2015年のグローバル・リスク予測を公開

昨日12月19日(金)に、私も参加させていただいた、「2015年版PHPグローバル・リスク分析」レポートが公開されました。

cover_PHP_GlobalRisks_2015.jpg

PHP総研のウェブサイトから無料でダウンロードできます。

2015年に想定されるリスクを10挙げると・・・

リスク1.オバマ大統領「ご隠居外交」で迷走する米国の対外関与

リスク2. 米国金融市場で再び注目されるサブプライムとジャンク債

リスク3. 「外国企業たたき」が加速する、景気後退と外資撤退による負の中国経済スパイラル

リスク4. 中国の膨張が招く海洋秩序の動揺

リスク5. 北朝鮮軍長老派の「夢よ、もう一度」 ―核・ミサイル挑発瀬戸際外交再開

リスク6. 「官民総債務漬け」が露呈間近の韓国経済

リスク7. 第二次ウクライナ危機がもたらす更なる米欧 -露関係の悪化と中露接近

リスク8. 無統治空間化する中東をめぐる多次元パワーゲーム

リスク9. イスラム国が掻き立てる先進国の「内なる過激主義」

リスク10. 安すぎるオイルが誘発する産油国「専制政治」の動揺

という具合になりました。果たして当たるでしょうか。

なお、1から10までに、「どれがより危険か」とか「どれが起こる可能性が高いか」といった順位はつけておりません。論理的な順序や地域で並べたものです。

このプロジェクトには2013年度版から参加させていただいており、今回で3年連続です。毎年10のリスクを予測して、長期間続けて経年変化を見ると、その間の国際政治・社会の変化が感じられるようになるのではないかな。中東・イスラーム世界関連は大抵2個半ぐらいの席を安定的に確保。中東関連に2つ割り当てるか3つ割り当てるかで毎回悩むところです。中東問題が拡散して、世界の問題になると帰って項目としては減ったりする。アメリカの外交政策の問題として別項が立って、その項目がかなりの部分中東問題であったりするわけですね。別に他の分野とリスクのシェアの取り合いをしているわけではありませんが、他の項目や全体とのバランスで毎回悩むところです。

2014年度版についてはこのエントリなどを参照してください

年明けにはEurasia Groupが恒例のリスク・トップ10を発表して話題になるので、その前に出してしまおうというのが当方の戦略。二番煎じのように見られると困りますからね。

Eurasia Groupの2015年版がでたら、ぜひそれとの比較もしてみてください。

リスクが高そうな分野の専門家が集まってリスクを予測しているうちに、年々本当にリスクが顕在化していくので全員がいっそう忙しくなり、皆死にそうになりながら、年末になると集まって議論をして文章を練っています。今年は特に、私も緊急出版の本の入稿とかちあったので、大変な思いをしまして他の専門家の方々にひたすら助けていただきました。それでもいくつも私の論点を取り入れてもらっています。取りまとめをして引っ張っていってくださった皆様、ありがとうございました。

こちらは本一冊の原稿や校正を戻したものの最後の詰めが残っており、もう一冊の共著もヤマ場に差し掛かり、さらに、ここ数年、一番力を入れてきた著作を、年末年始に脱稿せねばならない。

というわけで面会謝絶・隠遁生活の年末が始まります。

【寄稿】米国の学会の楽しみはブックフェア(週刊エコノミストの読書日記)

本の入稿の原稿を朝晩書いて送りの繰り返し・・・

一瞬の隙に、今週月曜日に出ていた記事を紹介しておかないと。

池内恵「ワシントンの学会の楽しみ「ブック・バザール」」『週刊エコノミスト』2014年12月16日号(12月8日発売)、73頁

週刊エコノミスト2014年12月16日

**今回も電子版には掲載されていません**

米国の中東学会で各大学出版・学術出版が出している新作を全部見ると、それだけで中東情勢の進展が理論的に構造的に頭に入る、という話。ほとんどそれを一番の目的に毎年参加するようにしている。

ささっと見て買ってきた中で、こんなテーマについての最新の本を紹介しました。

*クルド問題(イラク、シリア、イラン、トルコ各国の比較)
*クルド問題(特にシリアについて)
*ヤズィーディ教徒とは何か
*宗派主義紛争(中東全域の事例比較)
*宗派主義紛争(特に湾岸産油国でどうなるか?)
*レバノンのヒズブッラーが拠点とするベイルート南郊のフィールドワーク
*エルサレム問題(第一人者による詳細な図解多数付き研究書が発刊。これはすごいや)

取り上げた本の著者やタイトルは、誌面にてご確認ください。

それではごきげんよう。

【寄稿】「イスラーム国」は2015年の論点の「第70」だという・・・

11月13日に発売の、『文藝春秋オピニオン 2015年の論点100』に寄稿しました。

池内恵「「イスラーム国」とグローバル・ジハード」『文藝春秋オピニオン 2015年の論点100』2015年1月、216-218頁

文藝春秋2015年の論点100

電子版も発売されています。

むか~し確か「日本の論点」と呼ばれていた年鑑ムックですね。

プレスリリースによると

「毎年、その時々に社会的に問題になっている100の事柄を取り上げ、各分野の専門家が、それぞれについて800~1,200字程度の短い文章で分かりやすく解説、受験、就活のバイブル」

だそうです。

【寄稿】『ウェッジ』11月号に、グローバル・ジハードの組織理論と、世代的変化について

「イスラーム国」のイラクでの伸長(6月)、米国の軍事介入(8月イラク、9月シリア)、そして日本人参加未遂(10月)で爆発的に、雪崩的に日本のメディアの関心が高まって、次々に設定される〆切に対応せざるを得なくなっていましたが、それらが順次刊行されています。今日は『ウェッジ』11月号への寄稿を紹介します。

池内恵「「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード」『ウェッジ』2014年11月号(10月20日発行)、10-13頁

11月の半ばまでの東海道新幹線グリーン車内で、あるいはJRの駅などでお買い求めください。

ウェッジの有料電子版にも収録されています。

また、この文章は「空爆が効かない「イスラム国」の正体」という特集の一部ですが、この特集の記事と過去の別の特集の記事を集めて、ブックレットのようなサイズで電子書籍にもなっているようです。

「イスラム国」の正体 なぜ、空爆が効かないのか」ウェッジ電子書籍シリーズ「WedgeセレクションNo.37」

電子書籍に収録の他の記事には、無料でネット上で見られるものもありますが、私の記事は無料では公開されていません(なお、電子書籍をお買い求めいただいても特に私に支払いがあるわけではありません。念のため)。

なお、『週刊エコノミスト』の電子書籍版に載っていない件については、コメント欄への返信で説明してあります。

【寄稿】週刊エコノミストの「イスラーム国」特集(読書日記は「ゾンビ襲来」で)

クアラルンプール/セランゴールより帰国。会議終了後に、復路の夜便の出発まで若干時間があったので、伊勢丹やイオンが入っているモールの中を2時間ほどひたすら歩いた。撮った写真などを整理したらここで載せてみたい。

それはともかく、早朝に成田に戻ってからコラム×1、発表原稿(英語)×1、校正×2をメールやFAXで送信したので休む暇がない。

「イスラーム国」がらみで集中した原稿依頼に応えられるものは応えて、先月末までにどうにかほぼ全て終わらせて(まだ2本ぐらいある)マレーシアに出発したのだったが、それらの掲載誌が続々送られてくる。封を開ける暇もない。コメントなどはどこにどう出たのか確認するのもままならない。

とりあえず今週中に紹介しておかないといけないものから紹介。

昨日11月4日発売の『週刊エコノミスト』の中東特集(実質上は「イスラーム国」特集)に解説を寄稿しました。

また、偶然ですが、連載している書評日記の私の番がちょうど回ってきて、しかも今回は「イスラーム国」を国際政治の理論で読み解く、という趣旨で本を選んでいたので、特集とも重なりました。

エコノミスト中東特集11月11日号

池内恵「イスラム成立とオスマン帝国崩壊 影響与え続ける「初期イスラム」 現代を決定づけたオスマン崩壊」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、74-76頁

池内恵「「ゾンビ襲来」で考えるイスラム国への対処法」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、55頁

「イスラム成立とオスマン帝国崩壊」のほうでは、かなり手間をかけてカスタマイズした地図を3枚収録しています。これは他では見られませんのでぜひお買い上げを。

(地図1) 7世紀から8世紀にかけての、ムハンマドの時代から死後の正統カリフ時代、さらにアッバース朝までの征服の順路と版図。これがイスラーム法上の「規範的に正しい」カリフ制の成立過程であり、版図であると理想化されているところが、現在の問題の根源にあります。

(地図2) また、サイクス・ピコ協定とそれを覆して建国したトルコ共和国の領域を重ね合わせて作った地図。ケマル・アタチュルク率いるオスマン・トルコ軍人が制圧してフランスから奪い返していった地域・諸都市も地図上に重ねてみました。

(地図3) さらにもう一枚の地図では、セーブル条約からアンカラ条約を経てローザンヌ条約で定まっていった現在のトルコ・シリア・イラクの国境について、ギリシア・アルメニア・イタリアや英・仏・露が入り乱れたオスマン帝国領土分割・勢力圏の構想や、クルド自治区案・実際のクルド人の居住範囲などを、次々に重ね合わせる、大変な作業を行った。

「サイクス=ピコ協定を否定」するのであれば、地図2と地図3の上で生じたような、領土の奪い合い、実力による国境の再画定の動きが再燃し、諸都市が再び係争の対象となり、その領域に住んでいる住民が大規模に移動を余儀なくされ、民族浄化や虐殺が生じかねない。そのことを地図を用いて示してみました。

この記事で紹介した地図を全部重ねてさらにクルド人の居住地域を加えたような感じですね。頭の中でこれらを重ねられる人は買わなくてもよろしい。

* * *

それにしてもなんでこのような面倒な作業をしたのか。

6月のモースルでの衝撃的な勢力拡大以来、ほとんどすべての新聞(産経読売日本経済新聞には解説を書きました)や、経済誌(週刊エコノミストと同ジャンルの、ダイヤモンドとか東洋経済とか)が、こぞって「イスラーム国」を取り上げており、多くの依頼が来る。10月6日に発覚した北大生参加未遂事件以来、各紙・誌はさらに過熱して雪崩を打って特集を組むようになった。そのためいっそう原稿や取材の依頼が来る(毎日1毎日2毎日3=これはブログに通知する時間もなかった)。

忙しいから断っていると、あらゆる話題についてあらゆる変なことを書くようなタイプの政治評論家がとんでもないことを書いて、それが俗耳には通りやすいので流通してしまったりして否定するのが難しくなるので、社会教育のためになるべく引き受けようとはしている。しかしすべてを引き受けていると、それぞれの新聞・雑誌に異なる切り口や新しい資料を使って書き分けることは難しくなる。

私は純然たる専従の職業「ライター」ではないので、あくまでも「書き手」として意味がある範囲内でしかものを書かない(そのために、必要なときは沈黙して研究に専念できるように、大学・研究所でのキャリア形成をしてきたのです)。あっちに書いていたことと同じことを書いてくれ、と言われても書きにくい。

しかし今回の特集では、私に「イスラーム史」から「イスラーム国」を解説してくれ、との依頼だったので、非常識に〆切が重なっていたのにもかかわらず引き受けてしまった。同じ号に書評連載も予定されていたのでいっそう無謀だったのだが。それは時間繰りに苦労しました。

単に漫然と概説書的なイスラーム史の解説をするのではなく、メリハリをつけて、本当に今現在の問題とかかわっている歴史上の時代だけを取り上げる、という条件で引き受けた。

イスラーム国を過去10年のグローバル・ジハードの理論と組織論の展開の上に位置づける、というのが私の基本的な議論のラインで、それらは昨年にまとめて出した諸論文を踏まえている。これらの論文で理論的に、潜在的なものとして描いていた事象が、予想より早く現実化したな、というのが率直な感想。

しかしもちろんそれ以外の切り口もある。例えばもっと長期的なイスラーム法の展開、近代史の中でのイスラーム法学者の政治的役割の変化、イスラーム法学解釈の担い手の多元化・拡散、ほとんど誰でも検索一発で権威的な学説を参照できるようになったインターネットの影響、等々、「イスラーム国」の伸長を基礎づける条件はさまざまに論じることができる。

そういった幅広い視点からの議論の基礎作業として、現在の中東情勢の混乱の遠因となっている歴史的事象や、「イスラーム国」の伸長を支える理念・規範の淵源は歴史のどの時点に見出せるのか、まとめておくのは無駄ではないと思ったため、引き受けました。専門家なら分かっている(はずなんだ)が一般にきちんと示されていることが少ない知見というのは多くある。今のようにメディアが総力を挙げて取り組んでいる時に、きちんと整理しておくことは有益だろう。

