【書評】開沼博『はじめての福島学』を来週の『週刊エコノミスト』で

この記事についてFacebookで書いたら結構流通しているようだ

「容赦なき師弟対談——上野千鶴子×開沼博 上野千鶴子「『はじめての福島学』ってタイトルからしてひっかかるのよね」」

有料媒体の無料記事なので、炎上商法に協力して無防備な議論をしているのかと疑ってしまうが、ある意味で興味深いのでシェアしておいた。

この記事が目に入ったのは、来週号の『週刊エコノミスト』で取り上げられた本を書評しているから。


開沼博『はじめての福島学』(イースト・プレス)

イスラーム教をなぜ理解できないか(2)リベラル・バイアスが邪魔をする〜米国のガラパゴス

昨日の「「こころ教」のガラパゴス」(2015年6月10日)が随分シェアされて、いいねが1100を超えている。イスラーム教の宗教規範について、日本の規範と対比させることで理解しやすくなった人もいるのではないか。

日本では「こころ」に特化した宗教認識が広がることで、それを「常識」「普遍」と受け止めてしまい、それに合わないイスラーム教が「宗教ではない」ように見えてしまったり、「真のイスラームはそんなものではない、もっとひとりひとりの『こころ』を大事にしたものであるはずだ」と強弁して中東の現実から目を閉ざしたりしてしまう。

これについては、読んだ人自身が思い当たるところがあったのではないだろうか。イスラーム教をなんとか知ろうとして手に取った本にそんなようなことが書いてあったりもしたはずだ。

少し構図は違うのだが、欧米でも固有の条件下で同様の障壁があり、認識や議論が阻害されている。欧米の議論は日本でそれを一知半解に受け売りする人たちによってさらに歪みを増幅させて、日本国内での知的権力構造の中で移入され拡散されるので、新たな誤解と障壁を生む。

「欧米のイスラーム理解は誤っている」という議論は多いが、実際にはそういった議論は、欧米のリベラル派の立場からイスラーム教の実際の信仰のあり方に目を閉ざし、欧米での議論を保守派・宗教右派批判という文脈で一方的に表象しているため、それ自体が政治的な意図やバイアスを大いに含み、誤解を生んでいる。

欧米の議論の、本当の意味での制約やバイアスについては、「イスラーム国」をどう理解すればいいのか、という議論が湧き上がる中で、これまで躊躇していた人たちが、慎重に、あるいは思い切って、提起し始めている。

例えばこれ。

Shadi Hamid, “The Roots of the Islamic State’s Appeal: ISIS’s rise is related to Islam. The question is: How?” The Atlantic, Oct 31, 2014.

著者のシャーディー・ハミードは、「イスラーム国」の参加者たちは、宗教を「イデオロギーとして利用」しているのではなく、本当に信じているのだ、という点を、どうにか欧米の読者に理解させようとする。

In this most basic sense, religion—rather than what one might call ideology—matters. ISIS fighters are not only willing to die in a blaze of religious ecstasy; they welcome it, believing that they will be granted direct entry into heaven. It doesn’t particularly matter if this sounds absurd to most people. It’s what they believe.

これは「リベラル・バイアス」の問題だろう。いくつもある、欧米の主流派の議論が、善意のつもりで帰って中東の現実を見誤ってしまう原因の、一つである。これ以外にプロテスタント的な宗教改革をイスラーム世界に生じさせれば問題は解決すると信じるいわば「ルター・バイアス」や、宗教解釈を民主化して一般信徒が解釈できるようにして聖職者・教会権力の支配を解体すれば一般信徒は穏健な解釈をするようになる、という「民主化バイアス」もあると思われるが、これについては別のエントリで論じよう。

ハミードは、欧米の政治学者(ハミード自身を含む。彼はアラブ系だが欧米で教育を受けて欧米の研究機関に勤める、明らかに個人的信条としてはリベラルな人である)は、イスラーム教徒が非リベラルな宗教教義を自発的に信じていることを理解しがたいという。宗教やイデオロギーやアイデンティティを、物質的な要因によって引き起こされるものだと捉えるように、欧米の政治学者は教育・訓練される。これは、政治学者だけでなく、合理的・個人主義的で世俗主義的な世界観を持つ欧米の一般的な人、その中でも特に知識階層に共通すると言ってもいいだろう。それが、「イスラーム国」が依拠する、多数のイスラーム教徒が実際に信じている信条や行動原理を、理解することを妨げているというのだ。

Political scientists, including myself, have tended to see religion, ideology, and identity as epiphenomenal—products of a given set of material factors. We are trained to believe in the primacy of “politics.” This isn’t necessarily incorrect, but it can sometimes obscure the independent power of ideas that seem, to much of the Western world, quaint and archaic.

「イスラーム国」は、リベラル派が信奉する決定論、すなわち歴史は合理的で世俗的な未来へと発展していくことを運命づけられているという決定論が、中東の現実を説明できないことを明らかにした、とハーミドは論じる。

The rise of ISIS is only the most extreme example of the way in which liberal determinism—the notion that history moves with intent toward a more reasonable, secular future—has failed to explain the realities of the Middle East.

ここでハミードは、「イスラーム国」は「イスラーム的」と言えるのか?という核心をついた、専門家が誠実であれば誰もが内心は問いかけつつ、表向き表現することに躊躇する問いを立てる。そして、「イスラーム的だ」と答える。イスラーム教徒の多数派が「イスラーム国」を支持するわけではない。しかし、「イスラーム法によって統治されるカリフ制を復興すること」そのものについては異論がない。

ISIS draws on, and draws strength from, ideas that have broad resonance among Muslim-majority populations. They may not agree with ISIS’s interpretation of the caliphate, but the notion of a caliphate—the historical political entity governed by Islamic law and tradition—is a powerful one, even among more secular-minded Muslims.

「イスラーム教徒は我々と同じように育っているじゃないか、同じもの食べて、同じように子供達を育てているじゃないか」といった、おそらくは善意からの共感の言説は、実態から目を逸らすだけである。大多数のイスラーム教徒にとって、平和を求めることと、離教者には死刑で臨むべき、姦通には石打ちの刑を、と信じることの間に矛盾はないのだから、とハーミドは世論調査の結果を踏まえて言う。

This is why the well-intentioned discourse of “they bleed just like us; they want to eat sandwiches and raise their children just like we do” is a red herring. After all, one can like sandwiches and want peace, or whatever else, while also supporting the death penalty for apostasy, as 88 percent of Egyptian Muslims and 83 percent of Jordanian Muslims did in a 2011 Pew poll. (In the same survey, 80 percent of Egyptian respondents said they favored stoning adulterers while 70 percent supported cutting off the hands of thieves).

