思い立ったら新書−−–−1月20日に『イスラーム国の衝撃』が文藝春秋から刊行されます

11月末に、思うところあって、「イスラーム国」について新書を急いで書くことにしました。それ以来、海外出張なども挟んで、実質的な執筆時間が極めて少なかったのですが、奇跡的に完成。昨日までに校正・再校も済ませ、完全に著者の手を離れました。

タイトルは『イスラーム国の衝撃』と決まりました。1月20日に発売です。

当初『イスラーム国の思想と行動』としていたのですが、それでは最近の新書としては固すぎますね。編集部にあっさりスルーされてこうなりました。

まあ確かに、今回は「衝撃」でいいでしょう。私自身が6月の「イスラーム国」の台頭に際して執筆した『中央公論』への寄稿でこのタイトルを使いましたし。

もちろん今頃になって「衝撃だ衝撃だ」と騒いでいる本ではなく、思想史的に、あるいは中東地域研究や国際政治学の視点で、どのようにこの「衝撃」が生じたのか、どの意味で衝撃的なのか、分析したものです。「正しく驚く」ことによって、驚きすぎない、実態以上に騒がないようになる効果もあると思います。

それにしても、この本を出すと決めてから1ヶ月で校了してしまったわけで、自分でもこの1ヶ月の展開が信じられません。

「特別対応で緊急出版してくれるならきちんとしたものを書く」という強硬な条件をつけて依頼を引き受けた手前、「やっぱ書き終わりませんでした〜」と言うわけにはいきません。書き手としての信頼に関わりますので。

そもそも最近の新書という出版媒体の運用実態については多大な疑問を持っており、折に触れ機会があるとその疑問を記してきました。正直に言って、「こんな媒体なら書きたくない」と思ってしまうことの方がここ数年は強くあり、軒並み依頼を断っていました。

それでもなお新書を出す気になったのはなぜか。

それは、読んでみて判断して欲しいのですが、私の考える「あるべき新書」の姿を、「イスラーム国」というテーマで、このタイミングで出せば、現在の新書の「スピード」という(ほぼ唯一の)利点を、悪い意味での「お手軽」にはならずに、活かせると思ったからです。

ここ数年の論文や寄稿は、直接的に「イスラーム国」に至る過程を扱っていたものですし、6月以降は、非常に多くの場所で講演・報告を行ってきました。ですので「イスラーム国」については私なりの枠組みに基づいた全体像の意味づけと、分析概念と、結論や見通しがありますので、日々の情報アップデートさえしておけば、講演などに呼ばれてもほとんど枠組みや理論については準備する必要がなく、「席に座って時計が動き始めると自動的に話し始める」ような状態になっていました。そのような普段話していることをそのまま本にしておこう、というのが今回の本の趣旨です。

そして、このテーマで出すならすぐに出さないと効果が出ない。私の出す本自体は時間をかけて調べて考えてきたことですが、このテーマが出版上持つ意味は「イスラーム国便乗本」にさらに便乗するものであることは、客観的には否定できないことなので、便乗本なら便乗本らしい時期に出さないといけません。また便乗本の渦の中に消えてしまっては意味がありません。ただし質を落とす気はありません。

すぐに出して、きちんとした本作りをしてかつ、かつ便乗本市場で私の本を溺れさせずに売ってくれそうな出版社と編集者、と考えたときに、いろいろな偶然もあって、文藝春秋が浮上しました。

「不適切な媒体に、不用意なことは書かない」と決めることは、自分が手を汚さないという意味ではいいのですが、そうすると、どうしてもそのテーマについて知りたい人は、往々にしてもっともっと不適切なものに依拠するしか選択肢がなくなってしまいます。そうであれば、私が考える適切な文献を、得られる最適の経路で市場に出しておくことには、それなりに意義があると考えました。

新書の最近のあり方を批判しているのは、新書には本来もっと良い使い道があると思っているからです(たとえばちくま新書にはちくま新書の使い道がありますし、それを維持している面があると思います)。本来のあるべき新書の水準を提起する実例を示して見せることができるのであれば、他の積もった仕事を一月遅らせてでもやってみる価値がある(あるいは待ってもらっている編集者にも顔向けが可能)ではないか、と思った次第です。

中東政治・思想史の両方からの、ここ数年の研究成果を踏まえ、寄せ集めではなく全面的に書き改めて一冊の本にしました。最近の基準では単行本に相当する以上の内容が新書に詰め込んであると考えてください。

たくさん売れると、私にはそれほど利益はありませんが(単価が安いですから)、今後私が出す本が安くなる、というメリットがあります。本の値段は基本的に部数で決まります。

学術書が高いのは、内容に元手が沢山かかっているからではなく(かかっている場合が多いですが)、単に部数が少ないから一部あたりの値段が高くなっているだけです。各社の会議で、営業は「この著者は何部売れるのか」を問題にします。それに応じて部数が決まり価格が決まります。売れないとみなされた著者の本は高くなりより一層売れなくなる、という循環があります。

別にベストセラーになる必要はなくて、この本が1万5000部ぐらい出れば、私が近く出すことになっている本などはそれに応じて学術書としてはかなり多めの部数に設定してもらえますから、学術書にしては安価に出すことができます。

こういった制度を理解してご支援いただける方はポチッとお願いします。

2015年のグローバル・リスク予測を公開

昨日12月19日(金)に、私も参加させていただいた、「2015年版PHPグローバル・リスク分析」レポートが公開されました。

cover_PHP_GlobalRisks_2015.jpg

PHP総研のウェブサイトから無料でダウンロードできます。

2015年に想定されるリスクを10挙げると・・・

リスク1.オバマ大統領「ご隠居外交」で迷走する米国の対外関与

リスク2. 米国金融市場で再び注目されるサブプライムとジャンク債

リスク3. 「外国企業たたき」が加速する、景気後退と外資撤退による負の中国経済スパイラル

リスク4. 中国の膨張が招く海洋秩序の動揺

リスク5. 北朝鮮軍長老派の「夢よ、もう一度」 ―核・ミサイル挑発瀬戸際外交再開

リスク6. 「官民総債務漬け」が露呈間近の韓国経済

リスク7. 第二次ウクライナ危機がもたらす更なる米欧 -露関係の悪化と中露接近

リスク8. 無統治空間化する中東をめぐる多次元パワーゲーム

リスク9. イスラム国が掻き立てる先進国の「内なる過激主義」

リスク10. 安すぎるオイルが誘発する産油国「専制政治」の動揺

という具合になりました。果たして当たるでしょうか。

なお、1から10までに、「どれがより危険か」とか「どれが起こる可能性が高いか」といった順位はつけておりません。論理的な順序や地域で並べたものです。

このプロジェクトには2013年度版から参加させていただいており、今回で3年連続です。毎年10のリスクを予測して、長期間続けて経年変化を見ると、その間の国際政治・社会の変化が感じられるようになるのではないかな。中東・イスラーム世界関連は大抵2個半ぐらいの席を安定的に確保。中東関連に2つ割り当てるか3つ割り当てるかで毎回悩むところです。中東問題が拡散して、世界の問題になると帰って項目としては減ったりする。アメリカの外交政策の問題として別項が立って、その項目がかなりの部分中東問題であったりするわけですね。別に他の分野とリスクのシェアの取り合いをしているわけではありませんが、他の項目や全体とのバランスで毎回悩むところです。

2014年度版についてはこのエントリなどを参照してください

年明けにはEurasia Groupが恒例のリスク・トップ10を発表して話題になるので、その前に出してしまおうというのが当方の戦略。二番煎じのように見られると困りますからね。

