【寄稿】「逃げ切り保守」の時代

告知するのを忘れていましたが、月刊『文藝春秋』に寄稿しました。

池内恵「団塊世代の「逃げ切り保守」」『文藝春秋』 2014年6月号、328-329頁

「安倍総理の「保守」を問う」という「超大型企画」なるものの一部なのですが、「アンケート」ということで400-500字程度の短いものです。私は時数を極力守ったので言葉足らずなのですが、他の人はけっこう長く書いてるよ。ずるいなあ。

だいたいこんな趣旨のことを。字数が足りないので実際にはもっと投げやりな文体になっていますが。

*特定秘密保護法とか、集団的自衛権とかに対する、近年のメディア上の議論はまったく無意味で論点がズレすぎている。

*これは保守思想とかリベラルとかいう問題ではなく、「団塊世代」の不勉強と居直りが原因。

*現在の議論は「俺たちが正しいと思ってきたことを変えるな」と定年退職して暇になった団塊世代が数を頼みに騒いでいるだけ。

*安倍首相は「おじいちゃんっ子」で、実年齢と主観的な世代認識がズレていて、その結果、団塊世代のだらしなさをそれより「上の世代」の目線から成敗する役割を負うことで、結果的に幅広い世代に支持されているのではないか、というのが私の仮説。

安倍首相は、団塊世代に下からやいやい言われ続けて嫌な思いをし続けてきた、(例えば)政治評論家の故三宅久之さんタイプの旧世代に絶大な人気を誇るとともに、団塊ジュニア以下の、逃げ切り・無自覚・身勝手な団塊世代が年金とか国家財政とか安全保障体制とかを食いつぶして居座ることにいい加減我慢ならなくなっている下の世代から、相対的・消極的に支持・黙認されている、というのが大勢ではないかと思う。

だから、安倍首相への支持率は高くても、野党時代の自民党の憲法改正案とかは、復古調過ぎて大勢はまるで支持も関心もない。安倍首相とその取り巻きが、9条ではなく、憲法全体を復古・道徳調で本当に書き直すという動きにもし出れば、下の世代からの支持は一気に引くだろう。

問題は、安倍憎しで凝り固まっているリベラル派の言っていることが、まるでリベラルでないこと。

・・・だってねえ「立憲主義を守れ」という側が、その最大の守り手として「天皇陛下」にすがったり(リベラル・左翼は最低限共和派であってくれないと困ります)、「内閣法制局」に高次の憲法解釈権があると主張してそこから内閣の政治判断を統制しようとしたりするのって(それ最悪の官僚支配だろ。せめて最高裁にしろよ。最高裁判事だって官僚だから不十分なんだが)、日本を一歩出ればもうまーったく説明できませんよ。

集団的自衛権の議論を聞いていると、日本のリベラル派は、天皇親政の官僚支配国家を望んでいる、としか理解できませんよ。外国人にもしそのまま彼らの議論を紹介すると、「その人たちはリベラルじゃなくて、国粋民族主義保守派なのでは?」「いや、でもそういう人たちが戦後の日本ではリベラルと呼ばれているんです」と噛み合わない議論をしなければならんのです。

こういった議論が日本では、政界や学界やメディアでなぜか通用しているという事実は、ある国のある歴史的環境において生じた近代史上に稀な逸脱思想史として、興味深い分析対象となると思いますが、こういうことを対象化すると学界・メディアで村八分になるので誰も言い出せない、考えることすらできない構造があります。

すさまじい同調圧力の中で、その場その場でふさわしいことを言った人が生き残る、というのでは思想は育たないよな・・・しかもそれがリベラル陣営なんだから。まあ保守派もひどいけどね。しかし同調圧力かけて異論を持つ奴は村八分にしてボスが予算と発表の場を支配して思想的ヘゲモニーを維持しようとする「リベラル」ってなんなんだ・・・グラムシが生きていて日本語を解したらなんと言うでしょうか。

摩訶不思議な日本思想の逸脱を、結局日本の学者は「ムラ」の中にいるから対象化できず、そのうち英語で外国の学者が分析して外国の大学出版社とかから出してそれがスタンダードになるんだろうな・・・

しかしこういう不利な状況だからこそ、「出過ぎた杭」になって日本の思想状況を相対化するような論者が出てくると、一気に頭角を現せると思うのだけど、そういう人いないかなあ。

バカの壁の壁

アートだ。

「古書店で“バカの壁の壁”を建設中! 大ベストセラー作品をモチーフ」THE PAGE 5月27日(火)10時0分配信

名古屋に「バカの壁の壁」建立中。

本屋に行ってもいい本がない。

最大の原因は新書の低質化。

新書はかつて「定評の高い信頼できる入門書で、いつでも本屋に置いてある」というものだった。

それが今や、「月刊誌の信憑性の薄い特集記事一本程度を薄めた消耗品で、出た月の翌月にはもう置いていない」というものに成り下がってしまった。各社が複数のレーベルを持ち、毎月決まった数を必ず出さねばならないから、書き手も払底し、本屋の棚も奪い合いになる。

新書が「揃っている」本屋などもはやない。今月出たものが置いてあって、翌月には大部分撤去されている。月刊誌、週刊誌記事レベルのものになってしまった。

新書という制度の劇的な変質の画期は、2003年の新潮新書の創刊。

創刊の目玉が『バカの壁』だった。これが400万部売れて、各社が競って参入。新書というジャンルだけでなく、出版と本屋全体の生態系が致命的に損なわれました。

新潮社は確信犯だ。創刊の辞にもあるように、新潮社の本分は「文芸」と「ジャーナリズム」

つまり「学術」は入っていない。

「学術」にこだわらずに、文章として面白いものを面白く、ジャーナリズムとして伝え、広め、売る。このコンセプトはそれまで、幻想や誤解や思い込みも含めて「学術」の一環であることにこだわっていた新書というジャンルに衝撃を与えた。

新潮社の人たちは、その行為がいわば「川上から毒を流すこと」であるのを承知で、「低質化」を伴う新たなタイプの新書の姿を提示したので、それはそれでいい。

問題は、各社が「これが良いんだ」と思い込んで追随し、壮大で消耗的な「底辺への競争」が始まったこと。

そしてそういう出版社に迎合して毎月のように、「学術」抜きのジャーナリズムの走狗となって名を売る「学者」も現れるようになった。大学(特に、経営の苦しい私大)もそういった有名なだけで業績のない先生を重用するようになった。「学術」の生態系も影響を受けて崩れ始めたのだ。

私自身は、2002年に最初に出した本『現代アラブの社会思想』が新書だった。学術論文を手直ししてそのまま新書にした、今の基準では到底出してもらえないような種類のもの。

他に手段がなかったところに道を作ってくれたことで、新書というジャンルとその作り手(編集者・出版社)に感謝と敬意の念がある。

新潮社には『フォーサイト』でお世話になってきた。似非「学術」におもねらず、「ジャーナリズム」として報道・論評するという姿勢は筋の通ったものだ。

それと同時に、新潮新書で新書の大量生産・短期消費・低質化への口火を切ったことには、功と共に罪が大だと思う。

(昨日都内某所で、「でも新書の変質の口火を切ったのは岩波新書が1994年に出した永六輔『大往生』だよ」と言われた。まあ確かにそれはそうだ)

私が2002年の最初の本以来新書を書いていないのもそのような思いから。

バカの壁の壁の崩壊はいつ来るのか。出版界の生態系を致命的に壊したブラックバスのモニュメントはどこまで大きくなるのだろうか。

アジア相互信頼醸成措置会議(CICA)の上海宣言と大東亜共同宣言(1943)を比べたら

アジア相互信頼醸成措置会議(CICA)の4年に一度のサミットが、5月20-21日に上海で開かれ、「上海宣言」を採択して閉幕した

中国が、南シナ海ではパラセル(中国名・西沙)諸島をめぐってヴェトナムに強圧的な攻勢をかけ、東シナ海の公海上では日本の自衛隊機に異常接近するといった、拡張主義の度合いが一段と高まる兆候が相次ぐ中で、これまで全くと言っていいほど知られていなかったCICAに突然注目が集まった。

これに合わせて訪中したロシアのプーチン大統領との間でロシアの天然ガスの中国への供給で契約合意したことも大きかった。ウクライナ問題をめぐって欧米と対立を深めるロシアが、天然ガスを供給して相互依存関係にある欧州以外に天然ガスの販路を誇示して、経済制裁は無効だと牽制するのを中国が助けた形になった。

中国が自国中心の「大国間秩序」の構築を進めているかのような印象を与えるために今回利用したCICAだが、聞き慣れない機構である。これまではそれほど実体のない機構だったと言ってしまってもいいのではないか。1992年にカザフスタンのナザルバエフ大統領が提唱して設立され、翌年から活動を開始した。事務局もカザフスタンの首都アルマトイに置かれている。1993年から2010年まで議長国はずっとカザフスタンが務めてきた。2010年からトルコが議長国だったが、今年から議長国を引き継いだ。

今回加盟したカタールとバングラデシュを入れて26か国が加盟している。そのうちイスラーム諸国は17か国。トルコ、エジプト、イランを含む中東諸国やパキスタンやアフガニスタンなど南アジア諸国が多い印象を一瞬受ける。

しかしこういった拘束力の弱い国際機構(といっても実際は定期的に会議をやっているだけ)には「お付き合い」で入っていることも多いので、実態は様々な指標を用いて推測するしかないが、今回は国家元首を送ってきた国からそれは明瞭だろう。

