「マキャベリスト・オバマ」の誕生──イラク北部情勢への対応は「帝国」統治を学び始めた米国の今後を指し示すのか

しばらくブログの更新が途絶えていた。北の方の涼しい所に行ってきまして、ウェブ環境があまり良くなく、長期的な読書と思索に専念していました。

その間のニュースは活字データで押さえていましたが、主要な話題は、

(1)ガザ情勢は、以前に書いた通り、停戦を繰り返しながら収束局面続く。
(2)イラク北部情勢への米国の直接介入は、限定空爆を適宜行いつつ、同盟国(勢力)への支援を本格化する形で、長期化する模様。

というところでしょうか。

(1)は、様々な理由で、過剰に注目が集まりますが、国際政治学的に一番重要なことは、この問題が中東政治の最重要な問題ではなくなった(ないとみなされるようになった=誰に?米国からも、周辺アラブ諸国からも、イランやトルコなどからも)ということでしょう。

人道的側面から言えば重要と言えますが、それでもシリアやイラクでも同様(あるいはそれ以上)の人道的悲劇が現に進行している、という問題との比較考量からは、相対化されかねません。

それよりも重要なのは、リアリズムの観点から、もうパレスチナ問題は中東の最重要の問題として扱わない、という立場を、域内の諸勢力と、米国など域外の勢力が採用している、ということでしょう。そうなると、パレスチナの指導層だけでなく、むしろイスラエルの首脳・ネタニヤフ首相の方が、苦しい立場に立たされます。

この話はまた今度に。

(2)について、現状とその意味を良く考える時期にあると思われます。考えさせられることが多い、事態の進展です。

8月8日以降の空爆の地点をまず見てみましょう。

イラク北部米空爆
出典:ニューヨーク・タイムズ

非常に限定的で、エルビール防衛やモースルのダムの奪還など、クルド勢力(クルド地域政府とその部隊)への支援に絞っています。一時的にISIS(自称「イスラーム国家」)の進軍を食い止め、戦況を変えていますが、それだけで決定的で恒久的な影響を残す規模と性質の介入とは言えません。

それでは本腰でないかと言えば、そうではなく、米国は「本気」と思います。長期間かけてこの種の介入を続けることをオバマ大統領は明言しています。

重要なのは、「オバマは戦争大統領だ、ブッシュと同じ(以下)だ」といった批判も、逆に、「オバマは弱腰だ、中途半端だ」といった批判も、おそらく見当外れなこと。

最近の論稿で一番おもしろかったのは、
Stephen M. Walt, Is Barack Obama More of a Realist Than I Am?, Foreign Policy, August 19, 2014.

オバマって、意外に、すごくリアリストで、戦略的なんじゃないの?アメリカが最も利己的にふるまったら、オバマの外交政策になるんじゃないの?という趣旨の議論です。

ウォルトはリアリズムの立場から、オバマおよびオバマ政権を、「政権内の理想主義者に引っ張られてしばしば不要な介入を行って失敗している」という方向で批判してきました。これは共和党のタカ派などの、「オバマは平和主義で、必要な介入を本腰を入れてしていない」という批判とは別で、また民主党左派・リベラル派の「戦争を終わらせるはずだったオバマが戦争をまた始めたことに失望した」という批判とも別です。

ウォルトの今回の議論は、オバマはこれまでのアメリカの大統領にない、非情で利己的なリアリストなんじゃないの?と論じています。

要するに、オバマは理想主義的な介入論あるいは介入反対論のどちらかに依拠しているのではなく、リアリストの中でももっとも露骨な、「アメリカさえ良ければいい」「敵国・敵対勢力はもちろん、同盟国あるいは若干微妙な同盟国のいずれもそれぞれ損をするが、しかしアメリカには逆らえない」ような効果を持つ介入(あるいは非介入)を行ってきているのだ、というのである。

「アメリカが最も強い立場にいるから最終的な責任を持つ」のではなく、「アメリカが最も強い立場にいることを利用してアメリカが負いたくない責任やコストはよそに回す」という原則にオバマは従っているのであり、それは最も利己的なリアリストの立場だ、という。

確かに、シリアで介入しなかったこと、イランに歩み寄っていること、ガザ紛争でハマースを批判しつつじわじわとイスラエルのネタニヤフ首相からはしごを外し、恒久和平の実現に力を尽くそうとはしない、といった積み重ねの上で、今回のイラク介入の手法を見ると、古典的なリアリストの勢力均衡論、さらに言えば地政学論者の帝国統治論の処方箋を着々と米外交、特に中東政策に持ち込んできたと読み解けるのです。

少なくともあと2年の任期中は、もはや他の選択肢は失われたものと見極め、徹底した地政学論者の路線で行きそうなことが、イラク介入の手法から、誰の目にも明らかになっています。

明らかになった、オバマ政権のイラク介入の手法は、

(1)米の直接介入は限定的、地上軍派遣なし。介入は直接的に米の権益・人員が脅かされたときのみ。
(2)現地の同盟国(勢力)を使う。この場合はイラクのクルド勢力。かなり距離を置きながら、イラク中央政府への支援を続行。
(3)現地の同盟勢力が全面的に排除されかねない状況下では米国が加勢するが、それ以外は現地同盟勢力に戦わせる。
(4)立場の異なるクルド勢力とイラク中央政府への援助を並行して行い、時には競わせ、時には連合させる。決定的にどちらかが強くならないように匙加減をする。

というものです。まるっきりリアリズム、それも露骨な勢力均衡、オフショア・バランシング論です。

8月7日にオバマがイラク北部への軍事介入命令を発表した時には、米人員の保護と並んで、スィンジャール山に孤立した少数派ヤズィーディー教徒の保護を正当化の根拠に掲げましたが、実際に数日空爆した後、ヤズィーディー教徒の避難民の救出に向かうかと思えば、オペレーションを停止。しかもその理由は、「当初言われていたほどの避難民がいなかったから」。

数万人の避難民がいる、と言われていたので介入したが、数日後になって5000人ぐらいしかいないことが分かった、として人道介入の方は手じまいすると宣言したのです。

一方、米の国益に深く関係する、エルビール防衛・クルド勢力支援は続行する。それによってISISと戦わせる。これが最初からの目的だったことは明らかです。

ヤズィーディー教徒の保護というお題目は、いかにも取って付けたものに見えましたが、建前なら建前で言い続けることもなく、介入の正当化根拠に使った後はさっさと「そんなにひどくなかった」と公言してそちらのオペレーションは縮小する、というところに、オバマ大統領のリアリズム・勢力均衡に徹したイラク介入の手法への「本気度」が窺われます。

私の方は、今週、少しネットから離れて本を読んでいた時に、頼まれた仕事の関係で読み返したこの本が実に今のイラク情勢にシンクロしていると思いました。


ジョージ・フリードマン(櫻井祐子訳)『激動予測: 「影のCIA」が明かす近未来パワーバランス』

この本についてはそのうち原稿を書くと思いますが、イラク再介入の手法や、その他の対中東政策を見るうえで印象深いフレーズをいくつか抜き出しておきます。

フリードマンは、米国が唯一の超大国となり、望むと望まざるとに関わらず「帝国」として世界統治を行なわなくてはならなくなった画期を、1991年の湾岸戦争とみているようです。そこから10年間のユーフォリアの時代も、2001年の9・11事件以降の10年間のジョージ・W・ブッシュ流の直接介入の時代も、いずれも帝国の統治の作法を知らなかった純真なアメリカの迷いの時代として切り捨てています。そして、2011年以後の10年にこそ、本当の帝国の世界統治が確立されるのだ、と説き、オバマ大統領にあるべき政策の姿を進言する、という形式でこの本を書いています。

「アメリカは覇権国家ともいえる座に就いて、まだ二〇年しかたっていない。帝国になって最初の一〇年は、めくるめく夢想に酔った。それは、冷戦の終結が戦争そのものの終結をもたらしたという、大きな紛争が終わるたびに現われる妄想である。続く新世紀の最初の一〇年は、世界がまだ危険であることにアメリカ国民が気づいた時期であり、アメリカ大統領が必死になってその場しのぎの対応で乗り切ろうとした時期でもあった。そして二〇一一年から二〇二一年までは、アメリカが世界の敵意に対処する方法を学び始める一〇年になる。」(52頁)

「世界覇権のライバル不在のなか、世界をそれぞれの地域という観点からとらえ、各地域の勢力均衡を図り、どこと手を結ぶか、どのような場合に介入するかを計画しなくてはならない。戦略目標は、どの地域にもアメリカに対抗しうる勢力を出現させないことだ。」(53頁)

このような大原則から、全世界の諸地域において次のような原則に基づく政策を行なうべきだと主張します。

「一.世界や諸地域で可能なかぎり勢力均衡を図ることで、それぞれの勢力を疲弊させ、
アメリカから脅威をそらす
二.新たな同盟関係を利用して、対決や紛争の負担を主に他国に担わせ、その見返りに
経済的利益や軍事技術をとおして、また必要とあれば軍事介入を約束して、他国を支援する
三.軍事介入は、勢力均衡が崩れ、同盟国が問題に対処できなくなったときにのみ、最
後の手段として用いる」(55‐56頁)

フリードマンの主張の面白い所は、通常の議論では、ジョージ・W・ブッシュ前大統領の時期のアメリカの政策を「帝国」的として批判するものが多いのに対して、それは歴史上の数多くの帝国が行ってきた政策とは全く違う、非帝国的、あるいは帝国であることに無自覚であるが故のふるまいであったと議論する点です。歴代の帝国は勢力均衡で世界各地の諸勢力を競わせて統治していたのであって、冷戦終結後の20年間のようにアメリカという帝国自身が世界中に軍事力を展開させたのは異例であると言います。オバマ大統領あるいはその次の大統領こそが、真の意味でアメリカに帝国的世界統治、すなわち勢力均衡に基づく敵国の封じ込め、同盟国の統制を持ち込む(べき)主体であるとしています。

「次の一〇年のアメリカの政策に何より必要なのは、古代ローマや一〇〇年前のイギリスにならって、バランスのとれた世界戦略に回帰することだ。こうした旧来の帝国主義国は、力ずくで覇権を握ったのではない。地域の諸勢力を競い合わせ、抵抗を扇動するおそれのある勢力に対抗させることで、優位を保った。敵対し合う勢力を利用して互いをうち消し合わせ、帝国の幅広い利益を守ることで、勢力均衡を維持した。経済的利益や外交関係を通じて、従属国の結束を保った。国家間の形式的な儀礼ではなく、さり気ない誘導をとおして、近隣国や従属国の間に、領主国に対する以上の不信感を植えつけた。自軍を用いた直接介入は、めったに用いられることのない、最後の手段だった。」(24-25頁)

このような各地域内部での勢力均衡を促進する政策へと転換する第一の地域が中東である、というのがフリードマンの主張で、そのためか、この本の半分ぐらいは中東に割かれています。

そこからは、イスラエルから徐々に距離を置き(イスラエル対アラブの勢力均衡の回復)、イランに接近する(イラン対イラク・および湾岸アラブの勢力均衡がイラク戦争で回復不能なまでに大きく崩れた以上、ニクソンの対中接近並みの異例の政策変更が必要だという)、といった政策が進言されます。いずれもオバマ政権が行っていると見られている政策です。

また、これと並行して、他地域では、冷戦終結時点でロシアの勢力圏を完全に崩壊させなかった失敗がゆえに「ロシアの台頭」が不可避であり、それを盛り込んで西欧とロシアの勢力均衡を図るべき、という議論にも発展します。そして西太平洋地域でも、日本と中国を均衡させ、そのために適宜韓国とオーストラリアも利用する、という手法を進言します。

