【日めくり古典】・・・そして崩壊、そして


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

ヨーロッパ古典外交の最盛期には、ヨーロッパの国際政治に参加する各国の間には、知的・道義的コンセンサスがあった。それを前提として勢力均衡は機能した。しかし、そのような前提が失われれば、勢力均衡は機能しなくなる。

「あらゆる帝国主義に固有に内在する、力への無限の欲求を抑制し、その欲求が政治的現実となるのを阻止したのは、まさにこのようなコンセンサスである。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、128頁)

「このようなコンセンサスがもはや存在しないとか、あるいは、弱体化してしまったとか、さらには、もはや自信がもてないとかという場合には、バランス・オブ・パワーは国際的な安定と国家の独立のためにその機能を遂行することができなくなるのである。」(同頁)

モーゲンソーが『国際政治』を著したのは、まさにこのようなコンセンサスが存在しない・弱体化してしまった・もはや自信が持てない、という認識のもとにおいてであった。

しかし国際社会に法や道理が失われたわけではない。それらは存在する。しかし国際社会の成員に、それらについてのコンセンサスが自明ではなくなった。コンセンサスなき状況では、法や道義を掲げることによって、かえって各国は戦争に突き進みかねない。第二次世界大戦直後の時代において、いかにしてバランス・オブ・パワーを実現するか。それが『国際政治』の執筆によって突き止めようとする最終的な目的として、現れてきます。

現在は、第二次世界大戦後の秩序が続いていながら、中国の台頭や、冷戦後のロシアの復活(のように見える動き)などによって、さらにもう一度、「コンセンサスが自明でなくなった」時代であるとも言えます。そのように時代が一巡すると、一つ前の時代に、似たような状況に直面して書かれた本が、理解しやすくなる、現代の状況を読み解き先を見通すためのヒントが得られやすくなる、そのようなこともあるのではないか、と思うのです。

【日めくり古典】ヨーロッパ古典外交の成熟と・・・

まだこの本ですよ。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

道義的コンセンサスがあるがゆえに、西欧の国家間の政治的争いが「控えめで節度があった」時期の例として、モーゲンソーは具体的に「一六四八年からナポレオン戦争に至るまで」と「一八一五年から一九一四年に至るまで」を挙げています(126頁)。

これは「ヨーロッパ古典外交」の形成期と成熟期ですね。

ヨーロッパ古典外交の華やかなりし時代には、「バランス・オブ・パワーは、単にその原因であるのみならず、それを具体化するための技術であるとともに、その比喩的かつ象徴的表現でもあるということである。バランス・オブ・パワーが、相反する諸力の力学的な相互作用をつうじて諸国家の権力への欲求を拘束する前に、まずは、競争している諸国家が、彼らの努力の共通枠組みとしてバランス・オブ・パワーのシステムを受け入れることによってみずからを拘束しなければならなかった。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、126頁)

モーゲンソーに触発されて、日本で著された、古典外交についての古典的な著作が、これです。


高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊I 』(中公クラシックス)

【日めくり古典】勢力均衡を可能にする条件とは

依然としてこの本ですが。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

ここまでに、モーゲンソーが勢力均衡を評価する部分を見てきました。そうすると、意外にも、モーゲンソーは勢力均衡の限界を説いていたことがわかります。

それでは、モーゲンソーは勢力均衡否定論者だったかというと、もちろんそうではありません。前回までに引用してきた部分は、勢力均衡を求めることで、かえって戦争に至ってしまった場面を特に扱っている部分であって、ヨーロッパ国際政治史において、かなり長い期間、勢力均衡が平和をもたらしていた時期があることを、モーゲンソーはさまざまな例を挙げて論じています。まとめれば「われわれは、一七、一八、および一九世紀におけるバランス・オブ・パワーの全盛期をつうじて、バランス・オブ・パワーが、近代国際システムの安定とそのメンバーの独立の保持に実際に貢献したことをみてきた」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、116頁)ということになるようです。

重要なのは、勢力均衡が機能するときには、ある条件が整っていたということです。その条件とは何か。簡単に言いますと、それは知的・道義的コンセンサスであるとモーゲンソーは指摘します。ギボンやトインビーなど歴史家の著作から引用して、モーゲンソーは、次のように記します。