Eurasia Groupの2015年版がでたら、ぜひそれとの比較もしてみてください。

リスクが高そうな分野の専門家が集まってリスクを予測しているうちに、年々本当にリスクが顕在化していくので全員がいっそう忙しくなり、皆死にそうになりながら、年末になると集まって議論をして文章を練っています。今年は特に、私も緊急出版の本の入稿とかちあったので、大変な思いをしまして他の専門家の方々にひたすら助けていただきました。それでもいくつも私の論点を取り入れてもらっています。取りまとめをして引っ張っていってくださった皆様、ありがとうございました。

こちらは本一冊の原稿や校正を戻したものの最後の詰めが残っており、もう一冊の共著もヤマ場に差し掛かり、さらに、ここ数年、一番力を入れてきた著作を、年末年始に脱稿せねばならない。

というわけで面会謝絶・隠遁生活の年末が始まります。

【寄稿】中央公論1月号に「イスラーム国」の来年の見通しについて

不意に思い立って、何が何でも来年1月に出そうと決めて、超人的な速度で、11月末から昨晩(金曜夜)までの間に、本を一冊書いてしまいました。今週は朝・晩に1章ずつ原稿を入れる状態が続いていました。

「イスラーム国」関係です。

9・11事件以降のイスラーム過激派の歴史と思想について。新書で230ページぐらい。6月以降、無数に書いたり話したりしてきた内容ではあるので、今突然考えたわけではありませんが。

のんびり2月以降に出してもいいですが、出版的タイミングを逸してしまうとこのテーマに関しては良くないので、私の方から無理を言って前倒しに進めてもらいました。どうせ苦労して書いて出すなら一番のタイミングで。

奇跡的に原稿が間に合いましたが、まだ気が抜けません。発売までの間に少しずつお知らせしていきます。

一息ついたら、「イスラーム国」に関する寄稿がまた一本刊行されていました。

池内恵「イスラム国 地域大国による中東の秩序再編が進む」『中央公論』2015年1月号(第129巻第1号・1574号、12月10日発行)、60−61頁

中央公論2015年1月号

「特集 2015年を読む」の一部です。

政治・国際問題は、

「政策の季節」から「選挙の季節」へ(待鳥聡史)
アメリカ(中山俊宏)
アジア(白石隆)

が4頁で読みごたえあり。

ヨーロッパ(遠藤乾)
イスラム国(池内恵)

が2頁ずつ、といったラインナップ。

長めの論考で久保文明先生が「米中間選挙、民主党大敗北 オバマ大統領に立ちはだかる三つの試練」98−106頁、これはじっくり読んでみましょう。

鼎談にも、「グローバル(G)とローカル(L)の間を国家(N)は埋められるか」で川島真先生が吉崎達彦さんや佐倉統先生と。

宇野重規先生が長大論考「日本の保守主義、その「本流」はどこにあるか」(84−97頁)と、時評「安倍首相が獲得する「モメンタム」とは何か」と二本も寄稿している。

「丸山眞男からEXILEまで 論壇は何を論じてきたか」で佐藤信君がおジイさんとおジさんと鼎談。

おかげで私が誌面最年少でなくなったです。最年少ボジションにいるのが長すぎてトウが立って疲れてきましたものですから。最近は意識すらしないが、私がなおも最年少であることに気づいて驚くことはある。某エコノミスト年末懇談会@ホテルオークラにエコノミストじゃないけど案内来たから行ったら、圧倒的に最年少だった。まだまだ年功序列&人口逆ピラミッド社会ニッポン。

あと、若くて出てこれる人はどうしても「世代論」というかなり狭い特殊なジャンルを期待されるという問題もある。若くて文章を書ける人はとりあえず世代論をやるという、バイアスがかかってしまわないかな。

でも今回の中央公論は中堅層の書き手が分厚くなっていて、世代交代は進んでいる。お勧めです。

【寄稿】米国の学会の楽しみはブックフェア(週刊エコノミストの読書日記)

本の入稿の原稿を朝晩書いて送りの繰り返し・・・

一瞬の隙に、今週月曜日に出ていた記事を紹介しておかないと。

池内恵「ワシントンの学会の楽しみ「ブック・バザール」」『週刊エコノミスト』2014年12月16日号(12月8日発売)、73頁

週刊エコノミスト2014年12月16日

**今回も電子版には掲載されていません**

米国の中東学会で各大学出版・学術出版が出している新作を全部見ると、それだけで中東情勢の進展が理論的に構造的に頭に入る、という話。ほとんどそれを一番の目的に毎年参加するようにしている。

ささっと見て買ってきた中で、こんなテーマについての最新の本を紹介しました。

*クルド問題(イラク、シリア、イラン、トルコ各国の比較)
*クルド問題(特にシリアについて)
*ヤズィーディ教徒とは何か
*宗派主義紛争(中東全域の事例比較)
*宗派主義紛争(特に湾岸産油国でどうなるか?)
*レバノンのヒズブッラーが拠点とするベイルート南郊のフィールドワーク
*エルサレム問題(第一人者による詳細な図解多数付き研究書が発刊。これはすごいや)

取り上げた本の著者やタイトルは、誌面にてご確認ください。

それではごきげんよう。

【寄稿】『外交』に「イスラーム国」をめぐる中東国際政治の総論を

ワシントンDCでの短期集中詰め込み勉強から帰ってきて時差をかろうじて直して、本の執筆複数が佳境に入ってきて、とてもブログに戻ってくる時間がない。

11月末に出ていた。「イスラーム国」に触発されて中東地域の国際秩序にどのような変化が生じかけているか、ここのところよく話したり書いたりしているものをまとめました。

池内恵「中東の地政学的変容とグローバル・ジハード運動ーー引き金を引いた「イスラム国」」 『外交』Vol. 28, 2014年11月30日、22−29頁

「異次元動乱ーー世界を震撼させる「イスラム国」」という特集をパラパラめくってみて思ったのだけれども、「イスラーム国」は専門家にとって、どのような理論的・思想的な姿勢を持って対象に取り組んできたか、非常に細やかなリトマス紙になる。

「イスラーム国」というものは、「何もかも植民地主義が悪い」→「固有の理念に基づけばうまくいく」→「だから運動だ」という類の、外部が中東に投影してきた現状打破への思い込みを見事にすべて反映してしまっている。中東に「反米」の期待を託してきた外部世界の想いを全て体現してくれているといっていい。同時に、そのありとあらゆる悪い面を露骨に表出してしまっている存在だ。

日本での中東をめぐる専門家あるいはそれに曖昧に根拠付けられた「思想家」の議論は、要するに中東の諸問題が何もかも植民地主義時代の政策に由来していると主張する「原因論」に大幅に依拠してきて、全く疑わない。自分がそのような言説の枠に嵌っていることにももはや気づけなくなっている場合が多い。観念的な原因論を追認するような「因果関係分析」が次々と提供されるので、異なる視座を構築してみる機会が阻害されているのかもしれない。

私は植民地主義の遺産は、一つの要因として着目することは否定しないけれども、それで全てを論じ、さらには「だから今起こっている問題は欧米が悪い」という「責任論」「非難」に転化させることは論理的な混乱が大きいと指摘してきた。さらに遠い日本でそういった「原因論」と「責任論」をごちゃ混ぜにして、中東に関わる特定の人々の狭い世界で同調圧力を掛け合って高揚して、「運動」することが大学の研究者の本分であるとする業界の主流の考えにはまったく同意できなかった。

