イスラーム教をなぜ理解できないか(4)「リベラル・バイアス」を単刀直入に言うと

先日紹介した、Temptations of Powerの著者Shadi Hamid氏が、‘Moderate Muslims’という小文をワシントン・ポスト紙のブログに寄せている。

「穏健派ムスリム」を探すのはもうやめよう、という議論で、欧米で(日本でもそれを一知半解に真似て)繰り返されるクリシェの批判から、根本的な思想問題に触れている。

The way we use the term, “moderate” means little more than “people we like or agree with.” Almost always, it signals moderation relative to American or European standards of liberalism, freedom of speech, gender equality and so on.

「穏健派ムスリム」を持ち上げて、「イスラーム国」などの「過激な」「本来の姿ではない」「多数派ではない」の価値を落とそうとする議論はごく自然に行われているが、中東の実態、宗教教義の実態を知れば、単純にそうは言い切れなくなる。ここでハミードは、「穏健派ムスリム」と言うときは、実際は欧米のリベラルな基準から、言論の自由やジェンダーの平等などを受け入れる相手のことを言っているだけで、要するに「欧米人が好きになれる相手、合意できる相手」と言っているに過ぎないのだ、と喝破する。

そんな欧米人に気に入られることを欧米で言っている人たちは出身国に帰ると「穏健派」とはみなされておらず、単にout of touchだと思われている、という。

Yet in their own countries, people who want to depoliticize Islam and privatize religion aren’t viewed as moderate; they’re viewed as out of touch.

中東を相手にしているとごく普通に感じられることをそのまま書いている。これが欧米の知識社会では言いにくいんですよね。言うとイスラーモフォビアに毒された非文明人であるかのように扱われてしまう。

エジプトのような現地の国では社会全体が保守的なので、世俗主義者でさえ非常に非リベラルな信念を報じているのだ。

The search for moderate Muslims misunderstands the nature of the societies we’re hoping to change. It would be extremely difficult to find many Egyptians, for instance, who would publicly affirm the right to blaspheme the prophet Muhammad. The spectrum is so skewed in a conservative direction that in countries like Egypt, even so-called secularists say and believe quite illiberal things.

欧米の議論は、なぜムスリムはリベラルで世俗的な時代に加わってくれないのか、というフラストレーションを抱えている。しかしこれはいかに善意であれども生産的ではない、見下した態度だ、という。

The subtext of so many debates over Islam and the Middle East is frustration and impatience with Muslims for not joining our liberal, secular age. However well-intentioned, such discussions are patronizing and counterproductive.

日本で俗に言う「欧米のイスラーム理解は間違っている!」という主張とはかなり異なった思想的課題があるということがよくわかりますね。通説は「本当はムスリムはリベラルなのに、そうではないとする欧米のオリエンタリズムが間違っているんだ」という議論なのです。実際に中東に行って議論をすれば、それは嘘だということはよく分かります。日本の俗説は、「中東」を根拠にして「欧米」を叩いているふりをしながら、実際には欧米の特定の学説を権威として掲げて日本での言説支配の手段とし、要するに流用しているだけのことが非常に多い。

俗説や「権威」に流されずにモノを考えるのが思想史。本当に考えるべきことを考えていれば、視野が開けてきます。