今のイラク対策を見ていると、米大統領に「マキャベリ主義者たれ」と進言する、リアリスト・地政学論者のフリードマンの主張に、残り任期2年余りの現在、オバマ大統領とその政権は、全面的に従っているように見えます。

そうなると必然的に、西太平洋地域でも同様の勢力均衡策が採られるのか・・・というポイントが、日本をめぐる米外交政策を見る際にも、注視されていくようになるでしょうね。

【新企画】おじさん雑誌レビュー『中央公論』8月号特集は「生き残る大学教授」だが

この時期、月刊誌が送られてきます。研究室に来てみると『文藝春秋』と『中央公論』などが届いていました。

こういう雑誌の慣行として、寄稿していると送っていただけるようになります。私は親の代からそういう生活をしているので、執筆することもある月刊誌が定期的に届くとさっと目を通す、という生活に慣れ親しんでおります。

送られてこなかったら買って読むかというとそれは全く別の問題なので、通常の意味での正式な読者ではありませんが、雑誌の紙面が自分の「仕事場」「市場」ともいえるので、そういう目で、半ば「自分のこと」として、子細に、またシビアに見ているという意味で、通常より熱心な読者と言えます。

寄稿したことがある人は大学業界などの書き手や、あるいは政治家・経営者・官僚などの実務家を中心に、累計ではかなり多いので、送られてきている人も多いでしょう。こういった月刊誌の一定の割合の部数は「書くこともある」層に届けられており、それによって大学業界人や実務家の間での「世論」「共通認識」を形成する土台になっているのかもしれません。

(なお私の父は自宅を郵便物の宛先にしていたので、小さいころから私がそれを読んでいたわけです。そのため、団塊世代が「若造」に感じられる60年安保世代的な世代感覚が身についてしまいました。文藝春秋の読み手・書き手の中心的世代が「60年安保」世代であることは、芥川賞150回記念のアンケートで「柴田翔」に数多くの言及がなされたところから明らかでしょう)

しかしねえ、『中央公論』の表紙にもお題が掲げられたカバーストーリー(目玉特集)は「生き残る大学教授」・・・

あのねえ、対象となる読者層が限定されすぎていませんか?とさすがに言いたくなるよ。無料で送ってもらっている執筆者の人たちしか実感を持って読めないぞ、この企画?

業界関係者としては絶対に言ってしまってはいけない、、、と思いつつおそらくこれを読んだ業界関係者の多くが頭の中であるフレーズを思い浮かべていると思うのでそういう時にはつい癖というか過剰な役割意識で言ってしまうのだが「生き残れるのか中央公論」

ああ言ってしまった。

内容は、ライター的な人が書いている「覆面座談会」「大学教授の生活ぶっちゃけ話」を見ても、大学関係者が普段ぶつぶつ言っていそうなことが断片的にそのまま露出している、「まあ間違ってはいない」というような話である。世の中に出回る「大学教授」への妄想や誤解をそれなりに矯正する効果はあるかもしれないが、どれだけ公共性・公益性があるか分からない。

子供のころから親も祖父も親戚にも大学教授が多く、当然その親・親戚の友人・知人にも大学教授が多かったので、疎遠な人も含めて「ここで描かれるこの人はあの人みたいなタイプだな」と実例が思い浮かぶ場合もある。あまり当たっていないなあと思うところもある、単に私の周りの大学教授が大学教授の中でも特殊なせいかもしれないが、などと考えて読んだという意味では楽しめたが、さてこれが総合雑誌の特集として適切なのか、というと疑問だ。

大学の仕組みや大学教授と呼ばれる人たちのありがちなひどい行状から、「私だってこうも言ってしまいたくなるよ」というようなある程度共感できる内容とはいえ、それが実際に総合雑誌に今月の目玉特集として載ってしまうと、やはり「こんなこと載せる必要があるのか?」と言いたくなる。読み手としてだけでなく書き手としての立場からも。

ここで関連が気になるのが、最近の、一定の質を保っている月刊誌に多い、大学の広告。『中央公論』の今号では、「特別企画」の慶應義塾塾長のインタビュー(広告)を含めた各大学の広告が144-167頁に電話帳みたいに延々と載っている。大学にとっては、扇動・排外意識むき出しだったり、おちゃらけエロ満載だったりするあまり品の良くない媒体に広告は出したくない。逆に、雑誌を出す方から言っても、誌面の品位を落とさないで済むような世間体の良い広告主を切実に求めている。『中央公論』は、「大学広告」に関しては、広告媒体と広告主との関係の相性がいいのだろう。

だとすると「大学教授」特集は広告スポンサー向けなの?そうだとするとつじつまは合うが、いっそう公益性がなくなるんじゃないの?

まあ『中央公論』がいろいろ苦しいのは承知の上でこれを書いている。『中央公論』の存在は得難いので頑張っていってほしいと思っている。このなにやら?な特集にしてもその枠があるから、竹内洋先生のいつものもっともらしい茶化し芸(「大学教授の下流化」)や、上山隆大先生の力の入った米大学産業論も読めたわけだし、

なお、浜田東大総長のインタビューで、いつものことながらあげられるのが「インド哲学」。

「たとえば、最も現場に遠いと思われがちなインド哲学を例にとっても、仏教界、要するに寺はその「現場」である。分野にもよるが、これからの時代、教員は、そうしたそれぞれの「現場」との結びつきをさらに意識する必要があるだろう」

と語っておられますが・・・一応世間の誤解を修正しているようにも見えますが、本当に分かっているのか不安。

「大学改革=自分で金稼いで来い、産業界に役に立つものにしろ、いやそれはいかがなものか」系の議論が勃発するたびに、いい意味でも悪い意味でも「役に立たない」「金儲けできない」学問の例として「インド哲学」が挙げられる。しかし、これは最初から最後まで認識不足。

「インド哲学(正式にはインド哲学仏教学科)」は簡単に言うと「サンスクリットを読むところ」です。

なんでサンスクリットを読むかというと仏典は元々はサンスクリットで書かれているからですよね?法事でやってくるお坊さんの大部分は漢訳当て字のお経を棒読みしているだけでしょうが、格式の高い寺や、大きな宗派の総本山では研究所とかもあってサンスクリットから読める人を確保しておかないと格好つきませんよね。

ですから昔から、名のある寺は、息子を東大に通わせてサンスクリットを読めるようにさせたのです。まあ東大だと他の思想や文化や科学に触れるので素直な跡継ぎにはならなかったかもしれませんが、問題はそんな狭いものではない。

寺というのは、個々の身近なところを見れば、勉強しないし堕落しているし金儲けばっかりしているし、と見えるのかもしれませんが、総体で見ると、かなり人材を囲い込んでいて資金があって、有効にかどうかわかりませんが、それを使って大きなことをしています。

京都に行ってみなさい。東京とは全く違う経済・産業があります。新聞各紙は「寺番」記者を張り付けています。東京では霞が関の官庁回りをしますが、京都では「寺回り」をするのです。それは「文化面」だけではなく経済・政治の欄に書くべき出来事が、寺を媒介して起こっているからです。

東京にだけいると、実際には日本社会で力を持っているこの方面の経済力や政治力に気づかないので議論が変になるのです。

サンスクリットで仏典の研究を、となると、学部の2年間の専門課程程度で終わる話ではないから、中心は大学院教育になる。一般の学生から言えば、日本では学部出てすぐ就職しないといけないという強迫観念があるから「論外」の学科に見えるかもしれないが、寺の子供からいうとすぐに寺を継ぐわけではないから時間はたっぷりある。別の学科を出てから、あるいは一度ビジネス界に入ってからの学士入学・大学院進学も多くなる。

筋の良い寺の子供は、寺を継ぐ前に外国留学したりビジネス経験を積んだり、それぞれの寺とその家の家風によって固有の育ち方があり、時代に合わせて各世代が育って、それによって寺は変わってきて、経営体としても刷新されてきたんです。出来の良い子なら、自分の寺の経営体としての規模や資産は小さいころから自然に呑み込んでいるし、適度に新機軸を打ち出していかないと自分も面白くないしなにより寺として生き残れないことは分かっている。

その際に「インド哲学科」もそれなりの役割を果たしてきた。いわば大昔から産学連携を「産」主導でやってきたの。それを東大内部で管理職になるような人たちが、世間一般と同様に知らなかったのは、それはまずいでしょう。

東大の大部分の学部生にとってインド哲学は「何をやっているところか分からない」ということになるでしょうし、「就職なさそう」ということになるのでしょう。しかしそれは衆生の無知、ということに過ぎない。それは大学・学部入学までにマス教育で詰め込まれた「偏差値」(あと東大では3年進学時の「進学振り分け」)的な基準で推し量った、子供の軽率な判断にすぎません。大部分の一般学生がそのような尺度で物事を見ている、ということは、それが真実であるということを意味しません。例えば大きな寺の子、有形無形の資産を豊富に抱えて今後それをどう活用していこうかと考える寺の子は全く違う目で見ているわけです。で、後者の方がもちろん正しい。

問題は、受験にもまれて辛うじて東大の難関を突破しただけでは、その後大人になっても認識を改める機会がないこと。日本社会や経済における仏教界の力やヘゲモニーに気づく経験がないままに齢を重ねて、その中の一部がエラいさんになって、学生時代のぼんやりとした思い出から「インド哲学は儲からない、就職先がない」的な誤解を持ったままで議論しても話は進みませんよね。

もちろん、東大が、本当の意味で仏教界に関わっている良質な人材の持つエネルギーを取り込んでいくような魅力や発想を持っているか、十分に取り込んでこれたか、適切な制度を持っているかは別問題で、そこには大いに改善の余地があると思いますよ。

でも制度を整えないと人が来ない、というのも間違いじゃないかと思います。

私は学部・学科選びの時、「イスラム学科」というできたばかりの学科を発見して、これは、今後文章を書いていくのにまたとないものすごくビジネス・チャンスのある学科、と狂喜乱舞しましたが、イスラム学科がそのようなことを謳っていたわけではありませんし、制度としても実態としても、学科の先生とおんなじ分野を研究する、という発想の学生以外に対しては、何らケアはされておらず放任でした。でも東大というものすごく恵まれた条件のもとで、「モノ書きの素材とするには何があるか」という観点から、本郷の化学の先生が出張で教養学部に教えに来ていた「フリーズ・ドライの作り方」(直接役立っていないがコンビニで最新のカップラーメンを見るのが楽しい)から、現代英米政治思想(これは今も直接役立っている)まで、提供されている授業をつまみ食いした結果、「イスラム学!ここここれは使える」と確信して進学したわけです。思想でも文学でもきちんとイスラム学をやった上で発言している人は一人もいなかったから、という極めて合理的な選択です。学科そのものがなかったんですから当然ですが。小林秀雄の時代はフランス文学があらゆる意味で最先端だったんですが、当然現代はフランス文学は完全に出来上がってしまった分野でそこから新しい価値を生み出していくのは容易ではありません。それに対して出来立ての学科、これまで誰もやっていなかった分野の知見を身につければ競争力がつくのはごく自然に予想できることです。もちろんイスラム学単独では使いにくいので、思想・文学方面とつなげたり、実際に現地で起こっている紛争や政治運動や国際関係を研究対象に取り込んだり、政治学や社会学の知見を応用したり、といったことを考えて東大内のあらゆる学部学科・施設を利用しましたので、学費のモトは十二分に取りました。社会情報研究所(当時)の研修生課程なんていう、東大の学生なら授業料タダというすごいいい話ににも乗って試験受けて入ってメディア論や中東政治・メディア政治(こんなところに中東に詳しい政治学の先生がいたんです!)を勉強しつつ最長の年限(4年間)居座ってコピーセンターとして利用させていただいておりました。ありがとうございました。その後コピーの枚数が制限されたみたいなことを聞いたが関係ないかな。

