イスラーム報道の適正化に向けて

週末に校了間際の〆切りが3本もあるという異常事態に追いつめられています。日本のイスラーム認識・報道にも関係する論説がそれらの一本なので、日本の新聞・雑誌も見ないといけない。

「イスラーム国」の実態をみて、またそれを擁護する人々の言説の実態も見て、少しずつ議論の焦点が絞られてきたように思います。とにかく文章を書く人は、中二病的超越願望を捨てて、今そこにある問題にどう取り組むか考えた方がいい。

良かったのがこの社説。

「社説:カナダ銃撃 「イスラム国」の幻想砕け」『毎日新聞』2014年10月25日東京朝刊

自由主義社会の国民メディアの社説が言うべき点を押さえている。

重要なフレーズをいくつか抜き出してみる。冒頭に*をつけたところが毎日の社説からの引用。段落を変えて私の補足。大学教員とか文章を扱って論理的に考えることが仕事の人でも本当に思い込みで正反対に受け止めるので、重要部分に下線も引いておく。

*「だが、そもそもテロに大義はない。「イスラム国」のせいで「イスラム教=恐ろしい宗教」といったイメージが独り歩きしているのも問題だ。同組織の異教徒虐殺や女性の性奴隷化などは決して許されないし、その激越な主張を支持する人は、16億人とされる世界のイスラム教徒の中で、まさに大海の一滴に過ぎまい。」

「テロに大義はないということでは合意できますよね?面白半分の人も本気の人も、大義はあるということであれば対話できませんよ」ということ。新聞社説でそこまではっきり言えないということなのか、そこまで覚悟が決まっていないのか分からないが、本当はそこまで言わないと、在特会とかも批判できなくなる。

そして「イスラム教=恐ろしい宗教」という偏見があってはならないのであれば、最低限「テロに大義はない」という点は合意してくれますよね?テロを正当化する人は16億人のイスラーム教徒のごく一部ということで良いですよね?という点は、やはりいうべきこと。少数のノイジー・マイノリティが「テロに大義はある」と逆説あるいは暴論で言ってお互いに盛り上がっているとしても、新聞社説が相手にして取り入れることではありません。

これはいわば自由社会における「踏み絵」です。「理解・寛容」は他者への暴力や支配を主張し行動する者には適用されないというのが自由社会の大原則です。「つまらない」かもしれませんが、それを主張し続けないと自由社会は維持できないのです。

*「にもかかわらず、日本を含む世界各国で「イスラム国」への合流を望む者が後を絶たないのは、この組織が世界の不合理に挑戦しているような幻想があるからだ。」

正しく「幻想」です。

やっと新聞でこう書くところが現れた。事実を突き付けられんと書けんのか、という気はするが、新聞に先を読む能力など期待してはいかん、ということなのだろうね。せめてこれまで書いてきたことを(暗黙の裡に)否定してでも態度を変えたことを評価しないといけない。

過激派が何か世界の不合理に挑戦してくれているような幻想に寄り掛かかる新聞社説や、過激派の暴力による威嚇をある意味強制力として味方につけて語る新聞社説は多かった。過激派があたかも「弱者」を代表しているかのようなすり替え情報を各所で挟むことでそれが歴然とした暴力による威嚇であることを漂白して、政権や社会全般を批判する素材に使う新聞社説は実に数多く繰り返されてきた。データベースなどで体系的にまとめると良いが、時間がないので誰かがやってください。

日本赤軍も連合赤軍も、今見ると「何でこれが」というぐらい好意的に新聞社説で取り上げられてきた。「彼らの手段はいかんが、言っていることは分かる。社会が悪い」といういつもの論法だった。

実際に「彼ら」言っていることは「俺たちは明日のジョーである」といったいかにも元気の溢れる若い人が少ない知識・情報から絞り出したんだろーなートホホな妄言だったりしたのに、新聞社説はそれはスルーして勝手な思い入れを盛ってきたのである。

だから今「イスラーム国」に共感・参加などと言っている若者の発言、というものについて私が「自由主義社会における愚行権の行使」であると書いているのは、「新聞記者もさんざん愚行権を行使していたな~」というのと同じ程度にしか批判していない(しかもきちんとその権利を自由主義社会に所与のものとして認めている。あの、権利を認めるとは、その際に刑法を逸脱しても罪に問われないと認めるということではありませんよ)。そういった私の論評に対して「若者に厳しすぎる」とか「彼らの内在的動機を理解せずに表面的過ぎる」といった批判は、読みが浅すぎるのと、歴史を知らな過ぎる。若者だけじゃなくて、昔若者だった今の年寄りも、昔も今もヒドかったんです。そもそも上から目線で私と若者の双方を理解したり諭したりする視点をそういう方々はどこから手に入れたのか。勝手に人間に序列をつけて上下関係で「上の立場」からモノを言えば下は従う、という疑似封建社会に未だに生きている人が多すぎる。そういうモノの言い方では自由世界で人を説得できないんです。そもそも、匿名で個人的に言ってきたり、陰で仲間でごそごそ言っているのは言論ではない(と言うと「言論がなんだ!俺様が貴様に意見してやってるのだ!」と完全に自由社会を否定する大人って多いですな。そういう意味で、日本の軍国主義化はあり得えないことではないと思っています)。

私が最初に書いた本(『現代アラブの社会思想』)の中で、日本赤軍の人たちが実際に言ったことと、日本の「意識高い」系の人たちが勝手に読み取ったことのギャップをからかったら、編集者から「読者に受け入れられないからやめた方がいい」と言われてかなり和らげた。あれでもかなり和らげてあるのです。本を買うのはそんな読者ばかりだった(と編集者が想定している)時代は、今と比べて人々のリテラシーが高かった時代だとは思わない。単に流行が違うだけ、というのと昔はメディアが本や新聞しかなかったから本や新聞に何でもかんでも詰め込んで大量に刷れば売れた。今は代替肢があるからそう売れないと言うだけだ。

*「たとえば20世紀初頭、列強が中東を恣意(しい)的に線引きしたこと(サイクス=ピコ協定)への反発は昔からある。だが、同協定に異を唱え、すでに独立した国々の中に力ずくで別の国をつくろうとする「イスラム国」もまた、恣意的な線引きをしようとしているのだ。」

ここも重要。「カリフ制」という未知なる観念に勝手な思い入れを投影して、国民国家を超えたユートピアを胸に抱いて共感してしまう人が、なまじ勉強した人に多いが、「イスラーム国」の本人たちが「国家」と言ってしまっているところで疑問を持たないといけない。イスラーム法学的には「国家」が出てくるのはおかしい。ひたすらカリフ制とだけ言っていなければいけないはずだ。

しかし彼ら自身の宣伝文書でひたすら「国家」と言って続けているのである。このあたりが、結局はイラクとシリアでの武力闘争と領域支配を担っているのは旧バアス党幹部なんだろうな、と強く推測される理由だ。

「イスラーム国」はどう見ても領域国民国家を作ろうとしている。近代の国民国家の原理であれ実態であれ、超越などしていない。単に「国民」の定義をスンナ派イスラーム教徒(のうち自らに従う人々のみ)だとしているだけです。既存の秩序を破壊することはできても、新しい理念に基づく秩序を生み出せるとは思えない。

「民族主義に基づいて国民国家を作ったから弊害として民族対立とか国家を得られない民族とかが出てきた、民族浄化や住民交換などの悲劇が起こった」という批判をするのはいいのだが、だから歴史の勉強でうろ覚えに知っている「特定の宗教を上位の規範とした帝国」に戻れ、というのは単なる退化でしょう。国民国家で辛うじて提供していた権利すら各個人から剥奪され、劣位に置かれることを認めるか去るか、そうでなければ殺されても仕方がない、という境遇に落ちる人々が膨大に出てくる。それで平和が達成されるかというと、客観的には達成されないが、支配宗教の側の主観では、異を唱える人がいなくなれば平和になる、というのだから、やはりその過程で大戦争と民族浄化あるいは大規模な住民移動が不可欠となる。しかもそのようなジェノサイドは、平和を達成する過程でのやむを得ない事象として正当化されてしまう。

「国家」を構成する「国民」が民族ではなく宗教に基づいているというのは特に珍しいことではない。旧ユーゴスラビア連邦の諸民族構成のうち一つが「ムスリム人」だった。ボスニアの「ムスリム人」とセルビア人とは人種的形質や言語は元来はほとんど変わらない(ただしムスリムと正教徒は基本的には通婚しない、というか通婚したらイスラーム法上自動的にイスラーム教徒になるので、徐々に形質的差異が出てきていてもおかしくはないが)。宗教的差異が民族区分とされたのである。社会主義というイデオロギー的紐帯と、それを背後で強制するソ連の存在がなくなったら、そのような民族単位での独立闘争が始まった。

そのムスリム人がボスニアを独立させようとして、戦争になった、というのと、現在の「イスラーム国」の領域支配は同種のもの。といってもバルカン半島ではイスラーム法学はほとんど通用していないから宗教や教義を持ち出して対立や殺人を正当化はせずに、単に民族が違うと言って殺し合った。イスラーム法学が通用していたらそんなことはなかったかというと、そうではなくて、イスラーム法学的にボスニア領内のセルビア人(キリスト教徒)は劣位の存在に置かれるが我慢せよ、それを認めないなら討伐だ、と言う人たちが現れて、いっそう紛糾したことだろう。

なおボスニア紛争やコソボ紛争では、欧米はムスリム人・ムスリム系住民の側にかなり肩入れして、現地では欧米への感謝の念は強いのだが、イスラーム世界全体ではこの点はまったく考慮されず、常に「欧米がイスラーム世界を攻撃している」ということになっている。

*「こうした現状に「否」を突きつける主体は、あくまで中東とイスラム圏の国々である。ネットを駆使して自らの主張を発信する「イスラム国」に対し、中東の国々やアラブ連盟(加盟22カ国・機構)、イスラム協力機構(加盟57カ国・機構)などの組織はもっと反論していい。」

これも言わなければならない点だ。というのは、こういった事象が持ち上がるたびに、イスラーム諸国の知識人も、アラブ連盟など国際機構も、「イスラームに対する偏見を持つ欧米」を非難するのみで、実際に紛争を起こす人たちの根底にある思想が、イスラーム教に基づいてどう間違っているのかを言わないからだ。結局、「欧米が悪い」という印象だけが残り、新たな過激派の理屈にも取り入れられてしまう。

「それでもカリフ制の理念の方は正しい!「イスラーム国」をやっている連中が間違って解釈しているだけだ」と論じたい人は、「イスラーム国による殺害や奴隷化は支持しない」とはっきり言うべきだしその根拠を示すべきだ。つまり「正しいカリフ制の理念ではこのような根拠から異教徒の殺害や奴隷化は禁じられている」とイスラーム法学の理念を明示して主張しなければならない。それも欧米や日本に対するだけでなく、「イスラーム国」側に対して言わないといけない。

もちろん、「イスラーム法学上は多神教徒の征服や奴隷化は正しい行為なのです。そうならないように改宗するなり立ち退けばいいのです」と思っている人はそう主張すればいい(ただし本当に立ち退かせたり、立ち退かない人を殺害する行為を賞揚した場合は刑法上の何らかの制約が課される可能性はあります)。

イスラーム法学的な説得をしたくない、する必要がないという考えの人は、「イスラーム法学の適用やカリフ制の復活は現代において必要がない、違法である」といった議論を正当化して示さないといけない。説得的な根拠を出して、欧米人相手にではなく、「イスラーム国」に共感したり、「イスラーム法学」の有力な規範を提示しているからといって黙認したりしているイスラーム教徒に対してきちんと示すべきだ。もっとも現在のイスラーム世界で、イスラーム法学は効力がないと議論するのはよほどの勇気がいる。だからやらないのだろう。

なお、現状では数少ないイスラーム法学者からの「イスラーム国」批判は、例えば異教徒の迫害と奴隷化について、「ヤズィーディー教徒も啓典の民だ」と反論するというものなので、外から見ると、反論になっていない。「イスラーム国」がDabiqなどでヤズィーディー教徒を「啓典の民ではない」と主張していることに対してのみは一応の反論になっているが、ではヤズィーディー教徒も啓典の民だとするイスラーム法上の根拠は明確ではない。単に各国の政府に近い法学者が政治的必要から個人的見解で断定しただけ、というのではイスラーム法学的にはほとんど説得力がない。

「イスラーム国」と同じイスラーム法学上の「啓典の民」という観念を持ち出してしまっている以上、「イスラーム国」のより明確な明文規定や有力なイスラーム法学書に則った議論の方が有利である状況は代えがたい。むしろ議論を強めているのではないかとすら思う(結果的に、多くのイスラーム教徒が「イスラーム国」批判のイスラーム法学者たちの論拠の希薄さに愕然として「現代においてイスラーム法学に依拠したら駄目だ」と思うようになることを期待しているとすれば、穏健派イスラーム法学者たちのものすごい捨て身の作戦だと思うが、たぶんそんなことではないと思います)。

「啓典の民」という概念は異教徒を平等に扱うものではない。少なくとも自由主義社会における宗教間関係にはなじまない。

「啓典の民」という観念は、あくまでも優位な側からの劣位な側への恩恵としての生存の許可というロジックなので、支配しているイスラーム教徒の側が「啓典の民が歯向かった」と判断すれば即座に「改宗するか、去るか、討伐か」という三択を突き付けることが正当化されてしまう。「啓典の民だから許せ」というのは、「イスラーム国」批判になっていないのである。「イスラーム国」としては「啓典の民として認めてやるから寛容に接してやると告げたのに、異教徒が悪態をついたから追放・殺害・奴隷化した」と言えばいいだけになってしまう。水掛け論にすらなっていない。「啓典の民だから許せ」という議論は「イスラーム国」の立場を補強しているとすら言える。

