【寄稿】『週刊東洋経済』に寄稿──米側の限定介入の原則、ISIS側の分裂要因

出ました。昨日発売の『週刊東洋経済』にイラク情勢について解説。

池内恵「ISISがイラク侵攻 中東全体の秩序脅かす」『週刊東洋経済』2014年7月5日号(6月30日発売)、22-23頁

週刊東洋経済2014年7月5日号

その後ISISは、地域的限定を取って「イスラーム国家」となったと主張しているので「IS」と略してもいいのだろうが、実効支配の範囲があまりに狭いので、現実的にはあたかも全世界を覆うカリフ制国家であるかのようにISと呼ぶのは政治・国際関係分析上は憚られる。そもそも「イスラーム国家」なら「イスラーム国家」と言えばよくてISと略す必要もないのではないかとすら思う。それに「イスラーム国家」は一般概念なので、ISISだけがこの呼称の独占権があると主張するにはいくらなんでも勢力範囲が狭すぎるだろう。分析上は当分ISISと呼び続けておく。

少し紙幅に余裕があったので、オバマ政権のテロ対策の原則論から見れば、米国のイラクへの介入は限定的なものとなるだろうという点をやや詳述しておいた。

5月28日のウエストポイント陸軍士官学校での演説では米国内向けの議論としてテロを主要な脅威と位置づけて見せたが、同時に、直接的に対処するのはあくまでもテロが「米国に対する直接的な脅威」となった場合だけであることをはっきりさせていた。

テロが最大の脅威だ、というのは、中国とかロシアとか台頭する修正主義国家が多々あるのを考えるとなんだか安全保障演説としては軽量すぎる感じだ。外交関係を考えなくていい相手として「テロ」を便利な仮想敵「国」にしているようだ。

6月19日のイラク対策指針は明らかにこの演説での原則を踏まえており、予想通り限定的なものとなった。

さらに、6月22日の米CBSニュースでISISのイデオロギーから彼らが「中・長期的な脅威である」と評価していると明言した。オバマ政権が示してきた理論的指針と施策からは、米国が脅威認識を抱いて対テロ戦争に力を入れてくる」のではなく、「米国にとっての短期的な脅威ではない」と認識しているということが重要。つまり、バグダードを制圧されてイラク全土がISISの国になってしまう、といった耐え難い状況以外では大規模な介入はしない、ということ。直接的な介入は、「実際に米国人が人質に取られたから奪還作戦を行う」といった単刀直入なものが多くなるだろう。情報収集ミッションは盛んにやるだろうけど。マーリキー政権に出て行けと言われたのでできていなかった情報収集活動を、今度は帰ってきてくれと頼まれたので盛大にやって観察・蓄積しておく、ということになるのだろう。

また、ISISの急激な支配領域拡大は、思想・統治手法あるいは長期的な戦略目的を異にする連合するスンナ派諸勢力と相いれなくなって仲間割れする可能性を抱え込んだのではないか、という点も指摘しておいた。ISISを一時的に受け入れてマーリキー政権の支配を跳ね除けようとする諸勢力が、今すぐ仲間割れしていくとは限らないが、中央政府からより大きな権限配分を勝ち取っていけば、逆に「ISISを掃討する側」に転じる可能性はかなりある。

これらはそれほど際立った論点ではないが、現時点で欠かせない、と思ったがすでに掲載紙が届いたころには時間が過ぎているな。とはいえこういう雑誌は着実に一般読者に広めるには有益。

そもそも際立ったことを言うことが執筆の目的ではありませんので。中東論を突飛なことを言って自己主張・アイデンティティのよりどころにする議論が、中東研究を「こじらせ」てきました。淡々と生きましょう。

【寄稿】ISISとイラク情勢についての解説『産経新聞』

今朝の産経新聞「正論」欄にコラムが掲載されました。

池内恵「「テロ組織」超えたイラク過激派」産経新聞2014年6月26日朝刊

内容は、イラク情勢についての基本的な事実のまとめです。

紙幅が限定されているので、基礎事項をまんべんなく入れると字数がほぼ消化されてしまいます。そうはいっても新聞コラムとしては最大限のスペースを確保しているとは思いますが。

(6月30日発売の『週刊東洋経済』7月5日号には、1000字ぐらい多いので、いくつか若干踏み込んだ部分を含めた原稿を出してあります。出たらまたお知らせします)

産経新聞の「正論」欄は、執筆者リストに入っているので不定期に執筆しています。多くは中東で事態が切迫した時に、主張というよりは解説を執筆しています。

(執筆者の写真は執筆者リスト入りを依頼された2005年当時のものが使われています)

【追記:下記に本文テキストを張り付けておきます】

「テロ組織」超えたイラク過激派

 イラク北部・西部で急速に勢力を伸張させる「イラクとシャームのイスラーム国家」(ISIS)は2011年末の米軍撤退以来、忘れ去られていたイラク問題を国際政治の中心に再び押し戻した。

 ISISは、イラク戦争後に現れた反米武装集団を起源とし、宗派間の敵対意識を扇動してマーリキー政権に対抗することで頭角を現した。07年から翌年にかけての米軍増派攻勢でいったんは活動が下火になったものの、11年の「アラブの春」の社会・政治変動の波を受けてシリアが混乱すると、そこを拠点に勢力範囲を広げて息を吹き返し、再びイラクでの活動を活発化させていた。

■軍事的、政治的対処が必要

 ISISは国際テロ組織、アル=カーイダから思想的に刺激を受けているが、エジプト人のアイマン・ザワーヒリーが指揮するアル=カーイダの中枢組織からの指令には服しておらず、アル=カーイダが認めるシリアでの組織「ヌスラ戦線」とも対立している。

 イラクでの現在の勢力範囲や活動実態から、ISISを「国際テロ組織」と呼び続けるのは適切ではないだろう。内戦状況にあるシリアとイラクでの軍事的・政治的な勢力の一つととらえ、軍事的な攻撃だけでなく政治的な対処を行う必要がある。

 世界各地からムスリムのジハード(聖戦)義勇兵を集め、自爆テロや暗殺、敵対勢力の兵士の殺害などを行っているという意味で、ISISの中核部分が「国際テロ組織」であることは間違いない。また、その思想は、2000年代半ばに、アル=カーイダの理論家が構想した、治安が揺らいだ世界のイスラーム地域に浸透して大規模に組織化・武装化する「解放された戦線」を作り上げるというヴィジョンを、実現に移しているものと見ることができる。