「その時代の偉大な政治著述家たちは、バランス・オブ・パワーが、以上のような知的、道義的まとまりをその基盤とし、しかもこのまとまりがバランス・オブ・パワーの有益な働きを可能ならしめる、ということを知っていた。」(同、119頁)

さらに、フェヌロン、ルソー、ヴァッテルといった思想家や政治家の記述を引用し、次のように述べます。

「これらすべての宣言および行動から生まれる近代国際システムの安定に対する信頼は、バランス・オブ・パワーによってもたらされるのではなくて、バランス・オブ・パワーおよび近代国際システムの双方が拠って立つ、現実の知的、道義的な多くの要素によってもたらされるのである。」(同、125頁)

これについて次回もう少し見てみましょう。

【日めくり古典】勢力均衡の逆説

中巻に入ったモーゲンソー『国際政治』ですが、現状維持国とそれに挑戦する国(ここでは「帝国主義国」)との間に走る緊張と、その結果としての戦争の危険性の高まり、という話題になりましたので、俄然、現代の問題に近くなりましたね。なりませんか。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

モーゲンソーは米国の戦略家として(ただしドイツ生まれでナチスの迫害を恐れて移住しています)、「現状維持国」にいる人間として論じているのですが、帝国主義国(「現状変更勢力」とも呼べるでしょう)の軍備増強に対して、現状維持国が戦争によってこれを抑制することに利益を見出す場面が出てくることを認めます。

「国際政治のダイナミクスーーこれが現状維持国と帝国主義国との間に作用しているのだがーーがバランス・オブ・パワーを必然的に阻害するがゆえに、戦争は、少なくともバランス・オブ・パワーを矯正する機会を現状維持国に有利な形で与える唯一の政策として立ちあらわれるのである。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、109頁)

しかし関係は固定的ではない。そもそも勢力を計ることが困難なのだから、現状維持国のつもりで新興勢力に挑むことで、実際には帝国主義国になっていることもあるという。

「昨日の現状擁護者は、勝利によって今日の帝国主義者に転化し、これに対抗して、昨日の敗北者が明日には復讐の機会をさがし求めるであろう。バランスを転覆できなかった敗北者の遺恨に加えて、バランスを回復するために武器をとった勝利者の野心によって、新しいバランスは、次から次へと起こるバランスの阻害現象に動かされた、実際上目に見えない移行点となるのである。」(同頁)

ややこしいですね。

かなりややこしいヨーロッパの合従連衡の話は置いておいて、一般論として、現状維持国と帝国主義国(現状変更勢力)が時代とともに入れ替わることがあるだけでなく、そのいずれもが勢力均衡の維持や確立を掲げて戦争に踏み切ることがある、と言うことができます。そのことをモーゲンソーは次のようにまとめている。

「帝国を求めている国家は、自国が望むものは均衡に他ならないとしばしば主張してきた。現状を維持しようとしているだけの国家は、ときおり、現状の変化をバランス・オブ・パワーに対する攻撃に見せかけようとした。」(同、111頁)

それによって、

「諸国家の力の相対的地位を正確に評価することが困難であるがゆえに、バランス・オブ・パワーの呪文を唱えることは国際政治の有利なイデオロギーのひとつとなってしまった。」(同、113頁)

バランス・オブ・パワーもまたイデオロギーなんだって。どうすればいいんだ。

続く。

【日めくり古典】勢力均衡はむしろ戦争をもたらしてきた?

さて、モーゲンソー『国際政治』を読み続けていますが、ずっと上巻だったので、今日は中巻に飛んでみましょう。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

これまでのテーマの続き。イデオロギーとリアリズムの関係。

リアリズムの政治認識は勢力均衡(バランス・オブ・パワー)を原則としますが、モーゲンソーの『国際政治』で、実は勢力均衡について書いてある部分はそれほど多くないのです。多くの部分は、法や道義、慣習や国際世論を扱っています。これまでに見てきたように、モーゲンソーは、これらの理念・観念が平和をもたらすという主張に懐疑的・批判的なのですが、同時に、権力政治のみによる勢力均衡で平和が達成されるなどとも論じていません。

