『週刊エコノミスト』の読書日記(10)不寛容への寛容はあるのかーーキムリッカ『多文化時代の市民権』を読み直す

『週刊エコノミスト』の読書日記の第10回が出ました。

すでに3月30日(月)に発売されています。今回も、電子版には掲載されておりません。

池内恵「不寛容への寛容はありうるか」『週刊エコノミスト』2015年4月7日号(3月30日発売)

取り上げたのは、ウィル・キムリッカ『多文化時代の市民権―マイノリティの権利と自由主義』(角田猛之・山崎康仕・石山 文彦訳、晃洋書房、1998年)です。

自由主義的な社会の中で少数派や移民の固有の文化・価値規範を尊重するためには、同時に、自由主義社会として、受け入れ可能な「異文化」の規範の限界はどこにあるかも示しておかなければならない。「不寛容への寛容」は自由主義社会を掘り崩し、寛容そのものを不可能にする。キムリッカの本を紐解けば、きちんとその部分を書いてある。

誰がどう考えても行き着く結論をとことん考え抜いておくことが政治哲学。

1990年代の英米圏の政治哲学が、いわゆる「フランス現代思想」と大きく異なるのは、言葉遊びではなく、実際に国際社会に生じる問題をどう調整するかという、実践的な問題に取り組んだこと。それは良くも悪くも英米圏が「米による単極支配」の中心に位置し、国際社会に生じてくる問題を最先端で認識し、取り組む主体としての意識を持っていたからだろう。

そのことは、フランスの「現代思想家」の、少なくともそれまで知識人の間の流行の先端にいた人たちが、国力の低下とともに(あるいはマルクス主義の失墜とともに)、世界を主導する責任感を失っていった(要するにスネちゃった)ことと対照的だ。フランスの知識人は普遍主義を掲げながら、反米なら非リベラルな思想も造反有理で歓迎、という方向にしばしば流れてしまう。世界に普遍的に出てくるアンチ・グローバリズムの尻馬に乗ってそこで指導性を発揮しようとするという意味での「普遍性」にしばしば堕している。英米が支える「欧米」の優位な地位にはただ乗りしながら、「反米」で第三世界にもウケようとするところがなんとも嫌な感じである。まあそういうところがイスラーム主義過激派などからも見透かされて、今やアメリカ以上に敵にされてしまっているわけだが・・・

(↑ ちゃんとした思想家もいるんだろうが、日本で紹介されたり振りかざされたりする「フランス現代思想家」はえらく頼りない人達ばっかりだぞ。もっと頼れる人たちをどんどん紹介してください)

キムリッカの次作の『土着語の政治: ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ』(岡崎晴輝・施光恒・竹島博之監訳・栗田佳泰・森敦嗣・白川俊介訳、法政大学出版局、2012年)も検討した。

しかし、カナダの事例が基礎になるので話が高度すぎるので、他の国について考えるときにはあまり参考にならない。カナダの場合、欧米系の複数の文化・言語集団が土着(先住民の問題をよそにおけば)の多数派と少数派として存在している上に、さらに新たに多様な民族・宗教的背景の移民を受け入れている。欧米系のホスト社会の中の多数派と少数派の間の関係をめぐる問題を検討した上で、多数派と少数派の両方のナショナリズムの存立しうる余地を検討した上で、新たな移民のナショナリズムをどうするか、といったカナダなどに固有の複雑な話になっているので、汎用性は『多文化時代の市民権』の方が高いと判断して、昔の本を書評しました。

【年度が変わっても連載は継続のようです。11回目以降もご期待ください】