な文明に特有の生命力と積極的関与【エンゲイジメント】の重要な現れでもある。」(ウォルター・ラッセル・ミード著、寺下滝郎訳『神と黄金 イギリス,アメリカはなぜ近現代世界を支配できたのか(下)』青灯社、2014年、244−245頁)

ミードは非合理的な宗教のダイナミズムこそがアメリカの躍進の不可欠の(唯一のではない)要素であるとする立場であり、であるからこそ、イスラーム教の根本理念に立ち返ろうと主張する運動が根強いイスラーム世界への、ある種の内在的理解による共感を可能にしている。

ただし保守派の多数、特に宗教右派や福音派、イスラーム教の挑戦を真っ向から受けて、十字軍で対抗しようとするので、摩擦と衝突を煽る結果を招きかねない。

これについてはミードはラインホールト・ニーバーの「原罪」を核とした議論を引いて、信念に基づく行動に内側からの抑制を課すことを、福音派などが力を持つアメリカ政治において、保守派こそが再認識するよう求めている。ここがこの長大な本の肝となっている重要なところだろう。それが安心できるものか、説得的かはともかく。

元来はアメリカの保守は、根底においてリベラリズムを共有している。ここが新世界のアメリカと欧州を分けるところである。その意味で、ミードはアメリカ保守主義の本来の姿を受け継いだ知識人といえるのではないか。


ルイス・ハーツ『アメリカ自由主義の伝統』(有賀貞訳、講談社学術文庫)

イスラーム教をなぜ理解できないか(4)「リベラル・バイアス」を単刀直入に言うと

先日紹介した、Temptations of Powerの著者Shadi Hamid氏が、‘Moderate Muslims’という小文をワシントン・ポスト紙のブログに寄せている。

「穏健派ムスリム」を探すのはもうやめよう、という議論で、欧米で(日本でもそれを一知半解に真似て)繰り返されるクリシェの批判から、根本的な思想問題に触れている。

The way we use the term, “moderate” means little more than “people we like or agree with.” Almost always, it signals moderation relative to American or European standards of liberalism, freedom of speech, gender equality and so on.

「穏健派ムスリム」を持ち上げて、「イスラーム国」などの「過激な」「本来の姿ではない」「多数派ではない」の価値を落とそうとする議論はごく自然に行われているが、中東の実態、宗教教義の実態を知れば、単純にそうは言い切れなくなる。ここでハミードは、「穏健派ムスリム」と言うときは、実際は欧米のリベラルな基準から、言論の自由やジェンダーの平等などを受け入れる相手のことを言っているだけで、要するに「欧米人が好きになれる相手、合意できる相手」と言っているに過ぎないのだ、と喝破する。

そんな欧米人に気に入られることを欧米で言っている人たちは出身国に帰ると「穏健派」とはみなされておらず、単にout of touchだと思われている、という。

Yet in their own countries, people who want to depoliticize Islam and privatize religion aren’t viewed as moderate; they’re viewed as out of touch.

中東を相手にしているとごく普通に感じられることをそのまま書いている。これが欧米の知識社会では言いにくいんですよね。言うとイスラーモフォビアに毒された非文明人であるかのように扱われてしまう。

エジプトのような現地の国では社会全体が保守的なので、世俗主義者でさえ非常に非リベラルな信念を報じているのだ。

The search for moderate Muslims misunderstands the nature of the societies we’re hoping to change. It would be extremely difficult to find many Egyptians, for instance, who would publicly affirm the right to blaspheme the prophet Muhammad. The spectrum is so skewed in a conservative direction that in countries like Egypt, even so-called secularists say and believe quite illiberal things.

欧米の議論は、なぜムスリムはリベラルで世俗的な時代に加わってくれないのか、というフラストレーションを抱えている。しかしこれはいかに善意であれども生産的ではない、見下した態度だ、という。

The subtext of so many debates over Islam and the Middle East is frustration and impatience with Muslims for not joining our liberal, secular age. However well-intentioned, such discussions are patronizing and counterproductive.

日本で俗に言う「欧米のイスラーム理解は間違っている!」という主張とはかなり異なった思想的課題があるということがよくわかりますね。通説は「本当はムスリムはリベラルなのに、そうではないとする欧米のオリエンタリズムが間違っているんだ」という議論なのです。実際に中東に行って議論をすれば、それは嘘だということはよく分かります。日本の俗説は、「中東」を根拠にして「欧米」を叩いているふりをしながら、実際には欧米の特定の学説を権威として掲げて日本での言説支配の手段とし、要するに流用しているだけのことが非常に多い。

俗説や「権威」に流されずにモノを考えるのが思想史。本当に考えるべきことを考えていれば、視野が開けてきます。

【書評】開沼博『はじめての福島学』を来週の『週刊エコノミスト』で

この記事についてFacebookで書いたら結構流通しているようだ

「容赦なき師弟対談——上野千鶴子×開沼博 上野千鶴子「『はじめての福島学』ってタイトルからしてひっかかるのよね」」

有料媒体の無料記事なので、炎上商法に協力して無防備な議論をしているのかと疑ってしまうが、ある意味で興味深いのでシェアしておいた。

この記事が目に入ったのは、来週号の『週刊エコノミスト』で取り上げられた本を書評しているから。


開沼博『はじめての福島学』(イースト・プレス)