それどころか、第4部「国家権力の制限ーーバランス・オブ・パワー」(第11−14章)の結論部「第14章 バランス・オブ・パワーの評価」では、非常に否定的なのです。節の見出しを見てもそれはわかります。「バランス・オブ・パワーの不確実性」(中巻、91頁〜)、「バランス・オブ・パワーの非現実性」(同、101頁〜)、「バランス・オブ・パワーの不十分性」(同、116頁〜)とあるように、散々な評価です。勢力の均衡点を算出することは困難であり、各国は均衡点を見誤りかねない。であるが故に、少なくとも出し抜かれないように、力の優位を目指すことになる。勢力均衡を求めて各国は戦争をしかねない(例えば、101・102頁)。

次の部分にあるように、モーゲンソーは勢力均衡はそのままでは平和をもたらさない、と突き放しています。

「バランス・オブ・パワーがその安定化作用によって多くの戦争を避ける助けとなった、という主張は、証明することも反証することも永久に不可能であろう。人はある仮定的立場をその出発点にして歴史の道程をふり返ることはできないのである。しかし、いかに多くの戦争がバランス・オブ・パワーの範囲外で起こったかを明言できるものが誰もいない一方では、近代国際システムの誕生以来戦われた戦争のほとんどすべてがバランス・オブ・パワーのなかで起こっている、ということを知るのはむずかしいことではない。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、107頁)

これに続く箇所では戦争のタイプを次のように分類して、いずれも勢力均衡の下で生じているという。

「次に挙げる戦争の三つのタイプが、バランス・オブ・パワーの力学と密接に関連している。すなわち、すでに言及した予防戦争ーーそこでは、通常両方とも帝国主義的目標を追求しているーーや反帝国主義戦争、そして帝国主義戦争そのものである。」

モーゲンソーが『国際政治』を書いた時点で(繰り返すがそれが「いつ」であるのかはこの本の成り立ち上、流動的なので、本当に正確なところはこの問題の専門家に聞いてみないといけないが)、「予防戦争」「反帝国主義戦争」「帝国主義戦争」が具体的にどのような歴史事実を指すのかは、皆様が本を手にとって読んでみてください。

しかしこの直後にもいくつか例が挙げられている。

「バランス・オブ・パワーの状況下において、一個の現状維持国ないし現状維持国同士の同盟と、一個の帝国主義国ないし帝国主義国の集団との間の対抗は非常に戦争を起こしやすい。カール五世からヒトラーおよび裕仁(ルビ:ひろひと)に至るまでの多くの実例において、彼らは実際に戦争を導いた。明らかに平和の追求に貢献し、現在もっているもののみを保持したいと思っている現状維持国は、帝国主義的膨張に専念している国家に特有の、力のダイナミックかつ敏速な増強に肩を並べていくことはほとんどできない。」(同、107−108頁)

最近では、戦後70年談話に盛り込まれて一部で話題になった、「国際秩序への挑戦者」という問題ですね。

長くなってきたので続きはまた明日にしましょう。

【日めくり古典】モーゲンソー『国際政治』から翻訳者に遡ってみた

ここのところずっとこの本からの抜き書きをしているのだが、

今日は一休みして回り道。

この本は、私は学生時代に読んだはずなんだけれども、こんなに読みやすかった印象がない。私の方で何かが変わったのか、世の中が変わってリアリズムがより受け入れやすくなったのか。

2013年に文庫化されて、手軽に安価に手に取れるようになったというのがかなり大きい要因かもしれない。単行本はとにかくでかくて重くて活字も古くていかにも古色蒼然とした本に見えた。ところが文庫になると肩に力を入れずに読める。

あと、原彬久先生の訳文が読みやすい。この本は元々は1986年に福村出版から刊行されたもので、「現代平和研究会」による共訳で、代表者が原先生ということになっている。各章の翻訳担当者は各巻の冒頭に記されているが、私などは名前だけしか知らない上の世代の、いずれも錚々たる学者である。

文庫版では原先生が監訳者となっている。翻訳代表者・監訳者がどれだけ全体の訳文に手を入れて統一させたかは、かなりよく調べてみないとわからないが、全般に読みやすいものになっていると思う。ここまでのところは総論・序論である第一部から引用してきたが、監訳者の原先生の担当部分であった。そういえば、E・H・カーの『危機の二十年』は以前から岩波文庫に入っていたけれども、読みにくかった。この本を2011年の新訳ですごく読みやすくしてくださったのも原彬久先生だった。


『危機の二十年――理想と現実』(岩波文庫)

