【寄稿】『公研』12月号で待鳥聡史さんと対談・日本政治を語る

『公研』の12月号に対談が収録されています。

『公研』は会員企業と関係官庁にのみ配布される媒体なので、フォロワー・友達が1万2000人以上に増えてしまった私のフェイスブックのウォールでの告知は控えています。もし「ください」という一般読者から連絡が殺到したら、『公研』の小さな編集部が崩壊してしまいますから。

黙っているつもりだったのですが、目ざとい編集者などが見つけて「面白い」といってくるので、私自身も備忘録としてここに載せておきます。確かに面白い。勉強にもなるが、とにかく面白い。しかしこの面白さは、SNSとかでみだりに拡散するようなものではないと思うんですね。拡散させれば、より多くの人に届くだろうけれども、同時に余計なことを言ってくる人の邪魔が入って本来伝わるべきことが伝わらなくなる。ここは、『公研』の元来意図された範囲の読者に着実に届けることを優先させ、その後間接的に広がって、最大限の効果が上がるのを待つ方がいいのではないか、と思っています。

なお、『公研』は決して怪しい媒体ではありません。会員となっている老舗大企業とか公営企業とかあるいは関連するお役所の部署、そしてなぜか知らないがどこかから手に入れてくる編集者などの間では『公研』はかなり有力な媒体として結構熱心に読まれている。会員向けならではの、大向こう受けを狙わない着実な編集で、商業媒体では維持できない水準を維持している。一般の媒体では「読者に難しすぎるからちょっと・・・」と言われてしまう内容を普通に話して載せてくれます。その方が実際には読者に優しいと思うんですけどね。

待鳥聡史・池内恵「政治の『再生産ストーリー』を超えて」『公研』2015年12月号(No. 628)、公益産業研究調査会、36−53頁

あと、オマケなんですが、メインの日本政治に関する対談の後に急遽、編集部からの依頼で、「イスラーム国」とそれに触発されたグローバル・テロリズムについて、待鳥さんが聞き役で私が答えるような形の対談が行われ、それも収録されました。

待鳥聡史・池内恵「『イスラーム国』は空爆できる対象なのか?」『公研』2015年12月号(No. 628)、公益産業研究調査会、54−59頁

表紙はこんな感じ。

『公研』2015年12月号表紙

対談の内容は、今の日本政治について、特に議会政治とメディアについて、安保法制の前後の騒擾も踏まえて、理論的・歴史的に捉えてみる、その中でざっくばらんに率直に現在の政治状況とメディアに対して批評・批判の言も連ねた、といった具合なのだと思う。私のつたないまとめでは。

このまとめでは伝わらない面白さについては対談を手にとって読んでみられれば分かると思うが、上に書いたように一般にはほとんど流通していない。また、もし広く一般に流通させたらこのような議論を行う場は失われてしまうだろう。

ただ、『公研』を無理して入手することそのものにはあまり意味がない。『公研』が目につく範囲の場所に落ちていない人はむしろ、対談での議論の前提になっているこの本を読んでみるといいと思う。


待鳥聡史『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』講談社選書メチエ、2009年

意外にも少し昔の本ですね。もちろんこの対談は直接にはこの本に関するものではなく、対談の中でも言及されていません。

しかし私自身は今、出来上がってきた『公研』の対談を読みながら、この本を読み返して、いろいろ腑に落ちています。

対談は冒頭に私が問いかける形で始まっています。ご指名なので喜んで出向いたのですが、日本政治や政治学の理論的な話に入ってしまえば私はもう頷いているしかないですし、余計なことを言う意味はないので、最初に、私の個人的なエピソードから始めました。90年代前半の学生時代に、通学しながらアメリカのラジオ番組を聞いていて、majority rule, minority rights というフレーズに触れた話です。以前にフェイスブックで書いてかなりシェアされ『週刊エコノミスト』の読書日記でも要点を記したことがあります