そもそも「植民地主義原因論」ばかりが出てくる理由が、日本の大学のシステムの中で中東研究は、法学部や経済学部など現代の問題を扱う学部ではほとんどポストがなく、もっぱら西洋史や東洋史など歴史系の学部出身者が取り組んできた=だから単に植民地主義の時代までの「古い時代」を専門にする人しかいないので、70年前とかの話が常に今現在の事象の「原因」として主張される一方で、2ヶ月前とか3年前の話はうろ覚え・・・という実態を見て、個々の教員の能力とかやる気以前に、背後に「制度的要因」があるな、と気づいた。それからはいっそう、「植民地主義原因論」は疑わしく見えるようになった。

日本では、偏差値的な受験システムと一体となった形で、学部段階でどこを出たかでその後の長い人生での専門と所属する専門業界が固定化されがちである。その制度的な制約から、西洋史や東洋史やアラビア語学といった専門学科が主体となる中東専門業界では、一方で歴史学者が強みとする「植民地主義の時代」にのみ注目して現代までも語ってしまう風潮を是正するきっかけが生まれず、他方で「政府の新聞を毎日読んだらこう書いてあるからこれが真実だ」という類の極端な語学原理主義に結びつく。政府の新聞を読むと「植民地主義が悪い」と書いてあるので、歴史系と語学系で議論は結局似たようなものになります。

でもこれらは方法論というよりは、単に出身学部に基づいた自己主張と勢力争いではないか・・・と感じ始めたら、茨の道を歩むことになります。でも学問は基本的に孤独な作業ですのでそんなものです。不満ということではありません。現実を描写しているだけです。

そのような日本の中東研究の支配的イデオロギーや、イデオロギーの根幹にある部局対抗の論理・自己主張を疑うことなく内面化してきた論者たちが、「イスラーム国」の出現という形でいざ本当に、(1)非欧米の固有の価値規範を掲げて、(2)植民地主義の負の遺産を払拭すると主張して、(3)欧米が引いた国境や政治体制を破壊する行動に出る運動が出てくるという、外見上は明らかにこれまでの中東研究で理想として期待してきたはずの要素を備えているが、しかしきわめて印象の悪い存在が現れてきてしまうと、それにどう反応するかが、リトマス試験紙のようになる。

思想的なフィルターにかけて都合の悪い部分を捨象して歓喜してしまう場合と、現実の前にうろたえてしまう場合に分かれる。

一方では、運動のとてつもない非生産性や残虐性といった負の側面に目をつぶって、「近代の超克だ」と期待をかけ、「欧米の報道がデタラメ」と言って否定的報道から目をそらしたり擁護したりする場合がある。非常に不用意だとは思うが、正直で一貫しているとは言える。一貫していれば正しいわけではないが。

他方であまりにも現実が酷いので「これまでの諸勢力とは違う」と何となく異端視してみせてこれまでの議論からの切り離しを図ったり、極端な場合は「ゴミだ」(・・・あんまり分析には使わないと思うんだが、今回使われているのを見て、反応に困っている。気持ちは分かるが、こう言ってしまうと議論や分析がその先に成立しません)と切り捨てて距離を置いたりする場合がある。

これらの中間にあるのが、「イスラーム国も悪いかもしれないが、欧米はもっと悪い」式の議論。これは基本的に何も言っていないで、逃げているだけですね。「イスラーム復興」してイスラーム法を施行したら理想社会が実現するはずだったんじゃなかったの?

自分の言ってきたことの現実との不整合を問わせず、「偉い」お立場を確保してその上からお説教をしてもっともらしいことを言えば、「下」の立場はそれを批判しないでありがたがらないといけない、という言説の構造こそが日本の弱点。

自由な思考を阻害されて自足した民は立ち遅れて負ける。負けたくない人は付和雷同せずに自分の頭で考える力を身につけましょう。

若いときにラディカルに現状否定・体制批判をしたような人が齢をとると権威主義(あるいは露骨な権力主義)の偉い人になりがちなのも興味深い。権威批判・権力批判をする人は、実際にはとてつもなく権力がお好きでお好きでたまらない人である場合がある。今はフェイスブックやツイッターなどでそういう本音が、本人が気づかずにダダ漏れになったりするので、透明性は高まった。

「イスラーム国」は、これまで中東に反米論の根拠を求めてきた人たちが、中東に潜在的・顕在的にあると主張してきたものを全て備えていると言っていい。もし反米の「理想」論が実現したら、負の側面の影響で大変なことになるよ、という批判はこれまでは「意識が低い」と退けていればよかったんだが、「イスラーム国」が出てきて身をもって負の側面を示してしまうと、これをどう説明するかが大問題になる(はずだ)。

日本は中東を植民地支配したわけではないので支配者としてのイデオロギーを構築してきてはいない。しかし同時に日本独特の言説空間の中で「中東」に特殊な意味をもたせてきて、それが中東専門業界の存立の根拠となるイデオロギーとなってきた。「イスラーム国」はそのイデオロギーで描いた理想や論理を、ほとんどそのまま現実化していて、しかし明らかに異常で不穏当に見える。そのために、非常に不都合な存在なのではないかと思う。

なお、『外交』に寄稿した私の論考は、ここで記したような日本側の問題に取り組むものでは全くなく、国際政治論として「イスラーム国」とそれにまつわる情勢を整理しているものです。

【寄稿】イラン核交渉の期限が本日ですが・・・『フォーサイト』にメモを寄稿

昨晩(といってもワシントンDCにいるのでこちらの朝に書いたものですが)、『フォーサイト』の「中東の部屋」欄にイラン核問題交渉の見通しについて寄稿しておきました。

池内恵「イラン核問題交渉の期限が迫る」『フォーサイト』2014年11月23日

P5+1(安保理常任理事国5カ国+独)あるいはEU3+3(EU英独仏+米露中)とイランとの、イランの核開発をめぐる交渉が、11月24日に最終期限とされてきましたが、今年7月半ばの延長以来、ほとんど進展の情報がありません(7月の交渉については「ウィーンで会議は踊ってるのか」(2014/07/15)、「ガザ紛争激化の背景、一方的停戦の怪、来るなと言われたケリー等々」(2014/07/16)あたりを読んでください)。

7月以来まったく交渉の進展の情報が出てこなかったということは、次の二つの可能性が考えられるわけです。

(1)何かすごい裏交渉・秘密交渉が行われていて、情報管制が厳しく敷かれており、突如、歴史的な米・イラン合意が発表される。
(2)単に交渉の進展がないから情報がない。

のどちらかなわけですが、多分後者なんだろうなあというのが通常の見方。

去年11月の段階では、一年間交渉して何も成果が出なければ決裂、戦争か、という危機感・切迫感がありましたが、今となっては、米・イランは「イスラーム国」などで協調しないといけない立場にあるし、交渉を再延長しても、どちらも困らないのではないかな?

