【寄稿】読書日記1「本屋本」を読んでみる『エコノミスト』5月6・13日合併号

『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)の「読書日記」欄への連載第1回が4月28日(月)に発売されました。

池内恵「ネットで買えるのにあえて書店に行く理由」『週刊エコノミスト』2014年5月6・13日合併号、65頁
週刊エコノミスト2014年5月6日13日号

今回文中で言及した本は、次の二冊でした。


福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書)


内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)

(Kindle版)

書店員・書店主による「本屋本」を読んでみた中で引っかかってきた本です。

福嶋聡さんはジュンク堂難波店の店長、内沼晋太郎さんは下北沢の「B&B」の書店主です。

まったく偶然ですが、今日、ジュンク堂梅田店に行ってきました。なかなか壮観、荘厳です。

「読書日記」については、以前にこのブログで書いたことがあります。
 
読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)(2014年4月1日)
『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)(2014年4月16日)

【ご注意】なお、池内の『週刊エコノミスト』「読書日記」欄への連載は、電子書籍版への掲載やデータベース配信は行われません(私が承諾していないので)。

NHKクローズアップ現代「復活するアルカイダ」(4月24日)のテキスト

NHKクローズアップ現代「復活するアルカイダ~テロへ向かう世界の若者たち~」(4月24日)のテキストがホームページで公開されています。

見逃した方はどうぞ。

動画は6分のみ。

機械的なテキスト起こしで、私の校閲は経ていないので、「選択肢」が「選択し」になっていたり、「こういう」「そういう」といった普通は記録から削除するような合間のいらん合いの手(自分で自分への)がそのまましつこく記録されていますが、そこは無視してください。

【寄稿】世界情勢を読む10冊『クーリエ』6月号

 『クーリエ・ジャポン』6月号の巻末特別付録「知性を鍛える「教養書」100冊ブックガイド」に、国際情勢を読む10冊の本を紹介するコメントを寄稿しました。

「激動する世界情勢の「背景」と「未来」を知るための名著」(選者 池内恵)『クーリエ』2014年6月号特別付録、4-5頁

 (外国語のものは)翻訳が出ていて、日本で絶版になっていない本、という条件のため制約があるのですが、その枠内で10冊選び、それぞれに短いコメントをつけています。

 選んだ本の例は・・・

イアン・ブレマー(北沢格訳)『「Gゼロ」後の世界 主導国なき時代の勝者はだれか』(日本経済新聞社)

アーロン・L・フリードバーグ(佐橋亮訳)『支配への競争 米中対立の構図とアジアの将来』(日本評論社)

ルチル・シャルマ(鈴木立哉訳)『ブレイクアウト・ネーションズ 大停滞を打ち破る新興諸国』(早川書房)

(文庫化されました)

(Kindle版)

・・・など。

 米の覇権の希薄化、米中対立の行方、新興国台頭の終わり、というあたりの国際的な議論で主要なものはやはり訳されているのですね。

 今後の世界情勢を見る指針としては、

フランシス・フクヤマ(会田弘継訳)『政治の起源 人類以前からフランス革命まで』(講談社)


が示す、
「国家形成」「法の支配」「説明責任」の有無は、先進国でも途上国でも、民主体制でもそうでない体制でも、安定と繁栄の基礎になりそうですね。

 もちろん英語圏の概念的に跳躍した議論が常に正しいというわけではなく、ある国や地域をじっくり見て、歴史を踏まえて趨勢を読み解いていく地道な作業は、日本の専門家の得意とするところではないかと思います。

 その意味で、

津上俊哉『中国台頭の終焉』(日経プレミアシリーズ)

武田善憲『ロシアの論理 復活した大国は何を目指すか』(中公新書)

(Kindle版)

は勉強させてもらいました。いずれも新書で書き下ろしという日本独自のフォーマットで、お得でした。

 その他のセレクトやコメントは『クーリエ』6月号の巻末付録で。キリトリできます。

絶版有理~『ウクライナ・ナショナリズム』はカッコいいなあ

これを読んで考えた。

「(ニュースの本棚)ウクライナ 「国民統合」の難しさ 末澤恵美」『朝日新聞』2014年4月20日05時00分

この中で、中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)が取り上げられています。

中井和夫先生、カッコいいなあ。

何がカッコいいかというと。この本、ウクライナがあんなことになってるから、当然、買ってみたいと思うでしょう?

もちろんこういった専門的な本で、出た当時は全然国際問題にもなっていなかったテーマの本なので、当然今では版元の東京大学出版会でも「品切れ」でございます。

そんなに分厚くもないのに7000円以上もする本ですので、たぶん部数はすごく少ないんでしょうね・・・

もちろんアマゾンなどのインターネット書店でも軒並み全滅、入手不能。

古本屋サイトなどで検索しても、買えませんねー。

じゃ図書館で探すか。

ためしに東大の図書館OPACで検索しても、本郷と駒場に一冊ずつあるけど、はい貸し出し中(4月23日現在)。待っててもいつ読めるかわかりませんよ。

東大生がんばって勉強していますね。よしよし。いや、教員が借りちゃっている可能性も高いが。

手に入らないといわれると欲しくなるでしょ?

実は、私は出た当時に東大生協の書店で生協組合員証を見せて1割引きで買ったものが書庫の奥の奥にあるんだけど、欲しい?いくらなら買う?

