『イスラーム国の衝撃』が「新書大賞」の第3位に

「2016新書大賞」(中央公論新社後援)で、『イスラーム国の衝撃』
が第3位になっています。

『中央公論』3 月号143頁に『イスラーム国の衝撃』についての主要な選評の抜粋が載っています。135頁に20位までの順位表が。

「目利き28人が選ぶ2015年私のオススメ新書」(150−167頁)、永江朗・荻上チキ(対談)「『ぶれない軸」を持っているかがレーベルの明暗を分けた」(168−177頁)での選評もどうぞ。

『2016新書大賞」は、2015年内に刊行された新書を対象に、書店員、各社新書編集部、新聞記者、その他有識者などを含めた82人がそれぞれ5点を選んで集計したものです(正確には2014年12月から2015年11月発行の新書が対象なようです(『中央公論』3月号135頁)。

このブログで何度も書いているように、私は現在の出版業界の新書乱立、雑誌の特集一本程度の薄い内容で短期間に売る商法を好ましいとも持続可能とも思っておらず、距離を置いていますが、どうしても必要と考えて、狙った時期に投げ込んだ本が読者に受容され、このように評価も受けるのは、大変に嬉しいことです。

今年の新書大賞(第1位)は井上章一『京都ぎらい』(朝日新書)でした。

井上章一さんは、京都の日文研で同僚だったこともある先生ですが、確かに面白い。何度も書いたいつものテーマを二番煎じぐらいにすると、一般向けに売れて評価されるようです。著者インタビュー(138−141頁)で本人も「そんなに力を入れて書いた本ではないので(笑)」(138頁)と仰っています。井上先生が京都ネタを語る時に常に出す、(1)京都の旧家として有名な杉本秀太郎先生(フランス文学者・元日文研教授)に初対面の時に「嵯峨出身」と告げると、「あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と言われたという衝撃の原体験、そして(2)京都府出身のプロレスラー「ブラザー・ヤッシー」の「京都凱旋」に対して会場の客が「お前は宇治やないか」とヤジが飛んだ、という鉄板ネタが、すでに活字でも何度見たか知りませんが、今回も目にすることができます。

【テレビ出演】本日(10月30日)夜10時〜NHKBS1「国際報道2015」で解説

特集の文字起こしへのリンクを追加しました。2016年7月3日】

出演情報です。

本日(10月30日)夜10時から、NHKBS1「国際報道2015」に出演し、特集「『IS化』する中央アジア アジア最深部で広がる脅威」で解説を行います。

国際報道2015ロゴ

NHKの番組ウェブサイトの、特集の概要は下記の通り(太字部分)。今後、分析の内容を詰めていきます。

「IS化」する中央アジア アジア最深部で広がる脅威
シリアやイラクで勢力を維持する過激派組織ISが、じわじわと中央アジアに触手を伸ばし始めている。タジキスタンでは、今年5月に治安部隊の司令官がISに寝返り衝撃が広がった。また、キルギスでは今年7月、首都ビシケク中心部で治安部隊がISを支持する過激派の拠点を急襲。メンバー4人を射殺し7人を拘束した。NHKはこのほど、このビシケクの現場を取材。市民や治安当局の話から、失業などで生活に困窮した若い世代にISの勧誘が相次いでいる実態が明らかになってきた。ISが中央アジアに浸透しようとしている意図は何なのか。周囲のロシアや中国、そして世界にどのような脅威となり得るのか。現地からの報告をもとにスタジオで専門家とともに展望する。
リポート:塚越靖一(国際部記者)
出演:池内恵(東京大学先端科学技術研究センター准教授)

「中央アジア諸国での過激派の台頭」「イスラーム国とのつながり」は、安全保障アナリストの間では、2015年の注視すべき課題の一つとして挙げられていました。各国政府も取り締まりを強めていますが、中央アジアを拠点・発信源とする過激派ネットワークの最大手「ウズベキスタン・イスラーム運動」はすでに「イスラーム国」に忠誠を誓っています。7月にはキルギスで過激派組織の摘発がなされると共に、「イスラーム国」側がキルギスの過激派を扇動するビデオ声明を出す、タジキスタンでは過激派対策の司令官が逆に「イスラーム国」に寝返ると宣言してしまうなど、注目すべき動きがあります。

安倍首相は22日−28日にかけて、モンゴルに加え中央アジア5カ国全てを歴訪するという前例のない積極的な首脳外交を繰り広げておりますが、大陸の深奥部であるこの地域に日本は足場も土地勘も乏しく、メディアの報道もどう扱っていいか測りかねているようです。その中で、NHKは現地取材も行って今回の特集を準備してきた模様です。どのようなVTRを見せてもらえるか楽しみにしています。

なお、日本での安倍中央アジア歴訪への反応は、中国のシルクロード経済圏「一帯一路」構想への対抗策、という面を捉えたものが最も有力と思われます。

遠藤誉「安倍首相中央アジア歴訪と中国の一帯一路」『ニューズウィーク』2015年10月26日

ところで、「中央アジアに過激派台頭の兆し」という話題は、日本では一般にほとんど知られていなかったのですが、安倍中央アジア歴訪だけでなく、安倍歴訪を巡って『中央公論』11月号の佐藤優・山内昌之対談で中央アジアの過激派問題が取り上げられたことが、一部での関心の高まりの原因になっているのではないかと思います。

山内昌之・佐藤優「徹底討論ラディカル・ポリティクス−−いま世界で何が起きているか3 シリア難民が成田に押し寄せる日」『中央公論』2015年11月号、150−159頁

この対談の中で、山内氏は自身のカザフスタン・ウズベキスタン訪問で、現地の政府系研究機関の所長がキルギスからの「イスラーム国」勢力の侵入を危惧していたと話すのに対し、佐藤氏はタジキスタンが「内戦の様相が強まっている」と表現しています。それに応じて山内氏は中央アジア5カ国のうちタジキスタンとキルギスは「破綻国家」で「イスラーム国」の州になりかねない、とかなり大胆な予想まで披露しており、佐藤氏も「その認識が日本では決定的に弱いのです」と応じています。佐藤氏はさらにたたみかけて、山内氏が歴訪したカザフスタンとウズベキスタンの大使館員との会話の様子を聞いて、タジキスタン、キルギスの危険性への認識が甘いと推定し、「当然、さまざまな情報を掴んでいないといけないのですが、やっぱり、大使館員の意識は、そんなに高くないのかもしれませんね」と、お家芸である外務省批判につなげていきます。現地の大使館の人員の規模は極めて小さいでしょうから、接遇などで精一杯で、十分に分析までしていられない可能性は大いにあります。