ハミードの議論はまだ続くのだけれども、それはまた別の論考とも合わせて議論することにしよう。

このようなことも言っている。

イスラーム教の教義体系にムスリムが完全に縛られているわけではないが、完全にそれから脱することもできない、というのだ。

Muslims are not bound to Islam’s founding moment, but neither can they fully escape it.

イスラーム教は教義の構造上、信者個々人が自由に選んだり捨てたりできるものではない。根幹の部分を変えることも難しい。ただ「棚上げ」して実際には適用しない、という便法が社会的な合意があれば通用するだけだ。その合意も簡単に壊れてしまう。

ハミードのこういった議論は、「アラブの春」以後の民主化の試みによって、実際にアラブ諸国の多数派のムスリムの民意が選挙で表出されたことを踏まえている。そこからハーミドが出した結論は、「政治的な自由化が行われば、非リベラルな思想の持ち主が多数派を占めるアラブ世界では、非リベラルな民主主義が誕生しかねない」というものだ。

これがハミードが昨年刊行した『権力の誘惑ーー新しい中東におけるイスラーム主義者と非リベラルな民主主義』(オクスフォード大学出版会)の中核的な議論である。


Shadi Hamid, Temptations of Power: Islamists and Illiberal Democracy in a New Middle East, Oxford University Press, 2014.

ハミードはこれを東欧やラテン・アメリカなど欧米的な価値観を基本的に受容した地域の事例とは異なる、世界の民主化の中での新たな事例としてとらえる。東欧やラテン・アメリカでは、社会の多数派の信条としては欧米的なリベラルな思想が広がっているにも関わらず、政権は言論の自由とか人権とか法の支配といったリベラルな規範を実現すると権力を維持できないから、それらを制限する。そこで、何らかの原因で制限が弱くなれば、リベラルな民主主義が実現しうる。ところがアラブ世界の場合は、社会の側が非リベラルな信条を抱いているために、民主化して多数派の意見が取り入れらると、非リベラル化してしまう、という。

アラブ世界のイスラーム教徒の多数派が実際に信じているものを、そのまま見つめれば、事態はかなり分かりやすくなる。欧米の議論のゆがみとは、実際には、現実のアラブ世界のイスラーム教徒はリベラルではないにも関わらず、リベラルな価値や世界観が普遍的であると信じている欧米のリベラル派がそのことを認められないがゆえに議論が混乱しているのである。

しかし欧米のリベラル派はしばしば、「アラブ世界のイスラーム教徒は実際にはリベラルなのに、欧米がオリエンタリズムによる誤った表象によって非リベラルであると誤認している、そのことが中東で問題を引き起こすのだ」という議論をする。しかし実際に選挙をやってみると、本当に非リベラルな主張が票を得て当選して権力を握ってしまう。民主化を是とするならば、非リベラルな、他者に寛容ではない民主主義を受け入れるのか?それが、中東に出自を持つ、リベラルな欧米人であるシャーディー・ハミードの問いかけである。

イスラーム教をなぜ理解できないか(1)「こころ教」のガラパゴス

最近、いろいろな聴衆に向けて『イスラーム国の衝撃』を叩き台にして話す機会が多いのだけれども、イスラーム教の本来の教義・規範・体系を話しても、必ずと言っていいほど「分からない」と言われる。

かなり単純化して基本的なところを話しても「分からない」と言われるので、問題はイスラーム教の教義そのものやそれを私がどう解説するかではなく、日本の聞き手の側に、「宗教」というものに対する頑迷な思い込みがあるからではないかと痛感する。

日本の現在の宗教認識について、ヒントになる論説があったので紹介してみよう。

「「こころ教」と「原理主義」の時代が来る? ビジネスパーソンのための仏教入門(4)」

この記事は、浄土真宗の僧侶で仏教学者でもある佐々木閑氏へのインタビューである。佐々木氏はここで、日本の既成仏教の「こころ教」化という概念を提示し、批判している。メインストリームの「こころ教」化が、そこで満たされない層の「原理主義」化をももたらす、という見立てだ。

また、宗教には本来「原理主義」的な側面があるということを指摘し、さらにそこに僧侶としてコミットする姿勢も若干ながら示している。

日本仏教の「こころ教」化というのはどういうことかというと、佐々木氏はこのように語っている(記者によるまとめだから正確かどうかわからないけれども)。

「それぞれの教義について問われると、本気で信じていない僧侶は、「それは心の中の問題だ」と言いだすのです。例えば「本当は、阿弥陀様は私たちの心の中におられるのです」と言う僧侶がいます。極楽は西方にあるはずなのですが、「本当の極楽は私たちの心にあるのです」などとも言うんですね。」

この傾向は私にも確かに感じられる。宗教を「ひとりひとり」の「こころ」の問題と捉え、「あなたがどう受け止めるか、あなたがどう信じるか次第なのです」と教える宗教言説は、俗流宗教論の定番であり、メディアに出てくる不確かなコメンテーターの発言や、作家の出す癒し本の中だけでなく、宗教者とされる人たちが出す本や発言にも充満している。そして宗教を「こころ」の問題であるとする考え方からは、宗教規範を掲げて社会的・政治的な行動に出る人たちは「原理主義」ということになり、「本来の宗教ではない」と安易に結論づけられてしまう。しかしそういった議論では、「原理主義の何が悪いのか」と真っ向から主張する人たちの行動を止められず、説得もできない。「こころ教」は原理主義に、説得ではなく村八分にすることでしか対抗できないのだ。

ただし、下記の部分で、イスラーム教にも同じ「こころ教」化が起こっていると論じているのは間違いである。

「科学とうまくすり合わせできないことを、「心の問題」に置き換えて解釈しようとするのは仏教だけに限りません。キリスト教、イスラム教も今、同じようなことを言いだしています。すべてのものを、心の中に落とし込んでいく手法です。」

佐々木氏はおそらくイスラーム世界の宗教状況を全く知らないのだろう。もし誤解する要素があるとすれば、日本での「本来のイスラーム教はこうだ」という議論には、イスラーム教も日本的な「こころ教」と「本来は」同様であると議論するものが多く、欧米でもスピリチュアリズムや政教分離思想を普遍的と考える論者が、イスラーム教でも宗教は人間の内面に限定されるのが本来のあり方であるという誤った説明をしているといった事情がある。正確に言えば、「日本で、あるいは欧米でイスラーム教について説明する議論は『こころ教』的なものが多い」ということになる。佐々木さんの目に触れる日本語(あるいは英語・・・読んでないと思うが)の解説が「こころ教」のようなものとしてイスラーム教を解説してしまう、というのはそれ自体が日本や欧米への「こころ教」の浸透の表れであって、対象となるイスラーム教そのものとは関係がない。