売ってあげない。

知識を「マネタイズ」しろなどと小賢しい商売のやり方を売り込むネズミ講みたいな議論がウェブ上には散乱していますが、それは既存の知識を右から左に流しているだけの人たちの話。

本当に意味のある知というものは、別に売れなくたっていいんです。あること自体に価値があって、代替不能。

もちろんそういった「元ネタ」を三重・四重に孫引きして知ったかぶりをしている人(私も含む)はいるが、ではその根拠はというと、別の人に依存せざるを得ないから不安だ。

少なくとも、最終的にどのあたりが正確な元ネタなのかを知っているのと知らないのでは大違いだ。

知というのは、知らない人が損をしているというのが原則。まあ損をしていること自体に本人が気づかないケースが多いのですが。

本当に必要な知識は、お金を出しただけでは、買えない、というのが、より重要な本質なんです。
 
そのことを示してくれた中井和夫先生、カッコいいなあ。

本の部数が少なくて品切れになっているからって称賛されてもうれしくないでしょうが・・・

しかしお金を出したら市場で売っているわけではない話を聞けるから、頑張って大学入試を突破したりするんですよ。入試ってそういうものなんですよ。受験生も含めて忘れている気がしますが。

ウクライナ問題が(一般の印象では)突然に世界的な問題となって、専門家が少ない。本もほとんど出ていないし流通していない。誰のどの本を読んでいいかわからない。そう思いませんでしたか?

いや、正直、私も思いましたよ。

私の場合は職業的に国際問題を扱っていて、ロシア・東欧専門家と顔を合わせる機会もあるので、そんなときに聞いてみたりできる。英語の新聞・雑誌に目を通していると、一躍脚光を浴びた英語圏の専門家の新著を電子書籍で読んだりして、素人ながら楽しんでいる。

それでも、結局どの本がいいのかは、よく分からない。それは、学生のときちゃんと勉強しなかったから。

ウクライナ問題が急激に深刻化した時、そういえば学生時代の一般教養の国際関係論の先生がウクライナ専門だったな、とじわじわ思い出した。それどころか、この本が出たときには大学院生だったが、大学生協で割引で買っていたことも思い出した。まあそれが、むやみに本を買っていた時だったし、私の専門分野とそんなに重ならないし、ということで結局書庫の奥の段ボール箱の山の中に入ってしまって出てこないんだけどね。

なので、途上国についての専門書がほぼ全部揃っているとある専門図書館に行って借りてきました。

高い本だし、論文をもとにした本だけど、本の体裁の近寄りにくさはともかく、かなり分かりやすく書いてある。書評ではないので内容は紹介しません。

1990年前後に急速に生じた変化を見届け、論文を何本も書いたうえで、1998年に出た本だから、学会誌の論文のような晦渋さはあまりなくなっている。それでも、東西冷戦崩壊、旧ソ連諸国の独立、という出来事が「過去」になったかのように思われた時期に出版された時点では、一般的にはあまり話題にならなかったように記憶している。

東大教養学部の隣の駒場Ⅱキャンパスにある先端研に勤めるようになってからは、ちょっとした用事で教養学部に行ったときに、中井和夫先生とは道ですれ違ったこともあった。

昨年定年になっていらっしゃるんですね。

学生時代の先生方が、団塊世代なので、ごそっと定年になったのを記念して、こんな面白そうな論集も出ている。

ぽちっと買ってみました。

中井先生は私が教養の学生だった頃はまだ助教授だったのか・・・すれ違ったところを見た感じは、昔からずーっと変わらない安定的な風貌という印象でしたが。多分会話したことはありません(もしかして一回ぐらいはあったかな?あったとしても、たぶんすごいバカなことを言ったと思う)。

当時の中井先生は大学院で教えるだけでなく、1・2年の教養課程の必修の社会科学の国際関係論の授業も受け持っていたと思う。あんまりカリキュラム通りに勉強する学生ではなかったので、全てがおぼろげな記憶ですが・・・

必修といっても、いくつかある社会科学の科目の選択肢の中での一つだったと思う。当時のカリキュラムでは、国際関係論と経済学と社会思想史などをいくつか選べばよかったのかな?

すみません。ずっと研究所勤めなので、准教授を名乗っていながら、教育機関としての大学のシステムをよく理解しておりません。そういった正確なところを知りたい人は、より適切な方面にお問い合わせください。

さて、当時の印象では、国際関係論というと汎用性があると思うのか、履修する学生が多くて階段教室でマイクで講義ということになる。私は社会科学といっても、社会思想史のような受講生が少ない方に行っていた気がする。

ただ、国際関係論にも興味はあったので、階段教室の後ろの方で、ちょっと座って聞いていたことはあると思う。そんなときの先生の一言がずっと耳に残っていたりするもんです。

当時はウクライナ?なんでこんなマイナーなことやっている先生が必修の国際関係論なんだ?なんてたぶん思ったこともあったんでしょうね。もしかすると周囲にそんな発言をしたかもしれません。すみません。恥じ入るばかりです。

もっとずっとマイナーな中東やイスラーム学なんて分野に「これだ!」と思って邁進しかけていた奴が何を言っているんでしょうか。

いいんです無知は学生の特権ですから。

重要なことは、無知をフェイスブックやブログで晒して世界ばらまいたり恒久的に記録に残したりしないことです。それさえ守れれば、期間限定でスカーと大気中に無知を放出していいのが大学生。どんどん放出してください。ただし私の周りではやめてください。

うーん思い出してきたぞ。ウクライナとかじゃなくてもっと一般性のありそうな授業はないのかと期待して、理系向けの一般教養の国際政治の授業とかも出ていたような気がします。単位にはならないけど。いや、中井先生の授業がウクライナの話ばかりしていたとは到底思えないんですが。あまり出席してないんでわからないんですよ。それでも期末の試験にぐちゃぐちゃといろいろ書いて、平凡な成績をもらったのではなかったかな。いずれにせよ、よく憶えてません。

しかし今から考えてみると、1992年や93年の段階でロシア・東欧が「マイナー」なものに見えたのは不思議だ。1989年のベルリンの壁崩壊からの連鎖的な東側陣営の崩壊と世界秩序の再編が、国際関係の中心の動きで、新たに引かれた地政学上の最前線のウクライナなんて面白いに決まっていた。それに乗り切れなかったのは、単に私がバカだったのか。多分そうなんだろう。

