「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ

本日、シリアの「イスラーム国」による日本人人質殺害予告に関して、多くのお問い合わせを頂いていますが、国外での学会発表から帰国した翌日でもあり、研究や授業や大学事務で日程が完全に詰まっていることから、多くの場合はお返事もできていません。

本日は研究室で、授業の準備や締めくくり、膨大な文部事務作業、そして次の学術書のための最終段階の打ち合わせ等の重要日程をこなしており、その間にかかってきたメディアへの対応でも、かなりこれらの重要な用務が阻害されました。

これらの現在行っている研究作業は、現在だけでなく次に起こってくる事象について、適切で根拠のある判断を下すために不可欠なものです。ですので、仕事場に電話をかけ、「答えるのが当然」という態度で取材を行う記者に対しては、単に答えないだけではなく、必要な対抗措置を講じます。私自身と、私の文章を必要とする読者の利益を損ねているからです。

「イスラーム国」による人質殺害要求の手法やその背後の論理、意図した目的、結果として達成される可能性がある目的等については、既に発売されている(奥付の日付は1月20日)『イスラーム国の衝撃』で詳細に分析してあります。

私が電話やメールで逐一回答しなくても、この本からの引用であることを明記・発言して引用するのであれば、適法な引用です。「無断」で引用してもいいのですが「明示せず」に引用すれば盗用です。

このことすらわからないメディア産業従事者やコメンテーターが存在していることは残念ですが、盗用されるならまだましで、完全に間違ったことを言っている人が多く出てきますので、社会教育はしばしば徒労に感じます。

そもそも「イスラーム国」がなぜ台頭したのか、何を目的に、どのような理念に基づいているのかは、『イスラーム国の衝撃』の全体で取り上げています。

下記に今回の人質殺害予告映像と、それに対する日本の反応の問題に、直接関係する部分を幾つか挙げておきます。

(1)「イスラーム国」の人質殺害予告映像の構成と特徴  
 今回明らかになった日本人人質殺害予告のビデオは、これまでの殺害予告・殺害映像と様式と内容が一致しており、これまでの例を参照することで今後の展開がほぼ予想されます。これまでの人質殺害予告・殺害映像については、政治的経緯と手法を下記の部分で分析しています。

第1章「イスラーム国の衝撃」の《斬首による処刑と奴隷制》の節(23−28頁)
第7章「思想とシンボル−–メディア戦略」《電脳空間のグローバル・ジハード》《オレンジ色の囚人服を着せて》《斬首映像の巧みな演出》(173−183頁)

(2)ビデオに映る処刑人がイギリス訛りの英語を話す外国人戦闘員と見られる問題
 これまでイギリス人の殺害にはイギリス人戦闘員という具合に被害者と処刑人の出身国を合わせていた傾向がありますが、おそらく日本人の処刑人を確保できなかったことから、イギリス人を割り当てたのでしょう。欧米出身者が宣伝ビデオに用いられる問題については次の部分で分析しています。

第6章「ジハード戦士の結集」《欧米出身者が脚光を浴びる理由》(159−161頁)

(3)日本社会の・言論人・メディアのありがちな反応
「テロはやられる側が悪い」「政府の政策によってテロが起これば政府の責任だ」という、日本社会で生じてきがちな言論は、テロに加担するものであり、そのような社会の中の脆弱な部分を刺激することがテロの目的そのものです。また、イスラーム主義の理念を「欧米近代を超克する」といったものとして誤って理解する知識人の発言も、このような誤解を誘発します。

テロに対して日本社会・メディア・言論人がどのように反応しがちであるか、どのような問題を抱えているかについては、以下に記してあります。

第6章「ジハード戦士の結集」《イスラーム国と日本人》165−168頁

なお、以下のことは最低限おさえておかねばなりません。箇条書きで記しておきます。

*今回の殺害予告・身代金要求では、日本の中東諸国への経済援助をもって十字軍の一部でありジハードの対象であると明確に主張し、行動に移している。これは従来からも潜在的にはそのようにみなされていたと考えられるが、今回のように日本の対中東経済支援のみを特定して問題視した事例は少なかった。

*2億ドルという巨額の身代金が実際に支払われると犯人側が考えているとは思えない。日本が中東諸国に経済支援した額をもって象徴的に掲げているだけだろう。

*アラブ諸国では日本は「金だけ」と見られており、法外な額を身代金として突きつけるのは、「日本から取れるものなど金以外にない」という侮りの感情を表している。これはアラブ諸国でしばしば政府側の人間すらも露骨に表出させる感情であるため、根が深い。

*「集団的自衛権」とは無関係である。そもそも集団的自衛権と個別的自衛権の区別が議論されるのは日本だけである。現在日本が行っており、今回の安倍首相の中東訪問で再確認された経済援助は、従来から行われてきた中東諸国の経済開発、安定化、テロ対策、難民支援への資金供与となんら変わりなく、もちろん集団的・個別的自衛権のいずれとも関係がなく、関係があると受け止められる報道は現地にも国際メディアにもない。今回の安倍首相の中東訪問によって日本側には従来からの対中東政策に変更はないし、変更がなされたとも現地で受け止められていない。

そうであれば、従来から行われてきた経済支援そのものが、「イスラーム国」等のグローバル・ジハードのイデオロギーを護持する集団からは、「欧米の支配に与する」ものとみられており、潜在的にはジハードの対象となっていたのが、今回の首相歴訪というタイミングで政治的に提起されたと考えらえれる。

安倍首相が中東歴訪をして政策変更をしたからテロが行われたのではなく、単に首相が訪問して注目を集めたタイミングを狙って、従来から拘束されていた人質の殺害が予告されたという事実関係を、疎かにして議論してはならない。

「イスラーム国」側の宣伝に無意識に乗り、「安倍政権批判」という政治目的のために、あたかも日本が政策変更を行っているかのように論じ、それが故にテロを誘発したと主張して、結果的にテロを正当化する議論が日本側に出てくるならば、少なくともそれがテロの暴力を政治目的に利用した議論だということは周知されなければならない。

「特定の勢力の気分を害する政策をやればテロが起こるからやめろ」という議論が成り立つなら、民主政治も主権国家も成り立たない。ただ剥き出しの暴力を行使するものの意が通る社会になる。今回の件で、「イスラーム国を刺激した」ことを非難する論調を提示する者が出てきた場合、そのような暴力が勝つ社会にしたいのですかと問いたい。

*テロに怯えて「政策を変更した」「政策を変更したと思われる行動を行った」「政策を変更しようと主張する勢力が社会の中に多くいたと認識された」事実があれば、次のテロを誘発する。日本は軍事的な報復を行わないことが明白な国であるため、テロリストにとっては、テロを行うことへの閾値は低いが、テロを行なって得られる軍事的効果がないためメリットも薄い国だった。つまりテロリストにとって日本は標的としてロー・リスクではあるがロー・リターンの国だった。

しかしテロリスト側が中東諸国への経済支援まで正当なテロの対象であると主張しているのが今回の殺害予告の特徴であり、重大な要素である。それが日本国民に広く受け入れられるか、日本の政策になんらかの影響を与えたとみなされた場合は、今後テロの危険性は極めて高くなる。日本をテロの対象とすることがロー・リスクであるとともに、経済的に、あるいは外交姿勢を変えさせて欧米側陣営に象徴的な足並みの乱れを生じさせる、ハイ・リターンの国であることが明白になるからだ。

*「イスラエルに行ったからテロの対象になった」といった、日本社会に無自覚に存在する「村八分」の感覚とないまぜになった反ユダヤ主義の発言が、もし国際的に伝われば、先進国の一員としての日本の地位が疑われるとともに、揺さぶりに負けて原則を曲げる、先進国の中の最も脆弱な鎖と認識され、度重なるテロとその脅迫に怯えることになるだろう。

特に従来からの政策に変更を加えていない今回の訪問を理由に、「中東を訪問して各国政権と友好関係を結んだ」「イスラエル訪問をした」というだけをもって「テロの対象になって当然、責任はアベにある」という言論がもし出てくれば、それはテロの暴力の威嚇を背にして自らの政治的立場を通そうとする、極めて悪質なものであることを、理解しなければならない。

コメント『毎日新聞』にシャルリー・エブド紙へのテロについて

フランス・パリで1月7日午前11時半ごろ(日本時間午後7時半ごろ)、週刊紙『シャルリー・エブド』の編集部に複数の犯人が侵入し少なくとも12人を殺害しました。

この件について、昨夜10時の段階での情報に基づくコメントが、今朝の『毎日新聞』の国際面に掲載されています。

10時半に最終的なコメント文面をまとめていましたので、おそらく最終版のあたりにならないと載っていないと思います。
手元の第14版には掲載されていました。

「『神は偉大』男ら叫ぶ 被弾警官へ発泡 仏週刊紙テロ 米独に衝撃」『毎日新聞』2014年1月8日朝刊(国際面)

コメント(見出し・紹介含む)は下記【 】内の部分です。

【緊張高まるだろう
池内恵・東京大准教授(中東地域研究、イスラム政治思想)の話
 フランスは西欧でもイスラム国への参加者が多く、その考えに共鳴している人も多い。仮に今回の犯行がイスラム国と組織的に関係のある勢力によるものであれば、イラクやシリアにとどまらず、イスラム国の脅威が欧州でも現実のものとなったと考えられる。イスラム国と組織的なつながりのないイスラム勢力の犯行の場合は、不特定多数の在住イスラム教徒がテロを行う可能性があると疑われて、社会的な緊張が高まるだろう。】

短いですが、理論的な要点は盛り込んであり、今後も、よほどの予想外の事実が発見されない限り、概念的にはこのコメントで問題構図は包摂されていると考えています。

実際の犯人がどこの誰で何をしたかは、私は捜査機関でも諜報機関でもないので、犯行数時間以内にわかっているはずがありません。そのような詳細はわからないことを前提にしても、政治的・思想的に理論的に考えると、次の二つのいずれかであると考えられます。

(1)「イスラーム国」と直接的なつながりがある組織の犯行の場合
(2)「イスラーム国」とは組織的つながりがない個人や小組織が行った場合。グローバル・ジハードの中の「ローン・ウルフ(一匹狼)」型といえます。

両者の間の中間形態はあり得ます。つまり、(1)に近い中間形態は、ローン・ウルフ型の過激分子に、「イスラーム国」がなんらかの、直接・間接な方法で指示して犯行を行わせた、あるいは犯行を扇動した、という可能性はあります。あるいは、(2)に近い方の中間形態は、ローン・ウルフ型の過激分子が、「イスラーム国」の活動に触発され、その活動に呼応し、あるいは自発的に支援・共感を申し出る形で今回の犯行を行った場合です。ウェブ上の情報を見る、SNSで情報をやりとりするといったゆるいつながりで過激派組織の考え方や行動に触れているという程度の接触の方法である場合、刑法上は「イスラーム国」には責任はないと言わざるを得ませんが、インスピレーションを与えた、過激化の原因となったと言えます。

「イスラーム国」をめぐるフランスでの議論に触発されてはいても、直接的にそれに関係しておらず、意識もしていない犯人である可能性はあります。『シャルリー・エブド』誌に対する敵意のみで犯行を行った可能性はないわけではありません。ただ、1月7日発売の最新号の表紙に反応したのであれば、準備が良すぎる気はします。

犯行勢力が(1)に近い実態を持っていた場合は、中東の紛争がヨーロッパに直接的に波及することの危険性が認識され、対処策が講じられることになります。国際政治的な意味づけと波及効果が大きいということです。
(2)に近いものであった場合は、「イスラーム国」があってもなくても、ヨーロッパの社会規範がアッラーとその法の絶対性・優越性を認めないこと、風刺や揶揄によって宗教規範に挑戦することを、武力でもって阻止・処罰することを是とする思想が、必ずしも過激派組織に関わっていない人の中にも、割合は少ないけれども、浸透していることになり、国民社会統合の観点から、移民政策の観点からは、重大な意味を長期的に持つでしょう。ただし外部あるいは国内の過激派組織との組織的なつながりがない単発の犯行である場合は、治安・安全保障上の脅威としての規模は、物理的にはそう大きくないはずなので、過大な危険視は避ける必要性がより強く出てきます。

私は今、研究上重要な仕事に複数取り組んでおり、非常に忙しいので、新たにこのような事件が起きてしまうと、一層スケジュールが破綻してしまいますが、適切な視点を早い時期に提供することが、このような重大な問題への社会としての対処策を定めるために重要と思いますので、できる限り解説するようにしています。

現状では「ローン・ウルフ」型の犯行と見るのが順当です(最近の事例の一例。これ以外にも、カナダの国会議事堂襲撃事件や、ベルギーのユダヤ博物館襲撃事件があります)

ただし、ローン・ウルフ型の犯行にしても高度化している点が注目されます。シリア内戦への参加による武器の扱いの習熟や戦闘への慣れなどが原因になっている可能性があります。

ローン・ウルフ型の過激派が、イラクとシリアで支配領域を確保している「イスラーム国」あるいはヌスラ戦線、またはアフガニスタンやパキスタンを聖域とするアル=カーイダや、パキスタン・ターリバーン(TTP)のような中東・南アジアの組織と、間接的な形で新たなつながりや影響関係を持ってきている可能性があります。それらは今後この事件や、続いて起こる可能性のある事件の背後が明らかになることによって、わかってくるでしょう。(1)と(2)に理念型として分けて考えていますが、その中間形態、(2)ではあるが(1)の要素を多く含む中間形態が、イラク・シリアでの紛争の結果として、より多く生じていると言えるかもしれません。(1)と(2)の結合した形態の組織・個人が今後多くテロの現場に現れてくることが予想されます。

本業の政治思想や中東に関する歴史的な研究などを進めながら、可能な限り対応しています。

理論的な面では、2013年から14年に刊行した諸論文で多くの部分を取り上げてあります。

「イスラーム国」の台頭以後の、グローバル・ジハードの現象の中で新たに顕著になってきた側面については、近刊『イスラーム国の衝撃』(文春新書、1月20日刊行予定)に記してあります。今のところ、生じてくる現象は理論的には想定内です。

ユーラシア・グループの2015年リスク予測も発表

ユーラシア・グループが5日に今年の10大リスク予測を発表しましたね。

私も参加させてもらったPHP総研のグローバル・リスク予測(「2015年のグローバルリスク予測を公開」2014/12/20)と比較してみたいが、新年早々締め切りがどんどん来ていて切羽詰まっているので時間ありません。