お仕着せのカリキュラムではなくカスタム・メイドで自分の専門分野を構築できたことが、私にとっては東大に入ったことの最大の利点でした。東大、特に文学部はそういうカスタム・メイドの要素を残す、あるいは一層強めていくことが重要なんじゃないかと思います。私のやり方はその時のその瞬間で最適と思ったものを選び取っただけで、今現在学生の人には別の選択・組み合わせが当然あるはずです。

話を戻すと、インド哲学というのは、本来は仏教界方面に最終的な就職先が決まっている人が来ればいい、「一見さんお断り」と言ってしまっていいぐらいの左団扇な分野なわけです。国立大学だからそんなことを公言しないですし、もちろん教員は仏教関係の出身じゃなくてもなっていますけどね。(インド哲学仏教学科の今の人たちとは全くつながりがないので、あくまでも長い歴史の中での趨勢の話をしております)。

もし「国は今後インド哲学にはお金を出さないから、産業界から資金を募れ」ということになっってしまったら、一瞬にして仏教界からお金が集まるでしょう。どこの宗派が主導権を握るか、新興宗教系の教団も加われるのか、といった点で争いが勃発するかもしれませんが(怖い)、お金が集まらないということはあり得ません。(実際、宗教学科関係のプロジェクトには、新興宗教方面からすでに潤沢にお金が入ってきていますし・・・)

本当の問題は、そうやって産業界(ここでは仏教界)あるいは特定の寺に資金を出させたら客観・中立な研究はできないでしょ、ということであって、だから結局は細々とながら国が出す、ということになるしかないのは最初から分かっている話です。思想・宗教といった文学部の諸学は、「価値」という究極的にものすごいパワーを秘めたものを扱う分野ですから、スポンサーをつけるとややこしくなるのは当然です。

大学を改革せねばならん、と言う人は、まず大学を知ってほしいものです。改革の議論は、まず論者自身が大学を知るきっかけになる、という意味では結構なことです。その上でいい知恵も出るかもしれません。大学関係者にとっても、改革議論に応えていくうちに、自分たちもあまり知らなかった・重視していなかった大学の価値を再発見することにもなります。

・・・なんてことを書いていたら、今号の第二特集「中露の膨張主義──帝国主義の再来か」に触れる時間が無くなってしまった。本当はこっちの方が重要なんだけど。 このブログでもちょっと触れたように、『フォーリン・アフェアーズ』の5/6月号でのウォルター・ラッセル・ミードとジョン・アイケンベリーの論争は、現在の国際政治をどう見るか、今後どのような政策を採用していくべきか、という課題についての対照的な見方や論争の軸を提供しているが、それに呼応して敷衍したものと言える。アイケンベリー本人にもインタビューしている。 一方で「中・露・イランなど現状変更勢力・地域大国の台頭、地政学的論理の上昇」というミード的な見方が盛んになされており、そこに刺激を受け、日本の政策としては「地政学的観点からもっとロシア・プーチンに接近しろ、没落するアメリカは当てにならない」系の議論が右派を中心に民族主義系の左派からも提示される。 それに対してなおも「1945年以来の米中心のリベラル多国間主義は優勢だ」というアイケンベリーの議論が応戦していて、オバマ政権としても正面からの理論武装はこちらを踏まえている。そこからは日本は米国との同盟強化で乗り切れ、という話になって日本のメインストリームはこの路線だろう。『リベラルな秩序か帝国か アメリカと世界政治の行方』(上下巻、勁草書房、2012年)で示された枠組みですね。 このような大体の枠組みを踏まえたうえで、中西寛先生の重厚な総論、渡部恒雄・川島真・細谷雄一諸先生方による鼎談を読んでいくと、フォーリン・アフェアーズとはまた違う、日本ならではの歴史・思想や地域研究を重視した視点が得られる。日本語を読めてよかったと思える瞬間です。 こういう有益な特集をやるために、カバー・ストーリーは「生き残る大学教授」特集で広く一般読者を惹き寄せ・・・というのならいいんですが問題はそれで読者が釣れているように見えないことなんですけどねえ。私は釣られましたが、業界関係者ですから統計的な数に入りません。

 

【寄稿】1945と1989:年号から読む国際秩序~『文藝春秋』7月号

6月10日発売の『文藝春秋』7月号に寄稿しました。

『文藝春秋』はコンビニにもあるんですね、ということを初めて意識しました。

池内恵「必須教養は「アメリカの世界戦略と現代史」」『文藝春秋』2014年7月号、320-327頁

「教養」特集という、ブックガイドと並んでよく月刊誌でやっているような特集の枠で依頼を受けたのですが、意識としては『フォーリン・アフェアーズ』で行われているような議論を日本の読者にもわかるような形で書き直しました。

「教養」と依頼を受けても皆目見当がつかないし、そもそもひどく忙しくて曖昧なテーマに対して何かを書くという余裕がないので、編集部の方に来てもらい、語りおろし的なことをやった上で、いつも通りほぼ全面的に書き換えています。編集部が聞き取ってその中からテーマと並べ方を決めたうえで私が書き直しているので、自分一人で最初から書き起こしたら書かなかったであろうテーマや論点が入ります。編集部から提示される草稿を見るのは毎回かなりの精神的な苦痛、というかショックを受けます。私一人で書けば絶対に書かなかったであろう論点が大きく前面に出ていたり、過剰に政治的な姿勢が強く出ているようにまとめられていたりするからです。

しかし落ち着いて考えると確かに、意味のある論点ではあり、日本で求められている論点でもあるのだな、とそれなりに納得します。そのうえで、研究者として致命的なダメージを受けることがないように、語彙を正確にし、必要なバランスを取り、一定の理論的な脈略にもつなげるために、せっせと書き直すわけです。

編集部は「教養」のうち「世界史」的な方面を私に受け持たせたかったようで、特に「年号」をいくつも出させようとしていましたが、そもそも私は思想史なのであまり年号を気にしたことがない。年号を特定できるような「事件」で世の中が動くとは考えていません。

また、世界史というと年号を覚えさせられた記憶しかない、という受験の呪縛を、読者には解いていただきたいものですから、衒学的にいろいろな年号を並べることはいたしません。

しかしもちろん「年号」には意味があるわけで、編集部に無理やり「年号」を吐き出させられていると、それなりに有益な議論につながりました。

結局「1945」が最も大事という、一見当たり前の結論になります。で、思想史的にも、国際関係論的にも、1945を基軸にしたものの見方を再認識することは、現在の日本にとって必要なことと思われます。

もう一つ年号を出せと言われれば、「1989」ですね、ということになりました。

これもまたありふれているとみられるかもしれませんが、そもそも突飛なことを言おうとは思っておりませんので・・・

しかし国際社会を基礎づける「規範」がどのような基準に基づいていてそれがどのような変容の過程にあって、そこで日本はどうふるまうべきか、と考えるには、「1945」と「1989」の意味をしっかり理解しておくことは不可欠でしょう。

安倍首相の「戦後レジームからの脱却」という思想が秘める求心力と危うさ、あるいは「弱腰」が危惧される米オバマ政権とどう関係を保つか、あるいは中東情勢を見るにも、ウクライナ問題を見るにも、そして東アジア・東南アジアでの日米中の関係を見るにも、「1945」と「1989」に端を発する、国際社会の支配的な価値規範とその変化を軸に考えていく必要があります。

突然依頼されて突然編集部にインタビューを取られ、急いで書き直したので、5月に読んで考えていたことがストレートに出ている面があります。

『フォーリン・アフェアーズ』誌の電子版を取っているのですが、その5/6月号で興味深い論争がありました。

ネオコンサーバティブ的な思想傾向も感じられるリアリストのウォルター・ラッセル・ミードがオバマ政権への批判を込めて、「地政学の再来」を論じたのに対して、リベラルな多国間主義を基調とするジョン・アイケンベリーが反論するという形の論戦です。

Walter Russell Mead, “The Return of Geopolitics: The Revenge of the Revisionist Powers,” Foreign Affairs, May/June 2014.

G. John Ikenberry, “The Illusion of Geopolitics: The Enduring Power of the Liberal Order,” Foreign Affairs, May/June 2014.

この二つの論稿は、国際関係論のリアリストとリベラリストの考え方を、かなり単刀直入に(粗野に?)分かりやすく示しているという意味でも興味深いものです。これらとあとフォーリン・ポリシー誌などに出ている関連する議論をまとめてブログで紹介しようかなと思っていましたがまったく時間と余裕がなく残念に思っていたところ『文藝春秋』編集部がやってきたので、「年号」で読む世界史にかこつけて、噛み砕いて話をしました。

大枠としては
(1) 「1989」をめぐってはフクヤマ『歴史の終焉』とハンチントン『文明の衝突』が、冷戦後の国際秩序とその規範についての、対立するがどちらも部分的には多くを説明できる思想だったよね。ウクライナ問題を見ても、フクヤマのいうリベラルな民主主義という規範の広がりと、文化・文明的な断層の強固さの両方が表面化してせめぎ合っている。

(2) でも「1989」で決定的にすべてが変わったとする見方には異論があって、現実的にはその異論には説得力があり、なによりも実効性がある。つまり、「1945」を基準・起点にした支配的価値観や国際関係の諸制度と、それを支える米国中心の覇権秩序の中に、私たちは今もいるということは変わりがなかった。

(3) アイケンベリーはそれを「1945年秩序」と定式化した。彼は「1989」では大して物事は変わらなかった、という説の代表的論者で、実際にそれは現実の国際秩序を反映した議論だし、政策論的影響力もある。

ここでのアイケンベリーの議論は『リベラルな秩序か帝国か アメリカと世界政治の行方』(上下巻、勁草書房、2012年)で詳細に論じたものと基本的に変わっていない。秩序は変わっていないと論じ続けているわけである。

(4) 「1945」を大前提とし、「1989」をそれに次ぐ大きな画期とする世界史の流れの中で、日本はどういう立場なんでしょうね?「1945」のどん底から「1989」には頂点に達していた。それぐらいの変化が二つの年号の間にはあった。しかし「1989」は国際社会の規範や制度を決定的に変えるものではなかった。そして「1989」以後の変化を受けて、中国やロシアは「修正主義」の立場をとっている。しかし両国は「1945」の秩序では有利な立場におり、そこに戻ろうとする。日本は「1945」以降の歩みと、「1989」の時点での立場においては、最大限有利になった。しかしその後足場を弱めているだけでなく、うっかり「1945」の時点の秩序に戻されてしまうと不利を蒙る。それを考えると、米国への対し方も、中国との距離の取り方も、歴史認識問題への対処法も、軸が定まるのではないかな?