ただ、私の場合は、学術情報はあふれている家庭に育ったので、今注目されている分野には、すでに専門家がたくさんいて、成果・作品が出ているので、その分野を今から始めても遅い、ということが感覚的に分かっていたせいもあるだろう。流行っている分野に今から参入しても仕事にならない、ということで東欧や民族問題は最初から興味・関心から除外したというところはある。あくまでも職業的な関心から専門分野を探していましたので。そういう意味では教養学部の2年間に就職活動をしていたようなものです。

でもこういうのは後から理屈をつけた説明で、実態はおそらく、20歳前後の頃の時間の感覚はすごく短期的・刹那的だったということではないかな。1989年のベルリンの壁崩壊でなんだかすごいことが起こっている、と中高生の時代に感じたのは確かだが、その後に湾岸戦争とかいろいろ起こっているし、この年頃であれば、3年前なんてものすごく古い時代にしか感じられただろう。

まさに1989年から91年にかけてのソ連邦崩壊で旧東欧(バルト、バルカンを含む)の民族問題が大問題になりかけるというタイミングで、91年に東大に移ってきた生きのいい最先端の助教授の授業も、メモリが短期的な新入生から見ると「古い話してんなー」ということになってしまったのだろう。ああバカでした。

そういえば最近、私がものすごく頑張って論じてきてそれなりに世の中に広まったかな、と思うような説を話すと、学生から「それ、当たり前じゃないですか。常識ですよ」といった反応が返ってくることが多くなってきた。10年前に口にすれば学会では村八分にされ、何もわかっていない権威主義のメディア企業の人などには「問題のある人」とされてしまったような説を、一生懸命頑張って広めてきた結果が、「常識ですよ」と冷たくあしらわれるとは~orz

話を戻しますと、『ウクライナ・ナショナリズム』はたぶん、全国の自治体の図書館にもほとんど入っていませんよ。入っていたらきっと借り出されちゃってますよ。大学図書館は学生等でないと基本的には借りられないし(外部の人も閲覧はできるように徐々になってきています)、当然、目ざとい人が借り出しているから待たないといけない。

で、買おうとすると版元でも品切れで、古本屋にもほとんど出回っていない。

今オークションに出したら高く売れそう(売りませんよ)。

もうちょっと話を天下国家・大所高所に広げれば、こういった本が絶版(品切れ)になってしまっていて流通していない、ということをどう考えればいいのか、どうすればいいのか、という問題については少し考えてみてもいいと思う。

繰り返すと、大前提は、個々人にとっての教訓としては「ある時に買っておけ!借金してでも買っておけ!」ということだけなんです。それでこの話は終わりにしてもいい。

しかし、もっと社会工学的な、国民教育政策的な、別に私がしなくてもいいような話をすると、こういった、専門家の間ではごく普通に知られているが、そういう人たちには行き渡ってしまっていてこれ以上ほとんど売れそうになく、通常は一般の人は買わないから出版社も在庫を抱えておけないような本が、いざ必要となると今度は欲しくても誰も買えないし読めないのはどうしたらいいのか、ということについてちょっと考えてみてほしい。

例えば東大出版会は、著作権法上の「出版権者の出版の義務」をきちんと果たしているのかということは、若干問われてもいい。電子書籍も発達してきた現状ではもう少しやりようがあるんじゃないの?と言いたい。

なお、「品切れ」と「絶版」がどう違うのかについては話が長くなるし、今後電子書籍をどう展開していくかという時に結構重要になるので、また議論したい。

とりあえず、この本の場合は、実質上「絶版」だったと考えておいてください。万が一今後重版されることがあっても、それは実質上は「復刊」あるいは「再刊」と言っていいのではないのかな。

ただし、大学出版会(「出版局」等でも同様)のように、書き手も出し手もそれほど商売にこだわっていないと見られる(出して特定の学生・専門家の間で流通させることに公共的な意義を見出している)場合には、「品切れ」「絶版」をどうとらえるかが、通常の商業出版社(大学出版会が全く商業出版社ではないとは言い切れないが)の場合とも異なってくるという点は理解している。

要するに、「絶版(品切れ)になってるじゃないかおかしいじゃないか」とは大学出版会に対してはあまり強く言う気がしない。商業出版の各社に対しては、売る気がないのに絶版にしないで権利を抱え込んでおくのは、特に今後の電子書籍の展開の中では、有害な既得権益の主張になりかねないので、著作権上の「出版の義務」を履行するか、それとも売れなくなった本の出版権を手放すか、そろそろはっきりさせる必要があるとは思うけど。だって出版社が売る気がないし本屋も置く気がないというなら、さっさとウェブサイトで公開してしまいたいですよ。必要な知識には必要な読者がいるんですから。

大学出版会で出すような本は、出たときに大部分の専門家に行き渡り、大学図書館に行き渡り、できれば自治体図書館でも所蔵して一般読者が読みたいときには貸し出しをできるようにし続けてさえくれれば、それでいいんじゃないかという気はする。

ただ、もしこれらの条件が満たされない場合、特に、図書館での所蔵・貸し出しという流通・公開ルートが機能しないような状況になった場合、あるいは図書館で買い支える量が少なすぎて、専門書を出しても出版社に採算が取れないから出せない、といった状況になれば、もう少し考えないといけないと思う。本当に必要な本が、出したいのだけれども出ないとか、出ても読まれない=死んでいる状況が広範に定着すれば、出版社も書店も図書館も、そして書き手も、一度、書き方や出し方や流通のさせ方を、考え直してみる必要が出てくる。