アラブ世界でも、イスラーム世界一般でも、「こころ教」化は進んでいない。ごく一部、トルコの極端な世俗主義者とか、東南アジアでアメリカナイズされたり日本の影響を受けたりしたごく少数のムスリムの間にそのような傾向はあるかもしれないが。圧倒的多数は、人間の外部に神が絶対的な規範を定め、それを人間は護持していく義務があるのだ、と信じている。その意味では、イスラーム教徒の大部分は、ここで「こころ教」と対比されている「原理主義」的な信仰を維持している。「イスラーム国」に参加する人も、参加しない人も、基本は共通している。この基本をなぜ日本の宗教者が認識できないかというと、それはやはり、「こころ教」に影響されて日本の外の現実が見えなくなっているからだろう。「こころ教」化に疑問を呈している佐々木氏にしてからが、安易に「イスラーム教にも同じことが起こっている」と思い込んでいる様子だ。

もちろん、佐々木氏がここで「こころ教」という概念を提起したのは、日本の通俗的で強固な宗教言説を相対化するために非常に有益な発言であったと思う。

宗教学的には、これは宗教の中の「律法主義」的な側面と、「霊性主義(スピリチュアリズム)」的な側面の分岐と対立という問題と言い換えていいと思う。日本の現代の宗教においては、宗教を一人一人の「こころ」の問題であり、「たましい」の問題であるとする思想が強固である。諸宗教を比較すれば、大まかにはこのような信仰は「スピリチュアリズム」の一部と言える。日本の宗教はもっぱらスピリチュアリズムの方面で発展している。新興宗教にそれは顕著であるし、既存仏教にも、そして書籍市場などで商業的に流通させられる通俗宗教論においても同じだ(この三者が別のものということではなく、しばしば重なり相互乗り入れしているが)。

日本の宗教に大きく欠けているのは(それがいいか悪いかは別に)、律法主義的な側面だ。「あなたがどう考えるかどうかとは別に、あなたのこころとか世俗社会の論理などの外に、絶対的な規範を示す存在がいて、規範を示しています」ということ信じ、実践する(それぞれのあり方で)のが律法主義と言えるが、日本ではこれを理解できない人が多い。「それは宗教ではないのではないか?」などと言われてしまう。そして一部の新興宗教が律法主義的な側面を強調すると、社会の大多数は「本来の宗教ではない」と頭から否定するのと同時に、一部の人はそれまで教えてもらえなかった宗教の律法主義的な側面にうっかり触れると、「これこそ真の宗教だ」と啓示を受けたかのような錯覚を抱いて飛びつき、それを認めない社会全体から孤立し敵対的になる。一部の思想家・ジャーナリストなどが「反体制」の旗印にこれを応援したりするので、政治問題化してややこしくなる。

私はどのタイプの宗教が正しくて、他は正しくない、という立場ではない。しかし日本の外には律法主義を根幹とし、「本来」のあり方とする宗教があり、人数から言っても、国際世論の中での支配的な地位から言っても、そちらが圧倒的に優位である。このことを知らない、知ろうとしないことは非常な問題であると思う。日本の宗教意識は、「こころ教」に偏ったガラパゴス的発展を遂げているということをもっと知ったほうがいい。「こころ教」が一概に悪いわけではないが、それが世界標準だと思ってはいけない。

イスラーム教を理解できない、という日本の人たちは、あまりにもこの「こころ教」への無自覚な信仰が強すぎるのだろう。これは無自覚であるだけに厄介だ。キリスト教を固く信じているからイスラーム教を認められない、というような人はまだ、自分がどのような規範体系を信じていて、それに対してイスラーム教の規範体系のどの部分が認められない、ということを議論するきっかけがある。しかし「こころ教」の場合は、世界の大多数の人が信じている律法主義的な宗教を丸ごと「宗教じゃないでしょ」と言って頭から退け、自足してしまうのだ。

「こころ教」に似たものは西欧の神秘主義の中にもあり、特に近代になって個人主義化と世俗化が進んだ後には世俗化したリベラルな知識人を中心に広まっている。その文脈で、Zenや武道を欧米の一部の人が受け入れるきっかけにもなった。しかし米国のプロテスタント的な保守派の強さや、ラテンアメリカやフィリピンなどのカトリック信仰の激しさを見れば分かるように、律法主義的な側面は今でも一神教が広まる世界では主流なのだ。なぜならば、それが教義の「本来」の姿だからだ。キリスト教については、存立の当初から律法主義的な外在的な規範を過度に重視することに批判的であったりするので、曖昧で振れ幅があるが。

イスラーム教の解釈の一部に「こころ教」と若干近いものがあるとすれば、スーフィズム(神秘主義)の系統だろう。それはイスラーム教の「本来」の姿というよりは、イスラーム教徒が形作った「イスラーム文明」の発展の中で許容された余剰の部分である。「本来のイスラーム教に帰れ」と言われたら、イスラーム法的な、つまり律法主義的な側面に戻らざるを得ないのだ。だから「イスラーム国」はアラブ世界では反論されにくいのである。しかし日本では、「こころ教」があまりに影響力が強いので、律法主義的な側面を「本来のイスラーム教ではない」と思い込んでしまって、理解が根底から間違ってしまう。

この問題は、私がイスラーム教についての研究を日本語で一般向けに議論するようになった当初から直面している問題である。当初から、イスラーム教(あるいは宗教一般)にある律法主義的な側面と霊性主義的な側面の判別能力の有無が、日本での無理解や抵抗感の根幹にあると私は考えており、折に触れ指摘してきたが、状況はまるで変わっていない。宗教者や宗教学者ですら気づかないのだから、一般人は気づきようがない。

2003年に刊行した共著『一神教文明からの問いかけ』には、「イスラーム教の律法主義と霊性主義」と題した論考を寄稿している。この文章は、本来なら老大家がやるべき概説を、適任者がいないから私がしてしまっているという事実に気が引けたり、「東大講義」とかいう空疎な釣り文句があったりすることも嫌であまり宣伝してこなかったのだが、内容については今もまったく変える必要はないと考えており、いっそうこの問題設定が重要になってきたと思う。

宮本久雄・大貫隆編『一神教文明からの問いかけ―東大駒場連続講義』講談社、2003年、執筆箇所:池内恵「イスラーム教の現在──宗教の復興か、文明の衰退か」(73頁-94頁)、池内恵「イスラーム教の律法主義と霊性主義──真の対話に向けて」(176-197頁)

この本は東大の教養学部のオムニバス形式の講義をまとめたもので、私はゲストで(その頃はアジア経済研究所に勤めていた)二回講義をしに行った。「一神教」とは言っても、9・11事件直後に行われた企画であり、イスラーム教の政治性や軍事との関係についてどう理解するかというテーマこそが最重要のものだったから、私だけ二回講義して章を二つ書かせてもらっている。実際に諸宗教の原典に触れている先生方が編者なので、イスラーム教の教義そのもの、テキストそのものから議論を組み立てた議論に抵抗感が少なかったようだ。「こころ教」に毒された宗教論者・思想家が編者だったら載らなかったでしょう。