私は民主的な政治を安定的に運営している地域を研究していないので、「政治学」といっても、本場のアメリカや日本を研究している待鳥先生とは見ているものもそこから導き出す学説も天と地の差があります。自然と、日本政治の現状を対象にした今回の対談に専門的見地から取り立てて言うべきことが見つからず、苦し紛れの個人エピソードから入ったのですが、これにも待鳥先生はさらっと反応して容易に理論的・概念的な整理を行い、アメリカ政治と日本政治に共通する民主的政治制度とその運用に関わる問題へと、話を持っていってくださいました。さすが学者さんです。素人が思いつくようなことについては全て、すでに理路整然と本に書いてありました。

本来であれば、この対談は、待鳥さんが今年刊行した2冊の本、特に最近出たばかりのこの本をきっかけとして企画されたものと思われます。


待鳥聡史『代議制民主主義−「民意」と「政治家」を問い直す』中公新書、2015年

一般向けの新書として書かれたこの本は、用いられる概念の広がり・深みを探るのに不可欠な次の本と併せて、今年の政治学を代表するとして記憶・記録されるのでしょう。


待鳥聡史『政党システムと政党組織(シリーズ日本の政治6)』東京大学出版会、2015年

その前の著作で、サントリー学芸賞も受賞した名著の『首相政治の制度分析』については、『週刊エコノミスト』の読書日記で取り上げたことがあるので、もしかしたらそのご縁もあっての企画かもしれません。


待鳥聡史『首相政治の制度分析- 現代日本政治の権力基盤形成』千倉書房、2012年

ですので、本来ならば最新刊の中公新書の『代議制民主主義』の話題をとっかかりに、私が司会のように待鳥先生の議論を引き出す導入を話さなければいけないのですが、しかしこの対談は中公新書の刊行直後に行われており、私がジャカルタに行って帰ってきた直後だったので、中公新書の方はまだ手にしておらず、東大出版の方の学説・分析概念の話に入るのも唐突ですし、『首相政治』の方は議会政治を基礎にした執政府の話なので、最終的にはこの対談の想定する話題に密接に関係しているとはいえ、選挙制度改革と対になった行政改革や官邸主導の執政制度改革の結果としての安倍政権についていきなり話を立ち上げるのは私には荷が重く、苦し紛れに漠然と「民主主義」についての私の思い出話から入ってしまったのですが、それが結果的に、待鳥さんのさらに以前の著作『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治』の内容にぴったりはまる話題で、しかも今回のテーマである日本政治を論じる際の枠として役立つということで、結果オーライということになりました。「なりました」って言ったって待鳥さんがそのようにもっていってくれたからそうなったんであって、普通なら対談のテーマに直接関係ないだろうと途方に暮れているところです。全て分かっている学者さんというのは自由自在なものです。

自分が聞き役になって対談をして改めて『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治』の深い意味が分かった、と言いますか、この本を踏まえて現代日本政治に適用する講義、いや家庭教師レクチャーを受けた感じですね。贅沢な。それも自分の聞き取ったおぼろげなノートではなく、編集部が講義録を作ってくれたので読み返して勉強になります。対談の場で出た比喩とか政治家の評とか、さすがにヤバそうなところは削除してありますが。媒体の性質もあり慎重になっております。でも媒体の性質もあり、下手すると言いがかりつけられて炎上しかねないところも、論者の意向を尊重して残してくれています。普通は事なかれ主義で全部削除なんですが、そこのところ対談の趣旨も汲んでくれています。

・・・・対談を読まないと(読んでも)何言っているか分からないような話になってきたので、そしてこのブログの趣旨は対談を読んでもらうことではなく、本来読むべき、手に入る本、対談を読みたいと思ったらその前に読んでほしい本を紹介するということなので改めてもう一度、この本を紹介しますよ。これを読んだ上でどうしても対談を読みたいと思ったら、その時は多分なんとかして手に入るでしょう(どうやって)。


待鳥聡史『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』講談社選書メチエ、2009年

えーと、アマゾンではKindleで電子書籍になっているんですね。紙の方が絶版になったかどうか知りませんが、アマゾンの上では中古が今のところはほどほどの値段で出ている。これはなくなると高くなりそうです。