かえって交渉を恒久化したほうが、米・イランの閣僚級のチャンネルができて好都合かもしれない。

なんてことを考えて書きました。

こういった憶測などは、クローズドの研究会とか、非公開のレポートを求められると気軽に書いてきましたが、公刊するのは色々な意味でためらわれるので一般向けには書かないできましたが、「交渉は再延長を目指している」という報道が各種出ているのでもういいでしょう。

10月ごろから「再延長の方向性で決まり」と報じていたイスラエルの各紙がやはり正しかったのか。

ウィーンで最後の交渉が行われているところですが、突如、米・イラン秘密交渉で合意、という報道が出てきましたら、喜んで不徳を恥じるところです。

【寄稿】「イスラーム国」は2015年の論点の「第70」だという・・・

11月13日に発売の、『文藝春秋オピニオン 2015年の論点100』に寄稿しました。

池内恵「「イスラーム国」とグローバル・ジハード」『文藝春秋オピニオン 2015年の論点100』2015年1月、216-218頁

文藝春秋2015年の論点100

電子版も発売されています。

むか~し確か「日本の論点」と呼ばれていた年鑑ムックですね。

プレスリリースによると

「毎年、その時々に社会的に問題になっている100の事柄を取り上げ、各分野の専門家が、それぞれについて800~1,200字程度の短い文章で分かりやすく解説、受験、就活のバイブル」

だそうです。

【寄稿】産経新聞の「イスラーム国」解説(下)はグローバル・ジハードの組織論について

今朝の産経新聞に、二回シリーズの「イスラーム国」解説の第二回が掲載されています。

池内恵「イスラム国の正体(下) 活動機会得たグローバル聖戦運動」『産経新聞』2014年11月15日朝刊

個々の組織よりも、背後にある思想イデオロギーが重要。

アル=カーイダは2000年代に「組織からイデオロギーへ」「ヒエラルキー型からネットワーク型へ」「集権的組織からフランチャイズ的組織へ」と変貌していた。

アル=カーイダのネットワークの一環、フランチャイズの一つだった「イラクのアル=カーイダ」がどのようにイラクとシリアのローカルな内政対立・内乱と結びついて「イスラーム国」へと変わっていったのか、さらに検討が必要です。

【寄稿】産経新聞で「イスラーム国」の思想と組織を解説

おはようございます。今日から週末にかけて開かれるとある国際政治系学会に行って参ります。末端のお役目を果たしながら勉強もさせていただく所存です。

本日の産経新聞朝刊に、「イスラーム国」の背景、思想、組織原理についての2回の解説の第1回が掲載されています。

池内恵「寄稿・イスラム国の正体(上)存立根拠はローカルな内政対立」『産経新聞』2014年11月14日朝刊

今回はローカルな内政対立と社会の深い亀裂構造の中で、特定の勢力に一定の支持を受けたことで領域支配が可能になったという側面を取り上げています。それは同時に、社会からの支持や黙認を受けにくい地域ではそれほど広がらないということも意味します。

いわばローカルな要因を「主」として、そこに加勢するグローバルな要因を「従」とした分析です。

明日の次回は思想・組織原理で、グローバル・ジハード思想の2000年代の展開という、私のお馴染みのテーゼを軸に思想・組織原理とその帰結を解説します。

こちらはグローバルな側面を取り上げ、イデオロギーの拡散がもたらす宣伝・募集効果や、非集権的・分散型組織が各国に及ぼす脅威の性質を取り上げるものとなります。

10月の日本人学生参加希望事件以来、新聞・雑誌がどこもかしこも特集特集と騒ぐ事態になって、紙・誌面が同工異曲になっていますが、対象に目を凝らしていればすでに変化が生じております。せっかく関心が高まったのであれば、持続的に注視していってほしいものです。

そのような変化を見届ける持続的報道の指針にもなるかと、現段階での認識の視座を示してみました。

「イスラーム国」に対する国際的な関心の推移や対処の枠組みは、6月のモースル陥落の「衝撃と惧れ(shock and awe)」が沈静化し、急激な拡大を差し止めて膠着状態となり、長期戦・思想宣伝戦が主となってきています。

過激主義も「正しく怖がる」知恵が必要であります。

【寄稿】『文藝春秋』12月号にて「イスラーム国」をめぐる日本思想の問題を

今日発売の月刊『文藝春秋』12月号に、「イスラーム国」をめぐる日本のメディアや思想界の問題を批判的に検討する論稿を寄稿しました。

池内恵「若者はなぜイスラム国を目指すのか」『文藝春秋』2014年12月号(11月10日発売)、第92巻第14号、204-215頁

文藝春秋2014年12月号

なお、タイトルは編集部がつけるものなので、今初めてこういうタイトルだと知りました。内容的には、もちろん各国の「若者」の一部がなぜ「イスラーム国」に入るのかについて考察はしていますが、若者叩きではありません。むしろ、自らの「超越願望」を「イスラーム国」に投影して、自らが拠って立つ自由社会の根拠を踏み外して中空の議論をしていることに気づけない「大人」たちへの批判が主です。

*井筒俊彦の固有のイスラーム論を「イスラーム教そのもの」と勘違いして想像上の「イスラーム」を構築してきた日本の知識人の問題

*「イスラーム国」が拠って立つイスラーム法学の規範を受け止めかねている日本の学者の限界はどこから来るのか(ここで「そのまんま」イスラーム法学を掲げる中田考氏の存在は貴重である。ただしその議論の日本社会で持つ不穏な意味合いはきちんと指摘することが必要)

*自由主義の原則を踏み越えて見せる「ラディカル」な社会学者の不毛さ、きわめつけの無知

*合理主義哲学と啓示による宗教的律法との対立という、イスラーム世界とキリスト教世界がともに取り組んできた(正反対の解決を採用した)思想問題を、まともに理解できず、かつ部分的に受け売りして見当はずれの言論を振りかざす日本の思想家・社会学者からひとまず一例(誰なのかは読んでのお楽しみ) といったものを俎上に載せています。すべて実名です。ブログとは異なる水準の文体で書いていますので、ご興味のある方はお買い求めください。 「イスラーム国」「若者」に願望を投影して称賛したり叩いたりする見当はずれの「大人」の批判が大部分ですので、これと同時期に書いたコラムの 池内恵「「イスラーム国」に共感する「大人」たち」『公研』2014年11月号(近日発行)、14-15頁 というタイトルの方が、『文藝春秋』掲載論稿の中身を反映していると言っても良いでしょう。 『文藝春秋』の方は12頁ありますが、これでも半分ぐらいに短縮しました。

*「イスラーム国の地域司令官に日本人がいる?」といった特ダネも、アラビア語紙『ハヤート』の記事の抄訳を用いて紹介している。もっと紙幅を取ってくれたら面白いエピソードも論点もさらに盛り込めたのだが。 おじさん雑誌には、おじさんたちの安定した序列感によるページ数配分相場がある。それが時代と現実に合わなくなっているのではないか。 原稿を出してやり取りをする過程で、これでも当初の頁割り当てよりはかなり拡張してもらいました。しかしそれを異例のことだとは思っていない。まだ足りない、としか言いようがない。 はっきり言えば、このテーマはもうウェブに出してしまった方が明らかに効率がいい。ウェブを読まない、日本語の紙の媒体の上にないものは存在しないとみなす、という人たちはもう置いていってしまうしかない。なぜならばこれは日本の将来に関わる問題だから。 国際社会と関わって生きている人で「日本語の紙の媒体しか読みません」という人はもはや存在しないだろう。 私としては、『文藝春秋』に書くとは、今でも昔の感覚でいる人たちのところに「わざわざ出向いて書いている」という認識。 なぜそこまでするかというと、ウェブを読まない、しかし月刊誌をしっかり読んでいる層に、それでもまだ期待をしているから。少なくとも、決定的に重要な今後10年間に、後進の世代の困難な選択と努力を、邪魔しないようにしてほしいから。 時間と紙幅と媒体・オーディエンスの制約のもとで、その先に挑戦して書いていますので、総合雑誌の文章としては、ものすごく稠密に詰め込んでいます。多くの要素を削除せざるを得なかったので、周到に逃げ道を作るような文言は入っていない。 それにしても、この雑誌の筆頭特集は、年々こういうものばかりになってきている。 「特別企画 弔辞」(今月号)に始まり・・・ 世界の「死に方」と「看取り」(11月号) 「死と看取り」の常識を疑え(8月号) 隠蔽された年金破綻(7月号) 医療の常識を疑え(6月号) 読者投稿 うらやましい死に方2013(2013年12月号) これらがこの雑誌の主たる読者層の関心事である(と編集部が認識している)ことはよく分かる。よく分かるが、こればかりやっていれば雑誌に未来がない、ということは厳然とした事実だよね。 今後の日本がどのようにグローバル化した国際社会に漕ぎ出していくのか、実際に現役世代が何に関心をもって取り組んでいるのかについて、もっとページを割いて、掲載する場所も前に持っていかないと、このままでは歴史の遺物となってしまうだろう。 その中で、芥川賞発表は誌面に、年2回自動的に新しい空気を入れる貴重な制度になっている。 しかし普段取り上げられる外国はもっぱら中韓で、それも日本との間の歴史問題ばかり。朝日叩きもその下位類型。基本的に後ろ向きな話だ。 そのような世界認識に安住した読者に、国際社会に実際に存在する物事を、異物のように感じとってもらえればいいと思って時間の極端な制約の中、今回の寄稿では精一杯盛り込んだ。 15年後も「うちの墓はどうなった」「声に出して読んでもらいたい美しい弔辞」「あの世に行ったら食べたいグルメ100選」とかいった特集をやって雑誌を出していられるとは、若手編集者もまさか考えてはいないだろうから、まず書き手の世代交代を進めてほしいものだ。 しかし『文藝春秋』の団塊世代批判って、書き手の実年齢はともかく、どうやら想定されている読者は「老害」を批判する現役世代ではなく、団塊世代を「未熟者」と見る60年安保世代ならしいことが透けて見えるので、これは本当に大変だよなあ、と同情はする。