こういった国際社会の規範という軸で考えると、1945と1989以外の年号は全く覚えなくていいとすら言える。世界史は論理であって暗記モノではないのです。

といったことを、まったく別の表現で語っています。総合雑誌ですので、行ったり来たりしながらけっこう長々と語っているので詳しくは本文を読んでください。

なお、中東だけを見ていると1945年の画期性は見えにくい。中東研究者としての我田引水的業界利益誘導では「イラン革命があった1979年が決定的だ」とか叫ばないといけないのかもしれないが、そういうことはする気がない。

米国が覇権国である事実など、中東の現実は中東の外で決まっている面が大きい。だからやはり1945年は重要なのだ。

これを入稿してしまった後の5月28日に、オバマ大統領がウエストポイント陸軍士官学校の卒業式で演説を行いました。現在の国際政治を見る視点という意味では、私がいろいろと解説するのを読むよりも、オバマの演説を10回読んだ方がいいような気もしますが、オバマ演説の日本向けの解説として『文藝春秋』の拙稿を読んでいただいてもかまわないかと思います。

オバマのウエストポイント演説は、まさにアイケンベリーをそのまま援用したかのような議論によって、「弱腰」批判をはねつけています。一言でいえば「パワーに支えられた多国間主義」でしょうか。多分本当にアイケンベリーが演説にアドバイスしているのではないか。

この演説で、オバマは要するに「1945年秩序」は健在でますます強いよ、と言っているわけです。

演説の組み立て方については、いつも通り非常に理論的で緻密で、何よりも、学問的な通説を踏まえています。オバマは本当に大学の先生みたいだな、という感想を持ちましたが、もちろん重要なのはオバマの演説に見られる個人的なスタイルや性格ではなく、実際にアメリカが政策として何をやるかです。

大統領が「言っていること」とアメリカが「やること」との関係は複雑微妙なので、この演説の政治外交的・安全保障上の意味はまだ測りかねていますが、少なくとも二期にわたるオバマ政権の外交政策の理念はこれで示されたと思います。その結果は「アイケンベリー」だったんだね、というところが、いかにも「大学の先生」らしくて、個人的には納得と共に感慨深いものがあります。オバマ政権も終幕に向かっているんだねえ。とはいっても米大統領の任期の最後の方は国際政治もどたばた動くことが多いので、気を抜くわけにはいきません。

「1945年秩序」が現在をどう形作っているか、その後何が変わったのか、ということを考えながら、例えば先週あったノルマンディー上陸作戦70周年記念式典のニュース(NHKBS1なら欧米各局のさまざまな報道が見られました)を見ると、単なる儀式としてではなく、緊迫した国際政治のせめぎ合いを感じ取ることができて、面白かったのではないかと思います。

disappointedいっぱい言ってるよ

またこういった見当はずれな・・・

無視すればいいのかもしれませんが、ウェブの無料の媒体しか読まない層が増えているようで、その中ではよく読まれているように見える日経ビジネス・オンラインの記事なので、いちおうコメントしておく。

「日本は米国の属国であり続けるのか―」現代日本史の専門家、オーストラリア国立大学のガバン・マコーマック名誉教授に聞く

なる記事で、例の安倍首相の靖国参拝への米国側のdisappointed発言について触れているが、まるっきり現実離れしている。

「日本は米の属国だ」という、極右と極左の民族派を意識したような煽りを繰り返したうえで、

「『失望した』という表現は通常、他国に対しては使わない」と大々的に赤く中見出しを打ち、disappointedという言葉を使ったことこそが米が日本を属国扱いしていることの表れだと主張する。しかも、日本にだけ、disappointedという言葉を使っているがゆえに、日本だけが特に属国なのだと示唆している。

【以下その部分を引用】
 そして、日本は従うものだと思っているから、期待外れな事態が起きたりすると、その反応も凄まじい。昨年12月に安倍首相が、米政府による再三の反対にもかかわらず、靖国神社参拝をした時、米政府は「失望した(disappointed)」という表現を使いました。

 私も安倍首相は靖国神社に参拝すべきではなかったと思いますが、「失望した」などという言葉は、通常、同じ主権を有する他国に対して使う言葉ではありません。親が子供に対して試験の結果やゲームで負けたりすれば「(期待していたのに)失望した」と言う。あるいは上司が部下にがっかりした場面で使う言葉です。恐らく米国はいかなるほかの主権国に対してもあのような言葉を使ったことは日本以外にないでしょう。
【引用終わり】

はい、間違いです。

このブログでも書きましたが、歴代の米政権は、民主党政権を中心に、disappointedを用いた発言を連発してきました。最近は特に多い印象。私はイスラエルについてだけ簡単に調べましたが、インターネットで数回検索するだけで、出てきます。このエントリで書いて以降も米国務省はdisappointedを用いています。イスラエルにだけでなくパレスチナ指導部に対しても用いて、さらにイスラエルも多分嫌味で米側の対応にdisappointedしたと表明したりしています。

普通に英語で新聞を読んでいれば得られるような認識すらないままに、この老名誉教授はコメントをして、編集部は大々的に赤字で中見出しを打ってしまう。

ネット情報の信憑性というのはこの程度なのです。「日経」とかいった名前に騙されてはいけません。英単語一つデータベースに入れれば分かる程度の裏取りすらしていないのですから。

メディア・リテラシーという意味でも貴重な資料です。「白人・欧米人」「日本史専門家」「名誉教授」といった肩書がついていると、米政府のdisappointedの用法についてもわれわれより高次の判断能力や識見を持ち合わせているかのような印象が生じてしまいますね?しかし実際にはそんなことはありません。ちょっと調べれば分かるようなことも調べないで得意げに説教している先生だということが、読み手の方で少し努力すれば分かります。記事は検索しながら読みましょう。英語ネイティブ風の人が本当に英語圏で通用する議論をしているとは限りません。特にそれが日本語で行われている場合は十分に注意しましょう。

まあ、この名誉教授は、極左・北朝鮮礼賛の人で、今回の議論は典型的な日米離間策のプロパガンダです。編集部は今時よくこんな人を取り上げたな、というのが第一印象。冷戦時代の化石を引っ張り出してきたような印象があります。

私も一時「国際日本研究」の研究所に勤めていたことがあるので、こういう人にはたまに出会いました。「アメリカ帝国主義けしからん」「その手先となってる日本けしからん」「日本の帝国主義はまだ続いている」と、青い目の白人が言うと、日本の大学とかメディアでちやほやされてそれで食えてしまう、という時代がありました。

「グローバル人材育成のために外国人教員を雇え」という昨今の政策で、またそれが繰り返されるのかと思うと気が重いですが・・・

いいんです。人生一度しかないので、何を言ったっていいんです。思想信条の自由は絶対です。

それはつまり、人は見当はずれなことをいって、運良く(か悪くか)それで一生食えてしまったりすることもある。破れかぶれの議論でも、それを珍重してくれる人がいれば食えそうな国に移動してそこで生きていく。そういう自由があるんです。そういうのがグローバル人材と言ってもいい。

1960年代にはまだ、北朝鮮が夢の国として発展して、日本が暗黒の帝国主義に落ち込む可能性だってゼロではなかったはずです。そのころに何かのはずみに「北朝鮮素晴らしい」「日本が米国の手先になって北朝鮮の発展を邪魔している」というセオリーを立てて、それをたゆまず主張し続けたら、様々な理由で一定の支持を得てしまった、というのはそれはそれで人生でしょう。

それが結果として、現実の進展との間でとてつもなくつじつまが合わなくなってしまったとしても、そういうお年寄りのことを人々はあまり厳しく問い詰めたりはしません(本当はちょっとは問い詰めた方がいいのかもしれませんが・・・)。

ただ、「あなたはとてつもなく運が良かったんですよ、生まれも育ちもね」ということは生暖かく言ってあげるべきでしょう。多分極端にガンコで尊大な人で、絶対聞いてもらえないと想像しますが・・・もう何を見ても帝国主義に見えてしまう。

こういう左翼の先生は最近は珍しくなりましたが、少し位相を変えて、イデオロギーではなく「欧米先進国VSニッポン」という形式の議論ならまだいますね。日本の地方都市とかで英会話教師とかやっていて、ときどきメディアに出て「流ちょうな日本語で」、「日本は遅れてマス!」とか言っている人は今でも見ることができる。こういうのを見ると、複雑な気持ちになってしまう。

確かに日本社会には各方面に遅れている、というか改善すべき点は非常にたくさん、多々あると思うんだけど、それを言っているあなたの立場はどうなのよ?あなたが母語の英語をしゃべっているだけで生計を立てられて、たいていは日本人のヨメもらって、たいしたことしゃべってないのにときどきメディアにも取り上げられて「有識者」として生きていけるのって、日本が「遅れている」からじゃないの?そしてあなたがそうやって日本に説教できる背後の権力構造にはもっと深ーいところで、問題視しないといけないものがないですか?という根本的な矛盾を指摘したくなる。

もちろん、こういった市井の「ニッポンおかしいよ」系の論客というのはたいていはメディアを通してしか知られていないから、そういう役割を期待する日本のメディアの中で切り取られている面しか伝わってこないのかもしれない。でも、日本のメディアや学界や、国際交流にまつわる様々な公的機関・資金の「遅れた」構造の中で甘やかされているうちに、自己が肥大化したな、と見えるケースも間近でいくつか見た。

「グローバルな新自由主義けしからん、その手先の日本けしからん、という趣旨の会議を日本の役所のお金で海外のリゾート・ホテルでやれ」みたいな意味不明なことを言ってきて本当に実現してしまう「リベラルな日本研究者」とかいるんですよ。露骨に新自由主義的な南国リゾートホテルのプールサイドで「アジアの民衆」にピニャコラーダとか運ばせながら「グローバルな資本主義の暴力性とそこにおける日本の役割」とか語ってしまえる人たちがいるんです。そういう人たちと一緒に会議をやると「グローバルな最先端の共同研究だ」とかいうことにされて日本のお役所からお金が出てしまう仕組みがまさに「遅れている」のだけれども。

国際日本研究にある程度関わると、そのような構造の中でしか生きていけないということに悩みを抱えている人も中にはいるということも感じられる瞬間があった。でもそういうまっとうな感覚を持っている人って、往々にして生き残っていけないんです。日本育ちなんで日本語だけで調査もできれば論文も書けるはずなんだが顔は白人なので、日本では日本語をしゃべらないで英語だけで活動した方が将来が開けるよ、と友人からアドバイスされて悩んでいる研究者もいたな・・・

余談だが、この人、そう悩みながらも(悩むからこそ?)、日本人の奥さんとはやはりアイリッシュ・パブでの英会話で知り合ったんだと恥ずかしそうに明かしていた。ずいぶん昔の話ですが、日本の外国人コミュニティの中での了解として、アイリッシュ・パブに来る日本人の女の子には積極的に声かけていいことになっていたんだそうです。来る側はそのつもりだという了解が相互に成立していたのだそうです。ただし英語で声かけないといけなかったんだそうです。いや別にどこでだって何語でだって声かけていいと思いますが。その当時はほかに声をかける場所がなかったのか。「英会話」という言い訳を媒介にしてそういう場が成立していたのか。この人ものすごく日本語上手(というかネイティブ)なんだが、日本語だと確かにモテなさそうなんだ・・・今思うと、この人、思い切って「アイリッシュ・パブのジェンダーと文化権力」みたいなテーマでポスト・フェミニズム的な論文とか書いたら一皮むけたかもね。グローバルに比較調査するのも可。その過程での自らの深刻なアイデンティティの危機を乗り越えられれば・・・

今は日本のアイリッシュ・パブも全国にチェーン展開したりして、そういう特別な場ではなくなって単なる近所のおやじさんたちの昼から飲める居酒屋になっていると思いますが。