 だが、単なるテロ組織ではイラクの北部・西部の広範な地域に支配領域を広げることはできないだろう。旧フセイン政権を構成したバアス党・軍・諜報関係者を中心とした秘密組織「ナクシュバンディーヤ教団軍」が結成され、マーリキー政権相手の武装闘争を水面下で組織化していると報じられるが、ISISはこれとの連携により勢力を広げたと見られる。

■首都や南部の制圧は困難か

 急激に支配地域を拡大したISISだが、首都バグダードの制圧や、南部への勢力伸張には困難を伴うだろう。ISISが比較的容易に制圧したのは、イラク北部から西部にかけてのニネヴェ、サラーフッディーン、アンバール、ディヤーラの4県である。

 これらはスンニ派が多数を占める県であり、現在のイラクの体制を定めた05年10月の憲法制定国民投票で過半数あるいは3分の2以上が反対票を投じていた。シーア派やクルド人が多数を占めるその他の県ではいずれも圧倒的多数が賛成した。イラクの宗派・民族の間で現体制の根本的な理念や制度をめぐる意見は大きく割れる。

 マーリキー首相は分裂した国論をまとめるのではなく、逆に宗派間対立を利用し、多数派のシーア派の支持を取り付けて政権を維持してきた。より広くスンニ派を取り込んだ政権を成立させなければ事態の解決は考えられない。しかし、スンニ派の旧フセイン政権支持層にも根強い支配者意識、優越意識があり、取り込みは困難を極める。ISISを前面に押し立てた軍事攻勢でスンニ派主体の地域支配を固めたことで、スンニ派の旧支配層は勢いづき、交渉による解決を一層困難にするだろう。

■イランが米空白埋める危険

 また、北部3県で自治政府を構成するクルド人は、ISISの伸張に直面したイラク政府軍が撤退したのを受け、キルクークなど自治政府の外でありながら歴史的にはクルドの土地とみなしてきた範囲に、クルド人民兵組織ペシュメルガを進駐させており、イラク政府あるいはスンニ派の諸勢力との将来の紛争が危惧される。

 ISISがイラク北部・西部からシリア北部・東部にかけての勢力範囲を固定化すれば、両国にまたがるスンニ派地域での事実上の国境再画定となりかねず、その場合は隣接するスンニ派が多数派のヨルダンも不安定化しかねない。また、クルドの独立機運を抑え込むことも不可能になるだろう。

 マーリキー政権がISISの掃討作戦を行えば、イラクやより広いアラブ世界では、シーア派対スンニ派の全面的な宗派間戦争と受け止められかねない。ここで気になるのはイランの介入である。

 オバマ米政権は国際テロを主要な脅威としつつも、それが直接米国に及ばない限りは現地政府に主な対処を委ね、背後からの支援に回る姿勢を見せている。理論的には正しいが、実態として効果が上がるかどうかは未知数である。米国の消極姿勢が生んだ力の空白をイランが埋め地域覇権国としての地位を高めれば、サウジアラビアなどスンニ派のアラブ諸国が危機感を強め、イラクやシリアやレバノンでの代理戦争を宗派紛争を絡める形で一層激化させ、さらなる混乱をもたらす危険性がある。
(いけうち さとし)
産経新聞2014年6月26日朝刊

【寄稿】イランがイラク介入で米国に協力持ちかけ『フォーサイト』

イラク情勢について、13~14日の動きを、イランの介入を中心にささっとまとめました。

池内恵「イラク内戦に介入するイランが米国に囁く「協力」」『フォーサイト』中東の部屋、2014年6月15日

2005年に『フォーサイト』(当時は月刊・紙媒体だった)に書いた「イラクのどこに希望を見いだすのか 「新国家」成立を左右するキルクーク問題」『フォーサイト』2005年12月号、をフォーサイトの過去記事から引っ張り出して読んでみると、対立の基本構図は全然変わっていないな、と思いました。

2005年末に成立した現体制で不満を持つ中部と北部の4県のスンナ派勢力の取り込みができないまま、テロとか宗派紛争とか、米軍のサージ(増派攻勢)で抑え込んだりといったことをしているうちに時間がたってしまったわけです。米軍が2011年末に撤退すると、マーリキー政権は強硬策しかとらずに不満を放置。ついにISISが台頭してしまった。

また、先日のテレビ朝日に対するコメントで、イランが介入し、それを米国が黙認して、むしろサウジとかが米国から敵視されるようになったらすごい変化ですね、といったことを「専門家ならだいたいこう思うでしょ」程度の想像で話したら、番組で使われていましたが、それがすでに現実になりかけている気配もあります。

オバマ政権がイランとの合意に賭けていますから。イランもあまーいささやきをしています。

2005年の憲法制定以来、テロや宗派紛争はあっても、問題の構図は変わらなかったイラクを巡る情勢が、一気に動き出しているのかもしれません。

以下に本文の冒頭を張り付けておきます。【追記:のちに無料公開に切り替わりましたので、全文を張り付けておきます。ただし英語などへの参考記事へのリンクは貼っていないので、フォーサイトから辿って行ってください】

 6月10日にイラク北部モースルを制圧したISIS(イラクとシャームのイスラーム国家)は南下してバグダードに向かった。これに対してマーリキー首相は13日にサーマッラーを訪問して軍・部隊にテコ入れした。同日の金曜礼拝ではイラクのシーア派宗教指導者の最高権威シスターニー師の声明が読み上げられ、シーア派信徒に祖国防衛のための義勇兵として参集するよう呼びかけた。サーマッラーに配置されたイラク国軍部隊はISISの襲撃予告を受けて多くが離脱してしまったようだが、マーリキー政権支持派の民兵組織やシーア派義勇兵を動員してISISの攻勢を食い止めているようだ。