簡単な紹介はこれかな。

「2015年最大のリスクは欧州政治 米調査会社予測 ロシアや「金融の兵器化」も上位」『日本経済新聞』(電子版)2015/1/5 21:04

「アジアのナショナリズム」は騒がれているけど実際はそう危険でもないよ、というのはアジアの顧客を重視して拠点を置いているユーラシア・グループらしい冷静さ。

アメリカの主流の人たちは非常にトランス・アトランティック(環大西洋)な世界に生きている。その延長線上の「勢力範囲」である中東とかアフリカまでについてはえらく強いが、アジア太平洋地域は「裏世界」(「裏日本」みたいな意味で)としか思っていないからよく分かっていない。なので「日本でナチスが台頭」みたいないい加減な話を、無知で無関心で、おそらく内心見下しているが故に、信じてしまうことがある。

ユーラシア・グループはアジア太平洋側に顧客を持っているから、安易に欧米の真ん中辺の人たちの発想で情報提供をすると見限られてしまうので、今年は抑え気味に来ていますね。煽って注目を集めようとする時も多いのですが。

まあおみくじとか新年初売りの景気付けの口上みたいなものと思ってください。

これについての吉崎達彦さんの解説があると、一年が始まった気がします(昨年はこれ)。

今年はハッピ着て鉢巻きしてやってほしい。新年開運予測。

2015年のグローバル・リスク予測を公開

昨日12月19日(金)に、私も参加させていただいた、「2015年版PHPグローバル・リスク分析」レポートが公開されました。

cover_PHP_GlobalRisks_2015.jpg

PHP総研のウェブサイトから無料でダウンロードできます。

2015年に想定されるリスクを10挙げると・・・

リスク1.オバマ大統領「ご隠居外交」で迷走する米国の対外関与

リスク2. 米国金融市場で再び注目されるサブプライムとジャンク債

リスク3. 「外国企業たたき」が加速する、景気後退と外資撤退による負の中国経済スパイラル

リスク4. 中国の膨張が招く海洋秩序の動揺

リスク5. 北朝鮮軍長老派の「夢よ、もう一度」 ―核・ミサイル挑発瀬戸際外交再開

リスク6. 「官民総債務漬け」が露呈間近の韓国経済

リスク7. 第二次ウクライナ危機がもたらす更なる米欧 -露関係の悪化と中露接近

リスク8. 無統治空間化する中東をめぐる多次元パワーゲーム

リスク9. イスラム国が掻き立てる先進国の「内なる過激主義」

リスク10. 安すぎるオイルが誘発する産油国「専制政治」の動揺

という具合になりました。果たして当たるでしょうか。

なお、1から10までに、「どれがより危険か」とか「どれが起こる可能性が高いか」といった順位はつけておりません。論理的な順序や地域で並べたものです。

このプロジェクトには2013年度版から参加させていただいており、今回で3年連続です。毎年10のリスクを予測して、長期間続けて経年変化を見ると、その間の国際政治・社会の変化が感じられるようになるのではないかな。中東・イスラーム世界関連は大抵2個半ぐらいの席を安定的に確保。中東関連に2つ割り当てるか3つ割り当てるかで毎回悩むところです。中東問題が拡散して、世界の問題になると帰って項目としては減ったりする。アメリカの外交政策の問題として別項が立って、その項目がかなりの部分中東問題であったりするわけですね。別に他の分野とリスクのシェアの取り合いをしているわけではありませんが、他の項目や全体とのバランスで毎回悩むところです。

2014年度版についてはこのエントリなどを参照してください

年明けにはEurasia Groupが恒例のリスク・トップ10を発表して話題になるので、その前に出してしまおうというのが当方の戦略。二番煎じのように見られると困りますからね。

Eurasia Groupの2015年版がでたら、ぜひそれとの比較もしてみてください。

リスクが高そうな分野の専門家が集まってリスクを予測しているうちに、年々本当にリスクが顕在化していくので全員がいっそう忙しくなり、皆死にそうになりながら、年末になると集まって議論をして文章を練っています。今年は特に、私も緊急出版の本の入稿とかちあったので、大変な思いをしまして他の専門家の方々にひたすら助けていただきました。それでもいくつも私の論点を取り入れてもらっています。取りまとめをして引っ張っていってくださった皆様、ありがとうございました。

こちらは本一冊の原稿や校正を戻したものの最後の詰めが残っており、もう一冊の共著もヤマ場に差し掛かり、さらに、ここ数年、一番力を入れてきた著作を、年末年始に脱稿せねばならない。

というわけで面会謝絶・隠遁生活の年末が始まります。

「植民地の第一次世界大戦」についてNHKBS世界のドキュメンタリーで秀作が

本の入稿で毎日朝晩一章ずつ締め切りが設定されていたので、身動きが取れないでいた。

危険水域を抜け出しつつある。

まあこの本が終わってももっと大変な本が何冊も待ち構えているのだが。数年分の成果が一度に出そうな来年前半。

執筆に没頭していると、授業に出ているか、講演・研究会などに出ている時以外はずっと書いていることになるので、テレビも見られなくなる。まあ、ふだんテレビを見るといってもNHKBSの外国ニュースとかだけれども。

一瞬だけ録画一覧を見たら、これが録れていた。

「忘れられた犠牲~アジア・アフリカ“非白人兵”たちの戦い~」
The World’s War Forgotten Soldiers of Empire,” BBC, 2014.

2014年12月9日 火曜深夜[水曜午前 0時00分~0時50分]

再放送が明後日水曜日の夕方にあるようなので、見逃した方はぜひ。

再放送14年12月17日 水曜 午後6時00分~6時50分

(今ウェブサイトを確認してみたら、1月1日の午前4時にも再放送日程が加わっていた。初詣に行って帰ってきてから見る番組なのか・・・)

高校の世界史の授業などにもいいのでは。大学教養課程なら英語で見ると良い。

NHKBSの深夜0時からの「BS世界のドキュメンタリー」はまず毎日録画してしまって、必要なもの以外はハードディスク容量を圧迫してきたら消すということにしている。この番組を見るためだけにでも受信料を払っていいぐらいの価値がある。

作業をしながら流してチラ見したが、なかなか面白い。中東やアフリカの世界史・近代史に興味がある人にはぴったり当てはまる。

日本語タイトルはかなり特定の部分を読み込んで意訳してあるけれども(確かにそういう内容も含まれている)、もっと大枠を言えば、「世界帝国領民にとっての第一次世界大戦」ということ。本当に各地で戦っているが、一般的には「アラビアのロレンス」の活躍するアラビア半島など、ごく限られた部分しか知られていない。

今年は第1次世界大戦の勃発から100年ということで盛んに本も出て、このBS世界のドキュメンタリーでも色々な番組が放送されているけれども、どうしても西欧の西部戦線の話が多くなる。西欧文明・文化に深甚な影響を及ぼした大戦だから、詩から小説から、ノンフィクションまでが刊行され続け、西欧社会の大事件として記録や記憶が形成されてきた。その締めくくりの100周年なのだから当然だが、文字通り「世界帝国同士が世界中で戦った世界大戦だった」という事実が忘れられてしまいがちだ。「忘れないで」と盛んに言い続けて認めさせているのも、ANZAC(Australian and New Zealand Army Corps)ぐらいか。オーストラリア・ニュージーランドも英植民地で、大英帝国の戦争に若者が徴用され、トルコのガリポリ上陸作戦で大勢命を落としている。オーストラリアやニュージーランドの国民意識がこれで芽生えたとすら言われている。

そういった物語を紡いでこなかった中東やアフリカの兵士たちは忘れ去られている。

冒頭の「つかみ」がいい。大戦勃発に伴い、オスマン帝国がジハードを宣言する。イスラーム共同体はオスマン帝国領内にとどまらないから、英・仏・露の植民地領内の膨大な数のムスリムが、敵のオスマン帝国・ドイツ・オーストリア側に立って蜂起するのではないか・・・という英・仏・露側の警戒心を描くところから始まる。そうさせないようにどうやって英・仏が植民地の民族を動員していったか。英・仏と独の植民地部隊同士が戦った事例などが興味深い。

【寄稿】週刊エコノミストの「イスラーム国」特集(読書日記は「ゾンビ襲来」で)

クアラルンプール/セランゴールより帰国。会議終了後に、復路の夜便の出発まで若干時間があったので、伊勢丹やイオンが入っているモールの中を2時間ほどひたすら歩いた。撮った写真などを整理したらここで載せてみたい。

それはともかく、早朝に成田に戻ってからコラム×1、発表原稿(英語)×1、校正×2をメールやFAXで送信したので休む暇がない。

「イスラーム国」がらみで集中した原稿依頼に応えられるものは応えて、先月末までにどうにかほぼ全て終わらせて(まだ2本ぐらいある)マレーシアに出発したのだったが、それらの掲載誌が続々送られてくる。封を開ける暇もない。コメントなどはどこにどう出たのか確認するのもままならない。

とりあえず今週中に紹介しておかないといけないものから紹介。

昨日11月4日発売の『週刊エコノミスト』の中東特集(実質上は「イスラーム国」特集)に解説を寄稿しました。

また、偶然ですが、連載している書評日記の私の番がちょうど回ってきて、しかも今回は「イスラーム国」を国際政治の理論で読み解く、という趣旨で本を選んでいたので、特集とも重なりました。

エコノミスト中東特集11月11日号

池内恵「イスラム成立とオスマン帝国崩壊 影響与え続ける「初期イスラム」 現代を決定づけたオスマン崩壊」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、74-76頁

池内恵「「ゾンビ襲来」で考えるイスラム国への対処法」『週刊エコノミスト』2014年11月11日号(11月4日発売)、55頁

「イスラム成立とオスマン帝国崩壊」のほうでは、かなり手間をかけてカスタマイズした地図を3枚収録しています。これは他では見られませんのでぜひお買い上げを。

(地図1) 7世紀から8世紀にかけての、ムハンマドの時代から死後の正統カリフ時代、さらにアッバース朝までの征服の順路と版図。これがイスラーム法上の「規範的に正しい」カリフ制の成立過程であり、版図であると理想化されているところが、現在の問題の根源にあります。

(地図2) また、サイクス・ピコ協定とそれを覆して建国したトルコ共和国の領域を重ね合わせて作った地図。ケマル・アタチュルク率いるオスマン・トルコ軍人が制圧してフランスから奪い返していった地域・諸都市も地図上に重ねてみました。

(地図3) さらにもう一枚の地図では、セーブル条約からアンカラ条約を経てローザンヌ条約で定まっていった現在のトルコ・シリア・イラクの国境について、ギリシア・アルメニア・イタリアや英・仏・露が入り乱れたオスマン帝国領土分割・勢力圏の構想や、クルド自治区案・実際のクルド人の居住範囲などを、次々に重ね合わせる、大変な作業を行った。

「サイクス=ピコ協定を否定」するのであれば、地図2と地図3の上で生じたような、領土の奪い合い、実力による国境の再画定の動きが再燃し、諸都市が再び係争の対象となり、その領域に住んでいる住民が大規模に移動を余儀なくされ、民族浄化や虐殺が生じかねない。そのことを地図を用いて示してみました。

この記事で紹介した地図を全部重ねてさらにクルド人の居住地域を加えたような感じですね。頭の中でこれらを重ねられる人は買わなくてもよろしい。

* * *

それにしてもなんでこのような面倒な作業をしたのか。

6月のモースルでの衝撃的な勢力拡大以来、ほとんどすべての新聞(産経読売日本経済新聞には解説を書きました)や、経済誌(週刊エコノミストと同ジャンルの、ダイヤモンドとか東洋経済とか)が、こぞって「イスラーム国」を取り上げており、多くの依頼が来る。10月6日に発覚した北大生参加未遂事件以来、各紙・誌はさらに過熱して雪崩を打って特集を組むようになった。そのためいっそう原稿や取材の依頼が来る(毎日1毎日2毎日3=これはブログに通知する時間もなかった)。

忙しいから断っていると、あらゆる話題についてあらゆる変なことを書くようなタイプの政治評論家がとんでもないことを書いて、それが俗耳には通りやすいので流通してしまったりして否定するのが難しくなるので、社会教育のためになるべく引き受けようとはしている。しかしすべてを引き受けていると、それぞれの新聞・雑誌に異なる切り口や新しい資料を使って書き分けることは難しくなる。

私は純然たる専従の職業「ライター」ではないので、あくまでも「書き手」として意味がある範囲内でしかものを書かない(そのために、必要なときは沈黙して研究に専念できるように、大学・研究所でのキャリア形成をしてきたのです)。あっちに書いていたことと同じことを書いてくれ、と言われても書きにくい。

しかし今回の特集では、私に「イスラーム史」から「イスラーム国」を解説してくれ、との依頼だったので、非常識に〆切が重なっていたのにもかかわらず引き受けてしまった。同じ号に書評連載も予定されていたのでいっそう無謀だったのだが。それは時間繰りに苦労しました。

単に漫然と概説書的なイスラーム史の解説をするのではなく、メリハリをつけて、本当に今現在の問題とかかわっている歴史上の時代だけを取り上げる、という条件で引き受けた。

イスラーム国を過去10年のグローバル・ジハードの理論と組織論の展開の上に位置づける、というのが私の基本的な議論のラインで、それらは昨年にまとめて出した諸論文を踏まえている。これらの論文で理論的に、潜在的なものとして描いていた事象が、予想より早く現実化したな、というのが率直な感想。

しかしもちろんそれ以外の切り口もある。例えばもっと長期的なイスラーム法の展開、近代史の中でのイスラーム法学者の政治的役割の変化、イスラーム法学解釈の担い手の多元化・拡散、ほとんど誰でも検索一発で権威的な学説を参照できるようになったインターネットの影響、等々、「イスラーム国」の伸長を基礎づける条件はさまざまに論じることができる。

そういった幅広い視点からの議論の基礎作業として、現在の中東情勢の混乱の遠因となっている歴史的事象や、「イスラーム国」の伸長を支える理念・規範の淵源は歴史のどの時点に見出せるのか、まとめておくのは無駄ではないと思ったため、引き受けました。専門家なら分かっている(はずなんだ)が一般にきちんと示されていることが少ない知見というのは多くある。今のようにメディアが総力を挙げて取り組んでいる時に、きちんと整理しておくことは有益だろう。

漫然と教養豆知識的に「イスラーム史を知ろう」といって本を読んでも、現在の事象が分かるようにはなりません。「あの時こうだったから今もこうだ」「あの時と今と似てるね」といった歴史に根拠づけて今の事象を説明するよくある論法、あえて「池上彰的」とまとめておきましょうか、これは日本で一般的に非常に人気のある議論です。しかし多くの場合、単なる我田引水・牽強付会に過ぎません。娯楽の一つとしては良いでしょうが、それ以上のものではありません。かえって現実の理解の邪魔になることもあります。

「イスラーム国」への対処の難しさは、それがイスラーム法の規制力を使って一部のムスリムを魅惑し、その他のムスリムを威圧し、異教徒を恐怖に陥れていることです。

イスラーム法の根拠は紛れもなく預言者ムハンマドが実際に政治家・軍事司令官として活躍した初期イスラムの時代や、その時代の事跡を規範理論として体系化した法学形成期の時代にある。それらの時代についての知識は漠然とした教養ではなく、今現在のイスラーム世界に通用している規範の根拠を知ることになる。