Global Times(中国の国際宣伝紙『環球時報』の英語版)は新華社通信による発表を引いて、11カ国の国家元首が出席と報じた(これは事前の報道なので実際に全員来たかは集合写真などで確認するしかない)。

Afghanistan 南アジア
Azerbaijan コーカサス
Iran 西アジア
Kazakhstan 中央アジア
Kyrgyzstan 中央アジア
Mongolia 中央アジア
Pakistan 南アジア
Russia ユーラシア
Tajikistan 中央アジア
Uzbekistan 中央アジア
Sri Lanka 南アジア

これを見れば、実態はユーラシアの内陸国の集まりという性質が明白。ロシアと中国と、その間の中央アジアやコーカサスの旧ソ連チュルク系言語の諸国を集めたもの。チュルク系諸国の親玉としてトルコも一枚噛んだ、というのが設立時の経緯だろう。ソ連邦崩壊でロシアの力がぐっと落ちた1990年代初頭は、トルコが中央アジアのチュルク系の旧ソ連邦構成諸国に勢力圏を伸ばす、という夢が盛んに語られました。頑張って進出したトルコのビジネスマンはいるので一定のトルコ・チュルク系の経済圏を作ったとはいえるが、政治・安全保障上もトルコの勢力圏となったかというと、そこまでには至らなかった。

インドネシア、マレーシア、フィリピンというアジアの島嶼・海洋国家は加盟国ではなくオブザーバーで、日本、米国もオブザーバー。

インドは加盟国だが、今回首脳を送ってきていない。まあ選挙で政権交代の真っ最中というのもあるが。しかし名誉職の大統領を送ることは可能なはずだがそうしていない。外相すらよこさない。それに対して加盟国ではないオブザーバー国のスリランカから大統領が出席し、バングラデシュが新たに加盟国となり、パキスタンが大統領(ただし実権のない名誉職)を送っているというのが興味深い。

ペルシア湾岸の産油国からなるGCC諸国からはバーレーン、UAE、カタールが加盟しているが首脳は送ってきていない。一番重要なサウジはそもそも入っていない。アラブ諸国は全般に「数合わせ」で水増しに話を合わせているだけのような印象。

トルコは加盟国で昨年までの議長国であるにもかかわらず、今回のサミットにエルドアン首相もギュル大統領も来ておらずダウトウル外相が出席というのが面白い。

これに対してイランは加盟国であり、かつロウハーニー大統領が出席している。

ロシア・中国・イランという、米一極の冷戦後秩序に対抗する「現状変更勢力」の雄として米国の外交論壇からも注目されるこの三国の首脳が揃ったことで、この会議への注目が俄然高まった(イランの最高権力者はハメネイだが、ハメネイはそもそもほとんどいかなる国際会議にも出てこない)。

これをもって、ロシア・中国(そして実力は下がるがこれまでの欧米への敵対姿勢・実績では群を抜くイラン)がブロック化して「新冷戦か」と話題作りをするには絶好の舞台となったが、欧米によるOSCE(欧州安全保障協力機構)のような実体を伴ったものになるかというと、かなり疑わしい。既に存在するロシア・中国・中央アジア諸国の内陸国同士の安全保障上の一定の結束を再認識するものでしかないだろう。

会議の成果とされる上海宣言【中国語】【英語】では多分に薄められているが、中国がこの会議に込めた意図・主張として最も注目されたのが習近平国家主席による基調演説閉幕後の会見

基調演説では「第三国に向けた軍事同盟の強化は、地域の安全を利することにはならない」「いかなる国も地域の安全保障を独占的に扱うべきではない」と明らかに米国そして日本を牽制し、そして「アジアの問題は結局、アジアの人々が処理しなければならず、アジアの安全は結局、アジアの人々が守らなければならない」と宣言。

閉幕後の記者会見でも、英訳を見ると、旧来の安全保障観を「完全に捨て」、新しい安全保障観を打ち立てないといけない、と語ったそうです。
Xi said countries must “completely abandon” the old security concepts, while advocating a new one pursuing cooperative and sustainable features, to create a security cooperation pattern of openness, equality and transparency.

そして「アジア人は相互に協力し、協働しないといけない」と言います。アジア諸国民はアジアの安全保障をアジア人の間の協力で実現する能力を持つ、とのこと。
“Asian countries must collaborate with each other and work together,” Xi said. Asian nations have the capacity to realize security in Asia by cooperating among themselves, he added.

「アジアの安全はアジアが守る」・・・となるとこれは、かつての帝国日本の東亜新秩序構想を思い出さずにはいられません。

1943年11月5-6日、日本は中華民国、満州国、フィリピン、タイ、ビルマ、インド(独立派)の首脳(タイは首相代理)を東京に集め「大東亜会議」を開催し、6日に「大東亜共同宣言」を採択しました。

NHKがこの時のニュース映画をオンラインで公開してくれている。かなり長いもので、東条英機の演説に続き、各国代表の中国語や英語での演説も(字幕はついていないが)収録されているので大変に役に立つ。

大東亜会議での東条英機の演説と、習近平演説を例えば中国国営テレビでの報道と比べると、感慨深い。やはり歴史は繰り返すしかないのか。

東条英機は大東亜会議での演説で、大東亜戦争で米英の支配を排除してこそ「初めて大東亜の諸民族は永遠にその存立を大東亜の天地に確保し、共栄の楽しみをともにいたしますることができる」という。

東条は議場で採決の前に「大東亜共同宣言」を読み上げていますが、その前文の

「米英は自国の繁栄のためには、他国家他民族を抑圧。特に大東亜に対しては、あくなき侵略、搾取を行い、大東亜隷属化の野望をたくましうし、遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり」と英米を非難する口ぶりは、現在の中国の米国、日本非難とそっくり。

アジア人が「自存自衛を全うし」「大東亜を建設」して、「もって世界平和の確立に寄与せん」とするところも同工異曲。

こういった序文に続く大東亜共同宣言の本文(東条が読み上げたものに従って現代仮名遣いに直してあります)は、

一つ、大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設す。
一つ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実をあげ、大東亜の親和を確立す。
一つ、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢し、大東亜の文化を高揚す。
一つ、大東亜各国は互恵のもと緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進。
一つ、大東亜各国は万邦との交誼(こうぎ)を篤うし、人種的差別を撤廃し、あまねく文化を交流し、進んで資源を開放し、もって世界の進運に貢献す。

大東亜会議閉幕の翌日には、東条英機や各国代表が列席・演説した大集会が行われましたが、そこで東条は

「全東亜はいよいよその共同の使命に呈し、一挙不動の信念のもと、その協力を凝集してあくまでも大東亜戦争を完遂し、再び大東亜において、米英の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を許さず、もって世界新秩序の建設に協力せんことを期し、右、決議す」と語っています。

習近平の、カザフスタン・ナザルバエフ大統領とトルコ・ダウトール外相を従えた会見も、なんだか同様に見えます。

大東亜共同宣言の各項目の意図するところを簡単にまとめると、
(1)アジア人の協力による安全保障、共存共栄
(2)欧米の介入・支配の排除、主権の尊重・内政干渉の拒否
(3)欧米の価値観に対抗して、アジア固有の伝統文化の唱道
(4)アジア人の相互協力による経済発展
(5)アジア人の交流で人種差別撤廃を図るとともに、資源獲得を進める

今回の上海宣言でもまったく同じような項目が並びます。

(1)の共存共栄ですが、上海宣言では例えば1.2で書かれています。

We reiterate our collective desire to carry forward the spirit of solidarity, cooperation and mutual assistance; respect each other’s sovereignty; seek common development and progress; and stay committed to building a security environment in Asia based on confidence, mutual trust, good neighbourliness, partnership and cooperation among all States deeply rooted in the heart of the Asian people.

4.1では、
We are ready to act upon the “Shanghai Declaration” adopted at the Summit and contribute to bringing lasting peace and common prosperity in Asia.

ふむふむ中国語ではこうなっているのか。
「我们愿本着本次峰会达成的“上海共识”,为促进亚洲地区持久和平和共同繁荣作出贡献。」

後半部分の簡体字を直すと「為促進亜州地区地球和平共同繁栄作出貢献」。亜州地区の和平共同繁栄を促進、、、なんとなくわかりますね。

(2)の介入排除・主権尊重については1.2の中で主権尊重などがすでに触れられていますが、1.3で次のように念を押す。

・・・we emphasise that no State, group of States or organisation can have pre-eminent responsibility for maintaining peace and stability.

1.4ではさらに細かく念を押す。

・・・we reaffirm to respect each other’s sovereignty, independence, territorial integrity and inviolability of internationally recognised borders and to refrain in our international relations from the threat or use of force against territorial integrity or political independence of any state in any manner inconsistent with the principles and purposes of the UN Charter;

「領土保全あるいはいかなる国の政治的独立に関しても、武力の行使あるいはその威嚇を差し控える」とあるが、あれ?中国とロシアってこの問題でどうだっけ?という疑問が出るはずですが、ちゃんとここに「国連憲章の原則と目的に一致しないやり方で」なければ武力行使してもいい、という意味内容の限定が付されているので、国連安全保障理事会が違反だと決議しなければいい→ロシアと中国は安保理で拒否権があるので国連憲章上問題だと唯一強制力のある安保理で認定されることはない→問題ない、ということですね。

そして、政権転覆のための介入の行動をとるな、と欧米に釘を刺しています。
to uphold resolution of disputes by peaceful means, not to interfere in the internal affairs of States; not to adopt or support actions that aim at overthrowing legitimate governments;

(3)の固有文化の主張については、1.5の項の冒頭からアジアの価値観を主張。
We reaffirm that diversity in traditions, cultures and values in Asia is a valuable asset to the rich content of the cooperative relations among CICA Member States.