イスラーム教をなぜ理解できないか(3)「ルター・バイアス」が曇らす宗教改革への道

連続講座のようになってきた。今回が第3回となるのか。

まず、日本では宗教を「こころ」の問題と捉えることで、イスラーム教の律法主義的な原則が捉えにくくなる

それに対して、欧米のリベラル派は、リベラルな価値観が普遍的だと信じるあまり、「本当のイスラーム教はリベラルで、リベラルではないイスラーム教徒は何か間違っている、物質的原因によって強制されているのか、教育が足りない」と思ってしまう。さらには「イスラーム教がリベラルではないと分析する観察者はオリエンタリズムだ、イスラーモフォビアだ」と断定してしまって、現実に目を向けなくなる。

日本と欧米である種の論者がそれぞれ囚われているバイアスが、イスラーム教を見えにくくしている。

欧米では、自らの宗教改革の歴史を普遍的なものと捉え、世界に適用してしまうことで、イスラーム教徒が抱えている思想的課題が見えにくくなるという、もう一つ別のバイアスもある。

これについて指摘したのが、この論考。

Mehdi Hasan, “Why Islam doesn’t need a reformation,” The Guardian, 17 May 2015.

欧米では、「イスラーム国」の蛮行がイスラーム教の教義に基づいているという認識が出てきて、そこで「宗教改革をやれ」と問題化されるようになった。しかし、その際にイスラーム教でどのような宗教改革が必要なのかを理解せず、欧米の歴史をそのまま援用して論じてしまう。そこから、イスラーム世界にルターのような人物が出てきて、原典に立ち返り、教会権力と聖職者たちから解釈権を奪って宗教解釈を民主化すれば、テロも人権抑圧もなくなる、と安易に前提にしてしまう、というのがざっくりとまとめるとメフディ・ハサンがここで議論している内容だ。

イスラーム教のスンナ派では元々が聖職者によるヒエラルヒーや教会権威はない。ヨーロッパのプロテスタントが行った「純化」はすでにイスラーム教においては行われた。サウジアラビアはまさにそこから生まれた。

The truth is that Islam has already had its own reformation of sorts, in the sense of a stripping of cultural accretions and a process of supposed “purification”. And it didn’t produce a tolerant, pluralistic, multifaith utopia, a Scandinavia-on-the-Euphrates. Instead, it produced … the kingdom of Saudi Arabia.

異なる宗教には異なる歴史的経緯があり、教義の体系があるのだから、どこの宗教にも「ルター」が出てくるわけではないし、「ルター」が出て来れば宗教改革になるわけではない。むしろ、イスラーム世界にルターが現れるとすれば、それはまさに「イスラーム国」のバグダーディーのような言動をとるだろう、とも言うのである。

With apologies to Luther, if anyone wants to do the same to the religion of Islam today, it is Isis leader Abu Bakr al-Baghdadi, who claims to rape and pillage in the name of a “purer form” of Islam – and who isn’t, incidentally, a fan of the Jews either. Those who cry so simplistically, and not a little inanely, for an Islamic reformation, should be careful what they wish for.

ところが欧米では、イスラーム教徒を出自とする論者がルター風な宗教権威批判をすると、それこそが未来のイスラーム教解釈だと思い込んでもてはやされてしまい、現実を見失う、というのがこのコラムでの批判である。

これもまた頷けるところが多い議論だ。

昨日紹介したシャーディー・ハミードの論考でもこの点は触れられている。

The Muslim world, by comparison, has already experienced a weakening of the clerics, who, in being co-opted by newly independent states, fell into disrepute.

宗教権威が弱くなったことで、イスラーム主義者が台頭し、「イスラーム国」のような種類のものも現れてくる。

また、イスラーム世界に「ルター」に相当する人物を探すなら、それはサウジアラビアの厳格な宗教解釈を形作ったイブン・アブドルワッハーブだろう、と言う。

Some might argue that if anyone deserves the title of a Muslim Luther, it is Ibn Abdul Wahhab who, in the eyes of his critics, combined Luther’s puritanism with the German monk’s antipathy towards the Jews.

ルター的な宗教改革は現在のイスラーム世界で求められてもいないし、必要でもない。

もちろんある種の宗教改革は必要であるという。ムスリムは自らの伝統遺産の中から多元主義と寛容と相互尊重の理念を見出してこなければならない。

Don’t get me wrong. Reforms are of course needed across the crisis-ridden Muslim-majority world: political, socio-economic and, yes, religious too. Muslims need to rediscover their own heritage of pluralism, tolerance and mutual respect – embodied in, say, the Prophet’s letter to the monks of St Catherine’s monastery, or the “convivencia” (or co-existence) of medieval Muslim Spain.

不要なのは、非ムスリムあるいは離教ムスリムによる、非歴史的で反歴史的な改革要求であるという。

What they don’t need are lazy calls for an Islamic reformation from non-Muslims and ex-Muslims, the repetition of which merely illustrates how shallow and simplistic, how ahistorical and even anti-historical, some of the west’s leading commentators are on this issue.