『一神教文明からの問いかけ』はとっくの昔に絶版となっており手に入りにくく、私の寄稿した二つの章も別の単行本に収録されていないので、読んだ人は少ないかもしれない。ただ、宗教についての議論を専門的に行う世界の中ではそれなりに反響はあった。

今抱えている多くの仕事を終えて、イスラーム思想の概説・入門書を書けるような段階に来たら、この律法主義と霊性主義の分岐と対比についても再録して改めて論じてみたい。

なお、井筒俊彦は霊性主義の方面を極めて強調したイスラーム思想史叙述を行った。そのことを私は折に触れて指摘し続けている(『井筒俊彦: 言語の根源と哲学の発生 (KAWADE道の手帖)』)。


私は井筒が「偏向」しているとは思わないが、井筒が強調するイスラーム文明史上の思想史の中の霊性主義的側面を、「これこそが真のイスラームだ」と勝手に断定してしまう日本の思想家たちは、まあ端的に無知で無自覚なのである。なぜ知が頭に入ってこないかというと、佐々木氏の言う「こころ教」に支配されていて、そのことに自分自身が気づいていないからだろう。

「反知性主義」を読むならこの二冊

前項からの続き

「反知性主義」が現代社会の重要で興味深い現象であることは確かだ。

それについて読むならこの二冊だろう。

まず、「反知性主義」に対する最近の関心の高まり・深まりを代表するのが、森本あんり『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)

基本的には「近年の学問的話題」としての「反知性主義論」の成果はこれだけ。あとは全部便乗本です。最近便乗本を出す速度だけは早くなってきているので、いい本が出ていいテーマが提起されたな、と思う間もなくあっという間に便乗本が溢れて、そういうのは大人数で書いているからそれぞれが大声で宣伝して、実際に学術的な知見を提示している人の声がかき消されてしまう。

この本についての最もいい紹介は「週刊新潮」の匿名記者の短評紹介だったな・・・自社本宣伝とはいえ、いい線をついていた。アメリカの反知性主義とはそれ自体がある種の知性的立場でもあり、近代的の(特にアメリカ的な)な専門家支配とか世俗主義などを疑う、社会の底流から湧き上がる思想でもある。ある意味「週刊新潮は、本来の意味での反知性主義をめざす雑誌です」と静かに宣言しているような短評だった。匿名記者さんがんばってください。といっても私は年に2回ぐらいしか読みませんが。偶然手に取ったらこの本の書評が載っていたので私の中での『週刊新潮』への評価が若干上がった。

『週刊新潮』の短評が最もよく捉えていたように、「反知性主義=バカ」なんて話ではない。この本を書いている著者はまさに神学者だ。サブタイトルとか帯は出版社がつけるのでよくある日本の「反知性主義批判本」におもねっているが、中身はもっとずっと深いし、神学者という著者の立場からの主体的な問いかけであることが明瞭だ。反知性主義とその批判という思想問題は、「俺はかしこい、あいつらバカ」と言い合っている次元の話じゃないんだよ。しつこいけど、何度も言わないとわからん人がいるので。

そしてもう一冊、「反知性主義」を議論するなら、ブームになる前に読んでいなければいけなくて、まだ読んでないんだったらこっそり読んで以前から読んでいたふりしないといけない本はこれでしょ。あえて指摘するまでもないと思って指摘しないでいると、乱造本だけ読んで議論する人たちが出てくるから、そういう面においてこそ「反知性主義」は極まっているなと思うよ。

リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(みすず書房)

【寄稿】『文學界』の「反知性主義」特集に

文芸誌の『文學界』の特集「『反知性主義』に陥らないための必読書50冊」に寄稿しました。

池内恵「『日亜対訳クルアーン』(中田考監修、作品社)」文學界、2015年7月号、167-169頁


文學界2015年7月号

タイトルを読んで字のごとく、中田考訳・監修の『日亜対訳 クルアーン』を一冊に挙げているのですが、そもそも反知性主義批判を主張する人たちの反知性主義っぷりに呆れて、特集全体に物申している内容のコラムです。

冒頭から、飛ばしています。

(前略)「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなってこんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。(以下略)

で、雑誌の頁をめくると前後に早速そういう面々とも数多く出会えるというオツな趣向です。

続きは読んでみてください。

ザッカーバーグは読書会の課題図書にイブン・ハルドゥーン『歴史序説』を指定

マーク•ザッカーバーグのフェイスブック上の読書サロンA Year of Booksで次に取り上げるのはイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』だという。

https://www.facebook.com/zuck/posts/10102158767549321

これはもちろん話題になっている。

http://english.alarabiya.net/en/media/digital/2015/06/02/What-s-Zuckerberg-reading-A-book-by-Muslim-historian-Ibn-Khaldun.html

http://www.businessinsider.com/mark-zuckerberg-the-muqaddimah-2015-6

このブログでもチュニジア紀行文の連載で『歴史序説』を取り上げましたね。ザッカーバーグの使っている写真もチュニスのブルギバ広場のイブン・ハルドゥーン像です。

http://ikeuchisatoshi.com/i-1319/

http://ikeuchisatoshi.com/i-1320/

ブログで記しましたが、日本では責任を持つべき岩波文庫が、『歴史序説』を品切れにして恬然として恥じない。これって『コーラン』が絶版、みたいな話ですよ。これ抜きにしてイスラーム文明を語れるはずがない。中東諸国の混乱を理解するためのヒントも、イスラーム世界が宗教を相対化するための視点も、ここに秘められている。


イブン・ハルドゥーン(森本公誠訳)『歴史序説 (1)』 (岩波文庫)

「英語圏ではすぐ手に入る」ということの意味、彼我の差を、感じてください。

システムで負けてるんです。欧米と違って中東で手を汚していない云々とか日本人の魂とか根性とか細かさが美質だとか気質とか言う前に、システムで対抗してくださいエラい人たち。

すでに各種の英訳が継続して入手可能になっていることを前提に、ザッカーバーグのような訴求力のある人が一声かけると、一層売れる。産業の好循環ができている。

日本だとこれが縮小循環で、非力な私が「これいいよ」と声かけるだけでも例えば数十人が競って買ってしまえば、もう手に入らなくなる。

ザッカーバーグに言われてこんな分厚い本を何千人、いや何万人が「試しに読んでみようか」となって、それに供給するシステムがちゃんとある国にかなうと思いますか?