 ISISの勢力範囲は、スンナ派が大多数を占める4県、すなわちニネヴェ、アンバール、サラーフッディーン、ディヤーラで急速に拡大したが、その外では住民の支持をそれほど得られないだろう。イラク戦争後の体制を定めた2005年10月の憲法制定国民投票では、これらの県では軒並み過半数あるいは3分の2が反対票を投じていた。それに対してクルド3県や、シーア派が多い9県、そして首都バグダードやキルクークではいずれも圧倒的多数が現憲法に賛成票を投じた【「イラクのどこに希望を見いだすのか 「新国家」成立を左右するキルクーク問題」『フォーサイト』2005年12月号】。2006年以降急激に増えたテロや宗派紛争、そして過激派の伸長は、現体制の制度の枠内で政治を行うことにそもそも否定的なスンナ派諸勢力と、シーア派主体の現政権が、妥協を拒否し対決し続けているところに由来する。

 気になるのがイランの動きである。13日、イラン革命防衛隊の高官で、シリアやレバノンの紛争に介入してきたクドゥス部隊を統率するスレイマーニー少将がバグダード入りし、マーリキー政権高官や、民兵組織の指導者、アンバール県のスンナ派部族指導者などと会合を持ったと報じられている。イランはすでに先遣隊2000人を送り込んでいるとも明かしている。マーリキー政権もイランに支援を仰ぐ可能性を公にしている。

 米オバマ政権もISISのイラクでの伸張は米の国益を脅かすと言明、軍事的なものを含む対処策を検討しているが、イランの素早い動きに先を越されている。イラクのマーリキー政権はシーア派主導でイランの影響力が強いとはいえイランの支配下にはなかった。基本的には米国の支援によって軍事・安全保障を支えられており、マーリキーが首相の座に長期間座っていられた原因の一つも、米国から見て「イランに近すぎない」からだ。

 しかしこのままでは、マーリキー政権はイランに頼らざるを得ず、ISISの伸長を好機に、イラクの政権や国土全体にイランの影響力が増大することになる。米国がふんだんに供与した兵器や設備を使って、イランに支えられたマーリキー政権が、イランの反米活動の先兵となってきた革命防衛隊やバシジ(民兵)と共にスンナ派の過激派と戦うというのは、少し前なら想像もできなかった非現実的な光景だ。

 しかし中東への直接的な介入を忌避し、イラン核開発問題での合意を政権の外交成果としようとするオバマ政権の意志が明確になっている現在、イラクをめぐってイランと米国が同盟するというシナリオすら全く想像不可能なものではなくなっている。

  「泣く子も黙る」コワモテのスレイマーニー少将の暗躍に並行して、イランが繰り出しているのは「甘いささやき(charm offensive)」である。匿名の高官が米国との協力の可能性をささやくだけでなく、ついには14日にロウハーニー大統領自身が「米国と協力する用意がある」と明言した。

 うますぎる話である。

 アメリカの力を利用し、イスラーム主義過激派の挑戦を逆手にとって、イラクに勢力圏を築く、というイランの「地政学上の合気道」のお手並み拝見というところか。

(池内恵)

【寄稿】ISISはイラク国家の崩壊を導くか?『フォーサイト』

イラク情勢について、『フォーサイト』で基本的な見方をまとめました。

池内恵「イラクとシャームのイスラーム国家(ISIS)はイラク国家を崩壊させるか」『フォーサイト』専門家の部屋、2014年6月13日

 6月10日にイラク北部モースルを、イスラーム主義過激派集団の「イラクとシャームのイスラーム国家(ISIS)」が掌握した。ISISの勢いは収まらず、南下して、バイジーやティクリートといったイラク中部の主要都市を制圧し、首都バグダードに迫ろうという勢いである。

 2003年のイラク戦争以後、テロが止まず不安定と混乱でぐずつくイラク情勢だが、ISISの伸長が、全体構図に玉突き状に変更を迫り、周辺諸国や地域大国を巻き込んだ内戦に発展する危険性がある。

「国際テロ組織」の範囲を超えた武装民兵組織

 ISISは「アル=カーイダ系の国際テロ組織」と通常形容されるが、現在の活動はそのような形容の範囲を超えている。昨年3月にはシリア東部の主要都市ラッカを制圧し、今年1月にはイラク西部アンバール県のファッルージャを掌握、県都ラマーディーの多くも支配下に置いていた。

 確かに組織の発端はイラク戦争でフセイン政権が倒れたのちの米駐留軍に対抗する武装勢力の一つとして現れた「イラクのアル・カーイダ」だった。しかしシリア内戦への介入をめぐって、ビン・ラーディンやその後継者をもって任ずるアイマン・ザワーヒリーの「アル・カーイダ中枢」とは対立し、袂を分かっている。

 自爆テロを多用する手法には共通している面があるが、それは手段の一部であり、領域支配といったより大きな政治的野心を持つに至っているようである。イラク北部・西部や、シリア東部での活動ではテロを実行するだけでなく、内戦・紛争の混乱状況の中とはいえ、局地的に実効支配を試みている。所在を隠したテロ集団ではなく、政治勢力の一角に場所を確保する存在となりつつある。

【以下はフォーサイトで…】

ISISの背景や関連する問題については、次のような文章も書いています。
シリアのアル=カーイダ系組織の不穏な動向『フォーサイト』2013年4月12日
シリアの地場のイスラーム系諸民兵集団が連合組織を結成『フォーサイト』2013年11月23日
シリア問題を「対テロ戦争」にすり替えようと試みるアサド政権『フォーサイト』2014年1月23日

【寄稿】1945と1989:年号から読む国際秩序~『文藝春秋』7月号

6月10日発売の『文藝春秋』7月号に寄稿しました。

『文藝春秋』はコンビニにもあるんですね、ということを初めて意識しました。

池内恵「必須教養は「アメリカの世界戦略と現代史」」『文藝春秋』2014年7月号、320-327頁

「教養」特集という、ブックガイドと並んでよく月刊誌でやっているような特集の枠で依頼を受けたのですが、意識としては『フォーリン・アフェアーズ』で行われているような議論を日本の読者にもわかるような形で書き直しました。

「教養」と依頼を受けても皆目見当がつかないし、そもそもひどく忙しくて曖昧なテーマに対して何かを書くという余裕がないので、編集部の方に来てもらい、語りおろし的なことをやった上で、いつも通りほぼ全面的に書き換えています。編集部が聞き取ってその中からテーマと並べ方を決めたうえで私が書き直しているので、自分一人で最初から書き起こしたら書かなかったであろうテーマや論点が入ります。編集部から提示される草稿を見るのは毎回かなりの精神的な苦痛、というかショックを受けます。私一人で書けば絶対に書かなかったであろう論点が大きく前面に出ていたり、過剰に政治的な姿勢が強く出ているようにまとめられていたりするからです。