漫然と教養豆知識的に「イスラーム史を知ろう」といって本を読んでも、現在の事象が分かるようにはなりません。「あの時こうだったから今もこうだ」「あの時と今と似てるね」といった歴史に根拠づけて今の事象を説明するよくある論法、あえて「池上彰的」とまとめておきましょうか、これは日本で一般的に非常に人気のある議論です。しかし多くの場合、単なる我田引水・牽強付会に過ぎません。娯楽の一つとしては良いでしょうが、それ以上のものではありません。かえって現実の理解の邪魔になることもあります。

「イスラーム国」への対処の難しさは、それがイスラーム法の規制力を使って一部のムスリムを魅惑し、その他のムスリムを威圧し、異教徒を恐怖に陥れていることです。

イスラーム法の根拠は紛れもなく預言者ムハンマドが実際に政治家・軍事司令官として活躍した初期イスラムの時代や、その時代の事跡を規範理論として体系化した法学形成期の時代にある。それらの時代についての知識は漠然とした教養ではなく、今現在のイスラーム世界に通用している規範の根拠を知ることになる。

その意味でまず「初期イスラーム」の歴史について知ることは有益。

それに次いで、オスマン帝国の崩壊期の経緯を知っておくことにより、今現在の中東諸国の成り立ちとそこから生じる問題、しかし安易に言われがちな代替策の実現困難さも分かるようになります。

初期イスラームとオスマン帝国崩壊の間の長大なイスラーム史は、現代中東政治の理解という意味では、極端に言えば、知らなくてもいいです。極端に言えば、ですよ。

* * *

さて、今回で連載6回目になる読書日記(前回までのあらすじはココ)の方は、ダニエル・ドレズナーの『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口功一・山田高敬訳、白水社、2012年)を取り上げた。

かなり前から今回はこのテーマとこの本にしようと決めていたのだが、それが中東・イスラーム国特集に偶然重なった。

「イスラーム国」は、概念的には、「国際政治秩序への異質で話が通じない主体による脅威」ととらえることができる。ドレズナーはまさにそのような脅威を「ゾンビ」のメタファーを用いて対象化し、そのような脅威に対する各国の想定される動きを国際政治学の諸理論のそれぞれの視点から描いて見せた。「イスラーム国」について各国がどう動き、全体として国際政治がどうなるかは、「ゾンビ」への対処についてのドレズナーの冗談交じりの大真面目な仮説を念頭に置くとかなり整理される。リアリストとリベラリスト、それにネオコンの視点を紹介したが、国内政治要因とか官僚機構の競合と不全とか、この本を読むと、「ゾンビ」を当て馬にすることで理論的な考え方が、やや戯画化されながら、非常によく頭に入る。ドレズナーは活発にブログなども書いていて時々物議も醸す有名な人だが(本来の専門は経済制裁)、本当に頭のいい人だと思う。

「イスラーム国」と中東政治の構造変動についての最近書いた論稿は、すでに出ている『ウェッジ』11月号、来週明けにも発売の『文藝春秋』11月号、『中東協力センターニュース』や『外交』など次々に刊行されていくので、出たらなるべく遅れないように順次紹介していきたい。

アンワルどうなる

「イスラーム国」日本人渡航計画騒ぎで10月のスケジュールは壊滅。

ひと月で原稿を4万字ぐらい書きました。時間的にも体力的にも墜落寸前まで行きましたが、ぎりぎりで大方終え、連休は会議のため日本脱出。少し休ませていただきます。

マレーシア・クアラルンプール行き。

ASEANシフトの一環です。恐れと憎しみが向かい合う欧米・中東を逃れて希望のアジアへ(ドミニク・モイジ『「感情」の地政学――恐怖・屈辱・希望はいかにして世界を創り変えるか』の受け売り。クーリエでの国際政治を読み解く10冊でも実は入れておきました。全部リストアップしてしまうと版元に悪いのでブログには書かなかったけれど)。

成田2サテライトJAL

中東に行くにはスターアライアンス系か湾岸系に乗るので、ほとんど行ったことのないことのないターミナル2のサテライトへ。JALは久しぶり。マレーシアやオーストラリアにはANA自社運航便がないんですね。

成田KLフライト1

上空は晴れ渡っていい気持ち。

成田KLフライト2

雲にもいろんな形がある。

窓閉めて、書評の〆切りが来ているイスラーム金融関連の本を読みながら(←マレーシアに行く途中で読むと気分が乗る)・・・

気づくと窓の下には・・・

マレーシアKL椰子1

もしかしてニッパ椰子?

金子光晴だ!

赤錆〔あかさび〕の水のおもてに
ニッパ椰子が茂る。
満々と漲〔みなぎ〕る水は、
天とおなじくらゐ
高い。
むしむしした白雲の映る
ゆるい水襞〔みなひだ〕から出て、
ニッパはかるく
爪弾〔つまはじ〕きしあふ。
こころのまつすぐな
ニッパよ。
漂泊の友よ。
なみだにぬれた
新鮮な睫毛〔まつげ〕よ。
〔以下略〕(金子光晴「ニッパ椰子の唄」より)

でもよく見ると妙に列になって生え揃っているし、沼沢地よりは地面も堅そうなので、ニッパ椰子ではなくて普通の椰子を植林したのかもしれん。まあいいか。
マレーシアKL椰子3

再び「ニッパ椰子の唄」より

「かへらないことが
最善だよ。」
それは放浪の哲学。
ニッパは
女たちよりやさしい。
たばこをふかしてねそべつてる
どんな女たちよりも。
ニッパはみな疲れたやうな姿態で、
だが、精悍なほど
いきいきとして。
聡明で
すこしの淫らさもなくて、
すさまじいほど清らかな
青い襟足をそろへて。
金子光晴『女たちへのエレジー』 (講談社文芸文庫)より

・・・・注釈をつけると金子光晴は、今なら若干メンヘラ気味と言われたかもしれない詩人の森三千代とくっついたり離れたりしながら将来の見えない放浪の旅を続け、こういった詩を書きました。

せっかくだからここで、金子光晴の破れかぶれ放浪自伝を、『マレー蘭印紀行』に加え、「三部作」の『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』を挙げておこう。



さて、空港に到着。お隣のゲートは、今年さんざんだったマレーシア航空機。

KL空港マレーシア航空機

タクシーでホテルに付いたらすぐにレセプション。

今回の主役はこの人(分かる人には分かるすごく偉い先生も写っています)。

アンワル1

アンワル・イブラヒム元マレーシア副首相。

ムスリム学生運動を指導して、マハティール首相に取り立てられ政権入り。後継者に指名されていたが、1998年のアジア通貨危機をきっかけにした内政危機でマハティールと決裂。

後継者に任命してくれたマハティールは一転、徹底的にアンワルを攻撃するようになり、それ以来、同性愛とか職権乱用とか、まあ普通に考えて濡れ衣だろうな、と見られる嫌疑をかけられては投獄され、風向きが変わると出てきて活動を再開する、という形でやってきて、今も裁判を続けている。

しかし野党を率いて、昨年5月の総選挙では総得票数では与党を超えるまでに伸長して、ナジブ政権を追い詰めている。

アンワル2

今回の会議は、絶妙に、マレーシア内政の政争にぶつかってしまった。蒸し返された「同性愛疑惑」裁判でアンワルに禁固刑の判決が下り、それに対する最高裁への上告審が先週10月28日から始まり、明日本人が最高裁に出廷して最後の弁論をし、それでも上告が棄却されて判決が確定すると、明後日にも収監されてしまうかもしれないという危機的状況にあります。

「「同性愛行為」事件でアンワル氏の審理開始 マレーシア最高裁、収監も」『産経新聞』2014年10月28日

この裁判の動向は各国で注目されていますが、とりあえずガーディアンから。

Anwar Ibrahim begins appeal against sodomy conviction, The Guardian, 28 October 2014.

アンワル出廷

政府寄りなのでまったく公平とは言えませんが(そもそものマハティールとの決裂以来ひたすら「疑惑」をかけられているという経緯を書いていない)、マレーシアの英字紙The New Straits Timesで、与野党の最近の法廷内・法定外での闘争の細かいところを押さえると、

Chronology of Datuk Seri Anwar Ibrahim’s sodomy trial, The New Straits Times, 27 October 2014.

Tension mounts as supporters of Anwar, Saiful camp, The New Straits Times, 29 October 2014.

Anwar’s appeal enters third day, defence continues with submission, The New Straits Times, 30 October 2014.

Anwar sodomy appeal: Prosecution to begin submission tomorrow, The New Straits Times, 30 October 2014.

アジアで政治家をやるのは大変です。それでも中東よりずっと平穏な気もしますが・・・

主役が会議の最終日には収監されてしまいかねないという劇的な展開になっております。

詩とか読んでノスタルジーに耽って一休み、という訳にはいかないようです。

最終日は本来は、イスラーム世界の民主主義の現状について、会議の結果を宣言文にして出す計画なのですが、別種のマレーシア内政に関わる政治的声明を出さねばならなくなってしまうのか。

欧米系のNGOが会議を仕切っているのであれば、非常にストレートに非難声明を出すのでしょうが、日本のやり方は内政干渉や上からの説教という形は取らないのが普通だ。しかし民主主義に関する会議を開いていて、最中に主催者が投獄されても何も言わないという訳にはいかないでしょう。緊張しますね。

スリン・元タイ外相・元ASEAN事務総長、ハビビ・元インドネシア大統領など、ムスリムでアジアの民主化を担ってきた人たちが会議の参加者なので、そういった人たちの発言が注目されます。

イスラーム世界の民主主義の経験を相互に共有し、達成点と問題点を洗い出して将来の方向性を見出していく、という今回の会議のテーマに、ある意味ぴったりの展開ですが、前途の困難さを再確認させてくれます。

イスラーム報道の適正化に向けて

週末に校了間際の〆切りが3本もあるという異常事態に追いつめられています。日本のイスラーム認識・報道にも関係する論説がそれらの一本なので、日本の新聞・雑誌も見ないといけない。

「イスラーム国」の実態をみて、またそれを擁護する人々の言説の実態も見て、少しずつ議論の焦点が絞られてきたように思います。とにかく文章を書く人は、中二病的超越願望を捨てて、今そこにある問題にどう取り組むか考えた方がいい。

良かったのがこの社説。

「社説:カナダ銃撃 「イスラム国」の幻想砕け」『毎日新聞』2014年10月25日東京朝刊

自由主義社会の国民メディアの社説が言うべき点を押さえている。

重要なフレーズをいくつか抜き出してみる。冒頭に*をつけたところが毎日の社説からの引用。段落を変えて私の補足。大学教員とか文章を扱って論理的に考えることが仕事の人でも本当に思い込みで正反対に受け止めるので、重要部分に下線も引いておく。

*「だが、そもそもテロに大義はない。「イスラム国」のせいで「イスラム教=恐ろしい宗教」といったイメージが独り歩きしているのも問題だ。同組織の異教徒虐殺や女性の性奴隷化などは決して許されないし、その激越な主張を支持する人は、16億人とされる世界のイスラム教徒の中で、まさに大海の一滴に過ぎまい。」

「テロに大義はないということでは合意できますよね?面白半分の人も本気の人も、大義はあるということであれば対話できませんよ」ということ。新聞社説でそこまではっきり言えないということなのか、そこまで覚悟が決まっていないのか分からないが、本当はそこまで言わないと、在特会とかも批判できなくなる。

そして「イスラム教=恐ろしい宗教」という偏見があってはならないのであれば、最低限「テロに大義はない」という点は合意してくれますよね?テロを正当化する人は16億人のイスラーム教徒のごく一部ということで良いですよね?という点は、やはりいうべきこと。少数のノイジー・マイノリティが「テロに大義はある」と逆説あるいは暴論で言ってお互いに盛り上がっているとしても、新聞社説が相手にして取り入れることではありません。

これはいわば自由社会における「踏み絵」です。「理解・寛容」は他者への暴力や支配を主張し行動する者には適用されないというのが自由社会の大原則です。「つまらない」かもしれませんが、それを主張し続けないと自由社会は維持できないのです。

*「にもかかわらず、日本を含む世界各国で「イスラム国」への合流を望む者が後を絶たないのは、この組織が世界の不合理に挑戦しているような幻想があるからだ。」

正しく「幻想」です。

やっと新聞でこう書くところが現れた。事実を突き付けられんと書けんのか、という気はするが、新聞に先を読む能力など期待してはいかん、ということなのだろうね。せめてこれまで書いてきたことを(暗黙の裡に)否定してでも態度を変えたことを評価しないといけない。