近代思想史において「穏健派」のイスラーム法学解釈(あるいはイスラーム法擁護論)が、「過激派」のジハード論を結果的に支えている構造については、池内恵「近代ジハード論の系譜学」(日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁)で書いておきました。

なお、ユースフ・カラダーウィーをはじめとした主要な「穏健派」「中道派」とされてきたイスラーム法学者も、この「啓典の民の生存を認めるからイスラームは寛容だ」という説を定説としてきたので、短期間に異教徒との平等説でイスラーム法学を組み替え直すことは難しいだろうと思う。

これについては、池内恵「「イスラーム的共存」の可能性と限界──Y・カラダーウィーの「イスラーム的寛容」論」(『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、2004年、初出は『現代宗教2002』2002年4月)に詳述してあります。

なお、これと対になる論文が、池内恵「文明間対話の理論的基礎──Ch・テイラーの多文化主義」で、同じく『アラブ政治の今を読む』に収録してあります。(この本は絶版とは聞いていないが、中央公論新社も一生懸命売る気がないんだろうね)

基本的には、この時考えていた理論的な対立点が、現在「イスラーム国」をめぐる問題として表出しているものと考えていますので、世代は新しくなっても思想的な問題は変わらないのだな、と実感しています。また、それをイスラーム法学上批判しきれないイスラーム世界の問題として、あるいは勘違いして自由主義社会の原則を放棄して共感する日本のメディア・知識人の論調としても現れてきているものと思います。

それにしても、「イスラーム教の理念は自由主義の原則とは合わない部分がある」ということは、イスラーム教徒の側はごく当然に主張する、当たり前のことです。極端に欧化して生活の基盤を欧米や日本に移した人を除けば、大多数のイスラーム教徒はそのように明言します。ただ、留保をつける場合はあります。その場合は、「イスラーム教こそがより優越した自由主義を実現します。イスラーム教では正しい宗教であるイスラーム教を信じる自由があります」と主張します。これが教科書的な回答です。カラダーウィーのような有力なイスラーム法学者が定式化してくれている欧米との対話・教義論争の作法としてすでに定着しています。

ですので、この点を指摘することは、「イスラーム教を揶揄する」といったこととは全く違うのです。単に、日本の常識とは違う別の基準があると指摘しているだけです。そのことを日本の、しばしば「自由」を主張する、往々にして「反体制」に立っていると自覚しているらしき人々が理解しておらず、このような指摘を行なうことを非難する側に回るのは、自分の認識の前提を疑う視点を持たず、他者・他文化に対する想像力を欠いているからではないかと観察しています。「隣の芝生は青く見える」というの異文化理解でも寛容でもない。

逆に、イスラーム教は「自由主義が絶対ではない」と主張しているのだと受け止めて、安易に「そうだそうだ」と同意し、「だから欧米みたいな自由などいらない」という自己の信念を補強したものとのみ受け止める権威主義的な人も日本社会には多くいます。そういう人は「イスラーム?遅れた国の遅れた宗教だろ?」といった偏見を露骨に持っている場合が多くあります。このような人々は、自分が享受していると思っている自由がいかなる根拠に基づいているのか忘れがちであると観察しています。

要するに社会における議論は、このような不完全な認識を持った、それぞれの思い込みを抱え込んでガンコに変えようとしない人々の間で行われるので、理想社会はそう簡単に成立しないのです。

思想研究は、そのような不完全な社会で、現に行われている議論を整理して、適切な方向に向けていくささやかな作業と考えています。「あの人はスゴイことを言っている!」と一部の人にカルト的に尊敬されたいのであれば思想研究はやらない方がいいと思います。

自由主義者の「イスラーム国」論・再び~異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか

今日の『朝日新聞』に、「イスラーム国」についての識者の発言が載っていました。

特に、「イスラーム国」に関して、当事者でもある、中田考さんの発言が注目されます。

まず、私は、世界にはこのような多様な考え方があるということを知ることは大切だと思います。そもそも新聞とは、その厳しい制約条件から、中立的でも、客観的でも、卓越的でもあり得ないものである以上、様々な意見が、さほど正確なフィルターなしに載ってしまっても、やむを得ないものだと思います。

重要なのは、「朝日に載ったから正しい」などと思わないことです(その逆に「朝日に載ったから間違い」と思う必要もありません)。朝日や岩波に載った、ということのみをとって、その意見が真であるとか権威的であるとか、特に知識業界に身を置く人たちが思う状況がかつてありました。朝日に載った意見に反対すると学界で干されて大学で就職できなくなってマスコミ全般から干される、という恐怖を抱かざるを得ないような自縄自縛の状況がありました。しかし、それは過去のものです(と思いますが、そうではない業界がまだあるということも伝え聞いてはおりますがここでは等閑視しておきます)。朝日新聞を批判したり、あからさまに意見が違ったりすると朝日新聞の紙面に載らなくなることは確かですが、長い話を短くすると、一私企業のやることなので、あまり気にする必要はないのではないでしょうか。

ですので、いろんな意見がこの世にはあるんだなーと思いつつ、どこがおかしいか、自分の頭で考えられるようになればいいのではないかと思います。もちろん「おかしい」というのは特定の基準を定めたうえで言えることです。この世の中にある基準は一つではありません。

そして一番重要なのは、複数の基準が世界には存在することを認めたうえで、自分が属す社会・政治共同体ではどの基準が適用されるべきなのか、よく考えることです。それは自分が生きていく社会を選び、その社会を自分も一員としてどう形作っていくかを主体的に考えて、発言し、行動していくことの、第一歩です。自分が属すと決めた(あるいは生まれ落ちて育ってそこ以外に行く場所がない)社会の基準を、さらに磨いていく営為に参加することで、われわれは本当の意味で社会の一員となるのです。

その過程で、異なる基準を持った人々の存在を、どのような論理で、どこまで認めるか(あるいはどこからは認められないか)も、考えていくことが必要となります。

政治思想とはそういうものです。思想研究というと、無意味に些末な点をこねくり回して人を煙に巻くことだと思われているかもしれませんが、本当はそうではないのです。人々が自分が属する社会の基準を認識し、守り、改めていくことを助けるのが政治思想研究です。自分の社会の基準とは異なる他の基準を持つ人々の存在を認識し、その論理を見極め、どの地点で折り合いがつけられるのか(つけられないのか)、指針を示すのも、政治思想研究の役割です。

本当は政治思想とその研究とは、それぐらいわかりやすいものなのです。

私が「イスラーム政治思想」を研究しているというのも、そのような意味での政治思想研究をしています。

突飛な説を立てて超越的に自らの属する社会を否定したり他者に上から説教する根拠を得ようとして研究をしているわけではないのです。

なお、メディアというものも、社会の規範を読者が社会の一員として築き上げていくための場を提供することが、その本来の使命と思いますので、朝日新聞もやがてそのような役割を認識し、適切に担っていく作法を身につけていくことを、期待してやみません。

さて、中田考さんは、今回のインタビューでも、嘘は言っていません。ただし日本社会の大多数の人が想定しない(したがらない)前提に立って言葉を用いているため、正反対に意味を受け取る一般読者、あるいは知識人がいるかもしれません。また、逆に、日本社会の多くが決定的に忌避・拒絶するであろう点については、寸前のところまで口にしながらも、触れていません。ご本人があえて触れなかったのか、記者が自粛あるいは善意で紙面に載せなかったのかは、分かりません。

例えば、「イスラーム国」に参加する人たちの背景として、中田さんは、「7世紀に完成したイスラム教の聖典コーランの内容を厳格に解釈し、実行するためには武力闘争を辞さないと考える。出身国では迫害され、居場所がありませんでした。」と語っています。

気になるのは、「イスラーム国」の参加者が、「迫害され、居場所が」ないがゆえに参加したとされることです。ここではそもそもいかなる事例を挙げての議論か分かりませんので、実証性を議論することはできず、中田さんの「意見」「主張」にとどまるというところがありますが、これが中田さんの意見だとした場合、中田さんが認定している「迫害」とは何のことでしょうか?

もし、「迫害」の原因が、「イスラーム国」に参加する人たちの信仰なり行動なりが、ジハードによって他者を武力の下で支配下に置くことを目指す活動、あるいはその宣伝だったのであるとすれば、西欧社会に居住していれば、西欧の市民社会の規範に反し、西欧諸国の法に反するので、社会の中で白眼視されたとしても、あるいは警察・司法当局のなんらかの捜査や訴追の対象となったとしても、それを一義的に「迫害」すなわち不当な行為ととらえることは、西欧諸国の規範・法制度上は適切ではないでしょう。むしろ、西欧諸国では当然に課される制約を課されたということではないでしょうか。もちろんその制約を課すための手段は、適正な法的基準の枠内にとどまることが求められるのは言うまでもありません。また、クルド民族の義勇兵として戦闘に参加するために渡航することを公言する人々については制約が課されていないではないか、といった法の下の平等という観点からの批判も可能かと思われますが、それだけではジハードによる武力の行使の称揚あるいは準備を正当とし、それに対する制約を「迫害」とする根拠とはならないように思います。

もちろん中田考さんが、イスラーム法学の観点から、いかなる理由であれ、世俗の国民国家の法などの、イスラーム教に基づかない社会規範によって、ジハードに制約を課すことは(イスラーム法上)違法であると考えておられることは、ほぼ確かなものと思われます。

しかし西欧諸国にもイスラーム法が適用されるべきだと言う中田さんの主張(あるいは暗黙あるいは明示的な前提)は、西欧社会においては、妥当ではないでしょう。

あるいは、西欧の法制度上もグレーゾーンあるいは違法とされるような制約がジハードの使嗾、宣伝、準備に対して課されたのかもしれず、それを中田さんが念頭に置いているのかもしれません。すなわち、イスラーム法学上のみならず、西欧の法体系上も違法の可能性がある制限がジハードに対してあるいは信仰行為一般に関して課されたと非難されているのかもしれません。そのあたりはこの記事からは分かりません。

なお、これは記者のまとめ方、デスクの論点の立て方に難があり、実際には中田さんはアラブ諸国あるいはイスラーム諸国で政権に対してジハードを行なったうえで弾圧され、シリアやイラクに流れ着いた勢力のことを言っているのかもしれません。その場合は、イスラーム教が支配的価値観であり、憲法にもイスラーム法が世俗法を超越すると規定されているにもかかわらずイスラーム法を施行していない政権に対するジハードは正しく、それを制約する政権の施策は違法であると中田さんがとらえていることはほぼ確実です。ただ、その場合「迫害」という言葉を中田さんが本当に使ったのかというと、若干疑問です。むしろ「弾圧」でしょう。「迫害」という場合は異教徒からの宗教的な迫害、つまり欧米でイスラーム教徒の儀礼や生活規範を制限された、といった事例を通常は意味します。意図して異なるイメージを抱かせる言葉を使ったのか、記者の固定観念から、すべて西欧諸国の事例を意味していると思い込んで「迫害」と記したのかは不明です。

シリア・イラクでの「イスラーム国」をはじめとした武装組織へ流入する義勇兵は、大多数が近隣アラブ諸国からきているという事実は、日本の報道では忘れられがちです。大多数は、「アサド政権が国民を弾圧しているからジハードで打倒する」というシンプルな論理で参加しているものと見られます。そこには「反欧米」という契機は希薄あるいは二の次なのです。ですが、日本では、これが反欧米の運動として理解され、であるがゆえに反欧米論者によって熱く期待されもするという状況があり、メディアはそれに大きな責任を負っていると考えています。もちろんメディアに気に入られるような説を、巧みに空気を読んで提供する研究者にも問題はありますが、記者がきちんと選別できれば歪んだ議論は紙面に載ることはないのです。

なお、私の推測では、中田さんであれば、ジハード戦士が西欧から来たかアラブ諸国から来たかはあいまいに、一緒にしてしゃべると思います。同じ一つのイスラーム共同体(ウンマ)なのだからどこから来ようと同じだ、ということではないかと思いますが、信仰の立場からではなく、政治学的に分析するのであればこれらは分ける必要がありますし、メディアもきちんと分節化する必要があります。

また、中田さんは、「イスラム教徒ならば国籍や民族で差別されることはない「イスラムの下の平等」が、コーランの教えの核心です。」と仰っています。

ここで中田考さんは正確に、「イスラム教徒ならば」と述べておられます。ここでは、異教徒が差別される(イスラーム法学者の立場から異教徒に説明・説得する場合は、「制限された、イスラーム教徒とは異なる権利を与えられる」)のは当然であるという前提があります。異教徒が制限された権利に満足できなければ、立ち退くか、あるいはイスラーム教に改宗する自由があるというのが、主要なイスラーム法学者の立場です。中田さんはこれについてはかねがね、隠すことなく、公言しておられます。ここで異教徒は差別される、されて当然であると記事中で明言していないのは、記者の前で発言をしなかったからなのか、あるいは記者がそれを記さなかったからなのか、読者には知る由もありません。

これはヤジーディー教徒への迫害があったのかなかったのか、征服下の異教徒の殺害や奴隷化があったのかなかったのか、そもそも「イスラーム国」はそのような異教徒への迫害を正当化しているのかいないのか、「イスラーム国」による異教徒の迫害の正当化根拠がどの程度宗教的な正当性を持っているのかという、国際報道上の重要な論点について判断するために不可欠な情報であっただけに、記事で触れられていないのは残念でした。