話を戻すと、「日本は遅れている」と言っていれば食っていける(逆に言うとそれ以外の議論は認められない)、まさに「遅れた」構造に無批判・無自覚に乗らないと、排除されてしまう。そのことにしっくりいかない思いを抱えながら、「立ち遅れて」いる人もいたということです。この場合誰が本当に「遅れて」いるんでしょうね、と考えないといけません。

これとの関係で連想するのが、拉致被害者の配偶者として運よく北朝鮮を脱出できた「チャールズ・ジェンキンスさん」。今どうしているんだろう。米軍を脱走して北朝鮮に投降し、北朝鮮当局からはアメリカ人ということで珍重されて「米帝国主義」を非難するプロパガンダ映画に出演。拉致被害者の曽我ひとみさんを北朝鮮当局に「紹介」されて結婚している。2002年の日朝首脳会談で曽我ひとみさんらの帰国の道筋がついたが、ここで問題になったのが配偶者のジェンキンスさんの立場。米軍から脱走したという過去は消えないので帰国して軍法会議にかけられれば厳罰が科せられる可能性もある。これも日本政府が米国と交渉して穏便な処分に済ますことを約束してもらってから北朝鮮を出国、日本で妻と合流した。

ジェンキンスさんは、勘違いだったかもしれないが、来た瞬間は望んで北朝鮮に来たはずだ。すぐに後悔したらしいけど。ジェンキンスさんは自分が捨ててきたはずの米帝国主義の先兵だったから、「アジアを侵略する悪い白人」の役にぴったりの容姿だったからこそ温存され、厚遇された。配偶者が偶然日本人だったことから僥倖のように出国でき、祖国での重罪も免除された。北朝鮮で塗炭の苦しみをなめて死んでいった日本からの「帰国者」や、今も消息すら隠されている拉致被害者と比べると、国際社会の中での命の価値は、国籍や人種によってここまでも違うのかと思わざるを得ない。このような「特権」や幸運を享受してきたことについて、ジェンキンスさん個人に非はないが、ずいぶん違うんだな・・・ともやもやっとした気持ちになった人は当時いたのではないか。

さて、上記の名誉教授とか、あるいは「日本は遅れている」と言って日本で食っている方々には、どことなくこの「ジェンキンスさん」の立場と似通うところがある(なお、ジェンキンスさんが日本に来てからこのような発言をしているわけではないので念のため)。

「日本は属国でえーす」とかいってこの先生が扇動できるのって、この先生がまとっている属性と、記者や想定された読者との間に「属国」的関係が成立して(いると仮定している人が)いないと成り立たない。

こういう方々は、もしかすると本当に心の底から「遅れている日本」を前進させたいと思っているのかもしれない。どんなに見当はずれであったり、見通しが甘かったり、根拠がないことを言っていても、その善意の存在を完全に否定し去ることはできない。同時に、自分が乗っかっている歪な権力関係に対してものすごく無自覚なのか、あるいは確信犯的にそこに乗っかっているのか、あるいはかなり無理な理屈をつけてその構造を正当化しているか隠蔽しているのではないか、という深刻な疑いが生じる。

エドワード・サイードって、まさにこういう構造を批判したんじゃなかったっけ?(最後は自分もそこに取り込まれていった感があるが)。

なお、善意のあるなしに関係なく、勝手なことを思って、優越感に浸り、説教できる相手を捕まえて説教しながら心地よく人生を送るというのは、尊敬はできないけれども、まったく人生における自由の範囲内だ。「本当の自分」探しとかに囚われがちな人は、いっそこういった八方破れでも運良くけっこううまく生きてこれてしまった人たちの多種多様な人生から何かを学んでもいいとすら思う(何もかもを学んじゃダメだが)。

重要なのは、そういう人々がいるということを知っておいて、そういう人たちが生きていく自由は認めたうえで、あまり相手にしないことじゃないかな。そして、そういう人々が時に夜郎自大にふるまうのを可能にしている国際社会の権力構造ってなんだろうね、と考えるのもいい。そしてゆがみを増幅・助長するような政策を採用しないように国や自治体の政策に気を配ることじゃないかな。

(それ以前に、青い目の白人の「権威」に説教してもらう、ていう手法が、思想内容よりも何よりも、どうしようもなく古すぎる、とは思いますが・・・)

アジア相互信頼醸成措置会議(CICA)の上海宣言と大東亜共同宣言(1943)を比べたら

アジア相互信頼醸成措置会議(CICA)の4年に一度のサミットが、5月20-21日に上海で開かれ、「上海宣言」を採択して閉幕した

中国が、南シナ海ではパラセル(中国名・西沙)諸島をめぐってヴェトナムに強圧的な攻勢をかけ、東シナ海の公海上では日本の自衛隊機に異常接近するといった、拡張主義の度合いが一段と高まる兆候が相次ぐ中で、これまで全くと言っていいほど知られていなかったCICAに突然注目が集まった。

これに合わせて訪中したロシアのプーチン大統領との間でロシアの天然ガスの中国への供給で契約合意したことも大きかった。ウクライナ問題をめぐって欧米と対立を深めるロシアが、天然ガスを供給して相互依存関係にある欧州以外に天然ガスの販路を誇示して、経済制裁は無効だと牽制するのを中国が助けた形になった。

中国が自国中心の「大国間秩序」の構築を進めているかのような印象を与えるために今回利用したCICAだが、聞き慣れない機構である。これまではそれほど実体のない機構だったと言ってしまってもいいのではないか。1992年にカザフスタンのナザルバエフ大統領が提唱して設立され、翌年から活動を開始した。事務局もカザフスタンの首都アルマトイに置かれている。1993年から2010年まで議長国はずっとカザフスタンが務めてきた。2010年からトルコが議長国だったが、今年から議長国を引き継いだ。

今回加盟したカタールとバングラデシュを入れて26か国が加盟している。そのうちイスラーム諸国は17か国。トルコ、エジプト、イランを含む中東諸国やパキスタンやアフガニスタンなど南アジア諸国が多い印象を一瞬受ける。

しかしこういった拘束力の弱い国際機構(といっても実際は定期的に会議をやっているだけ)には「お付き合い」で入っていることも多いので、実態は様々な指標を用いて推測するしかないが、今回は国家元首を送ってきた国からそれは明瞭だろう。

Global Times(中国の国際宣伝紙『環球時報』の英語版)は新華社通信による発表を引いて、11カ国の国家元首が出席と報じた(これは事前の報道なので実際に全員来たかは集合写真などで確認するしかない)。

Afghanistan 南アジア
Azerbaijan コーカサス
Iran 西アジア
Kazakhstan 中央アジア
Kyrgyzstan 中央アジア
Mongolia 中央アジア
Pakistan 南アジア
Russia ユーラシア
Tajikistan 中央アジア
Uzbekistan 中央アジア
Sri Lanka 南アジア

これを見れば、実態はユーラシアの内陸国の集まりという性質が明白。ロシアと中国と、その間の中央アジアやコーカサスの旧ソ連チュルク系言語の諸国を集めたもの。チュルク系諸国の親玉としてトルコも一枚噛んだ、というのが設立時の経緯だろう。ソ連邦崩壊でロシアの力がぐっと落ちた1990年代初頭は、トルコが中央アジアのチュルク系の旧ソ連邦構成諸国に勢力圏を伸ばす、という夢が盛んに語られました。頑張って進出したトルコのビジネスマンはいるので一定のトルコ・チュルク系の経済圏を作ったとはいえるが、政治・安全保障上もトルコの勢力圏となったかというと、そこまでには至らなかった。

インドネシア、マレーシア、フィリピンというアジアの島嶼・海洋国家は加盟国ではなくオブザーバーで、日本、米国もオブザーバー。

インドは加盟国だが、今回首脳を送ってきていない。まあ選挙で政権交代の真っ最中というのもあるが。しかし名誉職の大統領を送ることは可能なはずだがそうしていない。外相すらよこさない。それに対して加盟国ではないオブザーバー国のスリランカから大統領が出席し、バングラデシュが新たに加盟国となり、パキスタンが大統領(ただし実権のない名誉職)を送っているというのが興味深い。

ペルシア湾岸の産油国からなるGCC諸国からはバーレーン、UAE、カタールが加盟しているが首脳は送ってきていない。一番重要なサウジはそもそも入っていない。アラブ諸国は全般に「数合わせ」で水増しに話を合わせているだけのような印象。

トルコは加盟国で昨年までの議長国であるにもかかわらず、今回のサミットにエルドアン首相もギュル大統領も来ておらずダウトウル外相が出席というのが面白い。

これに対してイランは加盟国であり、かつロウハーニー大統領が出席している。

ロシア・中国・イランという、米一極の冷戦後秩序に対抗する「現状変更勢力」の雄として米国の外交論壇からも注目されるこの三国の首脳が揃ったことで、この会議への注目が俄然高まった(イランの最高権力者はハメネイだが、ハメネイはそもそもほとんどいかなる国際会議にも出てこない)。

これをもって、ロシア・中国(そして実力は下がるがこれまでの欧米への敵対姿勢・実績では群を抜くイラン)がブロック化して「新冷戦か」と話題作りをするには絶好の舞台となったが、欧米によるOSCE(欧州安全保障協力機構)のような実体を伴ったものになるかというと、かなり疑わしい。既に存在するロシア・中国・中央アジア諸国の内陸国同士の安全保障上の一定の結束を再認識するものでしかないだろう。

会議の成果とされる上海宣言【中国語】【英語】では多分に薄められているが、中国がこの会議に込めた意図・主張として最も注目されたのが習近平国家主席による基調演説閉幕後の会見

基調演説では「第三国に向けた軍事同盟の強化は、地域の安全を利することにはならない」「いかなる国も地域の安全保障を独占的に扱うべきではない」と明らかに米国そして日本を牽制し、そして「アジアの問題は結局、アジアの人々が処理しなければならず、アジアの安全は結局、アジアの人々が守らなければならない」と宣言。

閉幕後の記者会見でも、英訳を見ると、旧来の安全保障観を「完全に捨て」、新しい安全保障観を打ち立てないといけない、と語ったそうです。
Xi said countries must “completely abandon” the old security concepts, while advocating a new one pursuing cooperative and sustainable features, to create a security cooperation pattern of openness, equality and transparency.

そして「アジア人は相互に協力し、協働しないといけない」と言います。アジア諸国民はアジアの安全保障をアジア人の間の協力で実現する能力を持つ、とのこと。
“Asian countries must collaborate with each other and work together,” Xi said. Asian nations have the capacity to realize security in Asia by cooperating among themselves, he added.