過激派が何か世界の不合理に挑戦してくれているような幻想に寄り掛かかる新聞社説や、過激派の暴力による威嚇をある意味強制力として味方につけて語る新聞社説は多かった。過激派があたかも「弱者」を代表しているかのようなすり替え情報を各所で挟むことでそれが歴然とした暴力による威嚇であることを漂白して、政権や社会全般を批判する素材に使う新聞社説は実に数多く繰り返されてきた。データベースなどで体系的にまとめると良いが、時間がないので誰かがやってください。

日本赤軍も連合赤軍も、今見ると「何でこれが」というぐらい好意的に新聞社説で取り上げられてきた。「彼らの手段はいかんが、言っていることは分かる。社会が悪い」といういつもの論法だった。

実際に「彼ら」言っていることは「俺たちは明日のジョーである」といったいかにも元気の溢れる若い人が少ない知識・情報から絞り出したんだろーなートホホな妄言だったりしたのに、新聞社説はそれはスルーして勝手な思い入れを盛ってきたのである。

だから今「イスラーム国」に共感・参加などと言っている若者の発言、というものについて私が「自由主義社会における愚行権の行使」であると書いているのは、「新聞記者もさんざん愚行権を行使していたな~」というのと同じ程度にしか批判していない(しかもきちんとその権利を自由主義社会に所与のものとして認めている。あの、権利を認めるとは、その際に刑法を逸脱しても罪に問われないと認めるということではありませんよ)。そういった私の論評に対して「若者に厳しすぎる」とか「彼らの内在的動機を理解せずに表面的過ぎる」といった批判は、読みが浅すぎるのと、歴史を知らな過ぎる。若者だけじゃなくて、昔若者だった今の年寄りも、昔も今もヒドかったんです。そもそも上から目線で私と若者の双方を理解したり諭したりする視点をそういう方々はどこから手に入れたのか。勝手に人間に序列をつけて上下関係で「上の立場」からモノを言えば下は従う、という疑似封建社会に未だに生きている人が多すぎる。そういうモノの言い方では自由世界で人を説得できないんです。そもそも、匿名で個人的に言ってきたり、陰で仲間でごそごそ言っているのは言論ではない(と言うと「言論がなんだ!俺様が貴様に意見してやってるのだ!」と完全に自由社会を否定する大人って多いですな。そういう意味で、日本の軍国主義化はあり得えないことではないと思っています)。

私が最初に書いた本(『現代アラブの社会思想』)の中で、日本赤軍の人たちが実際に言ったことと、日本の「意識高い」系の人たちが勝手に読み取ったことのギャップをからかったら、編集者から「読者に受け入れられないからやめた方がいい」と言われてかなり和らげた。あれでもかなり和らげてあるのです。本を買うのはそんな読者ばかりだった(と編集者が想定している)時代は、今と比べて人々のリテラシーが高かった時代だとは思わない。単に流行が違うだけ、というのと昔はメディアが本や新聞しかなかったから本や新聞に何でもかんでも詰め込んで大量に刷れば売れた。今は代替肢があるからそう売れないと言うだけだ。

*「たとえば20世紀初頭、列強が中東を恣意(しい)的に線引きしたこと(サイクス=ピコ協定)への反発は昔からある。だが、同協定に異を唱え、すでに独立した国々の中に力ずくで別の国をつくろうとする「イスラム国」もまた、恣意的な線引きをしようとしているのだ。」

ここも重要。「カリフ制」という未知なる観念に勝手な思い入れを投影して、国民国家を超えたユートピアを胸に抱いて共感してしまう人が、なまじ勉強した人に多いが、「イスラーム国」の本人たちが「国家」と言ってしまっているところで疑問を持たないといけない。イスラーム法学的には「国家」が出てくるのはおかしい。ひたすらカリフ制とだけ言っていなければいけないはずだ。

しかし彼ら自身の宣伝文書でひたすら「国家」と言って続けているのである。このあたりが、結局はイラクとシリアでの武力闘争と領域支配を担っているのは旧バアス党幹部なんだろうな、と強く推測される理由だ。

「イスラーム国」はどう見ても領域国民国家を作ろうとしている。近代の国民国家の原理であれ実態であれ、超越などしていない。単に「国民」の定義をスンナ派イスラーム教徒(のうち自らに従う人々のみ)だとしているだけです。既存の秩序を破壊することはできても、新しい理念に基づく秩序を生み出せるとは思えない。

「民族主義に基づいて国民国家を作ったから弊害として民族対立とか国家を得られない民族とかが出てきた、民族浄化や住民交換などの悲劇が起こった」という批判をするのはいいのだが、だから歴史の勉強でうろ覚えに知っている「特定の宗教を上位の規範とした帝国」に戻れ、というのは単なる退化でしょう。国民国家で辛うじて提供していた権利すら各個人から剥奪され、劣位に置かれることを認めるか去るか、そうでなければ殺されても仕方がない、という境遇に落ちる人々が膨大に出てくる。それで平和が達成されるかというと、客観的には達成されないが、支配宗教の側の主観では、異を唱える人がいなくなれば平和になる、というのだから、やはりその過程で大戦争と民族浄化あるいは大規模な住民移動が不可欠となる。しかもそのようなジェノサイドは、平和を達成する過程でのやむを得ない事象として正当化されてしまう。

「国家」を構成する「国民」が民族ではなく宗教に基づいているというのは特に珍しいことではない。旧ユーゴスラビア連邦の諸民族構成のうち一つが「ムスリム人」だった。ボスニアの「ムスリム人」とセルビア人とは人種的形質や言語は元来はほとんど変わらない(ただしムスリムと正教徒は基本的には通婚しない、というか通婚したらイスラーム法上自動的にイスラーム教徒になるので、徐々に形質的差異が出てきていてもおかしくはないが)。宗教的差異が民族区分とされたのである。社会主義というイデオロギー的紐帯と、それを背後で強制するソ連の存在がなくなったら、そのような民族単位での独立闘争が始まった。

そのムスリム人がボスニアを独立させようとして、戦争になった、というのと、現在の「イスラーム国」の領域支配は同種のもの。といってもバルカン半島ではイスラーム法学はほとんど通用していないから宗教や教義を持ち出して対立や殺人を正当化はせずに、単に民族が違うと言って殺し合った。イスラーム法学が通用していたらそんなことはなかったかというと、そうではなくて、イスラーム法学的にボスニア領内のセルビア人(キリスト教徒)は劣位の存在に置かれるが我慢せよ、それを認めないなら討伐だ、と言う人たちが現れて、いっそう紛糾したことだろう。

なおボスニア紛争やコソボ紛争では、欧米はムスリム人・ムスリム系住民の側にかなり肩入れして、現地では欧米への感謝の念は強いのだが、イスラーム世界全体ではこの点はまったく考慮されず、常に「欧米がイスラーム世界を攻撃している」ということになっている。

*「こうした現状に「否」を突きつける主体は、あくまで中東とイスラム圏の国々である。ネットを駆使して自らの主張を発信する「イスラム国」に対し、中東の国々やアラブ連盟(加盟22カ国・機構)、イスラム協力機構(加盟57カ国・機構)などの組織はもっと反論していい。」

これも言わなければならない点だ。というのは、こういった事象が持ち上がるたびに、イスラーム諸国の知識人も、アラブ連盟など国際機構も、「イスラームに対する偏見を持つ欧米」を非難するのみで、実際に紛争を起こす人たちの根底にある思想が、イスラーム教に基づいてどう間違っているのかを言わないからだ。結局、「欧米が悪い」という印象だけが残り、新たな過激派の理屈にも取り入れられてしまう。

「それでもカリフ制の理念の方は正しい!「イスラーム国」をやっている連中が間違って解釈しているだけだ」と論じたい人は、「イスラーム国による殺害や奴隷化は支持しない」とはっきり言うべきだしその根拠を示すべきだ。つまり「正しいカリフ制の理念ではこのような根拠から異教徒の殺害や奴隷化は禁じられている」とイスラーム法学の理念を明示して主張しなければならない。それも欧米や日本に対するだけでなく、「イスラーム国」側に対して言わないといけない。

もちろん、「イスラーム法学上は多神教徒の征服や奴隷化は正しい行為なのです。そうならないように改宗するなり立ち退けばいいのです」と思っている人はそう主張すればいい(ただし本当に立ち退かせたり、立ち退かない人を殺害する行為を賞揚した場合は刑法上の何らかの制約が課される可能性はあります)。

イスラーム法学的な説得をしたくない、する必要がないという考えの人は、「イスラーム法学の適用やカリフ制の復活は現代において必要がない、違法である」といった議論を正当化して示さないといけない。説得的な根拠を出して、欧米人相手にではなく、「イスラーム国」に共感したり、「イスラーム法学」の有力な規範を提示しているからといって黙認したりしているイスラーム教徒に対してきちんと示すべきだ。もっとも現在のイスラーム世界で、イスラーム法学は効力がないと議論するのはよほどの勇気がいる。だからやらないのだろう。

なお、現状では数少ないイスラーム法学者からの「イスラーム国」批判は、例えば異教徒の迫害と奴隷化について、「ヤズィーディー教徒も啓典の民だ」と反論するというものなので、外から見ると、反論になっていない。「イスラーム国」がDabiqなどでヤズィーディー教徒を「啓典の民ではない」と主張していることに対してのみは一応の反論になっているが、ではヤズィーディー教徒も啓典の民だとするイスラーム法上の根拠は明確ではない。単に各国の政府に近い法学者が政治的必要から個人的見解で断定しただけ、というのではイスラーム法学的にはほとんど説得力がない。

「イスラーム国」と同じイスラーム法学上の「啓典の民」という観念を持ち出してしまっている以上、「イスラーム国」のより明確な明文規定や有力なイスラーム法学書に則った議論の方が有利である状況は代えがたい。むしろ議論を強めているのではないかとすら思う(結果的に、多くのイスラーム教徒が「イスラーム国」批判のイスラーム法学者たちの論拠の希薄さに愕然として「現代においてイスラーム法学に依拠したら駄目だ」と思うようになることを期待しているとすれば、穏健派イスラーム法学者たちのものすごい捨て身の作戦だと思うが、たぶんそんなことではないと思います)。

「啓典の民」という概念は異教徒を平等に扱うものではない。少なくとも自由主義社会における宗教間関係にはなじまない。

「啓典の民」という観念は、あくまでも優位な側からの劣位な側への恩恵としての生存の許可というロジックなので、支配しているイスラーム教徒の側が「啓典の民が歯向かった」と判断すれば即座に「改宗するか、去るか、討伐か」という三択を突き付けることが正当化されてしまう。「啓典の民だから許せ」というのは、「イスラーム国」批判になっていないのである。「イスラーム国」としては「啓典の民として認めてやるから寛容に接してやると告げたのに、異教徒が悪態をついたから追放・殺害・奴隷化した」と言えばいいだけになってしまう。水掛け論にすらなっていない。「啓典の民だから許せ」という議論は「イスラーム国」の立場を補強しているとすら言える。

近代思想史において「穏健派」のイスラーム法学解釈(あるいはイスラーム法擁護論)が、「過激派」のジハード論を結果的に支えている構造については、池内恵「近代ジハード論の系譜学」(日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁)で書いておきました。

なお、ユースフ・カラダーウィーをはじめとした主要な「穏健派」「中道派」とされてきたイスラーム法学者も、この「啓典の民の生存を認めるからイスラームは寛容だ」という説を定説としてきたので、短期間に異教徒との平等説でイスラーム法学を組み替え直すことは難しいだろうと思う。

これについては、池内恵「「イスラーム的共存」の可能性と限界──Y・カラダーウィーの「イスラーム的寛容」論」(『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、2004年、初出は『現代宗教2002』2002年4月)に詳述してあります。

なお、これと対になる論文が、池内恵「文明間対話の理論的基礎──Ch・テイラーの多文化主義」で、同じく『アラブ政治の今を読む』に収録してあります。(この本は絶版とは聞いていないが、中央公論新社も一生懸命売る気がないんだろうね)

基本的には、この時考えていた理論的な対立点が、現在「イスラーム国」をめぐる問題として表出しているものと考えていますので、世代は新しくなっても思想的な問題は変わらないのだな、と実感しています。また、それをイスラーム法学上批判しきれないイスラーム世界の問題として、あるいは勘違いして自由主義社会の原則を放棄して共感する日本のメディア・知識人の論調としても現れてきているものと思います。

それにしても、「イスラーム教の理念は自由主義の原則とは合わない部分がある」ということは、イスラーム教徒の側はごく当然に主張する、当たり前のことです。極端に欧化して生活の基盤を欧米や日本に移した人を除けば、大多数のイスラーム教徒はそのように明言します。ただ、留保をつける場合はあります。その場合は、「イスラーム教こそがより優越した自由主義を実現します。イスラーム教では正しい宗教であるイスラーム教を信じる自由があります」と主張します。これが教科書的な回答です。カラダーウィーのような有力なイスラーム法学者が定式化してくれている欧米との対話・教義論争の作法としてすでに定着しています。