この本は教科書としてもいいので、Kindleだけではなく紙のものがほしいですね。一般教養の政治学の教科書にして、学生が一学期かけてこの本を理解したら、すごい公民教育になると思うんですけどね。大部分の学生にとっては政治学の入門書は「学説史」である必要はない。政治学の学者になるわけではないから。この本は学説を踏まえてある種の学説を提示してもいる本なのだけれども、それが民主主義の国に生きていく際に必要な「政治の仕組み」についての入門書になっている。

出たばかりの中公新書『代議制民主主義』については他の人が書くでしょうから、私としてはこちらの本を紹介しておきます。

アメリカの80年代以降の政党政治の展開で明らかになってきた、「代表」の論理と「統治」の論理の相克と調和(の試み)というものは、民主主義の政体の少なくともあるタイプの制度においては必然的に内在するものでしょう。私が個人的に印象深く感じたクリントン政権期は、特に1994年の中間選挙で共和党が多数党となってからの米議会は、「代表」と「統治」の二つの論理がぶつかりながらそれぞれを明確にしていく場だったとこの本を読んだ今となっては考えられます。

私がボー然と聞いていた、1994年中間選挙で勝利した共和党右派に大人気だったラジオ・パーソナリティーのラッシュ・リンボーの雄叫びはまさに、待鳥さんの言う「代表」の論理を振りかざすものだった。しかし共和党も実際に多数党化すると議会では必ずしもイデオロギーを振りかざすだけではいられなくなった。与党となることで「統治」の論理に従わざるを得なくなる場面に直面するからだ。共和党に多数を取られ、議会と共に、しばしば議会主導で、行政府の長として「統治」の論理を全うしなければならなくなったクリントンはまさに、「majority rule, minority rights」の原則にあらゆるところで立ち戻って考えざるを得なかったに違いありません。私が拙いヒアリング能力で聞き取ったフレーズとそれが発せられた場面は、クリントン政権期に幾度となく繰り返されてきたものだったのでしょう。

そして90年代のアメリカ政治に明確になった民主制における「代表」と「統治」の相克と調和の課題は、まさに日本で今、本来なら問題として注目されなければならないものである。1990年代の選挙制度改革や執政制度改革(それらが十分なものではないことはこの本にも、また『首相政治』にも記されているが)を経た日本は、米国と同じではないが、共通する制度的前提を持ち始めている。そのことも2009年のこの本の最終章で簡潔に書かれている。

小選挙区制や、そこから生じる公認権や党議拘束の強化による「政党」の重要性の上昇は、日本が自民党一党支配の下で金権・汚職にまみれながら談合し、理念なき派閥政治で権力闘争を繰り返してきた過去から決別するために導入された民主制の道具立てだった。それを使って民主党への政権交代もなされたはずだ。

ところが制度が変わったのに、当事者の政治家・政党人や、それを意味づけて報じるメディアの認識が追いついておらず、新制度の目的に沿った行動・競争を行わず、旧制度・旧時代の環境の下での「主流派・非主流派」の役割が今でも有効であるかのように振る舞う。それが現実とずれた政治のストーリーの再生産につながり、そのストーリーをなぞる非生産的な行動につながる。「シールズ」を持て囃す野党とメディアなども、そのような構造の中で現れる末端の、絶望的な現象なのです。

「そういう若い人たちの一生懸命さや可能性の『生き血』を吸うようなことをなぜするのかなと私は思うんですよ。本当にそれでいいのか」(48頁)という、待鳥さんの、ふだんの端正な著作では表面上見せることのない「叫び」を読めると言う意味で『公研』の読者は特権を享受しています。

・・・考えてみれば、『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』が講談社選書メチエという形で出たきっかけは、私が『現代アラブの社会思想』の編集者を待鳥先生に紹介して、その後その編集者が現代新書から選書メチエに移ったため、ちょうど適切な媒体となったという経緯があったような気がする。いずれにせよ出る本なので私が紹介したことにあまり意味はないが、しかし専門家向けの学術書だけ書いていても本が出続け、評価され続ける著者は、一般向け媒体にはあえて出るきっかけがないので、紹介しないとこのような一般向け、大学教養課程でも学べるような形では出なかった可能性はないではない。