【寄稿】山形浩生さんと「イスラーム国」について対談(『公研』10月号)

「イスラーム国」関連の解説仕事の刊行情報をまとめていく作業の続き。

そういえば『公研』に対談を出していた。

池内恵・山形浩生(対談)「「イスラーム国」に集まる人々」『公研』2014年10月号(第52巻第10号・通巻614号)、36-54頁

『公研』2014年10月号表紙

『公研』の発行元は公益産業研究調査会という電力系の団体。『公研』は会員企業とメディアなどの決まった配布先にのみ流通している、一般には手に入りにくい媒体だが、政治経済や国際関係についての情報誌として質は非常に高い。非営利なので、商業出版ではもう不可能になったハイブローな特集や議論の切り口が可能。研究者が噛み砕いて話したことをそのまま載せてくれるし、的確に編集してくれる。

電力会社が団体のスポンサーになっているので電力業界には当然広く流通している。また、出版やメディアの業界にはどこからか入手して丹念に読んでいる人がいる。書き手である研究者の動向を察知するのには有効なメディアなのだと思う。電力業界のバーチャル政策シンクタンクのような位置づけなのではないかと思う。私が普段、専門分野を横断した研究会などでご一緒する機会がある方々が非常によく載っており、彼らが普段クローズドの研究会などで話してくれているような内容が、そのまま活字になっているという意味でも、なんだか不思議な感じがするメディアだ。

普通は、専門家と率直に話し合った時に出てくるような内容がそのままメディア上で活字になっていることはあまりない。普通は日本のメディアのどこかで各種のフィルター・バイアスがかかっていて、それらを解除したり補ったりして読むような工夫がいる。そんな工夫をして読むのは面倒なので、専門的な内容はこういった専門家から直接聞ける機会に聞くか、彼らが共通の情報源にしている英語の媒体に直接あたってしまう、ということになる。『公研』は例外的なメディアだ。もちろん電力に関する問題については、団体に寄付する企業が業界の利害関係者なので、構造的に、中立という訳にはいかないだろうし、読む方もそう思ってくれないだろうが、国際問題に関する限り、非常にストレスなく議論を展開できる媒体である。「買ってくれる読者の興味に応えろ、いい気分にさせろ」という要求がないからである。

「イスラーム国」問題について、話したいことを話したい形で、話したい量だけ論じられたのは、この対談だけではないかと思う。コメントを取りに来る媒体は多かったが、非常に紙幅が限られているだけでなく、そもそもこちらが明確に「この部分だけを強調してはいけませんよ」と念を押した部分だけを強調どころかそれだけ取り上げるといった、完全に駄目なものが多かった。

そんな中、談話の形では『公研』の対談で言いたいことをすべて言ったので、特にこれ以上何かを言う気がしない。

対談をした時期も9月半ばである。10月6日に日本人大学生の参加未遂への捜査が表面化して以降のメディア・ハイプとは無縁に、先に企画され実施されていた対談。しかし10月以降の騒ぎを受けても、付け加えることは特にない。これは編集・企画がしっかりしているからです。

それにしても、「イスラーム国」で「山形浩生」を出してくる『公研』編集部のセンスは非常に良い。

実は個人的な理由で山形さんとは知り合いだったのだが、仕事でご一緒するのは初めて。

私が山形さんの名前を出したのではなく、編集部が私をまず私を一方の対談者として日程を押さえたうえで、対談相手の筆頭候補に挙げてきたのである。

以前から、この問題だったら、全く別の切り口で山形さんに聞くと面白いのじゃないか?と思っていたが、そのような企画は、商業出版の雑誌や新聞の編集者の発想からは到底理解されそうもない(要するに国際問題というと何でもかんでも「佐藤優」の奈落に落ち込んでしまう人たち)ので、黙っていたら、『公研』がこの名前を出してきたので、喜んで対談を引き受けた。

本業の傍らのピケティの大著急速翻訳で忙しいはずなので、引き受けてもらえるか半信半疑で山形さんを希望したのだが、快諾していただけた。「イスラーム国」の問題は、一方で中東地域の内側からの文脈を見て、そこには日本からの思い入れや投影を排除しなければならないが、他方でグローバルな何らかの共通現象に絡んでいるので、そこは中東研究者の狭い知見からの当て推量では力が及ばない。その意味で、山形さんが中東・イスラームに関してはひたすら聞き役に徹した上で、ネットワーク的組織論についてのコメントで返してくれたのはすごくよかった。

『公研』の巻頭随筆「めいんすとりいと」(←すごく昭和な感じの欄の名前・・・)にも3・4号に一回ぐらいコラムを書いています。11月号にはコラムが載る。

【寄稿】『中東協力センターニュース』に寄稿

溜まっている掲載記事の紹介を続けます。

『中東協力センターニュース』10/11月号に、連載「「アラブの春」後の中東政治」の第8回が掲載され、ウェブ上でも公開されました。

池内恵「中東新秩序の萌芽はどこにあるのか—「アラブの春」が一巡した後に(連載「アラブの春」後の中東政治 第8回)」『中東協力センターニュース』2014年10/11月号、46-51頁

今回の注にも記しましたが、「「アラブの春」後の中東政治」という連載タイトルもそろそろ役割を終えた(次の段階に入った)と見られるので、次回以降はまた別の連載タイトルを考えるか、あるいは毎回単発という形にするか、検討中です。

連載のこれまでの回については、

「【連載】今年も続きます『中東協力センターニュース』」(2014/04/03)

「【寄稿】イラク情勢12のポイント『中東協力センターニュース』」(2014/07/03)

に記してあります。

この雑誌は「業界」に出回るので、エネルギーや商社など、中東に直接の接点を持ち、現実的な関係・関心を持っている人に届きやすい。つまり「娯楽として楽しければいい」という発想ではない人たちに届くので書きやすい(同時に、寄付で成り立っている団体と事業の性質上、無料でウェブで公開されるので、ある程度公共性も担保されている)。