ですので、この点を指摘することは、「イスラーム教を揶揄する」といったこととは全く違うのです。単に、日本の常識とは違う別の基準があると指摘しているだけです。そのことを日本の、しばしば「自由」を主張する、往々にして「反体制」に立っていると自覚しているらしき人々が理解しておらず、このような指摘を行なうことを非難する側に回るのは、自分の認識の前提を疑う視点を持たず、他者・他文化に対する想像力を欠いているからではないかと観察しています。「隣の芝生は青く見える」というの異文化理解でも寛容でもない。

逆に、イスラーム教は「自由主義が絶対ではない」と主張しているのだと受け止めて、安易に「そうだそうだ」と同意し、「だから欧米みたいな自由などいらない」という自己の信念を補強したものとのみ受け止める権威主義的な人も日本社会には多くいます。そういう人は「イスラーム?遅れた国の遅れた宗教だろ?」といった偏見を露骨に持っている場合が多くあります。このような人々は、自分が享受していると思っている自由がいかなる根拠に基づいているのか忘れがちであると観察しています。

要するに社会における議論は、このような不完全な認識を持った、それぞれの思い込みを抱え込んでガンコに変えようとしない人々の間で行われるので、理想社会はそう簡単に成立しないのです。

思想研究は、そのような不完全な社会で、現に行われている議論を整理して、適切な方向に向けていくささやかな作業と考えています。「あの人はスゴイことを言っている!」と一部の人にカルト的に尊敬されたいのであれば思想研究はやらない方がいいと思います。

陰謀論に花束を

今日の、BSスカパー「Newsザップ」出演では、12時から午後3時までずっとスタジオに座りっぱなしだったので、極度に疲労しました。こんなことはしょっちゅうやってられませんね。

Newsザップ

おまけに、今日に限って、米国ダラスの病院内でのエボラ出血熱の二次感染の事例が生じて米国が浮き足立っているので、CNNは特別編成でアマンプールの番組が取り止め。BBCもトップニュースでこの話題に。

毎時0分や30分の定時ニュースで、シリアやイラク、イエメンやリビアの話題は省略されるか、後の方(毎時20分ごろや、50分ごろ)に回されたので、ザッピングの対象にならず。

それでも中東の話をしましたが。

レギュラー・ゲストのアーサー・ビナードさん。

詩人。

国際政治については、典型的な米国超リベラル派らしく、陰謀論炸裂。

まあ中東政治に陰謀はつきものだけど、その多くは米国主体ではなく、現地の諸勢力が地域大国と域外大国とNGOとかを盛大に巻き込みながらやっているのだから、なんでも米国が動かしていると言っていては、中東は分かりません。

中東に盛んな陰謀論とは別に、もっと現実的で厄介な陰謀がたくさんあるのです。それを読み解けないと、手玉に取られてしまいます。

あまりにひどい時はこちらも重ねてどのように見ればいいかを解説しましたが、思想・言論は自由なので、たいていはスルーして放置しておきました。

詩人なんだからどうぞ奔放に。

ただし、メディアがそういう詩人の政治論と私の分析を同列に扱って、かつ一般読者・視聴者に「印象がいい」「良い人」に見える(とメディアが考える)方に軍配を上げるような扱いをした時には、私は徹底的に怒るけれどね。

それは私にとって譲れない倫理の問題だから。

今から10年前のとある事件(それは今イラクとシリアで生じていることに、紆余曲折ありながらつながっている)についてのとあるメディア企業のやり方については、今でも、許しも忘れもしていない。『イスラーム世界の論じ方』の注を詳細に見ていただければ、ぼんやりと何がどうだったか分かるかもしれない。

ビナードさん、最近うちの父といくつも一緒に仕事してくださっているらしい。うちの父も政治の話になると、まあビナードさんと似たような感じのぽわっとした現実感のなさがある。

ただし父は、人間社会の本質に関しては、政治の制度や社会構造に関する情報は恐ろしく皆無なのにもかかわらず、ある面で異様に勘が鋭い。もし理屈で説明させれば陰謀論みたいなものになってしまうのだろうが、そういうことは人前で決して言わない防衛本能は鋭い。なので、明らかにおかしいだろ、という政治的発言をしたのは見たことがない(いや、探せばいろいろあるかもしれませんが・・・)。その辺、世の文系知識人とは全く違うと思う。それがどこからきているのかは私にもよく分からない。文学だ学問だ云々というよりももっと深いところでの人間としてもって生まれた知覚・防衛本能なんだろう。外当たりはいいけれども、あの人は、お人よしではないですよ。

ビナードさんがしゃべっている間に浮かんだポエム。

みえるもののむこうがわに
みえないものをみるのはいい
みえないものだけをみはじめると
なにもみえなくなる

さとし

お粗末でした。早々に宗教政治思想に路線転換しておいてよかった~

【断然】ちくま新書の一冊を選ぶなら『もてない男』だ~忙中閑あり~

一本原稿が終わったので、次の仕事に出かける前の一瞬の間にエントリを一本載せるか。

「ちくま新書の創刊20周年記念「私が選ぶ一冊」 ちくま新書ブックガイド」に短文を寄せました。(この頃に書いていた

無料のパンフレットです。大きな書店に行くと置いてあるかもしれない。9月に出ているからもうなくなっている可能性もあるが、しかしいろいろイベントとかやっているからまだあるだろ。

編集部のアンケートに答えて、いろんな人が【例1】【例2】、自分にとっての「ちくま新書の一冊」を挙げるという企画。

私が選んだのは──

小谷野敦『もてない男』(1999年)

でした──


Kindle版も出てるらしい。

「一冊選ぶ」というのはけっこう難しい。絶対評価でどの本が一位なんてことはあり得ないのだから、基準を設定して、それに照らしてこれが良い、と書いていくのが筋だろう。評者のそれぞれの基準のセンスと審美眼が問われる・・・という訳でこういうアンケートはけっこう鬼門なのです。無視してしまうのが一番かも。そうはせずに編集部の挑戦に答えた116人がそれぞれの理由で「一冊」を挙げている。パラパラめくっているとなかなか面白い。

私は五十音順で父と叔父に挟まれておりまして、手堅い地味な研究者らしく、一冊選ぶ際の基準と定義から入っている。

「新書の利点は、①学識深い研究者による入門、②新進の学者が新説・問題作をあえて世に問う、のどちらかである場合に、もっとも生かされると思う」

という基準を私が勝手に置いて、その基準からすると、①と②を両方備えた本として、『もてない男』が最適なんじゃないの?

一般論として新書はこういうもの、といった具合のことを書いていますが、含意は「ちくま新書」はこういう方面に利点があって、それがもっとも生かされている本はどれかな?と議論しているわけでがあります。「新書の一冊」ではなく「ちくま新書の一冊」なのだからね。そういう意味でちくま新書らしい「一冊」はこれだよね、というところに話が合う編集者とは仕事がしやすい。

もっと簡単に、まったく唐突に「ちくま新書で一冊だけ思い出すタイトルは?」と聞かれたらどの本を思い浮かべるか?

多くのおじさん本読みにとってはこれじゃないのか。意外に他の人が挙げていないな。正直に答えなさい。

さらに実は「一冊」というのも有意な指標でもある。これが「10冊」だったらどうか。そこには学術的な意義や完成度の相対評価とか、あるいはすごく売れて影響力があるといった数値的な要素も、そしてどの分野に何冊を振り分けるかといったバランス感覚、政治的判断も加味されてくるだろう。

場合によっては、「一冊」なら選ぶ本を、「10冊」なら選ばないかもしれない。いえいえその小谷野先生の本はベスト10でももちろん入れますよお願いしますよどうかひとつよろしくそれは。

~アンケートに答えて図書カード3000円貰いました~

『週刊エコノミスト』の読書日記は、いったい何のために書いているのか、について

『週刊エコノミスト』に連載の読書日記、第5回が発売になりました。

池内恵「帰省して「封建遺制」を超えた祖父の書棚へ」『週刊エコノミスト』10月7日号(9月29日発売)、67頁

エコノミスト2014年10月7日号

今回はちょっと私的なことを書いてみました。紀行文風ですが、実際には今後ゆっくり書いていきたいことの種を方々に仕込んであります。かつての日本の学問と「養子」という制度の関係とか、明示的ではないのだけれども、私的なところを出発点に、地下茎のように伸ばしていきたいテーマがあります。直接的には9月の連休に、祖母のいる金沢に久しぶりに帰った際に見たものや読んだものを扱っているのですが、本当はいくつかの発展させたいテーマについての布石です。

『週刊エコノミスト』の「読書日記」欄は、連載と言っても5人の執筆者が順に担当するので、5号に1回廻ってくる私の回を続き物として認識している人は、このブログを丹念に読んでくれている人だけだろう。

5回目になって、どうやら節目のようなので、この連載(私の回だけの「続き物」としての)で何をやろうとしているのか、改めて書いてみよう。

本人の意識としては、壮大なパズルの小さな小さなピースを一個ずつ、各所に置き始めた段階なので、自分以外には全体像は見えないと思う。

まずこれまでの連載を列挙して振り返ってみたい。ブログで毎回告知してきたので、エントリへのリンクを付しておこう。

(-1)読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)

4月1日に、今年度の決意のような形で、この連載の趣旨を書いておいた。多くはここですでに書いてある。連載が始まる前に、カウントダウンのように2回予告のエントリがある。

4月1日のエントリでは、書評(あるいは読書日記)という、日本の新聞・雑誌に確立した様式・制度から、非常に逸脱したものを意図していることを記してある。

以下要点を《 》内に再録してみよう。

まず、「書評はもうやりたくない」と書いてある。

《『書物の運命』に収録した一連の書評を書いた後は、書評からは基本的には遠ざかっていた。たまに単発で書評の依頼が来て書くこともあったけれども、積極的にはやる気が起きず、お断りすることもあった。たしか書評の連載のご依頼を熱心にいただいたこともあったと思うが、丁寧に、強くお断りした。》

その理由はいろいろ書いておいたが、一番の理由はこれ。

《新書レーベルが乱立して内容の薄い本が乱造され、「本はタイトルが9割」と言わんばかりの編集がまかりとおる出版界の、新刊本の売れ行きを助けるための新聞・雑誌書評というシステムの片棒を担ぐのは労力の無駄と感じることも多かった。なので、書評は基本的にやらない、という姿勢できた。》

それでは何故今回やる気になったかというと、次のような条件を出してもなお編集部が呑んでくれたからです。

《「新刊本を取り上げるとは限らない。その時々の状況の中で読む意義が出てきた過去の本を取り上げることも読書日記の主要な課題とする。さらに、読書日記であるからには、外国語のものや、インターネット上で無料で読めるシンクタンクのレポートやブログのような媒体の方を実際には多く読んでいるのだから、それらも含めて書く。その上でなお読む価値のあるものが、日本語の、書店で売られている、あるいはインターネット書店で買うことができる書物の中にあるかどうか検討して、あれば取り上げる」。》

これは、日本の出版慣行・制度から見ると、とんでもないことを言っています。

まず「新刊を取り上げる義務はない」。

これは出版業界では、不穏・不遜な発言です。

新聞・雑誌など商業出版での書評という制度は、基本的に「新刊」を取り上げることに、経済的な意義があります。書評で取り上げられた本を取次が積極的に本屋に卸し、本屋は良い場所に並べる。そうすると売れる。自治体の図書館も、購入する際に書評を参考にする。

新刊でないものを取り上げると、在庫がなかったり、取り寄せるのに時間がかかったりして、本屋で目立つところに置かれるまでにタイムラグが出るので、あまり効果がない。

書評欄がある新聞・雑誌には、出版社は新刊を無料で送ってきたりして便宜を図る。書評欄が充実している新聞・雑誌には出版社は本の広告も出す。そうやって新聞・雑誌と出版社の間の持ちつ持たれつの関係ができ、取次や本屋や自治体図書館を含めた商売のサイクルができる。

書評の書き手とは、そういう商売のサイクルの一端を担っているのです。純然たる商行為の歯車である、というところは否めません。

その立場を拒否する「新刊は取り上げないかもよ」という条件は、「じゃ連載は止めてください」と言われても仕方がないものです。

逆に私から言えば、現在の新聞・雑誌の媒体で、報酬面なども含めて、従来型の制度の末端の「歯車」としての書評の書き手になるインセンティブがあるかというと、全然ありません。

ですので、まず「新刊本でなくてもいい」という条件は、譲れないものです。なんでたいしたことがない本を苦労して紹介しなければならないのか。その時間があれば他のことに頭を絞れます。