単に訳文が読みやすくなっただけでなく、カーの新訳が出た頃から、国際政治、特にリアリズムの古典について、それを読むわれわれの側で何かが変わったような気がする。翻訳者も訳しやすくなったということかもしれない。

そんなことを考えながら原先生の著作をアマゾンで見ていたら(個人的に面識はありません。一度何かの会合で同じ大きな部屋にいたことがあるぐらいでしょうか)、なんだかどれも今読むと面白いんじゃないか?というタイトルだ(以前に読んでも面白かったですすみません)。中東とはまったく関係ないんだが、日本の今夏の政治・思想状況を思い起こすと、涼しくなった秋に頭を冷やして読み直したほうがよさそうだ。

まず、最近出た、オーラル・ヒストリーの総まとめ的な本から。


『戦後政治の証言者たち――オーラル・ヒストリーを往く』

で、いったいどういう対象にオーラル・ヒストリー聞き取りを行ってきたかというと、一方で岸信介。


『岸信介証言録』 (中公文庫)

上記はオーラル・ヒストリーの原資料的なもの(もちろんある程度編集してあるが)だけれども、それに基づいた成果はもっと以前に刊行されている。

それがこれ。


『岸信介―権勢の政治家』 (岩波新書)

これが出た時は、このテーマはまったく違う政治的位相の元で読まれていた気がする。

遡っていきましょう。これ。これも昔読んだと思うけど、今読めばまったく違う印象だろう。

『日米関係の構図―安保改定を検証する (NHKブックス)

そして60年安保の結果として固定化された日本政治の構図の中で、岸の対極に位置して存在してきた野党=社会党的なるものも同時に研究対象になっている。

あの「記念受験」かつ「同窓会」的な発想のデモと国会審議を見てしまうと、社会党的なるものは今こそ客観視できるような気がする。そうなるとこれ、今絶対読みたい。締め切り抱えているから今読めませんが。

『戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか』(中公新書)

岸信介を岩波新書で、社会党を中公新書で、というクロスオーバーのバランス感覚が絶妙でたまらんですな。こういうところが日本の出版文化の妙だったんですが、硬直党派化・短期商売窮乏化して貧して鈍して失われかけているものでもあります。

こうなるとまったく専門に関係ないから読んでいなかったこの本も、現代日本への興味から読んでみたくなる。取り寄せてみよう。モーゲンソー『国際政治』、カー『危機の20年』の翻訳と60年安保の政治学とのつながりが見えてきますね。
原彬久「戦後日本と国際政治」
原彬久『戦後日本と国際政治―安保改定の政治力学』中央公論社、1988年

学者の仕事って、何十年も経ってから読まれる本を何冊書けるかが勝負なので、そういうテーマに当たるか、その時間と環境があるか、考えれば1分も無駄にはできない。

「息の長い」って言葉も考えてみれば怖い言葉で、すごい時間がたっても無知無理解・暴論が飛び交っていても、とにかく生き延びて、「死んでない、息してる」ってことが重要だということだからね。

私は息も絶え絶えです。

【日めくり古典】イデオロギーで権力闘争を覆い隠すのはむしろ当然

ゆったりと今日もモーゲンソー。なんとなく始めた「日めくり」連載ですが、長くかかりそうです。今忙しいのでまとめて予約自動投稿です。連休中仕事で出かけています。私を探さないでください。私はここにはいません。

フェイスブックなどでも当分通知できないかもしれないので、日本時間朝7時に毎日自動で投稿されますので、読みたい方は読みに来てください。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

引き続きイデオロギーの話。しつこいですか。しつこいぐらいがいいです。

「人間は自己の権力への欲求を正当なものと考える一方で、彼に対する権力を獲得しようとする他者の欲求を不当なものと非難するであろう。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、227頁)

権力政治批判というのは、自分の持つ権力は正しくて、他人が持っている権力は悪い、という批判に過ぎないことが往々にしてあります(*研究者が「往々にしてある」と言うときは「いつもそうだ」ということの婉曲表現であることが往々にしてあります)。

これをモーゲンソーは「価値二面性」とも呼んでいます。ただし、モーゲンソーは、だからイデオロギーは悪い、イデオロギーで権力政治を覆い隠すのはやめろ、権力政治を剥き出しにしろ、などとは主張していないのです。