別の話だが、とあるアメリカの田舎の実業家と交流プログラムで会話させられた時、ハンチントン『文明の衝突』について、「自分は難しい本の良し悪しはわからないが、この本を読んで、自分の子供たちがティーネイジャーになる前に、ハンチントンが示した文明圏をなるべく多く見せてあげたいと思ったんだ」と語り、すでに4つ回った、来年はインドに行くことにしている、といったことをつらつらと語るのを聞いて、その大らかさと突き抜け方に感銘を受けた。

日本だとちまちまと「ハンチントンのここが違う、あれが違う」「アメリカの世界支配のイデオロギーだ」とか文句つけて、知識人たる者ハンチントンを蔑んで見せないといかん、という空気に順応しないといけなくなる。そうではなくて「文明というものがいくつもあるらしいから、自分はそれを知らなかったから、子供達には頭が出来上がってしまう前に見せてあげたい」と考えて本当に連れ歩いてしまうような人がいる国、そういう国に日本もなればいいし、なれると私は思っている。


サミュエル・ハンチントン『文明の衝突』

実は、私は授業で学生に読ませたい本については、意識的にブログで紹介しなかったりしたこともあるんです。すみません。市場にちょっとしかない本を一般読者が好奇心でもって購入すると(すばらしいことです)、日本は本の出版と流通に問題を抱えているから、職業的に今すぐ手にとって線を引いて読んでいなければならない学生の手に渡らないということになり、教育に差し支えるので。

でも今後は手加減しないことにします。学生は好奇心旺盛なオジ様・大姉様・おジー様BAR様方に買い負けるな。得るものは若いうちに読んだ方が大きいはずだ。

なお、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』の訳業を成し遂げた森本公誠先生は、イブン・ハルドゥーンの伝記を書いている。これは今読んでも高い水準。文庫版には、僭越ながら私が解説文を寄せさせていただきました。足元にも及ばぬ者が紙幅を費やしたことは恐縮至極だが、せめて普及にお役に立ちたい。

これも品切れっぽいが、Kindle版は買えます。


イブン=ハルドゥーン 講談社学術文庫

『中東戦記』のアマゾン注文が再開 ブログもリニューアルを思案中

数日ごぶさたしておりました。週末に原稿書きで取り込んでおりました。ああもう夕暮れ。

ジル・ケペル著の『中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)』の少部数の増刷について以前に通知したところ(「『中東戦記』が少部数のみ増刷に」2015年4月20日)、アマゾンでは連休中に在庫数より多くの注文が多く入ったため自動的に注文も不能な状態になっていましたが、回復したとのことです。


中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)

現状ですでに「残り4冊」となっていますが、講談社には在庫はそれなりにあるようなので、注文すれば入手可能です。こういった売れることが予想されていない本に注文が重なって、注文・予約が在庫予測を一定割合以上超えると、自動的に注文自体を取らなくなるようなので、またしばらく注文ができない状態に逆戻りするかもしれません。

このブログももう少し広く役に立つようにリニューアルしようかなどと考えているため、若干発信が滞ったり、連載の自動送信にしたりしております。近く新たな形でお見せできると思いますので、しばしお待ちください。

といっても本を必死に書いているので、頭のリニューアルの方が真剣に進行中。

【寄稿】『週刊エコノミスト』の読書日記(11)は「新しい中世」を読む2冊


『週刊エコノミスト』の読書日記第11回は、田中明彦『新しい「中世」―21世紀の世界システム』(日本経済新聞社、1996年)、そしてヘドリー・ブル『国際社会論―アナーキカル・ソサイエティ』(岩波書店、2000年)を取り上げました。読みどころの引用なども。

池内恵「混沌の国際社会に秩序を見出す古典」『週刊エコノミスト』2015年5月19日号(5月11日発売)、55頁

今回も、電子書籍版には掲載されていません。紙版があるうちにお買い求めください。

この書評連載の全体の趣旨については、以前に長〜く書いたことがあるので、ご参照ください。

「『週刊エコノミスト』の読書日記は、いったい何のために書いているのか、について」(2014/10/01)

この二つの古典的名作が、いずれも絶版になっている点をフェイスブックで問題提起したところ【田中明彦】【ヘドリー・ブル】、アマゾンでは瞬時に中古が売れ払ってしまい、高額なものが出品されるようになりました・・・

中古市場の形成を促した、あるいは再刊・ロングテール市場の必要性を問題提起したとお考えください。数百円で買えた方々はラッキーということで。多少線を引いてあろうが、手元に置いて読めるだけで今や絶大な効用ですよ。先日紹介したイブン・ハルドゥーン『歴史序説』だって、手元に置いていつでも読めるか読めないかで、人生の豊かさは違うだろう。中東を見るときにものの見方が全く変わってくるだろう。

『歴史序説』はそのうち少部数増刷するかもしれないが、それまでの間の時間は大きい。

チュニジアの風景(6)イブン・ハルドゥーン像

チュニジア生まれのイブン・ハルドゥーン。

言わずと知れた、不朽の名著『歴史序説』の著者。

ブルギバ広場の、時計塔とは逆の端に、銅像が建っています。

イブン・ハルドゥーン像1

『歴史序説』は歴史学者(東大寺管長でもあった)の森本公誠氏による名訳が岩波文庫に入っている・・・・

と書いたところで調べたら、なんと、品切れ・・・・

いくらなんでもひどいんじゃないかと思いますよ。

アマゾンで品切れになっているだけでなく、岩波ブックサーチャーでもはっきり品切れと出ています。絶版かどうかはっきりさせていませんが、入手不能ということです。

最近、まともな本、今読むべき本が、ことごとく品切れあるいは絶版であることに気づき、本当に日本の出版界はダメになったな、と痛感するのだが、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』なんて、「日本人はイスラームを知らない」とか説教する意識高い系出版人たちなら、当然品切れなんてさせちゃいけないはずの本ですが。適当な本を乱造する前に、すでにあるまともな本を流通させなさい。

もちろん、『歴史序説』の英訳本は、常に、英語圏で簡単に手に入ります。本屋にも売っているし、アマゾンですぐに買える。

ということは、これからは日本人は『歴史序説』を読みたければアラビア語で読めなければ英語で読むしかなくなるのか。途上国ではそれが当たり前です。自国語ではまともな本が手に入らないから、知識人・エリートは英語で読むようになる。一般人向けとされる低劣な書物が現地語では行き渡る。陰謀論とかそういう類の本ばかりになる。

もうなってるか日本でも。

日本語の言論空間は、出版社が低レベルの本を短期間に売る競争を繰り返すうちに、先進国とは言えないものになってきたことを痛感しました。

おしまい。

『中東戦記』が少部数のみ増刷に

ほぼ品切れで、店頭に残ったもののみになっていた、ジル・ケペル著『中東戦記  ポスト9・11時代への政治的ガイドブック』(池内恵訳、講談社選書メチエ)が、600部という少部数で増刷が決まりました。4月27日には店頭に出回る予定です。