しかしそれだけにとどまらず、上記の引用を見ていただきたいのですが、私は「日本語の本でなくてもいい」という条件を付けています。

これは日本の出版業界では、もはや宇宙人のような発言です。

出版の技術として多言語対応が困難であるだけでなく、言語の壁は、日本の新聞・雑誌・出版の世界を守る非関税障壁のようなものです。

しかし英語での世界の議論がまるで存在しないかのようにふるまえる日本の言論空間・知的社会教育の行き詰まりと限界は、言語で守られたメディア・出版業界が固定化してきたものでもあり、書評欄という制度もそれを支える一つの部分でありました。その意味で、日本の言論をましなものにするには、多言語空間へのインターフェースを作る必要があります。別に日本人同士が英語でやり取りしなくていいですが、英語圏で先進的な知見については、タイムラグなく同期していける仕組みが必要です。

しかし読書日記で、あるテーマを取り上げ、「これについては日本語では読むべき本がないので、英語で最新の○○、シンクタンクの報告書××を紹介します」と書いた場合、英語の本はすぐに読みたければアマゾンで注文するでしょう。いっそアマゾンの電子書籍を買ってダウンロードしてしまうかもしれません。英語圏のシンクタンクの報告書はほぼタダでダウンロードできます。

そうなると、この書評によって、日本の出版社にも、取次にも、本屋にも(あと著者にも)、一円もお金が落ちません。税金すらおそらくほとんど日本政府に入らないでしょう。

そうなると、日本の国民経済を死守する立場からは、そのような書評は、おおげさに言うと、「非国民」扱いをされかねないものです。

しかし、国民の知的水準の向上という意味では、この書評には公益性があります。日本の非関税・言語障壁で遮られた空間で、一流でない知的産物を国民が売りつけられて消費している場合と、最先端のものを外国語であれ苦心して求めて摂取している場合とで、どちらの国民が文化的に進んでいるでしょうか。後者でしょう。

出版やメディアが「単なる商売ではない=何らかの公益性がある」とみなすならば、必要なときは後者の経路を可能にする、積極的に支えるものでなければなりません。それを排除するカルテルを結んだりするのであれば、その業界は公益性のない、単なる私益・利権集団ということになります。そういうものがあってもかまいませんが、税制優遇とか、規制による保護とか、かつて行われた政府資産の優先的払下げ割り当てとか、再考しないといけない面が出てくるでしょうね(ギラリ)。

英語の本を紹介しても日本の企業に一円もお金が落ちない、という状況は、そもそも洋書を取り扱う日本の書店が長くカルテルを結び、もっぱらの書い手であった大学に対して法外なレート換算で売りつけ、それを買わざるを得ないようにする役所の書類制度に守られてきたからです。そこに安住している間にアマゾン黒船がやってきて、個人で洋書を買いたい人向けに便利で安価なシステムを提供し、新たな市場を開拓したうえで独占してしまいました。誰が悪いかというと、まあ税金払わないようなシステムを作るアマゾンも悪いですが、カルテルを結んで役所と結託していた洋書屋さん業界がより悪いのです。品揃えも悪く持ってくるのも遅く高い、というどうしようもないものだったのですから。

ですので、そういった業界のしがらみは気にせず、外国語の本もこの読書案内では紹介する。本屋さんは洋書の読書案内を見て洋書コーナーを充実させればいいじゃないですか。それをせずに、「日本語の本を紹介しないこのコーナーは駄目だ」と出版社・本屋が言って、編集部が「そうでございます。これからは日本語の本を書評させますからどうかひとつその」とか言って何か言ってくるようになったら、私としては執筆する意味はなくなります。

もちろん本当は日本語の本を紹介したいんですよ。でも、あるテーマについて、今最も適切な本を示す、という最低の基準は維持しなければならない。単に日本語の市場に出ているから宣伝します、ということをやらないといけないのであれば、あのそれは非常に純然たる商行為ですから、現在の日本の原稿料相場では私は書けませんよ。絶対やらない、とは言わないが「要相談」という別の話になってしまう(=やりませんよ)。

(0)『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)

さて、このようにすでに本質的なところは書いてしまっていたのだが、連載第1回の前にもう一度告知した。私の初回の発売日が1週違っていたから。原稿の締め切りからタイムラグがあるんですな。それがウェブ媒体に慣れた現在ではもう想像できなくなっている。報道記事はぎりぎりまで締め切りを延ばすのだろうけど、連載の文化欄は早めに原稿を取っておくというのが新聞・雑誌業界の慣行。でも私の場合は書評でも時事問題を絡めたりするので、あんまりタイムラグがあると書きにくいという問題はある。まあなんとかなるが。

このように現存の制度の「悪いところ」をいろいろ書いてしまいましたが、わざわざ時間と労力を使って読書日記の企画に踏み出そうとするのですから、もっと肯定的な目標があるのです。英語圏の議論やウェブのコンテンツにも視野を広げた読書日記の新企画を、あえて日本語の経済週刊誌の紙の媒体でやるというのも、考えがあってのことです。

まず、文章技術としては、制約がある方が面白い。

従来型の新聞・雑誌の書評・読書日記を、日本語の新刊本についてやるだけなら、流れ作業のようなものです。そこではもう能力の発達は望めない。面白い本に巡り合うよりも、無理に推薦する労働の苦痛ばかりが降ってくるでしょう。

また、逆に、ウェブで書くなら、多言語だろうがリンクだろうが自由自在に貼れます。好きな本も選べます。しかしウェブの媒体であれば読んでくれる人は、すでに「こちら側」にいる人です。リンクを踏んで英語や、やむを得ない場合はアラビア語などに飛んで行かされても苦にしない人が読んでいるのです。

それに対して、紙の媒体をなおも手にしてくれる人は、ある意味得難く、貴重です。ウェブや英語にはなかなか行かないけれども、紙の本には自然にすぐに目を移してくれる人たちなのです。そうであれば、必然的な制約があっても、紙の媒体で英語にもウェブにも架橋する場所をもし作れれば、そういった読者がさらに知見を積んで、より高度な内容を本に求めるようになるかもしれない。そうなって初めて、書き手として、あるいは読み手・買い手として、より心地よい空間が生まれてくるかもしれない。

誇大妄想気味にこのような課題を設定して、連載に向かいました。

(1)読書日記1「本屋本」を読んでみる『エコノミスト』5月6・13日合併号

さて、前置きが長くてやっとたどり着いた連載第1回ですが、ここでは本屋賛歌。

モノとしての本と本屋に、どのような利点があるのか。これについて数多の「本屋本」からセレクトして、

福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書)
内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)

を選びました。

いずれも、紙の本と本屋を絶対視していない。ウェブに面白いものはいくらでも転がっており、本屋でも新刊本屋と古本屋の両方の選択肢があり、図書館と言う選択肢もあり、という前提の上で、あえてなお紙の本と本屋にはどんな意義があるのか、積極的に問い直してみる。前向きの本です。

(2)週刊エコノミストの読書日記(第2回)~新書を考える

しかし第2回は暗転。実際にそこいらの本屋に行ってみると、読みたい本にたどり着けない。ジャンクフードのような刹那的な本が溢れている。だから、この回は良い本を推薦するという形式ではない。ジャンクフードのジャンクフードたるゆえんはどのような本に現われているか。

だいたい日本の書評の慣行は、批判してはいけないというものです。新聞の書評などでは、特にその縛りがあります。なぜって、すでに書きましたが、商売の歯車だからです。良いものを売れるように一肌脱ぐのは大歓迎ですが、良くないものまでなんで宣伝しないといけないのか、さっぱり分からない。いえ、ぶっちゃけた話、「新聞に書評書いてると、知名度上がりますよ、本も送ってくるようになりますよ」というのが誰も言わないけど過酷な労働条件を呑ませるために提示された給付の暗黙のリストの中に入っているのですが、実態としてこの効果はもはや疑わしい。ちゃんとした文章ならブログで書いている方が効果はあるんじゃないかな。誰を相手に書くかにもよるけど。

まあしかしジャンクフード紹介、では読書日記欄がすさむので、ちょうどその時、別件で頼まれていた、ちくま新書のリストを全部見て1冊お気に入りを紹介という仕事を流用して、リストを見たら載っているこんなにいい本、という趣旨で新書の良書を列挙しておいた。これについてはまた別のところで書こう。

(3)読書日記の第3回は、モノとしての本の儚さと強さ

第3回は、今度は電子書籍論。ただし、電子書籍のパラドクス。

肝心な時に肝心な本が手に入らない。国際情勢が激変して、ウクライナ問題とか、「イスラーム国」とか、想像もしないことが生じたときに、粗製乱造の解説本は出るかもしれないが、本当のことをずっと前に書いていたような本は、絶版・品切れで市場のどこにもなかったりする。

じゃ、全ての本が電子書籍でも出ていれば、手に入らなくなる可能性もないよね?

でもよく考えてみるとそうでもない可能性があります。

人はなぜモノとしての本を買うのか。前提として、「買っておかないとなくなってしまうから」というものがあります。紙の本は、モノである以上、可能性としては水に濡れたり火にくべてしまえば損壊・消滅しますし、売れてしまえば市場になくなる。高価な学術書になると、もともとの部数が少なく、高いので専門家にしか売れないとなると増版もされない。

逆に言えば、だからこそ買っておくわけです。

電子書籍もあるから必要な時が来たらいつでも買えるよ、ということになると紙の本は買わなくなるでしょう。そして、電子書籍も結局買わない。なぜならば、「必要な時」が認識されるような本はごく稀だから。

だったら本って、出なくなりますよね・・・・

(4)週刊エコノミストの読書日記(第4回)学術出版の論理は欧米と日本でこんなに違う

じゃあどうしたらいいんだ、と考えるときに、参考になるのが英語圏の学術出版。学界・大学出版・大学図書館というトライアングルが強固に出来上がっていて、そこで書き手の質が維持され、出版社への利益が確保され、必要な読み手によるアクセスが保障される。必要な読み手とは必ずしも世間一般の読者ではない。大学院生を含めた専門家です。

一般読者の選好を基本的に意識せずに本を作り、売り、届けることができる英語圏のシステムは、一定の規模の学術出版の世界を成立させると共に、社会に知を広めるのにも役割を負っています。ただし、一般読者が単に興味を持って読みたい、という時にフレンドリーかと言うと、そうではないでしょう。一定のディシプリンを身につけていないと読み解けないようなルールの下に本が書かれ、大学院に所属していればどの本もほぼ借り出せるし、大学のアカウントからオンラインで読める場合もある。その対価・使用料が著者や大学出版に入る仕組みになっている。

日本がすべて真似しなければいけないわけでもないし、真似もできないだろうけれども、専門的な出版の質と規模を確保するためには、現存する最も高度な仕組みであることは確かだ。そこから漏れる部分もあるけれども。

逆に、日本の場合は、学術出版も多くの場合は商業出版社が行っているから、どうしても消費者の意向(と編集者やら「営業」や、一般的に上の方にいるおじさんたちが「消費者の意向」と信じているもの)に左右されがちだ。もちろん博士論文を出版した、というような固いものもあるけれど、それではその次に本当に出版として意味のあるものを書いて出せるかというと、多くの学者がそのような「書き手」になるには至らない。義務としての最低限の出版をしてからは、出版の世界から退出してしまう。確かに、純然たる商業出版の要請に応えるタイプの芸を持っている人は少ないし、分野によってはまったくお呼びがかからない。学術出版のもっと自立したサイクルがあれば、その中で切磋琢磨して着実に書いていけそうな人たちはいるのだけれども。

そのため、商業出版の要請に応える才覚というか軽率さのある一部の書き手が、新書を中心に膨大な量を生産することになる。そこには、学術的知見をタイムリーに要領よくまとめてくれて刺激になるものもあるが、「もう少し考えればもっといい本になったんじゃないの?」「よく知らないことについて書かない方がいいんじゃないの?」と言いたくなるものが大半だ。要するに、話題になってから急ごしらえで本を作る。それに対応できる、してしまう一部の人だけが請け負って、劣悪な労働条件で商業出版のライターの役割を果たすわけである。日本の学術的知見の多くは、実際には商業出版によって消費者動向に従って出版される。

このような日米の学術出版を対比するのには、日本を「需要牽引型」で、米国を「供給推進型」ととらえるといいのではないか?と普段一部の研究者や編集者との与太話で提案している学説をここで活字にしてしまった。

* * *

さて、こんな感じで、大きなパズルの各所に、最初の小さなピースをいくつか置いてみた、というのが連載の現状。そこで今回は別方向に、自分のルーツをたどるという趣向で、市場の商品、制度の産物という側面とは別の、パーソナルな部分での本との結びつきについて、発端を書いてみた。自分の事ばかり書くのは好きではないので、めったにこの話題には戻ってこないけれども、これまでに公の場で全く書いていないいろいろなことがある。そのうち色々書いてみたい。