(4)の経済発展については1.2の中など随所にありますね。

(5)について、大東亜共同宣言では、「人種差別の撤廃」という高邁な理念と「資源欲しい」という実利・下心が一項目にまとまってしまっていて、ぎこちなかったですね。

資源に関しては、上海宣言では2.6に
We acknowledge that energy security has direct impact on sustainable development at national, regional and global levels and well-being of people in all countries.
等々詳細に記されています。

上海宣言では、イランが求める原子力開発の権利が長々と書き込まれていたり、アラブ諸国が常に一言入れさせる「ダブルスタンダードは駄目」という文言も付け足しのように滑り込ませてあります。

ロシアと中国が共に抱える分離主義やテロを断固弾圧する正当化論理は詳細に書き込まれています。2.16のように、情報コミュニケーションの制限の正当化を実質上意味する文言があります。

座興に上海宣言と大東亜共同宣言の類似する部分を探してみましたが、基本的な事実は、国家元首・首脳の出席で分かるように、「ユーラシアの内陸国の集まり」です。そして、1992年に提唱したカザフスタンのナザルバエフが今もなお大統領であるように、「非民主的・独裁政権が支配する国の寄合」という性質が濃いものです。オブザーバーとして距離を置きながら観察しておくのがいいとしか言いようがありません。

福沢諭吉が「脱亜論」で「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と書いたことが今となってはリアリティを感じますね・・・

もちろん、非民主主義国のブロック化が進み、再び冷戦的なグローバルな対立の軸となるのであれば、重大な意味を持った会議だったと後で言われることになるでしょう。今のところは大東亜会議のパロディのような、イメージが先行した実体の乏しい会議と見ておくしかないでしょう。

ジャカルタ泊

ところで、今日はジャカルタに来ています。先週のドーハに続き1泊3日の弾丸出張。今日夕方着いてさっそく晩御飯から行事があり、明日一日会議をして、深夜にはもう日本に向けて発ってしまいます。ですので街は一切見られません。おまけに帰国は関空でそのまま別の仕事に。

こういう生活をしていると本が書けないのでそろそろ閉じこもらないといけません。

非公開の会議の写真を載せてしまうといけないので、ホテルの窓からの風景。あんまりよく撮れていませんが、特にどうという光景ではありませんが、ジャカルタらしいとも言える、特徴のない風景。
WIN_20140521_234421.jpg

まさに激変する湾岸の安全保障環境

先ほど、「激変する湾岸の安全保障環境」についての最近の論考についてアップしましたが、まさにペルシア湾岸産油国のもっとも重要な国、サウジで気になる動きが相次いでいます。

5月20日に発表されたところによれば、サウジのアブドッラー国王がモロッコで静養し、サルマーン皇太子が執務を代行するとのこと。
Saudi king on holiday, crown prince in charge: royal court, Reuters, May 20, 2014 11:12am EDT

アブドッラー国王は今年で90歳とされる高齢ですから、過去にも手術や長期静養で国を離れることがあり、アラブ圏のいかがわしいニュースサイトではしょっちゅう危篤説や死亡説が流れています。

今回も、単に静養や治療で国を離れて、また戻ってくるだけかもしれません。

そもそも「アラブの春」の変動が起こる前は、サウジの国王は長い夏休みをとって国を離れて、保養地に行ってしまったものでした。「アラブの春」の時も海外で静養していましたが、急遽戻ってきて、2011年は真夏もサウジのお役人さんたちが自国でせっせと働いているという珍しい光景が見られました。体制の存続がかかっていましたからね・・・

というわけで、国王が以前のように治療・療養で国を離れられるというのは、変動が一段落して安定したとみることもできないことはありませんが、年が年ですから、「ついにXデーか」という憶測が出回るのは不可避でしょう。

最近、サウジの最高指導層の人事移動が激しい、というところが、こういった憶測を加速させます。

時間がないのでデータはまたの機会に回しますが、次のような意味を持った人事が頻繁に行われています。

(1)すでに高齢化したサルマーン皇太子の次の「第二皇太子」に、第2世代王子では最年少のムクリン王子を任命した。→初代アブドルアジーズ国王の子の世代(第2世代)での権力継承の手順を確定した。

(2)第三世代王子の中から、軍・国家防衛隊など治安機構の副大臣を任命し始めている。→第3世代への権力継承の漸進的な進行。
(3)アブドッラー国王の子息が重用される一方、有力家系のスデイリ・セブン系統の第三世代王子で更迭されている者がいる。→ファハド前国王やスルターン前皇太子などのスデイリ・セブン系統の王子と、アブドッラー国王とその子孫および「その他」連合との権力闘争の発生?(そんな単純ではないでしょうけれども)

→はよくある憶測・推測・解釈(の一部)。

しかしこれらの人事が相互に必ずしも一貫していなかったり、一度任命された人がすぐに更迭されたりしているので、スムーズにいっているようにも見えないのです。アブドッラー国王が次世代に及ぶ安定的な体制を確立しようとする動きとも見えるのですが、逆に、権力闘争が激化して主導権が頻繁に移ることによってあらわれている動きかとも邪推させます。

さらに、国際関係では、3月13日、サウード・ビン・ファイサル外相(ずっと以前から登用されている第三世代王子ですね)が、突如、イランのザリーフ外相をリヤードに招くと発表。

イランの台頭におびえ、米国の弱腰や対イラン接近に憤り、突出した行動をとって攪乱するカタールとそれに支援された中東各地の諸勢力の引き締めに本腰を入れる、というのが昨年来のサウジの動きで、湾岸国際政治の基調となっていますが、今回のサウジによるイランへの手の差し伸べが何を意味するか、大変注目されています。

サウジの内外の動きが激しくなっています。

どうなるのでしょう。

【寄稿】中東・湾岸地域の安全保障『アジ研ワールド・トレンド』6月号

最新の寄稿です。

日本貿易振興機構アジア経済研究所の発展途上国分析の専門誌『アジ研ワールド・トレンド』6月号の特集「激変する湾岸の安全保障環境」に、論考を寄稿しました。

(現在は目次が載っているだけですが、刊行後2か月たつと各記事がPDFで無料ダウンロードできるようになります)

池内恵「中東地域の政治・安全保障における湾岸産油国の影響力──「アラブの春」後のGCC諸国の台頭とその持続性──」『アジ研ワールド・トレンド』第224号、2014年6月号、10-14頁

ペルシア湾岸の安全保障環境はまさに「激変」中で、この特集に皆で論文を出した後にも急速に動いています。

この特集が対象にするのは、ペルシア湾岸地域すなわち主にGCC諸国+イラン・イラクですが、それらの国を中心にして、パキスタンなど南アジアの一部を含んだ国際関係を考察したり、より広域の中東・北アフリカ(シリアなどの中東、エジプト、チュニジア、モロッコなどの北アフリカを含むエリア)の国際関係にペルシア湾岸諸国の最近の変動がどのような影響を及ぼしているか、といった課題を含んでいます。

私の論考は、ペルシア湾岸のアラブ産油国(GCC諸国)が、「アラブの春」以後に、より広い中東・北アフリカ国際政治へ影響力を増大させた「現象」を叙述し、その要因を考察し、今後の持続可能性について検討した・・・といったものです。米国の影響力の希薄化の「印象」がそこにどう影響を及ぼしているか、なども多少考慮しています。

パトリック・シールの死

あんまり時間がたたないうちに書いておこう。

4月11日に、イギリスの著名な中東ジャーナリストのパトリック・シールが亡くなった。1930年生まれで、享年83歳。

Patricke-Seale-in-1986.jpg

代表作はAsad: The Struggle for the Middle East, 1988.

今のシリアのバッシャール・アサド大統領の父親、ハーフィズ・アサド前大統領の評伝で、シリア現代政治史の一級資料とされる。この本自体はいわゆる学術書の体裁は取っていないが、どんな研究書でも必ず言及・引用される本だ。(もちろん日本のジャーナリストの作品と比べれば、文献の参照の仕方も引用の仕方も、格段に学術的な方法で書かれているのだが)。

アサド前大統領本人を含むシリアの政権・支配階層と親交を深めて、アサドの来歴・人物像と、アサド体制の在り方を明らかにした。秘密に閉ざされた独裁政権の存立根拠を知るために、最適の本となっている。今後も参照され続けるだろう。

他にも著名な作品がいくつもある。

The Struggle for Syria, 1965から始まったシールの著作家としてのキャリアは、レバノン建国の父リヤード・アッ=スルフの評伝、The Struggle for Arab Independence: Riad el-Solh and the Makers of the Modern Middle East, 2010まで続いた。2011年以来のシリア内戦に際しても、イギリスや国際的なメディアに姿を現して解説することも多かった。亡くなったと聞いてちょっと驚いた。

彼の文章のスタイル自体が、パトリック・シールの人となりを十分に表しているとは思うのだけれども、英語圏のインテリの間ではよく知られている彼の来歴やエピソードを記せば、より何かが伝わるかと思う。

この人は、「かつての」欧米の中東研究がどういうものであったか、身をもって示している。広く言えば、オリエンタリズムの伝統の中での現代中東研究という、一つの重要な流れだが、そこにはイギリスのエリート・上流社会(そしてそこに連なろうとする一時期の米国の上流社会を含めて)の精粋というべき華やかな光の部分と、同時に、少なくとも私から見れば、嫌~な影の部分、あるいは残酷な日常の両方が、現れている。