その意味でまず「初期イスラーム」の歴史について知ることは有益。

それに次いで、オスマン帝国の崩壊期の経緯を知っておくことにより、今現在の中東諸国の成り立ちとそこから生じる問題、しかし安易に言われがちな代替策の実現困難さも分かるようになります。

初期イスラームとオスマン帝国崩壊の間の長大なイスラーム史は、現代中東政治の理解という意味では、極端に言えば、知らなくてもいいです。極端に言えば、ですよ。

* * *

さて、今回で連載6回目になる読書日記(前回までのあらすじはココ)の方は、ダニエル・ドレズナーの『ゾンビ襲来 国際政治理論で、その日に備える』(谷口功一・山田高敬訳、白水社、2012年)を取り上げた。

かなり前から今回はこのテーマとこの本にしようと決めていたのだが、それが中東・イスラーム国特集に偶然重なった。

「イスラーム国」は、概念的には、「国際政治秩序への異質で話が通じない主体による脅威」ととらえることができる。ドレズナーはまさにそのような脅威を「ゾンビ」のメタファーを用いて対象化し、そのような脅威に対する各国の想定される動きを国際政治学の諸理論のそれぞれの視点から描いて見せた。「イスラーム国」について各国がどう動き、全体として国際政治がどうなるかは、「ゾンビ」への対処についてのドレズナーの冗談交じりの大真面目な仮説を念頭に置くとかなり整理される。リアリストとリベラリスト、それにネオコンの視点を紹介したが、国内政治要因とか官僚機構の競合と不全とか、この本を読むと、「ゾンビ」を当て馬にすることで理論的な考え方が、やや戯画化されながら、非常によく頭に入る。ドレズナーは活発にブログなども書いていて時々物議も醸す有名な人だが(本来の専門は経済制裁)、本当に頭のいい人だと思う。

「イスラーム国」と中東政治の構造変動についての最近書いた論稿は、すでに出ている『ウェッジ』11月号、来週明けにも発売の『文藝春秋』11月号、『中東協力センターニュース』や『外交』など次々に刊行されていくので、出たらなるべく遅れないように順次紹介していきたい。

イスラーム報道の適正化に向けて

週末に校了間際の〆切りが3本もあるという異常事態に追いつめられています。日本のイスラーム認識・報道にも関係する論説がそれらの一本なので、日本の新聞・雑誌も見ないといけない。

「イスラーム国」の実態をみて、またそれを擁護する人々の言説の実態も見て、少しずつ議論の焦点が絞られてきたように思います。とにかく文章を書く人は、中二病的超越願望を捨てて、今そこにある問題にどう取り組むか考えた方がいい。

良かったのがこの社説。

「社説:カナダ銃撃 「イスラム国」の幻想砕け」『毎日新聞』2014年10月25日東京朝刊

自由主義社会の国民メディアの社説が言うべき点を押さえている。

重要なフレーズをいくつか抜き出してみる。冒頭に*をつけたところが毎日の社説からの引用。段落を変えて私の補足。大学教員とか文章を扱って論理的に考えることが仕事の人でも本当に思い込みで正反対に受け止めるので、重要部分に下線も引いておく。

*「だが、そもそもテロに大義はない。「イスラム国」のせいで「イスラム教=恐ろしい宗教」といったイメージが独り歩きしているのも問題だ。同組織の異教徒虐殺や女性の性奴隷化などは決して許されないし、その激越な主張を支持する人は、16億人とされる世界のイスラム教徒の中で、まさに大海の一滴に過ぎまい。」

「テロに大義はないということでは合意できますよね?面白半分の人も本気の人も、大義はあるということであれば対話できませんよ」ということ。新聞社説でそこまではっきり言えないということなのか、そこまで覚悟が決まっていないのか分からないが、本当はそこまで言わないと、在特会とかも批判できなくなる。

そして「イスラム教=恐ろしい宗教」という偏見があってはならないのであれば、最低限「テロに大義はない」という点は合意してくれますよね?テロを正当化する人は16億人のイスラーム教徒のごく一部ということで良いですよね?という点は、やはりいうべきこと。少数のノイジー・マイノリティが「テロに大義はある」と逆説あるいは暴論で言ってお互いに盛り上がっているとしても、新聞社説が相手にして取り入れることではありません。

これはいわば自由社会における「踏み絵」です。「理解・寛容」は他者への暴力や支配を主張し行動する者には適用されないというのが自由社会の大原則です。「つまらない」かもしれませんが、それを主張し続けないと自由社会は維持できないのです。

*「にもかかわらず、日本を含む世界各国で「イスラム国」への合流を望む者が後を絶たないのは、この組織が世界の不合理に挑戦しているような幻想があるからだ。」

正しく「幻想」です。

やっと新聞でこう書くところが現れた。事実を突き付けられんと書けんのか、という気はするが、新聞に先を読む能力など期待してはいかん、ということなのだろうね。せめてこれまで書いてきたことを(暗黙の裡に)否定してでも態度を変えたことを評価しないといけない。

過激派が何か世界の不合理に挑戦してくれているような幻想に寄り掛かかる新聞社説や、過激派の暴力による威嚇をある意味強制力として味方につけて語る新聞社説は多かった。過激派があたかも「弱者」を代表しているかのようなすり替え情報を各所で挟むことでそれが歴然とした暴力による威嚇であることを漂白して、政権や社会全般を批判する素材に使う新聞社説は実に数多く繰り返されてきた。データベースなどで体系的にまとめると良いが、時間がないので誰かがやってください。

日本赤軍も連合赤軍も、今見ると「何でこれが」というぐらい好意的に新聞社説で取り上げられてきた。「彼らの手段はいかんが、言っていることは分かる。社会が悪い」といういつもの論法だった。

実際に「彼ら」言っていることは「俺たちは明日のジョーである」といったいかにも元気の溢れる若い人が少ない知識・情報から絞り出したんだろーなートホホな妄言だったりしたのに、新聞社説はそれはスルーして勝手な思い入れを盛ってきたのである。

だから今「イスラーム国」に共感・参加などと言っている若者の発言、というものについて私が「自由主義社会における愚行権の行使」であると書いているのは、「新聞記者もさんざん愚行権を行使していたな~」というのと同じ程度にしか批判していない(しかもきちんとその権利を自由主義社会に所与のものとして認めている。あの、権利を認めるとは、その際に刑法を逸脱しても罪に問われないと認めるということではありませんよ)。そういった私の論評に対して「若者に厳しすぎる」とか「彼らの内在的動機を理解せずに表面的過ぎる」といった批判は、読みが浅すぎるのと、歴史を知らな過ぎる。若者だけじゃなくて、昔若者だった今の年寄りも、昔も今もヒドかったんです。そもそも上から目線で私と若者の双方を理解したり諭したりする視点をそういう方々はどこから手に入れたのか。勝手に人間に序列をつけて上下関係で「上の立場」からモノを言えば下は従う、という疑似封建社会に未だに生きている人が多すぎる。そういうモノの言い方では自由世界で人を説得できないんです。そもそも、匿名で個人的に言ってきたり、陰で仲間でごそごそ言っているのは言論ではない(と言うと「言論がなんだ!俺様が貴様に意見してやってるのだ!」と完全に自由社会を否定する大人って多いですな。そういう意味で、日本の軍国主義化はあり得えないことではないと思っています)。

私が最初に書いた本(『現代アラブの社会思想』)の中で、日本赤軍の人たちが実際に言ったことと、日本の「意識高い」系の人たちが勝手に読み取ったことのギャップをからかったら、編集者から「読者に受け入れられないからやめた方がいい」と言われてかなり和らげた。あれでもかなり和らげてあるのです。本を買うのはそんな読者ばかりだった(と編集者が想定している)時代は、今と比べて人々のリテラシーが高かった時代だとは思わない。単に流行が違うだけ、というのと昔はメディアが本や新聞しかなかったから本や新聞に何でもかんでも詰め込んで大量に刷れば売れた。今は代替肢があるからそう売れないと言うだけだ。

*「たとえば20世紀初頭、列強が中東を恣意(しい)的に線引きしたこと(サイクス=ピコ協定)への反発は昔からある。だが、同協定に異を唱え、すでに独立した国々の中に力ずくで別の国をつくろうとする「イスラム国」もまた、恣意的な線引きをしようとしているのだ。」

ここも重要。「カリフ制」という未知なる観念に勝手な思い入れを投影して、国民国家を超えたユートピアを胸に抱いて共感してしまう人が、なまじ勉強した人に多いが、「イスラーム国」の本人たちが「国家」と言ってしまっているところで疑問を持たないといけない。イスラーム法学的には「国家」が出てくるのはおかしい。ひたすらカリフ制とだけ言っていなければいけないはずだ。

しかし彼ら自身の宣伝文書でひたすら「国家」と言って続けているのである。このあたりが、結局はイラクとシリアでの武力闘争と領域支配を担っているのは旧バアス党幹部なんだろうな、と強く推測される理由だ。

「イスラーム国」はどう見ても領域国民国家を作ろうとしている。近代の国民国家の原理であれ実態であれ、超越などしていない。単に「国民」の定義をスンナ派イスラーム教徒(のうち自らに従う人々のみ)だとしているだけです。既存の秩序を破壊することはできても、新しい理念に基づく秩序を生み出せるとは思えない。

「民族主義に基づいて国民国家を作ったから弊害として民族対立とか国家を得られない民族とかが出てきた、民族浄化や住民交換などの悲劇が起こった」という批判をするのはいいのだが、だから歴史の勉強でうろ覚えに知っている「特定の宗教を上位の規範とした帝国」に戻れ、というのは単なる退化でしょう。国民国家で辛うじて提供していた権利すら各個人から剥奪され、劣位に置かれることを認めるか去るか、そうでなければ殺されても仕方がない、という境遇に落ちる人々が膨大に出てくる。それで平和が達成されるかというと、客観的には達成されないが、支配宗教の側の主観では、異を唱える人がいなくなれば平和になる、というのだから、やはりその過程で大戦争と民族浄化あるいは大規模な住民移動が不可欠となる。しかもそのようなジェノサイドは、平和を達成する過程でのやむを得ない事象として正当化されてしまう。

「国家」を構成する「国民」が民族ではなく宗教に基づいているというのは特に珍しいことではない。旧ユーゴスラビア連邦の諸民族構成のうち一つが「ムスリム人」だった。ボスニアの「ムスリム人」とセルビア人とは人種的形質や言語は元来はほとんど変わらない(ただしムスリムと正教徒は基本的には通婚しない、というか通婚したらイスラーム法上自動的にイスラーム教徒になるので、徐々に形質的差異が出てきていてもおかしくはないが)。宗教的差異が民族区分とされたのである。社会主義というイデオロギー的紐帯と、それを背後で強制するソ連の存在がなくなったら、そのような民族単位での独立闘争が始まった。

そのムスリム人がボスニアを独立させようとして、戦争になった、というのと、現在の「イスラーム国」の領域支配は同種のもの。といってもバルカン半島ではイスラーム法学はほとんど通用していないから宗教や教義を持ち出して対立や殺人を正当化はせずに、単に民族が違うと言って殺し合った。イスラーム法学が通用していたらそんなことはなかったかというと、そうではなくて、イスラーム法学的にボスニア領内のセルビア人(キリスト教徒)は劣位の存在に置かれるが我慢せよ、それを認めないなら討伐だ、と言う人たちが現れて、いっそう紛糾したことだろう。

なおボスニア紛争やコソボ紛争では、欧米はムスリム人・ムスリム系住民の側にかなり肩入れして、現地では欧米への感謝の念は強いのだが、イスラーム世界全体ではこの点はまったく考慮されず、常に「欧米がイスラーム世界を攻撃している」ということになっている。

*「こうした現状に「否」を突きつける主体は、あくまで中東とイスラム圏の国々である。ネットを駆使して自らの主張を発信する「イスラム国」に対し、中東の国々やアラブ連盟(加盟22カ国・機構)、イスラム協力機構(加盟57カ国・機構)などの組織はもっと反論していい。」

これも言わなければならない点だ。というのは、こういった事象が持ち上がるたびに、イスラーム諸国の知識人も、アラブ連盟など国際機構も、「イスラームに対する偏見を持つ欧米」を非難するのみで、実際に紛争を起こす人たちの根底にある思想が、イスラーム教に基づいてどう間違っているのかを言わないからだ。結局、「欧米が悪い」という印象だけが残り、新たな過激派の理屈にも取り入れられてしまう。

「それでもカリフ制の理念の方は正しい!「イスラーム国」をやっている連中が間違って解釈しているだけだ」と論じたい人は、「イスラーム国による殺害や奴隷化は支持しない」とはっきり言うべきだしその根拠を示すべきだ。つまり「正しいカリフ制の理念ではこのような根拠から異教徒の殺害や奴隷化は禁じられている」とイスラーム法学の理念を明示して主張しなければならない。それも欧米や日本に対するだけでなく、「イスラーム国」側に対して言わないといけない。

もちろん、「イスラーム法学上は多神教徒の征服や奴隷化は正しい行為なのです。そうならないように改宗するなり立ち退けばいいのです」と思っている人はそう主張すればいい(ただし本当に立ち退かせたり、立ち退かない人を殺害する行為を賞揚した場合は刑法上の何らかの制約が課される可能性はあります)。

イスラーム法学的な説得をしたくない、する必要がないという考えの人は、「イスラーム法学の適用やカリフ制の復活は現代において必要がない、違法である」といった議論を正当化して示さないといけない。説得的な根拠を出して、欧米人相手にではなく、「イスラーム国」に共感したり、「イスラーム法学」の有力な規範を提示しているからといって黙認したりしているイスラーム教徒に対してきちんと示すべきだ。もっとも現在のイスラーム世界で、イスラーム法学は効力がないと議論するのはよほどの勇気がいる。だからやらないのだろう。

なお、現状では数少ないイスラーム法学者からの「イスラーム国」批判は、例えば異教徒の迫害と奴隷化について、「ヤズィーディー教徒も啓典の民だ」と反論するというものなので、外から見ると、反論になっていない。「イスラーム国」がDabiqなどでヤズィーディー教徒を「啓典の民ではない」と主張していることに対してのみは一応の反論になっているが、ではヤズィーディー教徒も啓典の民だとするイスラーム法上の根拠は明確ではない。単に各国の政府に近い法学者が政治的必要から個人的見解で断定しただけ、というのではイスラーム法学的にはほとんど説得力がない。