今後どうなるんでしょうね。どういう形であれ、連載の依頼を受けたことで刺激を受けて始めてしまった、新しい形の読書論、ゆっくり育てていこうと思っています。

なお、この連載は『週刊エコノミスト』の電子版を契約していただいても読めません。毎日新聞社が提示してくるデジタル版の契約条件が私の基準と合わないので、承諾していないのです。ですので、もし連載が今後も続いて、ご関心がある方は、刊行された週に、本屋でお買い求めください。

私の電子出版に関する基準はいろいろありますが、儲けようとかいうことではなく、「そのやり方で、出版は成長しますか?市場は開拓されますか?本当に考えてやっていますか?」ということを第一に考えたうえで判断している。

大前提は、連載の第3回で書いたことに関わります。「いつでも買えるなら、今週出たものを今買うインセンティブはなくなる」。そして、ウェブ雑誌の形ではなく紙の雑誌のそのままのフォーマットでしかデジタル版が提供されていない場合は、要するに「バックナンバーを買う」のと同様になるのです。実際には、バックナンバーを買う人はあまりいないでしょう。それにもかかわらず、デジタル契約を許諾してしまうと、半永久的に電子版複製の権利が出版社に保持される。かえって流通を阻害します。

紙版はその点良いのですね。なぜならば、モノとしての本・雑誌は、抱え込んでいるとお金がかかるから、やがて絶版になるか、あるいは売り切ってなくなる。出版社の権利とは出版をし続ける義務を伴いますから、絶版・品切れになれば出版社側の権利はほぼ消滅する。作品は、少なくともテキスト部分は、自由に新しい道を歩み出せるのです。電子データは保存するコストが極小なために(そもそも実際に一部ずつ売れるまでは、「存在しない」のだから)、有用な売り方を出版社が知恵を絞って考えたり、もう売れないから絶版にするという判断をするといった労力を省かせ、かえって作品が塩漬けになる可能性があります。

ジョージ・フリードマン『続・100年予測』に文庫版解説を寄稿

以前にこのブログで紹介した(「マキャベリスト・オバマ」の誕生──イラク北部情勢への対応は「帝国」統治を学び始めた米国の今後を指し示すのか(2014/08/21))、地政学論者のジョージ・フリードマンの著作『続・100年予測』(早川文庫)に解説を寄稿しました。帯にもキャッチフレーズが引用されているようです。


ジョージ・フリードマン『続・100年予測』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

単行本では邦訳タイトルが『激動予測』だったものが、文庫版では著者の前作『100年予測』に合わせて、まるで「続編」のようになっている。


ジョージ・フリードマン『100年予測』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

確かに、『激動予測』ではありふれていてインパクトに欠けるので、文庫では変えるというのは良いが、かといって『続~』だと『100年~』を買ってくれた人が買ってくれる可能性は高まるかもしれないが、内容との兼ね合いではどうなんだろう。

英語原著タイトルはThe Next Decadeで、ずばり『10年予測』だろう。100年先の予測と違って、10年先の予測では個々の指導者(特に超大国の最高権力者)の地政学的認識と判断が現実を左右する、だから指導者はこのように世界情勢を読み解いて判断しなさい、というのが基本的な筋立てなのだから、内容的には「100年」と呼んでしまっては誤解を招く。

こういった「営業判断」が、日本の出版文化への制約要因だが、雇われで解説を書いているだけだから、邦訳タイトルにまで責任は負えません。

本の内容自体は、興味深い本です。それについては以前のブログを読んでください。

ただし、鵜呑みにして振りかざすとそれはそれでかっこ悪いというタイプの本なので、「参考にした」「踏まえた」とは外で言わないようにしましょうね。あくまでも「秘伝虎の巻・・・うっしっし」という気分を楽しむエンターテインメントの本です。

まかり間違っても、「世界の首脳はフリードマンらフリーメーソン/ユダヤ秘密結社の指令に従って動いている~」とかいったネット上にありがちな陰謀論で騒がんように。子供じゃないんだから。

フリードマンのような地政学論の興味深いところ(=魔力)は、各国の政治指導者の頭の中を知ったような気分になれてしまうこと。政治指導者が実際に何を考えているかは、盗聴でもしない限り分からないのだから、ごく少数の人以外には誰にも分からない。しかし「地政学的に考えている」と仮定して見ていると、実際にそのように考えて判断し行動しているかのように見えてくる。

今のオバマ大統領の対中東政策や対ウクライナ・ロシア政策でも、見方によっては、フリードマンの指南するような勢力均衡策の深謀遠慮があるかのように見えてくる。

しかし実際にはそんなものはないのかもしれない。単に行き当たりばったりに、アメリカの狭い国益と、刹那的な世論と、議会の政争とに煽られて、右に行ったり左に行ったり拳を振り上げたり下げたりしているだけなのかもしれない。あるいは米国のリベラル派の理念に従って判断しつつ保守派にも気を利かせてどっちつかずになっているのかもしれない。

でも、行き当たりばったり/どっちつかずにやっていると、各地域の諸勢力が米側の意図を読み取れなくなって、米の同盟国同士の関係が齟齬をきたしたり、あるいは敵国が米国の行きあたりばったりを見切って利用したり、同盟国が米国に長期的には頼れないと見通して独自の行動をとったりして、結局混乱する。しかしどの勢力も決定的に状況を支配できないので、勢力均衡的な状況が結果として生まれることも多い。

で、その状況を米国の大統領が追認してしまったりすると(まあするしかないんだけど)、あたかも最初からそれを狙っていた高等戦術のようにも見えてくる、あるいはそう正当化して見せたりもする。

そうするとなんだか、世界はフリードマン的地政学論者が言ったように動いているかのようにも見えてくるし、ひどい場合は、米国大統領がフリードマンに指南されて動いているとか、さらに妄想をたくましくしてフリードマンそのものが背後の闇の勢力に動かされていて、この本も世界を方向付ける情報戦の一環だとか、妄想陰謀論に支配される人も出てくる。

本って怖いですね。いえ、だから素晴らしい。

でもまあ結局この本で書いてあることは、常にではないが、当たることが多い。商売だから、「外れた」とは言われないように仕掛けもトリックも埋め込んで書いている。「止まった時計は、一日に二回正しい時を刻む」的な議論もあるわけですね。その辺も読み取った上で、「やっぱり読みが深いなあ」という部分を感じられるようになればいいと思う。

改めて、決して、外で、「読んだ」っていわないように。

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記(第4回)学術出版の論理は欧米と日本でこんなに違う

イスタンブールで会議中。講演を終えて一瞬中座して書きかけの論文を送信。完全に日本時間・仕事とこちらの時間・仕事を同時に並行してこなしています。内容は重なっているが。

まだ現物を手にしていないが、『週刊エコノミスト』の読書日記の連載第4回が、8月25日(月)発売の最新号に掲載されているはず。

池内恵「学術出版の「需要牽引型と供給推進型」」『週刊エコノミスト』2014年9月2日号、69頁

こんなに忙しくしているのも、日本の場合、学術的知見を、商業出版社・一般雑誌を通じて世に出す経路が豊富にあるから。

編集者は読者の需要に応えて、それに適合した書き手と内容とパッケージで提供しようとする。日本では編集者が媒介して、「需要牽引型」で学術書が作られている面がある。

これはアメリカとは対照的。

アメリカでは一般向け雑誌や商業出版社から声がかかる学者なんて、日本でも広く知られているようなごくごく少数の人に限られると言っていい。

ではアメリカのその他の学者はヒマかというとそんなことはない。大学と専門学会・学術書を出す大学出版会・学術書を一定部数買い上げる大学図書館の三角形が存在して、コンスタントに、手堅い学術書を世に送り続ける。その工程に載せてなんとか本を出すために、アメリカの研究者は、特に若手・中堅は、すごく忙しくしている。

アメリカでは一冊の本を出すののに、着想して調べ始めてから10年かかるのはざらだが、予算を取って調査をして資料を集めて学会発表を繰り返して各地を転々とし、論文にして査読を通して出版したうえでそれを書籍の出版社を見つけて書いて査読を通して・・・といった作業を考えると、ものすごく忙しくして競争にさらされていないと、10年にたった一冊の本でさえも、出ない。

日本でもそれはやるのだが、それと並行して様々な商業出版の可能性が出てくる場合があり、何らかの拍子にその需要が高まると、だんだんそちらが忙しくなる。商業出版社から出るものでも、ものによっては非常に学術的にできる。また、大学出版会から出るからと言って必ずしも常に学術的な基準を満たしていると限らないのも日本の事情。

アメリカでは「一般読者が知りたがっているから」という要因は、大学出版会にほぼ限定された学術出版の工程において、全く考慮されわけではないようだが、原則としては二の次・三の次であり、作り手であり品質評価の排他的な担い手である大学・専門学会の都合が最優先され、そこでは大学出版会と大学図書館が不可分のステークホルダーになっている。つまり「供給推進型」で学術出版が行われている。

まあどっちにも利点とデメリットがある・・・・てな話を中心に書きました。

週刊エコノミスト2014年9月2日号

「マキャベリスト・オバマ」の誕生──イラク北部情勢への対応は「帝国」統治を学び始めた米国の今後を指し示すのか

しばらくブログの更新が途絶えていた。北の方の涼しい所に行ってきまして、ウェブ環境があまり良くなく、長期的な読書と思索に専念していました。

その間のニュースは活字データで押さえていましたが、主要な話題は、

(1)ガザ情勢は、以前に書いた通り、停戦を繰り返しながら収束局面続く。
(2)イラク北部情勢への米国の直接介入は、限定空爆を適宜行いつつ、同盟国(勢力)への支援を本格化する形で、長期化する模様。

というところでしょうか。

(1)は、様々な理由で、過剰に注目が集まりますが、国際政治学的に一番重要なことは、この問題が中東政治の最重要な問題ではなくなった(ないとみなされるようになった=誰に?米国からも、周辺アラブ諸国からも、イランやトルコなどからも)ということでしょう。

人道的側面から言えば重要と言えますが、それでもシリアやイラクでも同様(あるいはそれ以上)の人道的悲劇が現に進行している、という問題との比較考量からは、相対化されかねません。

それよりも重要なのは、リアリズムの観点から、もうパレスチナ問題は中東の最重要の問題として扱わない、という立場を、域内の諸勢力と、米国など域外の勢力が採用している、ということでしょう。そうなると、パレスチナの指導層だけでなく、むしろイスラエルの首脳・ネタニヤフ首相の方が、苦しい立場に立たされます。

この話はまた今度に。

(2)について、現状とその意味を良く考える時期にあると思われます。考えさせられることが多い、事態の進展です。

8月8日以降の空爆の地点をまず見てみましょう。

イラク北部米空爆
出典:ニューヨーク・タイムズ

非常に限定的で、エルビール防衛やモースルのダムの奪還など、クルド勢力(クルド地域政府とその部隊)への支援に絞っています。一時的にISIS(自称「イスラーム国家」)の進軍を食い止め、戦況を変えていますが、それだけで決定的で恒久的な影響を残す規模と性質の介入とは言えません。

それでは本腰でないかと言えば、そうではなく、米国は「本気」と思います。長期間かけてこの種の介入を続けることをオバマ大統領は明言しています。

重要なのは、「オバマは戦争大統領だ、ブッシュと同じ(以下)だ」といった批判も、逆に、「オバマは弱腰だ、中途半端だ」といった批判も、おそらく見当外れなこと。

最近の論稿で一番おもしろかったのは、
Stephen M. Walt, Is Barack Obama More of a Realist Than I Am?, Foreign Policy, August 19, 2014.