私自身も『イスラーム国の衝撃』の中で、「宗教改革を必要とする時期にきているのではないか」という旨を簡潔に記しておいた。イスラーム教の固有の発展を踏まえた、現段階で必要な宗教改革とはどういうものなのか。私自身も議論を進めてみたいと思う。

イスラーム教をなぜ理解できないか(2)リベラル・バイアスが邪魔をする〜米国のガラパゴス

昨日の「「こころ教」のガラパゴス」(2015年6月10日)が随分シェアされて、いいねが1100を超えている。イスラーム教の宗教規範について、日本の規範と対比させることで理解しやすくなった人もいるのではないか。

日本では「こころ」に特化した宗教認識が広がることで、それを「常識」「普遍」と受け止めてしまい、それに合わないイスラーム教が「宗教ではない」ように見えてしまったり、「真のイスラームはそんなものではない、もっとひとりひとりの『こころ』を大事にしたものであるはずだ」と強弁して中東の現実から目を閉ざしたりしてしまう。

これについては、読んだ人自身が思い当たるところがあったのではないだろうか。イスラーム教をなんとか知ろうとして手に取った本にそんなようなことが書いてあったりもしたはずだ。

少し構図は違うのだが、欧米でも固有の条件下で同様の障壁があり、認識や議論が阻害されている。欧米の議論は日本でそれを一知半解に受け売りする人たちによってさらに歪みを増幅させて、日本国内での知的権力構造の中で移入され拡散されるので、新たな誤解と障壁を生む。

「欧米のイスラーム理解は誤っている」という議論は多いが、実際にはそういった議論は、欧米のリベラル派の立場からイスラーム教の実際の信仰のあり方に目を閉ざし、欧米での議論を保守派・宗教右派批判という文脈で一方的に表象しているため、それ自体が政治的な意図やバイアスを大いに含み、誤解を生んでいる。

欧米の議論の、本当の意味での制約やバイアスについては、「イスラーム国」をどう理解すればいいのか、という議論が湧き上がる中で、これまで躊躇していた人たちが、慎重に、あるいは思い切って、提起し始めている。

例えばこれ。

Shadi Hamid, “The Roots of the Islamic State’s Appeal: ISIS’s rise is related to Islam. The question is: How?” The Atlantic, Oct 31, 2014.

著者のシャーディー・ハミードは、「イスラーム国」の参加者たちは、宗教を「イデオロギーとして利用」しているのではなく、本当に信じているのだ、という点を、どうにか欧米の読者に理解させようとする。

In this most basic sense, religion—rather than what one might call ideology—matters. ISIS fighters are not only willing to die in a blaze of religious ecstasy; they welcome it, believing that they will be granted direct entry into heaven. It doesn’t particularly matter if this sounds absurd to most people. It’s what they believe.

これは「リベラル・バイアス」の問題だろう。いくつもある、欧米の主流派の議論が、善意のつもりで帰って中東の現実を見誤ってしまう原因の、一つである。これ以外にプロテスタント的な宗教改革をイスラーム世界に生じさせれば問題は解決すると信じるいわば「ルター・バイアス」や、宗教解釈を民主化して一般信徒が解釈できるようにして聖職者・教会権力の支配を解体すれば一般信徒は穏健な解釈をするようになる、という「民主化バイアス」もあると思われるが、これについては別のエントリで論じよう。

ハミードは、欧米の政治学者(ハミード自身を含む。彼はアラブ系だが欧米で教育を受けて欧米の研究機関に勤める、明らかに個人的信条としてはリベラルな人である)は、イスラーム教徒が非リベラルな宗教教義を自発的に信じていることを理解しがたいという。宗教やイデオロギーやアイデンティティを、物質的な要因によって引き起こされるものだと捉えるように、欧米の政治学者は教育・訓練される。これは、政治学者だけでなく、合理的・個人主義的で世俗主義的な世界観を持つ欧米の一般的な人、その中でも特に知識階層に共通すると言ってもいいだろう。それが、「イスラーム国」が依拠する、多数のイスラーム教徒が実際に信じている信条や行動原理を、理解することを妨げているというのだ。

Political scientists, including myself, have tended to see religion, ideology, and identity as epiphenomenal—products of a given set of material factors. We are trained to believe in the primacy of “politics.” This isn’t necessarily incorrect, but it can sometimes obscure the independent power of ideas that seem, to much of the Western world, quaint and archaic.

「イスラーム国」は、リベラル派が信奉する決定論、すなわち歴史は合理的で世俗的な未来へと発展していくことを運命づけられているという決定論が、中東の現実を説明できないことを明らかにした、とハーミドは論じる。

The rise of ISIS is only the most extreme example of the way in which liberal determinism—the notion that history moves with intent toward a more reasonable, secular future—has failed to explain the realities of the Middle East.

ここでハミードは、「イスラーム国」は「イスラーム的」と言えるのか?という核心をついた、専門家が誠実であれば誰もが内心は問いかけつつ、表向き表現することに躊躇する問いを立てる。そして、「イスラーム的だ」と答える。イスラーム教徒の多数派が「イスラーム国」を支持するわけではない。しかし、「イスラーム法によって統治されるカリフ制を復興すること」そのものについては異論がない。

ISIS draws on, and draws strength from, ideas that have broad resonance among Muslim-majority populations. They may not agree with ISIS’s interpretation of the caliphate, but the notion of a caliphate—the historical political entity governed by Islamic law and tradition—is a powerful one, even among more secular-minded Muslims.

「イスラーム教徒は我々と同じように育っているじゃないか、同じもの食べて、同じように子供達を育てているじゃないか」といった、おそらくは善意からの共感の言説は、実態から目を逸らすだけである。大多数のイスラーム教徒にとって、平和を求めることと、離教者には死刑で臨むべき、姦通には石打ちの刑を、と信じることの間に矛盾はないのだから、とハーミドは世論調査の結果を踏まえて言う。

This is why the well-intentioned discourse of “they bleed just like us; they want to eat sandwiches and raise their children just like we do” is a red herring. After all, one can like sandwiches and want peace, or whatever else, while also supporting the death penalty for apostasy, as 88 percent of Egyptian Muslims and 83 percent of Jordanian Muslims did in a 2011 Pew poll. (In the same survey, 80 percent of Egyptian respondents said they favored stoning adulterers while 70 percent supported cutting off the hands of thieves).