編集者と引き合わせた時に、別に私は本の内容に口を出す必要もないし能力もないのだが、まあ何も言わないのもなんだから、「要するに『アメリカの民主主義』みたいなタイトルで」と私が言ったところ、待鳥先生は苦笑して「いや、いくらなんでも、アメリカ政治研究者としては、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』と同じタイトルでは書けませんよ」とおっしゃっていたのを思い出すが、そりゃそうだね。素人って怖い。しかし結果的に「アメリカの民主主義とは『代表』と『統治』という時に相反する論理の対立と調和だ」という、制度論を一般向けに最大限分かりやすく噛み砕いた本を何年かたって届けてくれたので、素人の無茶振りにも意味はあるのかもしれない。

【発表】『PHPグローバル・リスク分析』2016年版

『2016年版 PHPグローバル・リスク分析』が、本日午後、発表されました。

PHPグローバル・リスク分析2016年版

私も末席で参加させていただき、普段あまり顔をあわせる機会がない様々な業界の皆様の、談論風発に大いに触発され、ほんのわずかですが貢献もいたしました。

「グローバル・リスク分析」プロジェクトは2012年から始まって今回が5回目。私は2013年版から参加させてもらっています。

今年はこれまでと少し趣向を変え、10のリスクについて、箇条書きスタイルで一枚にまとめ、単刀直入な見やすさを重視しています。オーバービューを地図に埋め込んだり、各専門家が一致できる10のリスク以外にも「ブラックスワン」の出現の兆候となるノイズあるいはシグナルに耳を澄ますための「Buzzwords」といった新コーナーを設置。これまでは各リスク項目について、それをリスクとみなす文脈やインプリケーションをかなり詳細に書き込んできたのですが、読む側も書く側もマンネリ化してくるといけないので、ここらで新機軸です。

PHP総合研究所のウェブサイトから、10の項目だけここに書き写しておきます。【全文はここをクリックするとPDFでダウンロードできます

年明けには、イアン・ブレマー氏のやっているユーラシア・グループの「世界の10大リスク」も発表されることでしょう。対照させてみてください。

また、こういった定時観測は、過去のものから順に読んでいくと面白いです。PHP総研のウェブサイトで2012年版から全て見られます。昨年のものについてこちらから

◆グローバル・リスク2016
リスク1. 中国経済悪化と国際商品市況低迷に挟撃されるアジア中進諸国
リスク2. 止まらない中国の海洋進出が招く緊張の増大と拡大
リスク3. 深まる中国依存と主体思想の狭間で揺れ動く北朝鮮
リスク4. テロと移民問題がもたらすEUの亀裂と反統合の動き
リスク5. グローバル化するISILおよびその模倣テロ
リスク6. 加速するサウジアラビアの国内不安定化と原油市場の混乱
リスク7. 地域覇権をめざし有志連合内で「問題児化」するトルコ
リスク8. 選挙イヤーが宙づりにする米国の対外指導力
リスク9. 金融主導グローバル化の終焉で幕が開く、大企業たたきと「P2P 金融」時代
リスク10. 加速するM2M/IoTが引き金を引くサイバー脅威の現実化

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記は『小泉今日子書評集』

本日発売の『週刊エコノミスト』の読書欄、5回に一度回ってくる連載読書日記では、小泉今日子さんが出版した書評集を取り上げています。

池内恵「新聞書評の制度が生んだ小泉今日子という書き手」『週刊エコノミスト』2015年12月22日号(12月14日発売)、77頁

取り上げたのはこの本です。


『小泉今日子書評集』

詳しくは『週刊エコノミスト』を買って読んでいただきたいのですが(いつもどおり、電子版には収録されていません)、今回はこの本を手に取ったきっかけについて多くを記しています。


『エコノミスト』2015年12/22号

読売新聞の(他の新聞もそうですが)日曜日には、ページを何度もめくっていった真ん中の方のページに書評欄があります。ここで取り上げる本を選び、書評を書く「読書委員」を、小泉さんが2005年から10年ほど務めて、そこで書いた書評を集めたのがこの本なのです。実は私も2004年から2年間、読書委員を務めたので、小泉さんが読書委員になって書評を始めた最初の一年間、ご一緒しました。