ただし、ここで取り上げられている情報自体は専門家の間では広く流通しているので、まさか大使館員が知らないということはないでしょう。しかし官邸の上の方の政策判断に現場の認識が十分に生かされていない可能性もありますし、現場そのものが兵站の制約などから、首相歴訪で急激に高まる期待に応じるほど機能できていない可能性もあります。こういった指摘は政治の側で適切に受け止めるべきでしょう。

タジキスタンとキルギスを「内戦」「破綻国家」とまで評していいのかどうかはまだ定かではありませんが、確かにそのような激変を想定外にしていてはいけないでしょう。カザフスタンやトルクメニスタンのようなそれなりに安定した資源国と、タジキスタンやキルギスのような治安に不安があり、(過大視されている可能性もありますが)テロの拠点となりかねない国では、別種の対応策が必要であることも言うまでもありません。

この対談シリーズは、ロシアやイスラエルの政府治安当局の発想が露骨に出すぎている部分も多くあり、イラン分析などは一方的なこともあるのですが、中央アジアについては実際にロシアやイスラエルの分析以外に情報が少ないことからも、そのまま事実として受け止めるかどうかは別として、貴重な知見の一端を伝えています。10月26日付の読売新聞の論壇時評にも取り上げられていたようですし、やはり影響力は大きいな、と思います。

関係があるかどうかわかりませんが、結局私などもこうして解説で駆り出されているわけですし。

【帰ってきた】おじさん雑誌レビュー『中央公論』10月号は、戦後70年談話のテキスト分析から欧州の終焉まで

『中央公論』は最近中堅どころの研究者の原稿をよく掲載するようになって、研究者同士で議論するような内容を一般向けに載せてくれているので、毎号興味深いものをメモしておこうと思うのだが、出張に行っていたり時間がなくて時期を逸したりして結局メモできていない。そういえば以前、【新企画】と銘打って「おじさん雑誌レビュー」なるカテゴリを新設したが、ボランティアで論壇時評なんてとてもやる時間ないので(←頼まれたってやりませんよ)、自分の文章が掲載されたときに、ついでに他の文章も読んでコメントするぐらいで企画が立ち消えになっていた。

今回は自分の文章は掲載されていないが、偶然、刊行されてすぐ手に取ったので取り急ぎ。論文に集中しすぎて逆に滞っているので気分転換。

巻頭連載コラムの「時評2015」の一つ、宇野重規「『I』と『We』と『Japan』–戦後70年談話の複雑な構造」(22−23頁)が面白かった。

8月14日に安倍首相によって発表された戦後70年談話は、思想史家が考察するに値するテキストである(本文は首相官邸ホームページからダウンロードできる。英語版、中国語版、韓国語版もアップロードされており、それぞれが興味深い)

「謝罪」をするのかしないのか、というところばかりを日本のマスコミが追及してしまったので、「主語が不明確だ」などと糾弾する論調も直後にはあったが、適切な批判とは思えない。宇野コラムでは、談話をパートに分け、それぞれが扱う対象や内容に即して主語が移り変わるところを分析している。論者は安倍首相の政治的立場にはかなり懐疑的と思われるが、好き嫌いや思い込みでの断定はしていない。

「パートによって語りかける相手が微妙に変化し、あるパートではあえてすべてが宙づりになっていることは、談話が文章として出来が悪いことをけっして意味しない。むしろ、日本政府が世界や日本国民に対して、いかなるメッセージを発するべきか、実に微妙である現状をよく示しているのかもしれない。」(23頁)

そして「この複雑さを自らの行動を通じていかに明確化していくかが、日本政府の次なる課題となるはずである」と締め括っているのも示唆的である。この談話の直後にマスメディアの反応に見られた、この談話が安倍氏個人の真意かどうかを問う議論はあまり意味がない。日本政府としてこの談話の内容に即した政策を採用していくかどうか、将来にアカウンタビリティーを問うて行くことにこそ意味がある。「口のきき方が気に食わん」「本気で言ってんのか」と「因縁をつける」のではなく、「言ったことを実行しているか」を問うことこそが近代的な責任倫理に基づいたアカウンタビリティを確保するための正しい反応であり、近代的な政治システムの中での公共的議論の機能だ。

まさに、首相としての「私」として語るべきところと、内閣あるいは日本国としての「私たち」の名で語るべきところと、第三者的な歴史(といってもその視点や判断基準の客観性は当然争われる。それこそが歴史学である)として叙述するべきところを、明確に分けたことこそが、この談話の一つの要点である。それによって、日本国民の可能な限り多数の意思を代表しようとする意思を見せた文章となっていることに、日本の政治に重要な一歩の前進があったと私は考える。それぞれの主語で語られた内容には、立場によって異論は当然あるだろう。そういう話題を扱っているからである。ただし、国民の意思を可能な限り表出したものと言えることは、世論調査の反応からも明らかだろう。穏健なリベラルな基調のこの談話への支持の高さが、穏健で中道な日本の世論の現実を現していると思われる。

談話が首相の歴史観の真意と違う、と追及する議論は、公職にある人間の公的発言についての、近代的な原則を理解していないのではないかと疑わせる足る議論だ。まず、首相にむやみにその瞬間の歴史観の真意などを語られたら困るのである。

そして、歴代の首相あるいは政治家一般は、みだりに「真意」をダダ漏れにさせてきた。国内支持者やマスコミにはそれこそが人間味であると評価されたり足を引っ掛けられてから騒ぎの種になって国際的に日本国民にとって否定的な効果を生み出しつつ、国内的にはやはり悪名は無名に勝るだとかいった、とにかくもうどうしようもない世界であった。言葉に与えられた価値が軽すぎた。どういう経緯があったにせよ、国際的にみて国や大企業の公的なスピーチで凝らすべき思考と工夫が形式にも表れている演説が行われるようになったことは、日本社会の前身だろう。

これまでの日本の首相や大臣の発言は、(1)官僚の作文=各部署からの持ち上がりを「ホチキス」で束ねたような、各部分部分でそれぞれの業界に配慮した、全体としては一貫性や通底する理念が見えないもの、むしろ見えないようにしてあるもの、あるいは(2)政治家による場への迎合=原稿にないぶっちゃけた下卑た話をしてウケたり、その時にいる聴衆にだけ分かる・喜ばれることを言う=cf. 神道の団体に行くと「日本は神の国」とか言っちゃって後で問題になる、というものが多かった。「神の国」が真意かどうかなど誰にもわからない。その場でウケることを本能的に言っているということはわかる。真意というよりは場への迎合なのであり、その場その場で最も上手に迎合することが日本における正しい「真意」として評価されるのである。うっかりウケないことを言ったら、それは「真意じゃなかった」のである。これこそ、いいかげんにしたらどうだという世界である。