「このような価値二面性は、権力の問題に接近するすべての国家に特徴的なことであるが、それは国際政治の本質に内在するものでもある。イデオロギーを排除して、権力が欲しいなどと率直に言明する一方で、他国の同じような欲望に反対するような国家は、権力闘争において大きな、おそらくは決定的な不利を被ることをたちまち思い知らされるであろう。権力への欲求をこのように率直に告白してその意図を明言する対外政策は、結局、他の諸国家を団結させて、それに対する激しい抵抗を呼びさますことになるだろうし、その結果、その国はそうしなかったとき以上に力を行使しなければならなくなるであろう。」(同、228頁)

剥き出しの権力闘争は自国民の支持も受けないだけでなく、それに対する他国の警戒と団結を呼び覚まし、いっそう剥き出しの権力行使を必要としてしまう。であるがゆえに、嘘であれ幻想であれ、国家はなんらかの道義や正義や、あるいは時代によっては「生物学的必要」といった観念で自らの政策を正当化することが不可避であり、ある意味で合理的でもある、というのです。

「イデオロギーは、すべての観念がそうであるように、国民の士気を高め、それによって国家の力を高める武器であると同時に、その行為そのものが敵対者の士気を弱める武器である。」(同、229頁)

国際政治は単なる力と力の戦いではなく、不可分に道義や正義といった観念を駆使した戦いなのです。政治の学はそのことを客観視しなければならない、というモーゲンソーの主張は、この道義や正義の観念が、「現状」(それが「いつ」であるのかは、この本が第二次世界大戦直後の1948年に刊行されてから、70年代に入っても著者自らの手で改定され続け、邦訳は1978年の改訂第5版に基づいているので、そう簡単に確定できない問題ではありますが)では、むしろ対立を困難なものにしているという認識から導かれるのです。

まだまだ、続きます。

【日めくり古典】もっと、モーゲンソー『国際政治』ですが。。。

政治とイデオロギーの関係についての続き。よっぽどこれに頭を悩ませているらしい。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「まず、これらのイデオロギーは、特定個人の偽善の偶然の産物ではないということである。そのようなものなら、対外問題を立派に処理させるために、もっと誠実な別の人にそれを委ねてしまえばすむはずである。フランクリン・D・ルーズヴェルトやチャーチルの対外政策の虚偽性をあばくことに最も口やかましかった反対派の人びとが、ひとたび対外問題を処理する責任を負わされると、こんどは彼ら自身イデオロギーによる偽装を利用して支持者たちを驚かしたものである。政治舞台の行動主体が、自己の行動の直接目標を隠すのにイデオロギーを利用せざるをえなくなるのは、まさしく政治の本質である。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、226頁)

ありますね、これ。他人を口を極めて罵倒する人たちが、自分たち自身がイデオロギーの虜であるという場合。問題をある政治家の人格や思想に還元してしまうことが問題であるだけでなく、そのような批判をする人たち自身が無自覚にもっと難のある人格や思想をむき出しにしていたりする。

これに続く部分が重要です。

「政治行為の直接目標は権力であり、そして政治権力は人の心と行動に及ぼす力である。だが、他者の権力の客体として予定された人びとも、彼ら自身、他者に対する権力の獲得の意図をもっているのである。こうして、政治舞台の行動主体は、つねに、予定された主人であると同時に、予定された従者なのである。彼は他者に対する権力を求めるが、他者も彼に対する権力を求めるのである。」(同頁)

批判のための批判が正しい、とする開き直りの姿勢は、近代国家の市民は、「主人」であり「従者」でもあるということを、忘れているのです。

【日めくり古典】まだまだ、モーゲンソーの見る政治イデオロギー


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「政治の基本的な発現形態、すなわち権力闘争は、しばしばありのままにはあらわれない。このことは、国内政治にせよ国際政治にせよ、あらゆる政治に特有なことである。むしろ、追求されている政策の直接目標としての権力の要素は、倫理的、法的あるいは生物学的な用語で説明されたり正当化されたりするものである。いってみれば、政策の真の性格は、イデオロギー的正当化や合理化によって隠されるのである。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、222頁)