しかし落ち着いて考えると確かに、意味のある論点ではあり、日本で求められている論点でもあるのだな、とそれなりに納得します。そのうえで、研究者として致命的なダメージを受けることがないように、語彙を正確にし、必要なバランスを取り、一定の理論的な脈略にもつなげるために、せっせと書き直すわけです。

編集部は「教養」のうち「世界史」的な方面を私に受け持たせたかったようで、特に「年号」をいくつも出させようとしていましたが、そもそも私は思想史なのであまり年号を気にしたことがない。年号を特定できるような「事件」で世の中が動くとは考えていません。

また、世界史というと年号を覚えさせられた記憶しかない、という受験の呪縛を、読者には解いていただきたいものですから、衒学的にいろいろな年号を並べることはいたしません。

しかしもちろん「年号」には意味があるわけで、編集部に無理やり「年号」を吐き出させられていると、それなりに有益な議論につながりました。

結局「1945」が最も大事という、一見当たり前の結論になります。で、思想史的にも、国際関係論的にも、1945を基軸にしたものの見方を再認識することは、現在の日本にとって必要なことと思われます。

もう一つ年号を出せと言われれば、「1989」ですね、ということになりました。

これもまたありふれているとみられるかもしれませんが、そもそも突飛なことを言おうとは思っておりませんので・・・

しかし国際社会を基礎づける「規範」がどのような基準に基づいていてそれがどのような変容の過程にあって、そこで日本はどうふるまうべきか、と考えるには、「1945」と「1989」の意味をしっかり理解しておくことは不可欠でしょう。

安倍首相の「戦後レジームからの脱却」という思想が秘める求心力と危うさ、あるいは「弱腰」が危惧される米オバマ政権とどう関係を保つか、あるいは中東情勢を見るにも、ウクライナ問題を見るにも、そして東アジア・東南アジアでの日米中の関係を見るにも、「1945」と「1989」に端を発する、国際社会の支配的な価値規範とその変化を軸に考えていく必要があります。

突然依頼されて突然編集部にインタビューを取られ、急いで書き直したので、5月に読んで考えていたことがストレートに出ている面があります。

『フォーリン・アフェアーズ』誌の電子版を取っているのですが、その5/6月号で興味深い論争がありました。

ネオコンサーバティブ的な思想傾向も感じられるリアリストのウォルター・ラッセル・ミードがオバマ政権への批判を込めて、「地政学の再来」を論じたのに対して、リベラルな多国間主義を基調とするジョン・アイケンベリーが反論するという形の論戦です。

Walter Russell Mead, “The Return of Geopolitics: The Revenge of the Revisionist Powers,” Foreign Affairs, May/June 2014.

G. John Ikenberry, “The Illusion of Geopolitics: The Enduring Power of the Liberal Order,” Foreign Affairs, May/June 2014.

この二つの論稿は、国際関係論のリアリストとリベラリストの考え方を、かなり単刀直入に(粗野に?)分かりやすく示しているという意味でも興味深いものです。これらとあとフォーリン・ポリシー誌などに出ている関連する議論をまとめてブログで紹介しようかなと思っていましたがまったく時間と余裕がなく残念に思っていたところ『文藝春秋』編集部がやってきたので、「年号」で読む世界史にかこつけて、噛み砕いて話をしました。

大枠としては
(1) 「1989」をめぐってはフクヤマ『歴史の終焉』とハンチントン『文明の衝突』が、冷戦後の国際秩序とその規範についての、対立するがどちらも部分的には多くを説明できる思想だったよね。ウクライナ問題を見ても、フクヤマのいうリベラルな民主主義という規範の広がりと、文化・文明的な断層の強固さの両方が表面化してせめぎ合っている。

(2) でも「1989」で決定的にすべてが変わったとする見方には異論があって、現実的にはその異論には説得力があり、なによりも実効性がある。つまり、「1945」を基準・起点にした支配的価値観や国際関係の諸制度と、それを支える米国中心の覇権秩序の中に、私たちは今もいるということは変わりがなかった。

(3) アイケンベリーはそれを「1945年秩序」と定式化した。彼は「1989」では大して物事は変わらなかった、という説の代表的論者で、実際にそれは現実の国際秩序を反映した議論だし、政策論的影響力もある。

ここでのアイケンベリーの議論は『リベラルな秩序か帝国か アメリカと世界政治の行方』(上下巻、勁草書房、2012年)で詳細に論じたものと基本的に変わっていない。秩序は変わっていないと論じ続けているわけである。

(4) 「1945」を大前提とし、「1989」をそれに次ぐ大きな画期とする世界史の流れの中で、日本はどういう立場なんでしょうね?「1945」のどん底から「1989」には頂点に達していた。それぐらいの変化が二つの年号の間にはあった。しかし「1989」は国際社会の規範や制度を決定的に変えるものではなかった。そして「1989」以後の変化を受けて、中国やロシアは「修正主義」の立場をとっている。しかし両国は「1945」の秩序では有利な立場におり、そこに戻ろうとする。日本は「1945」以降の歩みと、「1989」の時点での立場においては、最大限有利になった。しかしその後足場を弱めているだけでなく、うっかり「1945」の時点の秩序に戻されてしまうと不利を蒙る。それを考えると、米国への対し方も、中国との距離の取り方も、歴史認識問題への対処法も、軸が定まるのではないかな?