ハミードの議論はまだ続くのだけれども、それはまた別の論考とも合わせて議論することにしよう。

このようなことも言っている。

イスラーム教の教義体系にムスリムが完全に縛られているわけではないが、完全にそれから脱することもできない、というのだ。

Muslims are not bound to Islam’s founding moment, but neither can they fully escape it.

イスラーム教は教義の構造上、信者個々人が自由に選んだり捨てたりできるものではない。根幹の部分を変えることも難しい。ただ「棚上げ」して実際には適用しない、という便法が社会的な合意があれば通用するだけだ。その合意も簡単に壊れてしまう。

ハミードのこういった議論は、「アラブの春」以後の民主化の試みによって、実際にアラブ諸国の多数派のムスリムの民意が選挙で表出されたことを踏まえている。そこからハーミドが出した結論は、「政治的な自由化が行われば、非リベラルな思想の持ち主が多数派を占めるアラブ世界では、非リベラルな民主主義が誕生しかねない」というものだ。

これがハミードが昨年刊行した『権力の誘惑ーー新しい中東におけるイスラーム主義者と非リベラルな民主主義』(オクスフォード大学出版会)の中核的な議論である。


Shadi Hamid, Temptations of Power: Islamists and Illiberal Democracy in a New Middle East, Oxford University Press, 2014.

ハミードはこれを東欧やラテン・アメリカなど欧米的な価値観を基本的に受容した地域の事例とは異なる、世界の民主化の中での新たな事例としてとらえる。東欧やラテン・アメリカでは、社会の多数派の信条としては欧米的なリベラルな思想が広がっているにも関わらず、政権は言論の自由とか人権とか法の支配といったリベラルな規範を実現すると権力を維持できないから、それらを制限する。そこで、何らかの原因で制限が弱くなれば、リベラルな民主主義が実現しうる。ところがアラブ世界の場合は、社会の側が非リベラルな信条を抱いているために、民主化して多数派の意見が取り入れらると、非リベラル化してしまう、という。

アラブ世界のイスラーム教徒の多数派が実際に信じているものを、そのまま見つめれば、事態はかなり分かりやすくなる。欧米の議論のゆがみとは、実際には、現実のアラブ世界のイスラーム教徒はリベラルではないにも関わらず、リベラルな価値や世界観が普遍的であると信じている欧米のリベラル派がそのことを認められないがゆえに議論が混乱しているのである。

しかし欧米のリベラル派はしばしば、「アラブ世界のイスラーム教徒は実際にはリベラルなのに、欧米がオリエンタリズムによる誤った表象によって非リベラルであると誤認している、そのことが中東で問題を引き起こすのだ」という議論をする。しかし実際に選挙をやってみると、本当に非リベラルな主張が票を得て当選して権力を握ってしまう。民主化を是とするならば、非リベラルな、他者に寛容ではない民主主義を受け入れるのか?それが、中東に出自を持つ、リベラルな欧米人であるシャーディー・ハミードの問いかけである。

イスラーム教をなぜ理解できないか(1)「こころ教」のガラパゴス

最近、いろいろな聴衆に向けて『イスラーム国の衝撃』を叩き台にして話す機会が多いのだけれども、イスラーム教の本来の教義・規範・体系を話しても、必ずと言っていいほど「分からない」と言われる。

かなり単純化して基本的なところを話しても「分からない」と言われるので、問題はイスラーム教の教義そのものやそれを私がどう解説するかではなく、日本の聞き手の側に、「宗教」というものに対する頑迷な思い込みがあるからではないかと痛感する。

日本の現在の宗教認識について、ヒントになる論説があったので紹介してみよう。

「「こころ教」と「原理主義」の時代が来る? ビジネスパーソンのための仏教入門(4)」

この記事は、浄土真宗の僧侶で仏教学者でもある佐々木閑氏へのインタビューである。佐々木氏はここで、日本の既成仏教の「こころ教」化という概念を提示し、批判している。メインストリームの「こころ教」化が、そこで満たされない層の「原理主義」化をももたらす、という見立てだ。

また、宗教には本来「原理主義」的な側面があるということを指摘し、さらにそこに僧侶としてコミットする姿勢も若干ながら示している。

日本仏教の「こころ教」化というのはどういうことかというと、佐々木氏はこのように語っている(記者によるまとめだから正確かどうかわからないけれども)。

「それぞれの教義について問われると、本気で信じていない僧侶は、「それは心の中の問題だ」と言いだすのです。例えば「本当は、阿弥陀様は私たちの心の中におられるのです」と言う僧侶がいます。極楽は西方にあるはずなのですが、「本当の極楽は私たちの心にあるのです」などとも言うんですね。」

この傾向は私にも確かに感じられる。宗教を「ひとりひとり」の「こころ」の問題と捉え、「あなたがどう受け止めるか、あなたがどう信じるか次第なのです」と教える宗教言説は、俗流宗教論の定番であり、メディアに出てくる不確かなコメンテーターの発言や、作家の出す癒し本の中だけでなく、宗教者とされる人たちが出す本や発言にも充満している。そして宗教を「こころ」の問題であるとする考え方からは、宗教規範を掲げて社会的・政治的な行動に出る人たちは「原理主義」ということになり、「本来の宗教ではない」と安易に結論づけられてしまう。しかしそういった議論では、「原理主義の何が悪いのか」と真っ向から主張する人たちの行動を止められず、説得もできない。「こころ教」は原理主義に、説得ではなく村八分にすることでしか対抗できないのだ。