その頃から読売新聞の文化部は、読書欄、中でも読書委員制度にかなり力を入れていて、小泉さんのような異例の書き手を発掘したり、読書委員の会議を充実させて、終わった後も懇談会・二次会・三次会までやっていました。そんなところにも当時の小泉さんは律儀に顔を出してくれました。私は遠まきにしてみていましたが、喜色満面で隣の席をゲットして関西弁で喋りまくる某著名教育社会学者などの話相手も、小泉さんは自然にこなしておられました。その頃は少し時間に余裕がある時代だったのかな・・・

その後いろいろな活動で繰り返し話題になりましたが、やはり「あまちゃん」で私でも見るような当たり役を演じたのは長く記憶に残ることでしょう。

私の方は、読書委員の通常の二年の任期の二年目で、やっと慣れた頃でしたが、まだ30歳そこそこで研究者として書評をやるには非常に若かったので、毎回緊張して会議に臨んでいました。二年間で大量に書いた書評は、他の読書エッセーと一緒に、2006年には『書物の運命』(文藝春秋)として刊行しました。この本で翌年に第5回毎日書評賞までいただいてしまいました。機会を与えてくれた読売新聞社文化部には感謝の気持ちでいっぱいです。

その当時、小泉さんの書いた書評が載っているのを目にしても、一本単位では、あるいは取り上げられている小説などを読んでみる時間もなかったからか、それほどピンとこなかったのですが、小泉さんが特別に10年間も読書委員を続けて、書いてきた97の書評時系列に並べて読んでみると、一つの時代の世相とその映り行きが、浮かび上がってきて、なんとも言えず良いですね。

やはり、時代を映してきた女優さんの感性は鋭い。文章が上手いとか下手とかいう話ではないのですね。

取り上げられた作品と、それについての小泉さんの反応を読んでいると、振り返って思い出すこともあり、また、新たな発見も多くありました。

そして、読売新聞の文化部が読書欄に力を入れて、読書委員会という制度を最大限使いこなして、小泉さんという書き手を押し出したことの価値がよく分かる本でもあります。メディアは文化を消費するのではなく、作る、のですね。

この本の末尾には、読売文化部の小泉さん担当の記者(村田さん)が、読書委員会の思い出や観察を聞いているインタビューが掲載されていて、これだけでも非常に面白いのですが、回想されるのは主に1年目の、私も読書委員会にいた頃のことが大半です。やはり小泉さんにとっても、読書委員になった最初の一年の印象が鮮烈なのでしょうか。

当時の裏話などが思い出されてきて、個人的にも大いに楽しめました。

軽く読めるこの書評集ですが、時代を映すデータ集としても、色々と示唆的なのではないでしょうか。そんなわけで熟読してみました。

10年間の、時代の写し絵として、「『小泉今日子書評集』を読む」を近くブログ連載しますので、乞うご期待。

無粋なやり方ですが、統計数値を出すように数えてみるとなかなか面白い。例えば、書評でしょっちゅう、小泉さんが「私は泣いた」というところがあるのですが、それでは小泉さんは10年間で何回泣いたのでしょうか?ブログで取り上げると思いますが、皆さんも是非数えてみては。

女性の作家を取り上げていることが多い気がするのですが、取り上げられる本の著者の男女比はどれぐらいか、とか、数えると面白い傾向が見えてきます。何回泣いたか、女性作家の割合はどれだけかなどは、そのうちまたブログで書くとして、あらかじめ記しておくと、男性作家からは、勇気をもらったり爽快な気分になったりしても、泣いてはいないようですね。やはり共感のツボが違うようです。

【掲載】読売新聞12月7日付の論壇時評「回顧2015」で、年初の鼎談が紹介

嬉しいですね。

読売新聞12月7日朝刊の文化面では「回顧2015」と題して、ここ1年の動きをまとめています。

「回顧2015 *論壇 『テロの時代』に揺らぐ欧州」『読売新聞』2015年12月7日

この日は「論壇」が対象になっていて、各種論壇誌に載った記事が改めて紹介され、講評されている。そこで、『中央公論』の4月号に載った鼎談での私の発言が取り上げられています。