で、今回の件について言えば、私は持っているので、他人のことはどうでもいい、というのが第一。重要なのは、知を短期的にお金に換えるなんてことは究極的にはどうでもいいことで、本当に重要な知は、欲しくなった時にお金で買えるものばかりじゃないよ、ということ。

もちろん、より多くの人が必要性に気づいた時のために、アクセスの機会を用意しておく仕組みは必要だが、あくまでも求めなければ得られない、というのが大前提。いざと言うときにだけ「ないじゃないか」と言っても駄目です。

また、学者の出す本は売れなくていい、霞を食っていろ、ということでもなくて、給料や研究費ちょぼちょぼぐらいはないと研究が進まないだろう。ただし、その成果は、通常は、必要な人にまず届く仕組みがあればいい。

あと、だから学者は本当に重要な仕事をして、一般向けの文章なんか書くな、ということでもないとは思います。「あの人は本当に重要な仕事をするから、売れなくても本を出そう」と言って待ってもらうためには、少なくともそう期待してもらえるだけの何かがありますということは可能な限り示しておかなければならないんじゃないかな。宣伝ばかりが先立つのも困るけど。結局はバランス。

読み手と書き手がほとんど全員知り合いであるような手堅い専門書でも、もし万が一、通常よりも多くの人が読んでみたいというようになった時、お金を出せば手に入る、読めるような仕組みがあれば、それはそれで良いことだ。ただしそのような仕組みを維持・管理するコストはだれが払うの?ということになる。そのコストを引き受けつつ、うまくいったら儲けよう、と考える人が出てきても、それは止めないようにしておいた方がいい。

知は使ってもらってこそ生きることは確かだし、誰かがどこかでお金を出さないと知の生産と継承が続いていかないことも真理ですから、いろいろ新しい出版や流通・公開のあり方が出てくることを期待しています。でも、繰り返すけど、「マネタイズ」なんてことばかりあんまり考えない方がいいよ、ということは今回思った。

【出演予告】4月24日(木)NHK『クローズアップ現代』で解説

テレビ出演情報です。
4月24日(木)のNHK『クローズアップ現代』(夜7:30~7:56;再放送、深夜0:10~0:36)で「広がる“新イスラム国家”の脅威 ~アルカイダの逆襲~」をテーマに、スタジオで解説を行います。

映像はNHKの独自取材や各国放送局のものが編集されると思いますが、私の解説の方は、このブログでも紹介した昨年度のいくつかの論文が基礎となります。【参考1】【参考2】

あれから一年、今年もボストン・マラソンがスタート

 先ほど、『ブリタニカ国際年鑑』に、ボストン・マラソン爆破テロ事件やイナメナスの天然ガス・プラント襲撃事件など、2013年のグローバル・ジハードの動向について回顧・解説を書いた旨を書きましたが、忘れていましたがつい先ほど、ボストン・マラソンがスタートを切ったようです。

“Nearly 36,000 runners ready for first Boston Marathon since bomb attack,” Reuters, April 21, 2014.

ロイターの実況ツイート
“Boston Marathon”

「走り続けるボストンマラソン テロ1年、3.6万人参加」『朝日新聞』2014年4月21日22時42分

 あれから一年。早いような、とてつもなく長い時間がたったような・・・個人的には研究の手ごたえを感じた点もありましたが、確かな成果はこれからです。

【寄稿】『ブリタニカ国際年鑑』2014年版の「イスラム教」の項目

『ブリタニカ国際年鑑』2014年版に解説を寄稿しました。

池内恵「イスラム教」『ブリタニカ国際年鑑』2014年版、2014年4月、247-248頁

短いものですが、2013年のイスラム教と国際政治を、三つの事件・事象から解説しました。1月16日の「アルジェリア人質事件」、4月15日の「ボストン・マラソン爆破テロ事件」、そしてこの昨年を通じて進んだ、シリアやエジプトやイエメンなど「アラブの春」後に治安が乱れた諸国にグローバル・ジハード運動が浸透する「『開放された戦線』の拡大の事象を取り上げました。

アルジェリアのイナメナス(インアメナス)での事件や、ボストン・マラソン爆破事件については知られている情報を要約しただけですが、「開放された戦線」については、下記のブログ・エントリに挙げた昨年度に出た諸論文を踏まえた独自の議論です。

【論文】「指導者なきジハード」の戦略と組織『戦略研究』14号(2014年3月31日)

ご参考までに。

サウジとカタール和解か?

 世界のエネルギー安全保障に重大な影響を与えるGCC諸国だが、その内紛が激化して心配されていた。

 最近の経緯はこんな感じ。

3月4日 GCC外相会議⇒カタールとサウジの対立激化。カタールのムスリム同胞団への支援と、アル=ジャジーラの批判的報道にサウジ・バーレーン・UAEが反発
3月5日 サウジ・バーレーン・UAEがカタールから大使召還を発表
3月25・26日 アラブ連盟首脳会議(クウェート)⇒歩み寄り見られず
3月28日 オバマ大統領サウジ訪問⇒GCC共通の同盟国・保護国であるアメリカとの隙間風の印象拭えず

 サウジ・バーレーン・UAE対カタールで激しく対立し、その中間にクウェートとオマーンがいてとりなしているが双方譲らず、という構図だったが、先週あたりから、そろそろ一定の歩み寄りがあるのでは、とうわさされていた。

 そんな中、4月17日にリヤードでGCCの緊急外相会合が開かれた模様だ。そこではこんな感じの「手打ち」が行われるよ、という事前の観測記事が出ている。

“Rift within GCC ‘coming to an end’: Reports indicate Qatar will expel Gulf citizens active with the Muslim Brotherhood and tone down Al Jazeera coverage,” Gulf News, 15:28 April 17, 2014.