欧米の中東研究の厚みというものは、欧米諸国が国として、社会として、文化として、中東の国家と社会と文化に深く絡み合ってきたところに由来する。そのことを忘れて、現地のアラブ社会やイラン社会などの表面上の民族主義的な言説に囚われると、現実を見失う。あまりに欧米の影響が強いから、それを否定する民族主義的言説も強まるのであって、反欧米の言説の存在は、現実の社会が欧米とかけ離れているとか無縁でありうることを全く意味しない。

だから、中東に興味を持つ際には、日本人のぼんやりした欧米への反感・コンプレックスを中東の「民衆」に託さないでください、というのが短期的にはアドバイスなのだけど、そういう日本独自の問題はここではもはやどうでもいい。

この欧米と中東との骨がらみの関係を知るということがまず第一に重要なことだ。

植民地時代が遠ざかるにつれて、欧米と中東との関係は薄れてはいるが、形を変えて残っている。根っこにはどのような関係があってそれが今でもどのように影響を与えているかを窺い知るには、幾人かの、際立った個性を持った、欧米社会の中で突出し、世間の耳目を集めてきた人たちが、どのように中東とかかわっていたかを知ることが、大きなヒントとなる。

イギリスやアメリカには、何人か同じような系統の人がいるけれども・・・今回はパトリック・シールについて。

イギリスの新聞のObituaryは格調高く、胸を打つものが多い。ガーディアンと(系列の日曜紙)オブザーバーに、同じ筆者が二つ書き分けているので、まずこれらを見てみよう。パトリック・シールはもともとオブザーバー紙の中東特派員だった。

まず彼の生まれ。オブザーバーの方では簡潔にこう書かれている。

Seale was born in Belfast in May 1930 but spent the first 15 years of his life in Syria, where his father Morris was a Christian missionary. He became irredeemably fascinated by the Levant.

北アイルランドのベルファスト生まれ。父が宣教師で赴いたレバント地方(シリアやレバノン)で幼少期を過ごした。

これらは重要な情報ですね。欧米の、年配世代の中東専門家は、第一次大戦後に植民地となったシリア・レバノンに出向いた宣教師や植民地行政官の子息が多い。小さいうちにアラビア語を身に着けつつ、欧米のエリート社会に根っこを持つ。エリート社会の生まれと言っても、本国に残って安楽な生活をするのではなく、冒険心や宣教意欲などが活発な、活動的な人の家庭で育ったということも、人格に影響を与えているだろう。

ガーディアンにはもっと踏み込んで来歴が書いてある。

Born in Belfast, Patrick was the son of Reine Attal, a midwife of Tunisian-Italian origin, and the Arabist and biblical scholar Morris Seale. Shortly after his birth the family moved to Syria, where for 20 years they ran the Irish Presbyterian mission. Patrick grew up between the Old City of Damascus and the mountain village of Bloudan, places and people in a landscape that would forever entrance him during the final years of Syria’s deeply resented French Mandate rule.

お父さんは宣教師だったが、お母さんにももともと北アフリカの血が入っていたのですね。単にシリア・レバノンで育っただけでなく、チュニジア人とイタリア人の混血という、当時はごく普通でもあった地中海世界を横断して行き来する人の流れと、母を通じてつながっている。当然、視野は地中海世界全体、アラブ世界全体に広がるだろう。

また、お父さんが宣教師でありつつアラビスト・聖書研究者であったとも書かれている。学者肌の人だったんですね。

また、北アイルランド生まれだけど、プロテスタント、というところも意味深い。北アイルランドの複雑で緊張した社会の中で、もともとが支配する側だったんですね。もちろんどういう経緯で父がアイルランドに住んでいたのかは分からないけれども。

カトリックとプロテスタントの紛争の最前線に生まれたともいえる。それがパトリックが生まれてすぐ家族でシリアに移住し、(カソリックの)フランスの支配の下にあったシリアでプロテスタントの宣教活動に従事している。今度は英仏の植民地競争の最前線に移ったわけだ。大戦と、宗派紛争や民族独立闘争も目にしているだろう。

ここまでが出自で、十分に劇的ですが、その後の人生はもっと陰影に富む。

例えば、キム・フィルビーとの関係。

In the early 1960s, he worked in Beirut as a freelance contributor to the Economist and the Observer. That paper’s Middle East correspondent, based in the city, was Seale’s friend Kim Philby, the British agent shared by MI6 and the KGB. Seale’s break came in 1963 when Philby fled to Moscow. Seale was awarded the Observer posting, though did not use it as cover for being an MI6 operative.

単にオブザーバーの特派員だった、というわけではなくて、あの有名な二重スパイ(イギリスのMI6の諜報員として活動しながら、実際にはソ連KGBのスパイだった)の「キム・フィルビーと親交があり、かの有名なソ連への亡命後には、後任の特派員となった」という点が、彼の経歴に彩りを与えている。

「ただしMI6には入らなかったよ」と書かれていますが、世間のイメージ的にはスパイ映画の主人公みたいな人なんですね。

イギリスのスパイ(風の人)ということになると、学歴はほぼ想像がつく。オックスフォードかケンブリッジです。キム・フィルビーは「ケンブリッジ5人組」の一人だが、シールはオックスフォード。しかしそれに至る過程も見ると面白い。

He was educated at the French lycee in Damascus and at Monkton Combe school, near Bath, a haven for sons of the clergy. After a national service commission, part of which he spent in a tent in the Suez Canal Zone and most of the rest in the Intelligence Corps, Seale studied philosophy and psychology at Balliol College, Oxford (1950-53).

第二次大戦直後の時期と思われますが、徴兵でスエズ運河地帯で過ごすとともに、やっぱりインテリジェンス部隊に配属されていますね。宣教師の家庭に生まれてかつ中東に、それもフランス統治下のシリアに一家で住んでいたのですから、ラテン語、ヘブライ語およびフランス語、アラビア語の言語能力には長けていたでしょう。最適の人材ではあります。それをもってその後の人生においてスパイとして活動していたと決めつけることはできませんが、そのような人材であったとはいえるでしょう。

で、名門のオックスフォード大学ベリオール・カレッジに学んでいます。

At the end of the decade he returned to Oxford to pursue Middle East studies at St Antony’s College.

大学院で、中東など国際関係に強いセント・アントニーズ・カレッジでも学んでいます。

ここまでは基礎編。

上級編は?

よく知られた「あのこと」はどこに書いてあるんだろう。

「あのこと」というのは、奥さんと娘さんのこと。

オブザーバーの末尾には簡潔にこのように。

He married twice: Lamorna Heath in 1971, who died in 1978, mother of Orlando and Delilah; and Rana Kabbani, from whom he was separated, mother of Alexander and Jasmine.

ガーディアンでは、より詳しく、
Seale married Lamorna Heath in 1971; she died in 1978. Seven years later, he married Rana Kabbani; they eventually separated. She survives him, as do their children Alexander and Yasmine, and Orlando and Delilah, the children of his first marriage.

とありますが、肝心なことが書いてないな。

負の側面や批判的なことも書くイギリスのObituaryも、男女関係のややこしい話については遠慮するのですね。一つ勉強になりました。

ためしにフィナンシャル・タイムズを見ると、私生活については一切書いていない。

なお、フィナンシャル・タイムズの末尾の

Patrick Seale wrote history in the grand style.

という一言はなかなか良いですね。

話を戻すと、私生活について、上品なガーディアンやビジネス誌のフィナンシャル・タイムズでは書かないにしてもよそではどうなっているんだろう。もうちょっと大衆的な(純然大衆紙ではないですけれども)テレグラフを見ると、、、書いてありましたよ。控えめですけれども。

In 1971 Patrick Seale married Lamorna Heath, who died by her own hand seven years later after producing a son and a daughter. It turned out that the daughter, Delilah, was actually fathered by the novelist Martin Amis. Seale told Delilah (and Amis) the truth when she was 18.

さらっと書いてるけれども、かなりの悲劇を私生活で体験してきた人だということは分かりますね。「1971年にラモーナ・ヒースと結婚したけれども、彼女は7年後に自殺した。息子一人、娘一人を残して。娘の方は、実際には小説家のマーティン・エイミスが父だった。シールはそのことを娘が18歳の時に告げた」。

ものすごく端折っているので、なんだかすごいひどいことが行われたという印象をかえって強く受けるような文章ですね。

しかも、娘の名前が「デリラ」・・・・

娘にそんな名前つけるかあ?

デリラというのは、旧約聖書に出てくるサムソンの妻。サムソンは古代イスラエルのヘブライ人の士師(指導者)で怪力の持ち主。ヘブライ人を糾合してペリシテ人の支配を退ける。ペリシテ人がサムソンを倒そうと虎視眈々と狙っているが倒せない。しかしサムソンはペリシテ人のデリラと恋に落ちる。サムソンの弱点は、その髪を切ると怪力が失われること。デリラはサムソンを誘惑してそれを聞き出し、夫が寝ている間に髪を切ってしまう。ペリシテ人たちはサムソンを捕え、両目をえぐり、ガザの牢獄に繋いで、石臼を挽かせる。サムソンは神に祈る。やがて髪が再び伸びだし、怪力を取り戻したサムソンは、つながれていた鎖を引きちぎり、建物の柱を倒して崩壊させ、ペリシテ人たちを皆殺しにする・・・・

聖書の中でも際立って酷薄で陰惨で妖艶な物語です。

サン=サーンス作曲のオペラ「サムソンとデリラ」でも有名です。映画もありました。

実は私、小学生の時に、父親がプログラムに解説を書いたか何かでチケットが回ってきて、このオペラを見に行かされたことがあって、全然意味分かりませんでしたが、石臼に繋がれて暗闇で呻吟するサムソンの唸り声、最後に盲目のサムソンが力を振り絞って大伽藍を崩壊させる時の大音響、ペリシテ人たちの阿鼻叫喚の声、だけが記憶に残っています。子供に見せるようなものではありません。トラウマになりますね。

「デリラちゃん」の命名で度肝を抜かれてしまいましたが、そもそもその出生が尋常でなかったですね。ええと、母は1971年にパトリック・シールと結婚したんだけど、7年後の1978年に母は自殺して、実はデリラちゃんはシールとの間の子供ではない?相手はマーチン・エイミスとかいう作家?