ケペル『中東戦記』

邦訳で副題につけたように、中東の政治・社会を読み解くための、最高度の専門家の目を通した不滅の「ガイドブック」です。

「ジル・ケペル『中東戦記』を、市場からなくなる前にどうぞ」(2015/04/04)と書いておきましたが、もともと出版社の元にはほとんど残っておらず、書店の棚にあったものが売れて、入手が難しくなっているようです。

少部数のみの増刷で、もう増刷されない可能性もあるので、ご要望の方は今のうちにアマゾン書店でご予約を。予約していただければ27日頃に届くと思います。

イメージは「名著復刻」の企画みたいな感じですね。

しかし600部というと、講談社のような大きな出版社にとっては、増刷にかかる労力と売り上げ(もし売れたとして)を比較考量すれば、持ち出しみたいなものだ。よく増刷してくれた、と思うとともに、そこから翻訳者に回ってくる印税など微々たるものなので、ここまでの小規模ロットで出荷できるようになると、末端の書き手にとってビジネスとして成り立つのか?という疑問は沸きます。私は今のところ原稿料収入で生活しているわけではないので、公共の情報提供として採算を考えずにやっているが、将来はどうなるかわからないので、水準を保った文章を書く職業が存在し続けられる経済環境が維持されるか、発展するかは気になります。

しかしともあれ、こうして本が生き続けることはうれしい。

ジョナサン・リテルの『ホムスのノートブック』

シリア内戦や「イスラーム国」、ジハード主義の運動についていい記事をよく載せている『ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス』のブログをたまに見ているが、ジョナサン・リテルの『ホムスのノートブック(Carnets de Homs)』が英訳されることを知った。

英語版の序文が転載されている。

Jonathan Littell, “What Happened in Homs,” The New York Review of Books, March 18, 2015.

フランス語版は2012年に出ている。

Jonathan Littell, Carnets de Homs, Gallimard, 2012.

Littel Carnet de Homs

2012年の1月から2月に反アサドの反政府抗議行動の中心都市ホムスに入ったリテルのルポである。ホムスは長期間包囲され、執拗な砲撃を受けた上で陥落した。シリア内戦の酷薄さを代表する象徴的な街だ。

リテルは作家なので、政治分析は全く期待していないのだが、西欧の、特にフランスのインテリの頭の中にシリアなどレバント地域はどのように映っているのか、シリア内戦や「アラブの春」がどのような想像を掻き立てているのか、うっかり、あからさまに示しているのではないかと思ってフランス語のこの本には注目していたが、じっくり読むというような余裕がなかった。英語になってくれるとさっさと読めていい。

ジョナサン・リテルといえば、ナチス親衛隊将校の視点で描いた『慈しみの女神たち 上』(上下、集英社、2011年3月)が翻訳された時にずいぶん話題になった。原題はLes Bienveillantes、英訳はThe Kindly Ones。この本でゴンクール賞受賞。

『慈しみの女神たち』はフランス育ちのアメリカ人がホロコーストをやる側の視点で書くというところが倒錯的で、多分いろいろなものに取り憑かれた人なのだろうけど(フランスの文筆家その他の言い草一般に言えることですか・・・・偏見ですみません。好感を示しているつもりなのですが)。

この人が抑圧のシリアの蜂起と包囲下の都市にわざわざ出向いて、自由への希望と欠乏と暴力と死を描く。自分の妄想のみを見てくるのだとしても、フランス文化として面白い。(ついでに、ジル・ケペルの『中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド』の面白さも、フランス文化としての面白さという側面があります。わかる人にだけわかる本なので、あまり宣伝していませんが・・・)

ジル・ケペル『中東戦記』を、市場からなくなる前にどうぞ

このブログで紹介しようと思いつつ、自著(翻訳ですが)なので後回しにしてきたこの本。


ジル・ケペル著(池内恵訳注・解説)『中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド』(講談社選書メチエ、2011年)

どうやら在庫僅少らしい。もし重版されないと、手に入らなくなりますので、お求めの場合はお早めに。最近売れているので店頭では品薄になって、出版社の在庫もほとんどないらしい。

アマゾンの在庫は切れているようだし、ジュンク堂を検索してみると、見事にほぼ全ての店舗で在庫僅少の△になっている

この本は、編集者との会話の中で、私が提案して私が訳して、詳細な訳注をつけて出したもの。

副題の「政治的ガイドブック」というのは私がつけたもので、原著のフランス語版に、英訳版でついた論考も加えて、さらに訳注を全ページの下に詳細につけて、どこにもない決定版にした。

9・11以後の時代のイスラーム世界の基調となるトレンドを、皮膚感覚でとらえた「フィールド記録文学」とも言える名著です。哲学と社会科学と文学が連続しており、知識人が社会的発言をすることが原則という、アメリカとは異なるフランスからでこそ生まれる作品でしょう。実証性がない!とアメリカの学会では怒られそうですが。

著者はイスラーム主義過激派の研究の先駆者のジル・ケペル。フランスのパリ政治学院の先生です。1981年にエジプトでジハード団がサダト大統領暗殺事件を起こしたその時にまさにエジプトでイスラーム主義過激派の研究をまとめようとしていた。

その後、フランスの郊外問題としてのイスラーム主義の台頭を先駆的に問題視した。世界的なジハードの広がりにも早くから注目して大著を現していた。典型的なヴィジョナリーです。

そのまま訳すと、中東の社会に触れたことのない日本の読者にはわからない部分が多いかと思って、訳注それ自体を、中東の政治・社会・文化のガイドブックのつもりで詳細に書いておきました。あと、文中の地図はすべて私が講談社の編集者を泣かせながら作ったものです。

この本の価値は時間が経っても変わらないと思うけど、今時の出版社がちょっとずつしか売れない本を持ちこたえられるかわからないから、市場からなくなる前にどうぞ。

『週刊エコノミスト』の読書日記(10)不寛容への寛容はあるのかーーキムリッカ『多文化時代の市民権』を読み直す

『週刊エコノミスト』の読書日記の第10回が出ました。

すでに3月30日(月)に発売されています。今回も、電子版には掲載されておりません。

池内恵「不寛容への寛容はありうるか」『週刊エコノミスト』2015年4月7日号(3月30日発売)

取り上げたのは、ウィル・キムリッカ『多文化時代の市民権―マイノリティの権利と自由主義』(角田猛之・山崎康仕・石山 文彦訳、晃洋書房、1998年)です。

自由主義的な社会の中で少数派や移民の固有の文化・価値規範を尊重するためには、同時に、自由主義社会として、受け入れ可能な「異文化」の規範の限界はどこにあるかも示しておかなければならない。「不寛容への寛容」は自由主義社会を掘り崩し、寛容そのものを不可能にする。キムリッカの本を紐解けば、きちんとその部分を書いてある。