ただし、下記の部分で、イスラーム教にも同じ「こころ教」化が起こっていると論じているのは間違いである。

「科学とうまくすり合わせできないことを、「心の問題」に置き換えて解釈しようとするのは仏教だけに限りません。キリスト教、イスラム教も今、同じようなことを言いだしています。すべてのものを、心の中に落とし込んでいく手法です。」

佐々木氏はおそらくイスラーム世界の宗教状況を全く知らないのだろう。もし誤解する要素があるとすれば、日本での「本来のイスラーム教はこうだ」という議論には、イスラーム教も日本的な「こころ教」と「本来は」同様であると議論するものが多く、欧米でもスピリチュアリズムや政教分離思想を普遍的と考える論者が、イスラーム教でも宗教は人間の内面に限定されるのが本来のあり方であるという誤った説明をしているといった事情がある。正確に言えば、「日本で、あるいは欧米でイスラーム教について説明する議論は『こころ教』的なものが多い」ということになる。佐々木さんの目に触れる日本語(あるいは英語・・・読んでないと思うが)の解説が「こころ教」のようなものとしてイスラーム教を解説してしまう、というのはそれ自体が日本や欧米への「こころ教」の浸透の表れであって、対象となるイスラーム教そのものとは関係がない。

アラブ世界でも、イスラーム世界一般でも、「こころ教」化は進んでいない。ごく一部、トルコの極端な世俗主義者とか、東南アジアでアメリカナイズされたり日本の影響を受けたりしたごく少数のムスリムの間にそのような傾向はあるかもしれないが。圧倒的多数は、人間の外部に神が絶対的な規範を定め、それを人間は護持していく義務があるのだ、と信じている。その意味では、イスラーム教徒の大部分は、ここで「こころ教」と対比されている「原理主義」的な信仰を維持している。「イスラーム国」に参加する人も、参加しない人も、基本は共通している。この基本をなぜ日本の宗教者が認識できないかというと、それはやはり、「こころ教」に影響されて日本の外の現実が見えなくなっているからだろう。「こころ教」化に疑問を呈している佐々木氏にしてからが、安易に「イスラーム教にも同じことが起こっている」と思い込んでいる様子だ。

もちろん、佐々木氏がここで「こころ教」という概念を提起したのは、日本の通俗的で強固な宗教言説を相対化するために非常に有益な発言であったと思う。

宗教学的には、これは宗教の中の「律法主義」的な側面と、「霊性主義(スピリチュアリズム)」的な側面の分岐と対立という問題と言い換えていいと思う。日本の現代の宗教においては、宗教を一人一人の「こころ」の問題であり、「たましい」の問題であるとする思想が強固である。諸宗教を比較すれば、大まかにはこのような信仰は「スピリチュアリズム」の一部と言える。日本の宗教はもっぱらスピリチュアリズムの方面で発展している。新興宗教にそれは顕著であるし、既存仏教にも、そして書籍市場などで商業的に流通させられる通俗宗教論においても同じだ(この三者が別のものということではなく、しばしば重なり相互乗り入れしているが)。

日本の宗教に大きく欠けているのは(それがいいか悪いかは別に)、律法主義的な側面だ。「あなたがどう考えるかどうかとは別に、あなたのこころとか世俗社会の論理などの外に、絶対的な規範を示す存在がいて、規範を示しています」ということ信じ、実践する(それぞれのあり方で)のが律法主義と言えるが、日本ではこれを理解できない人が多い。「それは宗教ではないのではないか?」などと言われてしまう。そして一部の新興宗教が律法主義的な側面を強調すると、社会の大多数は「本来の宗教ではない」と頭から否定するのと同時に、一部の人はそれまで教えてもらえなかった宗教の律法主義的な側面にうっかり触れると、「これこそ真の宗教だ」と啓示を受けたかのような錯覚を抱いて飛びつき、それを認めない社会全体から孤立し敵対的になる。一部の思想家・ジャーナリストなどが「反体制」の旗印にこれを応援したりするので、政治問題化してややこしくなる。

私はどのタイプの宗教が正しくて、他は正しくない、という立場ではない。しかし日本の外には律法主義を根幹とし、「本来」のあり方とする宗教があり、人数から言っても、国際世論の中での支配的な地位から言っても、そちらが圧倒的に優位である。このことを知らない、知ろうとしないことは非常な問題であると思う。日本の宗教意識は、「こころ教」に偏ったガラパゴス的発展を遂げているということをもっと知ったほうがいい。「こころ教」が一概に悪いわけではないが、それが世界標準だと思ってはいけない。

イスラーム教を理解できない、という日本の人たちは、あまりにもこの「こころ教」への無自覚な信仰が強すぎるのだろう。これは無自覚であるだけに厄介だ。キリスト教を固く信じているからイスラーム教を認められない、というような人はまだ、自分がどのような規範体系を信じていて、それに対してイスラーム教の規範体系のどの部分が認められない、ということを議論するきっかけがある。しかし「こころ教」の場合は、世界の大多数の人が信じている律法主義的な宗教を丸ごと「宗教じゃないでしょ」と言って頭から退け、自足してしまうのだ。