このあたりは、「イギリスの読者は知っているから書かない」という部分と「追悼文だからあえて書かない」ところが混じって分かりにくいです。ですので、下世話で不謹慎ですが、パトリック・シール+デリラとかで検索してみると、出てきます。

デリラさんについての記事。まず、あんまり下世話ではないガーディアンの記事にしましょう。

“My long lost dad, Martin Amis,” The Guardian, 26 February 2011.

Her own family narrative has been rather more complex. When Delilah was two, and her brother, Orlando, three, their mother, Lamorna Heath, hanged herself. Heath, a writer, had had depression for many years. Her husband, the writer Patrick Seale, was left to bring up the two children alone, which he did, in spite of having learned, a few months after Delilah’s birth, that he was not her father. During a short period when he and Heath were separated, Heath had had an affair with the novelist Martin Amis, and Delilah was the result.

デリラさんが二歳の時に母は首を吊った・・・それだけで怖いですが、勇気を振り絞って先を読んでみましょう。彼女はこの時まだ2歳。

あれ、年齢が合いませんね。お母さんのラモーナ・ヒースさんがパトリック・シールと結婚したのは1971年で自殺したのが1978年のはずでしたが。亡くなった時にデリラさんはまだ2歳で、しかし父親が違う?

During a short period when he and Heath were separated, Heath had had an affair with the novelist Martin Amis, and Delilah was the result.

お母さんが家を出ていた時期というか不倫していたというか、私のようなお子様にはよく分からな~いオトナの事情があった上で戻ってきたお母さんはデリラを身に宿していた。パトリックはそれを受け入れ、自分の子として育てた・・・

まあ、二人(三人)の間のことですから、そこにどのような事情があったのかは、分かりませんけれども。ヒースさんは戻ってきて3年後には自殺しているわけですよね。

デリラさんの実の父のマーティン・エイミスは、パトリック・シールよりももっと有名な作家です。

マーティン・エイミスは自伝でこの件について触れているようです。

Amis knew about her. As he wrote in his autobiography, Experience, Heath had told him and had given him a photograph. “It showed a two-year-old girl in a dark flower dress, smocked at the chest, with short puffed sleeves and pink trim. She had fine blond hair. Her smile was demure: pleased, but quietly pleased.”

ガーディアンの記事ですから、上品に書いてありますね。

しかしマーティン・エイミスという作家、有名ですが、そんなに評判の良い作家ではありません。悪名高きというべきか、いや、それこそ悪名ばかりが高いというべきか。

もっと大衆的な新聞を読んでみましょう。

“Martin Amis’s lovers laid bare,” Evening Standard, 2 June 2009.

「マーティン・エイミスの恋人を暴露する」。「暴露する」が「裸にする」をも意味する表現で、まあ、お下品。

そこで過去のスキャンダルのうち有名なものをいくつか列挙されているのだが、そこでデリラさんの名前が挙げられている。

Delilah Seale
Learned Amis was her father on the night of her A-level results when journalist Patrick Seale, who had brought her up, broke the news over dinner. “I cried and cried,” she wrote. Met Amis a year later after exchanging letters in which he told how he had decided not to be part of her life. Now a 33-year-old television producer living in west London.

Aレベル試験というのはイギリスの高校卒業資格試験=大学入学試験のことだが、その結果が出た嬉しい日の夕食の席で、大人になった日ということでもあるのか、育ての父パトリックはデリラに出生の秘密を明かした。何もそんな日に教えてくれなくっても・・・

デリラさんは “I cried and cried.”

大衆紙らしい単調なお涙ちょうだいの表現ですが、痛ましい話であることは確かです。

ここは多分に想像ですけれども、パトリックさんは優しいけれども、複雑で、かなり残酷な一面があるんじゃないかな。そもそもデリラなんて名前、普通は付けないだろう。

しかし「デリラ」と名付けて、パトリック・シールは血の繋がっていない娘にどのような人生を送ってほしいと思っていたんですかね。異民族の権力者を誘惑し、籠絡し、欺き、裏切って、悲劇のどん底に突き落とし、それが原因で最後は自らの国を崩壊させる?

実の名前というよりタレントの芸名ならあるかもしれませんが。

娘さんの方は自分の名前の意味を分かるようになると、呪いでもかけられたように感じるのではないかと心配しますがどうでしょうか。

デリラさんはテレビ業界に勤めていて、写真を見るとなかなかきれいな人であって、それでゴシップ紙にしょっちゅう取り上げられているのでしょうね。で、常に「マーティン・エイミスの子」「母親は不倫の末自殺」と言われ続ける。

その際に、「影」のような人物としてパトリック・シールは取り上げられるということなんですね。中東専門家として世界中の学生に知られているシールさんですが、イギリスでは、奥さんが有名な作家とあんなことがあってこんなことがあった人なんだよ、と常に語られてしまう人でもあったんですね。

しかしマーティン・エイミスって、確かに名前は聞いたことあるけれども、どんな作品書いていたっけ?というと思いつかない。

こんな記事を読むと、

Martin Amis is the most argued about novelist in the United Kingdom, largely, I suspect, because hardly anyone reads him.

「エイミスはイギリスで最も議論の的になる小説家だ。なぜかというと、誰も彼の小説を読んじゃいないからだ」なんて書かれているので、私が不勉強というだけではないようだ。要するに作品よりも私生活で有名な人。

この記事のタイトル”Martin Amis: The Mick Jagger of letters(マーティン・エイミス──文学のミック・ジャガー)”がすべてを物語っているんでしょうな。

マーティン・エイミスは、お父さんが著名作家のキングズレイ・エイミス(Kingsley Amis)という、毛並みの良い二世作家。先ほどのイブニング・スタンダードの記事によると、実はマーティンは大学生の途中まであんまりイケてなくて、しかしティナ・ブラウンという、後にニューヨーカーとかヴァニティ・フェアとかの編集者になったセンスのいい女性と付き合ってから開眼して「文学のミック・ジャガー」になったそうな。開眼したといっても「文学に」というよりは「ミック・ジャガー方面に」なんでしょうけど、と突っ込みを入れたくなるのは私がずっとイケてないままだからか。たぶんそうです。

In 2007, he revealed that it was Tina Brown, former editor of Tatler, the New Yorker and Vanity Fair, who made him the man he is today and he credited her with transforming him into a literary Mick Jagger.
The romance began when he was 23 and she was a 19-year-old undergraduate at St Anne’s College, Oxford. “She was and is adorable,” he said.
Amis was the son of Lucky Jim author Kingsley Amis and had graduated with a First in English from Exeter College, Oxford. After Brown, he went on to squire some of the most eligible women of his generation.

学歴はやっぱりオックスフォードだそうです。オックスフォード出の人たちの中でぐるぐる回っている人間関係なんですね。マーティン・エイミスは1949年生まれ。パトリック・シールより19歳も年下なのか・・・

なお、パトリック・シールは再婚して、そして離婚しているのだが、その相手の名前を見ると中東研究者にはピンとくる。

テレグラフの追悼文では、次のようにあります。

In 1985 he married Rana Kabbani, a Syrian from whom he was later separated. He is survived by his second wife and by four children, two from each marriage.

ラナ・カッパ―ニーさんという、シールの次の奥さんは、調べてみるとやはり、ニザール・カッバーニーという、シリアの近代史上最大の詩人の姪のようです。

かつてのイギリスの中東専門家というのは、イギリスの上流・エリート社会の文化に根差していた。もちろんすごい主流というよりは、ちょっと脇の方の「影」の方なんだけれども。それでも社会の注目を集める人士であることは確かだ。彼らは植民地支配や世界大戦を背景に中東に渡って経験を積み、現地の上流・エリート階級と交じり合った。欧米の植民地的な中東への進出は、双方の上流階級を結合させることで、現地の民族が国家として独立した後も、影響力を保っているのです。シールさんは元の奥さんとの関係を通じて、シリアの上流階級の一部でもあるわけです。そういうところから、アサド家への排他的なアクセスも得られて、誰にも書けない本を書ける根拠になる。逆に、ラナ・カッバーニーさんにしても、イギリスのメディアでシリア問題のコメンテーターとして活躍する「セレブ」となっています。

日本で大学のアラビア語クラスで必死に単語や活用憶えて、ひげ生やしてアラブ人風にしてみて、、、などというやり方では到底敵わない世界ですね。

でもまあ、中東と関係の薄い日本から中東を見ているのは、息苦しくなくていいんですけど、個人的には。

ドーハ1泊4日弾丸出張の仕組み

カタールのドーハに出張に行ってきました。いろいろ面白いものを見ることができました。偶然が重なってカリブ海の小さな国の外務大臣との会食に同席したりしていました(ここは本業や渡航目的と関係ないですが)。