カタールが何名かムスリム同胞団の活動家とされる人物を国外退去させ、エジプトでの軍政対ムスリム同胞団の抗争で軍政に批判的なアル=ジャジーラの放送を若干控えさせるとのこと。

 最終的にどうなったのか、いろいろな情報はありますがまだ定かではありません。

 エジプトで軍政支持(およびサウジ支持・反カタール)を鮮明にしている『マスリー・アルヨウム(今日のエジプト人)』紙は4月17日夜にホームページに掲載した記事で、「カタールはムスリム同胞団への支持の停止とエジプト情勢から距離を置く合意で調印した」と、クウェート筋を引いて報じている。

 同じく4月18日早朝の報道だが、サウジアラビア資本で、カタールのアル=ジャジーラと競っている衛星放送『アラビーヤ』は、GCCの再結束のための「コンセンサス」が得られたと報じる。

 『アラビーヤ』のアラビア語版ホームページに載った記事ではもっと詳しく、カタールはGCC諸国の国民を帰化させない(=各国の反体制派を匿わない)、ムスリム同胞団の団員を追放する、プロパガンダをおこわない(アル=ジャジーラの報道を管制する)、といった点でサウジなどの要求を受け入れたという。合意の実施の方法を話し合うために、約2週間後に再びGCC関係国の外相会合を開くという。

 なので、実際に誰を追放するのか、アル=ジャジーラをどの程度統制するのかなどで、また紛糾しないとも限らない。

 また情報が出てきたら書いてみましょう。

 GCC諸国の政治、特に外交政策は、国王はじめ数名で決まるので、公開性・応答責任はゼロ。

 通常の政治学や国際関係論の研究はやりにくい対象です。そこをなんとか、手がかりを見つける人が出てくるといいのだけれど。

京都へ

 久しぶりの京都出張。

 10年前、京都に就職して東京を離れた頃、この曲が流れていました。

 JR東海CMの曲だったので、TOKIOが京都で新幹線のぞみで、とまったくそのまんまですが。

 正面からストレートにぶつかることがいい時もあります。SMAP全盛時代のTOKIOは挑戦者でしたね。

 いつまでも挑戦者でいよう。

『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)

 月一回の読書日記を始めます、と告知したのですが(読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)2014年4月1日)、第1回の掲載号の発売日を誤って4月21日(月)としていました。

 今気づいたら実際には4月28日(月)発売の5月6日号に掲載でした。すでに原稿は出してあるので、お待ちください。

 今更ながら、書いてからタイムラグがあるんですね。

 2011年の「アラブの春」以来、ウェブ媒体への寄稿に力を入れていましたので、締め切りから発売までの感覚を忘れていました。

 昨年は『エコノミスト』に何度か書きましたが、時事問題についてだったので、校了日ぎりぎりまで締め切りが延びていたのですね。書評などは早めに原稿を確保しておくようです。

 もともと私は、月刊の総合誌・論壇誌に多く書かせてもらってきたのですが、「アラブの春」で、国際政治の動きが新しいメディアに媒介されて加速する現象に直面し、ウェブ媒体の可能性に気づかされたことと、月刊誌・論壇誌の相次ぐ廃刊や部数低下、広い世代への訴求力低下に、方向転換を迫られました。

『フォーサイト』(新潮社)では極限までのリアルタイムの発信を試みてきました。

 今回あえて紙媒体の週刊誌に戻った理由は・・・・

 連載書評でお読みください。

***

 書評といっても、まさにこれだけタイムラグがあるのだから、速報性や話題性を競ってもしょうがない。紙幅に制限があるから情報量も限られている。リンクも貼れない。

 もっと長いスパンで、本を読むこと、買うこと、書くことがどう変わっていっているのか。その中でなおも本を読む価値とは何か。そんなことを、5週に一度という、間延びした間隔ですが、継続して考えていく、そのような欄にしたいと思っています。

 第一回は「本屋に帰ろう」というテーマ。
 
 なお、ウェブ媒体や電子書籍を否定したり敵視したりするつもりはありません。ノスタルジーから本屋と活字・紙媒体を礼賛するのは、あまり意味はない。

 そもそも極端な活字派の私だってこのブログを書いている。

 今回の書評エッセーと本の選択自体が、インターネットで下調べをした結果、ウェブ雑誌の「マガジン航」にヒントを得ていると、文中でも断っております。

 私たちの生活とインターネットや電子書籍は分かちがたくなっていて、そこから大きなものをすでに得ている。だからこそ紙の本にも街の本屋にも新しい価値や役割が生まれてくる。そういう前向きな姿勢の「本屋本」を紹介するのが、今回の趣旨です。

 連載で書ききれなかったことは、このブログにも書いてみましょう。

 4月28日発売号でのエッセーの中核の部分は、本は究極にはデータだけやり取りできればいいように見えるのだけど、でも実は「モノ」として不器用に厳然として存在することにこそ本の強みはある、という点。

 この点は別の場所でもう少し深めてみたいものだ。

 そして、本屋は「モノ」としての本を売っているのだけれども、しかしモノと読者が出会う場と機会という「経験」を提供してこそ意義を持つ。インターネット書店や電子書籍が発達した現在、これは「逆説」に近い。「モノ」としての制約を極力超えてくれるのがインターネット書店や電子書籍の強みなわけで、この点でリアル店舗は不利に決まっている。

 しかし「モノかデータか」という二分法は現実の私たちの生活では無意味なんですね。本がモノとして厳然とあるからこそ、モノと人の出会いというモノならざるものを生み出す人や場所に価値が出てくる。

 インターネット書店は圧倒的に便利です。ウェブ雑誌は効率的で、全国・世界各地の図書館から本やデータを取り寄せることが一層容易になっている。けれどもだからこそ、モノとしての本の価値が出るし、リアル書店も見直される余地が出てくる。