「こころ教」に似たものは西欧の神秘主義の中にもあり、特に近代になって個人主義化と世俗化が進んだ後には世俗化したリベラルな知識人を中心に広まっている。その文脈で、Zenや武道を欧米の一部の人が受け入れるきっかけにもなった。しかし米国のプロテスタント的な保守派の強さや、ラテンアメリカやフィリピンなどのカトリック信仰の激しさを見れば分かるように、律法主義的な側面は今でも一神教が広まる世界では主流なのだ。なぜならば、それが教義の「本来」の姿だからだ。キリスト教については、存立の当初から律法主義的な外在的な規範を過度に重視することに批判的であったりするので、曖昧で振れ幅があるが。

イスラーム教の解釈の一部に「こころ教」と若干近いものがあるとすれば、スーフィズム(神秘主義)の系統だろう。それはイスラーム教の「本来」の姿というよりは、イスラーム教徒が形作った「イスラーム文明」の発展の中で許容された余剰の部分である。「本来のイスラーム教に帰れ」と言われたら、イスラーム法的な、つまり律法主義的な側面に戻らざるを得ないのだ。だから「イスラーム国」はアラブ世界では反論されにくいのである。しかし日本では、「こころ教」があまりに影響力が強いので、律法主義的な側面を「本来のイスラーム教ではない」と思い込んでしまって、理解が根底から間違ってしまう。

この問題は、私がイスラーム教についての研究を日本語で一般向けに議論するようになった当初から直面している問題である。当初から、イスラーム教(あるいは宗教一般)にある律法主義的な側面と霊性主義的な側面の判別能力の有無が、日本での無理解や抵抗感の根幹にあると私は考えており、折に触れ指摘してきたが、状況はまるで変わっていない。宗教者や宗教学者ですら気づかないのだから、一般人は気づきようがない。

2003年に刊行した共著『一神教文明からの問いかけ』には、「イスラーム教の律法主義と霊性主義」と題した論考を寄稿している。この文章は、本来なら老大家がやるべき概説を、適任者がいないから私がしてしまっているという事実に気が引けたり、「東大講義」とかいう空疎な釣り文句があったりすることも嫌であまり宣伝してこなかったのだが、内容については今もまったく変える必要はないと考えており、いっそうこの問題設定が重要になってきたと思う。

宮本久雄・大貫隆編『一神教文明からの問いかけ―東大駒場連続講義』講談社、2003年、執筆箇所:池内恵「イスラーム教の現在──宗教の復興か、文明の衰退か」(73頁-94頁)、池内恵「イスラーム教の律法主義と霊性主義──真の対話に向けて」(176-197頁)

この本は東大の教養学部のオムニバス形式の講義をまとめたもので、私はゲストで(その頃はアジア経済研究所に勤めていた)二回講義をしに行った。「一神教」とは言っても、9・11事件直後に行われた企画であり、イスラーム教の政治性や軍事との関係についてどう理解するかというテーマこそが最重要のものだったから、私だけ二回講義して章を二つ書かせてもらっている。実際に諸宗教の原典に触れている先生方が編者なので、イスラーム教の教義そのもの、テキストそのものから議論を組み立てた議論に抵抗感が少なかったようだ。「こころ教」に毒された宗教論者・思想家が編者だったら載らなかったでしょう。

『一神教文明からの問いかけ』はとっくの昔に絶版となっており手に入りにくく、私の寄稿した二つの章も別の単行本に収録されていないので、読んだ人は少ないかもしれない。ただ、宗教についての議論を専門的に行う世界の中ではそれなりに反響はあった。

今抱えている多くの仕事を終えて、イスラーム思想の概説・入門書を書けるような段階に来たら、この律法主義と霊性主義の分岐と対比についても再録して改めて論じてみたい。

なお、井筒俊彦は霊性主義の方面を極めて強調したイスラーム思想史叙述を行った。そのことを私は折に触れて指摘し続けている(『井筒俊彦: 言語の根源と哲学の発生 (KAWADE道の手帖)』)。


私は井筒が「偏向」しているとは思わないが、井筒が強調するイスラーム文明史上の思想史の中の霊性主義的側面を、「これこそが真のイスラームだ」と勝手に断定してしまう日本の思想家たちは、まあ端的に無知で無自覚なのである。なぜ知が頭に入ってこないかというと、佐々木氏の言う「こころ教」に支配されていて、そのことに自分自身が気づいていないからだろう。

MERS(中東呼吸器症候群)がなぜ韓国で?

昨日は原稿を書きながら長野新幹線で往復という慌ただしい1日。今日も休日出勤で朝から晩まで一般聴衆や学生さんの相手します。

というわけで要点だけ。韓国で2次・3次感染が出て大問題になっているMERS(中東呼吸器症候群)について。

結論から言うと、今回は「中東」の問題というよりも韓国の保健衛生体制がなぜ感染拡大を止められなかったか、そもそもなぜ韓国人が多く中東にいるのかといった点に私としては関心が向く。中東で感染爆発が起こっているとは言えないからだ。もちろん、感染源が日本にとっては近くに来たというのは危険ではあるし、世界全体から見ても、感染源の広がりは深刻な危険をもたらす。しかしウイルスの変異によるヒト−ヒト感染力の強まりといった病原体そのものの変化はまだ確認されていない。

MERSについては昨年の流行の時期に短く記していた。

「MERS(中東呼吸器症候群)はラクダでうつるらしい(2014年2月25日)」

「メッカ巡礼とパンデミックの関係(2014年3月1日)」

2012年以来、春から初夏にかけて毎年感染者が出ている。中東では今年が特に多いわけではない。しかし今回は韓国人の帰国者を感染源に院内感染で2次・3次感染が進んだ。ここで封じ込めに失敗すれば中東の外に新たな感染源を作ることになるため、強く関心を寄せていく必要はある。