モーゲンソーは法と道義、理想主義の価値を否定するものではない。そもそもリアリズムの祖とされる『国際政治』を紐解いてみると、勢力均衡とか国力の話はほんの少しで、大部分が様々な理念の話である。ただし、人間は理念を掲げて政治を行うが、それが権力政治を覆い隠してしまう。それによって実際の政治は見えにくくなるとともに、理念に覆われた権力政治は人間により大きな災厄をもたらすことがある。人間が理念を掲げ、イデオロギーに覆い隠して権力政治を行う存在であることから、それらを剥ぎ取ったリアリズムの視点が必要とされる。そこにこそ政治についての学の存在意義がある。

【日めくり古典】良い動機が良い政策や良い結果をもたらすとは限らない

承前


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

第二に、政治家の意図や動機が立派なものであったとしても、それが道義的な政策をもたらすとは限らないし、成功する政策をもたらすとも限らないからである。

「われわれは、政治家の対外政策が道義的に立派であるとかあるいは政治的に成功するだろうとかいうことを、彼の善良な意図から結論づけることはできない。われわれは、彼の動機から判断して、彼が道義的に悪い政策を故意に追求することはないだろうと論ずることはできても、その政策の成功する可能性については何もいえないのである。もしわれわれが彼の行動の道義的な質と政治的な質を知りたいなら、われわれはその行動をこそ知らなければならないのであって彼の動機を知る必要はない。政治家が世界を改革しようという欲求に動機づけられながら、結局は世界をさらに悪くしてしまうことがいかに多くあったことか。また彼らがある目標を追求して、結局は期待も望みもしなかったものを得てしまうということがどれほど多かったであろうか。」(原彬久訳、上巻、46頁)

これは今現在も通用する真実ではないでしょうか。

モーゲンソーは例としてチェンバレンとチャーチルを比較しています。よく言われることですが、チェンバレンの宥和政策は「個人的権力」の獲得の欲求によって動機づけられていたわけではなく、「平和を維持しようとし、あらゆる当事者の幸福を確かなものにしようとした」が、しかしそれは第二次世界大戦を避けがたいものにしてしまった(46頁)。

それに対して、チャーチルは個人的な利益や国家権力の獲得という動機によって方向づけられていたとみられる。しかし「これら劣勢の動機から生まれたチャーチルの対外政策は、彼の前任者たちが追求した政策よりも確かに道義的、政治的な質において優れていたのである」(47頁)。

また、これもまたよく挙げられる例だが、フランス革命時のロベスピエール。

「ロベスピエールは、その動機から判断すれば、史上最も有徳な人物のひとりであった。しかし、彼が自分自身よりも徳において劣った人びとを殺し、みずから処刑され、彼の指導下にあった革命を滅ぼすに至ったのはほかでもない、まさにあの有徳のユートピア的急進主義のせいであった。」(同頁)

ロベスピエールは数多くの敵対勢力を断頭台に送り、最後は彼自身が断頭台の露と消えました。

「お前は人間じゃない」「叩っ斬ってやる」の元祖と言うべきでしょうか。

【日めくり古典】政治家の動機を探ることは無益

この「日めくり」シリーズでは、必ずしも体系的に、また標準的な教科書として、古典を解説しようとは考えていません。そういうものがお望みの方は他所を当たってみてください。気が向いたら解説書・研究書の紹介もします。

モーゲンソー『国際政治』には、昔の教科書では参照されることも多かった、基本概念をある程度網羅的に列挙して定義づけた部分があります。「政治的リアリズムの六つの原理」(上巻、40頁〜)や「政治権力の区分ーー四つの区分」(上巻、96頁〜)といった部分です。

それらを体系的に紹介するのはこのブログの趣旨ではありませんので、私自身がパラパラめくって、最近の世界情勢とか私の個人的な興味とかに照らして面白いな、と思ったのは、「政治的リアリズムの六つの原理」のその二で取り上げられている、国際政治は力(パワー)によって定義される利益(インタレスト)の概念から見ていくべきだ、という方法論の部分です(43頁〜)。

そこで、「われわれは、政治家は力として定義される利益によって思考し行動する、と仮定する」(原彬久訳、上巻、43頁)と記されています。「仮定する」のです。政治家が常に力として定義される利益によって思考し行動しているかどうかは、わかりません。わかりませんが、政治家が他のものによって思考し行動する、と仮定するよりは、この定義の方がマシだから、このように仮定しているのです。