 これまでと同じやり方をしていてはだめだけど、新しいやり方でこれまでの書店や出版社の全員が生き残れるとは限らないけれども、やり方によっては、書き手と書店が新たに読者とつながることができる。可能性はむしろ広がっている。それをどう生かすか、知恵の絞りようだ。

科学と政治とナショナリズム──あるいはエジプト化する日本

 いろいろとやることが多くてブログに時間が割けないのですが、なんだか世間は無用に騒がしいらしい。だがテレビを見ていないのでよく分からない。何となく関係しているかなーと思う過去のエントリを二本再掲します。皆さん、頭を冷やしましょう。そうすると、背筋も寒くなってきます。

エイズとC型肝炎にも勝利したエジプト軍(2014年2月26日)

 エジプトの軍医学研究所が「C型肝炎もエイズも探知して治癒する装置を開発」と発表⇒実績を出したい政府がこれを礼賛⇒ナショナリズム・軍礼賛に燃えたエジプト・メディアがこれを絶賛して加熱報道⇒国際的に「明らかに変だろそれ」と批判続出⇒政府は一転して否定⇒開発者本人は記者会見で「実際に何人も治した」とか、「某国の諜報機関の陰謀でもみ消されそうになった」とか怪気炎、もう誰にも止められない⇒今でも支持者がネット上に多数。途上国では科学がナショナリズムと化している⇒外から見ると国家と社会のそれぞれの威信・信頼性ガタ落ち(今ココ)。

続いて翌日の続報。

在米エジプト人研究者の苦衷(2014年2月27日)

 在外エジプト人科学者にエジプト・メディアが突撃取材。大変困惑していらっしゃいます。核心部分を再録。とある新聞記事の抄訳です。

 エジプトの『ワタン』紙の記者が在米のエジプト人科学者に突撃取材してこの「大発見」へのお墨付きを得ようとするところ。

質問「エジプトの新発見をどう見ていますか?」
答え「メディアを通じて知っただけなので、この問題についての私の発言は記者会見とテレビの情報にしか基づかず、国際的な科学研究には基づいていない。科学研究ではこの装置についても実験についても何も知見がないんだ」

質問「どう違うんですか?」
答え「これは科学研究の分野ではすごく重要なことだ。何かを科学上の新発見というためにはね、その発見は定められた発表の仕方とか典拠への参照の仕方とかを備えていないといけない。例えばこのような治療法についてはね、それぞれの病気についての専門の科学研究の分野で受け入れられて発展していかないといけない。まあ一般的に言って、軍が科学研究を奨励してくれることを祝福しますよ。軍と工兵部門が真剣にC型肝炎の治療を支援してくれていることを祝福しますよ。エジプトでは非常に多くの人がこの病気に罹患しているのですから。でも私がいつも望んでいるのは、研究が国際的に認められたやり方に則って行われることなんだ」

質問「どういう意味ですか?」
答え「世界全体で、科学研究はある特定の方法に則らないといけないと合意しているんだ。誰かが理論やアイデアを提示するには、発表して弁護しないといけない。この治療法をどのように適用したかを明らかにしたり、この分野の専門家の典拠を参照したりして、この発見を受け入れてもらえるようにしないといけない。治験者にも典拠を明らかにして、権利を守らないといけない・・・・」〔以下略〕「ターレク・ハサナイン博士『科学の発見について記者会見からは判断できない』」El-Watan紙2月26日より。

カタール・ドーハの国営モスク

今日はあまりに忙しく、ブログに文章を書く時間なし。

代わりに3月末に行ったカタールの写真を何枚かアップしましょう。

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ムハンマド・アブドルワッハーブ・モスクの中庭。大雨の後で、水面に回廊が反射して幻想的です。

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ミナレット。

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湾岸らしい、おなかおっきいお兄さんとミナレット。

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キブラ(カアバ神殿の方向)を示すキブラ(壁の窪み)に向かって礼拝

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オイル・マネー(正確にはガス・マネーか)の精粋というべき巨大建築物でした。

しかしなんで超伝統主義のワッハーブ派の祖を、カタールが国家として顕彰しているんでしょうね。

実はNHKBS1はすごいインテリジェンス情報の塊

 春の番組改編で、NHKBS1の国際ニュース番組もいろいろ変わった。NHKBS1の各種の国際ニュース番組は、国際情勢を見る上で必須のツール。

 時間はスポーツなどで変わることがあるけれど(←やめてほしいです。ニュース・チャンネルとスポーツ・チャンネルは分けてください、NHKさん。特に、オリンピックやワールドカップがある期間には国際ニュース番組がぐっと減るというのは困ります。まさにその陰で毎回世界で大事件が起こっているじゃないですか)、私が特に重視しているのは以下の番組。

「ワールドニュース」(朝6:00~6:50)
「キャッチ!世界の視点」(朝7:00~7:50)
「ワールドニュース・アジア」(午後2:30~2:50)

 これだけのために受信料を払っても安くない、というか個人的にはこれだけのために払っているとすら思っている。それに加えれば深夜12時からのBS世界のドキュメンタリー

 これらの番組を知っている人たちには、「嫌味だな」と言われるかもしれませんね。だって全部翻訳番組で、NHK自身が作ったものではないから。

 もちろんNスぺとかクローズアップ現代とかも見ますよ。たまにはね。

 でも、もしこれから国際関係を勉強したい、中東を勉強したいという人がここを読んでいたら、まずハードディスク・レコーダーを買ってBS1の国際ニュース番組とBS世界のドキュメンタリーを毎日自動録画しておきましょう、とお勧めする。最近はハードディスクが増設できるものが多いので、そういった機種がいい。投資効率が最も良い。ユーチューブなどを見れば、外国の映像はいくらでもあるように感じられるかもしれないが、しょせん無料のものは無料に過ぎない。