なお、日本でこの記事を読んで中田さんあるいは「イスラーム国」またはその背後にあるとされる理念に共感していらっしゃる方々は、「国籍や民族で差別されることはない「イスラムの下の平等」」という部分のみ捉えて、行き詰った近代国民国家に対するイスラームの比較優位性と受け止めていらっしゃる可能性があります。記事のタイトルでも「平等の理想」とのみ記されていることもあって、「イスラム教徒であれば」という留保を中田先生がつけておられることを見落としていらっしゃる方もいるかもしれません。そのような方がもしいらっしゃるとすれば、そのような理解は、少なくとも中田さんが念頭に置いている議論とは、少し違う、ということを、知っておいた方がいいと思います。

もちろん、誤解や想像や思い入れを含めて、あらゆる信条・信念を持つ自由が日本では保障されています。

イスラーム世界では、イスラーム法が適用される限り、異教徒がイスラーム教徒と平等で差別されない権利は、認められません。これは穏健とされる法学者の解釈でもそうです。そのため、サウジアラビアだけではなく、エジプトでも、その他大部分のイスラーム諸国でも、異教徒が教会・礼拝施設を作ることは明確に禁止されているか、極めて困難です。もちろん、イスラーム教徒に対して異なる宗教への改宗を働きかけることは明確に違法であり、イスラーム教徒の目に触れるところで明確な信仰行為を行うことも認められません。あからさまに異教、特に多神教の宗教的象徴を身にまとうことも、身体・生命の危機を覚悟しなければならない行為です。ですので、「カイロ西本願寺派寺院」といったものは存在しないのです。これをもって宗教への迫害が行われているとは、イスラーム世界の各国の社会での圧倒的に支配的な規範では、とらえられていません。イスラーム教の真理が広まることを阻害しないための当然の制限とされています。

もちろん、世界のイスラーム教徒が差別主義者であるとここで言っているわけではありません。多くのイスラーム教徒は、穏健な解釈に従って、ユダヤ教徒やキリスト教徒といった「啓典の民」であれば「庇護民」として、(本来であれば)異教徒に課される人頭税を払えば、宗教を維持したまま生存を認められるがゆえに、イスラーム教は寛容であると信じており、実際に友好的に接してくれます。

多神教徒については、「啓典の民」に入らないことから、その法的立場は脆弱ですが、実態としては近代世界においては仏教徒なども、啓典の民同様の分類をされ、少なくとも戦争状態にない平時においては、生存を許されています。つまり、原則としては不平等だが、実態としては不平等はそれほど徹底されてはいないのです。

(1)西欧に端を発する近代の「原則として平等だが、社会の実態として平等ではない場合がある」社会と、(2)イスラーム法に依拠する「原則として不平等だが、社会の実態としてはそれほど不平等ではない場合がある」社会では、どちらが優れているのでしょうか。

その判断は信仰によって異なります。日本では、西欧社会とほぼ同様に、(1)が優れているという人が多いのではないかと思います。

しかし世界は広く、(1)の状態が望ましいと信じない人が多数である世界もあります。イスラーム教を信じる人々にとっては、アッラーの示した絶対普遍の真理を護持することが第一の優先事項ですので、(2)の、原則としての不平等は当然とされます。

ただし人間の情としては、友人となった人が異教徒だからと言って差別するということは普通はないでしょう。また、今現在異教徒であるということは、将来において改宗するという可能性があるため、むしろ、一定期間は、非常に歓待的になるという場合も多く目にしてきました。

なお、歓待されて過ごしてもなお改宗をしないことを不審がられ、嘆かれることはあります。長期間にわたってイスラーム世界に滞在し、イスラーム教について学びながら、なおも改宗しない場合は、改宗する意図が最初からない、すなわち悪意があるという嫌疑がかけられる場合もあり、あるいは自明の価値規範を認識できない、何らかの欠陥のある人物と疑われる場合もあります。

世界は広いのです。そのような世界があると知ったとしても、拒否しないでください。非難しないでください。それは状況によっては「迫害」あるいは「誹謗中傷」と受け止められる可能性がありますので厳に戒めてください。

私自身は、少なくとも日本国内では、「原則としては平等」が社会の規範であるべきであり、社会の実態もそれに極力近づけていくべきであると考えています。

「原則としては平等」という規範があるにもかかわらず、社会の実態は平等でないではないか、という批判があります。しかしそのような批判が可能になるのは、「原則としては平等」という規範があるがゆえです。その規範がなくなれば、特定の宗教が優越することが当然であり、その状態を不平等ととらえて批判すること自体が宗教への挑戦として「処罰」されることになりかねず、そのような処罰が「迫害」であり得るとする根拠そのものが消滅します。

実態として平等ではないではないか、という批判から、あるいはもっと漠然とした社会に対する怒りから、「原則として不平等」という規範の方が優れていると主張することは、破れかぶれの暴論や、面白半分の極論でないのであれば、矛盾です。そもそも不平等を批判する根拠を放棄したことになるからです。

「イスラーム教が正しいからそれに及ばない宗教は制限されてしかるべきだ」と主張するのであれば、信仰の表明ですから、尊重されるべきであると思います。ただし異教徒への権利の制限を実際に施行することを主張するさらには行動に移さない限りにおいては。

自由社会を守るとは、自由な社会を可能にしている規範がどのようなものかを熟知し、それを維持し刷新し、それによって、極力多くの、多様な価値観を持った人たちを迎え入れることを可能にしていくことです。日本は法制度上は自由ですが、市民社会の実態としてはその自由が徹底されているとは言えません。それは国・政府による直接の自由の侵害に由来するというよりは、相互監視・同質化を迫る社会の側に多くを起因しています。

また、自由な社会において、異なる規範を持つ他者をどのような形で受け入れるか、基準が社会通念として定まっていません。他者を受け入れるためには他者の護持する規範も知らなければなりません。そのためには、他者の規範の、自分にとって心地いい部分だけを知るのではなく、自分にとってきわめて不都合なこともある、想像もしない別の論理によって、他者の社会が成り立っているということに気づかされるのも必要です。

日本では、他者の規範とは、日本社会への不満、あるいは日本社会の権力構造の背景にある米国への不満を表出するための憑代として、断片的に導入され、かつ短期間に次の流行の憑代が現れるために、すぐに忘れ去られる傾向があります。

しかしイスラーム教のような力強い世界宗教は、一時的に日本で都合のいい部分だけが取り入れられ、後に忘れ去られたとしても、それとは無関係に続いて行きます。グローバル化によって、情報化の進展によって、日本をイスラーム世界から閉ざしていることは不可能です。

「イスラーム国」の台頭によって、本当の意味での、生々しい他者の存在を、その理念を、日本は目にし始めています。

トルコと米国の当面の妥協──イラクのクルド武装組織をシリアに投入

シリアでの「イスラーム国」への対処について、決定的な鍵となるトルコの姿勢が具体化しつつある。

米国のトルコへの強い参戦圧力と、独自の解決策や懸念を擁してそれに抗してきたトルコとの外交的なせめぎ合いに変化がみられた。

注目されるのはこの二つの動き。

10月19日:米軍がシリア北部コバー二ー(アラブ名アイン・アラブ)のクルド武装勢力YPGに殺傷力を持つ武器を投下。

10月20日:トルコがイラクのクルド武装勢力(ペシュメルガ)に、コバー二ーの戦闘に参加するためにトルコ領内を通過することを許可。

米軍は、19日の武器供与に関して、イラクのクルド武装勢力に米国が供与したものをシリアに運んでいるだけ、というややこしい法的な説明をしている。また、現地の「クルド部隊(Kurdish forces)」に供与するために投下すると記すだけで、具体的に宛先を明記していない。

なぜイラクのクルド勢力に与えた武器を迂回して(と言っても米軍そのものが運搬して届けるのだが)シリアに回すなどというややこしい方法を取るかというと、オバマ政権が固執してきた「シリア内戦のいかなる勢力にも致死性の武器を供与しない」という方針を変えていないと言い張るためである。

シリアの反体制を支援するのだけれども、致死性(lethal)の武器は与えない、というオバマ政権の政策は、現場では珍妙な帰結をもたらしていた。要するに、暗視ゴーグルとか通信施設なら供与していい、というのである。そんなものいくらもらっても役立たんよ、と言われることが分かりきっているものを供与しようと持ちかけ続けたことで、米国がシリアでまるで相手にされなくなったことはいうまでもない。

また、コバー二ーで戦っているのは人民警護隊(YPG)という組織だが、この組織はトルコのクルド民族主義の反体制武装組織PKKとの関係が深いシリアの民主統一党(PYD)が主体になって組織した自警団と見られている。欧米はPKKと共にPYDもテロ組織と認定してきた。YPGに武器を供与したと公式には言いにくい。

20日のトルコの動きにしても、シリアではなく「イラクの」クルド武装勢力をわざわざトルコ領内を通ってコバー二ーに行かせる、という話である。これは、シリアのクルド武装組織とトルコは関係が悪いが、イラクのクルド武装組織(ペシュメルガ)とは同盟と言っていいほど関係が良いからである。

シリア「イスラーム国」についてのトルコの立場については、このブログで何度も取り上げてきたので、丹念に読んできた人にとっては、これらの動きが何を意味するか、分かるだろう(「トルコ」で検索してみてください)。

フェイスブックでは通知してあったのだけれども、この動きが表面化する直前までの状況について、『フォーサイト』でまとめておいた。有料ということもありこのブログでは通知が後回しになっていた。

池内恵「「イスラーム国」問題へのトルコの立場:「安全地帯」設定なくして介入なし」《中東―危機の震源を読む(89)》『フォーサイト』2014年10月17日

ここで書いておいたのは次のようなこと。

米国はトルコを、シリアの「イスラーム国」掃討作戦のための現地同盟国として空爆参加そして地上部隊を出させたい。

それに対してトルコは、「イスラーム国」掃討のために、トルコとシリアで反トルコ政府の活動をやって来たクルド武装勢力PKKとその関連組織であるシリアのYPGを支援することは許せないとする。また、アサド政権の弾圧こそが問題の根源である以上、アサド退陣をもたらさない解決策はあり得ないとして、シリア北部に飛行禁止区域を設定しシリアの反政府勢力の安全地帯とする構想を提示している。

安全地帯構想自体は、1991年の湾岸戦争の際にイラク北部に設定したものがあり、それを基礎に現在のイラクのクルド地域の自治が成立した。イラクのクルド地域政府は中央政府との関係を薄れさせ、トルコの経済圏として繁栄してきた。

同じようなことをシリア北部でも行うならトルコは対「イスラーム国」の参戦に同意するだろう、というのがこの分析の段階での将来見通しだった。

このように異なる思惑を持つ米・トルコの同盟国同士が綱引きをしてきた。『フォーサイト』の記事では、米は「トルコが参戦に同意した」という情報を盛んに流して既成事実にして参戦に追い込もうとし、逆にトルコは欧米諸国がトルコの提示した安全地帯構想を受け入れた、という情報を流すという様子も描いておいた。

そうこうしている間に現地の状況変化が進んでいった。コバー二ー陥落寸前かというところまで一時は行って、欧米メディアの危機意識が高まったが、逆にクルド武装勢力への西欧諸国からの武器供与が進んで、かなり反撃しているという報道も最近は出るようになった。

対「イスラーム国」の抵抗戦で戦果を挙げ、クルド民族主義がシリア側でもトルコ側でも高揚し、PYGは欧米諸国から、それまでの「テロリスト」という扱いではなく、「フリーダム・ファイター」としてもてはやされるようになっている。トルコのコントロールが効かない状況になりかけている。

ここで米国が、イラクへ一度供与した武器をクルド勢力がシリアの民族同胞に移送したいというから移送した、という無理な理屈でシリアのクルド勢力に武器を供与し、決定的な圧力をかけた。

トルコはこれに正面からは同意していないけれども、イラクのクルド武装組織をコバー二ーでの戦闘に参加させる、つまりシリア北部の紛争で、トルコに敵対的なPKK=PYD系の武装組織に主導を握らせず、息のかかったイラクのクルド武装組織を導入することで、トルコのコントロール下での解決を図っていると言える

これは米とトルコの、当面のぎりぎりの妥協だろう。米国はトルコが対「イスラーム国」連合で協力姿勢に転じたと宣言し、トルコは自らの提示する安全地帯構想への第一歩と主張できる。湾岸戦争以後にやったイラク・クルドへの解決策をシリア・クルドに対しても適用する、という形である。

10月20日の米公共放送PBSの「ニューズアワー」の報道と論評は問題の根幹をうまく描いている。NHKBSでも21日午後に英語字幕・翻訳付きで放送していたが、ホームページでは英語のトランスクリプト完備で全編を視聴できる。

英語教材として、PBSは最適ではないか。きちんと発音しているし論調も客観的で冷静だ。

“U.S. airdrops military aid for Kurds fighting Islamic State in Kobani – Part 1,”PBS, October 20, 2014 at 6:35 PM EDT

“Why U.S. and allies can’t afford to let Kobani fall to Islamic State – Part 2,”
PBS, October 20, 2014 at 6:30 PM EDT

Part 1で、米軍のシリアのクルド勢力(YPGあるいはPYD)への武器投下について、エルドアン大統領が公式には決して認めていない様子が、キャスターのレポートと記者会見の抜粋で報じられている。

MARGARET WARNER: Previously, Ankara has insisted it wouldn’t allow men or materiel cross its border to aid Kurds in Kobani. That’s mainly because the Syrian Kurdish fighter group in Kobani, called the PYD, is allied with a Kurdish group in Turkey, the PKK, that waged a bloody 30- year insurgency.
Just yesterday, after President Obama notified him of the coming U.S. airdrops by phone, Turkish president Recep Tayyip Erdogan made his displeasure clear.