韓国での感染の事例は、中東以外の国ではイギリスとフランスに次ぐもので、東アジアでは初めてである。しかも中東の外では最大規模の2次・3次感染が生じたことが憂慮される。

ただし、病原体としてのMERSが変異して感染力が強まったといった事実はまだ確認されていない。もしそのような事実があれば次の段階に入ったことになる。そうでなければ、MERSそのものや中東の問題というよりは、一人の中東訪問帰国者の感染者から2次・3次と感染を拡大させることを許した韓国の医療・保健衛生の制度や患者や医師の行動の問題として、日本での今後の対応に生かすためにも注視する必要があるだろう。

MERSは感染症としては一般に次のような特徴を持つ。私が短時間で資料に目を通した限りでは、昨年までと変わっていない。

(1)大部分の感染者はサウジアラビア人である。それ以外の国の感染者も大部分がサウジアラビア渡航・滞在の際に感染したとみられる。
(2)治療薬やワクチンがなく、発症者の3割から4割が死亡するという致死率の高さが特徴。ただし、感染に気づいていないか、病院で診療を受けない事例が多くありそうなことを考えれば、感染者の致死率はもっと低くなる。
(3)コウモリからヒトコブラクダを通じてヒトに感染するルートが知られている。
(4)ヒトからヒトへの感染は起こりにくく、大部分が院内感染か家庭内での感染である。

未解明の部分が多いようだが、中東のヒトコブラクダの多くがMERSウイルスに感染して抗体を持っており、ウイルスがヒトコブラクダと濃密に接触するヒトに感染するようになり、さらに、感染力は弱いもののヒトからヒトへ感染するようになった模様だ。病気のラクダを治療して感染したと見られる事例が知られる。

以上は私が知る限りの事項のまとめですので、感染の広がりの詳細や、潜伏期間や感染力・経路、治療法などの正確なところは、下記のような公的機関のホームページを参照してください。
国立感染症研究所(基礎情報)http://www.nih.go.jp/niid/ja/diseases/alphabet/mers/2186-idsc/5703-mers-riskassessment-20150604.html
厚生労働省(Q&A)http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/mers_qa.html
厚生労働省(アップデート)http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/mers.html

日本で関心を集めるのは、単に感染症が恐ろしいというだけでなく、「中東の病気がなぜ韓国で?」という疑問が湧き、「韓国で流行すれば日本にもくるのではないか」と恐れるからだろう。

しかしウイルスの大きな変異がなく感染力が低いままであれば、韓国で感染者が出ていても、それが日本に及ぶルートはかなり絞られてくる。(1)日本人が韓国に行って韓国の病院で院内感染する、(2) 韓国人の感染者が発症前あるいは発症後に日本に渡航して日本の病院で院内感染を広める、といった想定される経路はかなり特殊で、可能性はそれほど高くなく、対策 の用意さえしておけば、パニックになる必要はないのではないかと思う。

「なぜ」の方は、中東に出入りしていると感覚的にわかる。要するに韓国企業の中東進出が著しいのである。企業が進出するだけでなく、「人が多く行っている」ことが、日本と比べた時の特徴だ。おそらく日本と比べると一桁は多い数の韓国人ビジネスマンが中東を出入りしている。

例えば、ドバイで世界一高いビルが建ちましたね。ブルジュ・ハリーファ(ハリーファ・タワー)。

Burj Khalifa

あれの建設を請け負ったのもサムスン建設でした。サムスンが全体を請け負って、人も多く出しつつ、各国・各社の技術や労働者を集めてきて、現地の財閥ゼネコンと組んで建設した。

日本企業は韓国が親請けした大規模プロジェクトに、「納入業者」として入る場合が増えてきている。発電所ならタービンとか、都市交通システムなら列車車両とか。高度な技術やノウハウを必要とする中核的な部分を担っているので、必ずしも「下請け」という雰囲気ではないが、プロジェクト全体やインフラを全面的に担ってリスクを負い利益を得ているわけではない。

それは端的に言うと、日本は中東に大規模に人を送り込むことはできない国なのである。環境が過酷で社会文化的なギャップが大きく政治的な不安定性や不透明性がある中東で、現地の人たちや各国からの労働者達と揉まれてやっていけます、やっていく気があります、という日本人を大人数集めることは難しい。そういう人材が育成されにくいという制度の問題と、そもそもそんなことをやろうという人が少ないという主体の意志の問題は、鶏と卵のような話であって、どっちが原因でどっちが結果かはわからないが、とにかく中東で大きなプロジェクトをやろうとしても現地に行って事業を完遂してくれる人材を集めることが難しいことは確かだ。

ごく一部、日揮のように、かなりの人員を集めて現地に送り込んで巨大プラントを何年もかけて作って引き渡して帰ってきてまたよそに出かけていく、ということを大規模にやり続けていける企業があるが、それは例外。そういう企業には、日本社会の中では珍しい、外向けアニマル・スピリッツが強い人たちが集まってきます。

韓国の場合は、よほどの学歴か、コネでもない限りは就職が難しいので、それぞれが必死にアラビア語とかロシア語とかスペイン語とかできて現地でガツガツやってくる能力を身につけて就職する。現地に何年でも行って来いと言われることを当然と考える人たちがいっぱいいるのでサムスンなどはどんどん受注できるんですね。