こういった国際社会の規範という軸で考えると、1945と1989以外の年号は全く覚えなくていいとすら言える。世界史は論理であって暗記モノではないのです。

といったことを、まったく別の表現で語っています。総合雑誌ですので、行ったり来たりしながらけっこう長々と語っているので詳しくは本文を読んでください。

なお、中東だけを見ていると1945年の画期性は見えにくい。中東研究者としての我田引水的業界利益誘導では「イラン革命があった1979年が決定的だ」とか叫ばないといけないのかもしれないが、そういうことはする気がない。

米国が覇権国である事実など、中東の現実は中東の外で決まっている面が大きい。だからやはり1945年は重要なのだ。

これを入稿してしまった後の5月28日に、オバマ大統領がウエストポイント陸軍士官学校の卒業式で演説を行いました。現在の国際政治を見る視点という意味では、私がいろいろと解説するのを読むよりも、オバマの演説を10回読んだ方がいいような気もしますが、オバマ演説の日本向けの解説として『文藝春秋』の拙稿を読んでいただいてもかまわないかと思います。

オバマのウエストポイント演説は、まさにアイケンベリーをそのまま援用したかのような議論によって、「弱腰」批判をはねつけています。一言でいえば「パワーに支えられた多国間主義」でしょうか。多分本当にアイケンベリーが演説にアドバイスしているのではないか。

この演説で、オバマは要するに「1945年秩序」は健在でますます強いよ、と言っているわけです。

演説の組み立て方については、いつも通り非常に理論的で緻密で、何よりも、学問的な通説を踏まえています。オバマは本当に大学の先生みたいだな、という感想を持ちましたが、もちろん重要なのはオバマの演説に見られる個人的なスタイルや性格ではなく、実際にアメリカが政策として何をやるかです。

大統領が「言っていること」とアメリカが「やること」との関係は複雑微妙なので、この演説の政治外交的・安全保障上の意味はまだ測りかねていますが、少なくとも二期にわたるオバマ政権の外交政策の理念はこれで示されたと思います。その結果は「アイケンベリー」だったんだね、というところが、いかにも「大学の先生」らしくて、個人的には納得と共に感慨深いものがあります。オバマ政権も終幕に向かっているんだねえ。とはいっても米大統領の任期の最後の方は国際政治もどたばた動くことが多いので、気を抜くわけにはいきません。

「1945年秩序」が現在をどう形作っているか、その後何が変わったのか、ということを考えながら、例えば先週あったノルマンディー上陸作戦70周年記念式典のニュース(NHKBS1なら欧米各局のさまざまな報道が見られました)を見ると、単なる儀式としてではなく、緊迫した国際政治のせめぎ合いを感じ取ることができて、面白かったのではないかと思います。

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記(第2回)~新書を考える

本日、6月9日(月)発売の週刊エコノミストの「読書日記」欄に寄稿しました。5人の執筆者が順に担当する欄で、二回目。

今回は新書論。

池内恵「『ジャンクフード』と化した新書の読み方」『週刊エコノミスト』2014年6月17日号(第92巻第27号通巻4349号)、55頁

週刊エコノミスト2014年6月17日号

このブログでもこのテーマについてはだらだらと書きましたが、愚痴ばかりではない前向きな情報も加えて、1頁にまとめました。今回も、電子書籍版やデータベースでは読めません!書店でお買い求めください。

別件の依頼で、ちくま新書のリストをさっと見て価値あるタイトルを抜き出すという作業に1時間ほど没頭してしまったのでその成果も部分的に取り入れました。リスト見るといい本あるじゃないですか。本屋の棚での印象と違うな。

ちくま新書は今年で20周年だそうです。講談社現代新書になると50周年だそうなので、タイトルを全部見るのも時間と労力的に無理そうだ。誰にも頼まれていないか。

うちの原稿はどうした!という声が虚空から3つ4つ聞こえた気がした。トカトントン。それじゃ。

【寄稿】「逃げ切り保守」の時代

告知するのを忘れていましたが、月刊『文藝春秋』に寄稿しました。

池内恵「団塊世代の「逃げ切り保守」」『文藝春秋』 2014年6月号、328-329頁

「安倍総理の「保守」を問う」という「超大型企画」なるものの一部なのですが、「アンケート」ということで400-500字程度の短いものです。私は時数を極力守ったので言葉足らずなのですが、他の人はけっこう長く書いてるよ。ずるいなあ。

だいたいこんな趣旨のことを。字数が足りないので実際にはもっと投げやりな文体になっていますが。

*特定秘密保護法とか、集団的自衛権とかに対する、近年のメディア上の議論はまったく無意味で論点がズレすぎている。

*これは保守思想とかリベラルとかいう問題ではなく、「団塊世代」の不勉強と居直りが原因。

*現在の議論は「俺たちが正しいと思ってきたことを変えるな」と定年退職して暇になった団塊世代が数を頼みに騒いでいるだけ。

*安倍首相は「おじいちゃんっ子」で、実年齢と主観的な世代認識がズレていて、その結果、団塊世代のだらしなさをそれより「上の世代」の目線から成敗する役割を負うことで、結果的に幅広い世代に支持されているのではないか、というのが私の仮説。

安倍首相は、団塊世代に下からやいやい言われ続けて嫌な思いをし続けてきた、(例えば)政治評論家の故三宅久之さんタイプの旧世代に絶大な人気を誇るとともに、団塊ジュニア以下の、逃げ切り・無自覚・身勝手な団塊世代が年金とか国家財政とか安全保障体制とかを食いつぶして居座ることにいい加減我慢ならなくなっている下の世代から、相対的・消極的に支持・黙認されている、というのが大勢ではないかと思う。

だから、安倍首相への支持率は高くても、野党時代の自民党の憲法改正案とかは、復古調過ぎて大勢はまるで支持も関心もない。安倍首相とその取り巻きが、9条ではなく、憲法全体を復古・道徳調で本当に書き直すという動きにもし出れば、下の世代からの支持は一気に引くだろう。

問題は、安倍憎しで凝り固まっているリベラル派の言っていることが、まるでリベラルでないこと。

・・・だってねえ「立憲主義を守れ」という側が、その最大の守り手として「天皇陛下」にすがったり(リベラル・左翼は最低限共和派であってくれないと困ります)、「内閣法制局」に高次の憲法解釈権があると主張してそこから内閣の政治判断を統制しようとしたりするのって(それ最悪の官僚支配だろ。せめて最高裁にしろよ。最高裁判事だって官僚だから不十分なんだが)、日本を一歩出ればもうまーったく説明できませんよ。

集団的自衛権の議論を聞いていると、日本のリベラル派は、天皇親政の官僚支配国家を望んでいる、としか理解できませんよ。外国人にもしそのまま彼らの議論を紹介すると、「その人たちはリベラルじゃなくて、国粋民族主義保守派なのでは?」「いや、でもそういう人たちが戦後の日本ではリベラルと呼ばれているんです」と噛み合わない議論をしなければならんのです。

こういった議論が日本では、政界や学界やメディアでなぜか通用しているという事実は、ある国のある歴史的環境において生じた近代史上に稀な逸脱思想史として、興味深い分析対象となると思いますが、こういうことを対象化すると学界・メディアで村八分になるので誰も言い出せない、考えることすらできない構造があります。