「イスラーム国」と同じイスラーム法学上の「啓典の民」という観念を持ち出してしまっている以上、「イスラーム国」のより明確な明文規定や有力なイスラーム法学書に則った議論の方が有利である状況は代えがたい。むしろ議論を強めているのではないかとすら思う(結果的に、多くのイスラーム教徒が「イスラーム国」批判のイスラーム法学者たちの論拠の希薄さに愕然として「現代においてイスラーム法学に依拠したら駄目だ」と思うようになることを期待しているとすれば、穏健派イスラーム法学者たちのものすごい捨て身の作戦だと思うが、たぶんそんなことではないと思います)。

「啓典の民」という概念は異教徒を平等に扱うものではない。少なくとも自由主義社会における宗教間関係にはなじまない。

「啓典の民」という観念は、あくまでも優位な側からの劣位な側への恩恵としての生存の許可というロジックなので、支配しているイスラーム教徒の側が「啓典の民が歯向かった」と判断すれば即座に「改宗するか、去るか、討伐か」という三択を突き付けることが正当化されてしまう。「啓典の民だから許せ」というのは、「イスラーム国」批判になっていないのである。「イスラーム国」としては「啓典の民として認めてやるから寛容に接してやると告げたのに、異教徒が悪態をついたから追放・殺害・奴隷化した」と言えばいいだけになってしまう。水掛け論にすらなっていない。「啓典の民だから許せ」という議論は「イスラーム国」の立場を補強しているとすら言える。

近代思想史において「穏健派」のイスラーム法学解釈(あるいはイスラーム法擁護論)が、「過激派」のジハード論を結果的に支えている構造については、池内恵「近代ジハード論の系譜学」(日本国際政治学会編『国際政治』第175号、有斐閣、2014年3月、115-129頁)で書いておきました。

なお、ユースフ・カラダーウィーをはじめとした主要な「穏健派」「中道派」とされてきたイスラーム法学者も、この「啓典の民の生存を認めるからイスラームは寛容だ」という説を定説としてきたので、短期間に異教徒との平等説でイスラーム法学を組み替え直すことは難しいだろうと思う。

これについては、池内恵「「イスラーム的共存」の可能性と限界──Y・カラダーウィーの「イスラーム的寛容」論」(『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、2004年、初出は『現代宗教2002』2002年4月)に詳述してあります。

なお、これと対になる論文が、池内恵「文明間対話の理論的基礎──Ch・テイラーの多文化主義」で、同じく『アラブ政治の今を読む』に収録してあります。(この本は絶版とは聞いていないが、中央公論新社も一生懸命売る気がないんだろうね)

基本的には、この時考えていた理論的な対立点が、現在「イスラーム国」をめぐる問題として表出しているものと考えていますので、世代は新しくなっても思想的な問題は変わらないのだな、と実感しています。また、それをイスラーム法学上批判しきれないイスラーム世界の問題として、あるいは勘違いして自由主義社会の原則を放棄して共感する日本のメディア・知識人の論調としても現れてきているものと思います。

それにしても、「イスラーム教の理念は自由主義の原則とは合わない部分がある」ということは、イスラーム教徒の側はごく当然に主張する、当たり前のことです。極端に欧化して生活の基盤を欧米や日本に移した人を除けば、大多数のイスラーム教徒はそのように明言します。ただ、留保をつける場合はあります。その場合は、「イスラーム教こそがより優越した自由主義を実現します。イスラーム教では正しい宗教であるイスラーム教を信じる自由があります」と主張します。これが教科書的な回答です。カラダーウィーのような有力なイスラーム法学者が定式化してくれている欧米との対話・教義論争の作法としてすでに定着しています。

ですので、この点を指摘することは、「イスラーム教を揶揄する」といったこととは全く違うのです。単に、日本の常識とは違う別の基準があると指摘しているだけです。そのことを日本の、しばしば「自由」を主張する、往々にして「反体制」に立っていると自覚しているらしき人々が理解しておらず、このような指摘を行なうことを非難する側に回るのは、自分の認識の前提を疑う視点を持たず、他者・他文化に対する想像力を欠いているからではないかと観察しています。「隣の芝生は青く見える」というの異文化理解でも寛容でもない。

逆に、イスラーム教は「自由主義が絶対ではない」と主張しているのだと受け止めて、安易に「そうだそうだ」と同意し、「だから欧米みたいな自由などいらない」という自己の信念を補強したものとのみ受け止める権威主義的な人も日本社会には多くいます。そういう人は「イスラーム?遅れた国の遅れた宗教だろ?」といった偏見を露骨に持っている場合が多くあります。このような人々は、自分が享受していると思っている自由がいかなる根拠に基づいているのか忘れがちであると観察しています。

要するに社会における議論は、このような不完全な認識を持った、それぞれの思い込みを抱え込んでガンコに変えようとしない人々の間で行われるので、理想社会はそう簡単に成立しないのです。

思想研究は、そのような不完全な社会で、現に行われている議論を整理して、適切な方向に向けていくささやかな作業と考えています。「あの人はスゴイことを言っている!」と一部の人にカルト的に尊敬されたいのであれば思想研究はやらない方がいいと思います。

日本人戦闘員の系譜~戦後社会に寄る辺なき人たち

面白い記事が出ていた。

黒井文太郎「戦いたい!海外の戦場へ向かう日本人たちの系譜 元自衛官からイスラム国を目指した北大生まで」JBプレス、2014年10月17日

日本の戦後の裏面史でもあり、中東情勢の番外編とも言える。紛争の大勢に影響を与えることはついぞなかったが、思想・文化現象として興味深い。

私自身は、さらにマイナーな、戦場には出ないが「後方支援」した日本人たちのことが時折気になる。フィールドワーク(というかただぶらぶらしていただけ)の時代にすれ違った、日本の規格からは外れたたくましい、ちょっとずれた人たち。

この記事で取り上げられるのは名前が通った人たちだけだが、私の若い頃の観察では、レバノンなどの各民兵集団(政府軍にも)にたいてい一人ぐらい、「日本人空手教師」みたいのがいた。日本人というと「ジャッキー・チェン」だったり「カラテ・キッド」だったりといった強固なオリエンタリズム的固定観念が中東社会にはあります。そのイメージをなぞって演じていると、食っていくことぐらいはできて、ちょっと尊敬されたりもします。どの世界でも「先生」はそれなりに偉いからね。お金と権力はなくても、直接の生徒とその親には尊敬される。

ジャキー・チェンとカラテ・キッドの老師を足して二で割って、そこに黒沢明風の威厳を付け加えれば、アラブ社会のオリエンタリズム的日本人像にぴったり重なる。そんな風に演じているうちに、だんだん幻想と現実が混然と一体となっちゃって、時代劇のように話している日本人とか、いたな。そういう方々、もうかなりの年齢だと思うけど、どうしているかな。静かに帰国して日本社会のどこかにいらっしゃるかもしれない。

中東だけでなく、パリで中東系移民の子孫と思しき少年などからも大喜びで「アチョー」のポーズされました。皆さんもパリとかで歩いていて遠くの方からちょっとエキゾチックでかわいい男の子が目ざとく見つけてポーズ取ってきたら微笑んでやってください。「ここでもか・・・」と脱力とすると共に、フランスの移民コミュニティの存在が可視化されて便利。「アチョー」のあるところ、中東あり。

ただ、こういった日本人の印象も、時代の変化と共にだんだんなくなっていくんだろうねえ。アラブ人の子供がアチョーをやらなくなったらそれはそれで寂しいような気もする。

この記事でまとめてもらったのを読んで思ったこと。

戦後の平和主義になじめない、むしろ戦争する機会が欲しい日本人は左右両陣営に常にいて、オリエンタリズム的な幻想・憧れをもって中東に向かった。ある程度武器の扱いや戦闘に習熟している人はそれなりに活躍したが、あくまでも末端の戦闘員レベル。指揮官やイデオローグになった人はいない。日本赤軍の思想など誰もアラブ世界で知っている人はいないし聞く人もいない。せっかく来てくれたからととある勢力が匿っていただけで、他の勢力は無関心だったし、迎えてくれた勢力にとってもお荷物になっていたのでやがて何らかの取引(たいしたものは代償にならなかったと思う)で日本の官憲に順次引渡し。

記事4頁は何だか身につまされないでもない。

「2000年代以降の外国人兵士の需要は、イラクやアフガンのような民間軍事会社が主流になった。そこでは実績のある各国の軍特殊部隊OBなどが優先される。実績に加え、戦闘技術や語学など要求されるスキルも高い。こうした世界には、なかなか日本人では入っていくことが難しい。」

最近は企業が進出し、本職OBが参入し、グローバル化で語学や情報・先端兵器の扱いも知らないといけないので、戦闘を夢見る日本人ではなかなか入り込めない、とのことですね。

国際戦闘員の世界にも英語化・市場原理主義が貫徹し、日本のその方面の人たちにとっては、グローバル人材の育成が急務となっているようであります。いずこも同じ秋の夕暮。

陰謀論に花束を

今日の、BSスカパー「Newsザップ」出演では、12時から午後3時までずっとスタジオに座りっぱなしだったので、極度に疲労しました。こんなことはしょっちゅうやってられませんね。

Newsザップ

おまけに、今日に限って、米国ダラスの病院内でのエボラ出血熱の二次感染の事例が生じて米国が浮き足立っているので、CNNは特別編成でアマンプールの番組が取り止め。BBCもトップニュースでこの話題に。

毎時0分や30分の定時ニュースで、シリアやイラク、イエメンやリビアの話題は省略されるか、後の方(毎時20分ごろや、50分ごろ)に回されたので、ザッピングの対象にならず。

それでも中東の話をしましたが。

レギュラー・ゲストのアーサー・ビナードさん。

詩人。

国際政治については、典型的な米国超リベラル派らしく、陰謀論炸裂。

まあ中東政治に陰謀はつきものだけど、その多くは米国主体ではなく、現地の諸勢力が地域大国と域外大国とNGOとかを盛大に巻き込みながらやっているのだから、なんでも米国が動かしていると言っていては、中東は分かりません。

中東に盛んな陰謀論とは別に、もっと現実的で厄介な陰謀がたくさんあるのです。それを読み解けないと、手玉に取られてしまいます。

あまりにひどい時はこちらも重ねてどのように見ればいいかを解説しましたが、思想・言論は自由なので、たいていはスルーして放置しておきました。

詩人なんだからどうぞ奔放に。

ただし、メディアがそういう詩人の政治論と私の分析を同列に扱って、かつ一般読者・視聴者に「印象がいい」「良い人」に見える(とメディアが考える)方に軍配を上げるような扱いをした時には、私は徹底的に怒るけれどね。

それは私にとって譲れない倫理の問題だから。

今から10年前のとある事件(それは今イラクとシリアで生じていることに、紆余曲折ありながらつながっている)についてのとあるメディア企業のやり方については、今でも、許しも忘れもしていない。『イスラーム世界の論じ方』の注を詳細に見ていただければ、ぼんやりと何がどうだったか分かるかもしれない。

ビナードさん、最近うちの父といくつも一緒に仕事してくださっているらしい。うちの父も政治の話になると、まあビナードさんと似たような感じのぽわっとした現実感のなさがある。

ただし父は、人間社会の本質に関しては、政治の制度や社会構造に関する情報は恐ろしく皆無なのにもかかわらず、ある面で異様に勘が鋭い。もし理屈で説明させれば陰謀論みたいなものになってしまうのだろうが、そういうことは人前で決して言わない防衛本能は鋭い。なので、明らかにおかしいだろ、という政治的発言をしたのは見たことがない(いや、探せばいろいろあるかもしれませんが・・・)。その辺、世の文系知識人とは全く違うと思う。それがどこからきているのかは私にもよく分からない。文学だ学問だ云々というよりももっと深いところでの人間としてもって生まれた知覚・防衛本能なんだろう。外当たりはいいけれども、あの人は、お人よしではないですよ。

ビナードさんがしゃべっている間に浮かんだポエム。

みえるもののむこうがわに
みえないものをみるのはいい
みえないものだけをみはじめると
なにもみえなくなる

さとし

お粗末でした。早々に宗教政治思想に路線転換しておいてよかった~

日本人の「イスラーム国」参加未遂の報道に思う

「イスラーム国」の戦闘に参加を目指した日本人が摘発されたとのこと。

事実関係はほとんど伝わってきていません。どのような思想的背景があるのか、あるいはむしろ非常に軽率に参加しようとしたのか、事実関係が分からない限り、この事件そのものについては議論しようがありません。しかし、日本の社会の固有の文化的・宗教的・政治的な通念と、イスラーム教の政治・軍事理念とが触れると、社会の周縁部で非常に特異なタイプの過激派を生みかねないことは、一般的な危険性として存在し、今後も様々な事例が、日本社会の規模からは少数の末端の事象と言いうるものの、発生するでしょう。

今回、刑法93条の「私戦予備及び陰謀」という、聞き慣れない規定が適用されたことは重要です。

9月24日の国連安保理決議では、シリア・イラクに越境して戦闘に参加する者を阻止し、資金の流入を止めるための法整備を行うよう各国に求めています。しかし日本では新たに強制力のある対テロ法制を整備することはまず不可能でしょう。特定秘密保護法であんなとんでもないおどろおどろしいキャンペーンを新聞各紙が張ったのですから。

そこで、捜査当局は、既存の法体系の底から、戦後の日本でほとんど顧みられることのなかった、死文化していたものの国家の本質にかかわる重要な条文を持ち出してきた。これはかなり衝撃的な出来事です。

国家が独占するべき戦争と武装の権利を、個人・集団が勝手に保有して行使することは、近代国家においては許されないことです。しかし、国家が武力を保持し、戦争を行う権利を有するということそのものから国民集団が目を背けてきた日本では、「私戦」を禁ずるという刑法上の規定を、呑み込むことは大変でしょう。メディアはどう反応するのでしょうか。

そして、ここに宗教が絡んでいることも、日本の通り一遍の宗教認識では、理解が不能でしょう。宗教は平和の教えであり、軍事とは何の関係もない、政治とも関係ない──としばしば日本では教えられますが、日本の歴史を見ても、そして世界史と現代の国際政治を見ても、それは事実ではありません。宗教と軍事は人類史上、きわめて長い時間、多くの場所で、ぴったり結びついてきました。

このことを社会全体で認識することを避けてきたがゆえに、ごく少数ですが、宗教の絶対的な統治規範に関わる規定、あるいは軍や戦闘に関わる側面を教えられると、免疫がありませんから、まさに「天啓」を受けたような気になってしまう人々が出てきます。

社会の周辺にいて、「日本社会は間違っている」「世界はおかしい」と一方的に思いを募らせるタイプの人が、世界宗教が明確に「正しい戦争」「正しい軍事行動」「あるべき統治のあり方」を示してくれると、一気にかぶれてしまうのです。イスラーム教については、世間一般の関心は薄い代わりに、少数のそういった「絶対」を求める人々が集まってきます。

そのような事情は広く世間には知られていません。

前提として影響しているのは、日本では「イスラーム」は非常に肯定的なものとして、かつ日本の価値観と適合するものとして、専門家や大手メディアによって表象されてきたという事実です。有力な学者は(あるいは学者の世界で有力となるためには)、日本社会に行き渡る価値規範と親和的なものとしてのみ「イスラーム」を論じてきた。しかし実際には学者にはそれほど影響力はありません。むしろ、特定の、読者にとって心地いいタイプの「イスラーム」認識を、権威的な少数の学者の説を引用しながら報じてきた、大手メディアによる社会教育の効果は計り知れません。なんとなく、現代世界の抱える問題のすべてに「イスラーム」が解決策を持っているかのような幻想を、日本の知識人は持ちがちですし、それを大手の新聞などは引用します。

新聞や本を断片的に読んで信じてしまうような、真面目で単純な若者が、「イスラーム」がマジックのように現代社会の問題を解決するかのような幻想を抱いて接触を求め、「当たりどころ」が悪いと、ジハードによる武装闘争を通じた支配権力の獲得や、イスラーム教徒と異教徒の権利に明確に差をつけた統治制度など、それまで日本では知られていなかった側面に触れ、むしろそこに力強さ、正しさを感じてしまう。そういった経路が、日本に特有な過激化の進展過程として考えられます。

「正義の名の下での暴力や支配」という思想の「魔力」に感化されやすい若者は、どのようにして生まれるのでしょうか。

私は、例えば次のような社説によって、日々作られていっていると考えています。

「(社説)テロリスト 生まない土壌つくろう」『朝日新聞』2014年10月6日05時00分

どこがおかしいか数点指摘しておこう。全文に渡って全ての問題点を検討して指摘する時間はない。

まず、

「なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、「テロリストを生まない社会」を築く努力が必要である。」

というのが(なんだかここを読んだだけでもとてつもなくくだらないですが)、この社説の一番の論点であると思われます。タイトルにも取り入れられています。

しかしここで「それぞれの国内問題」とありますが、「どこの」国内問題なのでしょうか?

