【今日の一枚】(25)シリアを分割するなら フランス委任統治時代の試み

本日の地図はこれ。諸勢力が割拠して、徐々に複雑な戦線がまとめられていった先に、何があるか。思考実験ですが、かつてはこんな地図もあったよ、ということで時々参照される地図です。かつてシリアはこのように「分割」されていた時期がありました。

シリアのフランス委任統治分割案
出典:Wikipedia

第一次世界大戦後、サンレモ会議(1920年4月19-26日)を経てセーブル条約(1920年8月10日)が結ばれ、英・仏がイラクとシリアに委任統治領を確保しました。大戦中の英・仏のサイクス=ピコ協定は、その一部分・骨格が残りつつ、随所に変更されました。

当初よりも大幅に影響圏を縮小して、現在のシリアとレバノンにほぼ等しい領域を委任統治領として確保したフランスは、当初、委任統治領を6つの「国」「地区」に分けて統治しました。「国」といっても独立させたわけではなく、フランスが知事を任命して統治していたのですが。

1920年にまず、(1)大レバノン国、(2)ダマスカス国、(3)アレッポ国、(4)アラウィー国(あるいはアラウィー山国)の四つの「国」に分けられました。さらに1921年にはまずダマスカス国から(5)ドゥルーズ国(あるいはドゥルーズ山国)が切り分けられ、また、フランスとトルコ(アンカラ政権)と条約(10月20日)により、アレッポ国のうち(6)アレクサンドレッタ地区(Sanjak of Alexandretta; アレクサンドレッタはトルコ語ではIskenderun、アラビア語ではal-Iskandarunと呼ばれる)が特別な自治権を与えられました。

サイクス=ピコ協定は「民族・宗派の分布に合致していない」と批判されますが、フランスは当初6つの「国」「地区」に分けて、ある程度「民族・宗派の分布に合致した」領域の「国」に分けていたのです。しかしこれはうまくいきませんでした。

結局、1924年以降、ダマスカス国、アレッポ国、アラウィー国、ドゥルーズ国が順次統合されてシリアになります(1941年9月にフランスから独立宣言)。それに対して大レバノン国は分離して、1926年にレバノン共和国となります(1941年11月にフランスから独立宣言)。また、シリアに含まれていたアレクサンドレッタ自治地区は、住民投票を経て1938年に「独立」し、翌39年にはトルコに編入されハタイ県となります。

シリアの内戦により、中央政府(アサド政権)が国土の一元的支配を喪失して久しいですが、もし国家分裂が恒常化すれば、例えばこの地図のような「シリア分割」を行い、主権国家としてのシリアの外枠は残しつつ、連邦制を導入するといった方策が議論されるようになるでしょう。かつてのアレッポ国が、アレッポ周辺で政権は反体制派の複数の勢力が争う場になり、ラッカは「イスラーム国」の拠点となり、トルコとの国境付近のクルド人の多い地域は連邦制・自治領域化を主張するなど、争点となっています。かつてトルコに編入されたハタイ県の近辺も、トルコと関係の深いトルクメン人の反体制派勢力とアサド政権が激しく戦い、ロシアの空爆がトルコを刺激するなど、ホットスポットになっています。

かつての「アレッポ国」の中をさらに細分化する複数の勢力が激しく争っていることからも、この地図のようにシリアを分割して連邦国家を成立させることはそれほど容易ではないようです。中東に国境線を「適切に」引くことはそれほど困難なのです。