スピーチライターが入って、学者にたたき台を出させて、政治的な配慮と仕掛けを凝らして、練り込んだスピーチを提示するという先進国の指導者なら誰でも毎週のようにやっていることを、日本の政治家はしてこなかった。官僚が時に一生懸命工夫して書いても、「こんなの役人の作文だあ」と原稿放り投げてアニメだとかなんだとかぶっちゃけ話をするとドカンドカン受ける、マスコミも報じる、という何ともはやな世界であった。

しかし安倍首相というのは、某有力英語スピーチライターを第一次政権時代から重用し、国際的に作り込んだスピーチを何度も行っているという意味で、これまでの首相とは大きく異なる。国際的にみれば言っておくべきだが、本人の元来の信念や思考とはかけ離れているかもしれないことを、ここぞという時は得意ではない英語で必死に練習して読み、また別のここぞという時には某大物スピーチライター自身が通訳ブースで渋く読み上げる国際政治上の巧みなレトリックを駆使した英文の方がまるで正文のように聞こえ、首相が読んでいる日本語版は実質アテレコ状態、日本語を聞いているのはついてきた日本の記者団だけ、みたいな、ニッポンのエラいさんたちが通常なら耐えられないような状況に置かれても、まるで苦にしないでこなすというのは、これまでの歴代の首相にはなかった行動様式だろう。いったい何がそのようにさせたのか、のちの時代の日本政治史家は大いに興味をそそられるだろう。

なお、『中央公論』10月号には対談で、山内昌之・佐藤優「ラディカル・ポリティクス−−いま世界で何が起きているか」(152−161頁)が載っていて、ここでも戦後70年談話(こちらは「安倍談話」と呼んでいる)を取り上げている。宇野コラムでは批判的に言及されていた、日露戦争での日本の勝利が「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」という部分について、山内・佐藤対談では「しかし、安倍さんの指摘自体は事実なのです」(山内氏)としているのも興味深い。おそらく宇野氏は「アジア」の特に中・韓の反応をもって疑問視しているのに対して、山内氏は「でも、「勇気づけられた」度合いは、日本から離れるに従って正比例しました。イランやトルコはもとより、アラブ世界の場合は特に顕著なのです」と広い視野から位置づけている。トルコやイランやアラブ世界の「親日感情」の根幹は、「遠く離れていて植民地支配をしたことがない」日本が、欧米に対して日露戦争で勝利したり、第二次世界大戦で軍事的に挑戦したことにあるのは、文献学的にも裏づけられた事実だからである。

文献学的な裏づけとしては、比較文学・文化史の、杉田英明『日本人の中東発見』(東京大学出版会、1995年)が今でも基本図書だろう(できの悪いかつての生徒に推薦されて不快なことと思いますが・・・)。


『日本人の中東発見―逆遠近法のなかの比較文化史』

私が少し前に読んだ、パレスチナの知識人の日記などにも、第二次世界大戦時に、反英独立闘争を志すパレスチナのアラブ人たちが、風の噂で日本がドイツと一緒にイギリスに挑んでいるらしいと伝え聞いて、もしかすると日本の勝利で英国の支配から自分達を解放してくれるかもしれない、と淡〜く期待しているところがあった。日記はすぐに別のテーマに移ってしまって、日・独が劣勢になると日本のことを噂していたこと自体、全く取り上げられなくなってしまうのであるが。

対談者の山内氏は有識者懇のメンバーなのだが、佐藤優氏は戦後70年談話を「『アカデミズムと政治がどのように折り合いをつけるか」という観点からすると、結果的に理想的な形に落ち着いたんじゃないか」「過去にこれほどアカデミズムの成果と政治家の主張が重なった談話の類はありません。私は、そこを一番評価したいのです」と繰り返し絶賛しているが、有識者懇の当事者を目の前にしてこうまで言っているところは、読む方としては若干鼻白むという気がしないでもない。

学者の議論の取り入れ方や首相演説の文法・語彙として、佐藤優氏の評価自体には私自身も同意するのだが、もう少し第三者的な立場での評価や議論ができないかな、と思う。

『中央公論』は安倍政権の歴史認識をめぐる公的表現をめぐって、当事者として関係した様々な学者が頻繁に登場するので、客観的な評価の場というよりは、評価する際の資料の宝庫といった感がある。

その中でも、先月号に掲載された北岡伸一「侵略と植民地支配について日本がとるべき姿勢」『中央公論』2015年9月号、112−119頁は、戦後70年談話の位置づけや、「侵略」の定義、「謝罪」と「反省」の関係、日本は植民地支配を終わらせるために戦争をしたわけではないが結果的に植民地諸国は独立した、戦後生まれには「謝罪」する必要はないが、「過去の侵略の歴史を忘れず、記憶にとどめる」ことについて「責任」がある、といった談話の骨格がここにある。談話に二度出てくる「挑戦者」という表現も、北岡論考の締めくくりの「日本はかつて国際秩序に対する挑戦者となって、これを崩壊させてしまった」(119頁)という形で出てくる。

佐藤優は返す刀で言論人としての原点と言える外務官僚・キャリア官僚批判の得意舞台に持ち込んで数名を実名で攻撃して火だるまにしたりしていて、いつも通りやけに面白いのだが、雑草のような視点から政治家や検察やメディアなどの、権力者・権力に近寄ろうとする人たちと渡り合い、手玉に取り取られしてきたこの人が、安倍首相の「周囲にいる人たちが、問題アリ」という時の「周囲」には、潜在的にどこまで含まれうるのかということまで想像を膨らませると、この対談はさらに面白くなる。権力者の背後の「黒子」の立場から権力に群がる人たちを冷たく見て生きてきたこの人の目に映る世界はどのようなものだろうか。

『中央公論』10月号では他にも面白そうな記事が多い。特集は中国・習近平政権で、白石隆・川島真(対談)「習近平は真に強いリーダーかー権力基盤、海洋進出、経済戦略」(30−41頁)をはじめ、対外政策や政軍関係について踏み込んだ記事が並んでいる。中国経済の先行きについては津上俊哉「ピンチに喘ぐ中国経済の実態」(42−47頁)で株と金利と通貨の話がまとめられている。

そして『中央公論』で最近力を入れているようなのが、長大論考の「公論2015」。書くの大変そうだ。

今回は、ギリシアの債務危機から、西欧に大挙して押し寄せる移民・難民の問題まで、細谷雄一「『ヨーロッパ危機』の本質−−−−内側からの崩壊を止められるか」(86−100頁)は後でじっくり読んでみたい。

細谷氏はこの本が静かな反響を呼んでいる。この本についてはどこかでまた改めて書いてみたい。


『戦後史の解放I 歴史認識とは何か: 日露戦争からアジア太平洋戦争まで』(新潮選書)

