【日めくり古典】政治家の動機を探ることは無益

この「日めくり」シリーズでは、必ずしも体系的に、また標準的な教科書として、古典を解説しようとは考えていません。そういうものがお望みの方は他所を当たってみてください。気が向いたら解説書・研究書の紹介もします。

モーゲンソー『国際政治』には、昔の教科書では参照されることも多かった、基本概念をある程度網羅的に列挙して定義づけた部分があります。「政治的リアリズムの六つの原理」(上巻、40頁〜)や「政治権力の区分ーー四つの区分」(上巻、96頁〜)といった部分です。

それらを体系的に紹介するのはこのブログの趣旨ではありませんので、私自身がパラパラめくって、最近の世界情勢とか私の個人的な興味とかに照らして面白いな、と思ったのは、「政治的リアリズムの六つの原理」のその二で取り上げられている、国際政治は力(パワー)によって定義される利益(インタレスト)の概念から見ていくべきだ、という方法論の部分です(43頁〜)。

そこで、「われわれは、政治家は力として定義される利益によって思考し行動する、と仮定する」(原彬久訳、上巻、43頁)と記されています。「仮定する」のです。政治家が常に力として定義される利益によって思考し行動しているかどうかは、わかりません。わかりませんが、政治家が他のものによって思考し行動する、と仮定するよりは、この定義の方がマシだから、このように仮定しているのです。

よく行われるけれども有害無益であるとモーゲンソーが主張するのが、政治家の行動準則を、政治家の「動機」に求める考え方。これは、なぜ政治家がそのような判断をして行動したかの原因・結果を論じるときにも、政治家の行動が道義的に正しい動機に基づいていたか、あるいは正直に「真意」に基づいていたかを判定するときなどに、意識的にであれ、無意識的にであれ、用いられている考え方です。これがなぜ無益なのか。

第一に、そもそも政治家の動機を正確に判定することは困難だからです。

「対外政策の解明の手がかりをもっぱら政治家の動機のなかに求めることは、無益であると同時に人を誤解させる。なぜ無益かといえば、動機は心理学データのうちで最も非現実的であるからである。つまり動機は、しばしば見分けがつかないほどに行動主体と観察者双方の利益および感情によって曲解されるのである。われわれは、自分の動機が何であるかを本当に理解しているだろうか。またわれわれは、他人の動機についていったい何を知っているであろうか。」(同、45頁)

そうですね。他人の動機がよくわからないどころか、考えてみれば自分がやっていることだって、動機が何かと問われたら、わからないことが多いんじゃないですか?

第二に・・・

(以下次号)