すさまじい同調圧力の中で、その場その場でふさわしいことを言った人が生き残る、というのでは思想は育たないよな・・・しかもそれがリベラル陣営なんだから。まあ保守派もひどいけどね。しかし同調圧力かけて異論を持つ奴は村八分にしてボスが予算と発表の場を支配して思想的ヘゲモニーを維持しようとする「リベラル」ってなんなんだ・・・グラムシが生きていて日本語を解したらなんと言うでしょうか。

摩訶不思議な日本思想の逸脱を、結局日本の学者は「ムラ」の中にいるから対象化できず、そのうち英語で外国の学者が分析して外国の大学出版社とかから出してそれがスタンダードになるんだろうな・・・

しかしこういう不利な状況だからこそ、「出過ぎた杭」になって日本の思想状況を相対化するような論者が出てくると、一気に頭角を現せると思うのだけど、そういう人いないかなあ。

【寄稿】中東・湾岸地域の安全保障『アジ研ワールド・トレンド』6月号

最新の寄稿です。

日本貿易振興機構アジア経済研究所の発展途上国分析の専門誌『アジ研ワールド・トレンド』6月号の特集「激変する湾岸の安全保障環境」に、論考を寄稿しました。

(現在は目次が載っているだけですが、刊行後2か月たつと各記事がPDFで無料ダウンロードできるようになります)

池内恵「中東地域の政治・安全保障における湾岸産油国の影響力──「アラブの春」後のGCC諸国の台頭とその持続性──」『アジ研ワールド・トレンド』第224号、2014年6月号、10-14頁

ペルシア湾岸の安全保障環境はまさに「激変」中で、この特集に皆で論文を出した後にも急速に動いています。

この特集が対象にするのは、ペルシア湾岸地域すなわち主にGCC諸国+イラン・イラクですが、それらの国を中心にして、パキスタンなど南アジアの一部を含んだ国際関係を考察したり、より広域の中東・北アフリカ(シリアなどの中東、エジプト、チュニジア、モロッコなどの北アフリカを含むエリア)の国際関係にペルシア湾岸諸国の最近の変動がどのような影響を及ぼしているか、といった課題を含んでいます。

私の論考は、ペルシア湾岸のアラブ産油国(GCC諸国)が、「アラブの春」以後に、より広い中東・北アフリカ国際政治へ影響力を増大させた「現象」を叙述し、その要因を考察し、今後の持続可能性について検討した・・・といったものです。米国の影響力の希薄化の「印象」がそこにどう影響を及ぼしているか、なども多少考慮しています。

【寄稿】「エジプト映画の想像力」出ました+「文芸雑誌」という制度

文芸雑誌にエッセーを寄稿しました。

池内恵「エジプト映画の想像力」『群像』2014年6月号、138-139頁

『群像』とは?

講談社発行の文芸雑誌。

読んだことのある人はどれだけいるでしょうか。

少なくとも、書店で買って読んだ人は極めて少ないであろうことはおおよそ想像できると業界で言われている・・・

回りくどい言い方になりましたが、「実売部数はすごく少なそうだ」。

けれども、大手出版社各社が揃って出し続けている。日本の出版界の「制度」の一つが「文芸雑誌」。

『群像』(講談社)
『新潮』(新潮社)
『文學界』(文藝春秋)
『すばる』(集英社) 
『文藝』(河出書房新社)

あんまり売れてそうでもないのになぜ出し続けているの?

揶揄するような言い方では、「小説家になりたい人が買ってるんじゃないの?」というのがあります。

で、これはある程度正しいようなんです。

「書き手の数=読み手の数」では出版として成り立たないじゃないの?カニバリズムじゃないの、というのはすごく認識が甘く、もしかすると「書き手の数>読み手の数」というのを前提として出版はビジネスをやるようにならざるをえないのかもしれない。それが後期近代社会(おおげさ)。

今回はちょうど「第57回群像新人文学賞発表」らしい。また、冒頭の折込ページには次回の新人賞の募集が載っている。昔は新人賞の募集広告は、もっと中のほうに慎ましやかに載っていたと思うのだが・・・

「昔」というのは、親の職業柄、私の育った家にはすべての文芸雑誌が送られてきていたので、幼少時から大学生の頃まで毎号読んでいましたので。読んでいたというよりは眺めていたぐらいか。

文芸雑誌なので、主役で大部分のページを占めるのは「作家」による新作の小説や連載の長編小説なのですが、その合間にエッセーが載っています。単発のエッセーは各誌だいたい4本ぐらい(イメージ)、そのうち半数ぐらいは「作家」的な人に依頼されている(ような印象)、で残りの2枠ぐらいのうち一つにたいてい「大学教師・研究者」みたいな人が入っていることが多い(と思う。あらためて調べたわけじゃございません)。

私自身は、文芸雑誌の紙面に流れている時間と空間になじみがないわけじゃないというか、ものすごいなじみがあるので、「エッセー4枠のうちの1」に助っ人的に書くことは「やぶさかじゃない」(よく分からない言葉だが一度使ってみたかった)し、はっきり言えば得意だと思います。隙間の時間の1時間ぐらいでさっと書けます。それ以上の時間はかけちゃいけないよ、とも思っています。だって大部分は失敗作にならざるを得ない新作小説だけだと非常に絶望的な気持ちになるのでそこで頭をちょっと休めるための埋め草エッセー欄のそれもオマケ枠みたいな最後の1枠だからね。「埋め草」のより大きな枚数を占めるのが作家や批評家による対談や合評会だが、それは全部ひっくるめて業界の噂話みたいなもんだ。そうやって作家に定期的に発注するためのシステムが文芸雑誌。

ただし実家に送られて来ていた文芸雑誌で実際に読んだのはこういうエッセー欄だけだったと思うので、おそらく(同じように送られてくる)よそんちでも同じようなことが起こっていると思うので、編集者とか書き手とかその家族とかの間で読まれる確率は高いとも思っております。

中東・イスラーム学やら、もっと広く国際関係・地域研究の研究者が文芸雑誌にエッセーを書いているのはあまり見ない。私の場合は「業界の遠縁」ぐらいの感じが伝わってたまに依頼が来るんでしょうか。