誰がどう考えても行き着く結論をとことん考え抜いておくことが政治哲学。

1990年代の英米圏の政治哲学が、いわゆる「フランス現代思想」と大きく異なるのは、言葉遊びではなく、実際に国際社会に生じる問題をどう調整するかという、実践的な問題に取り組んだこと。それは良くも悪くも英米圏が「米による単極支配」の中心に位置し、国際社会に生じてくる問題を最先端で認識し、取り組む主体としての意識を持っていたからだろう。

そのことは、フランスの「現代思想家」の、少なくともそれまで知識人の間の流行の先端にいた人たちが、国力の低下とともに(あるいはマルクス主義の失墜とともに)、世界を主導する責任感を失っていった(要するにスネちゃった)ことと対照的だ。フランスの知識人は普遍主義を掲げながら、反米なら非リベラルな思想も造反有理で歓迎、という方向にしばしば流れてしまう。世界に普遍的に出てくるアンチ・グローバリズムの尻馬に乗ってそこで指導性を発揮しようとするという意味での「普遍性」にしばしば堕している。英米が支える「欧米」の優位な地位にはただ乗りしながら、「反米」で第三世界にもウケようとするところがなんとも嫌な感じである。まあそういうところがイスラーム主義過激派などからも見透かされて、今やアメリカ以上に敵にされてしまっているわけだが・・・

(↑ ちゃんとした思想家もいるんだろうが、日本で紹介されたり振りかざされたりする「フランス現代思想家」はえらく頼りない人達ばっかりだぞ。もっと頼れる人たちをどんどん紹介してください)

キムリッカの次作の『土着語の政治: ナショナリズム・多文化主義・シティズンシップ』(岡崎晴輝・施光恒・竹島博之監訳・栗田佳泰・森敦嗣・白川俊介訳、法政大学出版局、2012年)も検討した。

しかし、カナダの事例が基礎になるので話が高度すぎるので、他の国について考えるときにはあまり参考にならない。カナダの場合、欧米系の複数の文化・言語集団が土着(先住民の問題をよそにおけば)の多数派と少数派として存在している上に、さらに新たに多様な民族・宗教的背景の移民を受け入れている。欧米系のホスト社会の中の多数派と少数派の間の関係をめぐる問題を検討した上で、多数派と少数派の両方のナショナリズムの存立しうる余地を検討した上で、新たな移民のナショナリズムをどうするか、といったカナダなどに固有の複雑な話になっているので、汎用性は『多文化時代の市民権』の方が高いと判断して、昔の本を書評しました。

【年度が変わっても連載は継続のようです。11回目以降もご期待ください】

『現代アラブの社会思想ーー終末論とイスラーム主義』が9刷に

『現代アラブの社会思想ーー終末論とイスラーム主義』の第9刷が、先月から市場に出ています。

Kindle版も出ていました。

9刷の部数は2100部、と細かい。新しい帯が付いています。

累計は5万6100部になりました。

2002年の1月に刊行されてから13年間、よく長く生き続けてきました。長く生き続けるということこそが、評価の一つと思っています。

この本は、自分自身の研究者としての歩みを振り返る時に、忘れることのできない本です。

なによりも、あの時点でしか書けない本でした。

あらゆる研究者は、最初の研究で、最もオリジナルなものを出さねばなりません。世界中でまだ誰も言っていないことを言わないといけないのです。

しかしなかなかそれはできません。思想史であれば、大抵の影響力のある思想テキストは全て隅々まで読み尽くされ、論文の対象にされ尽くしているからです。

私の学部から大学院にかけてのエジプトでの資料収集で、いくつかのテーマと資料群が浮かび上がりましたが、その中で言及することが最も厄介で、かつ先行研究がない対象が、アラブ世界に広がる、膨大な終末論文献でした。

この本の後半部分を構成し、最もオリジナルな部分は、2001年11月に刊行されていた論文「前兆・陰謀・オカルト──現代エジプト終末論文献の三要素」末木文美士・中島隆博編『非・西欧の視座』(宝積比較宗教・文化叢書8、大明堂、2001年、96-120頁)からなります。

宗教学・思想史の固い叢書に、全く新しい、つまり評価の定まっていないテーマと資料についての、全く無名の著者による論文の収録を認めてくださった編者の先生にはひたすら感謝しておりますが、それを新書という一般書の枠に収めるというものすごく無茶な構想を受け入れた、当時の講談社現代新書の編集者の大胆さも、今振り返ると、傑出したものでした。

そして、2002年1月という時期に出せたことが、何よりも今となってはかけがえのないことです。時間を巻き戻すことはできません。今なら、もっと完成度の高い、整った形で書けるかもしれませんが、それを2002年に戻って出すことはできません。

研究者は生まれてくる時代を選ぶことはできません。

自分が大学院にいる間に現れてきた、まだ他の研究者が触れていない対象に、誰よりも早く手をつけて成果を出さなければならないのです。

中東と、あるいは学術の世界をリードする欧米と、言語や情報のギャップのある日本の研究者として、中東の思想や政治をめぐって誰よりも早く新しいテーマに取り組んで成果を出すことは、至難の技です。

その中で、この本とその元になった論文は、結果として、欧米でこの文献群を用いたまとまった研究が出るのに先んじて発表した形になりました。

その後数年すると、現代の終末論文献を扱って学界に名乗りを上げる若手研究者が、米国でもフランスでも現れてきました。あと数年ぼやぼやしていたら、私の本は「後追い」になってしまったでしょう。

でも当時は日本では「後追い」が普通で、むしろ、全く欧米の先行研究がないものをやると、評価されなかったりしたのです・・・「欧米の権威」がやっていることを輸入するというのが主要な仕事だったのですから。

その後、このテーマは結果的に「欧米の権威」が扱うものとなりました。一つ目はこれ。
David Cook, Contemporary Muslim Apocalyptic Literature, Syracuse University Press, 2005.


Kindleでもあるようです(David Cook, Contemporary Muslim Apocalyptic Literature (Religion and Politics))。

クックさんは短い論文の形では、私より早く現代の終末論文献の存在に着目していたようです。しかしまず古典の終末論について本を出してから、現代の終末論文献に本格的に取り組みました。

古典終末論について書いたのはこの本です。
David Cook, Studies in Muslim Apocalyptic, The Darwin Press, 2002.

クックさんは私と同年代ですが、その後、 米テキサス州のライス大学の准教授になりました。そして、終末論についての研究を一通り発表したのち、ジハードの思想史に取り組んでいます。
David Cook, Understanding Jihad, University of California Press, 2005.

紙版は増補版(Understanding Jihad)が出版される予定のようですが、Kindleでは初版が買えます。研究上は初版が重要です。もちろん、その後の「イスラーム国」に至るジハードの拡大をどう増補版でとらえているか、クックさんの研究がどう進んでいるかにも大いに興味がありますが。

「終末論からジハードへ」という研究対象の変遷は、イスラーム政治思想の内在的構造化が、必然的な道行きと思います。

フランスでも同じ素材で研究が出ました。
Jean-Pierre Filiu, L’apocalypse dans l’Islam, Fayard, 2008.