このような「業界」によって読者の質量と資金的支えがなされている媒体に書くということは、常にそれだけやっていると大学の研究としての市民社会的公共性に制約が出てくる危険性を伴うといえども、中東の現実(日本での幻想ではなく)にコミットしたステークホルダーに直接届けられるという意味で欠かせない。

アカデミックな学会は規模と多様性がある程度以上の厚みがない場合は議論が行き詰まる傾向がある。しかしだからといってメディア・商業出版業界の提供する、不特定多数の消費者に「どっちが面白いか」という基準で評価される場に、常にいたくはない(たまにはいいが)。学術的な作品の成否を計るのに、情報に制約のある一般読者・消費者の「どっちが面白いと私は感じるか」という声を代用してしまっては、議論が発展しなくなる。

もちろん、興味本位の消費市場の論理が、専門家の業界での狭い視野・仲間内の事情で見えなくなっている・言えなくなっていることを社会的に選択するバイパスになることもあるかもしれないから、私は日本の「需要牽引型」の学術出版を全く否定はしないしその過去の功績にむしろ強くシンパシーを抱いている。だが部外者の興味本位の消費の対象となる商業出版市場に選択機能を委ねるしかなくなる状況は、専門家の業界が本来持っているべき、適切な議論を取捨選択して高度化していく機能が低下しているということを意味する。まずは専門家の業界を正常化・高度化するべきだ。しかし規模の制約から、日本では限界がある分野もあるだろう。ある程度の量を確保しないと競争が働かない(一つのヤマにまとまって付和雷同するのが多くの参加者にとって合理的な選択になってしまう)。

しかし、小規模・閉鎖業界の制約をバイパスする可能性がある消費社会の市場による選択機能も、現状を見る限りは、悪い方に行っているね、というのが私の観察。メディアが多様化し無料化して、産業として苦しくなっていることが根本の原因と思う。こちらも規模の問題が効いてきている。「貧すれば鈍す」というやつね。ネタとしてウケる話を乱造する特定の論者(元外交官、(元)社会学者・宗教学者:これらは何時「元」となったか判然としないが)の議論が、完全に間違っていたり一行も原典に当たっていなかったりするにもかかわらず、顔と名前が知られているといった程度の理由で雪崩のように集中して出版・発信される。それらが議論の参照軸になる。

それでは、国や社会としては自滅ですね。どんなにアメリカの社会や政府や政策に問題があっても、あちらには国の政策を定めていくための専門家の育成と研磨のシステムがある。日本とは気が遠くなるほどの差がある。移民社会・競争社会・流動性の高い社会は、こと卓越した専門性を組織的に、大きな規模で生み出していく面では強い。そこに膨大なお金が流れて巨大な産業になっている。日本では人とお金の流れが乏しく、消費材としての書籍・雑誌の市場によって買い叩かれて消費されているのが現状。

商業出版社の採算が苦しくなっているから、以前には大きな企業の一部の部門が担っていられた、ある種の公共的なレフェリー機能やフォーラム機能が果たせなくなって、ひたすら数をこなすようになっている。ミニコミ的に特定の読者にのみ最初から絞った出版も多い。要するにネトウヨとネトサヨ的な単争点のポジショントーク、結局は「ネタ」的な議論が中心になり、そうなっていることに当事者が気づいていない場合も多い。原野商法で土地を交わされた人から、転売してあげる、といってまたお金を取るような、同じことにひっかかる人を何度もひっかけて商売する出版物が本当に多くなった。

会社を存続させるための粗製乱造の本のライターとして研究者が使い潰されるようになっており、他方でまともな書き手、まともな所属機関はそういったものを評価しないから、消費財としての文章を提供する市場からは書き手が無言でexitする。読者は質の低いもののみ供給されていることに気づけなくなる。そうすると言論の質としても、経営としてもダウンスパイラルに入る。

日本は民主主義の国なので、社会の知的水準が下がれば自らの国の運営・判断の質にやがて影響してくる。

あるいは、そのような趨勢を見て、社会は質の低い議論に影響されているから相手にしなくていい、というエリート主義・テクノクラート支配が進んで、大多数の国民が判断・意思決定から実質的に疎外される可能性もある。無知な状態に満足した国民は「リスク要因」としかとらえられなくなり、「資産」ではなくなる。それでもいいのでしょうか?

「売れている面白い本が良いんだ、お前も面白い本を書けば読んでやるよ」という、ネット上で匿名で発言されがちな議論は、自分で自分の首を絞めている。そういうことを言う人は、消費者として生産者に上から目線で接しているつもりになりながら、実は圧倒的に損しているのです。

そもそも希少性の高い情報・知見を持っていれば、一般消費者にウケるための文章を書く必要はない。知らない人が損する、というのが世界の原則だから。

もっとも、少なくともそういった愚かさが可視化されるようになったことが、ウェブの効果とも言えるかもしれない。

消費者=神様になったつもりでの議論自体が、格差社会で落ちこぼれる人を自己満足させようとする「陰謀」なんだ、という風に見た方がまだましなんじゃないかと思う。そういう陰謀をやっている主体はいないと思うが、客観的に見てそういう風に見えることは確かだ。

これまで「知らない人も損していない」と思っていたのは、第一に幻想であるが、第二に、戦後はほとんどあらゆる分野について、「ほどほど」の程度の情報を米国が日本の官僚を通じて注入してくれて、それを受け取った官僚は「ほどほど」の水準で広い層の国民に便益を均霑するという原則のもとに動いていたからだ。今後は、自ら情報を求める人が得する社会に不可避になっていく(すでになっている)。そこに付け込む怪しい産業はいつも通り出てくるのだろうけれども。

でも私は全く諦めていなくて、下方向への競争から離脱して公共的な出版・情報流通を担う主体と資金をどこで確保するか、日々に秘策を練っておりまする。そこに賛同できる人は来てください。

【寄稿】『ウェッジ』11月号に、グローバル・ジハードの組織理論と、世代的変化について

「イスラーム国」のイラクでの伸長(6月)、米国の軍事介入(8月イラク、9月シリア)、そして日本人参加未遂(10月)で爆発的に、雪崩的に日本のメディアの関心が高まって、次々に設定される〆切に対応せざるを得なくなっていましたが、それらが順次刊行されています。今日は『ウェッジ』11月号への寄稿を紹介します。

池内恵「「アル=カーイダ3.0」世代と変わるグローバル・ジハード」『ウェッジ』2014年11月号(10月20日発行)、10-13頁

11月の半ばまでの東海道新幹線グリーン車内で、あるいはJRの駅などでお買い求めください。

ウェッジの有料電子版にも収録されています。

また、この文章は「空爆が効かない「イスラム国」の正体」という特集の一部ですが、この特集の記事と過去の別の特集の記事を集めて、ブックレットのようなサイズで電子書籍にもなっているようです。

「イスラム国」の正体 なぜ、空爆が効かないのか」ウェッジ電子書籍シリーズ「WedgeセレクションNo.37」

電子書籍に収録の他の記事には、無料でネット上で見られるものもありますが、私の記事は無料では公開されていません(なお、電子書籍をお買い求めいただいても特に私に支払いがあるわけではありません。念のため)。

なお、『週刊エコノミスト』の電子書籍版に載っていない件については、コメント欄への返信で説明してあります。

【寄稿】週刊エコノミストの「イスラーム国」特集(読書日記は「ゾンビ襲来」で)

クアラルンプール/セランゴールより帰国。会議終了後に、復路の夜便の出発まで若干時間があったので、伊勢丹やイオンが入っているモールの中を2時間ほどひたすら歩いた。撮った写真などを整理したらここで載せてみたい。