「アジアの安全はアジアが守る」・・・となるとこれは、かつての帝国日本の東亜新秩序構想を思い出さずにはいられません。

1943年11月5-6日、日本は中華民国、満州国、フィリピン、タイ、ビルマ、インド(独立派)の首脳(タイは首相代理)を東京に集め「大東亜会議」を開催し、6日に「大東亜共同宣言」を採択しました。

NHKがこの時のニュース映画をオンラインで公開してくれている。かなり長いもので、東条英機の演説に続き、各国代表の中国語や英語での演説も(字幕はついていないが)収録されているので大変に役に立つ。

大東亜会議での東条英機の演説と、習近平演説を例えば中国国営テレビでの報道と比べると、感慨深い。やはり歴史は繰り返すしかないのか。

東条英機は大東亜会議での演説で、大東亜戦争で米英の支配を排除してこそ「初めて大東亜の諸民族は永遠にその存立を大東亜の天地に確保し、共栄の楽しみをともにいたしますることができる」という。

東条は議場で採決の前に「大東亜共同宣言」を読み上げていますが、その前文の

「米英は自国の繁栄のためには、他国家他民族を抑圧。特に大東亜に対しては、あくなき侵略、搾取を行い、大東亜隷属化の野望をたくましうし、遂には大東亜の安定を根底より覆さんとせり」と英米を非難する口ぶりは、現在の中国の米国、日本非難とそっくり。

アジア人が「自存自衛を全うし」「大東亜を建設」して、「もって世界平和の確立に寄与せん」とするところも同工異曲。

こういった序文に続く大東亜共同宣言の本文(東条が読み上げたものに従って現代仮名遣いに直してあります)は、

一つ、大東亜各国は共同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設す。
一つ、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し、互助敦睦の実をあげ、大東亜の親和を確立す。
一つ、大東亜各国は相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸暢し、大東亜の文化を高揚す。
一つ、大東亜各国は互恵のもと緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進。
一つ、大東亜各国は万邦との交誼(こうぎ)を篤うし、人種的差別を撤廃し、あまねく文化を交流し、進んで資源を開放し、もって世界の進運に貢献す。

大東亜会議閉幕の翌日には、東条英機や各国代表が列席・演説した大集会が行われましたが、そこで東条は

「全東亜はいよいよその共同の使命に呈し、一挙不動の信念のもと、その協力を凝集してあくまでも大東亜戦争を完遂し、再び大東亜において、米英の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)を許さず、もって世界新秩序の建設に協力せんことを期し、右、決議す」と語っています。

習近平の、カザフスタン・ナザルバエフ大統領とトルコ・ダウトール外相を従えた会見も、なんだか同様に見えます。

大東亜共同宣言の各項目の意図するところを簡単にまとめると、
(1)アジア人の協力による安全保障、共存共栄
(2)欧米の介入・支配の排除、主権の尊重・内政干渉の拒否
(3)欧米の価値観に対抗して、アジア固有の伝統文化の唱道
(4)アジア人の相互協力による経済発展
(5)アジア人の交流で人種差別撤廃を図るとともに、資源獲得を進める

今回の上海宣言でもまったく同じような項目が並びます。

(1)の共存共栄ですが、上海宣言では例えば1.2で書かれています。

We reiterate our collective desire to carry forward the spirit of solidarity, cooperation and mutual assistance; respect each other’s sovereignty; seek common development and progress; and stay committed to building a security environment in Asia based on confidence, mutual trust, good neighbourliness, partnership and cooperation among all States deeply rooted in the heart of the Asian people.

4.1では、
We are ready to act upon the “Shanghai Declaration” adopted at the Summit and contribute to bringing lasting peace and common prosperity in Asia.

ふむふむ中国語ではこうなっているのか。
「我们愿本着本次峰会达成的“上海共识”,为促进亚洲地区持久和平和共同繁荣作出贡献。」

後半部分の簡体字を直すと「為促進亜州地区地球和平共同繁栄作出貢献」。亜州地区の和平共同繁栄を促進、、、なんとなくわかりますね。

(2)の介入排除・主権尊重については1.2の中で主権尊重などがすでに触れられていますが、1.3で次のように念を押す。

・・・we emphasise that no State, group of States or organisation can have pre-eminent responsibility for maintaining peace and stability.

1.4ではさらに細かく念を押す。

・・・we reaffirm to respect each other’s sovereignty, independence, territorial integrity and inviolability of internationally recognised borders and to refrain in our international relations from the threat or use of force against territorial integrity or political independence of any state in any manner inconsistent with the principles and purposes of the UN Charter;

「領土保全あるいはいかなる国の政治的独立に関しても、武力の行使あるいはその威嚇を差し控える」とあるが、あれ?中国とロシアってこの問題でどうだっけ?という疑問が出るはずですが、ちゃんとここに「国連憲章の原則と目的に一致しないやり方で」なければ武力行使してもいい、という意味内容の限定が付されているので、国連安全保障理事会が違反だと決議しなければいい→ロシアと中国は安保理で拒否権があるので国連憲章上問題だと唯一強制力のある安保理で認定されることはない→問題ない、ということですね。

そして、政権転覆のための介入の行動をとるな、と欧米に釘を刺しています。
to uphold resolution of disputes by peaceful means, not to interfere in the internal affairs of States; not to adopt or support actions that aim at overthrowing legitimate governments;

(3)の固有文化の主張については、1.5の項の冒頭からアジアの価値観を主張。
We reaffirm that diversity in traditions, cultures and values in Asia is a valuable asset to the rich content of the cooperative relations among CICA Member States.

(4)の経済発展については1.2の中など随所にありますね。

(5)について、大東亜共同宣言では、「人種差別の撤廃」という高邁な理念と「資源欲しい」という実利・下心が一項目にまとまってしまっていて、ぎこちなかったですね。

資源に関しては、上海宣言では2.6に
We acknowledge that energy security has direct impact on sustainable development at national, regional and global levels and well-being of people in all countries.
等々詳細に記されています。

上海宣言では、イランが求める原子力開発の権利が長々と書き込まれていたり、アラブ諸国が常に一言入れさせる「ダブルスタンダードは駄目」という文言も付け足しのように滑り込ませてあります。

ロシアと中国が共に抱える分離主義やテロを断固弾圧する正当化論理は詳細に書き込まれています。2.16のように、情報コミュニケーションの制限の正当化を実質上意味する文言があります。

座興に上海宣言と大東亜共同宣言の類似する部分を探してみましたが、基本的な事実は、国家元首・首脳の出席で分かるように、「ユーラシアの内陸国の集まり」です。そして、1992年に提唱したカザフスタンのナザルバエフが今もなお大統領であるように、「非民主的・独裁政権が支配する国の寄合」という性質が濃いものです。オブザーバーとして距離を置きながら観察しておくのがいいとしか言いようがありません。

福沢諭吉が「脱亜論」で「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と書いたことが今となってはリアリティを感じますね・・・

もちろん、非民主主義国のブロック化が進み、再び冷戦的なグローバルな対立の軸となるのであれば、重大な意味を持った会議だったと後で言われることになるでしょう。今のところは大東亜会議のパロディのような、イメージが先行した実体の乏しい会議と見ておくしかないでしょう。

【海外の新聞を読んでみる】オバマの言葉と行動

ワシントン・ポスト紙のデービッド・イグネイシアスのコラムが、分かりやすく面白かったのでメモしておく。

David Ignatius, “Obama tends to create his own foreign policy headaches,” The Washington Post, May 7, 2014.

オバマの来日(アジア歴訪)の評価には諸説あったし、実際に各国の会談で何が話し合われたかとか、それが今後の国際政治にどのような影響を与えていくかについては、その場にいた人にしか分からないし、時間がたってみないと分からないことだ。ここではより広い背景として、オバマ政権の外交をめぐって、ワシントンで定着した「雰囲気」「共通認識」を読み解いていこう。

「弱くなったアメリカ」という印象は日本でも一般レベルにまで浸透しつつあるので、イグネイシアスの議論は一見してそれほど意外なものではないかもしれない。

昨年のシリア問題での「弱腰」、対イラン交渉での「宥和姿勢」、そして打つ手に欠くウクライナ情勢と対ロ政策・・・といった一連の出来事の中で、米国の覇権の衰退の「印象」は世界的に広がり、そこにオバマ大統領の政治姿勢が特に要因となって作用しているのか、あるいはもっと根底的な米国そのものの弱さが露呈しているのかは、米国でも世界各国でも議論の的になっている。

日本でも、これまで抑えられていた反米感情の噴出が、左右両方の議論に出てきている。

そんな中で、米国のリベラルな秩序原理による覇権の持続を志向し、オバマ大統領にかなり好意的で、オバマが叩かれているときにもかなり無理して擁護論を買って出る傾向の強いイグネイシアスが、ここにきてオバマにかなり厳しい言葉を投げつけている。最終的には支持して応援しているんだけれども。

タイトルは「オバマは対外政策の悩みの種を自分で撒いている」といった意味。

最初の段落では、オバマのアジア歴訪のハイライトだったフィリピン・マニラでのオバマの発言に触れながら、

Everything he says is measured, and most of it is correct. But he acts as if he’s talking to a rational world, as opposed to one inhabited by leaders such as Russia’s Vladimir Putin.

(意訳)「彼の言っていることはいつも正しいんだよ。でも行動がね~。世界は理性的な人たちばかりだと思っているみたいなんだよ。実際には世界はロシアのプーチンみたいな指導者ばかりなんだけれど」

プーチンのウクライナ政策が「理性的」でないかどうかは議論があるだろう。少なくとも軍事的・安全保障上の戦略合理性という意味では理性的だと言いうる余地がある。経済的に中長期的に持続可能かというと理性的でない、というのは欧米の議論だけでなくロシア側の学者も内心は認める人が多いかもしれない。ただしここでのイグネイシアスの「理性的」という言葉にはアメリカの議論の当然の前提として「リベラルな」という要素が含まれている。その意味ではプーチンは「理性的でない」ように見えるだろう。

イグネイシアスは基本的に米国中心のリベラルな国際秩序が今後も支配的であり続けることを支持している人であると思うが、リベラルな側が一時的であれ劣勢に立たされているという点を認める。プーチンのような相手に対して、オバマはあまりにもリベラルで理性的すぎるというのだ。世界政治には厳然とパワーポリティクスの要素があり、ロシアはそれを前面に押し出してきている。

In the realm of power politics, U.S. presidents get points not for being right but for being (or appearing) strong. Presidents either say they’re going to knock the ball out of the park, or they say nothing. The intangible factors of strength and credibility (so easy to mock) are, in fact, the glue of a rules-based international system.

(意訳)「パワーポリティクスの領域では、米国大統領は正しいことによってではなく、強いこと(あるいは強く見えること)によって得点を挙げるのだ。大統領は「場外ホームランを打ってやる」と言えばよい。さもなければ何も言うな。力と信頼性(これを嘲るのは簡単だ)という、目に見えない要因が、ルールに依拠した国際システムを成り立たせているのだ。」

「オバマの言葉」の卓越性は広く知られている。私も中東政策をめぐって、有名な「カイロ演説」やエルサレムでの演説などいくつか読み込んでみたことがある。実によくできている。感動的だ。言葉の上では。それが行動による裏付けを伴うものであれば、本当にオバマ政権は「変化」を世界に及ぼせるという期待を呼び覚ますに十分だった。

しかし大統領の任期も終盤に来て、「オバマの言葉」がどれだけ行動による実質を伴っているか、大いに疑問が付されるようになっている。そしてオバマ大統領やその政権の資質と能力によるのか、あるいは米国の相対的な国力の低下によるのか、華々しい言葉と裏腹の貧弱な実施能力、あるいは意志の欠如が、世界各国で印象づけられている。2013年の中東政策はそれをもっとも鮮明にした。同じことがウクライナ問題をめぐっても、あるいは中国をめぐる東アジアでも起こりかけているのではないか、と世界中の視線が集まっている。

イグネイシアスはここで、行動への能力や意志とかけ離れた、華々しすぎるオバマの言葉を控えよと論じている。相手がプーチンなので、昔のヤンキーの喧嘩みたいになっているが・・・でっかいホームランを打ってやるぞと言うか、そうでなければ黙ってろ、というのだから。

ここで重要なのは、でかいことを言えというのではなく、言うこととやることを一致させて、できないことなら言うな、ということだろう。これは世界中でオバマに言いたい人がいっぱいいるだろう。

Under Obama, the United States has suffered some real reputational damage. I say that as someone who sympathizes with many of Obama’s foreign policy goals. This damage, unfortunately, has largely been self-inflicted by an administration that focuses too much on short-term messaging.