ちなみに、『中央公論』の今年の4月号では、私と、この著者も含めた鼎談で、「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」というものを載せています。この鼎談で、まさに私は今年は「欧州普遍主義の終焉」の年だと断定してしまったのだけれども、まさに大量移民・難民問題は、欧州の理念を一貫して適用するとその重みで欧州自体が崩壊してしまうような圧力をかけています。

4月号の鼎談では、「私は移民を『植民地主義の出前』と呼んでいます。かつて欧米の人たちが世界中に出かけて行って植民地にした。搾取はいけないということで引き上げたら、植民地化されていた方の人たちはそれでは食っていけにあので今度は大挙して欧米の都市の郊外に「出前」されてきた。便利だと使っていたが、都合よく丼を持って帰ってくれるわけではない」(93頁)などと、これだけ取り出すと文句言われそうなことも私は言っていますが、前後も読んでみてください。本当に大規模に、注文もしていないのに「出前」されてくるようになってしまったなあ。

個人的にも中東の動きも急激だったので、今年の4月がすごい昔に感じられるのだけれども、たいして時間たっていない。

『中央公論』4月号の鼎談で「イスラーム国」問題が米欧と国際秩序に及ぼす影響を

『中央公論』4月号(3月10日発売)に鼎談「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」が掲載されています。

夥しい数の「「イスラム国」とテロ」的な特集が(ピケティ特集と並んで)、各紙で行われていますが、この鼎談では、編集部の当初の意図がどうだったのかは知りませんが、それらとは違う次元で考えています。国際秩序を形成する理念と実効性を提供してきた二つの極であるアメリカと西欧、およびそれらが近代世界に示してきた国際秩序は、「イスラーム国」の台頭によってどのような挑戦を受けているのか。国際秩序は今後どう変わるのか。まだ見えない未来を見ようとしています。

「イスラーム国」の「衝撃」とは結局、国際秩序に対する理念的な挑戦なのだろうと思います。私が時差ぼけでくらっとしたりしていて迷惑をかけましたが、貴重な機会となりました。

ピケティに対するまとまった批判的検討の特集も、必要なものと思います。明らかに、日本の「格差」とアメリカとは異なり、西欧とも異なります。そして数で言えば世界の大多数をしめる途上国とも異なります。

読売新聞の電子版では『中央公論』のピケティ検証特集のうち、森口千晶・大竹文雄対談を取り上げ、日本の場合は、年収750万~580万円という(米国で言えば感覚的には「中の中」ぐらい)の収入層が、所得上位5~10%に相当することを示し、この層は実際には増えているという根拠から、ピケティの議論を表面的に日本に当てはめることはできず、ピケティの処方箋も日本では有効でないという可能性を示しています。これは頷ける議論です。

「日本「年収580万円以上」増加…米と構造違う」Yomiuri Online 2015年3月10日

もちろん、日本にも(メディアや扇動論者の無根拠な議論を別にして)、なんらかの「格差」が認識されており、それを支えるなんらかの現実があるのでしょう。格差には絶対的な富や機会に関するものと、格差をめぐる認識とその認識が顕在化する条件に関わるものの、両方あります。

そもそも580万円−750万円の所得層が上位の5−10%の位置にあるということは、欧米と比べて日本の家計がそもそもそんなに豊かではないという基礎的な制約条件でしょう。少なくとも、上位1%が莫大な富をかき集める米国とはかけ離れています。「ほどほどの豊かさを分かち合う」形の分配が上位の収入層にはあると言えるのかもしれません。その場合、歴史上のある地点では、「金持ちでもほどほど」「ほどほどの人がけっこういる」ことを社会の多数が是として、将来に自分あるいは自分の子孫がその域に達することができると予想できればそれで「格差」認識は生じなかった可能性もあります。逆に、「上位」に入っている人でも過剰な犠牲を払わないとその経済水準に達することができず、その水準を将来にわたって維持することに大きな不安がある場合は、「中間層の消滅」という、データ的に正確かどうか分からない認識・危機意識も生まれるでしょう。

そして、「ほどほどの」上位10%とは別に、貧困すれすれの下位の収入層がどれだけ増えているかが、「格差」問題で重要になるのは当然です。しかしこれも正確に測定するのは困難ではあります。高齢化が進むと多くの世帯は収入が減りますので、貧困家庭が続出しているように見え兼ねません。

若年層に下位の収入層と「上位」(が何を指すのか通常は明確ではありませんが)との間に、世代を超えて恒久的に移動が不可能な障壁があったり、埋められない文化的な差異があるか生まれている場合は、格差社会、あるいは「階層社会」としての認識が妥当となるでしょう。

もし「上位5−10%」がこの程度の収入層でそれがまあまあ増えており、同時に下位の収入層も増えているのであれば、根本的に、日本は欧米諸国と比べて収入面であまり豊かではないということになるのではないでしょうか。「清貧」と「ジリ貧」の違いは、多くは将来に対する希望の有無やそれによって規定されるパーセプションによります。

日本社会の経済階層構造が「金持ちもタカが知れている、多くがジリ貧」ということになるのであれば、ピケティに託して語られる凡百の格差社会論が漠然と提示する「金持ちから取れ」という話ではなく、別の対策を真剣に考えないといけません。「金持ちから取ってこい」と言っても単に無い袖は触れなかったから取ってこれなかった、ということになり兼ねません。そういえば国の財政では「埋蔵金」なんて話もありましたね。結局なかった。

これまでもみんなで分かち合っていたところ、分かち合うパイが減ってきたので苦しくなった、というだけなのであれば、やはりパイを増やすように努力しないといけないのではないでしょうか。「パイを増やさないでいい」という主張が通れば、日本にそれなりにいる「ほどほどの金持ち」は「清貧」で耐え忍んでデフレスパイラルに逆行し、下位収入層は次第に窮乏する、ということにしかならないでしょう。

格差あるいは階層の実態を見極めないと、適切な対策は取れないでしょう。

「イスラーム国」の問題も同じですね。

その意味で、目次に記されている、田原総一朗×古市憲寿「「イスラム国」とオウムの奇妙な相似」対談には、まだ読んでいませんが、大いなる不安を持って見守っているわけです・・・今雑誌が手元にないし確認する時間もないんだが、単に表面上「若者が・・・」というだけで「似ている」とか言ってないよね?大丈夫だよね?似ているというのであれば、せめて、仏教とイスラーム教のそれぞれの教義の中の政治や暴力についての思想史を確認した上で、オウムあるいは「イスラーム国」へ参加する「若者」はそのどのようなタイプの思想でもってモチベーションにしているかとか、調べてから言っているんだよね?参加する「若者」といってもアラブ諸国からなのか、西欧諸国からなのか、日本からなのか、区別してどれなのかきちんと分節化して議論している?