それはともかく、早朝に成田に戻ってからコラム×1、発表原稿(英語)×1、校正×2をメールやFAXで送信したので休む暇がない。

「イスラーム国」がらみで集中した原稿依頼に応えられるものは応えて、先月末までにどうにかほぼ全て終わらせて(まだ2本ぐらいある)マレーシアに出発したのだったが、それらの掲載誌が続々送られてくる。封を開ける暇もない。コメントなどはどこにどう出たのか確認するのもままならない。

とりあえず今週中に紹介しておかないといけないものから紹介。

昨日11月4日発売の『週刊エコノミスト』の中東特集(実質上は「イスラーム国」特集)に解説を寄稿しました。

また、偶然ですが、連載している書評日記の私の番がちょうど回ってきて、しかも今回は「イスラーム国」を国際政治の理論で読み解く、という趣旨で本を選んでいたので、特集とも重なりました。

エコノミスト中東特集11月11日号

池内恵「イスラム成立とオスマン帝国崩壊 影響与え続ける「初期イスラム」 現代を決定づけたオスマン崩壊」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、74-76頁

池内恵「「ゾンビ襲来」で考えるイスラム国への対処法」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、55頁

「イスラム成立とオスマン帝国崩壊」のほうでは、かなり手間をかけてカスタマイズした地図を3枚収録しています。これは他では見られませんのでぜひお買い上げを。

(地図1) 7世紀から8世紀にかけての、ムハンマドの時代から死後の正統カリフ時代、さらにアッバース朝までの征服の順路と版図。これがイスラーム法上の「規範的に正しい」カリフ制の成立過程であり、版図であると理想化されているところが、現在の問題の根源にあります。

(地図2) また、サイクス・ピコ協定とそれを覆して建国したトルコ共和国の領域を重ね合わせて作った地図。ケマル・アタチュルク率いるオスマン・トルコ軍人が制圧してフランスから奪い返していった地域・諸都市も地図上に重ねてみました。

(地図3) さらにもう一枚の地図では、セーブル条約からアンカラ条約を経てローザンヌ条約で定まっていった現在のトルコ・シリア・イラクの国境について、ギリシア・アルメニア・イタリアや英・仏・露が入り乱れたオスマン帝国領土分割・勢力圏の構想や、クルド自治区案・実際のクルド人の居住範囲などを、次々に重ね合わせる、大変な作業を行った。

「サイクス=ピコ協定を否定」するのであれば、地図2と地図3の上で生じたような、領土の奪い合い、実力による国境の再画定の動きが再燃し、諸都市が再び係争の対象となり、その領域に住んでいる住民が大規模に移動を余儀なくされ、民族浄化や虐殺が生じかねない。そのことを地図を用いて示してみました。

この記事で紹介した地図を全部重ねてさらにクルド人の居住地域を加えたような感じですね。頭の中でこれらを重ねられる人は買わなくてもよろしい。

* * *

それにしてもなんでこのような面倒な作業をしたのか。

6月のモースルでの衝撃的な勢力拡大以来、ほとんどすべての新聞(産経読売日本経済新聞には解説を書きました)や、経済誌(週刊エコノミストと同ジャンルの、ダイヤモンドとか東洋経済とか)が、こぞって「イスラーム国」を取り上げており、多くの依頼が来る。10月6日に発覚した北大生参加未遂事件以来、各紙・誌はさらに過熱して雪崩を打って特集を組むようになった。そのためいっそう原稿や取材の依頼が来る(毎日1毎日2毎日3=これはブログに通知する時間もなかった)。

忙しいから断っていると、あらゆる話題についてあらゆる変なことを書くようなタイプの政治評論家がとんでもないことを書いて、それが俗耳には通りやすいので流通してしまったりして否定するのが難しくなるので、社会教育のためになるべく引き受けようとはしている。しかしすべてを引き受けていると、それぞれの新聞・雑誌に異なる切り口や新しい資料を使って書き分けることは難しくなる。

私は純然たる専従の職業「ライター」ではないので、あくまでも「書き手」として意味がある範囲内でしかものを書かない(そのために、必要なときは沈黙して研究に専念できるように、大学・研究所でのキャリア形成をしてきたのです)。あっちに書いていたことと同じことを書いてくれ、と言われても書きにくい。

しかし今回の特集では、私に「イスラーム史」から「イスラーム国」を解説してくれ、との依頼だったので、非常識に〆切が重なっていたのにもかかわらず引き受けてしまった。同じ号に書評連載も予定されていたのでいっそう無謀だったのだが。それは時間繰りに苦労しました。

単に漫然と概説書的なイスラーム史の解説をするのではなく、メリハリをつけて、本当に今現在の問題とかかわっている歴史上の時代だけを取り上げる、という条件で引き受けた。

イスラーム国を過去10年のグローバル・ジハードの理論と組織論の展開の上に位置づける、というのが私の基本的な議論のラインで、それらは昨年にまとめて出した諸論文を踏まえている。これらの論文で理論的に、潜在的なものとして描いていた事象が、予想より早く現実化したな、というのが率直な感想。

しかしもちろんそれ以外の切り口もある。例えばもっと長期的なイスラーム法の展開、近代史の中でのイスラーム法学者の政治的役割の変化、イスラーム法学解釈の担い手の多元化・拡散、ほとんど誰でも検索一発で権威的な学説を参照できるようになったインターネットの影響、等々、「イスラーム国」の伸長を基礎づける条件はさまざまに論じることができる。

そういった幅広い視点からの議論の基礎作業として、現在の中東情勢の混乱の遠因となっている歴史的事象や、「イスラーム国」の伸長を支える理念・規範の淵源は歴史のどの時点に見出せるのか、まとめておくのは無駄ではないと思ったため、引き受けました。専門家なら分かっている(はずなんだ)が一般にきちんと示されていることが少ない知見というのは多くある。今のようにメディアが総力を挙げて取り組んでいる時に、きちんと整理しておくことは有益だろう。

漫然と教養豆知識的に「イスラーム史を知ろう」といって本を読んでも、現在の事象が分かるようにはなりません。「あの時こうだったから今もこうだ」「あの時と今と似てるね」といった歴史に根拠づけて今の事象を説明するよくある論法、あえて「池上彰的」とまとめておきましょうか、これは日本で一般的に非常に人気のある議論です。しかし多くの場合、単なる我田引水・牽強付会に過ぎません。娯楽の一つとしては良いでしょうが、それ以上のものではありません。かえって現実の理解の邪魔になることもあります。

「イスラーム国」への対処の難しさは、それがイスラーム法の規制力を使って一部のムスリムを魅惑し、その他のムスリムを威圧し、異教徒を恐怖に陥れていることです。

イスラーム法の根拠は紛れもなく預言者ムハンマドが実際に政治家・軍事司令官として活躍した初期イスラムの時代や、その時代の事跡を規範理論として体系化した法学形成期の時代にある。それらの時代についての知識は漠然とした教養ではなく、今現在のイスラーム世界に通用している規範の根拠を知ることになる。

その意味でまず「初期イスラーム」の歴史について知ることは有益。

それに次いで、オスマン帝国の崩壊期の経緯を知っておくことにより、今現在の中東諸国の成り立ちとそこから生じる問題、しかし安易に言われがちな代替策の実現困難さも分かるようになります。

初期イスラームとオスマン帝国崩壊の間の長大なイスラーム史は、現代中東政治の理解という意味では、極端に言えば、知らなくてもいいです。極端に言えば、ですよ。

* * *

さて、今回で連載6回目になる読書日記(前回までのあらすじはココ)の方は、ダニエル・ドレズナーの『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口功一・山田高敬訳、白水社、2012年)を取り上げた。