まずキャスターがトルコはコバー二ーのPYDへ武器供与することに強く反対してきたと指摘する。米軍による武器供与に関して、先立つ18日に行われていたエルドアンの発言が注目された。

PRIME MINISTER RECEP TAYYIP ERDOGAN, Turkey (through interpreter): The PYD is, for us, equal to the PKK. It is also a terror organization. It would be wrong for the United States, with whom we are friends and allies in NATO, to talk openly and to expect us to say yes to supplying arms to a terror organization. We can’t say yes to that.

「PYDは、われわれにとってはPKKと同じです。これはテロ組織でもある。NATOの友邦である米国が、おおっぴらに、テロ組織に武器を供与することに賛成せよと言うのはよくないでしょう。賛成するとは言えませんよ」

これに対してケリー国務長官のしどろもどろの弁明は次の通り。

JOHN KERRY, Secretary of State: While they are a offshoot group of the folks that the — our friends the Turks oppose, they are valiantly fighting ISIL. And we cannot take our eye off the prize here. It would be irresponsible of us, as well as morally very difficult, to turn your back on a community fighting ISIL, as hard as it is, at this particular moment.

「彼らは、われらの友人トルコが反対する人たちの分派集団だが、彼らは「イスラーム国」と勇敢に戦ってもいる。この好機を見過ごすわけにはいかない。「イスラーム国」と戦っている人たちに背を向けるのは、無責任だし、倫理的に難しい。しかもこんな大事な時なんだから」

BBCの「なぜトルコはイラクのクルドに「イスラーム国」と戦わせたいのか」も合わせて読んでみたい。

“Islamic State: Why Turkey prefers Iraq’s Kurds in fight against IS,” BBC, 20 October 2014 Last updated at 16:52

解決策というよりは当座しのぎの対応である。イラクとシリアのクルド武装組織が協調できるのか、それがトルコでのクルド民族主義に波及しないのか、協調ができた場合は今度はクルド領域もイラクとシリアでつながってしまってイラク国家の崩壊がいっそう進むのか、等々、新たな問題を引き起こしそうな対処策だが、このようなその場その場の対処策を繰り返しながら、現地の諸勢力の間の勢力均衡が達成されるまで紛争は続きそうだ。

第1次世界大戦後のトルコ・シリア・イラクの国境画定も同じような状態だったのだと思う。あの時は唯一当事者能力があったトルコ軍が、ふがいないオスマン帝国スルターンから離反して共和国の独立戦争を戦って、ある程度失った土地を奪い返して今の国境線になったのでした

今回は、「イスラーム国」が実効支配を固めて独自の国家をイラク・シリア国境地帯に確保するか、クルド民族主義が一体化して国を作るのか、あるいはトルコやイランなどの地域大国が勢力圏を拡大するのか、将来は未確定である。

【地図と解説】「イスラーム国」への参加者の出身国~ご一緒した常岡さんのこと

今日は長い論文をぎりぎりで出したり授業を本格立ち上げしたり編集者が来たり研究会があったりで丸一日全く息抜きなし。

ということで、以前のテレビ出演の発言記録をリンクして、ちょっと地図で補足するぐらいにしておこう。

2014年9月20日(土)の「NHK週刊ニュース深読み」の文字おこしがアップされていました。

NHK深読み

NHK側が持ってきた「イスラーム国」の解説は、正直私にもよく理解できない代物なので、コメントしません。いろんな情報を無理やりつなぎ合わせたんだな、と思います。日本人の基本素養にはイスラーム教も中東世界事情も入っておらず学校でも習わず、一般的に伝わる情報は日本人から見れば否定的に見られる事象のオンパレード(だって現地には一般庶民の次元でも平和主義者とかいないですし、日本のメディアが期待するようなイイ話ってないですよ)であるのに対して、モノの本を読むと断片的に妙に理想化した話が入ってくるので、どう頑張って理解しようとしても分裂してしまう。

私のコメントについては、なるべく分かりやすくしていますし、そもそも流れがはっきりしない中で突然振られた話題に応答し、かつ分かりやすく話さないといけないので、用語の厳密性にはやや欠けている部分があるでしょう。ただ、基本的には間違ったことは言っていません。

ご一緒した常岡さん(写真で右から二番目のヒト)とは、この番組でご一緒した以外に付き合いはありませんが、チェチェン紛争の取材に基づくルポや発言については注目してきました。チェチェン紛争から流れ出てシリアに行きついたゲリラを伝手に取材をしているらしきことも漠然と知っており、お話を聞きたいと思っていました。番組の中でしかお話しできませんでしたが、貴重な機会になりました。

その後、「イスラーム国」への参加希望学生の出現で、同行取材をしようとしていたとして公安当局の捜査を受けたことで有名になってしまいました。以前にも人質になったことで有名になったり、いろいろと不運な方ですね。

常岡さんの話には、実際に行ってきた人ならではの貴重な知見が数多く含まれています。ただ、常岡さんは基本はビデオジャーナリストでどうやら文章の人ではないようで(すみません気に障ったら)、言葉では断片的・断定的に議論をする様子があります。見てきたわけではない全体像は議論しないのと、見てきたことを相対的にあるいは批判的に位置づけるという議論の仕方をしません(時々します)。

私が推測するに、常岡さんの最大の強みは、チェチェンのゲリラでシリアに来ている人たちの「以前」と「今」の両方を見ている数少ない外部の人間なことです。これをやって来た人はなかなかいません。

常岡さんは1990年代末から2000年代半ばのチェチェン紛争に何らかの理由で行きついて長く取材してきたことで、幾人かの有力なジハード戦士へ食い込み、彼らがロシア領のチェチェンやダゲスタンを逃れて中東に流浪し、シリアで内戦に参加しているところを今取材している、という形です。

(なおこの英語記事は、ロシアに敵対するチェチェン・ゲリラをはじめとしたグローバル・ジハード運動の当事者を悪魔化した報道を国策でやっているロシアのメディアRussia Today=RTの報道ですが、今回はむしろ「イスラーム国」に好意的なトーンです。まあロシアの国策メディアは常に欧米のメディアが言っていることの逆を言うだけなので、現在は欧米メディアが反「イスラーム国」一色だからそれに水をかけている、という面はありますが、通説への一定の相対化の視点として、信じ込んではいけませんが、読んでおく価値はあります。ロシアのメディアは嘘をついたり歪曲情報を流す際にも、頭がいいな、と思うことがよくあります。担当者は嘘と知っていてやっている、騙されて信じ込む人をからかっている、そんな絶妙な諧謔味を堪能させてくれます。それは欧米で騙されてしまう人の心理や背景を熟知しているからでしょう)

さて、常岡さんは、「使用前」「使用後」ではないですが、「そもそもどういった人がシリアの内戦に義勇兵として参加していて、どういうルーツでどういう思想や経緯がある人なのか?」という疑問に、部分的にですが、かなり重要な知見をもたらしてくれます。ただし、チェチェンのゲリラはシリアの内戦の当事者として代表的とは言えないので(重要な役割を持っている可能性があるとは思いますが)、そのあたりは相対化する必要があります。また、知見がオリジナルなので第三者の検証は難しいでしょう。

といっても、常岡さんは現在までにシリアについては、テレビのコメントやツイッター等で断片的に語ったのみなので、見てこられたことの全体像がよく分からないのです・・・たぶん常岡さんの頭の中にだけ入っていることがたくさんある。

思想的背景や言語がよく分からない公安当局の聴取ではなく、きちんとした調査研究機関が対価を払って徹底的に聞き取りをして、情報源の秘匿という意味で公にすると不都合な部分は鍵をかけて非公開にするなりして、将来のために記録に残しておいてほしいと思います。いやもちろん常岡さんが本を書いてくれればいいんですが、今回の騒ぎもあり、今後の取材もあり、なかなかまとめられないでしょう。

常岡さんはおそらくチェチェン系の繋がりを基礎に、「友達の友達」を紹介してもらって取材する、と言うことをやっているはずなので、当然偏りが出てきます。常岡さんはアラビア語ができないので、どうしても大多数を占めるアラブ系の義勇兵とのつながりの深まりには制約が出るでしょうし、実際にシリアでイスラーム国が何をやっているか、言葉を読めないと目にしていても見逃してしまうこともあるでしょう。また、ムスリムと言ってもイスラーム法学は、友人から断片的に聞くのみでほとんどご存じないのではないかと推測します。そのあたりは別の情報源から補足しながら話を聞く必要があります。

当たり前ですが、全部のことを知っている人などいないので、このようにアクセスが極端に難しいある一部分をすごく深く知っている人は大変貴重です。要は、一人の人の言うことを絶対視しさえしなければ良いのです。私の話も絶対視してはいけません。

***

上記が一番重要なことですが、若干の言い訳。

私の一番最後の発言で、こんなことを言っています。

「ただ、”イスラム国”に入って来る戦闘員の大多数は、ヨルダンとかモロッコとかチュニジアとかサウジアラビアから来ているんですね。
欧米の人たちは100人といった数ですから、実はそんな大したことないんですけど、欧米の人たちは彼らが戻って来てテロをやるんじゃないかと、実際そういった事例もすでに出ているので、気にしているんですね。
われわれはその報道を見てしまうんですけど、実際は近隣諸国から何千人も来ているんですね。 」

この発言の趣旨は、「イスラーム国」の戦闘員の大多数は周辺のアラブ諸国からきているんで、基本は中東地域の問題。欧米からの戦闘員は割合は実は低い、ということ。

このことを議論する際に、「欧米の人たちは100人といった数」と言ってしまっているようですが、実際には欧米諸国からの義勇兵は「100人【単位】」と言いたかったのです。しかし「単位」はこの番組では難しいかな、と一瞬日和見した結果、正確ではない表現になりました。

西欧諸国からは100人単位、アラブ諸国からは1000人単位で来ているので、桁が違う、というのが重要な点です。にもかかわらず西欧出身者が過剰に注目されるのは、帰国してEU域内も米国へも自由に動き回り、「ホームグロウン・テロリスト」となることを、欧米社会が脅威と感じているからです。欧米メディアが欧米社会のことにより大きな関心を抱くのは当然ですが、それが世界全体にとっても同様に問題であるかと言うとまた別の話です。

ただし「イスラーム国」もこれを利用して力を入れた宣伝映像には欧米出身者を多く登場させ、実際に宣伝効果を得ているので、欧米で注目されるということ自体に意味があります。それがアラブ諸国の現実にもフィードバックされますので、結果として重要になっています。

妥当な地図はこれ。報道によっては西欧からの参加者だけ地図に書き込んだりして、全体像の把握を妨げています。

イラク・シリアへの外国人戦闘員の出身国_BBC_14 Oct 2014
“Battle for Iraq and Syria in maps,” BBC, 20 October 2014 Last updated at 16:56

実数に即して円の面積が割り振られているので、全体としてどのあたりからきているからが一目瞭然です。その下にグラフも載っていますね。

イラク・シリアへの外国人戦闘員上位諸国グラフ_BBC_14 Oct 2014

フランスは「1000人」とかそれ以上のかなり適当な数を最初出してきていましたが、現在の集計では600~700人程度に落ち着いているようです。

「ヨーロッパ」の中で一番多いのはロシアですので(これを「ヨーロッパ」に入れること自体問題ですが)、チェチェン系が多数でしょう。これはシリアで紛争が始まる前からアフガニスタンなど各地を転戦しています。

なお、最後のところで常岡さんが「もう手遅れです」と叫んだまま、あえなく時間切れで番組が終了。

何がなぜどのように手遅れなのか言わないので(時間があったって言わないんじゃないのかな・・・)、聞いた人が勝手に各自の思い込みを読み込んでしまって話が紛糾する。いつも常岡さん言葉が足りない。。。天然炎上系。

でもそういう無防備なところが、ものすごく猜疑心が強くないと生き残っていないはずのチェチェン・ゲリラの古強者とかには安心されてしまう理由なんだと思う。

常岡さんの突撃取材から得られた知見には、例えば親日的なジハード戦士が、「申し訳ないが日本人もイスラーム教徒になってもらうよ」(ニッコリ)と言ったとか、一見ほのぼのとしており、他方で多少深く考えるときわめて重大な問題なんだが、イスラーム教に勝手な思い入れを投影している「思想家」社会学者などの頭にはどうしても入らないであろう、あからさまなイスラーム世界の真実が明らかになる一瞬が方々にあるのだけれども、なかなか理解されないんだろうなあ。

常岡さんは「うまく言葉で伝えることができていない」と思うことはあるが、歪めて伝えていると思うことはあまりない。その点は研究者の方が、これまでの自説の誤りを認めたくないがゆえに系統的に情報の選択や解釈を歪めてしまうことがあるので、常岡さんの議論(といってもツイッターでの突如の叫びだったりするが)を不快に感じたことはない。常岡さんが見てきたことは、日本語を用いて日本社会で認識させるには想像を絶する世界であり、かつかなりみっともなかったり、見たところ馬鹿っぽかったりするような卑近な日常を多く含むだろう。いつかそれらをまとまった文章にしてほしいと思う。

単に「その言い方じゃ理解されないだろうなあ」と思うことがあるが、しかしどう言葉を尽くしたって理解しない人は理解しない。このテーマに関する限り、理解しない人が(理解したつもりになっている人も含めて)日本社会で圧倒的多数だろう。

でも諦めてはいけない(これは自分に言い聞かせています)。

日本にはこういう金にならなくても変なことを突き詰めている人があちこちにいるので、そのような才能を生かす社会であってほしい。

今後のことを考えると、英語で「ツネオカタイホシタ!ゴウモンシタガクチヲワラナカッタ!」と世界に報じたうえで放免して(というか最初から逮捕しちゃいけません)、機材も帰して中東で取材してもらってほしい(そうしないと常岡さんが取材源を漏らしたとか、そもそも公安のスパイだったとかいった誤った情報が流れかねない)。もちろん危ない時はさっさと逃げ帰ってきてくださいこれまでと同じように。死んだら元も子もありませんし、常岡さんはそのことはよく分かっているから今まで生きているんだと思います。