社説全体を見ると、これは「先進国」の国内問題であるようです。しかし書き手は自分が「先進国の問題」を取り上げていることを自覚していない。つまり対象となる問題を適切に分節化・規定できていない。そのことが結局議論を迷走させ、脱線させ、最終的に夜郎自大の「先進国」批判に行きつきます。

「「イスラム国」には、約80カ国から1万5千人以上が戦闘員として合流したとみられる。フランスや英国、ドイツなどからは数百人単位に達するという。」

と、対象となる問題を特定しています。

しかし、この数値だけでも変なところがあります。全体の数が「1万5千人」であるのに対して、フランス・英国・ドイツ(など)からは「数百人」であるので、そもそも全体の中での割合も、先進国からの総数も分からない、というどうしようもない数値で、こんな数値を並べるレポートが出てきたら不可でしょう。

実際には、この数値(をいくらなんでももっと厳密な数値に置き換えた上で、ですが)からは、「イスラーム国」に流入する外国人戦闘員の多数は西欧先進国からではない」ということを読み取らないといけないはずです。ヨルダン、チュニジア、サウジアラビア、モロッコなどアラブ諸国からが圧倒的多数。これにチェチェンなどイスラーム諸国からの戦闘員が多く加わっています。その次に、欧米先進国から、移民の子孫や改宗者が加わっている、という順序です。

そうであれば、まずはアラブ諸国やイスラーム諸国の「それぞれの国内問題」に原因を求めなければならないはずです。

ところがそうせずに、もっぱら「先進国」に矛先を向けてしまう。いつものよくあるパターンです。

しかし、もし「先進国に不満を抱く若者がいる」という問題認識が正しいとして、「それがイスラーム国に行ってテロを行う」ことにどうつながるのでしょうか。

百歩譲って、「フランス社会に不満を抱く若者がフランス社会にテロを行う」のであれば、その行為を許容はできませんが、いちおう当人たちの意識としての因果関係は認められると言えるかもしれません。しかし、「フランス社会に不満を抱く若者がシリアに行ってテロをやる」というのは、因果関係の繋がりが通常の意味では存在しない、かなり奇異な現象だと受け止めなければなりません。その上で、一見奇異に見える現象の中に、別のメカニズムを特定すれば理解できてくる、という議論でなければならないはずです。

そのメカニズムには宗教と軍事、宗教と政治の関係も必然的にかかわってきます。厄介な問題ですが、避けて通れません。

しかしこの社説には、現実を見てそういった最低限の疑問を抱いて考えた形跡がまるで見られません。

結局、批判しやすい、自由で先進的な社会に文句をつけて、カッコ良いことを言いたいだけなのではないかな、としか思えません。

この社説の問題は、大前提となる対象の認識があやふやなことです。

「それぞれの国のイスラム系移民社会の出身者や、キリスト教からの改宗者が目立つ。多くは、貧困や失業に直面し、差別や偏見を受けて、母国で疎外感を抱いた若者たちだ。」

この認識は妥当なのか。これはかなり疑わしい。

現地の情勢の分析なき決めつけ。情報や議論が古い。10年以上古い。

参考になるのは、次のような記事です。

「フランス:若い女性や中流・富裕層出身者がイスラム国参加」『毎日新聞』2014年09月18日19時30分(最終更新 09月18日 22時44分)

いくつか引用しましょう。

「イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」への欧米最大の戦闘員供給源となっているフランスでは、従来多かった家庭環境に恵まれない若者だけでなく、若い女性を含めた生活水準の比較的高い家庭出身者が戦闘地域に流入するケースも目立つ。」

「2月に「イスラム過激派参加防止センター」を創設し、フランス人の若者のイスラム過激派入りを防ぐ運動をするドゥニア・ブザル氏は、「父親なし、人生の羅針盤なし」という定着しつつある、イスラム過激派に転化する若者のイメージに疑問を投げかける。「以前は社会的、家庭的に恵まれない若者だった。今は、中流・富裕層の出身者が参加している。過激化する時間は以前より短くなり、信仰心の薄い若者を数週間で変えてしまう」と指摘する。」

先進国の問題としては、「別に経済的にも不自由ないのに「イスラーム国」に向かう人々が出てきている」ということが注目されているのです。

それに対して、チェチェンからの転戦組とか、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国からの流入者は、政治的な弾圧の影響もありますし、貧困が原因で「傭兵」的に集まってきた者たちもいるでしょう。こちらはこちらで問題です。

この二つを混同すると、「イスラーム国」への対処策は適切に立てられなくなります。

「イスラーム国」へ流入する戦闘員の問題は、最低限でも、(1)先進国から流入する目立つけれども全体の中での割合は少ない集団に特有の問題・背景と、(2)シリアとイラクの周辺のアラブ諸国やイスラーム諸国から流入する多数を占めるイスラーム教徒の抱える「それぞれの国内問題」に分けて、それぞれを議論しなければ意味がありません。あっちの国の貧困の問題を、こっちの国の暇を持て余した中間層の行動の原因として繋ぎ合わせることはできないのです。

朝日新聞の10月6日の社説は、先進国に特有の問題と、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国の抱える問題を混同しています。そしてその混同によって、ここでは先進国の問題を取り上げているにもかかわらず、「貧困が原因だ」という、どちらかというと近隣アラブ諸国やイスラーム諸国(の紛争・貧困国)からの戦闘員流入の背景にあるであろうと考えられる問題に責を帰する議論を行うことで、問題の所在や発生原因を混同し、現実認識を困難にしています。そもそも、より根本原因と考えられる、シリア・イラクそのものの国内問題にはじまり、大多数の戦闘員を送り出している周辺アラブ諸国やイスラーム諸国の国内問題を、等閑視しています。

そして、このような「とにかく欧米社会が悪い」と言ってしまって自足する議論の根底にある発想は、現地の事情をよく分かりもせず、関係もないのに、ただ戦闘に参加したいと言い出す若者の発想と、同根ではないかとすら思うのです。

テロをめぐる朝日新聞の論評は、「むしゃくしゃしてやった」といったどう考えても薄弱な動機で殺人を犯す人物が現れるたびに「むしゃくしゃさせた社会が悪い」と論評しているようなものです。「むしゃくしゃした」ことと「人を殺す」ことの間を何が繋いでいるのか?という謎に正面から向き合わないのであれば、こういった論評は、テロを容認する社会規範を事実上広めているとすら言い得るものです。

「ボーダーレスのいま、日本人が攻撃に遭う可能性もある。テロと向き合う国際論議に私たちも積極的に参加すべきだ。」という結びの言も、間が抜けています。「日本人が加害者になる可能性もある」という当たり前の現実に全く気づいていない様子で、無自覚です。遠くの「欧米」の「国内問題」と断定して安心して、よく知らないのにあげつらっているので、状況が違う日本でも出てきてしまう問題であることに気づいていないのです。

日本からイスラーム主義過激派に入るテロリストが出たら、やはり「日本社会の問題」として糾弾するのでしょうか。するかもしれませんが、するとしても、おそらく間違った方向でする、ということはこの社説の程度を見ても明らかでしょう。その意味で、日本社会の問題は根深い。

イラク・シリアの内戦と介入は原油価格を下落させた

ある程度ものの分かった専門家の間でやり取りする際に常識となっている話が、その外に広まるまでにはタイムラグがある。結局伝わらない場合も多い。

中東情勢が原油市場に及ぼす影響というのもそんな課題の一つだ。

その関係で、やっとまともな報道になったな、と思わせてくれる記事があった。その記事で引用されている図を見れば一目瞭然だ。

WTI石油先物1-9月2014年毎日新聞9月30日
出典:「原油価格:下落続く 欧州、中国の景気懸念 需要先細り」『毎日新聞』2014年09月15日10時34分(最終更新 09月15日 12時21分)

イラク・シリアの内戦が「イスラーム国」の伸長に結びつき、それに対する米国の軍事介入という事態に至って、やおら「中東の地政学的リスクの高まり」が議論されるようになりました。

中東専門家の個別利益としては、「リスクの高まり」を煽る側に回れば、講演の依頼などで引っ張りだこになり、「日本政府は対策を取っているのかー」とか叫べば、政府・官庁のなんとか委員になれたりして、いろいろお得なのだろうが(じっさい、「えらく」なった先生は、過去の言動をトラッキングすると、こういう機会にこういう立ち回りをすることに機敏であったことが分かる)、私はそういうことは人生の目的ではないのでしない。

中東専門家として、あるいは国際政治を広く見ながら生活をしている人間として言えば、「地政学的リスクが高まったという認識は広まったが、国際市場への原油・天然ガスの安定・妥当な価格での供給を阻害するという意味でのリスクは高まっていない」というのが、「イスラーム国」の伸長・米国の介入の影響を現地情勢や諸指標を見て引き出せる結論。

これについては、モノの分かった諸専門家(地域情勢・エネルギー・原油市場に関する)と議論すれば、ほぼ同意してもらえる。「専門家」を名乗っていてもそうでない人がいる、という話には、私は関知しない。

この図の読み方ですが、「イラクとシャームのイスラーム国」が、イラク北部に急激に勢力を拡大したのが6月初頭。6月9日から10日にかけてモースルを占拠したのが世界に衝撃を与えた。この時期にだけ若干原油市場は上昇圧力を受けた。

しかし6月20日の近年の最高値(107.26ドル/バレル)を最後に、下落に転じ、ほぼ一直線に90ドル/バレル近くまで下がっている。

日本で原油価格下落の効果が感じられないって?
円安だからです。

90ドル/バレルという水準は、2月以前の水準だ。つまり、ウクライナ問題が紛糾して、クリミアやウクライナ東部をめぐって米露対決が激化する過程で押し上げられた分も帳消しにするほど下がっているのである。

地政学的リスクが原油市場に与えた影響ということで言えば、
(1)ウクライナ問題をめぐる米露対決では、原油市場は「買い」の反応をし、
(2)イラク・シリア問題が紛糾し「イスラーム国」が伸長し米国が軍事介入に踏み切ると、原油市場は「売り」の反応を示したことになる。

WTIをもう少し長期的に振り返ってみても、中東情勢の混乱は必ずしも原油価格の上昇に結びついていない。

2008年9月のリーマン・ショックで、それ以前の狂乱の高騰に見舞われていた原油価格はガクッと下がった。WTIでは、2008年の7月11日に一瞬つけた147.27ドル/バレル を最高値に、年末には一バレル30ドル台の前半にまで下がっていた。

これが2009年から2011年まで緩やかに回復していった。2011年1月以来のアラブ諸国の政権の動揺に際しても、さほど上がらず、1バレル100ドルの前後を行ったり来たりして安定してきた。

ウクライナ問題の勃発で、2014年の3月には105ドル/バレル水準に押し上げられ、さらに6月の「イスラーム国」の伸長で数日間は107ドル台に上がったものの、6月20日以来一貫して下落し、ウクライナ問題以前の水準に下がっている。

つまり、8月7日のイラク空爆表明、9月10日のシリアへの空爆拡大表明を経て、実際に現地で戦闘が激化し空爆が拡大してもなお、一貫して原油先物価格は下がり続けているのである。

要因を推測すれば、

(1)国際市場の側には、中国をはじめとした新興国市場の需要の鈍化があり、ヨーロッパの経済不振の長期化の見通しがある。

(2)中東側から見れば、リビアにせよ、イラクにせよ、あるいは小規模だがシリアやイエメンにせよ、国が内戦や混乱状態にあっても、民兵集団が跋扈して油田・石油精製施設が掌握されても、密輸を含んだ非合法な形を含んで、原油は国際市場に出る、という経験知が共有された。

そこから、「イスラーム国」の伸長に対しても原油市場はあまり反応せず、むしろ米国が介入して鎮静化することを見越して(あるいはイスラーム国への関心が高まることでウクライナをめぐる米露対決が緩和されることも見越して)、価格が下落したのではないかと思われる。

なんてことは、最近頻繁に出席させられる各種会合で議論していて、ごく自然に専門家に受け入れられていたのだが・・・

ああやってくれてしまった、藤原帰一先生・・・

藤原帰一「紛争から見える世界 − 権力が競合する時代に」東京大学政策ビジョン研究センター(朝日新聞夕刊『時事小言』2014年9月16日から転載)

昨今の国際情勢に共通する要素として「紛争が世界経済に及ぼす影響が大きい」として、その筆頭に「イラクとシリアの内戦は、原油価格の高騰を刺激した。」と書いてしまっている。

ですから、高騰していないんです。

ウクライナ問題による「地政学的リスク」は高騰要因になったかもしれませんが、イラク・シリア問題は逆にそれをも打ち消すような市場の動きを招いています。

「アラブの春」以来の有為転変を逐一目撃しながら抱いた雑感、「どんなに混乱していても原油は市場に出るんだなあ…」は、国際政治学者には共有されていないものだったのですね。