今回の日程は「1泊4日」。

現地のホテルに泊まるの一泊だけで、行きと帰りが機中泊、という意味です。
日本時間の夜に出発して(1日目)、現地の早朝に到着し、その日(2日目)と翌日(3日目)に用事があり、夜ご飯を食べた後に現地で日付が変わったぐらい(4日目)の頃の深夜発の飛行機に乗って戻ってくる。日本には4日目の夕方に到着。

これは行きも帰りも深夜発の便がある国でないとできないやり方です。

その点、湾岸産油国は、エミレーツ(UAEのドバイ)、エティハド(UAEのアブダビ)、カタール航空が揃って深夜便を飛ばしていますので、弾丸出張がやりやすくなりました。ヨーロッパ経由だと行きも帰りも一泊して乗り継がないといけない場合がほとんどです。

以前は、西の方に行くというと、「ヨーロッパ回り」か「南回り」という区別があったような気がします。北極圏を飛んでいくヨーロッパ回りの方が、乗継をして中東などに行くにしても快適で比較的短時間で済むが高い。それに対して、日本を飛び立ってまず延々と南に下り、乗り継いだり給油したりしながら中東やアフリカやヨーロッパ方面に向かう「南回り」は時間がかかって、途中で夜中に空港で給油で下されたりしてきついが料金が安い…といった区別があったような気がします。

しかしペルシア湾岸の諸国が、「日本深夜発で現地早朝着、乗継でヨーロッパや中東やアフリカへ」という路線を開拓して、「ペルシア湾岸での乗り継ぎ」という第三の選択肢が定着しました。

この航路を開発したエミレーツの功績は大きいと思います。

最初は成田や羽田の発着枠がなかなか取れなかったので、関空発や名古屋発でやっていましたね。

ペルシア湾岸産油国のハブ機能は、日本・南米間の結節点としても良い位置にあるので、日本⇔ブラジルの日系人の里帰り出稼ぎルートもペルシア湾岸経由が中心になりました。それ以前のアメリカでの乗り継ぎが、9・11事件以後のセキュリティの強化で、トランジットだけでの「入国」にも多大な時間と労力がかかり、乗継に遅れる危険も出るようになったところに、ペルシア湾岸産油国の航空会社が代替肢を示して、シェアを大きく伸ばしたようです。

ペルシア湾岸ではありませんが、トルコ航空も深夜便ができたので、同じような使い方ができそうです。

国際政治の大きな動きと、ペルシア湾岸産油国の独自の開発戦略が、日本と海外のかかわり方も変えることになっています。

カタールのエスノクラシー、原資は日本

週明けの弾丸出張で、カタールのドーハに、3月に続いてまた行くのですが、いつものことながら湾岸産油国に行くのは気が重い。エジプトやシリアやレバノンで中東研究の基礎を学んだ私自身の経験が影響しているのかもしれないが、文化的な深みや知的活動の活発さ(質はさまざまだが)があるエジプトやレバント(シリアやレバノン)には、どんなに厄介な条件があっても、いざ行くとなるとわくわくする。

しかしペルシア湾岸の産油国は、国全体が「ドラ息子養成システム」にしか見えないことがあり、失望や困惑を最初から味わうことが多い。だいたい、行ってもほとんどカタール人やUAE人といった、現地の国籍を持って永住権を持っている人にほとんど出会わないのだ。会議でも挨拶の部分は現地国籍の人でも、中身になると外国人同士のやり取りになる。ペルシア湾岸産油国では、カタールやドバイなど、人口の過半数が外国人労働者で占められる首長国も多く、実質的な経済活動は外国人が担っている場合がほとんどだ。

「新興国ビジネス」を推進する側からは、石油・天然ガスで潤うペルシア湾岸産油国は夢の国のように描かれがちだが、実態はそんなものではない。少なくとも日本人にとっては。もちろんむやみに大きなモールやビーチを楽しみに行くだけならいいが、仕事で行くとなると、「エスノクラシー」とも呼ばれる、国籍によって身分・権利・待遇に厳然と差をつける、「詳細なアパルトヘイト」と言ってもいいような制度の暗く重苦しい空間に放り込まれる。そこでは産油国の国籍を持った市民が経済特権を持つ一級市民で、その中で首長家や有力部族家が政治的な権利を持つ主権者である。

欧米人は産油国の一級市民とほぼ同格の経済的地位を与えられ、法外な報酬を得る。しかし産油国に来る欧米人の側は「本国で食い詰めて、金に釣られて地の果てに来た」という都落ち意識が強く、「こんなとこにいられねーよ」とくだを撒き、「儲かるからいてやる」と露骨に差別意識で凝り固まっている。

日本人はと言うと、欧米人と比べるとびっくりするほど安い給料でなぜか自発的にせっせと働いてくれる、都合のいい中間技術者として重宝されることがある。重宝といってもヒエラルキーの中ほどに位置する使用人として扱われているだけで、「アラブ人は親日的」なんてことはありません。単に欧米人に対して感じるコンプレックスを日本人に対してはまったく感じないので「気が楽」と言うだけ。「日本は素晴らしい」とか言っていた人の前に金髪・青い目・白人限定の欧米人が通ると、突然上の空になって、露骨に「ピュー」とそっちに行ってしまいます。

欧米の国際メディアや人権団体からそれほど強く批判されないのは、やはり金の力。仲良くしていればいいことがあるかもしれない、となるとみんな黙る。欧米人を十分に儲けさせ、いい思いをさせているから、湾岸産油国はある程度以上叩かれないのです。あらゆることで西欧から「人権侵害」を批判されてしまうトルコなんて、天と地の差があるほどの人権・民主化先進国なのにね。

湾岸産油国は、欧米社会の裏表を露骨に感じることができる空間でもある。そういう意味でたいへん勉強になります。

「セカイ」を知るためにいいんじゃないでしょうか。

2022年ワールドカップも「金で買った」疑惑が広く知られているが、追及の矛先は鈍い。

そしてワールドカップに向けて各種施設の突貫工事が続くのだが、そこでの労災死の数が尋常ではない。亡くなっているのはもっぱら末端の建設労働者だ。この職種はエスノクラシーではインドやパキスタンやネパールなど南アジア系の出稼ぎ労働者に割り当てられることが多い。労働者は「カファーラ」と呼ばれる雇用・ビザ形態により雇用者に非人道的にしばりつけられ、極端な低賃金、劣悪な生活条件で働かされ、抗議しようものならビザ・パスポートを取り上げられ「不法滞在」として刑務所に放り込まれて懲らしめられたうえで国外追放となる。

一つのレポートでは、2010年のワールドカップ招致決定以来、カタールでネパール人労働者が400人以上死亡しているという。2013年だけでも185人のネパール人労働者が死亡している。

そして、インド人労働者は2012年初から2014年1月までの2年余りで500人以上死亡しているという

カタール政府は反論しているが、数字については争っていない

実際の数字はもっと多い可能性すらある。インド人とネパール人労働者だけで2010年以来1200人が亡くなっているという数値もある

人口当たりの労災死者の数を日本に大まかに換算すると、「2020年東京オリンピックまでに、施設建設で毎年移民労働者3万人以上が死んでいきます」といったイメージになる。それでもオリンピックやりますか?と問われたら、日本ではできないだろう。(なお、メインスタジアムの設計は、日本のオリンピックと同じくアラブ系イギリス人のザハ・ハディード

これに、同様に現場の労働者として従事することが多いフィリピン人やタイ人やマレーシア人など東南アジア系を入れると、労災死の数はどれだけになるか見当もつかない。

批判しているのはインド政府や欧米の人権団体だが、それに対してカタールなど湾岸産油国の政府は欧米人の法律家やメディア・コンサルタントを雇って、欧米の法律用語を使って欧米メディア上で反論するので、ある程度以上の追及はなされない。外から見ると、欧米人が批判して欧米人が反論して高い報酬をもらうというマッチポンプにも見える。

なお、カタールの居住人口は2010年のセンサスでは169万6563人で、74万4029人とされた2004年から倍増。増えた大部分は外国人の出稼ぎ労働者であることは確実だ。男女比が76対24というのだから普通の出生で増えたものではありえない。

居住人口のうち、カタール国籍を持つ者が何人いるかは明確ではないが、今回のカタール政府の反論の中では「25万人」で85%が外国人だとしている。そうすると居住人口は外国人労働者を含めて167万人程度と把握していることになる。

昨年後半から今年にかけて、特に目新しい話題でもないワールドカップ招致裏金疑惑や、これまでもわかっていたはずの尋常ではない数の労災死について報道が出てきた背景には、湾岸産油国内部での対立がおそらく影響している。

3月にはサウジアラビア・バーレーン・UAEがカタールから大使を引き揚げて対決姿勢を明確にしたが、これに先立つ時期にカタールをめぐるスキャンダル報道が続出したのは示唆的だ。結局、サウジ系のマネーの力が有形無形に作用して欧米メディアや人権団体のカタール批判が拡大したのだろうと推測できる。

労働条件の悪さや、国際的スポーツイベントの招致・開催に関する不透明さでは、カタールは他の湾岸産油国と質的に変わりない。デモを弾圧しながら毎年強行するバーレーンのF1グランプリその一例だ。

カタール首長家の全面的支援によりドーハに設立されたアル=ジャジーラでは、カタール以外の湾岸産油国の人権侵害は頻繁に報道するのに、スポンサーのカタールのことになると沈黙する、という印象が強く、近隣の産油国にとって腹に据えかねることだ。