調べてみたら過去に文芸雑誌に書いたのはこのようなものでした。

池内恵「イスラーム的サッカー」2002年5月号
池内恵「時差の文学」『群像』2003年10月号
池内恵「『針の眼』の文献学――イスラームと西洋文学の十字路」『文學界』2006年4月号

いずれも『書物の運命』(文藝春秋)に収録してあります。

しかしこれらのエッセーは、文芸雑誌のエッセーや評論にありがちな、日本の文壇・思想界にとって望ましい「中東」や「イスラーム」の形式や内容に即していない。なので、毎回反応は特にないです。

鈍感な人に向けて野暮なことを書くと、「『イスラーム的サッカー』なんてない」、って書いているんだからね。それでも分からない人は・・・どうしようもない。

今回は、ちょうどエジプト映画の「アラブの春」前後の表象を調べているので、そこから切り出して書きました。情報量は多い。本当に「中東」「イスラーム」の現在を知りたければ当然知っていなければならない、現地の文化現象を、聞かれもしないのに紹介してあげています。

しかしこれは、日本の業界の「文学者」「批評家」「思想家」が興味を持とうとも、理解するための能力を培おうともしないであろう内容なんだろうなあ、と思います。

「なんでこんなエジプト映画のことなんて知らなければいけないんだあ?」と言われてしまいそうだが。

逆に、私から見ると、「知らないで書ける」人たちが怖くてたまらない。現実に生じていることと無関係に、自分の頭の中にある「中東」「イスラーム」を描くことが「想像力」で「思想」なのだとしたら、私はそのようなことを生業にしたくありません。

「イスラーム」については本当に少ない情報に基づいて、日本的な相互の了解に基づいた言説を何人かの「思想家」が猛然と発信しているけれども、まあほとんど価値はありません。勘違いの体系が日本語で作られていると言っていい。というかもうちょっとまともな研究書を読んで(大部分は外国語です。井筒俊彦はかなり独自の思想家なので井筒だけに頼らないでください)、それから、それ以前に原典を読んでから書いてよ。勘違い×思い込み=真実ではありません。

大手出版社と「文芸雑誌」というシステムに守られていちゃいかんのじゃないかと思うよ。

【寄稿】読書日記1「本屋本」を読んでみる『エコノミスト』5月6・13日合併号

『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)の「読書日記」欄への連載第1回が4月28日(月)に発売されました。

池内恵「ネットで買えるのにあえて書店に行く理由」『週刊エコノミスト』2014年5月6・13日合併号、65頁
週刊エコノミスト2014年5月6日13日号

今回文中で言及した本は、次の二冊でした。


福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書)


内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)

(Kindle版)

書店員・書店主による「本屋本」を読んでみた中で引っかかってきた本です。

福嶋聡さんはジュンク堂難波店の店長、内沼晋太郎さんは下北沢の「B&B」の書店主です。

まったく偶然ですが、今日、ジュンク堂梅田店に行ってきました。なかなか壮観、荘厳です。

「読書日記」については、以前にこのブログで書いたことがあります。
 
読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)(2014年4月1日)
『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)(2014年4月16日)

【ご注意】なお、池内の『週刊エコノミスト』「読書日記」欄への連載は、電子書籍版への掲載やデータベース配信は行われません(私が承諾していないので)。

【寄稿】世界情勢を読む10冊『クーリエ』6月号

 『クーリエ・ジャポン』6月号の巻末特別付録「知性を鍛える「教養書」100冊ブックガイド」に、国際情勢を読む10冊の本を紹介するコメントを寄稿しました。

「激動する世界情勢の「背景」と「未来」を知るための名著」(選者 池内恵)『クーリエ』2014年6月号特別付録、4-5頁

 (外国語のものは)翻訳が出ていて、日本で絶版になっていない本、という条件のため制約があるのですが、その枠内で10冊選び、それぞれに短いコメントをつけています。

 選んだ本の例は・・・

イアン・ブレマー(北沢格訳)『「Gゼロ」後の世界 主導国なき時代の勝者はだれか』(日本経済新聞社)

アーロン・L・フリードバーグ(佐橋亮訳)『支配への競争 米中対立の構図とアジアの将来』(日本評論社)

ルチル・シャルマ(鈴木立哉訳)『ブレイクアウト・ネーションズ 大停滞を打ち破る新興諸国』(早川書房)

(文庫化されました)

(Kindle版)

・・・など。

 米の覇権の希薄化、米中対立の行方、新興国台頭の終わり、というあたりの国際的な議論で主要なものはやはり訳されているのですね。

 今後の世界情勢を見る指針としては、

フランシス・フクヤマ(会田弘継訳)『政治の起源 人類以前からフランス革命まで』(講談社)


が示す、
「国家形成」「法の支配」「説明責任」の有無は、先進国でも途上国でも、民主体制でもそうでない体制でも、安定と繁栄の基礎になりそうですね。

 もちろん英語圏の概念的に跳躍した議論が常に正しいというわけではなく、ある国や地域をじっくり見て、歴史を踏まえて趨勢を読み解いていく地道な作業は、日本の専門家の得意とするところではないかと思います。

 その意味で、

津上俊哉『中国台頭の終焉』(日経プレミアシリーズ)

武田善憲『ロシアの論理 復活した大国は何を目指すか』(中公新書)

(Kindle版)

は勉強させてもらいました。いずれも新書で書き下ろしという日本独自のフォーマットで、お得でした。

 その他のセレクトやコメントは『クーリエ』6月号の巻末付録で。キリトリできます。

【寄稿】『ブリタニカ国際年鑑』2014年版の「イスラム教」の項目

『ブリタニカ国際年鑑』2014年版に解説を寄稿しました。

池内恵「イスラム教」『ブリタニカ国際年鑑』2014年版、2014年4月、247-248頁

短いものですが、2013年のイスラム教と国際政治を、三つの事件・事象から解説しました。1月16日の「アルジェリア人質事件」、4月15日の「ボストン・マラソン爆破テロ事件」、そしてこの昨年を通じて進んだ、シリアやエジプトやイエメンなど「アラブの春」後に治安が乱れた諸国にグローバル・ジハード運動が浸透する「『開放された戦線』の拡大」の事象を取り上げました。

アルジェリアのイナメナス(インアメナス)での事件や、ボストン・マラソン爆破事件については知られている情報を要約しただけですが、「開放された戦線」については、下記のブログ・エントリに挙げた昨年度に出た諸論文を踏まえた独自の議論です。