中東のことを不用意に語りさえしなければ素晴らしい先生なんだけどな・・・「国際政治学」が専門だからと言って国際政治の森羅万象が分かるはずはないのだから。

私の方は、9月12日の日経新聞朝刊「経済教室」に寄稿した拙稿でも、次のように書いておいてあります。まだその先にもっと価格が下落すると決まった段階ではなかったのですが、押し上げ効果も大したことなかったし、原油は変わらず出ているんだから、リスクリスクと騒ぐことない、と水をかけておきました。編集部側は「地政学的リスクの高まりが・・・」というテーマ設定をしているんだから「高くなりましたッ」と迎合して書いておけばもっと仕事来そうなもんだが、性格的にそういうことができないんですよ。でも結果として下がったでしょ。

以下抜き書き。全文はウェブ版を契約して読んでください。

「中東の地政学的リスクとはいかなるものなのだろうか。」

「中東産原油・天然ガスの国際市場への安定供給についていえば、これほどの混乱にもかかわらず、むしろ原油は値引きした密輸を含んだ自生的なルートで市場に流れ続けており、原油価格の急騰や供給・運搬ルートの途絶といった事態が近く生じるとの観測は、むしろ沈静化している。」

「イランの核問題での対立によるホルムズ海峡の閉鎖や、パレスチナ問題をめぐる地域規模の動乱といった、周期的に危機意識があおられるものの現実化しなかった致命的な一撃の可能性も低い。」

それではどういうリスクなのかというと・・・

「中東全域の治安や政治の安定度がおしなべて低下することで、中東地域に対する政治的・経済的な関与への自由で安全なアクセスが制約されること」

「「複雑怪奇」な中東情勢がもたらす多種多様な地政学的リスクの回避に、多大な労力を払わなければならない」

「リスクは、均等にではなく特定の国にかかってきかねない。」

「中東の石油を死活的に必要とする国とそうでない国で、混乱がもたらすリスクへの認識は異なる。」

といった話です。

ジョージ・フリードマン『続・100年予測』に文庫版解説を寄稿

以前にこのブログで紹介した(「マキャベリスト・オバマ」の誕生──イラク北部情勢への対応は「帝国」統治を学び始めた米国の今後を指し示すのか(2014/08/21))、地政学論者のジョージ・フリードマンの著作『続・100年予測』(早川文庫)に解説を寄稿しました。帯にもキャッチフレーズが引用されているようです。


ジョージ・フリードマン『続・100年予測』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

単行本では邦訳タイトルが『激動予測』だったものが、文庫版では著者の前作『100年予測』に合わせて、まるで「続編」のようになっている。


ジョージ・フリードマン『100年予測』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

確かに、『激動予測』ではありふれていてインパクトに欠けるので、文庫では変えるというのは良いが、かといって『続~』だと『100年~』を買ってくれた人が買ってくれる可能性は高まるかもしれないが、内容との兼ね合いではどうなんだろう。

英語原著タイトルはThe Next Decadeで、ずばり『10年予測』だろう。100年先の予測と違って、10年先の予測では個々の指導者(特に超大国の最高権力者)の地政学的認識と判断が現実を左右する、だから指導者はこのように世界情勢を読み解いて判断しなさい、というのが基本的な筋立てなのだから、内容的には「100年」と呼んでしまっては誤解を招く。

こういった「営業判断」が、日本の出版文化への制約要因だが、雇われで解説を書いているだけだから、邦訳タイトルにまで責任は負えません。

本の内容自体は、興味深い本です。それについては以前のブログを読んでください。

ただし、鵜呑みにして振りかざすとそれはそれでかっこ悪いというタイプの本なので、「参考にした」「踏まえた」とは外で言わないようにしましょうね。あくまでも「秘伝虎の巻・・・うっしっし」という気分を楽しむエンターテインメントの本です。

まかり間違っても、「世界の首脳はフリードマンらフリーメーソン/ユダヤ秘密結社の指令に従って動いている~」とかいったネット上にありがちな陰謀論で騒がんように。子供じゃないんだから。

フリードマンのような地政学論の興味深いところ(=魔力)は、各国の政治指導者の頭の中を知ったような気分になれてしまうこと。政治指導者が実際に何を考えているかは、盗聴でもしない限り分からないのだから、ごく少数の人以外には誰にも分からない。しかし「地政学的に考えている」と仮定して見ていると、実際にそのように考えて判断し行動しているかのように見えてくる。

今のオバマ大統領の対中東政策や対ウクライナ・ロシア政策でも、見方によっては、フリードマンの指南するような勢力均衡策の深謀遠慮があるかのように見えてくる。

しかし実際にはそんなものはないのかもしれない。単に行き当たりばったりに、アメリカの狭い国益と、刹那的な世論と、議会の政争とに煽られて、右に行ったり左に行ったり拳を振り上げたり下げたりしているだけなのかもしれない。あるいは米国のリベラル派の理念に従って判断しつつ保守派にも気を利かせてどっちつかずになっているのかもしれない。

でも、行き当たりばったり/どっちつかずにやっていると、各地域の諸勢力が米側の意図を読み取れなくなって、米の同盟国同士の関係が齟齬をきたしたり、あるいは敵国が米国の行きあたりばったりを見切って利用したり、同盟国が米国に長期的には頼れないと見通して独自の行動をとったりして、結局混乱する。しかしどの勢力も決定的に状況を支配できないので、勢力均衡的な状況が結果として生まれることも多い。

で、その状況を米国の大統領が追認してしまったりすると(まあするしかないんだけど)、あたかも最初からそれを狙っていた高等戦術のようにも見えてくる、あるいはそう正当化して見せたりもする。

そうするとなんだか、世界はフリードマン的地政学論者が言ったように動いているかのようにも見えてくるし、ひどい場合は、米国大統領がフリードマンに指南されて動いているとか、さらに妄想をたくましくしてフリードマンそのものが背後の闇の勢力に動かされていて、この本も世界を方向付ける情報戦の一環だとか、妄想陰謀論に支配される人も出てくる。

本って怖いですね。いえ、だから素晴らしい。

でもまあ結局この本で書いてあることは、常にではないが、当たることが多い。商売だから、「外れた」とは言われないように仕掛けもトリックも埋め込んで書いている。「止まった時計は、一日に二回正しい時を刻む」的な議論もあるわけですね。その辺も読み取った上で、「やっぱり読みが深いなあ」という部分を感じられるようになればいいと思う。

改めて、決して、外で、「読んだ」っていわないように。

~夏休みの自由研究の課題を発表~トルコの英字紙3紙を読み比べてみよう

いつもはこのブログではかなり懇切に中東に関するメディアの紹介や新聞記事の内容を解説していると思うが、今日は忙しいし、せっかくトルコにいるのでいろいろやることがある。

なので今回は媒体と記事のタイトルだけ。ちょうど夏休みの自由研究を駆け込みでやる時期なので、頑張ってみる人は自分で読み進んでください。

ちょうど滞在中の8月28日には、先日の大統領選挙の結果を受け、エルドアン首相が大統領に就任した。代わりに首相にはダウトウル外相が首相に指名された。翌29日にはダウトウル内閣が発足。

エルドアン大統領就任2014年8月28日
エルドアン新大統領夫妻とギュル前大統領夫妻

今後のトルコを基礎づける重要な動きが続くが、これをどう報じ、論評するか、トルコは各新聞が明確に党派性を打ち出すので、いわば「ポジション・トーク」が満載。慣れてくると読まないでもほぼ内容の見当がつき、タイトルや筆者の名前を見るだけでほとんど隅々まで予想できるようになる。

そのようになるための訓練として、下記の課題。

【課題】トルコにはウェブ上で読める主要な英字紙が3つある。『Daily Sabah』『Hurriyet Daily News』『Daily Zaman』の三紙のエルドアン大統領就任、ダウトウル首相就任、ダウトウル内閣組閣についての記事を読み、それぞれの媒体の政治的背景と、論調の特徴、相互の対立点についてまとめてみる。

という感じでいいんじゃないですか。

ウェブの紙面はどんどん更新されてしまうので、8月28日から29日午前にかけて画面に大きく出ていた記事をピックアップしてURLを張り付けておきます。

1.Daily Sabah
ERDOĞAN SWORN IN AS FIRST DIRECTLY ELECTED PRESIDENT OF TURKEY

SUCCESS STORY OF THE MAN WHO HAS BEEN LEADING TURKISH POLITICS FOR OVER A DECADE

NEW PM DAVUTOĞLU SEEKS SECOND ECONOMIC BOOM

PRESIDENT ERDOĞAN AND PRIME MINISTER DAVUTOĞLU

PRIME MINISTER DAVUTOĞLU ANNOUNCES THE NEW CABINET

BABACAN: THE ONLY MINISTER TO SERVE IN ALL AK PARTY GOV’TS SINCE 2002

“NEW TURKEY” MEANS NEW UNION AND PEACE

12 MORE GÜLENIST OFFICERS DETAINED OVER ESPIONAGE

2.Hurriyet Daily News

Erdoğan sworn in as Turkey’s 12th President

As it happened: Erdoğan takes over Turkey’s presidency after tense parliamentary ceremony

Erdoğan as 12th president and successor to Atatürk

Main opposition leader slams Erdoğan, boycotts presidential inauguration

Davutoğlu takes helm, pledges unity, harmony with presidency

The prime foreign minister

3.Daily Zaman

Kılıçdaroğlu: CHP won’t respect Erdoğan until he respects Constitution

Erdoğan sworn in as president, main opposition boycotts ceremony

Several media outlets denied entry to presidential palace

Turkish police fire teargas at protesters after Erdoğan sworn in

All 13 officers detained in Adana set free

Power back on in tense Southeast towns

Incoming Prime Minister Davutoğlu to announce new cabinet

Davutoğlu announces new government, Çavuşoğlu new foreign minister

Davutoğlu pledges to toe the line for Erdoğan

Erdoğan uses aggressive, discriminatory rhetoric in farewell speech

Attendance at Erdoğan’s inauguration not to be as planned

Historic character of mansion destroyed in renovations for Erdoğan

ウクライナ上空回避を実体験~国際航路の安全保障が紛争と紛争解決の焦点に

仕事でトルコのイスタンブールに来ています。

来る時はずっと本を読んでいて重要な本を2冊も読めたので大変有益かつ疲労したのですが、唯一利用した機内エンターテインメントが飛行ルート地図。

東京からイスタンブールまで、大雑把にこういう航路なのですが、拡大図などが適宜表示されて、実際に飛んできた経路が表示され、その時点での最短ルートが示されるので、細かく見ていると方向転換によるルート変更が分かる。

ウクライナ上空回避1

注目したのは、「あの空域」をどう回避するのかということ。

「あの空域」というのは、今回はウクライナ上空。日本からトルコのイスタンブールに行くのなら、ロシアの上空を経てウクライナ東部をかすめるのが多分最短ルート。

しかしウクライナ東部の紛争が勃発して以来この空域の危険度は増し、そしてマレーシア航空MH17便の墜落以来、回避すべきルートとして認定されている。

MH17便の墜落現場は、ウクライナ東部ドネツク付近。

ウクライナ・マレーシア航空機墜落現場(朝日新聞)
出典:朝日新聞

より詳細な地図を探すと、こんなものがありました。

ウクライナ東部MH17墜落地点地図NYT
出典:ニューヨーク・タイムズ
ウクライナ東部の親ロシア・反政府組織の活動範囲の只中に墜落しています。

MH17の墜落以前から、クリミア半島と、ウクライナ東部には段階的に飛行禁止・制限が米欧の政府・機関から勧告されていました。

しかしドネツク付近については、高高度なら飛行も可とされていたようです。

ウクライナ東部航路地図NYT1
出典:上に同じ

航空会社によってはウクライナ東部全体を避ける動きもあったようです。

ウクライナ東部航路地図NYT2
出典:上に同じ

しかしマレーシア航空機は最短距離を通ってドネツク上空に差し掛かったようです。

MH17の飛行ルートNYT

本当に痛ましいことです。乗客乗員のご冥福をお祈りします。

その後、各航空会社はウクライナ上空の飛行から一斉に迂回を迫られた。

ウクライナ上空回避行動
出典:ロケットニュース24「マレーシア航空墜落事故の影響でウクライナ東部上空を迂回して飛ぶ飛行機 / アプリでリアルタイムに確認」2014年7月18日

国際航空航路への政治的な理由による制約は、ウクライナ東部に限定された特殊事情ではなく、それ以外の地域にも、理由は様々なれど、飛行回避が各機関から勧告・指令されている空域がある。

このブログでも、政治的な理由から「飛べない空域」が広がっている点を記しました(「【地図と解説】FAAの飛行禁止・警告エリアで見るグローバルなジハード組織の広がり」2014/07/25)

大きく分ければ、

(1)国家間の紛争・対立に端を発する飛行制限・規制

これなら冷戦時代にもあった従来型と言えるのですが、近年これに加えて、

(2)非国家主体の重武装化・対空兵器獲得による、飛行危険空域の拡大

というものがあります。

(1)については、昨年の中国による「いわゆるADIZ」の一方的な設定と通告=領空外の広範なエリアに領空並みの管轄権を主張、という事件がありました。

現在は、ウクライナ問題を巡る欧米とロシアの対立の中で、ロシアが対欧米向け経済制裁として、欧米の航空会社のシベリア上空通過の制限をちらつかせています。今のところ発動されていませんが。

なお、これがもし万が一発動された場合も、ロシアの対西側離間策として、日本とトルコについては対象外になるかもしれない、というのが興味深い点です。トルコは「ヨーロッパ」に入るのかな。トルコはNATOではあるが、中東や東欧、中央アジアに関しては独自の政策を常にとるので、ロシアはパイプライン・ルートや天然ガス供給でトルコに新たに情報をちらつかせたりしている。

(2)については、各地の武装集団、特にグローバル・ジハード系の諸組織に各種の性能の対空ミサイルが渡るのでは、という警戒感が、2011年の「アラブの春」に伴う各地の内戦の過程で、域内・域外大国の関与・介入の政策決定において重視されてきた。

最近は、イラク・シリアで伸長するISIS(イスラーム国)が携帯式地対空ミサイルを入手したのではないか、という観測がくすぶっている。今のところ、民間機・戦闘機のいずれについても大規模・組織的に攻撃するまでには至っていないので、あくまでも観測だが。

Thomas Gibbons-Neff, “Islamic State might have taken advanced MANPADS from Syrian airfield,” The Washington Post, August 25, 2014.

James Kitfield, “Missiles are now so easy to get that it’s a miracle more planes haven’t been shot down,” The Washington Post, July 19, 2014.

Thomas Gibbons-Neff, “ISIS propaganda videos show their weapons, skills in Iraq,” The Washington Post, June 18, 2014.