【訂正 3月13日】
実際に『中央公論』を手に取ってみますと、田原総一朗・古市憲寿対談のタイトルは「草食社会ニッポンの成熟と衰退」でした。「「イスラム国」とオウムの奇妙な相似」は、次の宮台真司論考「「終わりなき日常」が今も続く理由」に付いた副題(?)でした。ウェブの目次を見間違っていました。

読んでみると宮台論考はまさに、「似ている」論のオンパレードでありました。「社会学者」と名乗れば日本のことから類推して世界中の社会を語っていい、という日本のローカル慣行はやめたほうがいいんじゃないの?と思いました。しかしフランスをやっているという社会学者も、実際にはフランスの特定の先生の説を引き写した上で、安易に日本との類推をしていることがシャルリー・エブド紙事件の際の議論で露呈したので、より広く深い日本の知的社会の問題かなと思います。

なお「草食社会ニッポン・・・」の方にもやはり、オウムの話をしながらなし崩しに「「イスラーム国」に参加する若者」という話になり、あれこれ想像して茶飲み話している部分があります。それでも古市氏の「僕は日本人はISILにあまり行かないんじゃないかと思う。」という議論は事実に即していると思います。これは古市氏の議論の流れからは、そうならざるを得ないし、実際にそうなんだが。【付記終わり】

こういったジジ&ジジ殺し対談にも、日本の社会と言論の現状と未来の何かが表出されているとは思う。

それはともかく、最近の中央公論活性化してきていると思うので、是非読んでみてください。

池内恵×中山俊宏×細谷雄一「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」『中央公論』2015年4月号(3月10日発売)、92−101頁

中央公論2015年4月号鼎談「イスラム国」拡散するテロ

【寄稿】中央公論1月号に「イスラーム国」の来年の見通しについて

不意に思い立って、何が何でも来年1月に出そうと決めて、超人的な速度で、11月末から昨晩(金曜夜)までの間に、本を一冊書いてしまいました。今週は朝・晩に1章ずつ原稿を入れる状態が続いていました。

「イスラーム国」関係です。

9・11事件以降のイスラーム過激派の歴史と思想について。新書で230ページぐらい。6月以降、無数に書いたり話したりしてきた内容ではあるので、今突然考えたわけではありませんが。

のんびり2月以降に出してもいいですが、出版的タイミングを逸してしまうとこのテーマに関しては良くないので、私の方から無理を言って前倒しに進めてもらいました。どうせ苦労して書いて出すなら一番のタイミングで。

奇跡的に原稿が間に合いましたが、まだ気が抜けません。発売までの間に少しずつお知らせしていきます。

一息ついたら、「イスラーム国」に関する寄稿がまた一本刊行されていました。

池内恵「イスラム国 地域大国による中東の秩序再編が進む」『中央公論』2015年1月号(第129巻第1号・1574号、12月10日発行)、60−61頁

中央公論2015年1月号

「特集 2015年を読む」の一部です。

政治・国際問題は、

「政策の季節」から「選挙の季節」へ(待鳥聡史)
アメリカ(中山俊宏)
アジア(白石隆)

が4頁で読みごたえあり。

ヨーロッパ(遠藤乾)
イスラム国(池内恵)

が2頁ずつ、といったラインナップ。

長めの論考で久保文明先生が「米中間選挙、民主党大敗北 オバマ大統領に立ちはだかる三つの試練」98−106頁、これはじっくり読んでみましょう。

鼎談にも、「グローバル(G)とローカル(L)の間を国家(N)は埋められるか」で川島真先生が吉崎達彦さんや佐倉統先生と。

宇野重規先生が長大論考「日本の保守主義、その「本流」はどこにあるか」(84−97頁)と、時評「安倍首相が獲得する「モメンタム」とは何か」と二本も寄稿している。

「丸山眞男からEXILEまで 論壇は何を論じてきたか」で佐藤信君がおジイさんとおジさんと鼎談。

おかげで私が誌面最年少でなくなったです。最年少ボジションにいるのが長すぎてトウが立って疲れてきましたものですから。最近は意識すらしないが、私がなおも最年少であることに気づいて驚くことはある。某エコノミスト年末懇談会@ホテルオークラにエコノミストじゃないけど案内来たから行ったら、圧倒的に最年少だった。まだまだ年功序列&人口逆ピラミッド社会ニッポン。

あと、若くて出てこれる人はどうしても「世代論」というかなり狭い特殊なジャンルを期待されるという問題もある。若くて文章を書ける人はとりあえず世代論をやるという、バイアスがかかってしまわないかな。

でも今回の中央公論は中堅層の書き手が分厚くなっていて、世代交代は進んでいる。お勧めです。

【寄稿】『文藝春秋』12月号にて「イスラーム国」をめぐる日本思想の問題を

今日発売の月刊『文藝春秋』12月号に、「イスラーム国」をめぐる日本のメディアや思想界の問題を批判的に検討する論稿を寄稿しました。

池内恵「若者はなぜイスラム国を目指すのか」『文藝春秋』2014年12月号(11月10日発売)、第92巻第14号、204-215頁

文藝春秋2014年12月号

なお、タイトルは編集部がつけるものなので、今初めてこういうタイトルだと知りました。内容的には、もちろん各国の「若者」の一部がなぜ「イスラーム国」に入るのかについて考察はしていますが、若者叩きではありません。むしろ、自らの「超越願望」を「イスラーム国」に投影して、自らが拠って立つ自由社会の根拠を踏み外して中空の議論をしていることに気づけない「大人」たちへの批判が主です。

*井筒俊彦の固有のイスラーム論を「イスラーム教そのもの」と勘違いして想像上の「イスラーム」を構築してきた日本の知識人の問題

*「イスラーム国」が拠って立つイスラーム法学の規範を受け止めかねている日本の学者の限界はどこから来るのか(ここで「そのまんま」イスラーム法学を掲げる中田考氏の存在は貴重である。ただしその議論の日本社会で持つ不穏な意味合いはきちんと指摘することが必要)

*自由主義の原則を踏み越えて見せる「ラディカル」な社会学者の不毛さ、きわめつけの無知

*合理主義哲学と啓示による宗教的律法との対立という、イスラーム世界とキリスト教世界がともに取り組んできた(正反対の解決を採用した)思想問題を、まともに理解できず、かつ部分的に受け売りして見当はずれの言論を振りかざす日本の思想家・社会学者からひとまず一例(誰なのかは読んでのお楽しみ) といったものを俎上に載せています。すべて実名です。ブログとは異なる水準の文体で書いていますので、ご興味のある方はお買い求めください。 「イスラーム国」「若者」に願望を投影して称賛したり叩いたりする見当はずれの「大人」の批判が大部分ですので、これと同時期に書いたコラムの 池内恵「「イスラーム国」に共感する「大人」たち」『公研』2014年11月号(近日発行)、14-15頁 というタイトルの方が、『文藝春秋』掲載論稿の中身を反映していると言っても良いでしょう。 『文藝春秋』の方は12頁ありますが、これでも半分ぐらいに短縮しました。