【論文】「指導者なきジハード」の戦略と組織『戦略研究』14号(2014年3月31日)

ご参考までに。

『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)

 月一回の読書日記を始めます、と告知したのですが(読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)2014年4月1日)、第1回の掲載号の発売日を誤って4月21日(月)としていました。

 今気づいたら実際には4月28日(月)発売の5月6日号に掲載でした。すでに原稿は出してあるので、お待ちください。

 今更ながら、書いてからタイムラグがあるんですね。

 2011年の「アラブの春」以来、ウェブ媒体への寄稿に力を入れていましたので、締め切りから発売までの感覚を忘れていました。

 昨年は『エコノミスト』に何度か書きましたが、時事問題についてだったので、校了日ぎりぎりまで締め切りが延びていたのですね。書評などは早めに原稿を確保しておくようです。

 もともと私は、月刊の総合誌・論壇誌に多く書かせてもらってきたのですが、「アラブの春」で、国際政治の動きが新しいメディアに媒介されて加速する現象に直面し、ウェブ媒体の可能性に気づかされたことと、月刊誌・論壇誌の相次ぐ廃刊や部数低下、広い世代への訴求力低下に、方向転換を迫られました。

『フォーサイト』(新潮社)では極限までのリアルタイムの発信を試みてきました。

 今回あえて紙媒体の週刊誌に戻った理由は・・・・

 連載書評でお読みください。

***

 書評といっても、まさにこれだけタイムラグがあるのだから、速報性や話題性を競ってもしょうがない。紙幅に制限があるから情報量も限られている。リンクも貼れない。

 もっと長いスパンで、本を読むこと、買うこと、書くことがどう変わっていっているのか。その中でなおも本を読む価値とは何か。そんなことを、5週に一度という、間延びした間隔ですが、継続して考えていく、そのような欄にしたいと思っています。

 第一回は「本屋に帰ろう」というテーマ。
 
 なお、ウェブ媒体や電子書籍を否定したり敵視したりするつもりはありません。ノスタルジーから本屋と活字・紙媒体を礼賛するのは、あまり意味はない。

 そもそも極端な活字派の私だってこのブログを書いている。

 今回の書評エッセーと本の選択自体が、インターネットで下調べをした結果、ウェブ雑誌の「マガジン航」にヒントを得ていると、文中でも断っております。

 私たちの生活とインターネットや電子書籍は分かちがたくなっていて、そこから大きなものをすでに得ている。だからこそ紙の本にも街の本屋にも新しい価値や役割が生まれてくる。そういう前向きな姿勢の「本屋本」を紹介するのが、今回の趣旨です。

 連載で書ききれなかったことは、このブログにも書いてみましょう。

 4月28日発売号でのエッセーの中核の部分は、本は究極にはデータだけやり取りできればいいように見えるのだけど、でも実は「モノ」として不器用に厳然として存在することにこそ本の強みはある、という点。

 この点は別の場所でもう少し深めてみたいものだ。

 そして、本屋は「モノ」としての本を売っているのだけれども、しかしモノと読者が出会う場と機会という「経験」を提供してこそ意義を持つ。インターネット書店や電子書籍が発達した現在、これは「逆説」に近い。「モノ」としての制約を極力超えてくれるのがインターネット書店や電子書籍の強みなわけで、この点でリアル店舗は不利に決まっている。

 しかし「モノかデータか」という二分法は現実の私たちの生活では無意味なんですね。本がモノとして厳然とあるからこそ、モノと人の出会いというモノならざるものを生み出す人や場所に価値が出てくる。

 インターネット書店は圧倒的に便利です。ウェブ雑誌は効率的で、全国・世界各地の図書館から本やデータを取り寄せることが一層容易になっている。けれどもだからこそ、モノとしての本の価値が出るし、リアル書店も見直される余地が出てくる。

 これまでと同じやり方をしていてはだめだけど、新しいやり方でこれまでの書店や出版社の全員が生き残れるとは限らないけれども、やり方によっては、書き手と書店が新たに読者とつながることができる。可能性はむしろ広がっている。それをどう生かすか、知恵の絞りようだ。

【論文】ジハード論の系譜学『国際政治』175号

やっと出ました。

池内恵「近代ジハード論の系譜学」日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁

学会誌の号全体はこれ

「やっと」というのは、私が書くのが遅れたという以外の意味は一切含んでおりません。

完成が遅れて、お世話になった皆さんには大変にお手数・ご迷惑・ご心労をおかけいたしました。

また、先に論文を完成させて提出させ、刊行を待っていた多くの執筆者の皆様にお詫びいたします。

さて、これで2013年度の棚卸しが終わりました。

新学期に向かっていきましょう。

【寄稿】移行期政治の「ゲームのルール」『UP』4月号

 年度末の納入。もう一本。

池内恵「移行期政治の「ゲームのルール」──当面の帰結を分けた要因は何か」《転換期の中東政治を読む11(最終回)》『UP』東京大学出版会、38-45頁

 ほぼ2号に一回のペースで『UP』に2012年8月号から連載してきた「転換期の中東政治を読む」だが、そろそろ潮時、ということでひとまず締めます。今回告知したように、変化していく現状の分析から、2011年以来の政治変動の全体をまとめる本の執筆に全力を注ぎたいものですから。

 この連載では、『フォーサイト』などで行っている現状分析よりもさらに一歩踏み込んで、それらを論文に抽象化するためにはどのような概念構成が有効か、模索する作業をしていました。

 ですので、2カ月に一回、学術論文一歩手前にちょっと及ばないぐらいの文章を書かねばならず、それは大変でした。年に6本も論文のアイデアが出る人はあまりいません。

 この連載をしていると、『UP』のアカデミックな世界での訴求率の高さを再認識しました。本としてまとまりをつける作業が終わったら、また戻ってきたいと思っています。

 なお、今書いている本は、この連載をそのまま再録するという章は一つもなく、また、連載では書いていない要素の方が圧倒的に多いので、この連載でちらちら示した概念や視点は出てくるけれども、まったく別物と考えてください。

 『UP』の連載は「ほぼ2」でやってきましたが、途中から息切れして休んだり、長すぎて二号連続になったりとがたがたになりましたので、私自身にとっても覚書として、次項に一覧を載せておこうと思います。