よく行われるけれども有害無益であるとモーゲンソーが主張するのが、政治家の行動準則を、政治家の「動機」に求める考え方。これは、なぜ政治家がそのような判断をして行動したかの原因・結果を論じるときにも、政治家の行動が道義的に正しい動機に基づいていたか、あるいは正直に「真意」に基づいていたかを判定するときなどに、意識的にであれ、無意識的にであれ、用いられている考え方です。これがなぜ無益なのか。

第一に、そもそも政治家の動機を正確に判定することは困難だからです。

「対外政策の解明の手がかりをもっぱら政治家の動機のなかに求めることは、無益であると同時に人を誤解させる。なぜ無益かといえば、動機は心理学データのうちで最も非現実的であるからである。つまり動機は、しばしば見分けがつかないほどに行動主体と観察者双方の利益および感情によって曲解されるのである。われわれは、自分の動機が何であるかを本当に理解しているだろうか。またわれわれは、他人の動機についていったい何を知っているであろうか。」(同、45頁)

そうですね。他人の動機がよくわからないどころか、考えてみれば自分がやっていることだって、動機が何かと問われたら、わからないことが多いんじゃないですか?

第二に・・・

(以下次号)

【日めくり古典】国際政治の比較と予測

モーゲンソー『国際政治』(上巻、岩波文庫)からのメモの続き。

国際政治の研究には「比較」は欠かせない。しかし、国際政治学が扱う対象はあまりに曖昧だ。モーゲンソーはモンテーニュを引用して、事物と事物の「経験から引きだされる相対関係はつねに不備、不完全である。しかし人は、どこかの点で比較をしてお互いを結びつける。そんなわけで法則もまた重宝なものになる。法則は、幾分歪曲された、こじつけの、偏ぱな解釈によってわれわれの出来事のひとつひとつに適合するのである」(75頁)という。よって「偏ぱな」解釈につねに気をつけなければならないが、それでもわれわれは比較せざるを得ない。

そして、曖昧な対象を扱う以上、どこかに直感に頼らなければならないところが出てくるし、その直感を経験によって確かめられることもあれば、確かめられないこともある、という(83頁)。

「国際政治の研究者が学ばなければならない、そして決して忘れてはならない第一の教訓は、国際事象が複雑なために、単純な解決や信頼出来る予言が不可能になる、ということである。ここにおいて学者といかさま師とは袂を分かつのである。国家間の政治を決定する諸力を知ることによって、そしてこれら国家間の政治関係がどのように展開するかを理解することによって、国際政治の諸事実がいかに曖昧であるかが明らかになる。政治状況においてはすべて相矛盾する傾向が作用している。これらの傾向のうちひとつは、ある条件の下では比較的優位になりやすい。しかし、どの傾向が実際に優勢になるかは予測しがたい問題である。したがって、研究者にせいぜいできることは、ある国際状況のなかに潜在力として内在するいろいろな傾向を突きとめることである。彼は、ある傾向を別の傾向よりも広がりやすくしている諸条件をいろいろ指摘することができるし、また最終的には、いろいろな条件や傾向が実際に広がるその可能性を評価することができるのである。」(原彬久訳、上巻、83−84頁)

【日めくり古典】政治とイデオロギーは古来不可分(理論的分析は別の視点から)

もう少し、モーゲンソーの『国際政治』を。4回目。

政治の理論的な分析は、往々にして人びとの同意を得ることができないとモーゲンソーはいう。それは人びとが政治を理念やイデオロギーと絡めて理解しているからで、それ自体は不可避であるし正当であるとも言える。リベラルな理念からは権力政治はあってはならない、やがてなくなるものに見えるし、イデオロギーは権力闘争を覆い隠す。それが政治である。人間は「思いちがい」をすることで政治に満足する、とモーゲンソーは達観する。その上で、政治理論はそれらの思いちがいから中立であるようにしていかないといけない、と宣言するのである。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「日々機能している人間精神は、政治の真理をまともに直視することができないのである。それは、真理を偽り、歪曲し、見くびり、そして粉飾するにちがいない。しかも、そうであればあるほど、個人はますます政治の過程、とくに国際政治の過程に積極的にかかわることになる。なぜなら人間は、政治の本性と、彼が政治舞台で演ずる役割とについて思いちがいをすることによって初めて、政治的動物として自分自身および他の人びととともに満足して生きていくことができるからである。
 だから、人びとがその目で見たいと思う国際政治よりも、むしろ、現にあるがままの国際政治や、その本質からいって当然そうあるべき国際政治を理解しようとする理論は、他の大半の学問分野がしなくてもすむような心理的抵抗を必ずや克服しなければならないのである。したがって、国際政治の理論的理解にあてられた書物は、特別の説明と正当化を必要とするわけである。(原彬久訳、上巻、68−69頁)