【寄稿】本日の読売新聞朝刊文化欄で「イスラーム国」をめぐる日本のゲンロン状況を風刺

今日の読売新聞朝刊にコラムを寄稿しました。「イスラーム国」問題。文化欄ですから、日本の文化状況への批評ですよ。中東分析ではありません。念のため。

池内恵「「イスラム国」論 希薄な現実感」『読売新聞』2014年10月20日朝刊

たぶんウェブ上には今後一生出てきませんので、キヨスク・コンビニ等でお買い上げください。

新聞の文化欄のコラムは、ここ数年、打診を受けても「乗り気がしないなあ」と書いていなかったのですが、今回は、紙媒体とウェブ媒体を繋ぐ必要があるテーマでもあり、書いておきました。

ウェブに接していない読者には「イスラーム国」がサブカル的なネタになっているという現象そのものの存在を認識できないと思ったのか、編集部が長いリードをつけています。

逆に、ウェブに接し過ぎた人は自分たちがサブカルの枠にはまって現実を見ていないということに気づいていないわけで、それが今回のテーマなのですが、それが紙媒体にのみ載っていたらウェブ住人は未来永劫読まないわけで、仕方がないのでここで告知しておきます。

「イスラーム国」に行ってしまう人、良く知らずに「イスラームで超越」と脳内で期待する人、その中には一応名の通った「知識人(笑)」も交じっているという現象は、それに全く気づかず気づこうともしないタイプの読者(紙だけ読んでいる人)の社会があるからこそ生じてくるのだろう。

そういった破壊願望・超越欲求が脳内でショートしている人たち(「現状否定厨」とか呼んであげればウェブ言語で通じるのかな?)は、数は少ないとは思うのだが、(1)社会・経済状況の変化によって、以前より増えている可能性がある、(2)メディアの変化やそれに応じた国際関係の構造変化により、そのようなマイノリティの刹那的欲求が一時的に社会全体に影響を与えかねない(のではないか)、という点から、無視しておいてはよくないと思う。

そもそも中東研究とかアラビア語とかイスラーム教とかを専門でやる人は、信者にならずとも、とにかく現状は間違っていて自分は全く違う真理を発見した-と言いたいからそこに入ってきた、という人が多く、しかもそのような決定が高校卒業ぐらいで行われている(ほぼ大学入試の学部選択で決まるからね)ということから、あんまり信用できない判断だ。そんな年齢で社会の何が分かるというのだろうか?単に熱心にメディア情報の特定の部分に触れて「現状=悪」と思っちゃって「いすらーむ=超越」と期待しただけじゃないかな?

数少ないマイナーと傍からは見られる業界の専門家は、いざという時は国民的議論や認識、それに基づく選択に、大きな役割を果たしてしまう。だから、専門業界はどうせ変な人ばっかりだ、と放っておいてはいけないと思いますよ。専門業界が分業しつつ国民の一般意志の形成に資するサイクルを持っているのが先進国、そうでないのが後進国、という厳然とした区分があると考えた方がいい。日本はこの点で、どっちに入るかはギリギリ。

専門家は単なるオタクの変な人で世の中に恨みがあるので(でも国の予算とか業界仕切って一杯貰っているでしょ・・・)、専門能力が試される「いざ」というときには役立たない。仕方がないから専門性が特にない官僚がジェネラリストとしての経験から「おおよそ」のところで判断するから、国民の意志として選択される政策はそんなに間違ってはいないがピントが結構外れている、まあしょうがないでしょ、というところで我慢してきたのがこれまでの日本。

何かを「超越」したい人はこの構造を超越してほしいな。「あいつら全部だめだ、全部ぶっ壊せ」と「ラディカル」に語って自足するのではなく。

今、大学行政では「役立たない」文系への風当たりが強い(ことになっている)が、私は常に役立つものばかり大学が揃える必要は全くないし、役に立たないように見えることが「いざ」という時役に立つと思っているし、だから文系は必要だと思っているし、それを支えているような自負心もある(でも現に私を雇ってくれているのはバリバリ「役に立つ」ことばかりやると見られがちな「先端研」なんだよな・・・このアイロニーを理解できる文系人はいるのか)。

問題は「いざ」という時にも役に立つ気が全くない人たちが文系に集まりやすくなっていることだ。

「この世は全部ダメ」と本当に思っているのかネタで言っているのか傍から見ると区別がつかない、もしかすると本人たちももうよく分からなくなっちゃっている系の人々が、目測で数えるとだいたい8割ぐらいという、世間一般とは正反対の割合を占めている、イスラーム業界、あるいは思想業界一般について、私自身が職業上、付き合ってこざるを得なかった(といっても排除されていますが)ことにより、フィールドワークによって確かめた知見が今回のコラムには多く含まれております。

日本人戦闘員の系譜~戦後社会に寄る辺なき人たち

面白い記事が出ていた。

黒井文太郎「戦いたい!海外の戦場へ向かう日本人たちの系譜 元自衛官からイスラム国を目指した北大生まで」JBプレス、2014年10月17日

日本の戦後の裏面史でもあり、中東情勢の番外編とも言える。紛争の大勢に影響を与えることはついぞなかったが、思想・文化現象として興味深い。

私自身は、さらにマイナーな、戦場には出ないが「後方支援」した日本人たちのことが時折気になる。フィールドワーク(というかただぶらぶらしていただけ)の時代にすれ違った、日本の規格からは外れたたくましい、ちょっとずれた人たち。

この記事で取り上げられるのは名前が通った人たちだけだが、私の若い頃の観察では、レバノンなどの各民兵集団(政府軍にも)にたいてい一人ぐらい、「日本人空手教師」みたいのがいた。日本人というと「ジャッキー・チェン」だったり「カラテ・キッド」だったりといった強固なオリエンタリズム的固定観念が中東社会にはあります。そのイメージをなぞって演じていると、食っていくことぐらいはできて、ちょっと尊敬されたりもします。どの世界でも「先生」はそれなりに偉いからね。お金と権力はなくても、直接の生徒とその親には尊敬される。

ジャキー・チェンとカラテ・キッドの老師を足して二で割って、そこに黒沢明風の威厳を付け加えれば、アラブ社会のオリエンタリズム的日本人像にぴったり重なる。そんな風に演じているうちに、だんだん幻想と現実が混然と一体となっちゃって、時代劇のように話している日本人とか、いたな。そういう方々、もうかなりの年齢だと思うけど、どうしているかな。静かに帰国して日本社会のどこかにいらっしゃるかもしれない。

中東だけでなく、パリで中東系移民の子孫と思しき少年などからも大喜びで「アチョー」のポーズされました。皆さんもパリとかで歩いていて遠くの方からちょっとエキゾチックでかわいい男の子が目ざとく見つけてポーズ取ってきたら微笑んでやってください。「ここでもか・・・」と脱力とすると共に、フランスの移民コミュニティの存在が可視化されて便利。「アチョー」のあるところ、中東あり。

ただ、こういった日本人の印象も、時代の変化と共にだんだんなくなっていくんだろうねえ。アラブ人の子供がアチョーをやらなくなったらそれはそれで寂しいような気もする。

この記事でまとめてもらったのを読んで思ったこと。

戦後の平和主義になじめない、むしろ戦争する機会が欲しい日本人は左右両陣営に常にいて、オリエンタリズム的な幻想・憧れをもって中東に向かった。ある程度武器の扱いや戦闘に習熟している人はそれなりに活躍したが、あくまでも末端の戦闘員レベル。指揮官やイデオローグになった人はいない。日本赤軍の思想など誰もアラブ世界で知っている人はいないし聞く人もいない。せっかく来てくれたからととある勢力が匿っていただけで、他の勢力は無関心だったし、迎えてくれた勢力にとってもお荷物になっていたのでやがて何らかの取引(たいしたものは代償にならなかったと思う)で日本の官憲に順次引渡し。

記事4頁は何だか身につまされないでもない。

「2000年代以降の外国人兵士の需要は、イラクやアフガンのような民間軍事会社が主流になった。そこでは実績のある各国の軍特殊部隊OBなどが優先される。実績に加え、戦闘技術や語学など要求されるスキルも高い。こうした世界には、なかなか日本人では入っていくことが難しい。」

最近は企業が進出し、本職OBが参入し、グローバル化で語学や情報・先端兵器の扱いも知らないといけないので、戦闘を夢見る日本人ではなかなか入り込めない、とのことですね。

国際戦闘員の世界にも英語化・市場原理主義が貫徹し、日本のその方面の人たちにとっては、グローバル人材の育成が急務となっているようであります。いずこも同じ秋の夕暮。

陰謀論に花束を

今日の、BSスカパー「Newsザップ」出演では、12時から午後3時までずっとスタジオに座りっぱなしだったので、極度に疲労しました。こんなことはしょっちゅうやってられませんね。

Newsザップ

おまけに、今日に限って、米国ダラスの病院内でのエボラ出血熱の二次感染の事例が生じて米国が浮き足立っているので、CNNは特別編成でアマンプールの番組が取り止め。BBCもトップニュースでこの話題に。

毎時0分や30分の定時ニュースで、シリアやイラク、イエメンやリビアの話題は省略されるか、後の方(毎時20分ごろや、50分ごろ)に回されたので、ザッピングの対象にならず。

それでも中東の話をしましたが。

レギュラー・ゲストのアーサー・ビナードさん。

詩人。

国際政治については、典型的な米国超リベラル派らしく、陰謀論炸裂。

まあ中東政治に陰謀はつきものだけど、その多くは米国主体ではなく、現地の諸勢力が地域大国と域外大国とNGOとかを盛大に巻き込みながらやっているのだから、なんでも米国が動かしていると言っていては、中東は分かりません。

中東に盛んな陰謀論とは別に、もっと現実的で厄介な陰謀がたくさんあるのです。それを読み解けないと、手玉に取られてしまいます。

あまりにひどい時はこちらも重ねてどのように見ればいいかを解説しましたが、思想・言論は自由なので、たいていはスルーして放置しておきました。

詩人なんだからどうぞ奔放に。

ただし、メディアがそういう詩人の政治論と私の分析を同列に扱って、かつ一般読者・視聴者に「印象がいい」「良い人」に見える(とメディアが考える)方に軍配を上げるような扱いをした時には、私は徹底的に怒るけれどね。

それは私にとって譲れない倫理の問題だから。

今から10年前のとある事件(それは今イラクとシリアで生じていることに、紆余曲折ありながらつながっている)についてのとあるメディア企業のやり方については、今でも、許しも忘れもしていない。『イスラーム世界の論じ方』の注を詳細に見ていただければ、ぼんやりと何がどうだったか分かるかもしれない。

ビナードさん、最近うちの父といくつも一緒に仕事してくださっているらしい。うちの父も政治の話になると、まあビナードさんと似たような感じのぽわっとした現実感のなさがある。

ただし父は、人間社会の本質に関しては、政治の制度や社会構造に関する情報は恐ろしく皆無なのにもかかわらず、ある面で異様に勘が鋭い。もし理屈で説明させれば陰謀論みたいなものになってしまうのだろうが、そういうことは人前で決して言わない防衛本能は鋭い。なので、明らかにおかしいだろ、という政治的発言をしたのは見たことがない(いや、探せばいろいろあるかもしれませんが・・・)。その辺、世の文系知識人とは全く違うと思う。それがどこからきているのかは私にもよく分からない。文学だ学問だ云々というよりももっと深いところでの人間としてもって生まれた知覚・防衛本能なんだろう。外当たりはいいけれども、あの人は、お人よしではないですよ。

ビナードさんがしゃべっている間に浮かんだポエム。

みえるもののむこうがわに
みえないものをみるのはいい
みえないものだけをみはじめると
なにもみえなくなる

さとし

お粗末でした。早々に宗教政治思想に路線転換しておいてよかった~

【テレビ出演】16日12時~15時、スカパーの「Newsザップ」(無料放送)でトーク

テレビ出演です。明日16日の正午から3時間にわたって、スカパーのZAP(でいいのかな)という無料チャンネル(だと思う)で最近始まった、BBCやCNNを見ながら解説、トークをするという番組に出ます。

News ザップ

こんなチャンネルと番組があるんですね。

Newsザップ

BSのリモコンで241chを押せば見られるそうです。

実はまだ見たことありません。明日まで見る時間はないので、ぶっつけ本番で臨みます(今日は日帰り京都出張。なんの楽しいこともありません。研究会そのものは楽しいが)。

想像するに、補助輪付きのBBCお試し視聴みたいなものか。しかしそうやって見ていれば、毎日の重要なニュースのかなりの部分は契約しないでも見られてしまうのでは?