この問題は、欧米によるイラク・シリア軍事介入を要請あるいは正当化する根拠として、あるいはシリアのアサド政権や、イラクのクルド人勢力などの存在意義を主張・正当化する根拠として、思惑含みで流されたりするので注意が必要だ。

しかしISIS自身が、自らがこのような脅威をもたらす能力を持った主体であると宣伝している。その宣伝により実態以上に政治的な影響力を強めている感もある。

実際に飛行機が落ちたのはウクライナであって中東ではないので、中東で、あるいはグローバル・ジハード勢力がらみで明確に顕在化したとはまだ言えないが、潜在的に深刻な脅威となったことは確かだ。

むしろより根本的に警戒すべきは、米国がイラク・シリアへの空爆による介入を続けることによって、それに対する報復として、欧米の民間航空機一般への攻撃を、ISISあるいはそれに支持・共鳴する勢力が、各地で行う可能性だろう。グローバルな非国家主体のネットワークに対する戦線の拡散と、手段のエスカレーション、それによるグローバルな経済活動への制約要因・リスク増大をもたらしかねない局面だ。

さて、ウクライナ東部が完全に危険エリアと認知されて以来、自分で実際にそういった空域の付近を飛ぶ飛行機に乗るのは初めて。なのでカメラを用意して(と言ってもiPad miniですが)、待ち構えておりました。

シベリアを越えて、ロシアの中央部を飛ぶうちに、あれあれこのままだとウクライナ東部にまっしぐらだよう。

ウクライナ上空回避2

予定航路はまさにドネツク上空にぴったり射程。

と、焦らせておいて、機種は徐々に方向を変え始め・・・

ぐいっ

ウクライナ上空回避4

ロシア領のロストフ方面に方向転換してルート変更。ドネツクとウクライナ東部が飛行ルートから外れていきます。

ウクライナ上空回避5

しかしまだクリミア半島が飛行航路に引っかかっているな。これも回避しなければ。もうちょっとだ。

ウクライナ上空回避6

大きく旋回してロストフを通過したあたりで、あれあれこのまま曲がっていくとロシア版図のチェチェン共和国のグローズヌイなど、ある意味もっと怖そうなエリアに近づいてしまう・・・というあたりで再度方向転換。

ウクライナ上空回避7

ソチには参りません。

ウクライナ上空回避8

結局このようにぐるっとウクライナを回避してイスタンブールに到着したのでした。

イスタンブル空港到着

無事でよかった。

「マキャベリスト・オバマ」の誕生──イラク北部情勢への対応は「帝国」統治を学び始めた米国の今後を指し示すのか

しばらくブログの更新が途絶えていた。北の方の涼しい所に行ってきまして、ウェブ環境があまり良くなく、長期的な読書と思索に専念していました。

その間のニュースは活字データで押さえていましたが、主要な話題は、

(1)ガザ情勢は、以前に書いた通り、停戦を繰り返しながら収束局面続く。
(2)イラク北部情勢への米国の直接介入は、限定空爆を適宜行いつつ、同盟国(勢力)への支援を本格化する形で、長期化する模様。

というところでしょうか。

(1)は、様々な理由で、過剰に注目が集まりますが、国際政治学的に一番重要なことは、この問題が中東政治の最重要な問題ではなくなった(ないとみなされるようになった=誰に?米国からも、周辺アラブ諸国からも、イランやトルコなどからも)ということでしょう。

人道的側面から言えば重要と言えますが、それでもシリアやイラクでも同様(あるいはそれ以上)の人道的悲劇が現に進行している、という問題との比較考量からは、相対化されかねません。

それよりも重要なのは、リアリズムの観点から、もうパレスチナ問題は中東の最重要の問題として扱わない、という立場を、域内の諸勢力と、米国など域外の勢力が採用している、ということでしょう。そうなると、パレスチナの指導層だけでなく、むしろイスラエルの首脳・ネタニヤフ首相の方が、苦しい立場に立たされます。

この話はまた今度に。

(2)について、現状とその意味を良く考える時期にあると思われます。考えさせられることが多い、事態の進展です。

8月8日以降の空爆の地点をまず見てみましょう。

イラク北部米空爆
出典:ニューヨーク・タイムズ

非常に限定的で、エルビール防衛やモースルのダムの奪還など、クルド勢力(クルド地域政府とその部隊)への支援に絞っています。一時的にISIS(自称「イスラーム国家」)の進軍を食い止め、戦況を変えていますが、それだけで決定的で恒久的な影響を残す規模と性質の介入とは言えません。

それでは本腰でないかと言えば、そうではなく、米国は「本気」と思います。長期間かけてこの種の介入を続けることをオバマ大統領は明言しています。

重要なのは、「オバマは戦争大統領だ、ブッシュと同じ(以下)だ」といった批判も、逆に、「オバマは弱腰だ、中途半端だ」といった批判も、おそらく見当外れなこと。

最近の論稿で一番おもしろかったのは、
Stephen M. Walt, Is Barack Obama More of a Realist Than I Am?, Foreign Policy, August 19, 2014.

オバマって、意外に、すごくリアリストで、戦略的なんじゃないの?アメリカが最も利己的にふるまったら、オバマの外交政策になるんじゃないの?という趣旨の議論です。

ウォルトはリアリズムの立場から、オバマおよびオバマ政権を、「政権内の理想主義者に引っ張られてしばしば不要な介入を行って失敗している」という方向で批判してきました。これは共和党のタカ派などの、「オバマは平和主義で、必要な介入を本腰を入れてしていない」という批判とは別で、また民主党左派・リベラル派の「戦争を終わらせるはずだったオバマが戦争をまた始めたことに失望した」という批判とも別です。

ウォルトの今回の議論は、オバマはこれまでのアメリカの大統領にない、非情で利己的なリアリストなんじゃないの?と論じています。

要するに、オバマは理想主義的な介入論あるいは介入反対論のどちらかに依拠しているのではなく、リアリストの中でももっとも露骨な、「アメリカさえ良ければいい」「敵国・敵対勢力はもちろん、同盟国あるいは若干微妙な同盟国のいずれもそれぞれ損をするが、しかしアメリカには逆らえない」ような効果を持つ介入(あるいは非介入)を行ってきているのだ、というのである。

「アメリカが最も強い立場にいるから最終的な責任を持つ」のではなく、「アメリカが最も強い立場にいることを利用してアメリカが負いたくない責任やコストはよそに回す」という原則にオバマは従っているのであり、それは最も利己的なリアリストの立場だ、という。

確かに、シリアで介入しなかったこと、イランに歩み寄っていること、ガザ紛争でハマースを批判しつつじわじわとイスラエルのネタニヤフ首相からはしごを外し、恒久和平の実現に力を尽くそうとはしない、といった積み重ねの上で、今回のイラク介入の手法を見ると、古典的なリアリストの勢力均衡論、さらに言えば地政学論者の帝国統治論の処方箋を着々と米外交、特に中東政策に持ち込んできたと読み解けるのです。

少なくともあと2年の任期中は、もはや他の選択肢は失われたものと見極め、徹底した地政学論者の路線で行きそうなことが、イラク介入の手法から、誰の目にも明らかになっています。

明らかになった、オバマ政権のイラク介入の手法は、

(1)米の直接介入は限定的、地上軍派遣なし。介入は直接的に米の権益・人員が脅かされたときのみ。
(2)現地の同盟国(勢力)を使う。この場合はイラクのクルド勢力。かなり距離を置きながら、イラク中央政府への支援を続行。
(3)現地の同盟勢力が全面的に排除されかねない状況下では米国が加勢するが、それ以外は現地同盟勢力に戦わせる。
(4)立場の異なるクルド勢力とイラク中央政府への援助を並行して行い、時には競わせ、時には連合させる。決定的にどちらかが強くならないように匙加減をする。

というものです。まるっきりリアリズム、それも露骨な勢力均衡、オフショア・バランシング論です。

8月7日にオバマがイラク北部への軍事介入命令を発表した時には、米人員の保護と並んで、スィンジャール山に孤立した少数派ヤズィーディー教徒の保護を正当化の根拠に掲げましたが、実際に数日空爆した後、ヤズィーディー教徒の避難民の救出に向かうかと思えば、オペレーションを停止。しかもその理由は、「当初言われていたほどの避難民がいなかったから」。

数万人の避難民がいる、と言われていたので介入したが、数日後になって5000人ぐらいしかいないことが分かった、として人道介入の方は手じまいすると宣言したのです。

一方、米の国益に深く関係する、エルビール防衛・クルド勢力支援は続行する。それによってISISと戦わせる。これが最初からの目的だったことは明らかです。

ヤズィーディー教徒の保護というお題目は、いかにも取って付けたものに見えましたが、建前なら建前で言い続けることもなく、介入の正当化根拠に使った後はさっさと「そんなにひどくなかった」と公言してそちらのオペレーションは縮小する、というところに、オバマ大統領のリアリズム・勢力均衡に徹したイラク介入の手法への「本気度」が窺われます。

私の方は、今週、少しネットから離れて本を読んでいた時に、頼まれた仕事の関係で読み返したこの本が実に今のイラク情勢にシンクロしていると思いました。


ジョージ・フリードマン(櫻井祐子訳)『激動予測: 「影のCIA」が明かす近未来パワーバランス』

この本についてはそのうち原稿を書くと思いますが、イラク再介入の手法や、その他の対中東政策を見るうえで印象深いフレーズをいくつか抜き出しておきます。

フリードマンは、米国が唯一の超大国となり、望むと望まざるとに関わらず「帝国」として世界統治を行なわなくてはならなくなった画期を、1991年の湾岸戦争とみているようです。そこから10年間のユーフォリアの時代も、2001年の9・11事件以降の10年間のジョージ・W・ブッシュ流の直接介入の時代も、いずれも帝国の統治の作法を知らなかった純真なアメリカの迷いの時代として切り捨てています。そして、2011年以後の10年にこそ、本当の帝国の世界統治が確立されるのだ、と説き、オバマ大統領にあるべき政策の姿を進言する、という形式でこの本を書いています。

「アメリカは覇権国家ともいえる座に就いて、まだ二〇年しかたっていない。帝国になって最初の一〇年は、めくるめく夢想に酔った。それは、冷戦の終結が戦争そのものの終結をもたらしたという、大きな紛争が終わるたびに現われる妄想である。続く新世紀の最初の一〇年は、世界がまだ危険であることにアメリカ国民が気づいた時期であり、アメリカ大統領が必死になってその場しのぎの対応で乗り切ろうとした時期でもあった。そして二〇一一年から二〇二一年までは、アメリカが世界の敵意に対処する方法を学び始める一〇年になる。」(52頁)

「世界覇権のライバル不在のなか、世界をそれぞれの地域という観点からとらえ、各地域の勢力均衡を図り、どこと手を結ぶか、どのような場合に介入するかを計画しなくてはならない。戦略目標は、どの地域にもアメリカに対抗しうる勢力を出現させないことだ。」(53頁)

このような大原則から、全世界の諸地域において次のような原則に基づく政策を行なうべきだと主張します。

「一.世界や諸地域で可能なかぎり勢力均衡を図ることで、それぞれの勢力を疲弊させ、
アメリカから脅威をそらす
二.新たな同盟関係を利用して、対決や紛争の負担を主に他国に担わせ、その見返りに
経済的利益や軍事技術をとおして、また必要とあれば軍事介入を約束して、他国を支援する
三.軍事介入は、勢力均衡が崩れ、同盟国が問題に対処できなくなったときにのみ、最
後の手段として用いる」(55‐56頁)

フリードマンの主張の面白い所は、通常の議論では、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の時期のアメリカの政策を「帝国」的として批判するものが多いのに対して、それは歴史上の数多くの帝国が行ってきた政策とは全く違う、非帝国的、あるいは帝国であることに無自覚であるが故のふるまいであったと議論する点です。歴代の帝国は勢力均衡で世界各地の諸勢力を競わせて統治していたのであって、冷戦終結後の20年間のようにアメリカという帝国自身が世界中に軍事力を展開させたのは異例であると言います。オバマ大統領あるいはその次の大統領こそが、真の意味でアメリカに帝国的世界統治、すなわち勢力均衡に基づく敵国の封じ込め、同盟国の統制を持ち込む(べき)主体であるとしています。

「次の一〇年のアメリカの政策に何より必要なのは、古代ローマや一〇〇年前のイギリスにならって、バランスのとれた世界戦略に回帰することだ。こうした旧来の帝国主義国は、力ずくで覇権を握ったのではない。地域の諸勢力を競い合わせ、抵抗を扇動するおそれのある勢力に対抗させることで、優位を保った。敵対し合う勢力を利用して互いをうち消し合わせ、帝国の幅広い利益を守ることで、勢力均衡を維持した。経済的利益や外交関係を通じて、従属国の結束を保った。国家間の形式的な儀礼ではなく、さり気ない誘導をとおして、近隣国や従属国の間に、領主国に対する以上の不信感を植えつけた。自軍を用いた直接介入は、めったに用いられることのない、最後の手段だった。」(24-25頁)

このような各地域内部での勢力均衡を促進する政策へと転換する第一の地域が中東である、というのがフリードマンの主張で、そのためか、この本の半分ぐらいは中東に割かれています。

そこからは、イスラエルから徐々に距離を置き(イスラエル対アラブの勢力均衡の回復)、イランに接近する(イラン対イラク・および湾岸アラブの勢力均衡がイラク戦争で回復不能なまでに大きく崩れた以上、ニクソンの対中接近並みの異例の政策変更が必要だという)、といった政策が進言されます。いずれもオバマ政権が行っていると見られている政策です。

また、これと並行して、他地域では、冷戦終結時点でロシアの勢力圏を完全に崩壊させなかった失敗がゆえに「ロシアの台頭」が不可避であり、それを盛り込んで西欧とロシアの勢力均衡を図るべき、という議論にも発展します。そして西太平洋地域でも、日本と中国を均衡させ、そのために適宜韓国とオーストラリアも利用する、という手法を進言します。

今のイラク対策を見ていると、米大統領に「マキャベリ主義者たれ」と進言する、リアリスト・地政学論者のフリードマンの主張に、残り任期2年余りの現在、オバマ大統領とその政権は、全面的に従っているように見えます。

そうなると必然的に、西太平洋地域でも同様の勢力均衡策が採られるのか・・・というポイントが、日本をめぐる米外交政策を見る際にも、注視されていくようになるでしょうね。

【新企画】おじさん雑誌レビュー『中央公論』8月号特集は「生き残る大学教授」だが

この時期、月刊誌が送られてきます。研究室に来てみると『文藝春秋』と『中央公論』などが届いていました。

こういう雑誌の慣行として、寄稿していると送っていただけるようになります。私は親の代からそういう生活をしているので、執筆することもある月刊誌が定期的に届くとさっと目を通す、という生活に慣れ親しんでおります。

送られてこなかったら買って読むかというとそれは全く別の問題なので、通常の意味での正式な読者ではありませんが、雑誌の紙面が自分の「仕事場」「市場」ともいえるので、そういう目で、半ば「自分のこと」として、子細に、またシビアに見ているという意味で、通常より熱心な読者と言えます。

寄稿したことがある人は大学業界などの書き手や、あるいは政治家・経営者・官僚などの実務家を中心に、累計ではかなり多いので、送られてきている人も多いでしょう。こういった月刊誌の一定の割合の部数は「書くこともある」層に届けられており、それによって大学業界人や実務家の間での「世論」「共通認識」を形成する土台になっているのかもしれません。

(なお私の父は自宅を郵便物の宛先にしていたので、小さいころから私がそれを読んでいたわけです。そのため、団塊世代が「若造」に感じられる60年安保世代的な世代感覚が身についてしまいました。文藝春秋の読み手・書き手の中心的世代が「60年安保」世代であることは、芥川賞150回記念のアンケートで「柴田翔」に数多くの言及がなされたところから明らかでしょう)

しかしねえ、『中央公論』の表紙にもお題が掲げられたカバーストーリー(目玉特集)は「生き残る大学教授」・・・

あのねえ、対象となる読者層が限定されすぎていませんか?とさすがに言いたくなるよ。無料で送ってもらっている執筆者の人たちしか実感を持って読めないぞ、この企画?