(意訳)「オバマ政権下では、米国はかなり手ひどく評判を損ねた。オバマの対外政策の目標に共感する私にしてそう言わざるをえない。この損害は、不幸なことに、オバマ政権の自傷行為だ。政権は短期的なメッセージにこだわりすぎるのだ。」

リビアのベンガジで米国の総領事館が襲撃され大使が殺害された2012年9月のベンガジ事件の際のオバマ政権の対応が再検討されて今また政治問題になっている。この問題の本質は、オバマ政権がメディア向け広報戦術の「スピン」を気にかけすぎたことだ、というのがイグネイシアスの批判だ。巧みに言いつくろったことで、かえって印象操作で失策を隠蔽したと批判される原因になっている、という。

そして、これは単なるミスではなくオバマ政権の本質にかかわるものではないかと示唆している。

the administration spent more time thinking about what to say than what to do.
「オバマ政権は何をするかよりも何を言うかに時間をかけすぎている」

明確にオバマを支持している論客のイグナチエフは、しばしば政権から最新の情報をリークされてコラムを書き、ワシントンの政策論のフレーミング(枠組み・方向づけ)や、観測気球を揚げる役割を果たしている(と広く認識されている)。いわばオバマ政権の広報戦術の実施部隊みたいな人なんだが、その彼にしてこんなことを言い始めている。

しかし反オバマに回ったというよりは、ワシントンや同盟国の首都(日本を含む)のオバマ大統領・政権に対する不満・不信感があまりに強いのを察知してガス抜きに走っているような印象を受ける。認識ギャップの修正、期待値の下方安定化ですね。

じゃあオバマはどうしたらいいか?と言うと、「でっかいホームランを打て」というのではなく、「慎重であれ」と一転して矛先が鈍る。

How can Obama repair the damage? One obvious answer is to be careful: The perception of weakness can goad a president into taking rash and counterproductive actions to show he’s strong.
「弱いという印象を跳ね除けようとして、強く見せようとするあまり、短兵急な、逆効果の政策に走ることがあるからね」という。で、

One of Obama’s strengths is that he does indeed understand the value of caution.

「そのことは大統領も十分わかっていらっしゃいます」とな。結局お仲間なんですね。

“Say less and do more” is how one U.S. official puts it. That’s a simple recipe, and a correct one.

「多くを語らずに、多くを為せ」というシンプルなやり方が、正しいやり方だ、という。これからは無口なオバマが見られそうですね。すでに訪日・訪韓でもそんな感じでした。無口で小食。

で、ウクライナをめぐって強硬な発言でプーチンと競り合って見せたりせずに、米国の強みである経済でじっくり追い詰めろ、とアドバイスしています。

しめくくりに再び、

The counter to Putin is strong, sustainable U.S. policy. To a battered Obama, three words: Suck it up.

「ボコボコにされたオバマだが、ここはぐちゃぐちゃ言わずにじっと耐えろ」だって。

基本的にオバマ政権の政策に賛成であるイグネイシアスのような論客からも、「語りすぎたオバマ」の、言葉と行動のギャップから来る米国の威信の過度な衰退への危機意識が高まっているようです。

なお、ウクライナ問題をめぐって「最終的には経済要因が重要だ」から「プーチンの政策は持続的ではない」というのは英語圏の有力メディア・論客の議論の最大公約数のようで、イグネイシアスもこの立場のようだ。それに対しては、「非合理的」なものを含む安全保障の論理、特に地政学的な要因を強調して反論する議論も、これまた英語圏の一部の有力な論客から出ている。この論点についてはいくつも面白い論稿が出ているので、また考えてみたい。

(関連本)
オバマとイグネイシアスが念頭に置くであろう、アメリカのリベラル派の考える「国際秩序」とは?

絶版有理~『ウクライナ・ナショナリズム』はカッコいいなあ

これを読んで考えた。

「(ニュースの本棚)ウクライナ 「国民統合」の難しさ 末澤恵美」『朝日新聞』2014年4月20日05時00分

この中で、中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)が取り上げられています。

中井和夫先生、カッコいいなあ。

何がカッコいいかというと。この本、ウクライナがあんなことになってるから、当然、買ってみたいと思うでしょう?

もちろんこういった専門的な本で、出た当時は全然国際問題にもなっていなかったテーマの本なので、当然今では版元の東京大学出版会でも「品切れ」でございます。

そんなに分厚くもないのに7000円以上もする本ですので、たぶん部数はすごく少ないんでしょうね・・・

もちろんアマゾンなどのインターネット書店でも軒並み全滅、入手不能。

古本屋サイトなどで検索しても、買えませんねー。

じゃ図書館で探すか。

ためしに東大の図書館OPACで検索しても、本郷と駒場に一冊ずつあるけど、はい貸し出し中(4月23日現在)。待っててもいつ読めるかわかりませんよ。

東大生がんばって勉強していますね。よしよし。いや、教員が借りちゃっている可能性も高いが。

手に入らないといわれると欲しくなるでしょ?

実は、私は出た当時に東大生協の書店で生協組合員証を見せて1割引きで買ったものが書庫の奥の奥にあるんだけど、欲しい?いくらなら買う?

売ってあげない。

知識を「マネタイズ」しろなどと小賢しい商売のやり方を売り込むネズミ講みたいな議論がウェブ上には散乱していますが、それは既存の知識を右から左に流しているだけの人たちの話。

本当に意味のある知というものは、別に売れなくたっていいんです。あること自体に価値があって、代替不能。

もちろんそういった「元ネタ」を三重・四重に孫引きして知ったかぶりをしている人(私も含む)はいるが、ではその根拠はというと、別の人に依存せざるを得ないから不安だ。

少なくとも、最終的にどのあたりが正確な元ネタなのかを知っているのと知らないのでは大違いだ。

知というのは、知らない人が損をしているというのが原則。まあ損をしていること自体に本人が気づかないケースが多いのですが。

本当に必要な知識は、お金を出しただけでは、買えない、というのが、より重要な本質なんです。
 
そのことを示してくれた中井和夫先生、カッコいいなあ。

本の部数が少なくて品切れになっているからって称賛されてもうれしくないでしょうが・・・

しかしお金を出したら市場で売っているわけではない話を聞けるから、頑張って大学入試を突破したりするんですよ。入試ってそういうものなんですよ。受験生も含めて忘れている気がしますが。

ウクライナ問題が(一般の印象では)突然に世界的な問題となって、専門家が少ない。本もほとんど出ていないし流通していない。誰のどの本を読んでいいかわからない。そう思いませんでしたか?

いや、正直、私も思いましたよ。

私の場合は職業的に国際問題を扱っていて、ロシア・東欧専門家と顔を合わせる機会もあるので、そんなときに聞いてみたりできる。英語の新聞・雑誌に目を通していると、一躍脚光を浴びた英語圏の専門家の新著を電子書籍で読んだりして、素人ながら楽しんでいる。

それでも、結局どの本がいいのかは、よく分からない。それは、学生のときちゃんと勉強しなかったから。

ウクライナ問題が急激に深刻化した時、そういえば学生時代の一般教養の国際関係論の先生がウクライナ専門だったな、とじわじわ思い出した。それどころか、この本が出たときには大学院生だったが、大学生協で割引で買っていたことも思い出した。まあそれが、むやみに本を買っていた時だったし、私の専門分野とそんなに重ならないし、ということで結局書庫の奥の段ボール箱の山の中に入ってしまって出てこないんだけどね。

なので、途上国についての専門書がほぼ全部揃っているとある専門図書館に行って借りてきました。

高い本だし、論文をもとにした本だけど、本の体裁の近寄りにくさはともかく、かなり分かりやすく書いてある。書評ではないので内容は紹介しません。

1990年前後に急速に生じた変化を見届け、論文を何本も書いたうえで、1998年に出た本だから、学会誌の論文のような晦渋さはあまりなくなっている。それでも、東西冷戦崩壊、旧ソ連諸国の独立、という出来事が「過去」になったかのように思われた時期に出版された時点では、一般的にはあまり話題にならなかったように記憶している。

東大教養学部の隣の駒場Ⅱキャンパスにある先端研に勤めるようになってからは、ちょっとした用事で教養学部に行ったときに、中井和夫先生とは道ですれ違ったこともあった。

昨年定年になっていらっしゃるんですね。

学生時代の先生方が、団塊世代なので、ごそっと定年になったのを記念して、こんな面白そうな論集も出ている。

ぽちっと買ってみました。

中井先生は私が教養の学生だった頃はまだ助教授だったのか・・・すれ違ったところを見た感じは、昔からずーっと変わらない安定的な風貌という印象でしたが。多分会話したことはありません(もしかして一回ぐらいはあったかな?あったとしても、たぶんすごいバカなことを言ったと思う)。

当時の中井先生は大学院で教えるだけでなく、1・2年の教養課程の必修の社会科学の国際関係論の授業も受け持っていたと思う。あんまりカリキュラム通りに勉強する学生ではなかったので、全てがおぼろげな記憶ですが・・・

必修といっても、いくつかある社会科学の科目の選択肢の中での一つだったと思う。当時のカリキュラムでは、国際関係論と経済学と社会思想史などをいくつか選べばよかったのかな?

すみません。ずっと研究所勤めなので、准教授を名乗っていながら、教育機関としての大学のシステムをよく理解しておりません。そういった正確なところを知りたい人は、より適切な方面にお問い合わせください。

さて、当時の印象では、国際関係論というと汎用性があると思うのか、履修する学生が多くて階段教室でマイクで講義ということになる。私は社会科学といっても、社会思想史のような受講生が少ない方に行っていた気がする。

ただ、国際関係論にも興味はあったので、階段教室の後ろの方で、ちょっと座って聞いていたことはあると思う。そんなときの先生の一言がずっと耳に残っていたりするもんです。

当時はウクライナ?なんでこんなマイナーなことやっている先生が必修の国際関係論なんだ?なんてたぶん思ったこともあったんでしょうね。もしかすると周囲にそんな発言をしたかもしれません。すみません。恥じ入るばかりです。

もっとずっとマイナーな中東やイスラーム学なんて分野に「これだ!」と思って邁進しかけていた奴が何を言っているんでしょうか。

いいんです無知は学生の特権ですから。

重要なことは、無知をフェイスブックやブログで晒して世界ばらまいたり恒久的に記録に残したりしないことです。それさえ守れれば、期間限定でスカーと大気中に無知を放出していいのが大学生。どんどん放出してください。ただし私の周りではやめてください。

うーん思い出してきたぞ。ウクライナとかじゃなくてもっと一般性のありそうな授業はないのかと期待して、理系向けの一般教養の国際政治の授業とかも出ていたような気がします。単位にはならないけど。いや、中井先生の授業がウクライナの話ばかりしていたとは到底思えないんですが。あまり出席してないんでわからないんですよ。それでも期末の試験にぐちゃぐちゃといろいろ書いて、平凡な成績をもらったのではなかったかな。いずれにせよ、よく憶えてません。

しかし今から考えてみると、1992年や93年の段階でロシア・東欧が「マイナー」なものに見えたのは不思議だ。1989年のベルリンの壁崩壊からの連鎖的な東側陣営の崩壊と世界秩序の再編が、国際関係の中心の動きで、新たに引かれた地政学上の最前線のウクライナなんて面白いに決まっていた。それに乗り切れなかったのは、単に私がバカだったのか。多分そうなんだろう。