原稿が重なっているのに本当はこんなことやっていられないのですが、しかし国際ニュースは毎日見るのが仕事でもあるので、仕事しながら解説仕事もしてしまえ、という投げやりな気分。

新しいことを提案されるとつい乗ってしまう性分なのです。

逆に、「いつもの雑誌のいつものコーナーを埋めないといけない、「イスラーム国」とか日本人説教師とかなんか話題らしいから電話一本で話させて下ごしらえやらせてやれ、つまんなかったら取り上げない」という怠惰な態度の雰囲気の依頼がくると返り討ちにしたりしています。ごめんねイライラしてて。

【学生向け事務連絡(2):イスラーム政治思想史概説】6日に台風で欠席の受講希望者へ

【学生向け事務連絡】

文学部「イスラーム政治思想史概説」に参加希望のみなさん

10月6日(月)は、午前中は台風の影響で一斉休講でしたが、午後は自主判断だったため、また天候が持ち直したため、初回の授業を予定通り行いました。

事務当局からの休講の決定や連絡が直前だったことや、午前中は非常に天候が悪かったことを勘案して、初回欠席の学生も二回目からの出席を認めます。

次回までのテキストは配布していますので、入手している人からコピーさせもらってください。

入手できない場合は、代替として、下記のブログページを熟読して、関連する文献を検索・読解しておいてください。

「イスラーム国」の黒旗の由来

まだ受講者が固まっていない段階での連絡のため、公開のブログを使っていますが、授業が立ち上がり次第、非公開のメーリングリストやストレージ・サービスなどに連絡・配布手段を切り替えます。

池内恵(10月11日)

【学生向け事務連絡:14日台風の場合】教養学部後期課程「中東地域文化研究」の初回開講

【東大・学部生向け事務連絡】

冬学期の教養学部後期課程「中東地域文化研究」に参加希望のみなさんへ。

第1回の授業は14日(火)です(先週7日は秋季入学式のため授業休止日でした)。教室・時間割等は便覧あるいはオンラインで確認してください。

14日は台風の影響を受ける可能性があります。

学部の事務局から一律に休講措置等が取られる場合は、14日(火)午前6時30分に教養学部のホームページに掲載されるとのことです。まずここを確認してください。

朝の段階では午前中の講義にのみ全学部的な休講措置が取られ、午後の授業に関しては、明確な措置が講じられない可能性もあります。また、学部によっては、午後については教員の判断に任せるといったあいまいな指示が出ることもあります。

学部事務局からの午後についての指示が曖昧な場合は、当日の正午に、このブログで休講・開講のいずれかをお伝えします。

演習に近い形式の初回のため、参加者の人数や関心などを把握するためにも、できる限り授業を行ないたいと考えていますが、往復のいずれかに危険を感じる場合はそれぞれの判断で欠席してかまいません。その場合、出席希望を学内メールで池内宛に送信してください。

なお、今回は初回授業のため、連絡手段がなく、やむを得ず公開のブログで情報を発信していますが、受講生が定まり次第、閉鎖系のメーリング・リスト等に切り替えます。

池内恵(10月11日)

自由主義者の「イスラーム国」論~あるいは中田考「先輩」について

10月7日のニュースウォッチ9で使われたコメントはほんの1行だけでしたが、この日報じられた二つの事案に関連したコメントとしてはこれだけで十分でしょう。

NHKニュースウォッチ9_10月7日

このキャプチャ画面(おでこが保守系政治家並みにテカってるのはブラインドの隙間から西日が当たっているから。カメラマンがすごく気にしていましたが、時間がないので続行しました)はコメントの後段部分ですが、この前に、日本には、イスラーム国、あるいはイスラーム教一般に対して、社会の周縁や、文科系知識人の間でのぼんやりとした流行として、自らの不満や願望を投影して勘違いして賛同・共鳴・期待する動きがサブカル的にあり(もちろん膨大な世間一般保守層にとっては単に印象が劣悪なんだろうけど)、そういった経路で情報を仕入れた、現実をよく知らずにそれぞれの特殊な不満を持っている人が、打ちどころが悪くて武器をもって参加してしまう例は今後も出るだろう、という旨を語ってあります(実際にはもうちょっと言葉を選んで婉曲かつ厳密にしゃべっていますけれども、まあ真意はこうであるということはまともな人には分かるでしょう)。

おそらく今後五月雨式に出てくる事例のほうが、今回のものより、影響も、主体の意図や能力においても、深刻なものになるでしょう。

翌日付でNHKのホームページに特集を文字で再現したものが掲載されています。

7日の放送は録画してありますがきちんと対照させる時間がないので正確には分かりませんが、ホームページのものはおそらく放送されたニュース特集で時間の関係で盛り込めなかった部分をごくわずか補ったものでしょう。私のコメントについても、放送された部分と若干異なっているかもしれませんが、包括的にコメントを出してあるので、私がしゃべった部分であることは確かです。

このニュース特集については、7日に少し書きましたが、9月29日に収録したもので、26歳の北大生がイスラーム国への参加を図って取り調べを受けた件の発覚する以前に話したものです。一般論・理論的な話をしたものの一部です。

元来は、このニュース番組でも少し取り上げられた別の26歳の男性(U氏)がシリアの武装勢力に参加したという件を軸に、日本人がもし「イスラーム国」に加わっていた場合、それが何を意味するのか、どのような国際的影響が考えられるのかなどを課題にするはずであった(少なくとも私に対してはそのような設問で取材をし、コメントを収録した)のですが、その後の新たな事件の発生や、放送時間を制約する別のニュースの出現が相次いだことで、放送される量が変わり、重点を置かれる論点も若干変わっていったのかもしれないと推測します。

なお、私自身はU氏のインタビューや発言内容を知らされずにコメントをしており、U氏の行動や発言そのものを分析をしたものではありません。しかし私が思想史と中東研究の経験から類推して提示した、日本側の参加者の人物類型や思想傾向、シリア側の武装勢力の状況や受け入れ態勢を、ほとんどそのままU氏が語っていました。双方の状況において、典型的なケースと思います。

なお、この特集と私のコメントは有為転変を経ております(先日ちょっと書きましたが)。9月23日に電話で取材を受けて詳細に問題の構図を伝えており、その後私のコメント内容を打ち合わせたうえで9月29日の収録となったわけですが、27日の御岳山噴火の影響で、いつこの問題を放送できるかが分からなくなり、お蔵入りしかけていました。それが、10月6日に発覚した「イスラーム国」への参加希望学生の問題の浮上で、急遽これについての報道と抱き合わせで7時のニュースで一部の素材を使うことにしたようです。

しかし、ご案内の通り、10月7日夕方には「日本人(日系アメリカ人含む)3人ノーベル物理学賞受賞」という、全てを上回るメガトン級のニュースが落ちてきて、まず7時のニュースは特別編成になり、私のコメント部分は省略(ついでに7時30分からの牧原出先生のクローズアップ現代・公文書管理特集も飛んでしまったようです・・・先端研受難の日。こちらは日を改めて放送されるようですので期待しましょう)。

9時からのニュース番組に移されたものの、「イスラーム国」参加希望北大生と、顔も名前も出していいという、別の武装集団に参加して帰ってきた26歳の男性の両方についての映像や本人の発言が長い時間をかけて流れる中で、問題の全体像を包括的に語った私のコメントのうち、放送されたのはほんの一瞬だけとなりました。しかし重ねて言いますが、この二人についてのみ取り上げるならば、放送されたコメントの部分だけで十分と思います。

U氏については、実名で顔を出して、その主張がかなり長く放送されました。売名行為・承認欲求を満たす場になりかねないので、極めて浅く未熟な行動とその理由づけの論理を、NHKニュースで流すことには弊害もあると思います。しかしこういった人々が現実に社会の中にいることを伝えたという意味で、メディアの役割は果たしたと言えるのではないかと思います。ある考えが報じられるということはそれが正しいということを意味しない、そもそも正しいと認定する主体は存在しない(少なくともNHKではない)という、最低限のメディア・リテラシーさえあれば、見紛うことのない映像であったと思います。

一昔前の、父権主義的な制約と配慮が多く加味されたニュース番組であれば、「本人が自分がやっていることの意味を深く分かっていないのではないか」「社会に知らせれば本人の将来のためにもならず、社会不安も生じさせるのではないか」といった様々な配慮から、U氏の発言はほとんど報じられず、顔も名前も伏せられたかもしれません。

しかし、現在の日本は自由な社会なので、法の範囲内で、自由にものを考えて発言することはまさに自由であり、本人が同意の上で公言したこと、やってしまったことを報じられて、それによってその後の人生に不利益をこうむることもまた自由です。自由主義社会とは愚行を犯す権利を認める社会であり、それによってもたらされる不利益を自らが担う義務を負うという条件の下で、今回の二人はそれを行使したということであると考えています。

北大生については顔と名前が伏せられていますが、これは今現在捜査中で立件されるか否かが不分明であることと、本人の発言の不明瞭さの次元がより著しいため、公開することがふさわしいか否かの判断が留保されたものと推測しています。U氏の場合は、発言の表面上の矛盾がより少なく、コメンテーターや評論家が流している程度のずさんさの社会批判であるため、それがなぜシリアでの戦闘と結びつくかにおいて飛躍が著しいものの、顔と実名を出して発言が報じられたものと考えられます。

そのような愚行をNHKの公共の電波がニュースとして流すか否かという問題に関して、重要なのは客観視・相対化する視点を番組が備えているかです。それを私のコメントが果たしたのかもしれません。ただし私はU氏の行動の詳細や発言映像を見ずにコメントしていますので、本来ならコメンテーターあるいはキャスターが加えるべき批判的・相対的・批評的な言及を、具体的にU氏の発言や行動に関して行ったわけではありません。その意味では、若干足りないところがある番組構成であったと思います。

ただし、私の事前コメントで想定した人物類型と関与形態であったため、実質的には客観視・相対化・批判的言及を行なった形になりました。

なお、この報道では二点の極めて重要な情報に触れられていません。①U氏が元自衛官であること、②U氏が加わった武装集団の名前。

①については、自衛隊出身者が海外で勝手に紛争に参加したことが政争の的になりかねないことが配慮されたのかもしれません。しかしU氏がなぜ武装集団に受け入れられたか、という点を見る際に、この情報があるのとないのとでは全く異なります。この点、毎日新聞の報道は有益でした。

「シリア:戦闘に元自衛官 けがで帰国「政治・思想的信条なし」」『毎日新聞』2014年10月09日 東京夕刊

②はその武装集団が、後にアル=カーイダあるいは「イスラーム国」といった国際的に、特に米国によってテロ組織認定を受けている組織に統合されている可能性が考えられます。

確証がないのでここでは名前を挙げませんが、おそらくU氏は、アレッポ北方・トルコとの国境近くのアザーズで勢力を保っていた組織に加わったのではないかと思います。その当時は独立していたが、その後合併あるいはより強い勢力による征服で異なる組織の傘下に入り、結果として上部勢力の指導部が「イスラーム国」に忠誠を誓う表明を行ったとみられています。

直接・同時期ではないにせよU氏が「国際テロ組織」の傘下に後に入る組織に加わっていたことになれば、北大生の場合以上に、「私戦」を行なったとして刑法上の疑義も生じかねず、そのような人物の体験談と主張を放送することがふさわしいかという問題になり得るが故に武装勢力の名前を言及するのを本人が避けたあるいはNHKが報じなかったのではないかと推測しています。これらは私の研究者としての推測で、NHKからは何も説明を受けていません(問うてもいません)。

そもそもこういった現地の複雑な情勢を理解できる人たちが番組を作っているかどうかも定かでなく、単によく分からなかったから報じなかった可能性もあります。また、本人が明確に武装集団の名前を覚えていないか発音できないといった可能性もあり得ます。

確かにこれらは厄介な問題ですが、こういった側面もテレビ局が報じることができ、かつ知識人も政治家も、感情論や表層的なこじつけによる、短絡的な政争の議論に持ち込むのでなく、本質的な政治問題として分析したうえで議論できるようになれば、日本も真の意味での近代の自由社会になったと言えると思います。それができないうちは、補助輪付きの自由にとどまると言っていいでしょう。

単に「NHKは自主規制・配慮するな」という問題ではなく、それを受け止める成熟した知性が社会に存在するか、というところがより本質的な問題であると思います。メディアはその国の市民社会の程度を反映したものにしかなりえないのです。

また、この段階では顔と名前が出ていませんでしたが、元同志社大学神学部教授の中田考氏の関与をめぐる捜索についても番組では取り上げられていました。

中田考氏は東京大学文学部イスラム学科という、日本の大学の中では稀な学科の一期生です。1982年設立と歴史も新しく、3年時にこの学科を選んで進学してくる者の数も極めて少数に限られています(2人か、1人か、0人か、というのが通例と思われます。あと学士入学・修士からの入学者がそれ以上にいます)。

実は私もまたこの学科を卒業しており、1994年に進学しているので、一回り下の後輩ということになります(なんでこの学科に入ったかはココで)。私自身は大学院は地域研究に移っており、1・2年の教養学部においてもイスラム思想以外のさまざまな学問に触れており(そもそも家庭教育で全然別のことを仕込まれていた)、イスラム学のみを自分の学問の基礎とはしておりませんが、同時に最も重要な学部3・4年を過ごしたことから、今に至るまで強い影響を受けてきたと自覚しています。この学科の一期生が、このような形で脚光を浴びるに至ったことには、卒業生として他人事とは見ていられず、世間一般にとっては奇異・不可解にのみ見えかねない状況を少しでも理解しやすくしておきたいという気持ちがあります。

この学科は歴代の卒業生を合わせてもそれほどの数ではなく、特に一期生は、業界内ではいろいろな意味で目立つ人たちであり、学生時代から意識せざるを得なかったことから、中田考氏についてはその人となりと思想・行動を私なりに理解しているつもりです。

いくつか言えることを記すと、まず、彼は顔を隠したり、思想や実際に行った行動について問われて否定することはないだろう、ということです。彼にとっては、「アッラーの教えに従った正しいこと」をしていると信じているがゆえに、「無知な異教徒」に積極的に話す必要はないが、問われれば話してもいい、ということであろうと思います。現にその後顔と名前を出したインタビュー記事が表に出るようになっています。

中田氏自身は日本の刑法に明確に触れるようなことはしていないと思いますが、ジハードによる武装闘争をシリアで行うことには強く賛同していると見られます。「イスラーム国」についてはその手法の一部が適切ではないと批判していますが、イスラーム法学的に明確に違法とまでは言えないと解釈しているようであり、その存在を肯定的に見て、接触を図っていることは、公言している通り、おそらく事実であると思われます