業界関係者としては絶対に言ってしまってはいけない、、、と思いつつおそらくこれを読んだ業界関係者の多くが頭の中であるフレーズを思い浮かべていると思うのでそういう時にはつい癖というか過剰な役割意識で言ってしまうのだが「生き残れるのか中央公論」

ああ言ってしまった。

内容は、ライター的な人が書いている「覆面座談会」「大学教授の生活ぶっちゃけ話」を見ても、大学関係者が普段ぶつぶつ言っていそうなことが断片的にそのまま露出している、「まあ間違ってはいない」というような話である。世の中に出回る「大学教授」への妄想や誤解をそれなりに矯正する効果はあるかもしれないが、どれだけ公共性・公益性があるか分からない。

子供のころから親も祖父も親戚にも大学教授が多く、当然その親・親戚の友人・知人にも大学教授が多かったので、疎遠な人も含めて「ここで描かれるこの人はあの人みたいなタイプだな」と実例が思い浮かぶ場合もある。あまり当たっていないなあと思うところもある、単に私の周りの大学教授が大学教授の中でも特殊なせいかもしれないが、などと考えて読んだという意味では楽しめたが、さてこれが総合雑誌の特集として適切なのか、というと疑問だ。

大学の仕組みや大学教授と呼ばれる人たちのありがちなひどい行状から、「私だってこうも言ってしまいたくなるよ」というようなある程度共感できる内容とはいえ、それが実際に総合雑誌に今月の目玉特集として載ってしまうと、やはり「こんなこと載せる必要があるのか?」と言いたくなる。読み手としてだけでなく書き手としての立場からも。

ここで関連が気になるのが、最近の、一定の質を保っている月刊誌に多い、大学の広告。『中央公論』の今号では、「特別企画」の慶應義塾塾長のインタビュー(広告)を含めた各大学の広告が144-167頁に電話帳みたいに延々と載っている。大学にとっては、扇動・排外意識むき出しだったり、おちゃらけエロ満載だったりするあまり品の良くない媒体に広告は出したくない。逆に、雑誌を出す方から言っても、誌面の品位を落とさないで済むような世間体の良い広告主を切実に求めている。『中央公論』は、「大学広告」に関しては、広告媒体と広告主との関係の相性がいいのだろう。

だとすると「大学教授」特集は広告スポンサー向けなの?そうだとするとつじつまは合うが、いっそう公益性がなくなるんじゃないの?

まあ『中央公論』がいろいろ苦しいのは承知の上でこれを書いている。『中央公論』の存在は得難いので頑張っていってほしいと思っている。このなにやら?な特集にしてもその枠があるから、竹内洋先生のいつものもっともらしい茶化し芸(「大学教授の下流化」)や、上山隆大先生の力の入った米大学産業論も読めたわけだし、

なお、浜田東大総長のインタビューで、いつものことながらあげられるのが「インド哲学」。

「たとえば、最も現場に遠いと思われがちなインド哲学を例にとっても、仏教界、要するに寺はその「現場」である。分野にもよるが、これからの時代、教員は、そうしたそれぞれの「現場」との結びつきをさらに意識する必要があるだろう」

と語っておられますが・・・一応世間の誤解を修正しているようにも見えますが、本当に分かっているのか不安。

「大学改革=自分で金稼いで来い、産業界に役に立つものにしろ、いやそれはいかがなものか」系の議論が勃発するたびに、いい意味でも悪い意味でも「役に立たない」「金儲けできない」学問の例として「インド哲学」が挙げられる。しかし、これは最初から最後まで認識不足。

「インド哲学(正式にはインド哲学仏教学科)」は簡単に言うと「サンスクリットを読むところ」です。

なんでサンスクリットを読むかというと仏典は元々はサンスクリットで書かれているからですよね?法事でやってくるお坊さんの大部分は漢訳当て字のお経を棒読みしているだけでしょうが、格式の高い寺や、大きな宗派の総本山では研究所とかもあってサンスクリットから読める人を確保しておかないと格好つきませんよね。

ですから昔から、名のある寺は、息子を東大に通わせてサンスクリットを読めるようにさせたのです。まあ東大だと他の思想や文化や科学に触れるので素直な跡継ぎにはならなかったかもしれませんが、問題はそんな狭いものではない。

寺というのは、個々の身近なところを見れば、勉強しないし堕落しているし金儲けばっかりしているし、と見えるのかもしれませんが、総体で見ると、かなり人材を囲い込んでいて資金があって、有効にかどうかわかりませんが、それを使って大きなことをしています。

京都に行ってみなさい。東京とは全く違う経済・産業があります。新聞各紙は「寺番」記者を張り付けています。東京では霞が関の官庁回りをしますが、京都では「寺回り」をするのです。それは「文化面」だけではなく経済・政治の欄に書くべき出来事が、寺を媒介して起こっているからです。

東京にだけいると、実際には日本社会で力を持っているこの方面の経済力や政治力に気づかないので議論が変になるのです。

サンスクリットで仏典の研究を、となると、学部の2年間の専門課程程度で終わる話ではないから、中心は大学院教育になる。一般の学生から言えば、日本では学部出てすぐ就職しないといけないという強迫観念があるから「論外」の学科に見えるかもしれないが、寺の子供からいうとすぐに寺を継ぐわけではないから時間はたっぷりある。別の学科を出てから、あるいは一度ビジネス界に入ってからの学士入学・大学院進学も多くなる。

筋の良い寺の子供は、寺を継ぐ前に外国留学したりビジネス経験を積んだり、それぞれの寺とその家の家風によって固有の育ち方があり、時代に合わせて各世代が育って、それによって寺は変わってきて、経営体としても刷新されてきたんです。出来の良い子なら、自分の寺の経営体としての規模や資産は小さいころから自然に呑み込んでいるし、適度に新機軸を打ち出していかないと自分も面白くないしなにより寺として生き残れないことは分かっている。

その際に「インド哲学科」もそれなりの役割を果たしてきた。いわば大昔から産学連携を「産」主導でやってきたの。それを東大内部で管理職になるような人たちが、世間一般と同様に知らなかったのは、それはまずいでしょう。

東大の大部分の学部生にとってインド哲学は「何をやっているところか分からない」ということになるでしょうし、「就職なさそう」ということになるのでしょう。しかしそれは衆生の無知、ということに過ぎない。それは大学・学部入学までにマス教育で詰め込まれた「偏差値」(あと東大では3年進学時の「進学振り分け」)的な基準で推し量った、子供の軽率な判断にすぎません。大部分の一般学生がそのような尺度で物事を見ている、ということは、それが真実であるということを意味しません。例えば大きな寺の子、有形無形の資産を豊富に抱えて今後それをどう活用していこうかと考える寺の子は全く違う目で見ているわけです。で、後者の方がもちろん正しい。

問題は、受験にもまれて辛うじて東大の難関を突破しただけでは、その後大人になっても認識を改める機会がないこと。日本社会や経済における仏教界の力やヘゲモニーに気づく経験がないままに齢を重ねて、その中の一部がエラいさんになって、学生時代のぼんやりとした思い出から「インド哲学は儲からない、就職先がない」的な誤解を持ったままで議論しても話は進みませんよね。

もちろん、東大が、本当の意味で仏教界に関わっている良質な人材の持つエネルギーを取り込んでいくような魅力や発想を持っているか、十分に取り込んでこれたか、適切な制度を持っているかは別問題で、そこには大いに改善の余地があると思いますよ。

でも制度を整えないと人が来ない、というのも間違いじゃないかと思います。

私は学部・学科選びの時、「イスラム学科」というできたばかりの学科を発見して、これは、今後文章を書いていくのにまたとないものすごくビジネス・チャンスのある学科、と狂喜乱舞しましたが、イスラム学科がそのようなことを謳っていたわけではありませんし、制度としても実態としても、学科の先生とおんなじ分野を研究する、という発想の学生以外に対しては、何らケアはされておらず放任でした。でも東大というものすごく恵まれた条件のもとで、「モノ書きの素材とするには何があるか」という観点から、本郷の化学の先生が出張で教養学部に教えに来ていた「フリーズ・ドライの作り方」(直接役立っていないがコンビニで最新のカップラーメンを見るのが楽しい)から、現代英米政治思想(これは今も直接役立っている)まで、提供されている授業をつまみ食いした結果、「イスラム学!ここここれは使える」と確信して進学したわけです。思想でも文学でもきちんとイスラム学をやった上で発言している人は一人もいなかったから、という極めて合理的な選択です。学科そのものがなかったんですから当然ですが。小林秀雄の時代はフランス文学があらゆる意味で最先端だったんですが、当然現代はフランス文学は完全に出来上がってしまった分野でそこから新しい価値を生み出していくのは容易ではありません。それに対して出来立ての学科、これまで誰もやっていなかった分野の知見を身につければ競争力がつくのはごく自然に予想できることです。もちろんイスラム学単独では使いにくいので、思想・文学方面とつなげたり、実際に現地で起こっている紛争や政治運動や国際関係を研究対象に取り込んだり、政治学や社会学の知見を応用したり、といったことを考えて東大内のあらゆる学部学科・施設を利用しましたので、学費のモトは十二分に取りました。社会情報研究所(当時)の研修生課程なんていう、東大の学生なら授業料タダというすごいいい話ににも乗って試験受けて入ってメディア論や中東政治・メディア政治(こんなところに中東に詳しい政治学の先生がいたんです!)を勉強しつつ最長の年限(4年間)居座ってコピーセンターとして利用させていただいておりました。ありがとうございました。その後コピーの枚数が制限されたみたいなことを聞いたが関係ないかな。

お仕着せのカリキュラムではなくカスタム・メイドで自分の専門分野を構築できたことが、私にとっては東大に入ったことの最大の利点でした。東大、特に文学部はそういうカスタム・メイドの要素を残す、あるいは一層強めていくことが重要なんじゃないかと思います。私のやり方はその時のその瞬間で最適と思ったものを選び取っただけで、今現在学生の人には別の選択・組み合わせが当然あるはずです。

話を戻すと、インド哲学というのは、本来は仏教界方面に最終的な就職先が決まっている人が来ればいい、「一見さんお断り」と言ってしまっていいぐらいの左団扇な分野なわけです。国立大学だからそんなことを公言しないですし、もちろん教員は仏教関係の出身じゃなくてもなっていますけどね。(インド哲学仏教学科の今の人たちとは全くつながりがないので、あくまでも長い歴史の中での趨勢の話をしております)。

もし「国は今後インド哲学にはお金を出さないから、産業界から資金を募れ」ということになっってしまったら、一瞬にして仏教界からお金が集まるでしょう。どこの宗派が主導権を握るか、新興宗教系の教団も加われるのか、といった点で争いが勃発するかもしれませんが(怖い)、お金が集まらないということはあり得ません。(実際、宗教学科関係のプロジェクトには、新興宗教方面からすでに潤沢にお金が入ってきていますし・・・)

本当の問題は、そうやって産業界(ここでは仏教界)あるいは特定の寺に資金を出させたら客観・中立な研究はできないでしょ、ということであって、だから結局は細々とながら国が出す、ということになるしかないのは最初から分かっている話です。思想・宗教といった文学部の諸学は、「価値」という究極的にものすごいパワーを秘めたものを扱う分野ですから、スポンサーをつけるとややこしくなるのは当然です。

大学を改革せねばならん、と言う人は、まず大学を知ってほしいものです。改革の議論は、まず論者自身が大学を知るきっかけになる、という意味では結構なことです。その上でいい知恵も出るかもしれません。大学関係者にとっても、改革議論に応えていくうちに、自分たちもあまり知らなかった・重視していなかった大学の価値を再発見することにもなります。

・・・なんてことを書いていたら、今号の第二特集「中露の膨張主義──帝国主義の再来か」に触れる時間が無くなってしまった。本当はこっちの方が重要なんだけど。 このブログでもちょっと触れたように、『フォーリン・アフェアーズ』の5/6月号でのウォルター・ラッセル・ミードとジョン・アイケンベリーの論争は、現在の国際政治をどう見るか、今後どのような政策を採用していくべきか、という課題についての対照的な見方や論争の軸を提供しているが、それに呼応して敷衍したものと言える。アイケンベリー本人にもインタビューしている。 一方で「中・露・イランなど現状変更勢力・地域大国の台頭、地政学的論理の上昇」というミード的な見方が盛んになされており、そこに刺激を受け、日本の政策としては「地政学的観点からもっとロシア・プーチンに接近しろ、没落するアメリカは当てにならない」系の議論が右派を中心に民族主義系の左派からも提示される。 それに対してなおも「1945年以来の米中心のリベラル多国間主義は優勢だ」というアイケンベリーの議論が応戦していて、オバマ政権としても正面からの理論武装はこちらを踏まえている。そこからは日本は米国との同盟強化で乗り切れ、という話になって日本のメインストリームはこの路線だろう。『リベラルな秩序か帝国か アメリカと世界政治の行方』(上下巻、勁草書房、2012年)で示された枠組みですね。 このような大体の枠組みを踏まえたうえで、中西寛先生の重厚な総論、渡部恒雄・川島真・細谷雄一諸先生方による鼎談を読んでいくと、フォーリン・アフェアーズとはまた違う、日本ならではの歴史・思想や地域研究を重視した視点が得られる。日本語を読めてよかったと思える瞬間です。 こういう有益な特集をやるために、カバー・ストーリーは「生き残る大学教授」特集で広く一般読者を惹き寄せ・・・というのならいいんですが問題はそれで読者が釣れているように見えないことなんですけどねえ。私は釣られましたが、業界関係者ですから統計的な数に入りません。