 始めるなら、早ければ早いほどいい。

 ドキュメンタリーは外国から権利を買ってきているから、良いものが厳選されている。それらが多くは一回しか放送されない。あるいは再放送がせいぜい一回だけ。いくつかしょっちゅう再放送されているものもあるけど、一般受けするだけであまり重要なものとは思えない。

 国際ニュース番組の方は、これがまた良い意味で日本的。こんな番組は日本にしかないと思う。

 どう特異かというと、各国の主要なニュース局の定時ニュースをダイジェストして、短い時間に詰め込んでいる。朝6時からの「ワールドニュース」の場合、フランス、アラブ、ロシア、イギリス、アメリカ、中国から6局が選ばれている(他の時間帯にはドイツやスペインや韓国が、曜日によっては香港やインドなども入っている)。

 日本の「箱庭」的ダイジェスト文化の極致と言えるだろうか。よその国のチャンネルを毎日きちょうめんに整理して一つの番組を作って放送しているって、日本にしかないと思う。

 イギリスやアラブ諸国などでは各国の新聞の1面を紹介する番組が朝にあるけれども、それともちょっと違う。活字の記事をテレビで紹介する時には、あくまでも主役は記事についてコメントするスタジオのキャスターやゲストだ。

 しかしBS1の国際ニュース番組では、特に「ワールドニュース」「ワールドニュース・アジア」では、スタジオは出てこないで、番組冒頭からいきなり各国のニュース局の定時ニュースの抜粋が始まってしまう。

 「キャッチ!世界の視点」の方は、「ワールドニュース」で使われたニュースをさらに切り取って、日本のスタジオの要約・解説が入る。最初は補助輪のように、要約・解説があった方が分かりやすいかもしれないが、より生のニュースに近い「ワールドニュース」の方が、長期的には得るものが大きいのではないかと思う。

 1局あたりは10分にも満たないのだから、1日見ただけでは大したものに感じられないかもしれない。しかし毎日10分を大学4年間見続ければ、ものすごい蓄積になる。もちろん毎朝この時間に起きて見られないこともあるだろう。だから録画しておく。興味を持てないニュースは早送りすればいい。私の場合、50分の番組を早送りやスキップを使って20分ぐらいで見ている。

 また、いろいろ諸事情があってニュースなど見る気がなくなってしまったり旅行に行ったりして、何日も、あるいは何週間も間が空いてしまったとしても、ハードディスクにためておいてまとめて見ると追いつける。

 実は、毎日見るよりもまとめて見た方が効果的かもしれないとすら思っている。例えばアル=ジャジーラの朝の10分弱だけを、1か月分まとめて見ても、3時間ぐらいあれば見られるだろう。その3時間で、1か月の中東の動きが、個々の断片的なニュースの「点」を結んだ「線」のように見えてくる。さらに「ワールドニュース・アジア」でのアル=ジャジーラの毎日5分を足せば、「線」がもっと滑らかになる。

 なお、ニュース番組は、画質なんて落として録画してかまわない。そもそも外国から転送されてくる映像の中には、データ形式を変えたり圧縮したり解凍したりしているうちに画質が悪くなっているものがある(アル=ジャジーラなど)。だから画質を落として録画しても、もはやほとんど変わらない。10倍以上にしても、アル=ジャジーラの字幕はちゃんと読めます。

 いちおうレコーダーの設定を確認して、二重音声で副音声がちゃんと残って録画されることを確認したほうがいい。英語やフランス語の勉強にも最適。もちろんアラビア語にも。

 3月末までは「ワールドWave」「ワールドWave Morning」「ワールドWaveアジア」と呼ばれていた番組が、「ワールドニュース」「ワールドニュース・アジア」「キャッチ!世界の視点」にそれぞれ変わったようだが、「ワールドニュース」「ワールドニュース・アジア」の方は、内容はそれまでと全く変わらない。アナウンサーも変わっていない。「キャッチ!世界の視点」も、キャスターは入れ替わったけれども、「ワールドWave Morning」と基本的な趣旨は同じだと思う。

 なお、上の一覧では挙げなかったが、夜の10時からの国際ニュース番組は、3月までの「ワールドWave Tonight」から「国際報道2014」になった。

 内容が一番変わったのはこれではないか。「Tonight」の方は、基本は他の「ワールドWave~」と同じ海外放送局の映像を用いて、その上で記者の解説や日本の専門家の解説が入るというものだった(私も何度か解説で出たことがあります)。

 それが、新番組の「国際報道2014」では、NHKの撮ってきた映像をより多く使い、NHKの方で組み立てたニュースを中心に報じようとしているようだ。そして、コンセプトとして最も重要な変化は、国際ニュースを「日本」が絡むものを中心に取り上げようとしているところだ。

 国際ニュース番組を「日本」に引きつけて構成することには、良し悪しがある。日本と関係している国際問題を取り上げる、あるいは日本の視点から国際問題を見るということは悪いことではない。むしろこれまでのNHKBS1の国際ニュース番組がすべて(夜の「ワールドWave Tonight」を含めて)、日本と切り離されたものとして国際ニュースを扱ってきたことの方が「異常」と言おうとすれば言える。

 しかし、「日本」に引きつけることで、下手をすると陥ってしまいかねない罠がある。第一に、「日本の視聴者の抱いている(と番組制作者が想像する)、ズレた視点でニュースを選択し、解釈し」てしまいかねないこと。地上波の各局ニュース番組の中東報道などはほぼ確実にこの種のものなので、私は「中東分析」の情報源としては一切見ていない。「日本での(中東に関する)論調」を調べるという目的のためにたまには見ますが、ほんのたま~に、どうしても必要を感じた時だけです。