ムスリム同胞団への支援などで湾岸産油国内部の対立が激化したことを背景に、サウジに近い筋が欧米メディアや人権団体を刺激してカタール叩きをやらせているのだろう、とまともに中東を見る人なら即座に推測できなければならない。サウジ王家の中枢から直接的にそういう働きかけがなされたかどうかはともかく、欧米メディアや人権団体も、潜在的なパトロンのサウジやUAEの顔色をうかがっていて、「カタール不利」と見ると、サウジからの「ゴーサイン」が出たと認識し、いきなり居丈高にカタール叩きをしている、といった雰囲気だ。

するとカタールも欧米の人権問題専門の弁護士やメディア・コンサルタントを雇ってこれに対処するので、産油国はうっぷんを晴らしたり胸をなでおろしたりする一方で、欧米の各方面も潤って「win win」、・・・という、どうしようもない構図がある。

4月17日のGCC緊急外相会合で、サウジとカタールの和解への一歩が模索されたとみられるので、今後は相互の批判は収束していき、それと共に欧米メディアや人権団体の批判も弱まって、カタールの労働者の人権問題も改善されたかのような印象がどことなく広がっていくのだろう。

そして、この空騒ぎの原資は、原発が止まったからと足元を見られてとてつもない額で天然ガスを買わされている日本が出している、というのも腹が立つ話である。

空騒ぎと言っても実際には多くの人命が人知れず失われているわけで、劣悪な条件で法的権利を奪われて使い捨てにされているインド人・ネパール人労働者の命と、日本の電力消費者の懐から知らずに出ていくお金がつながっている、と言うことも、日本人には気づいてほしい。「新興国バブルに乗れ」と煽るだけではなく。

【海外の新聞を読んでみる】オバマの言葉と行動

ワシントン・ポスト紙のデービッド・イグネイシアスのコラムが、分かりやすく面白かったのでメモしておく。

David Ignatius, “Obama tends to create his own foreign policy headaches,” The Washington Post, May 7, 2014.

オバマの来日(アジア歴訪)の評価には諸説あったし、実際に各国の会談で何が話し合われたかとか、それが今後の国際政治にどのような影響を与えていくかについては、その場にいた人にしか分からないし、時間がたってみないと分からないことだ。ここではより広い背景として、オバマ政権の外交をめぐって、ワシントンで定着した「雰囲気」「共通認識」を読み解いていこう。

「弱くなったアメリカ」という印象は日本でも一般レベルにまで浸透しつつあるので、イグネイシアスの議論は一見してそれほど意外なものではないかもしれない。

昨年のシリア問題での「弱腰」、対イラン交渉での「宥和姿勢」、そして打つ手に欠くウクライナ情勢と対ロ政策・・・といった一連の出来事の中で、米国の覇権の衰退の「印象」は世界的に広がり、そこにオバマ大統領の政治姿勢が特に要因となって作用しているのか、あるいはもっと根底的な米国そのものの弱さが露呈しているのかは、米国でも世界各国でも議論の的になっている。

日本でも、これまで抑えられていた反米感情の噴出が、左右両方の議論に出てきている。

そんな中で、米国のリベラルな秩序原理による覇権の持続を志向し、オバマ大統領にかなり好意的で、オバマが叩かれているときにもかなり無理して擁護論を買って出る傾向の強いイグネイシアスが、ここにきてオバマにかなり厳しい言葉を投げつけている。最終的には支持して応援しているんだけれども。

タイトルは「オバマは対外政策の悩みの種を自分で撒いている」といった意味。

最初の段落では、オバマのアジア歴訪のハイライトだったフィリピン・マニラでのオバマの発言に触れながら、

Everything he says is measured, and most of it is correct. But he acts as if he’s talking to a rational world, as opposed to one inhabited by leaders such as Russia’s Vladimir Putin.

(意訳)「彼の言っていることはいつも正しいんだよ。でも行動がね~。世界は理性的な人たちばかりだと思っているみたいなんだよ。実際には世界はロシアのプーチンみたいな指導者ばかりなんだけれど」

プーチンのウクライナ政策が「理性的」でないかどうかは議論があるだろう。少なくとも軍事的・安全保障上の戦略合理性という意味では理性的だと言いうる余地がある。経済的に中長期的に持続可能かというと理性的でない、というのは欧米の議論だけでなくロシア側の学者も内心は認める人が多いかもしれない。ただしここでのイグネイシアスの「理性的」という言葉にはアメリカの議論の当然の前提として「リベラルな」という要素が含まれている。その意味ではプーチンは「理性的でない」ように見えるだろう。

イグネイシアスは基本的に米国中心のリベラルな国際秩序が今後も支配的であり続けることを支持している人であると思うが、リベラルな側が一時的であれ劣勢に立たされているという点を認める。プーチンのような相手に対して、オバマはあまりにもリベラルで理性的すぎるというのだ。世界政治には厳然とパワーポリティクスの要素があり、ロシアはそれを前面に押し出してきている。

In the realm of power politics, U.S. presidents get points not for being right but for being (or appearing) strong. Presidents either say they’re going to knock the ball out of the park, or they say nothing. The intangible factors of strength and credibility (so easy to mock) are, in fact, the glue of a rules-based international system.

(意訳)「パワーポリティクスの領域では、米国大統領は正しいことによってではなく、強いこと(あるいは強く見えること)によって得点を挙げるのだ。大統領は「場外ホームランを打ってやる」と言えばよい。さもなければ何も言うな。力と信頼性(これを嘲るのは簡単だ)という、目に見えない要因が、ルールに依拠した国際システムを成り立たせているのだ。」

「オバマの言葉」の卓越性は広く知られている。私も中東政策をめぐって、有名な「カイロ演説」やエルサレムでの演説などいくつか読み込んでみたことがある。実によくできている。感動的だ。言葉の上では。それが行動による裏付けを伴うものであれば、本当にオバマ政権は「変化」を世界に及ぼせるという期待を呼び覚ますに十分だった。

しかし大統領の任期も終盤に来て、「オバマの言葉」がどれだけ行動による実質を伴っているか、大いに疑問が付されるようになっている。そしてオバマ大統領やその政権の資質と能力によるのか、あるいは米国の相対的な国力の低下によるのか、華々しい言葉と裏腹の貧弱な実施能力、あるいは意志の欠如が、世界各国で印象づけられている。2013年の中東政策はそれをもっとも鮮明にした。同じことがウクライナ問題をめぐっても、あるいは中国をめぐる東アジアでも起こりかけているのではないか、と世界中の視線が集まっている。

イグネイシアスはここで、行動への能力や意志とかけ離れた、華々しすぎるオバマの言葉を控えよと論じている。相手がプーチンなので、昔のヤンキーの喧嘩みたいになっているが・・・でっかいホームランを打ってやるぞと言うか、そうでなければ黙ってろ、というのだから。

ここで重要なのは、でかいことを言えというのではなく、言うこととやることを一致させて、できないことなら言うな、ということだろう。これは世界中でオバマに言いたい人がいっぱいいるだろう。

Under Obama, the United States has suffered some real reputational damage. I say that as someone who sympathizes with many of Obama’s foreign policy goals. This damage, unfortunately, has largely been self-inflicted by an administration that focuses too much on short-term messaging.

(意訳)「オバマ政権下では、米国はかなり手ひどく評判を損ねた。オバマの対外政策の目標に共感する私にしてそう言わざるをえない。この損害は、不幸なことに、オバマ政権の自傷行為だ。政権は短期的なメッセージにこだわりすぎるのだ。」

リビアのベンガジで米国の総領事館が襲撃され大使が殺害された2012年9月のベンガジ事件の際のオバマ政権の対応が再検討されて今また政治問題になっている。この問題の本質は、オバマ政権がメディア向け広報戦術の「スピン」を気にかけすぎたことだ、というのがイグネイシアスの批判だ。巧みに言いつくろったことで、かえって印象操作で失策を隠蔽したと批判される原因になっている、という。

そして、これは単なるミスではなくオバマ政権の本質にかかわるものではないかと示唆している。

the administration spent more time thinking about what to say than what to do.
「オバマ政権は何をするかよりも何を言うかに時間をかけすぎている」

明確にオバマを支持している論客のイグナチエフは、しばしば政権から最新の情報をリークされてコラムを書き、ワシントンの政策論のフレーミング(枠組み・方向づけ)や、観測気球を揚げる役割を果たしている(と広く認識されている)。いわばオバマ政権の広報戦術の実施部隊みたいな人なんだが、その彼にしてこんなことを言い始めている。

しかし反オバマに回ったというよりは、ワシントンや同盟国の首都(日本を含む)のオバマ大統領・政権に対する不満・不信感があまりに強いのを察知してガス抜きに走っているような印象を受ける。認識ギャップの修正、期待値の下方安定化ですね。

じゃあオバマはどうしたらいいか?と言うと、「でっかいホームランを打て」というのではなく、「慎重であれ」と一転して矛先が鈍る。

How can Obama repair the damage? One obvious answer is to be careful: The perception of weakness can goad a president into taking rash and counterproductive actions to show he’s strong.
「弱いという印象を跳ね除けようとして、強く見せようとするあまり、短兵急な、逆効果の政策に走ることがあるからね」という。で、

One of Obama’s strengths is that he does indeed understand the value of caution.

「そのことは大統領も十分わかっていらっしゃいます」とな。結局お仲間なんですね。

“Say less and do more” is how one U.S. official puts it. That’s a simple recipe, and a correct one.