英訳はこれです。
Jean-Pierre Filiu, tr. by M. B. DeBevoise, Apocalypse in Islam, University of California Press, 2011.

フィリウさんはパリ政治学院で学位を取って母校で教鞭を執っている人です。この著者は研究者になったのは私より遅いのですが、年齢はひと回り上(1961年生まれ)で、まず外交官として中東に関わったとのことです。

私は、フィリウさんが外交官をやめて大学院生になったかならないかぐらいに、のちに彼の指導教官となるジル・ケペル教授に会いに行く機会がありました。その際に出たばかりの私の『現代アラブの社会思想』を見せて、日本語なのでケペル教授は当然読めませんが、資料の写真を多く入れておいたのと文献リストを詳細につけていたことで、扱った文献について話が盛り上がりました。

ケペル教授もこの文献群の存在は認識しており、この文献を扱った本を出したことについては、けっこう驚いているようでした。後に、自分のところに来た学生がこの文献群をテーマとして選ぶ際に、微妙に影響を与えたかもしれません。といってもフィリウさんは私よりずっと以前から中東に関わっているので、とっくにこの文献群の存在と影響には着目していたでしょう。

その後フィリウさんは活発に中東論者・分析家として活躍しています。

私について言えば、この本を書いたのは、日本貿易振興会アジア経済研究所の研究員になって1年目の年でした。終身雇用のアカデミックな研究所に就職して、普通なら放心してだれてしまうところでしたが、就職して半年で9・11事件に遭遇し、中東の激動が始まるわさわさとした予感の中で、衝き動かされたように書きました。

クックさんやフィリウさんのような学者が研究を完成させる前に、このテーマについて論文と本を出しておけたことは、今振り返ると、当時の自分を褒めてあげたい気持ちになります。当時は他国の研究者との競争など考えず、ただ無我夢中に論文や著書刊行の機会を求めて、与えられた機会に必死に出しただけだったのですが。

また、この本が広く知られるための後押しとなったのが、この年の暮れに大佛次郎論壇賞を受けたことでした。

どなたかが候補作にあげてくださったのですが、それを審査委員の一人、米国で長く研究をしてきたある先生が、強く推してくださったことで、一気に流れが決まったという裏話を聞きました。どうやらかなりの番狂わせであったような雰囲気でした・・・

当時は「研究員」という立場で賞をもらうことはまずないというのが、日本の言論界の暗黙の前提でした。当時の日本は今よりずっと不自由で、序列を気にするガチガチの社会だったのですね。

また、端正でリベラルな学究の先生が、このような野蛮なテーマを扱った破天荒な学術研究を一番に推してくださったという話も、一般的な印象とは合わないかと思います。

しかしかなり経ってから米国の学術界や社会一般との接点ができるようになったころに気づいたことは、その先生は、この本の出来がいいからとか、完成されているからといった理由でこの本を推したのではないだろう、ということです。

そうではなく、一番変わった説を打ち出している、一番若い人の候補作に、米国での当然の作法として、機会を与えるという意味で賞を与えただけなのでしょう。

米国の社会は、何か人と違うことを考えている人が、一歩前に踏み出して発言しようとした時に、その機会を与えてくれる社会です。何かをやってやるぞという若い人に、まず一回は機会を与える。それが自然に行われています。

機会を与えられて発言を許されたということは、それだけでは何も意味しないのです。その発言が意味のあるものか、社会に何か違いを与えられるか、その後の活動で真価を証明して初めて、その人と作品は評価を得られる。

機会を与えられたということだけでは、評価されたということを意味しないのです。

このあたりは、「発言」があらかじめ「立場」によって決まっており、その評価も立場の上下をもってあらかじめ決まっていかのような前提を抱いている人が多い日本では、あまり理解されていないことかもしれません。そのような前提の下では、発言の機会を確保しているということ自体がなんらかの「上」の立場であることを意味し、すなわち内容の評価を意味するという、強固な観念が生まれます。

米国の社会にも、その社会が生む国際政治の政策にも、悪いところはいくらでもあるでしょう。しかし、「若い人が新しいことをやろうとしているときに、一回は機会を与える」という米国の社会の根っこに強固に定着した原則は、素晴らしいものだと思いますし、それが米国の活力や競争力の源であると思っています。

そのような米国的な発想により、大量の出版物の渦の中で押し流され消えそうになっていたこの本が、拾い上げられ、翼に風を送られたかのように再び浮上したことは、奇跡的であったと思います。この本が今後も飛び続けられるように、私がたゆまず風を送り続けることが、機会を与えてくださった先生に応えることになるのだと思っています。

「シャルリ・エブド事件を考える」(『ふらんす』特別編集)に寄稿しました

1月7日のシャルリ・エブド紙襲撃殺害事件に関して、白水社から刊行された論集に寄稿しました。

私の寄稿したものは、ブログ・ウェブ等の議論の再録ではなく、一連の議論を振り返ってどこに思想的・知識社会学的課題があるかについての論考です。自由な社会を形成し維持するための基本的な知的姿勢について、考えるところを書いています。

雑誌『ふらんす』の特別編集という名目で軽装版ですが、書籍です。

池内恵「自由をめぐる二つの公準」鹿島 茂、関口 涼子、堀 茂樹 編『シャルリ・エブド事件を考える ふらんす特別編集』2015年3月刊、130−133頁

この論集については、今は時間がありませんが、いつか論じることがあるかもしれません。

『週刊エコノミスト』の読書日記(9)は政教分離の思想史

今年の1月以来、リアルタイムの情報発信にはフェイスブック(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi)を多用していますが、このブログも今後も引き続き活用していきたいと思います。中東に関する記事の断片的な紹介などはフェイスブックの方に回し、ブログでは従来からの情報のストック・データベース構築の場としての意味を一層強めたいと考えています。

次の本の完成のために限界まで執筆作業をしており、なかなかブログにまで手が回りませんが、一旦緩急あれば、公的な発言の定式版はやはりこのブログに掲載することになりそうです。

さて今回はこのブログの基本モードの「最近の寄稿」の記録。

ちょっと連絡が遅れましたが、5号に1回のペースで連載中の『週刊エコノミスト』の「読書日記」も、もう9回目になりました。(連載の立ち上がりから5回目までをまとめた項目はこちら「新書」についてぼやいた回はこちら前回の待鳥聡史『首相政治の制度分析』についてはこちら

『週刊エコノミスト』2015年3月3日号(2月23日発売)表紙

池内恵「日本で理解されない政教分離の思想」『週刊エコノミスト』2015年3月3日号(2月23日発売)、75頁

今回も電子版・Kindle等では読めません。

バックナンバーがなくなって中古になると値が上がりますのでご注意。