オバマって、意外に、すごくリアリストで、戦略的なんじゃないの?アメリカが最も利己的にふるまったら、オバマの外交政策になるんじゃないの?という趣旨の議論です。

ウォルトはリアリズムの立場から、オバマおよびオバマ政権を、「政権内の理想主義者に引っ張られてしばしば不要な介入を行って失敗している」という方向で批判してきました。これは共和党のタカ派などの、「オバマは平和主義で、必要な介入を本腰を入れてしていない」という批判とは別で、また民主党左派・リベラル派の「戦争を終わらせるはずだったオバマが戦争をまた始めたことに失望した」という批判とも別です。

ウォルトの今回の議論は、オバマはこれまでのアメリカの大統領にない、非情で利己的なリアリストなんじゃないの?と論じています。

要するに、オバマは理想主義的な介入論あるいは介入反対論のどちらかに依拠しているのではなく、リアリストの中でももっとも露骨な、「アメリカさえ良ければいい」「敵国・敵対勢力はもちろん、同盟国あるいは若干微妙な同盟国のいずれもそれぞれ損をするが、しかしアメリカには逆らえない」ような効果を持つ介入(あるいは非介入)を行ってきているのだ、というのである。

「アメリカが最も強い立場にいるから最終的な責任を持つ」のではなく、「アメリカが最も強い立場にいることを利用してアメリカが負いたくない責任やコストはよそに回す」という原則にオバマは従っているのであり、それは最も利己的なリアリストの立場だ、という。

確かに、シリアで介入しなかったこと、イランに歩み寄っていること、ガザ紛争でハマースを批判しつつじわじわとイスラエルのネタニヤフ首相からはしごを外し、恒久和平の実現に力を尽くそうとはしない、といった積み重ねの上で、今回のイラク介入の手法を見ると、古典的なリアリストの勢力均衡論、さらに言えば地政学論者の帝国統治論の処方箋を着々と米外交、特に中東政策に持ち込んできたと読み解けるのです。

少なくともあと2年の任期中は、もはや他の選択肢は失われたものと見極め、徹底した地政学論者の路線で行きそうなことが、イラク介入の手法から、誰の目にも明らかになっています。

明らかになった、オバマ政権のイラク介入の手法は、

(1)米の直接介入は限定的、地上軍派遣なし。介入は直接的に米の権益・人員が脅かされたときのみ。
(2)現地の同盟国(勢力)を使う。この場合はイラクのクルド勢力。かなり距離を置きながら、イラク中央政府への支援を続行。
(3)現地の同盟勢力が全面的に排除されかねない状況下では米国が加勢するが、それ以外は現地同盟勢力に戦わせる。
(4)立場の異なるクルド勢力とイラク中央政府への援助を並行して行い、時には競わせ、時には連合させる。決定的にどちらかが強くならないように匙加減をする。

というものです。まるっきりリアリズム、それも露骨な勢力均衡、オフショア・バランシング論です。

8月7日にオバマがイラク北部への軍事介入命令を発表した時には、米人員の保護と並んで、スィンジャール山に孤立した少数派ヤズィーディー教徒の保護を正当化の根拠に掲げましたが、実際に数日空爆した後、ヤズィーディー教徒の避難民の救出に向かうかと思えば、オペレーションを停止。しかもその理由は、「当初言われていたほどの避難民がいなかったから」。

数万人の避難民がいる、と言われていたので介入したが、数日後になって5000人ぐらいしかいないことが分かった、として人道介入の方は手じまいすると宣言したのです。

一方、米の国益に深く関係する、エルビール防衛・クルド勢力支援は続行する。それによってISISと戦わせる。これが最初からの目的だったことは明らかです。

ヤズィーディー教徒の保護というお題目は、いかにも取って付けたものに見えましたが、建前なら建前で言い続けることもなく、介入の正当化根拠に使った後はさっさと「そんなにひどくなかった」と公言してそちらのオペレーションは縮小する、というところに、オバマ大統領のリアリズム・勢力均衡に徹したイラク介入の手法への「本気度」が窺われます。

私の方は、今週、少しネットから離れて本を読んでいた時に、頼まれた仕事の関係で読み返したこの本が実に今のイラク情勢にシンクロしていると思いました。


ジョージ・フリードマン(櫻井祐子訳)『激動予測: 「影のCIA」が明かす近未来パワーバランス』

この本についてはそのうち原稿を書くと思いますが、イラク再介入の手法や、その他の対中東政策を見るうえで印象深いフレーズをいくつか抜き出しておきます。

フリードマンは、米国が唯一の超大国となり、望むと望まざるとに関わらず「帝国」として世界統治を行なわなくてはならなくなった画期を、1991年の湾岸戦争とみているようです。そこから10年間のユーフォリアの時代も、2001年の9・11事件以降の10年間のジョージ・W・ブッシュ流の直接介入の時代も、いずれも帝国の統治の作法を知らなかった純真なアメリカの迷いの時代として切り捨てています。そして、2011年以後の10年にこそ、本当の帝国の世界統治が確立されるのだ、と説き、オバマ大統領にあるべき政策の姿を進言する、という形式でこの本を書いています。

「アメリカは覇権国家ともいえる座に就いて、まだ二〇年しかたっていない。帝国になって最初の一〇年は、めくるめく夢想に酔った。それは、冷戦の終結が戦争そのものの終結をもたらしたという、大きな紛争が終わるたびに現われる妄想である。続く新世紀の最初の一〇年は、世界がまだ危険であることにアメリカ国民が気づいた時期であり、アメリカ大統領が必死になってその場しのぎの対応で乗り切ろうとした時期でもあった。そして二〇一一年から二〇二一年までは、アメリカが世界の敵意に対処する方法を学び始める一〇年になる。」(52頁)

「世界覇権のライバル不在のなか、世界をそれぞれの地域という観点からとらえ、各地域の勢力均衡を図り、どこと手を結ぶか、どのような場合に介入するかを計画しなくてはならない。戦略目標は、どの地域にもアメリカに対抗しうる勢力を出現させないことだ。」(53頁)

このような大原則から、全世界の諸地域において次のような原則に基づく政策を行なうべきだと主張します。

「一.世界や諸地域で可能なかぎり勢力均衡を図ることで、それぞれの勢力を疲弊させ、
アメリカから脅威をそらす
二.新たな同盟関係を利用して、対決や紛争の負担を主に他国に担わせ、その見返りに
経済的利益や軍事技術をとおして、また必要とあれば軍事介入を約束して、他国を支援する
三.軍事介入は、勢力均衡が崩れ、同盟国が問題に対処できなくなったときにのみ、最
後の手段として用いる」(55‐56頁)

フリードマンの主張の面白い所は、通常の議論では、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の時期のアメリカの政策を「帝国」的として批判するものが多いのに対して、それは歴史上の数多くの帝国が行ってきた政策とは全く違う、非帝国的、あるいは帝国であることに無自覚であるが故のふるまいであったと議論する点です。歴代の帝国は勢力均衡で世界各地の諸勢力を競わせて統治していたのであって、冷戦終結後の20年間のようにアメリカという帝国自身が世界中に軍事力を展開させたのは異例であると言います。オバマ大統領あるいはその次の大統領こそが、真の意味でアメリカに帝国的世界統治、すなわち勢力均衡に基づく敵国の封じ込め、同盟国の統制を持ち込む(べき)主体であるとしています。

「次の一〇年のアメリカの政策に何より必要なのは、古代ローマや一〇〇年前のイギリスにならって、バランスのとれた世界戦略に回帰することだ。こうした旧来の帝国主義国は、力ずくで覇権を握ったのではない。地域の諸勢力を競い合わせ、抵抗を扇動するおそれのある勢力に対抗させることで、優位を保った。敵対し合う勢力を利用して互いをうち消し合わせ、帝国の幅広い利益を守ることで、勢力均衡を維持した。経済的利益や外交関係を通じて、従属国の結束を保った。国家間の形式的な儀礼ではなく、さり気ない誘導をとおして、近隣国や従属国の間に、領主国に対する以上の不信感を植えつけた。自軍を用いた直接介入は、めったに用いられることのない、最後の手段だった。」(24-25頁)

このような各地域内部での勢力均衡を促進する政策へと転換する第一の地域が中東である、というのがフリードマンの主張で、そのためか、この本の半分ぐらいは中東に割かれています。

そこからは、イスラエルから徐々に距離を置き(イスラエル対アラブの勢力均衡の回復)、イランに接近する(イラン対イラク・および湾岸アラブの勢力均衡がイラク戦争で回復不能なまでに大きく崩れた以上、ニクソンの対中接近並みの異例の政策変更が必要だという)、といった政策が進言されます。いずれもオバマ政権が行っていると見られている政策です。

また、これと並行して、他地域では、冷戦終結時点でロシアの勢力圏を完全に崩壊させなかった失敗がゆえに「ロシアの台頭」が不可避であり、それを盛り込んで西欧とロシアの勢力均衡を図るべき、という議論にも発展します。そして西太平洋地域でも、日本と中国を均衡させ、そのために適宜韓国とオーストラリアも利用する、という手法を進言します。

今のイラク対策を見ていると、米大統領に「マキャベリ主義者たれ」と進言する、リアリスト・地政学論者のフリードマンの主張に、残り任期2年余りの現在、オバマ大統領とその政権は、全面的に従っているように見えます。

そうなると必然的に、西太平洋地域でも同様の勢力均衡策が採られるのか・・・というポイントが、日本をめぐる米外交政策を見る際にも、注視されていくようになるでしょうね。

【寄稿】読書日記の第3回は、モノとしての本の儚さと強さ

論文が難航して大変なことに。本も書かねばならないんですが。

しかし明日は朝7時30分から会合が入ってしまった。誰だそんな時間から働きたがっているのは。

それはさておき。『週刊エコノミスト』の読書日記の連載第3回。本日発売です。

池内恵「なくなってしまうからこそ本は買われる」『週刊エコノミスト』2014年7月22日号(7月14日発売), 69頁

5号に一度回ってくるこの連載の私の番は、電子書籍版やネットには載りませんので、ご興味のある方は本屋で今週中にお買い求めください。

まさにこれは今回のテーマで、「モノ」としての本・雑誌は、なくなってしまったら手に入らない。それは不自由のように感じられるが、実はそれが大事なのだ、という点を考えてみた。どういう風に考えたかは本誌で。

第1回以来、私の番だけ連続もののように書いていて、メディア環境も出版も、本の形も、全てが急激に変わっていく中で、どのような手段でどんな本をいつどのように読むかを考え直していく、というのが共通テーマ。

もちろん電子書籍を敵視しているのではない。ウクライナ情勢、イラク情勢について電子書籍で取り寄せた本なども紹介しております。

今号の特集は「地図で学ぶ世界情勢」。

エコノミスト2014年7月22日

本ブログでも地図特集に力を入れてきました。まだ何回分も用意してあるが、時間がなくてアップできていません。競争だ。

【新企画】おじさん雑誌レビュー『中央公論』8月号特集は「生き残る大学教授」だが

この時期、月刊誌が送られてきます。研究室に来てみると『文藝春秋』と『中央公論』などが届いていました。

こういう雑誌の慣行として、寄稿していると送っていただけるようになります。私は親の代からそういう生活をしているので、執筆することもある月刊誌が定期的に届くとさっと目を通す、という生活に慣れ親しんでおります。

送られてこなかったら買って読むかというとそれは全く別の問題なので、通常の意味での正式な読者ではありませんが、雑誌の紙面が自分の「仕事場」「市場」ともいえるので、そういう目で、半ば「自分のこと」として、子細に、またシビアに見ているという意味で、通常より熱心な読者と言えます。

寄稿したことがある人は大学業界などの書き手や、あるいは政治家・経営者・官僚などの実務家を中心に、累計ではかなり多いので、送られてきている人も多いでしょう。こういった月刊誌の一定の割合の部数は「書くこともある」層に届けられており、それによって大学業界人や実務家の間での「世論」「共通認識」を形成する土台になっているのかもしれません。

(なお私の父は自宅を郵便物の宛先にしていたので、小さいころから私がそれを読んでいたわけです。そのため、団塊世代が「若造」に感じられる60年安保世代的な世代感覚が身についてしまいました。文藝春秋の読み手・書き手の中心的世代が「60年安保」世代であることは、芥川賞150回記念のアンケートで「柴田翔」に数多くの言及がなされたところから明らかでしょう)

しかしねえ、『中央公論』の表紙にもお題が掲げられたカバーストーリー(目玉特集)は「生き残る大学教授」・・・

あのねえ、対象となる読者層が限定されすぎていませんか?とさすがに言いたくなるよ。無料で送ってもらっている執筆者の人たちしか実感を持って読めないぞ、この企画?

業界関係者としては絶対に言ってしまってはいけない、、、と思いつつおそらくこれを読んだ業界関係者の多くが頭の中であるフレーズを思い浮かべていると思うのでそういう時にはつい癖というか過剰な役割意識で言ってしまうのだが「生き残れるのか中央公論」

ああ言ってしまった。

内容は、ライター的な人が書いている「覆面座談会」「大学教授の生活ぶっちゃけ話」を見ても、大学関係者が普段ぶつぶつ言っていそうなことが断片的にそのまま露出している、「まあ間違ってはいない」というような話である。世の中に出回る「大学教授」への妄想や誤解をそれなりに矯正する効果はあるかもしれないが、どれだけ公共性・公益性があるか分からない。

子供のころから親も祖父も親戚にも大学教授が多く、当然その親・親戚の友人・知人にも大学教授が多かったので、疎遠な人も含めて「ここで描かれるこの人はあの人みたいなタイプだな」と実例が思い浮かぶ場合もある。あまり当たっていないなあと思うところもある、単に私の周りの大学教授が大学教授の中でも特殊なせいかもしれないが、などと考えて読んだという意味では楽しめたが、さてこれが総合雑誌の特集として適切なのか、というと疑問だ。

大学の仕組みや大学教授と呼ばれる人たちのありがちなひどい行状から、「私だってこうも言ってしまいたくなるよ」というようなある程度共感できる内容とはいえ、それが実際に総合雑誌に今月の目玉特集として載ってしまうと、やはり「こんなこと載せる必要があるのか?」と言いたくなる。読み手としてだけでなく書き手としての立場からも。

ここで関連が気になるのが、最近の、一定の質を保っている月刊誌に多い、大学の広告。『中央公論』の今号では、「特別企画」の慶應義塾塾長のインタビュー(広告)を含めた各大学の広告が144-167頁に電話帳みたいに延々と載っている。大学にとっては、扇動・排外意識むき出しだったり、おちゃらけエロ満載だったりするあまり品の良くない媒体に広告は出したくない。逆に、雑誌を出す方から言っても、誌面の品位を落とさないで済むような世間体の良い広告主を切実に求めている。『中央公論』は、「大学広告」に関しては、広告媒体と広告主との関係の相性がいいのだろう。

だとすると「大学教授」特集は広告スポンサー向けなの?そうだとするとつじつまは合うが、いっそう公益性がなくなるんじゃないの?