*「イスラーム国の地域司令官に日本人がいる?」といった特ダネも、アラビア語紙『ハヤート』の記事の抄訳を用いて紹介している。もっと紙幅を取ってくれたら面白いエピソードも論点もさらに盛り込めたのだが。 おじさん雑誌には、おじさんたちの安定した序列感によるページ数配分相場がある。それが時代と現実に合わなくなっているのではないか。 原稿を出してやり取りをする過程で、これでも当初の頁割り当てよりはかなり拡張してもらいました。しかしそれを異例のことだとは思っていない。まだ足りない、としか言いようがない。 はっきり言えば、このテーマはもうウェブに出してしまった方が明らかに効率がいい。ウェブを読まない、日本語の紙の媒体の上にないものは存在しないとみなす、という人たちはもう置いていってしまうしかない。なぜならばこれは日本の将来に関わる問題だから。 国際社会と関わって生きている人で「日本語の紙の媒体しか読みません」という人はもはや存在しないだろう。 私としては、『文藝春秋』に書くとは、今でも昔の感覚でいる人たちのところに「わざわざ出向いて書いている」という認識。 なぜそこまでするかというと、ウェブを読まない、しかし月刊誌をしっかり読んでいる層に、それでもまだ期待をしているから。少なくとも、決定的に重要な今後10年間に、後進の世代の困難な選択と努力を、邪魔しないようにしてほしいから。 時間と紙幅と媒体・オーディエンスの制約のもとで、その先に挑戦して書いていますので、総合雑誌の文章としては、ものすごく稠密に詰め込んでいます。多くの要素を削除せざるを得なかったので、周到に逃げ道を作るような文言は入っていない。 それにしても、この雑誌の筆頭特集は、年々こういうものばかりになってきている。 「特別企画 弔辞」(今月号)に始まり・・・ 世界の「死に方」と「看取り」(11月号) 「死と看取り」の常識を疑え(8月号) 隠蔽された年金破綻(7月号) 医療の常識を疑え(6月号) 読者投稿 うらやましい死に方2013(2013年12月号) これらがこの雑誌の主たる読者層の関心事である(と編集部が認識している)ことはよく分かる。よく分かるが、こればかりやっていれば雑誌に未来がない、ということは厳然とした事実だよね。 今後の日本がどのようにグローバル化した国際社会に漕ぎ出していくのか、実際に現役世代が何に関心をもって取り組んでいるのかについて、もっとページを割いて、掲載する場所も前に持っていかないと、このままでは歴史の遺物となってしまうだろう。 その中で、芥川賞発表は誌面に、年2回自動的に新しい空気を入れる貴重な制度になっている。 しかし普段取り上げられる外国はもっぱら中韓で、それも日本との間の歴史問題ばかり。朝日叩きもその下位類型。基本的に後ろ向きな話だ。 そのような世界認識に安住した読者に、国際社会に実際に存在する物事を、異物のように感じとってもらえればいいと思って時間の極端な制約の中、今回の寄稿では精一杯盛り込んだ。 15年後も「うちの墓はどうなった」「声に出して読んでもらいたい美しい弔辞」「あの世に行ったら食べたいグルメ100選」とかいった特集をやって雑誌を出していられるとは、若手編集者もまさか考えてはいないだろうから、まず書き手の世代交代を進めてほしいものだ。 しかし『文藝春秋』の団塊世代批判って、書き手の実年齢はともかく、どうやら想定されている読者は「老害」を批判する現役世代ではなく、団塊世代を「未熟者」と見る60年安保世代ならしいことが透けて見えるので、これは本当に大変だよなあ、と同情はする。

【寄稿】「イスラーム国」の衝撃──『中央公論』10月号

イスタンブルから帰国して以来、あまりに忙しくて更新できないでいた。「中東の地政学的リスクの増大」についての関心が高まり、セミナーやレクチャーに駆け回っている。その間にも仰せつかっている各種報告書の執筆が相次ぎ、論文や著書の執筆が滞っている。危機的である。

それでも一つ成果が出た。9月10日発売の『中央公論』10月号に、イラクとシリアでの「イスラーム国」の伸長の背景と意味を論じた、長めの論稿を寄稿しました。

池内恵「「イスラーム国」の衝撃──中東の「分水嶺」と「カリフ制国家」の夢」『中央公論』2014年10月号(9月10日発売)、第129巻10号・通巻1571号、112-117頁

中央公論2014年10月号

本日は差し迫った仕事があるので、解説などを書く余裕がありません。包括的に書いてあるので、手に取ってみてください。

【新企画】おじさん雑誌レビュー『中央公論』8月号特集は「生き残る大学教授」だが

この時期、月刊誌が送られてきます。研究室に来てみると『文藝春秋』と『中央公論』などが届いていました。

こういう雑誌の慣行として、寄稿していると送っていただけるようになります。私は親の代からそういう生活をしているので、執筆することもある月刊誌が定期的に届くとさっと目を通す、という生活に慣れ親しんでおります。

送られてこなかったら買って読むかというとそれは全く別の問題なので、通常の意味での正式な読者ではありませんが、雑誌の紙面が自分の「仕事場」「市場」ともいえるので、そういう目で、半ば「自分のこと」として、子細に、またシビアに見ているという意味で、通常より熱心な読者と言えます。

寄稿したことがある人は大学業界などの書き手や、あるいは政治家・経営者・官僚などの実務家を中心に、累計ではかなり多いので、送られてきている人も多いでしょう。こういった月刊誌の一定の割合の部数は「書くこともある」層に届けられており、それによって大学業界人や実務家の間での「世論」「共通認識」を形成する土台になっているのかもしれません。

(なお私の父は自宅を郵便物の宛先にしていたので、小さいころから私がそれを読んでいたわけです。そのため、団塊世代が「若造」に感じられる60年安保世代的な世代感覚が身についてしまいました。文藝春秋の読み手・書き手の中心的世代が「60年安保」世代であることは、芥川賞150回記念のアンケートで「柴田翔」に数多くの言及がなされたところから明らかでしょう)

しかしねえ、『中央公論』の表紙にもお題が掲げられたカバーストーリー(目玉特集)は「生き残る大学教授」・・・

あのねえ、対象となる読者層が限定されすぎていませんか?とさすがに言いたくなるよ。無料で送ってもらっている執筆者の人たちしか実感を持って読めないぞ、この企画?

