【書評】開沼博『はじめての福島学』を来週の『週刊エコノミスト』で

この記事についてFacebookで書いたら結構流通しているようだ

「容赦なき師弟対談——上野千鶴子×開沼博 上野千鶴子「『はじめての福島学』ってタイトルからしてひっかかるのよね」」

有料媒体の無料記事なので、炎上商法に協力して無防備な議論をしているのかと疑ってしまうが、ある意味で興味深いのでシェアしておいた。

この記事が目に入ったのは、来週号の『週刊エコノミスト』で取り上げられた本を書評しているから。


開沼博『はじめての福島学』(イースト・プレス)

イスラーム教をなぜ理解できないか(3)「ルター・バイアス」が曇らす宗教改革への道

連続講座のようになってきた。今回が第3回となるのか。

まず、日本では宗教を「こころ」の問題と捉えることで、イスラーム教の律法主義的な原則が捉えにくくなる

それに対して、欧米のリベラル派は、リベラルな価値観が普遍的だと信じるあまり、「本当のイスラーム教はリベラルで、リベラルではないイスラーム教徒は何か間違っている、物質的原因によって強制されているのか、教育が足りない」と思ってしまう。さらには「イスラーム教がリベラルではないと分析する観察者はオリエンタリズムだ、イスラーモフォビアだ」と断定してしまって、現実に目を向けなくなる。

日本と欧米である種の論者がそれぞれ囚われているバイアスが、イスラーム教を見えにくくしている。

欧米では、自らの宗教改革の歴史を普遍的なものと捉え、世界に適用してしまうことで、イスラーム教徒が抱えている思想的課題が見えにくくなるという、もう一つ別のバイアスもある。

これについて指摘したのが、この論考。

Mehdi Hasan, “Why Islam doesn’t need a reformation,” The Guardian, 17 May 2015.

欧米では、「イスラーム国」の蛮行がイスラーム教の教義に基づいているという認識が出てきて、そこで「宗教改革をやれ」と問題化されるようになった。しかし、その際にイスラーム教でどのような宗教改革が必要なのかを理解せず、欧米の歴史をそのまま援用して論じてしまう。そこから、イスラーム世界にルターのような人物が出てきて、原典に立ち返り、教会権力と聖職者たちから解釈権を奪って宗教解釈を民主化すれば、テロも人権抑圧もなくなる、と安易に前提にしてしまう、というのがざっくりとまとめるとメフディ・ハサンがここで議論している内容だ。

イスラーム教のスンナ派では元々が聖職者によるヒエラルヒーや教会権威はない。ヨーロッパのプロテスタントが行った「純化」はすでにイスラーム教においては行われた。サウジアラビアはまさにそこから生まれた。

The truth is that Islam has already had its own reformation of sorts, in the sense of a stripping of cultural accretions and a process of supposed “purification”. And it didn’t produce a tolerant, pluralistic, multifaith utopia, a Scandinavia-on-the-Euphrates. Instead, it produced … the kingdom of Saudi Arabia.

異なる宗教には異なる歴史的経緯があり、教義の体系があるのだから、どこの宗教にも「ルター」が出てくるわけではないし、「ルター」が出て来れば宗教改革になるわけではない。むしろ、イスラーム世界にルターが現れるとすれば、それはまさに「イスラーム国」のバグダーディーのような言動をとるだろう、とも言うのである。

With apologies to Luther, if anyone wants to do the same to the religion of Islam today, it is Isis leader Abu Bakr al-Baghdadi, who claims to rape and pillage in the name of a “purer form” of Islam – and who isn’t, incidentally, a fan of the Jews either. Those who cry so simplistically, and not a little inanely, for an Islamic reformation, should be careful what they wish for.

ところが欧米では、イスラーム教徒を出自とする論者がルター風な宗教権威批判をすると、それこそが未来のイスラーム教解釈だと思い込んでもてはやされてしまい、現実を見失う、というのがこのコラムでの批判である。

これもまた頷けるところが多い議論だ。

昨日紹介したシャーディー・ハミードの論考でもこの点は触れられている。

The Muslim world, by comparison, has already experienced a weakening of the clerics, who, in being co-opted by newly independent states, fell into disrepute.

宗教権威が弱くなったことで、イスラーム主義者が台頭し、「イスラーム国」のような種類のものも現れてくる。

また、イスラーム世界に「ルター」に相当する人物を探すなら、それはサウジアラビアの厳格な宗教解釈を形作ったイブン・アブドルワッハーブだろう、と言う。

Some might argue that if anyone deserves the title of a Muslim Luther, it is Ibn Abdul Wahhab who, in the eyes of his critics, combined Luther’s puritanism with the German monk’s antipathy towards the Jews.

ルター的な宗教改革は現在のイスラーム世界で求められてもいないし、必要でもない。

もちろんある種の宗教改革は必要であるという。ムスリムは自らの伝統遺産の中から多元主義と寛容と相互尊重の理念を見出してこなければならない。

Don’t get me wrong. Reforms are of course needed across the crisis-ridden Muslim-majority world: political, socio-economic and, yes, religious too. Muslims need to rediscover their own heritage of pluralism, tolerance and mutual respect – embodied in, say, the Prophet’s letter to the monks of St Catherine’s monastery, or the “convivencia” (or co-existence) of medieval Muslim Spain.

不要なのは、非ムスリムあるいは離教ムスリムによる、非歴史的で反歴史的な改革要求であるという。

What they don’t need are lazy calls for an Islamic reformation from non-Muslims and ex-Muslims, the repetition of which merely illustrates how shallow and simplistic, how ahistorical and even anti-historical, some of the west’s leading commentators are on this issue.

私自身も『イスラーム国の衝撃』の中で、「宗教改革を必要とする時期にきているのではないか」という旨を簡潔に記しておいた。イスラーム教の固有の発展を踏まえた、現段階で必要な宗教改革とはどういうものなのか。私自身も議論を進めてみたいと思う。