【寄稿】「エジプト映画の想像力」出ました+「文芸雑誌」という制度

文芸雑誌にエッセーを寄稿しました。

池内恵「エジプト映画の想像力」『群像』2014年6月号、138-139頁

『群像』とは?

講談社発行の文芸雑誌。

読んだことのある人はどれだけいるでしょうか。

少なくとも、書店で買って読んだ人は極めて少ないであろうことはおおよそ想像できると業界で言われている・・・

回りくどい言い方になりましたが、「実売部数はすごく少なそうだ」。

けれども、大手出版社各社が揃って出し続けている。日本の出版界の「制度」の一つが「文芸雑誌」。

『群像』(講談社)
『新潮』(新潮社)
『文學界』(文藝春秋)
『すばる』(集英社) 
『文藝』(河出書房新社)

あんまり売れてそうでもないのになぜ出し続けているの?

揶揄するような言い方では、「小説家になりたい人が買ってるんじゃないの?」というのがあります。

で、これはある程度正しいようなんです。

「書き手の数=読み手の数」では出版として成り立たないじゃないの?カニバリズムじゃないの、というのはすごく認識が甘く、もしかすると「書き手の数>読み手の数」というのを前提として出版はビジネスをやるようにならざるをえないのかもしれない。それが後期近代社会(おおげさ)。

今回はちょうど「第57回群像新人文学賞発表」らしい。また、冒頭の折込ページには次回の新人賞の募集が載っている。昔は新人賞の募集広告は、もっと中のほうに慎ましやかに載っていたと思うのだが・・・

「昔」というのは、親の職業柄、私の育った家にはすべての文芸雑誌が送られてきていたので、幼少時から大学生の頃まで毎号読んでいましたので。読んでいたというよりは眺めていたぐらいか。

文芸雑誌なので、主役で大部分のページを占めるのは「作家」による新作の小説や連載の長編小説なのですが、その合間にエッセーが載っています。単発のエッセーは各誌だいたい4本ぐらい(イメージ)、そのうち半数ぐらいは「作家」的な人に依頼されている(ような印象)、で残りの2枠ぐらいのうち一つにたいてい「大学教師・研究者」みたいな人が入っていることが多い(と思う。あらためて調べたわけじゃございません)。

私自身は、文芸雑誌の紙面に流れている時間と空間になじみがないわけじゃないというか、ものすごいなじみがあるので、「エッセー4枠のうちの1」に助っ人的に書くことは「やぶさかじゃない」(よく分からない言葉だが一度使ってみたかった)し、はっきり言えば得意だと思います。隙間の時間の1時間ぐらいでさっと書けます。それ以上の時間はかけちゃいけないよ、とも思っています。だって大部分は失敗作にならざるを得ない新作小説だけだと非常に絶望的な気持ちになるのでそこで頭をちょっと休めるための埋め草エッセー欄のそれもオマケ枠みたいな最後の1枠だからね。「埋め草」のより大きな枚数を占めるのが作家や批評家による対談や合評会だが、それは全部ひっくるめて業界の噂話みたいなもんだ。そうやって作家に定期的に発注するためのシステムが文芸雑誌。

ただし実家に送られて来ていた文芸雑誌で実際に読んだのはこういうエッセー欄だけだったと思うので、おそらく(同じように送られてくる)よそんちでも同じようなことが起こっていると思うので、編集者とか書き手とかその家族とかの間で読まれる確率は高いとも思っております。

中東・イスラーム学やら、もっと広く国際関係・地域研究の研究者が文芸雑誌にエッセーを書いているのはあまり見ない。私の場合は「業界の遠縁」ぐらいの感じが伝わってたまに依頼が来るんでしょうか。

調べてみたら過去に文芸雑誌に書いたのはこのようなものでした。

池内恵「イスラーム的サッカー」2002年5月号
池内恵「時差の文学」『群像』2003年10月号
池内恵「『針の眼』の文献学――イスラームと西洋文学の十字路」『文學界』2006年4月号

いずれも『書物の運命』(文藝春秋)に収録してあります。

しかしこれらのエッセーは、文芸雑誌のエッセーや評論にありがちな、日本の文壇・思想界にとって望ましい「中東」や「イスラーム」の形式や内容に即していない。なので、毎回反応は特にないです。

鈍感な人に向けて野暮なことを書くと、「『イスラーム的サッカー』なんてない」、って書いているんだからね。それでも分からない人は・・・どうしようもない。

今回は、ちょうどエジプト映画の「アラブの春」前後の表象を調べているので、そこから切り出して書きました。情報量は多い。本当に「中東」「イスラーム」の現在を知りたければ当然知っていなければならない、現地の文化現象を、聞かれもしないのに紹介してあげています。

しかしこれは、日本の業界の「文学者」「批評家」「思想家」が興味を持とうとも、理解するための能力を培おうともしないであろう内容なんだろうなあ、と思います。

「なんでこんなエジプト映画のことなんて知らなければいけないんだあ?」と言われてしまいそうだが。

逆に、私から見ると、「知らないで書ける」人たちが怖くてたまらない。現実に生じていることと無関係に、自分の頭の中にある「中東」「イスラーム」を描くことが「想像力」で「思想」なのだとしたら、私はそのようなことを生業にしたくありません。

「イスラーム」については本当に少ない情報に基づいて、日本的な相互の了解に基づいた言説を何人かの「思想家」が猛然と発信しているけれども、まあほとんど価値はありません。勘違いの体系が日本語で作られていると言っていい。というかもうちょっとまともな研究書を読んで(大部分は外国語です。井筒俊彦はかなり独自の思想家なので井筒だけに頼らないでください)、それから、それ以前に原典を読んでから書いてよ。勘違い×思い込み=真実ではありません。

大手出版社と「文芸雑誌」というシステムに守られていちゃいかんのじゃないかと思うよ。