業界関係者としては絶対に言ってしまってはいけない、、、と思いつつおそらくこれを読んだ業界関係者の多くが頭の中であるフレーズを思い浮かべていると思うのでそういう時にはつい癖というか過剰な役割意識で言ってしまうのだが「生き残れるのか中央公論」

ああ言ってしまった。

内容は、ライター的な人が書いている「覆面座談会」「大学教授の生活ぶっちゃけ話」を見ても、大学関係者が普段ぶつぶつ言っていそうなことが断片的にそのまま露出している、「まあ間違ってはいない」というような話である。世の中に出回る「大学教授」への妄想や誤解をそれなりに矯正する効果はあるかもしれないが、どれだけ公共性・公益性があるか分からない。

子供のころから親も祖父も親戚にも大学教授が多く、当然その親・親戚の友人・知人にも大学教授が多かったので、疎遠な人も含めて「ここで描かれるこの人はあの人みたいなタイプだな」と実例が思い浮かぶ場合もある。あまり当たっていないなあと思うところもある、単に私の周りの大学教授が大学教授の中でも特殊なせいかもしれないが、などと考えて読んだという意味では楽しめたが、さてこれが総合雑誌の特集として適切なのか、というと疑問だ。

大学の仕組みや大学教授と呼ばれる人たちのありがちなひどい行状から、「私だってこうも言ってしまいたくなるよ」というようなある程度共感できる内容とはいえ、それが実際に総合雑誌に今月の目玉特集として載ってしまうと、やはり「こんなこと載せる必要があるのか?」と言いたくなる。読み手としてだけでなく書き手としての立場からも。

ここで関連が気になるのが、最近の、一定の質を保っている月刊誌に多い、大学の広告。『中央公論』の今号では、「特別企画」の慶應義塾塾長のインタビュー(広告)を含めた各大学の広告が144-167頁に電話帳みたいに延々と載っている。大学にとっては、扇動・排外意識むき出しだったり、おちゃらけエロ満載だったりするあまり品の良くない媒体に広告は出したくない。逆に、雑誌を出す方から言っても、誌面の品位を落とさないで済むような世間体の良い広告主を切実に求めている。『中央公論』は、「大学広告」に関しては、広告媒体と広告主との関係の相性がいいのだろう。

だとすると「大学教授」特集は広告スポンサー向けなの?そうだとするとつじつまは合うが、いっそう公益性がなくなるんじゃないの?

まあ『中央公論』がいろいろ苦しいのは承知の上でこれを書いている。『中央公論』の存在は得難いので頑張っていってほしいと思っている。このなにやら?な特集にしてもその枠があるから、竹内洋先生のいつものもっともらしい茶化し芸(「大学教授の下流化」)や、上山隆大先生の力の入った米大学産業論も読めたわけだし、

なお、浜田東大総長のインタビューで、いつものことながらあげられるのが「インド哲学」。

「たとえば、最も現場に遠いと思われがちなインド哲学を例にとっても、仏教界、要するに寺はその「現場」である。分野にもよるが、これからの時代、教員は、そうしたそれぞれの「現場」との結びつきをさらに意識する必要があるだろう」

と語っておられますが・・・一応世間の誤解を修正しているようにも見えますが、本当に分かっているのか不安。

「大学改革=自分で金稼いで来い、産業界に役に立つものにしろ、いやそれはいかがなものか」系の議論が勃発するたびに、いい意味でも悪い意味でも「役に立たない」「金儲けできない」学問の例として「インド哲学」が挙げられる。しかし、これは最初から最後まで認識不足。

「インド哲学(正式にはインド哲学仏教学科)」は簡単に言うと「サンスクリットを読むところ」です。

なんでサンスクリットを読むかというと仏典は元々はサンスクリットで書かれているからですよね?法事でやってくるお坊さんの大部分は漢訳当て字のお経を棒読みしているだけでしょうが、格式の高い寺や、大きな宗派の総本山では研究所とかもあってサンスクリットから読める人を確保しておかないと格好つきませんよね。

ですから昔から、名のある寺は、息子を東大に通わせてサンスクリットを読めるようにさせたのです。まあ東大だと他の思想や文化や科学に触れるので素直な跡継ぎにはならなかったかもしれませんが、問題はそんな狭いものではない。

寺というのは、個々の身近なところを見れば、勉強しないし堕落しているし金儲けばっかりしているし、と見えるのかもしれませんが、総体で見ると、かなり人材を囲い込んでいて資金があって、有効にかどうかわかりませんが、それを使って大きなことをしています。

京都に行ってみなさい。東京とは全く違う経済・産業があります。新聞各紙は「寺番」記者を張り付けています。東京では霞が関の官庁回りをしますが、京都では「寺回り」をするのです。それは「文化面」だけではなく経済・政治の欄に書くべき出来事が、寺を媒介して起こっているからです。

東京にだけいると、実際には日本社会で力を持っているこの方面の経済力や政治力に気づかないので議論が変になるのです。

サンスクリットで仏典の研究を、となると、学部の2年間の専門課程程度で終わる話ではないから、中心は大学院教育になる。一般の学生から言えば、日本では学部出てすぐ就職しないといけないという強迫観念があるから「論外」の学科に見えるかもしれないが、寺の子供からいうとすぐに寺を継ぐわけではないから時間はたっぷりある。別の学科を出てから、あるいは一度ビジネス界に入ってからの学士入学・大学院進学も多くなる。

筋の良い寺の子供は、寺を継ぐ前に外国留学したりビジネス経験を積んだり、それぞれの寺とその家の家風によって固有の育ち方があり、時代に合わせて各世代が育って、それによって寺は変わってきて、経営体としても刷新されてきたんです。出来の良い子なら、自分の寺の経営体としての規模や資産は小さいころから自然に呑み込んでいるし、適度に新機軸を打ち出していかないと自分も面白くないしなにより寺として生き残れないことは分かっている。

その際に「インド哲学科」もそれなりの役割を果たしてきた。いわば大昔から産学連携を「産」主導でやってきたの。それを東大内部で管理職になるような人たちが、世間一般と同様に知らなかったのは、それはまずいでしょう。

東大の大部分の学部生にとってインド哲学は「何をやっているところか分からない」ということになるでしょうし、「就職なさそう」ということになるのでしょう。しかしそれは衆生の無知、ということに過ぎない。それは大学・学部入学までにマス教育で詰め込まれた「偏差値」(あと東大では3年進学時の「進学振り分け」)的な基準で推し量った、子供の軽率な判断にすぎません。大部分の一般学生がそのような尺度で物事を見ている、ということは、それが真実であるということを意味しません。例えば大きな寺の子、有形無形の資産を豊富に抱えて今後それをどう活用していこうかと考える寺の子は全く違う目で見ているわけです。で、後者の方がもちろん正しい。

問題は、受験にもまれて辛うじて東大の難関を突破しただけでは、その後大人になっても認識を改める機会がないこと。日本社会や経済における仏教界の力やヘゲモニーに気づく経験がないままに齢を重ねて、その中の一部がエラいさんになって、学生時代のぼんやりとした思い出から「インド哲学は儲からない、就職先がない」的な誤解を持ったままで議論しても話は進みませんよね。