そのことだけでも、日本の法制度では「私戦」の予備あるいは陰謀に関与したととらえられる可能性が、法の解釈と適用の裁量如何ではあり得るものであり、そのことも、現在の中田氏は自覚していると思います。日本の刑法の存在と実際の効力は認めているものの、本人の思想によって超越的な視点から日本の刑法の価値を(「永遠の相の下では」)限定的(あるいは無価値)と捉えているため、刑に問われる可能性を認識しつつ、それほど意に介していないのではないかと思われます。

ただし2014年9月24日の国連安保理決議で「イスラーム国」への支援を阻止することが各国に義務付けられる以前には、この規定の適用によって「イスラーム国」への支援・参加を処罰することが現実的にあり得ると周知されていたわけではありません。死文化していたこの条文を適用して公判維持が可能なほどの犯罪事実を、9月24日から10月6日までの間に中田考氏が行ない得ていたかどうかを考えると、そのようなことはなかろうとかなり確信を持って言えます。

ジハードに関する中田考氏の立場は、イスラーム世界の中で、少なくともアラブ世界においては、さほど極端な意見ではなく、一つの有力な考え方であると見られます。ただし実際に実践することができる人はそれほど多くないとされる立場です。尊重されるが必ずしも多くによって実践されることのない、アラブ世界において一定の有効性を保っている思想を、ほぼそのままの形で日本に伝えてくれるという点で、中田考氏は貴重な存在です。日本向けに、日本社会に受け入れられることを主眼として、現実のアラブ世界ではさほど通用していない議論を「真のイスラーム」として発言する方が、長期的には認識と対処策を誤らせると考えます。

「イスラームは平和の宗教だ、対話せよ、共生せよ」といった議論を表向き行なっている人物が、学界の権力・権威主義・コネクションを背景に、気に入らない相手に公衆の面前で暴力をふるうに及ぶ(そして高い地位にある教授のほぼすべてが一堂に会しておりながら黙認して問わない)、といった事例さえ複数回体験している私にとっては、中田考氏からは、現世的な意味での権威主義を嫌い、暴力を忌避する、温和で、概して公正な人物であるという印象を受けます。その評価は、この事件に関する報道を見た上でも、変わっていません。

ただし、いくら現実が欺瞞に満ちたものであり、浅薄で劣悪な人間が世にはびこっているとしても、それに対抗して別の世界から何か絶対的な超越的な価値基準を持ってきてそれを当てはめて現実を全否定しても、自己満足以外に得るものはあまりないと私は考えています。

中田氏の日常・対人関係における穏和さは、イスラーム教によって示された真理を自分が知っているという確信から来るものであるため、「それを知らない・知ろうとしない異教徒」である私に対しては、別種の超越的な権威主義をもって接してくるため、かなり遠い過去に何度かあった会話の機会において、それほど話が通じたとは思いません。(そもそもまともに話したのはかなり若い時であり、年齢や研究者としての経験が違い過ぎたという事情もありました。また、イスラーム法学者としての聖典・法学解釈の運用能力を普遍的に価値的に優越したものととらえる中田氏からは、私の議論はそもそも前提としてなんら評価に値しないといった理由もあります)。

そして、中田氏の宗教信仰からもたらされる政治規範では、異教徒にはイスラーム教徒よりも制限された権利が与えられ、その価値を一段劣るものとして認定され、その立場と価値基準を受け入れる限りにおいて生存が許されることになっており、それを受け入れることは自由主義の原則の放棄を意味し、近代的な社会の崩壊を容認するに等しいと考えており、私は強く反対しています。

しかし立場が異なる人々の思想を、それが他者への危害を加えない範囲であれば認めるのが近代の自由主義の原則です。中田氏の思想に内包する危険性を認識しつつ、それを日本において実効的に他者に対して強制する機会が現れない段階では、中田氏の思想表現に規制をかける正当性は、自由主義社会の原則に照らせば、ないと考えています(そもそも人の頭の中身は外から規制できませんが)。そのことは中田氏の思想そのものを真理であるとか優越したものであると私が認めているということではありません。

イスラーム思想研究者としては、中田氏はまったく異なる見地から私と同じものを見ているということではないかと考えています。もちろん、中田氏の方では私がイスラーム教を日本の言説空間に紹介する際に「正直に話している」という点においては一定の評価をしつつ、(アッラーの下した唯一絶対の真理を認識することができないという意味で)「無知である」と認識しておられ、そもそもそのような「無知(超越的な視点からの)」であるにもかかわらずイスラーム教について発言することが本来(超越的な視点から)は許されないことであると考えていることを、いくつかのインターネット上の発言などから見知っています。中田氏の立場からは論理的必然としてそのような認識になることを私は理解しており、私の発言を実効的に制約したり物理的危害を加えることを自ら行うか教唆したりしない限りにおいては、表現の自由の範囲内であろうと考えています(受け取る人が中田氏の真意や思想体系を理解しておらず、中田氏の私に対する批判を異なる目的のために利用することは困ったことだとは考えていますが、基本的にそれは受け取って利用する人の理解力や品性の問題であると考えています。誤解による利用に中田氏がまったく責がないとも無意識・無垢であるとも思いませんが・・・)。

中田氏は、今回の事案を受けてのさまざまなインタビューでおそらく公に認めていることではないかと思いますが(活字になっているかどうかは別として)、正しい目的のためのジハードで軍事的に戦うことは正しい行いであり、そのような行いを目指す人物が自分を頼ってきたときにはできるだけの手助けをする、という信念を持ち実際にその手助けを行なっているものと思われます。これは、アラブ世界で(あるいはより広いイスラーム世界で)非常に多くの人が抱いており、可能であれば実践しようとしている考えであり、だからこそ国家間の取り決めによるグローバル・ジハード包囲網に効果が薄く、「イスラーム国」あるいはそれと競合する諸武装勢力への、多様なムスリム個々人による自発的な支援や参加が有効に阻止できていないのだと思います。

中田考氏が「イスラーム国」のリクルート組織の一員か?と問われれば、私は捜査機関ではなく、個人的に付き合いもないので本当のところは調べようがないのですが、イスラーム政治思想を研究し、グローバル・ジハード現象を研究してきた立場からは、「中田氏は組織の一員とは言えない」と推論します。

その理由は、中田氏がジハードに不熱心だとか組織と意見が違うといったことではなく、そもそも「イスラーム国」やアル=カーイダは明確な組織をもたずに運動を展開しているからです。シリア・イラクの外で「イスラーム国」に共鳴している人物・集団のうち、中田氏に限らず、シリア・イラクの「イスラーム国」そのものとの組織的なつながりが実証されうる人物や集団は、ごく限られていると考えられます。

しかし共鳴した人物・集団がもし実際に国境を超えて「イスラーム国」に合流し武装闘争に有機的に統合されれば、紛れもなくその組織の一員となります。中田氏はおそらく年齢・体力的にもそれは困難で、本人がインタビュー等で認めているように、組織の一員の友人、あるいはその紹介で訪れた客人、という立場を超えることはおそらくなかったのではないか、と推測します。

中田考氏は、そもそも正しいことをしているという信念が前提にあるために、インタビュー等で実際の行動や意図を偽ることはないと思います。ただし、その行動や意図の「正しさ」の基準が、イスラーム法学であるために、日本の一般的な聞き手や読み手には、真意が測りがたく、冗談か不真面目なウケ狙いの回答であるかのように見えてしまう場合もあるかと思います。また、イスラーム教を世界に広め、守ることを本分とするイスラーム法学者の役割に忠実であるため、異なる価値観が支配的な日本において、イスラーム教そのものへの強い批判や排斥を招きかねないと考える主張については、聞き手・読み手の誤解をあえて誘う立論を行なって関心を逸らす、あるいは肯定的な誤解をさせるということも、イスラーム教を広め守るための教義論争上のやむを得ない戦術として肯定しているのではないかと思われる節があり、日本の読み手が自らの論理や規範の範囲内で額面通りに受け取ることも、若干の危険性があるのではないかと危惧します。しかしそのような発言も自由の行使の範囲内であって、重要なのは、編集者や読み手が、発言の前提となる極めて異なる価値観(それはイスラーム世界では非常に支配的な価値観である)を認識した上で中田氏の意図を読み解くことであろうかと思います。

「イスラーム国」をはじめとしたグローバル・ジハードの諸運動については、「日本に組織ができたら危険だ」/「日本には組織がないから安全だ」という議論も、「あの人は組織に入っているからテロリストだ」/「組織に入っていないから無関係で無実だ」といった議論も、的を外しています。組織がないにもかかわらず、自発的に、一定数の支持者・共鳴者を動員できることにこそ、グローバル・ジハード運動の特徴があり、日本社会あるいはその他の社会にとっての危険性があります(それを支持する人にとっては「可能性」があります)。「イスラーム国」そのものにしても、複数の小集団のネットワーク的なつながりしかないものと考えています。イスラーム教の特定の理念、つまりカリフ制といった誰もが知る共通の理念の実現という目標を一つにしているからこそ、つながりのない諸集団がほぼ統一した行動を結果的に行っているものと考えています。

宗教者がテロを教唆したか否か、という問題には、人間の意志と行動との間の、非常に複雑で実証しがたい関係を含んでいます。

宗教者として一定の尊敬を集める人物が、例えば「ジハードに命をささげるのはアッラーに大きな報奨を受ける行為だ」と発言した場合、世界宗教であるイスラーム教の明文規定に支えられているために、信仰者あるいは異教徒のいずれの立場からもその発言を批判することは困難です。そして、このような一般的な発言を行なうことで、結果的に一定数の聞き手が武器を取って紛争地に赴き、状況によってはテロと国際社会から認定される行為を行うことは、一定の蓋然性をもって予測されます。しかし一般的な宗教的発言と受け手の行動との間に因果関係を実証することは容易ではなく、宗教者が意図を持って行った教唆として認定することも容易ではないため、法の支配の理念を堅持した法執行機関の適正な運用による対処を行なって実効性を得るには、困難が伴います。

分かりにくいと思いますが、この問題について、事情をよく分かっていないまま勘違いして発言・反応する人を含めた様々な人たちから揚げ足を取られないように書くには、このような書き方になります。

グローバル・ジハードへの動員は、日本では極めて小さな規模で、日本のサブカル的文脈でガラパゴス的な形で発生しています。しかし西欧社会では大規模な移民コミュニティを背景に、非常に大きな規模で、この「組織なき動員」が生じています。そのため、問題の対処は緊急性を帯び、かつ困難を極めています。

日本でも、やがてこの問題にもっと正面から向き合わなければならなくなると思います。

火山の噴火による多くの方々の死傷、日本出身者のノーベル賞受賞、いずれも重大なニュースです。しかし日本が将来に直面する問題の先触れとして、今回の、多くの人にとっては奇異なことばかりに見える「イスラーム国・その他武装勢力への参加希望者出現」という話題は、もしかすると、より重要な意味を持っているのではないかと思います。


【本エントリが増補のうえ、中田考『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社新書)に解説として収録されました】

【テレビ出演】ニュースウォッチ9で録画コメント放映(おそらく)

ノーベル物理学賞を日本人3人が受賞したというニュースで、ニュース7の録画コメントは飛んでしまいましたが、ニュースウォッチ9では使用されるという連絡が。

NHKニュースウォッチ9予告

まだ油断できません(笑)。

明らかに、ノーベル賞の方が重要なニュースとは思います。

しかし社会のフリンジで過激化する人たちのメカニズム(そこには研究者やメディアもかかわっている)は、今後より深刻な形で出てくるでしょう。そのための先触れとして、今回のかなり馬鹿げた事案もあったのではないでしょうか。

これから仮眠して、昨夜以来のメディア対応で遅れている論文・著書を進めます。一歩一歩進むしかありません。

【テレビ出演】本日NHKニュース7で日本人の過激派への参加の可能性について

本日午後7時からのNHKニュース7でコメントが放映される模様。

NHKニュース7放映予定

ニュースウォッチ9でももしかしたら使用されるかもしれませんが、まだ決まっていません。

テーマは「イスラーム国」への日本人戦闘員の参加の問題。

なお、コメントの収録は9月29日で、今回の事件発覚よりかなり以前に行われたものです。

もともとは、「日本人の戦闘員がいるのか、いたらどうなるのか」という「警鐘」を鳴らす類の、ニュース番組内での小特集の一環として、コメントを求められ、応じて収録しました。

このブログを読んでいる人であれば分かると思いますが、私は今の日本のメディア企業についてきびしい認識を持ち、厳しい姿勢で臨んでいますが(世界中の標準的な知識人であれば、現在の日本のメディアに対しては、期待を込めて、厳しく接することになると思います。莫大な制度・設備と視聴者・読者を持っていながら、業界・社内の縛りで沈下している・・・)、4月24日のクローズアップ現代「復活するアルカイダ」が、6月のモースル大攻勢でイスラーム国が注目を集める前に放映されていたように、お金と人を使って物事を先から取材・報道しておく姿勢があるところには、多少無理してでも協力する用意はあります。

収録後に御嶽山の噴火などもあり、特集自体が延期されたのか流れたのかという曖昧な状態のまま今日に至り、未遂と言えど「既発」の事件になってしまって、その報道に絡めて私のコメントが放映されることになった模様です。

ですので、本日のNHKのニュース報道は、速報だけでなく、これまでに準備してきたものも出してくるということですので、よそとは一味違う深いものになるか、期待して見てみましょう。

日本人が「イスラーム国」を含むシリアでの戦闘員になる、という問題について、日本人戦闘員志願者の事例が公然化した今と以前で、私の言うことは変わりませんし、そのまま背景説明になっていると思います。ですので以前に収録した映像から抜き出してニュースで使うことを許可しています。