以下に言及箇所を引用します。

中東研究の池内恵氏は鼎談「『イスラム国」が映し出した欧州普遍主義の終焉」(『中央公論』4月号)で、欧州世界が域内の「内なるイスラム教徒」に対し「リベラルな多文化主義、普遍主義による統合」を諦め、「外は外で勝手にやってください」と思い始めたと分析。

とのことです。宇野重規さん、三浦瑠麗さんと並んで写真も掲載されている。

論壇の1年間の回顧の中で取り上げられたのはこの鼎談。

池内恵×中山俊宏×細谷雄一「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」『中央公論』2015年4月号(3月10日発売)、92−101頁

私はこの鼎談では、今年1月7日のシャルリー・エブド紙事件や「イスラーム国」の挑戦が何を意味するかについて論じ、それは「ヨーロッパの近代の普遍主義の限界を露わにした」からこそ意味が大きいのだと指摘しました。

結果的に、2015年の世界の思潮を規定する要素を、年初の段階で指摘していたことになったと思います。そのことを覚えていてくださって、こうして年末に評価して取り上げてくださったことは、嬉しいですね。文化部の記者の上田さんありがとうございます。

読売の文化部とは10年前にかなり緊密に一緒に仕事をしたことがある。「読書委員」という制度を通じてのものだった。

ちょうど、週明けに出る『週刊エコノミスト』で、この時のことを書いたばかりだった。読売新聞の文化部と小泉今日子さんと、そして私も一時加わった読書委員会について。書評という制度について。そこで文化部の記者が果たす役割について。

月曜日にはブログで改めて通知します。

【掲載】『読売新聞』12月4日付朝刊の「『イスラム国』を分析する」に談話が掲載

昨日の読売新聞朝刊にインタビューが掲載されました。

池内恵(インタビュー構成:国際部 深沢亮爾)「石油が資金源 阻止困難」『読売新聞』2015年12月4日朝刊

解説面(13面)の「論点スペシャル」に掲載された「『イスラム国』を分析する」を共通テーマとした3人のインタビューのうち一人です。今回は国際面が拡張した形で、国際部と各地の特派員が記事を作っています。私以外には、アブドルバーリ・アトワーン(在ロンドンのパレスチナ系アラビア語紙『クドゥス・アル・アラビー』の元編集長、『イスラーム国』やグローバル・ジハードに関する著作多数)、リチャード・バレット(テロ対策企業ソウファーン・グループ副社長)で、なかなかいい取り合わせです。

なお、インタビューで、この問題にはまだ詳しくない記者が構成しているため、私が自分で書くならあえて書かないようなことも書いてあります。12版までは私の校閲が入っておらず、13版からは私が修正して許可したものです。全国の大都市部では13版が行きわたっていると思います。(東北には12版が行ってしまっているという情報もありましたが、本日5日に講演で立ち寄った仙台で、買っておいてもらった紙面を確認したところ、少なくとも仙台中心部では13版であることを確認できました。津野先生ありがとうございます!)

タイトルの「石油が資金源」というのも、最近重点的に空爆の対象とされているが故に、この問題が世界的に関心を集めてそればかり報道されているというところに引っ張られているのではないかと思いますが。しかし今現在の「イスラーム国」をめぐる世の中の関心を記録するという意味では、やはり意味があるのではないかと思います。

【アンケート】もし新版が出たら、買います?『イスラーム世界の論じ方』

【御礼】ブログ・フェイスブックでの皆様の「いいね」の支えもあって、『増補新版 イスラーム世界の論じ方』が、中央公論新社から、2016年5月6日に、値段据え置きの2600円で、発売されることになりました。厚く御礼申し上げます。

新しい表紙はこのようなものになりました。

【ここまで2016年4月30日追記】

本日は、いつもこのブログやフェイスブックを読んでもらっている皆さんに、お聞してみたいことがあります。

この本なんですけど。大幅に論文を加えて、ほとんど1冊分ぐらい加えて新版が出たら、どれぐらいの人数が買ってくれるのでしょうか?装丁も新しくします。

『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年)