このことは、2000年前後に、中東で日本人留学生や駐在員たちのコミュニティを避けて人知れず庶民街で勉強していた時以来、感じているものです。

中東で中の下ぐらいの階層のエリアに行くと、日本人がいない代わりに、とにかくいっぱい韓国人留学生がいたものである。欧米人や日本人が中東で苦労する、慣習やインフラ不備による不快感やギャップをそれほど感じていない様子で、野心的に、実践的に勉強していた。日本の場合はアラビア語ができたって一流企業に就職できなかったから、学者になりたいというような人しか中東に勉強に来なかった。韓国の場合は、語学を身につけて就職→過酷な現場で通訳から叩き上げて中堅社員に、といったキャリアを想定する人たちが大勢来ていた。

かつてはイランのIJPCのように、日本企業が総力を挙げて中東に大規模に人を送り込んで大規模プロジェクト全体を主導するという時代があったが、そのような時代はもう過ぎたということなのですね。韓国だって世代が変わるとどうなるかわからないが。

日本企業では「たとえ経営陣が大規模プロジェクトを受注してきても、組合が許してくれない」などという話も聞く。また、大規模なプロジェクトを請け負って事業を完遂させるまでのリスクを負えなくなっているのではないか。そこで、利幅は限られているがリスクは低く、人員も限定される納入業者の立場に甘んじるしかなくなっている。もちろん、それは産業の高度化とも言えるし、高度技術にシフトして、投資収入やライセンス収入に依存するようになるという、先進国が進まざるを得ない方向に進んでいるとも言えるのだが、人的資源の「空洞化」の側面があることは否めない。

韓国の場合、感染者との接触者がそれを隠して中国に入国したりしているのを見ても、中東に来ていたバイタリティのある人たちを思い出して、さもありなんという気がしてくる。

ちなみに中国人は韓国よりさらに一桁多い数が中東に行っている。それではなぜMERSウイルスの感染・発症例が出ていないのか?という疑問がありうる。

さあ、なぜだかわかりません。偶然まだ感染者が出ていないのかもしれない。感染者が出ていても隠しているという可能性がないではないし、気づかれずに亡くなっていたり治っていたりするという可能性がないわけではない。

ただ、現地情勢を見ている限りでは、中国と韓国では企業の中東での進出の仕方が違うので、現地社会との接触のあり方が違うのではないかとは推測できる。中国企業は確かに膨大な数の中国人労働者を連れてくるが、空港に降りるとそのままバスに乗せて砂漠の中の現場に連れて行ってしまう。だから現地社会との接触があまりなく、そのため感染が起きていないのではないかとも考えられる。

英語でかなりわかりやすいまとめが出ていたので幾つか紹介。

What You Need to Know About MERS, The New York Times, June 4, 2015.

感染症としてのMERSの特性を簡潔にまとめた上で、巡礼などサウジ特有の社会文化との関連性も主要な論点を網羅している。

As MERS Virus Spreads, Key Questions and Answers, National Geographic, June 4, 2015.

主に医学的・疾病対策的な側面からの詳しいルポ。読み易いが読み応えがある。今後の対策として、人間ではなくラクダにワクチンを打つ方法なども紹介されている。

「反知性主義」を読むならこの二冊

前項からの続き

「反知性主義」が現代社会の重要で興味深い現象であることは確かだ。

それについて読むならこの二冊だろう。

まず、「反知性主義」に対する最近の関心の高まり・深まりを代表するのが、森本あんり『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)

基本的には「近年の学問的話題」としての「反知性主義論」の成果はこれだけ。あとは全部便乗本です。最近便乗本を出す速度だけは早くなってきているので、いい本が出ていいテーマが提起されたな、と思う間もなくあっという間に便乗本が溢れて、そういうのは大人数で書いているからそれぞれが大声で宣伝して、実際に学術的な知見を提示している人の声がかき消されてしまう。

この本についての最もいい紹介は「週刊新潮」の匿名記者の短評紹介だったな・・・自社本宣伝とはいえ、いい線をついていた。アメリカの反知性主義とはそれ自体がある種の知性的立場でもあり、近代的の(特にアメリカ的な)な専門家支配とか世俗主義などを疑う、社会の底流から湧き上がる思想でもある。ある意味「週刊新潮は、本来の意味での反知性主義をめざす雑誌です」と静かに宣言しているような短評だった。匿名記者さんがんばってください。といっても私は年に2回ぐらいしか読みませんが。偶然手に取ったらこの本の書評が載っていたので私の中での『週刊新潮』への評価が若干上がった。

『週刊新潮』の短評が最もよく捉えていたように、「反知性主義=バカ」なんて話ではない。この本を書いている著者はまさに神学者だ。サブタイトルとか帯は出版社がつけるのでよくある日本の「反知性主義批判本」におもねっているが、中身はもっとずっと深いし、神学者という著者の立場からの主体的な問いかけであることが明瞭だ。反知性主義とその批判という思想問題は、「俺はかしこい、あいつらバカ」と言い合っている次元の話じゃないんだよ。しつこいけど、何度も言わないとわからん人がいるので。

そしてもう一冊、「反知性主義」を議論するなら、ブームになる前に読んでいなければいけなくて、まだ読んでないんだったらこっそり読んで以前から読んでいたふりしないといけない本はこれでしょ。あえて指摘するまでもないと思って指摘しないでいると、乱造本だけ読んで議論する人たちが出てくるから、そういう面においてこそ「反知性主義」は極まっているなと思うよ。

リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(みすず書房)