もちろん、東大が、本当の意味で仏教界に関わっている良質な人材の持つエネルギーを取り込んでいくような魅力や発想を持っているか、十分に取り込んでこれたか、適切な制度を持っているかは別問題で、そこには大いに改善の余地があると思いますよ。

でも制度を整えないと人が来ない、というのも間違いじゃないかと思います。

私は学部・学科選びの時、「イスラム学科」というできたばかりの学科を発見して、これは、今後文章を書いていくのにまたとないものすごくビジネス・チャンスのある学科、と狂喜乱舞しましたが、イスラム学科がそのようなことを謳っていたわけではありませんし、制度としても実態としても、学科の先生とおんなじ分野を研究する、という発想の学生以外に対しては、何らケアはされておらず放任でした。でも東大というものすごく恵まれた条件のもとで、「モノ書きの素材とするには何があるか」という観点から、本郷の化学の先生が出張で教養学部に教えに来ていた「フリーズ・ドライの作り方」(直接役立っていないがコンビニで最新のカップラーメンを見るのが楽しい)から、現代英米政治思想(これは今も直接役立っている)まで、提供されている授業をつまみ食いした結果、「イスラム学!ここここれは使える」と確信して進学したわけです。思想でも文学でもきちんとイスラム学をやった上で発言している人は一人もいなかったから、という極めて合理的な選択です。学科そのものがなかったんですから当然ですが。小林秀雄の時代はフランス文学があらゆる意味で最先端だったんですが、当然現代はフランス文学は完全に出来上がってしまった分野でそこから新しい価値を生み出していくのは容易ではありません。それに対して出来立ての学科、これまで誰もやっていなかった分野の知見を身につければ競争力がつくのはごく自然に予想できることです。もちろんイスラム学単独では使いにくいので、思想・文学方面とつなげたり、実際に現地で起こっている紛争や政治運動や国際関係を研究対象に取り込んだり、政治学や社会学の知見を応用したり、といったことを考えて東大内のあらゆる学部学科・施設を利用しましたので、学費のモトは十二分に取りました。社会情報研究所(当時)の研修生課程なんていう、東大の学生なら授業料タダというすごいいい話ににも乗って試験受けて入ってメディア論や中東政治・メディア政治(こんなところに中東に詳しい政治学の先生がいたんです!)を勉強しつつ最長の年限(4年間)居座ってコピーセンターとして利用させていただいておりました。ありがとうございました。その後コピーの枚数が制限されたみたいなことを聞いたが関係ないかな。

お仕着せのカリキュラムではなくカスタム・メイドで自分の専門分野を構築できたことが、私にとっては東大に入ったことの最大の利点でした。東大、特に文学部はそういうカスタム・メイドの要素を残す、あるいは一層強めていくことが重要なんじゃないかと思います。私のやり方はその時のその瞬間で最適と思ったものを選び取っただけで、今現在学生の人には別の選択・組み合わせが当然あるはずです。

話を戻すと、インド哲学というのは、本来は仏教界方面に最終的な就職先が決まっている人が来ればいい、「一見さんお断り」と言ってしまっていいぐらいの左団扇な分野なわけです。国立大学だからそんなことを公言しないですし、もちろん教員は仏教関係の出身じゃなくてもなっていますけどね。(インド哲学仏教学科の今の人たちとは全くつながりがないので、あくまでも長い歴史の中での趨勢の話をしております)。

もし「国は今後インド哲学にはお金を出さないから、産業界から資金を募れ」ということになっってしまったら、一瞬にして仏教界からお金が集まるでしょう。どこの宗派が主導権を握るか、新興宗教系の教団も加われるのか、といった点で争いが勃発するかもしれませんが(怖い)、お金が集まらないということはあり得ません。(実際、宗教学科関係のプロジェクトには、新興宗教方面からすでに潤沢にお金が入ってきていますし・・・)

本当の問題は、そうやって産業界(ここでは仏教界)あるいは特定の寺に資金を出させたら客観・中立な研究はできないでしょ、ということであって、だから結局は細々とながら国が出す、ということになるしかないのは最初から分かっている話です。思想・宗教といった文学部の諸学は、「価値」という究極的にものすごいパワーを秘めたものを扱う分野ですから、スポンサーをつけるとややこしくなるのは当然です。

大学を改革せねばならん、と言う人は、まず大学を知ってほしいものです。改革の議論は、まず論者自身が大学を知るきっかけになる、という意味では結構なことです。その上でいい知恵も出るかもしれません。大学関係者にとっても、改革議論に応えていくうちに、自分たちもあまり知らなかった・重視していなかった大学の価値を再発見することにもなります。

・・・なんてことを書いていたら、今号の第二特集「中露の膨張主義──帝国主義の再来か」に触れる時間が無くなってしまった。本当はこっちの方が重要なんだけど。 このブログでもちょっと触れたように、『フォーリン・アフェアーズ』の5/6月号でのウォルター・ラッセル・ミードとジョン・アイケンベリーの論争は、現在の国際政治をどう見るか、今後どのような政策を採用していくべきか、という課題についての対照的な見方や論争の軸を提供しているが、それに呼応して敷衍したものと言える。アイケンベリー本人にもインタビューしている。 一方で「中・露・イランなど現状変更勢力・地域大国の台頭、地政学的論理の上昇」というミード的な見方が盛んになされており、そこに刺激を受け、日本の政策としては「地政学的観点からもっとロシア・プーチンに接近しろ、没落するアメリカは当てにならない」系の議論が右派を中心に民族主義系の左派からも提示される。 それに対してなおも「1945年以来の米中心のリベラル多国間主義は優勢だ」というアイケンベリーの議論が応戦していて、オバマ政権としても正面からの理論武装はこちらを踏まえている。そこからは日本は米国との同盟強化で乗り切れ、という話になって日本のメインストリームはこの路線だろう。『リベラルな秩序か帝国か アメリカと世界政治の行方』(上下巻、勁草書房、2012年)で示された枠組みですね。 このような大体の枠組みを踏まえたうえで、中西寛先生の重厚な総論、渡部恒雄・川島真・細谷雄一諸先生方による鼎談を読んでいくと、フォーリン・アフェアーズとはまた違う、日本ならではの歴史・思想や地域研究を重視した視点が得られる。日本語を読めてよかったと思える瞬間です。 こういう有益な特集をやるために、カバー・ストーリーは「生き残る大学教授」特集で広く一般読者を惹き寄せ・・・というのならいいんですが問題はそれで読者が釣れているように見えないことなんですけどねえ。私は釣られましたが、業界関係者ですから統計的な数に入りません。