私自身は、今回捜査の対象となっている学生その人と、「イスラーム国」との橋渡しをした可能性で聴取を受けている「元大学教授」の実際に行った行為について、確たる根拠のある論評をできる立場ではありませんので、今回の事件そのものについてのコメントは新たに収録していません(そんなこと私に聞いたら駄目でしょう)。その背景にある思想的・政治的問題についてお話しました。

【コメント】毎日新聞に「イスラーム国」参加未遂の日本人問題について

今朝の毎日新聞にコメントが掲載されています。

夜遅くの校了寸前に連絡があって、偶然、この問題についてニュースを読んで考えていたので、答えてしまいました。本当はすぐに出さねばならない原稿・書籍が複数積もっていて編集者が待っているのですが・・・

毎日新聞はイスラム国関連で頑張って取り組んでいると思うので、非常識な時間でしたが受けてしまいました。また、「自由な社会からの逃走」が先進国で一定数生じるという普遍的な問題として日本人の過激化の問題も捉えられるという視点が入ったので掲載を許可しました。こういう論点が当たり前に乗るのが本来の新聞だったはずですが。教養主義はかつてのファッションで、今は時代遅れなんですね。今こそこういった概念を用いて論じることが必要な段階に日本社会も入ったということでしょう。以前は自由すらなかったから「逃走」は単なるファッションだった。

「イスラム国:26歳北大生ら、参加を計画 識者の話」『毎日新聞』(2014年10月07日 東京朝刊)

 ◇不満持つ若者が傾倒−−中東に詳しい池内恵・東京大准教授
 イスラム教徒は自らの思想に肯定的な人物に対して同胞意識が強いため、日本の若くて体力のある人が希望すれば、イスラム国の即戦力として戦闘に加わることも可能ではないか。先進国では、自由な社会で明確な目的を与えられないことに不満を持つ一部の若者が、絶対の真理を教えると主張するイスラム教の強い思想にのみ込まれ、過激化する傾向がある。

日本人の「イスラーム国」参加未遂の報道に思う

「イスラーム国」の戦闘に参加を目指した日本人が摘発されたとのこと。

事実関係はほとんど伝わってきていません。どのような思想的背景があるのか、あるいはむしろ非常に軽率に参加しようとしたのか、事実関係が分からない限り、この事件そのものについては議論しようがありません。しかし、日本の社会の固有の文化的・宗教的・政治的な通念と、イスラーム教の政治・軍事理念とが触れると、社会の周縁部で非常に特異なタイプの過激派を生みかねないことは、一般的な危険性として存在し、今後も様々な事例が、日本社会の規模からは少数の末端の事象と言いうるものの、発生するでしょう。

今回、刑法93条の「私戦予備及び陰謀」という、聞き慣れない規定が適用されたことは重要です。

9月24日の国連安保理決議では、シリア・イラクに越境して戦闘に参加する者を阻止し、資金の流入を止めるための法整備を行うよう各国に求めています。しかし日本では新たに強制力のある対テロ法制を整備することはまず不可能でしょう。特定秘密保護法であんなとんでもないおどろおどろしいキャンペーンを新聞各紙が張ったのですから。

そこで、捜査当局は、既存の法体系の底から、戦後の日本でほとんど顧みられることのなかった、死文化していたものの国家の本質にかかわる重要な条文を持ち出してきた。これはかなり衝撃的な出来事です。

国家が独占するべき戦争と武装の権利を、個人・集団が勝手に保有して行使することは、近代国家においては許されないことです。しかし、国家が武力を保持し、戦争を行う権利を有するということそのものから国民集団が目を背けてきた日本では、「私戦」を禁ずるという刑法上の規定を、呑み込むことは大変でしょう。メディアはどう反応するのでしょうか。

そして、ここに宗教が絡んでいることも、日本の通り一遍の宗教認識では、理解が不能でしょう。宗教は平和の教えであり、軍事とは何の関係もない、政治とも関係ない──としばしば日本では教えられますが、日本の歴史を見ても、そして世界史と現代の国際政治を見ても、それは事実ではありません。宗教と軍事は人類史上、きわめて長い時間、多くの場所で、ぴったり結びついてきました。

このことを社会全体で認識することを避けてきたがゆえに、ごく少数ですが、宗教の絶対的な統治規範に関わる規定、あるいは軍や戦闘に関わる側面を教えられると、免疫がありませんから、まさに「天啓」を受けたような気になってしまう人々が出てきます。

社会の周辺にいて、「日本社会は間違っている」「世界はおかしい」と一方的に思いを募らせるタイプの人が、世界宗教が明確に「正しい戦争」「正しい軍事行動」「あるべき統治のあり方」を示してくれると、一気にかぶれてしまうのです。イスラーム教については、世間一般の関心は薄い代わりに、少数のそういった「絶対」を求める人々が集まってきます。

そのような事情は広く世間には知られていません。

前提として影響しているのは、日本では「イスラーム」は非常に肯定的なものとして、かつ日本の価値観と適合するものとして、専門家や大手メディアによって表象されてきたという事実です。有力な学者は(あるいは学者の世界で有力となるためには)、日本社会に行き渡る価値規範と親和的なものとしてのみ「イスラーム」を論じてきた。しかし実際には学者にはそれほど影響力はありません。むしろ、特定の、読者にとって心地いいタイプの「イスラーム」認識を、権威的な少数の学者の説を引用しながら報じてきた、大手メディアによる社会教育の効果は計り知れません。なんとなく、現代世界の抱える問題のすべてに「イスラーム」が解決策を持っているかのような幻想を、日本の知識人は持ちがちですし、それを大手の新聞などは引用します。

新聞や本を断片的に読んで信じてしまうような、真面目で単純な若者が、「イスラーム」がマジックのように現代社会の問題を解決するかのような幻想を抱いて接触を求め、「当たりどころ」が悪いと、ジハードによる武装闘争を通じた支配権力の獲得や、イスラーム教徒と異教徒の権利に明確に差をつけた統治制度など、それまで日本では知られていなかった側面に触れ、むしろそこに力強さ、正しさを感じてしまう。そういった経路が、日本に特有な過激化の進展過程として考えられます。

「正義の名の下での暴力や支配」という思想の「魔力」に感化されやすい若者は、どのようにして生まれるのでしょうか。

私は、例えば次のような社説によって、日々作られていっていると考えています。

「(社説)テロリスト 生まない土壌つくろう」『朝日新聞』2014年10月6日05時00分

どこがおかしいか数点指摘しておこう。全文に渡って全ての問題点を検討して指摘する時間はない。

まず、

「なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、「テロリストを生まない社会」を築く努力が必要である。」

というのが(なんだかここを読んだだけでもとてつもなくくだらないですが)、この社説の一番の論点であると思われます。タイトルにも取り入れられています。

しかしここで「それぞれの国内問題」とありますが、「どこの」国内問題なのでしょうか?

社説全体を見ると、これは「先進国」の国内問題であるようです。しかし書き手は自分が「先進国の問題」を取り上げていることを自覚していない。つまり対象となる問題を適切に分節化・規定できていない。そのことが結局議論を迷走させ、脱線させ、最終的に夜郎自大の「先進国」批判に行きつきます。

「「イスラム国」には、約80カ国から1万5千人以上が戦闘員として合流したとみられる。フランスや英国、ドイツなどからは数百人単位に達するという。」

と、対象となる問題を特定しています。

しかし、この数値だけでも変なところがあります。全体の数が「1万5千人」であるのに対して、フランス・英国・ドイツ(など)からは「数百人」であるので、そもそも全体の中での割合も、先進国からの総数も分からない、というどうしようもない数値で、こんな数値を並べるレポートが出てきたら不可でしょう。

実際には、この数値(をいくらなんでももっと厳密な数値に置き換えた上で、ですが)からは、「イスラーム国」に流入する外国人戦闘員の多数は西欧先進国からではない」ということを読み取らないといけないはずです。ヨルダン、チュニジア、サウジアラビア、モロッコなどアラブ諸国からが圧倒的多数。これにチェチェンなどイスラーム諸国からの戦闘員が多く加わっています。その次に、欧米先進国から、移民の子孫や改宗者が加わっている、という順序です。

そうであれば、まずはアラブ諸国やイスラーム諸国の「それぞれの国内問題」に原因を求めなければならないはずです。

ところがそうせずに、もっぱら「先進国」に矛先を向けてしまう。いつものよくあるパターンです。

しかし、もし「先進国に不満を抱く若者がいる」という問題認識が正しいとして、「それがイスラーム国に行ってテロを行う」ことにどうつながるのでしょうか。

百歩譲って、「フランス社会に不満を抱く若者がフランス社会にテロを行う」のであれば、その行為を許容はできませんが、いちおう当人たちの意識としての因果関係は認められると言えるかもしれません。しかし、「フランス社会に不満を抱く若者がシリアに行ってテロをやる」というのは、因果関係の繋がりが通常の意味では存在しない、かなり奇異な現象だと受け止めなければなりません。その上で、一見奇異に見える現象の中に、別のメカニズムを特定すれば理解できてくる、という議論でなければならないはずです。

そのメカニズムには宗教と軍事、宗教と政治の関係も必然的にかかわってきます。厄介な問題ですが、避けて通れません。

しかしこの社説には、現実を見てそういった最低限の疑問を抱いて考えた形跡がまるで見られません。

結局、批判しやすい、自由で先進的な社会に文句をつけて、カッコ良いことを言いたいだけなのではないかな、としか思えません。

この社説の問題は、大前提となる対象の認識があやふやなことです。

「それぞれの国のイスラム系移民社会の出身者や、キリスト教からの改宗者が目立つ。多くは、貧困や失業に直面し、差別や偏見を受けて、母国で疎外感を抱いた若者たちだ。」

この認識は妥当なのか。これはかなり疑わしい。

現地の情勢の分析なき決めつけ。情報や議論が古い。10年以上古い。

参考になるのは、次のような記事です。

「フランス:若い女性や中流・富裕層出身者がイスラム国参加」『毎日新聞』2014年09月18日19時30分(最終更新 09月18日 22時44分)

いくつか引用しましょう。

「イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」への欧米最大の戦闘員供給源となっているフランスでは、従来多かった家庭環境に恵まれない若者だけでなく、若い女性を含めた生活水準の比較的高い家庭出身者が戦闘地域に流入するケースも目立つ。」

「2月に「イスラム過激派参加防止センター」を創設し、フランス人の若者のイスラム過激派入りを防ぐ運動をするドゥニア・ブザル氏は、「父親なし、人生の羅針盤なし」という定着しつつある、イスラム過激派に転化する若者のイメージに疑問を投げかける。「以前は社会的、家庭的に恵まれない若者だった。今は、中流・富裕層の出身者が参加している。過激化する時間は以前より短くなり、信仰心の薄い若者を数週間で変えてしまう」と指摘する。」

先進国の問題としては、「別に経済的にも不自由ないのに「イスラーム国」に向かう人々が出てきている」ということが注目されているのです。

それに対して、チェチェンからの転戦組とか、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国からの流入者は、政治的な弾圧の影響もありますし、貧困が原因で「傭兵」的に集まってきた者たちもいるでしょう。こちらはこちらで問題です。

この二つを混同すると、「イスラーム国」への対処策は適切に立てられなくなります。

「イスラーム国」へ流入する戦闘員の問題は、最低限でも、(1)先進国から流入する目立つけれども全体の中での割合は少ない集団に特有の問題・背景と、(2)シリアとイラクの周辺のアラブ諸国やイスラーム諸国から流入する多数を占めるイスラーム教徒の抱える「それぞれの国内問題」に分けて、それぞれを議論しなければ意味がありません。あっちの国の貧困の問題を、こっちの国の暇を持て余した中間層の行動の原因として繋ぎ合わせることはできないのです。

朝日新聞の10月6日の社説は、先進国に特有の問題と、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国の抱える問題を混同しています。そしてその混同によって、ここでは先進国の問題を取り上げているにもかかわらず、「貧困が原因だ」という、どちらかというと近隣アラブ諸国やイスラーム諸国(の紛争・貧困国)からの戦闘員流入の背景にあるであろうと考えられる問題に責を帰する議論を行うことで、問題の所在や発生原因を混同し、現実認識を困難にしています。そもそも、より根本原因と考えられる、シリア・イラクそのものの国内問題にはじまり、大多数の戦闘員を送り出している周辺アラブ諸国やイスラーム諸国の国内問題を、等閑視しています。

そして、このような「とにかく欧米社会が悪い」と言ってしまって自足する議論の根底にある発想は、現地の事情をよく分かりもせず、関係もないのに、ただ戦闘に参加したいと言い出す若者の発想と、同根ではないかとすら思うのです。

テロをめぐる朝日新聞の論評は、「むしゃくしゃしてやった」といったどう考えても薄弱な動機で殺人を犯す人物が現れるたびに「むしゃくしゃさせた社会が悪い」と論評しているようなものです。「むしゃくしゃした」ことと「人を殺す」ことの間を何が繋いでいるのか?という謎に正面から向き合わないのであれば、こういった論評は、テロを容認する社会規範を事実上広めているとすら言い得るものです。

「ボーダーレスのいま、日本人が攻撃に遭う可能性もある。テロと向き合う国際論議に私たちも積極的に参加すべきだ。」という結びの言も、間が抜けています。「日本人が加害者になる可能性もある」という当たり前の現実に全く気づいていない様子で、無自覚です。遠くの「欧米」の「国内問題」と断定して安心して、よく知らないのにあげつらっているので、状況が違う日本でも出てきてしまう問題であることに気づいていないのです。

日本からイスラーム主義過激派に入るテロリストが出たら、やはり「日本社会の問題」として糾弾するのでしょうか。するかもしれませんが、するとしても、おそらく間違った方向でする、ということはこの社説の程度を見ても明らかでしょう。その意味で、日本社会の問題は根深い。