この本は、イスラーム教と政治に関する私の主要な論文を集めつつ、2004年から2008年までに書いた短めの論考をテーマごとにまとめて整序して、 2008年の11月に出版され、2009年には第31回サントリー学芸賞(思想・歴史部門)をいただきました。2刷りまで行きましたが、売り切れて品切れ となっています。

初版も2刷りもそれほど多くはなかったので、持っている人は多くはありません。ただ、こういった学芸書にしては読みやすいのとテーマが一部の方の興味を引いたのか、研究者が書いた通常の本に比べると何倍も売れました。それでももちろん、累計1万部もいっていません。今年1月以来、『イスラーム国の衝撃』が多くの読者を得てからも増版されず、売り切れて、アマゾンでも9000円といった高値がついています。(今気づきましたが、アマゾンの「買取サービス」では、現時点で3149円となっており、定価の2600円より高い値段で買い取ってくれるところもあるようです。なお、この形のままで増版されることはありませんので、お持ちの方はそのまま持っておかれることをお勧めします)

これを増刷しないのかと出版社とやりとりしていますが、中央公論新社というところは実に固い会社で、石橋を叩いても渡るのを躊躇します。そのような固い会社だからこそ私も大切な原稿をお預けしてきたという事情があります。別にたくさん売りたいわけではなく、本当に必要とする人の手に、確実に、しっかりしたものを届けたいのです。中央公論新社からは『アラブ政治の今を読む』(2004年)以来の二冊目の論集でもありました。

『イスラーム世界の論じ方』は、時論集と論文集の要素を併せ持っています。時論集の部分を読むことで、なぜ論文集の部分が書かれているかも分かるようになっています。論じられている対象(中東政治・社会)について、日本に十分に・適切に伝わっていない情報の伝達を行いつつ、伝達された情報に基づいた私自身の理論的考察を同じ本で提供しているという、自己完結型の、この時点では日本のメディアで提供される中東情報の制約から、他に適切な方法がないと思って行った、異例の編集がなされたものです。そのような本が出版され、思いがけずもサントリー学芸賞をいただいたこと自体が、ある種の奇跡的な事件と思っております。

現在、この本に収録されている論考・論文は全てそのままにして、さらに、その後に書いた、グローバル・ガバナンスやグローバル・ジハードについての論文や、「イスラーム教と西洋近代」といった問題についての論文を追加して、ほとんど一冊付け加えたぐらいにして、新版を出そうと考えています。

どれぐらいの人が買ってくれるものでしょうか。

値段は、どれだけ部数が出るかによって大きく変わります。といってもベストセラーになる必要など全くないのです。5000部ぐらい行き渡ればそれでいいと思っています。それぐらい売れると分かっていれば、出版社はまともな手の届く値段をつけてくれます。「売れないかもしれない」という不安に怯えた出版社は、とてつもなく高い値段で少部数にしようとしがちです。そうやって本が売れなくなっていくという、悪循環です。

少部数だと各地の本屋にも行き渡らず、あっても一冊ぐらいしかない。それも棚にも差されずに倉庫のダンボール箱の中に放置されたりして、一定期間が過ぎると返本されて戻ってきて、移動の間に傷ついて廃棄処分になったりします。読者にとっては探し出すことすら困難です。

皆さんがもしこの本の新版を買いたいという意思がありましたら、そしてフェイスブック上で「いいね」を押すという意思表示をしてくれましたら、割にまともな値段でお手元に届くかもしれません。私としては何が何でも3000円以内に抑えたいと思っていますし、本当なら2600円という、当初の値段に抑えたいのです。以前に買っていただいた方も、もう一冊新しい本として買っていただいてもいいぐらいの追加部分があります。

もし本が出ることになりましたら、どの書店に行けば売っているかということまで含めて、刊行の状況をフェイスブック上でお伝えして、欲しいけど買えなかったとか、本屋に行ったけど見当たらなくて無駄足を踏んだといったことは極力ないように、配本の仕方、売り方まで工夫しますので。