「多くを語らずに、多くを為せ」というシンプルなやり方が、正しいやり方だ、という。これからは無口なオバマが見られそうですね。すでに訪日・訪韓でもそんな感じでした。無口で小食。

で、ウクライナをめぐって強硬な発言でプーチンと競り合って見せたりせずに、米国の強みである経済でじっくり追い詰めろ、とアドバイスしています。

しめくくりに再び、

The counter to Putin is strong, sustainable U.S. policy. To a battered Obama, three words: Suck it up.

「ボコボコにされたオバマだが、ここはぐちゃぐちゃ言わずにじっと耐えろ」だって。

基本的にオバマ政権の政策に賛成であるイグネイシアスのような論客からも、「語りすぎたオバマ」の、言葉と行動のギャップから来る米国の威信の過度な衰退への危機意識が高まっているようです。

なお、ウクライナ問題をめぐって「最終的には経済要因が重要だ」から「プーチンの政策は持続的ではない」というのは英語圏の有力メディア・論客の議論の最大公約数のようで、イグネイシアスもこの立場のようだ。それに対しては、「非合理的」なものを含む安全保障の論理、特に地政学的な要因を強調して反論する議論も、これまた英語圏の一部の有力な論客から出ている。この論点についてはいくつも面白い論稿が出ているので、また考えてみたい。

(関連本)
オバマとイグネイシアスが念頭に置くであろう、アメリカのリベラル派の考える「国際秩序」とは?

論文リスト(2013年度刊行)

【業務連絡】
プロジェクト決算報告等の業務上の必要で、池内恵が2013年度に刊行した論文のリスト・書誌情報を必要とされる皆様へ。
各種行政手続き上において通常は業績とみなされうる論文は下記のものです。書類作成の用途にお使いください(末尾の*は査読の有無、ただし招待論文含む)。

【論文】
池内恵「グローバル・ジハードの変容」『年報政治学』2013年第Ⅰ号、2013年6月、189-214頁 *
池内恵「『だから言っただろう!』──ジハード主義者のムスリム同胞団批判」『アステイオン』第79号、2013年11月、196-202頁
池内恵「一匹狼(ローン・ウルフ)型ジハードの思想・理論的背景」『警察学論集』第66巻第12号、2013年12月、88-115頁
池内恵「アル=カーイダの夢──2020年、世界カリフ国家構想」『外交』第23号、2014年1月、32-37頁
池内恵「『アラブの春』後の移行期過程」『中東レビュー』Volume 1、アジア経済研究所、2014年2月、92-128頁 *
池内恵「「指導者なきジハード」の戦略と組織」『戦略研究』第14号、戦略研究学会、2014年3月20日、19-36頁 *
池内恵「近代ジハード論の系譜学」日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁 *

【資料解題・翻訳】
宮本悟・池内恵「北朝鮮の弾道ミサイル開発の起源─シャーズィリー・エジプト軍参謀総長の回顧録から」『東亜』第553号(2013年7月号)、78-86頁

【寄稿】「エジプト映画の想像力」出ました+「文芸雑誌」という制度

文芸雑誌にエッセーを寄稿しました。

池内恵「エジプト映画の想像力」『群像』2014年6月号、138-139頁

『群像』とは?

講談社発行の文芸雑誌。

読んだことのある人はどれだけいるでしょうか。

少なくとも、書店で買って読んだ人は極めて少ないであろうことはおおよそ想像できると業界で言われている・・・

回りくどい言い方になりましたが、「実売部数はすごく少なそうだ」。

けれども、大手出版社各社が揃って出し続けている。日本の出版界の「制度」の一つが「文芸雑誌」。

『群像』(講談社)
『新潮』(新潮社)
『文學界』(文藝春秋)
『すばる』(集英社) 
『文藝』(河出書房新社)

あんまり売れてそうでもないのになぜ出し続けているの?

揶揄するような言い方では、「小説家になりたい人が買ってるんじゃないの?」というのがあります。

で、これはある程度正しいようなんです。

「書き手の数=読み手の数」では出版として成り立たないじゃないの?カニバリズムじゃないの、というのはすごく認識が甘く、もしかすると「書き手の数>読み手の数」というのを前提として出版はビジネスをやるようにならざるをえないのかもしれない。それが後期近代社会(おおげさ)。

今回はちょうど「第57回群像新人文学賞発表」らしい。また、冒頭の折込ページには次回の新人賞の募集が載っている。昔は新人賞の募集広告は、もっと中のほうに慎ましやかに載っていたと思うのだが・・・

「昔」というのは、親の職業柄、私の育った家にはすべての文芸雑誌が送られてきていたので、幼少時から大学生の頃まで毎号読んでいましたので。読んでいたというよりは眺めていたぐらいか。

文芸雑誌なので、主役で大部分のページを占めるのは「作家」による新作の小説や連載の長編小説なのですが、その合間にエッセーが載っています。単発のエッセーは各誌だいたい4本ぐらい(イメージ)、そのうち半数ぐらいは「作家」的な人に依頼されている(ような印象)、で残りの2枠ぐらいのうち一つにたいてい「大学教師・研究者」みたいな人が入っていることが多い(と思う。あらためて調べたわけじゃございません)。

私自身は、文芸雑誌の紙面に流れている時間と空間になじみがないわけじゃないというか、ものすごいなじみがあるので、「エッセー4枠のうちの1」に助っ人的に書くことは「やぶさかじゃない」(よく分からない言葉だが一度使ってみたかった)し、はっきり言えば得意だと思います。隙間の時間の1時間ぐらいでさっと書けます。それ以上の時間はかけちゃいけないよ、とも思っています。だって大部分は失敗作にならざるを得ない新作小説だけだと非常に絶望的な気持ちになるのでそこで頭をちょっと休めるための埋め草エッセー欄のそれもオマケ枠みたいな最後の1枠だからね。「埋め草」のより大きな枚数を占めるのが作家や批評家による対談や合評会だが、それは全部ひっくるめて業界の噂話みたいなもんだ。そうやって作家に定期的に発注するためのシステムが文芸雑誌。

ただし実家に送られて来ていた文芸雑誌で実際に読んだのはこういうエッセー欄だけだったと思うので、おそらく(同じように送られてくる)よそんちでも同じようなことが起こっていると思うので、編集者とか書き手とかその家族とかの間で読まれる確率は高いとも思っております。

中東・イスラーム学やら、もっと広く国際関係・地域研究の研究者が文芸雑誌にエッセーを書いているのはあまり見ない。私の場合は「業界の遠縁」ぐらいの感じが伝わってたまに依頼が来るんでしょうか。

調べてみたら過去に文芸雑誌に書いたのはこのようなものでした。

池内恵「イスラーム的サッカー」2002年5月号
池内恵「時差の文学」『群像』2003年10月号
池内恵「『針の眼』の文献学――イスラームと西洋文学の十字路」『文學界』2006年4月号

いずれも『書物の運命』(文藝春秋)に収録してあります。

しかしこれらのエッセーは、文芸雑誌のエッセーや評論にありがちな、日本の文壇・思想界にとって望ましい「中東」や「イスラーム」の形式や内容に即していない。なので、毎回反応は特にないです。

鈍感な人に向けて野暮なことを書くと、「『イスラーム的サッカー』なんてない」、って書いているんだからね。それでも分からない人は・・・どうしようもない。

今回は、ちょうどエジプト映画の「アラブの春」前後の表象を調べているので、そこから切り出して書きました。情報量は多い。本当に「中東」「イスラーム」の現在を知りたければ当然知っていなければならない、現地の文化現象を、聞かれもしないのに紹介してあげています。

しかしこれは、日本の業界の「文学者」「批評家」「思想家」が興味を持とうとも、理解するための能力を培おうともしないであろう内容なんだろうなあ、と思います。

「なんでこんなエジプト映画のことなんて知らなければいけないんだあ?」と言われてしまいそうだが。

逆に、私から見ると、「知らないで書ける」人たちが怖くてたまらない。現実に生じていることと無関係に、自分の頭の中にある「中東」「イスラーム」を描くことが「想像力」で「思想」なのだとしたら、私はそのようなことを生業にしたくありません。

「イスラーム」については本当に少ない情報に基づいて、日本的な相互の了解に基づいた言説を何人かの「思想家」が猛然と発信しているけれども、まあほとんど価値はありません。勘違いの体系が日本語で作られていると言っていい。というかもうちょっとまともな研究書を読んで(大部分は外国語です。井筒俊彦はかなり独自の思想家なので井筒だけに頼らないでください)、それから、それ以前に原典を読んでから書いてよ。勘違い×思い込み=真実ではありません。

大手出版社と「文芸雑誌」というシステムに守られていちゃいかんのじゃないかと思うよ。

【講演】6月6・7日のキャンパス公開(先端研と生産研)

6月6・7日に駒場Ⅱキャンパス(先端研・生産研)の一般公開があります。登録・予約等必要ありませんので、お気軽にいらしてください。

理工系は研究室公開や理科教室などをやっていますが、文系は見せる実験装置などがないので、講演などをいたします。

私は6日(金)午後3時から「アラブの春」以後の中東政治について講演をします。

池内恵「『アラブの春』は今どうなっているのか? 中東とイスラム世界の政治変動」
15:00~15:50
会場: 生産技術研究所 An棟2階コンベンションホール

翌日の土曜日10:00~12:00には、御厨貴客員教授・牧原出教授と、先端研の御厨研究室に関与した若手官僚たちが議論をするパネル・ディスカッションがあります。

前後にご近所を散歩するのもいいのでは。近辺には良い店があるようです。私は今や職業人生(大学院時代を含む)の過半を駒場に所属していることになっているのですが、魅惑的なご近所をよく知りません。勉強するか