かなり前から今回はこのテーマとこの本にしようと決めていたのだが、それが中東・イスラーム国特集に偶然重なった。

「イスラーム国」は、概念的には、「国際政治秩序への異質で話が通じない主体による脅威」ととらえることができる。ドレズナーはまさにそのような脅威を「ゾンビ」のメタファーを用いて対象化し、そのような脅威に対する各国の想定される動きを国際政治学の諸理論のそれぞれの視点から描いて見せた。「イスラーム国」について各国がどう動き、全体として国際政治がどうなるかは、「ゾンビ」への対処についてのドレズナーの冗談交じりの大真面目な仮説を念頭に置くとかなり整理される。リアリストとリベラリスト、それにネオコンの視点を紹介したが、国内政治要因とか官僚機構の競合と不全とか、この本を読むと、「ゾンビ」を当て馬にすることで理論的な考え方が、やや戯画化されながら、非常によく頭に入る。ドレズナーは活発にブログなども書いていて時々物議も醸す有名な人だが(本来の専門は経済制裁)、本当に頭のいい人だと思う。

「イスラーム国」と中東政治の構造変動についての最近書いた論稿は、すでに出ている『ウェッジ』11月号、来週明けにも発売の『文藝春秋』11月号、『中東協力センターニュース』や『外交』など次々に刊行されていくので、出たらなるべく遅れないように順次紹介していきたい。

【寄稿】本日の読売新聞朝刊文化欄で「イスラーム国」をめぐる日本のゲンロン状況を風刺

今日の読売新聞朝刊にコラムを寄稿しました。「イスラーム国」問題。文化欄ですから、日本の文化状況への批評ですよ。中東分析ではありません。念のため。

池内恵「「イスラム国」論 希薄な現実感」『読売新聞』2014年10月20日朝刊

たぶんウェブ上には今後一生出てきませんので、キヨスク・コンビニ等でお買い上げください。

新聞の文化欄のコラムは、ここ数年、打診を受けても「乗り気がしないなあ」と書いていなかったのですが、今回は、紙媒体とウェブ媒体を繋ぐ必要があるテーマでもあり、書いておきました。

ウェブに接していない読者には「イスラーム国」がサブカル的なネタになっているという現象そのものの存在を認識できないと思ったのか、編集部が長いリードをつけています。

逆に、ウェブに接し過ぎた人は自分たちがサブカルの枠にはまって現実を見ていないということに気づいていないわけで、それが今回のテーマなのですが、それが紙媒体にのみ載っていたらウェブ住人は未来永劫読まないわけで、仕方がないのでここで告知しておきます。

「イスラーム国」に行ってしまう人、良く知らずに「イスラームで超越」と脳内で期待する人、その中には一応名の通った「知識人(笑)」も交じっているという現象は、それに全く気づかず気づこうともしないタイプの読者(紙だけ読んでいる人)の社会があるからこそ生じてくるのだろう。

そういった破壊願望・超越欲求が脳内でショートしている人たち(「現状否定厨」とか呼んであげればウェブ言語で通じるのかな?)は、数は少ないとは思うのだが、(1)社会・経済状況の変化によって、以前より増えている可能性がある、(2)メディアの変化やそれに応じた国際関係の構造変化により、そのようなマイノリティの刹那的欲求が一時的に社会全体に影響を与えかねない(のではないか)、という点から、無視しておいてはよくないと思う。

そもそも中東研究とかアラビア語とかイスラーム教とかを専門でやる人は、信者にならずとも、とにかく現状は間違っていて自分は全く違う真理を発見した-と言いたいからそこに入ってきた、という人が多く、しかもそのような決定が高校卒業ぐらいで行われている(ほぼ大学入試の学部選択で決まるからね)ということから、あんまり信用できない判断だ。そんな年齢で社会の何が分かるというのだろうか?単に熱心にメディア情報の特定の部分に触れて「現状=悪」と思っちゃって「いすらーむ=超越」と期待しただけじゃないかな?

数少ないマイナーと傍からは見られる業界の専門家は、いざという時は国民的議論や認識、それに基づく選択に、大きな役割を果たしてしまう。だから、専門業界はどうせ変な人ばっかりだ、と放っておいてはいけないと思いますよ。専門業界が分業しつつ国民の一般意志の形成に資するサイクルを持っているのが先進国、そうでないのが後進国、という厳然とした区分があると考えた方がいい。日本はこの点で、どっちに入るかはギリギリ。

専門家は単なるオタクの変な人で世の中に恨みがあるので(でも国の予算とか業界仕切って一杯貰っているでしょ・・・)、専門能力が試される「いざ」というときには役立たない。仕方がないから専門性が特にない官僚がジェネラリストとしての経験から「おおよそ」のところで判断するから、国民の意志として選択される政策はそんなに間違ってはいないがピントが結構外れている、まあしょうがないでしょ、というところで我慢してきたのがこれまでの日本。

何かを「超越」したい人はこの構造を超越してほしいな。「あいつら全部だめだ、全部ぶっ壊せ」と「ラディカル」に語って自足するのではなく。

今、大学行政では「役立たない」文系への風当たりが強い(ことになっている)が、私は常に役立つものばかり大学が揃える必要は全くないし、役に立たないように見えることが「いざ」という時役に立つと思っているし、だから文系は必要だと思っているし、それを支えているような自負心もある(でも現に私を雇ってくれているのはバリバリ「役に立つ」ことばかりやると見られがちな「先端研」なんだよな・・・このアイロニーを理解できる文系人はいるのか)。

問題は「いざ」という時にも役に立つ気が全くない人たちが文系に集まりやすくなっていることだ。

「この世は全部ダメ」と本当に思っているのかネタで言っているのか傍から見ると区別がつかない、もしかすると本人たちももうよく分からなくなっちゃっている系の人々が、目測で数えるとだいたい8割ぐらいという、世間一般とは正反対の割合を占めている、イスラーム業界、あるいは思想業界一般について、私自身が職業上、付き合ってこざるを得なかった(といっても排除されていますが)ことにより、フィールドワークによって確かめた知見が今回のコラムには多く含まれております。

【コメント】毎日新聞に「イスラーム国」参加未遂の日本人問題について

今朝の毎日新聞にコメントが掲載されています。

夜遅くの校了寸前に連絡があって、偶然、この問題についてニュースを読んで考えていたので、答えてしまいました。本当はすぐに出さねばならない原稿・書籍が複数積もっていて編集者が待っているのですが・・・

毎日新聞はイスラム国関連で頑張って取り組んでいると思うので、非常識な時間でしたが受けてしまいました。また、「自由な社会からの逃走」が先進国で一定数生じるという普遍的な問題として日本人の過激化の問題も捉えられるという視点が入ったので掲載を許可しました。こういう論点が当たり前に乗るのが本来の新聞だったはずですが。教養主義はかつてのファッションで、今は時代遅れなんですね。今こそこういった概念を用いて論じることが必要な段階に日本社会も入ったということでしょう。以前は自由すらなかったから「逃走」は単なるファッションだった。

「イスラム国:26歳北大生ら、参加を計画 識者の話」『毎日新聞』(2014年10月07日 東京朝刊)

 ◇不満持つ若者が傾倒−−中東に詳しい池内恵・東京大准教授
 イスラム教徒は自らの思想に肯定的な人物に対して同胞意識が強いため、日本の若くて体力のある人が希望すれば、イスラム国の即戦力として戦闘に加わることも可能ではないか。先進国では、自由な社会で明確な目的を与えられないことに不満を持つ一部の若者が、絶対の真理を教えると主張するイスラム教の強い思想にのみ込まれ、過激化する傾向がある。