 第二に、さらに問題なのは、日本が絡んだ国際問題(中国とか韓国とかアメリカとか)を、NHKの記者やキャスターが本当に日本の政治的思惑から中立的に、批判的に報じられるかということ。それができないならば、「日本に引きつける」という新コンセプトの新番組は、せっかくの数少ないお金を出してまで見る価値のあるBS1の国際ニュース番組から時間を奪う効果しかなくなる。

 変に方々に「配慮」して意味不明にたわめた解説や編集を施して、元々のニュース映像の意味するところをぼかしたり、単に勘違いして解説したりするよりは、各国のニュースをそのまま流してほしい。各国の報道機関の生のニュース映像から伝わってくるものは、インテリジェンスの情報源の基本中の基本で、最も価値があるものだ。

 外交や通商貿易や情報に携わる官庁や、あるいは巨大企業でもなければ取りまとめることのできないような各国情報を、主要放送局の定時ニュースのダイジェストというやや簡便な形だけど、受信料を払うだけで国民全員が見られるというのは、日本にいて数少ない国際情報上の特権だ。

 外務省が各国大使館から集めてくる「公電」だって、もちろん中には外交官が特殊なコネクションを使って足で集めてきたものもあるけれども、数からすれば圧倒的多数は新聞の切り抜きやニュース報道のダイジェストだ。そういう公開情報を定点観測・定時観測する地味な作業によってインテリジェンス情報は形成されるのであって、007みたいな捕り物をして取ってくる情報なんてめったにないし、ろくなもんじゃない。

 なんでここまで「ワールドWave」→「ワールドニュース」に熱く肩入れするかというと、そもそも私はテレビがない家に育ったので、就職して家を出るまでこの番組を見ていなかった。

 「テレビがなければ、ネットでみればいいじゃん」というのはマリー・アントワネットのような話で、当時はインターネットはございませんでした。念のため。

 小学生ぐらいからこれが家で毎日流れていたら、よっぽど「国際人」(最近なら「グローバル人材」か)になれたと思う。これから勉強する人(若い人も、もうそう若くない人も)に、日本国内にだけ毎日流されている、こんな良質の情報の宝庫を見逃してほしくない。

 もちろん私自身は、大学に入って中東を研究するようになってから、現地語で独自の高度な資料を扱うようになった。ニュースにしても、これらの番組で流しているものの数十倍を毎日処理している。けれども、それは自分の関心に沿って掘り下げて集めたもので、抜け落ちる部分も多い。毎日欠かさず定時にニュースを録画してダイジェストして翻訳までつけるというのは、個人にはできない。

 中東の政治や社会の流れを見る時に、自分の趣味嗜好で集めた情報ではなく、定時ニュースを機械的にダイジェストしてくれた「ワールドニュース」の録画をまとめて見るという作業は、どっちかの方向に偏りかけた頭をチューニングするような効果がある。

 「国際報道2014」のコンセプトが悪いと言っているのではない。むしろ必然的な変化だろう。つい5年前ぐらいまでは、外国の放送局が報じる国際情勢と、日本社会で関心を持って見られる政治・国際問題の間には、確かに乖離があった。そこで、地上波のNHKニュースでは日本社会向けのきわめて狭く切り取られた「世界の話題」を流し、BS1ではそれと隔絶した「外の世界」で流通するニュースをそのまま流すという「分業」が成り立ち、またそれがある程度現実に適合していたのだと思う。

 いわば「ガラパゴスとその外」に、現実に距離があった。日本は国際政治にあまり影響を与えなかったし、国際政治の動きが日本の政治や社会に目に見える直接的な形で影響を与えることは少なかった。

 その前提は変わってきたと思う。アメリカやイギリスや中国や韓国のニュース番組の中に、日本がより頻繁に、それも経済や文化ではなく政治的な問題として報じられるようになってきたのだ。

 実は、NHKBS1の少し前の国際ニュース番組に携わっていた人に、聞いたことがある。その人は「この番組はやりがいがある。NHKでは考えられないぐらい自由にできる。ニュースの内容が日本に関係ない限りは、好きなだけ高度な内容、真実を追求できる」といったことをやや屈折した言い方ながら肯定的に述懐してくれた。

 皮肉な話で、特派員経験のある記者にとって、地上波で多くの視聴者に向けて報じようとすると、多大な制約が課せられる。BSでは、報じたい国際ニュースを、「日本と関係ないものであれば」自由に報じたいように報じられた。

 しかし日本がより深く国際情勢に組み込まれていく中で、国際ニュースと国内ニュースの画然とした住み分けは、もう不可能になったのかもしれない。

 その意味では、今後もBS1が図らずも提供してくれている貴重なインテリジェンス情報を利用しつつ、「国際報道2014」の、日本と不可分のものとしての国際ニュースの報道という新たな試みに期待したいものだ。

 くれぐれも、「中国の一方的な主張・宣伝を日本のNHKが流すなんてけしからん」とクレームをつける見当はずれな代議士の圧力などに負けないようにしてほしい。隣国の国営放送の傍受・解析はインテリジェンスの基本で、それを国民全員がやろうと思えばやれる状態になっているなんて、すごいことなのにね。

【論文】ジハード論の系譜学『国際政治』175号

やっと出ました。

池内恵「近代ジハード論の系譜学」日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁

学会誌の号全体はこれ

「やっと」というのは、私が書くのが遅れたという以外の意味は一切含んでおりません。

完成が遅れて、お世話になった皆さんには大変にお手数・ご迷惑・ご心労をおかけいたしました。

また、先に論文を完成させて提出させ、刊行を待っていた多くの執筆者の皆様にお詫びいたします。

さて、これで2013年度の棚卸しが終わりました。

新学期に向かっていきましょう。