まあ『中央公論』がいろいろ苦しいのは承知の上でこれを書いている。『中央公論』の存在は得難いので頑張っていってほしいと思っている。このなにやら?な特集にしてもその枠があるから、竹内洋先生のいつものもっともらしい茶化し芸(「大学教授の下流化」)や、上山隆大先生の力の入った米大学産業論も読めたわけだし、

なお、浜田東大総長のインタビューで、いつものことながらあげられるのが「インド哲学」。

「たとえば、最も現場に遠いと思われがちなインド哲学を例にとっても、仏教界、要するに寺はその「現場」である。分野にもよるが、これからの時代、教員は、そうしたそれぞれの「現場」との結びつきをさらに意識する必要があるだろう」

と語っておられますが・・・一応世間の誤解を修正しているようにも見えますが、本当に分かっているのか不安。

「大学改革=自分で金稼いで来い、産業界に役に立つものにしろ、いやそれはいかがなものか」系の議論が勃発するたびに、いい意味でも悪い意味でも「役に立たない」「金儲けできない」学問の例として「インド哲学」が挙げられる。しかし、これは最初から最後まで認識不足。

「インド哲学(正式にはインド哲学仏教学科)」は簡単に言うと「サンスクリットを読むところ」です。

なんでサンスクリットを読むかというと仏典は元々はサンスクリットで書かれているからですよね?法事でやってくるお坊さんの大部分は漢訳当て字のお経を棒読みしているだけでしょうが、格式の高い寺や、大きな宗派の総本山では研究所とかもあってサンスクリットから読める人を確保しておかないと格好つきませんよね。

ですから昔から、名のある寺は、息子を東大に通わせてサンスクリットを読めるようにさせたのです。まあ東大だと他の思想や文化や科学に触れるので素直な跡継ぎにはならなかったかもしれませんが、問題はそんな狭いものではない。

寺というのは、個々の身近なところを見れば、勉強しないし堕落しているし金儲けばっかりしているし、と見えるのかもしれませんが、総体で見ると、かなり人材を囲い込んでいて資金があって、有効にかどうかわかりませんが、それを使って大きなことをしています。

京都に行ってみなさい。東京とは全く違う経済・産業があります。新聞各紙は「寺番」記者を張り付けています。東京では霞が関の官庁回りをしますが、京都では「寺回り」をするのです。それは「文化面」だけではなく経済・政治の欄に書くべき出来事が、寺を媒介して起こっているからです。

東京にだけいると、実際には日本社会で力を持っているこの方面の経済力や政治力に気づかないので議論が変になるのです。

サンスクリットで仏典の研究を、となると、学部の2年間の専門課程程度で終わる話ではないから、中心は大学院教育になる。一般の学生から言えば、日本では学部出てすぐ就職しないといけないという強迫観念があるから「論外」の学科に見えるかもしれないが、寺の子供からいうとすぐに寺を継ぐわけではないから時間はたっぷりある。別の学科を出てから、あるいは一度ビジネス界に入ってからの学士入学・大学院進学も多くなる。

筋の良い寺の子供は、寺を継ぐ前に外国留学したりビジネス経験を積んだり、それぞれの寺とその家の家風によって固有の育ち方があり、時代に合わせて各世代が育って、それによって寺は変わってきて、経営体としても刷新されてきたんです。出来の良い子なら、自分の寺の経営体としての規模や資産は小さいころから自然に呑み込んでいるし、適度に新機軸を打ち出していかないと自分も面白くないしなにより寺として生き残れないことは分かっている。

その際に「インド哲学科」もそれなりの役割を果たしてきた。いわば大昔から産学連携を「産」主導でやってきたの。それを東大内部で管理職になるような人たちが、世間一般と同様に知らなかったのは、それはまずいでしょう。

東大の大部分の学部生にとってインド哲学は「何をやっているところか分からない」ということになるでしょうし、「就職なさそう」ということになるのでしょう。しかしそれは衆生の無知、ということに過ぎない。それは大学・学部入学までにマス教育で詰め込まれた「偏差値」(あと東大では3年進学時の「進学振り分け」)的な基準で推し量った、子供の軽率な判断にすぎません。大部分の一般学生がそのような尺度で物事を見ている、ということは、それが真実であるということを意味しません。例えば大きな寺の子、有形無形の資産を豊富に抱えて今後それをどう活用していこうかと考える寺の子は全く違う目で見ているわけです。で、後者の方がもちろん正しい。

問題は、受験にもまれて辛うじて東大の難関を突破しただけでは、その後大人になっても認識を改める機会がないこと。日本社会や経済における仏教界の力やヘゲモニーに気づく経験がないままに齢を重ねて、その中の一部がエラいさんになって、学生時代のぼんやりとした思い出から「インド哲学は儲からない、就職先がない」的な誤解を持ったままで議論しても話は進みませんよね。

もちろん、東大が、本当の意味で仏教界に関わっている良質な人材の持つエネルギーを取り込んでいくような魅力や発想を持っているか、十分に取り込んでこれたか、適切な制度を持っているかは別問題で、そこには大いに改善の余地があると思いますよ。

でも制度を整えないと人が来ない、というのも間違いじゃないかと思います。

私は学部・学科選びの時、「イスラム学科」というできたばかりの学科を発見して、これは、今後文章を書いていくのにまたとないものすごくビジネス・チャンスのある学科、と狂喜乱舞しましたが、イスラム学科がそのようなことを謳っていたわけではありませんし、制度としても実態としても、学科の先生とおんなじ分野を研究する、という発想の学生以外に対しては、何らケアはされておらず放任でした。でも東大というものすごく恵まれた条件のもとで、「モノ書きの素材とするには何があるか」という観点から、本郷の化学の先生が出張で教養学部に教えに来ていた「フリーズ・ドライの作り方」(直接役立っていないがコンビニで最新のカップラーメンを見るのが楽しい)から、現代英米政治思想(これは今も直接役立っている)まで、提供されている授業をつまみ食いした結果、「イスラム学!ここここれは使える」と確信して進学したわけです。思想でも文学でもきちんとイスラム学をやった上で発言している人は一人もいなかったから、という極めて合理的な選択です。学科そのものがなかったんですから当然ですが。小林秀雄の時代はフランス文学があらゆる意味で最先端だったんですが、当然現代はフランス文学は完全に出来上がってしまった分野でそこから新しい価値を生み出していくのは容易ではありません。それに対して出来立ての学科、これまで誰もやっていなかった分野の知見を身につければ競争力がつくのはごく自然に予想できることです。もちろんイスラム学単独では使いにくいので、思想・文学方面とつなげたり、実際に現地で起こっている紛争や政治運動や国際関係を研究対象に取り込んだり、政治学や社会学の知見を応用したり、といったことを考えて東大内のあらゆる学部学科・施設を利用しましたので、学費のモトは十二分に取りました。社会情報研究所(当時)の研修生課程なんていう、東大の学生なら授業料タダというすごいいい話ににも乗って試験受けて入ってメディア論や中東政治・メディア政治(こんなところに中東に詳しい政治学の先生がいたんです!)を勉強しつつ最長の年限(4年間)居座ってコピーセンターとして利用させていただいておりました。ありがとうございました。その後コピーの枚数が制限されたみたいなことを聞いたが関係ないかな。

お仕着せのカリキュラムではなくカスタム・メイドで自分の専門分野を構築できたことが、私にとっては東大に入ったことの最大の利点でした。東大、特に文学部はそういうカスタム・メイドの要素を残す、あるいは一層強めていくことが重要なんじゃないかと思います。私のやり方はその時のその瞬間で最適と思ったものを選び取っただけで、今現在学生の人には別の選択・組み合わせが当然あるはずです。

話を戻すと、インド哲学というのは、本来は仏教界方面に最終的な就職先が決まっている人が来ればいい、「一見さんお断り」と言ってしまっていいぐらいの左団扇な分野なわけです。国立大学だからそんなことを公言しないですし、もちろん教員は仏教関係の出身じゃなくてもなっていますけどね。(インド哲学仏教学科の今の人たちとは全くつながりがないので、あくまでも長い歴史の中での趨勢の話をしております)。

もし「国は今後インド哲学にはお金を出さないから、産業界から資金を募れ」ということになっってしまったら、一瞬にして仏教界からお金が集まるでしょう。どこの宗派が主導権を握るか、新興宗教系の教団も加われるのか、といった点で争いが勃発するかもしれませんが(怖い)、お金が集まらないということはあり得ません。(実際、宗教学科関係のプロジェクトには、新興宗教方面からすでに潤沢にお金が入ってきていますし・・・)

本当の問題は、そうやって産業界(ここでは仏教界)あるいは特定の寺に資金を出させたら客観・中立な研究はできないでしょ、ということであって、だから結局は細々とながら国が出す、ということになるしかないのは最初から分かっている話です。思想・宗教といった文学部の諸学は、「価値」という究極的にものすごいパワーを秘めたものを扱う分野ですから、スポンサーをつけるとややこしくなるのは当然です。

大学を改革せねばならん、と言う人は、まず大学を知ってほしいものです。改革の議論は、まず論者自身が大学を知るきっかけになる、という意味では結構なことです。その上でいい知恵も出るかもしれません。大学関係者にとっても、改革議論に応えていくうちに、自分たちもあまり知らなかった・重視していなかった大学の価値を再発見することにもなります。

・・・なんてことを書いていたら、今号の第二特集「中露の膨張主義──帝国主義の再来か」に触れる時間が無くなってしまった。本当はこっちの方が重要なんだけど。 このブログでもちょっと触れたように、『フォーリン・アフェアーズ』の5/6月号でのウォルター・ラッセル・ミードとジョン・アイケンベリーの論争は、現在の国際政治をどう見るか、今後どのような政策を採用していくべきか、という課題についての対照的な見方や論争の軸を提供しているが、それに呼応して敷衍したものと言える。アイケンベリー本人にもインタビューしている。 一方で「中・露・イランなど現状変更勢力・地域大国の台頭、地政学的論理の上昇」というミード的な見方が盛んになされており、そこに刺激を受け、日本の政策としては「地政学的観点からもっとロシア・プーチンに接近しろ、没落するアメリカは当てにならない」系の議論が右派を中心に民族主義系の左派からも提示される。 それに対してなおも「1945年以来の米中心のリベラル多国間主義は優勢だ」というアイケンベリーの議論が応戦していて、オバマ政権としても正面からの理論武装はこちらを踏まえている。そこからは日本は米国との同盟強化で乗り切れ、という話になって日本のメインストリームはこの路線だろう。『リベラルな秩序か帝国か アメリカと世界政治の行方』(上下巻、勁草書房、2012年)で示された枠組みですね。 このような大体の枠組みを踏まえたうえで、中西寛先生の重厚な総論、渡部恒雄・川島真・細谷雄一諸先生方による鼎談を読んでいくと、フォーリン・アフェアーズとはまた違う、日本ならではの歴史・思想や地域研究を重視した視点が得られる。日本語を読めてよかったと思える瞬間です。 こういう有益な特集をやるために、カバー・ストーリーは「生き残る大学教授」特集で広く一般読者を惹き寄せ・・・というのならいいんですが問題はそれで読者が釣れているように見えないことなんですけどねえ。私は釣られましたが、業界関係者ですから統計的な数に入りません。

 

井筒俊彦論がアンソロジーに再録されました

国際日本文化研究センターに勤務していた時代にカイロで開催した研究大会で発表し、『日本研究』に掲載した井筒俊彦論が、井筒をめぐるアンソロジーに再録されました。

池内恵「井筒俊彦の主要著作に見る日本的イスラーム理解」『井筒俊彦』(KAWADE 道の手帖)2014年6月、162-171頁(初出は『日本研究』第36集、2007年9月)


『井筒俊彦: 言語の根源と哲学の発生』(KAWADE道の手帖)

なかなか多面的な仕上がり。今度じっくり読んでみよう。