【日めくり古典】政治学の様式とは

こないだからの続きでっせ。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「たとえば、近代経済学者は誰にしても、自分の科学、およびその科学と他の人間諸科学との関係について自分の思惟様式以外のやり方では考察しないであろう。経済学が人間の経済行動に関する独立した理論として発展してきたのは、まさにこのように他の思惟基準からそれが分離する過程をつうじてであり、さらには、その主題にあてはまる思惟基準を発展させてきたためである。政治の分野でこれと同じような発展に貢献するということは、実に政治的リアリズムの目標なのである。」(原彬久訳、上巻、67頁)

【日めくり古典】モーゲンソーにとっての政治と宗教

前回に引き続きこれ。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「政治的リアリズムは、人間性にはいろいろな側面がある、ということを認めるとともに、これら諸側面のうちのひとつを理解するためにはわれわれがその側面独自の条件でそれを扱わなければならない、ということをも承認する。すなわち、私が「宗教人」を理解したいと思えば、私は、人間性の他の諸側面から当分の間離れて、その宗教的な面を、あたかもそれが唯一無二の側面であるかのように扱わなければならないのである。そのうえ私は、宗教の領域に対しては、その領域に妥当する思惟基準を適用しなければならない。しかもその場合、私は、他の基準の存在と、人間の宗教的な属性に対してこれらの基準が実際に及ぼしている影響についてつねに知っている必要があるわけである。人間性のこの側面についていえることは、他のすべての面についてもあてはまる。」(原彬久訳、上巻、66−67頁)

【日めくり古典】リアリズムは法・道義や宗教をどう扱うか

連日、現在進行中の中東情勢の変動とその国際的波及と、それらを理論的に整理する枠組みと概念をパズルのように組み立てる作業を繰り返している。

そんな中、一瞬だけ目に付いた古典に帰ると、これまでに目に止めなかったところが目に止まり、重要性に合点がいっていなかった部分が浮き立ってくる。

そんな中から少しずつノートを作っていってみよう。

まずはモーゲンソー『国際政治 権力と平和』(原彬久訳)から。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

台風の中、電車の中でこの本を読んでいて、特に注視して読んだのは、リアリズムの観点からの国際政治の把握が、法や道義的観点や、宗教的観点からの国際政治論とどう違うのか、それらの規範的な立場からの主張をどう扱えばいいのか、という問題について。

思想史という、規範的な価値とイデオロギーを必然的に含んだ対象を扱う領域に注目し、イスラーム教という宗教的価値規範を対象にしつつ、現実政治の中での思想と宗教の発現を対象化する作業をしていると、リアリズムと規範のせめぎ合いで視点がぶれそうになる。また、政治学の方法論には、人間を経済学的な合理的個人と仮定することで物事のある側面を浮き立たせるものがある一方で、それで捨象されてしまう集団や価値や非合理の要素に目を向けなければ説明できない現実の事象が無数にある。方法論をどの次元で設定するべきか。

それに対してモーゲンソーはどう言っているのか。上巻の最初の方。

「リアリストが他の思惟様式による邪魔だてに抗して政治的領域の自律性を守ろうとすることは、これら他の思惟様式の存在と重要性を無視することを意味するものではない。それはむしろ、おのおのの思惟様式がそれ独自の領域と機能を配分されるべきである、ということを意味している。政治的リアリズムは、人間性の多元的な概念に基礎づけられている。現実の人間は、「経済人」、「政治人」、「道徳人」、「宗教人」等々からなる複合体である。「政治人」以外の何物でもない人がもしいるとすれば、その人は野獣である。なぜなら、彼は道義的自制を全く欠いているからである。単に「道徳人」である人は愚者である。というのは、彼は完全に慎慮を欠いているからである。「宗教人」にすぎない人がいるとすれば、その人は聖者である。なぜなら、彼は世俗的欲望を全く欠いているからである。」(原彬久訳、上巻、66頁)