ただ、私の場合は、学術情報はあふれている家庭に育ったので、今注目されている分野には、すでに専門家がたくさんいて、成果・作品が出ているので、その分野を今から始めても遅い、ということが感覚的に分かっていたせいもあるだろう。流行っている分野に今から参入しても仕事にならない、ということで東欧や民族問題は最初から興味・関心から除外したというところはある。あくまでも職業的な関心から専門分野を探していましたので。そういう意味では教養学部の2年間に就職活動をしていたようなものです。

でもこういうのは後から理屈をつけた説明で、実態はおそらく、20歳前後の頃の時間の感覚はすごく短期的・刹那的だったということではないかな。1989年のベルリンの壁崩壊でなんだかすごいことが起こっている、と中高生の時代に感じたのは確かだが、その後に湾岸戦争とかいろいろ起こっているし、この年頃であれば、3年前なんてものすごく古い時代にしか感じられただろう。

まさに1989年から91年にかけてのソ連邦崩壊で旧東欧(バルト、バルカンを含む)の民族問題が大問題になりかけるというタイミングで、91年に東大に移ってきた生きのいい最先端の助教授の授業も、メモリが短期的な新入生から見ると「古い話してんなー」ということになってしまったのだろう。ああバカでした。

そういえば最近、私がものすごく頑張って論じてきてそれなりに世の中に広まったかな、と思うような説を話すと、学生から「それ、当たり前じゃないですか。常識ですよ」といった反応が返ってくることが多くなってきた。10年前に口にすれば学会では村八分にされ、何もわかっていない権威主義のメディア企業の人などには「問題のある人」とされてしまったような説を、一生懸命頑張って広めてきた結果が、「常識ですよ」と冷たくあしらわれるとは~orz

話を戻しますと、『ウクライナ・ナショナリズム』はたぶん、全国の自治体の図書館にもほとんど入っていませんよ。入っていたらきっと借り出されちゃってますよ。大学図書館は学生等でないと基本的には借りられないし(外部の人も閲覧はできるように徐々になってきています)、当然、目ざとい人が借り出しているから待たないといけない。

で、買おうとすると版元でも品切れで、古本屋にもほとんど出回っていない。

今オークションに出したら高く売れそう(売りませんよ)。

もうちょっと話を天下国家・大所高所に広げれば、こういった本が絶版(品切れ)になってしまっていて流通していない、ということをどう考えればいいのか、どうすればいいのか、という問題については少し考えてみてもいいと思う。

繰り返すと、大前提は、個々人にとっての教訓としては「ある時に買っておけ!借金してでも買っておけ!」ということだけなんです。それでこの話は終わりにしてもいい。

しかし、もっと社会工学的な、国民教育政策的な、別に私がしなくてもいいような話をすると、こういった、専門家の間ではごく普通に知られているが、そういう人たちには行き渡ってしまっていてこれ以上ほとんど売れそうになく、通常は一般の人は買わないから出版社も在庫を抱えておけないような本が、いざ必要となると今度は欲しくても誰も買えないし読めないのはどうしたらいいのか、ということについてちょっと考えてみてほしい。

例えば東大出版会は、著作権法上の「出版権者の出版の義務」をきちんと果たしているのかということは、若干問われてもいい。電子書籍も発達してきた現状ではもう少しやりようがあるんじゃないの?と言いたい。

なお、「品切れ」と「絶版」がどう違うのかについては話が長くなるし、今後電子書籍をどう展開していくかという時に結構重要になるので、また議論したい。

とりあえず、この本の場合は、実質上「絶版」だったと考えておいてください。万が一今後重版されることがあっても、それは実質上は「復刊」あるいは「再刊」と言っていいのではないのかな。

ただし、大学出版会(「出版局」等でも同様)のように、書き手も出し手もそれほど商売にこだわっていないと見られる(出して特定の学生・専門家の間で流通させることに公共的な意義を見出している)場合には、「品切れ」「絶版」をどうとらえるかが、通常の商業出版社(大学出版会が全く商業出版社ではないとは言い切れないが)の場合とも異なってくるという点は理解している。

要するに、「絶版(品切れ)になってるじゃないかおかしいじゃないか」とは大学出版会に対してはあまり強く言う気がしない。商業出版の各社に対しては、売る気がないのに絶版にしないで権利を抱え込んでおくのは、特に今後の電子書籍の展開の中では、有害な既得権益の主張になりかねないので、著作権上の「出版の義務」を履行するか、それとも売れなくなった本の出版権を手放すか、そろそろはっきりさせる必要があるとは思うけど。だって出版社が売る気がないし本屋も置く気がないというなら、さっさとウェブサイトで公開してしまいたいですよ。必要な知識には必要な読者がいるんですから。

大学出版会で出すような本は、出たときに大部分の専門家に行き渡り、大学図書館に行き渡り、できれば自治体図書館でも所蔵して一般読者が読みたいときには貸し出しをできるようにし続けてさえくれれば、それでいいんじゃないかという気はする。

ただ、もしこれらの条件が満たされない場合、特に、図書館での所蔵・貸し出しという流通・公開ルートが機能しないような状況になった場合、あるいは図書館で買い支える量が少なすぎて、専門書を出しても出版社に採算が取れないから出せない、といった状況になれば、もう少し考えないといけないと思う。本当に必要な本が、出したいのだけれども出ないとか、出ても読まれない=死んでいる状況が広範に定着すれば、出版社も書店も図書館も、そして書き手も、一度、書き方や出し方や流通のさせ方を、考え直してみる必要が出てくる。

で、今回の件について言えば、私は持っているので、他人のことはどうでもいい、というのが第一。重要なのは、知を短期的にお金に換えるなんてことは究極的にはどうでもいいことで、本当に重要な知は、欲しくなった時にお金で買えるものばかりじゃないよ、ということ。

もちろん、より多くの人が必要性に気づいた時のために、アクセスの機会を用意しておく仕組みは必要だが、あくまでも求めなければ得られない、というのが大前提。いざと言うときにだけ「ないじゃないか」と言っても駄目です。

また、学者の出す本は売れなくていい、霞を食っていろ、ということでもなくて、給料や研究費ちょぼちょぼぐらいはないと研究が進まないだろう。ただし、その成果は、通常は、必要な人にまず届く仕組みがあればいい。

あと、だから学者は本当に重要な仕事をして、一般向けの文章なんか書くな、ということでもないとは思います。「あの人は本当に重要な仕事をするから、売れなくても本を出そう」と言って待ってもらうためには、少なくともそう期待してもらえるだけの何かがありますということは可能な限り示しておかなければならないんじゃないかな。宣伝ばかりが先立つのも困るけど。結局はバランス。

読み手と書き手がほとんど全員知り合いであるような手堅い専門書でも、もし万が一、通常よりも多くの人が読んでみたいというようになった時、お金を出せば手に入る、読めるような仕組みがあれば、それはそれで良いことだ。ただしそのような仕組みを維持・管理するコストはだれが払うの?ということになる。そのコストを引き受けつつ、うまくいったら儲けよう、と考える人が出てきても、それは止めないようにしておいた方がいい。

知は使ってもらってこそ生きることは確かだし、誰かがどこかでお金を出さないと知の生産と継承が続いていかないことも真理ですから、いろいろ新しい出版や流通・公開のあり方が出てくることを期待しています。でも、繰り返すけど、「マネタイズ」なんてことばかりあんまり考えない方がいいよ、ということは今回思った。

あれから一年、今年もボストン・マラソンがスタート

 先ほど、『ブリタニカ国際年鑑』に、ボストン・マラソン爆破テロ事件やイナメナスの天然ガス・プラント襲撃事件など、2013年のグローバル・ジハードの動向について回顧・解説を書いた旨を書きましたが、忘れていましたがつい先ほど、ボストン・マラソンがスタートを切ったようです。

“Nearly 36,000 runners ready for first Boston Marathon since bomb attack,” Reuters, April 21, 2014.

ロイターの実況ツイート
“Boston Marathon”

「走り続けるボストンマラソン テロ1年、3.6万人参加」『朝日新聞』2014年4月21日22時42分

 あれから一年。早いような、とてつもなく長い時間がたったような・・・個人的には研究の手ごたえを感じた点もありましたが、確かな成果はこれからです。

実はNHKBS1はすごいインテリジェンス情報の塊

 春の番組改編で、NHKBS1の国際ニュース番組もいろいろ変わった。NHKBS1の各種の国際ニュース番組は、国際情勢を見る上で必須のツール。

 時間はスポーツなどで変わることがあるけれど(←やめてほしいです。ニュース・チャンネルとスポーツ・チャンネルは分けてください、NHKさん。特に、オリンピックやワールドカップがある期間には国際ニュース番組がぐっと減るというのは困ります。まさにその陰で毎回世界で大事件が起こっているじゃないですか)、私が特に重視しているのは以下の番組。

「ワールドニュース」(朝6:00~6:50)
「キャッチ!世界の視点」(朝7:00~7:50)
「ワールドニュース・アジア」(午後2:30~2:50)

 これだけのために受信料を払っても安くない、というか個人的にはこれだけのために払っているとすら思っている。それに加えれば深夜12時からのBS世界のドキュメンタリー

 これらの番組を知っている人たちには、「嫌味だな」と言われるかもしれませんね。だって全部翻訳番組で、NHK自身が作ったものではないから。

 もちろんNスぺとかクローズアップ現代とかも見ますよ。たまにはね。

 でも、もしこれから国際関係を勉強したい、中東を勉強したいという人がここを読んでいたら、まずハードディスク・レコーダーを買ってBS1の国際ニュース番組とBS世界のドキュメンタリーを毎日自動録画しておきましょう、とお勧めする。最近はハードディスクが増設できるものが多いので、そういった機種がいい。投資効率が最も良い。ユーチューブなどを見れば、外国の映像はいくらでもあるように感じられるかもしれないが、しょせん無料のものは無料に過ぎない。

 始めるなら、早ければ早いほどいい。

 ドキュメンタリーは外国から権利を買ってきているから、良いものが厳選されている。それらが多くは一回しか放送されない。あるいは再放送がせいぜい一回だけ。いくつかしょっちゅう再放送されているものもあるけど、一般受けするだけであまり重要なものとは思えない。

 国際ニュース番組の方は、これがまた良い意味で日本的。こんな番組は日本にしかないと思う。

 どう特異かというと、各国の主要なニュース局の定時ニュースをダイジェストして、短い時間に詰め込んでいる。朝6時からの「ワールドニュース」の場合、フランス、アラブ、ロシア、イギリス、アメリカ、中国から6局が選ばれている(他の時間帯にはドイツやスペインや韓国が、曜日によっては香港やインドなども入っている)。

 日本の「箱庭」的ダイジェスト文化の極致と言えるだろうか。よその国のチャンネルを毎日きちょうめんに整理して一つの番組を作って放送しているって、日本にしかないと思う。

 イギリスやアラブ諸国などでは各国の新聞の1面を紹介する番組が朝にあるけれども、それともちょっと違う。活字の記事をテレビで紹介する時には、あくまでも主役は記事についてコメントするスタジオのキャスターやゲストだ。

 しかしBS1の国際ニュース番組では、特に「ワールドニュース」「ワールドニュース・アジア」では、スタジオは出てこないで、番組冒頭からいきなり各国のニュース局の定時ニュースの抜粋が始まってしまう。

 「キャッチ!世界の視点」の方は、「ワールドニュース」で使われたニュースをさらに切り取って、日本のスタジオの要約・解説が入る。最初は補助輪のように、要約・解説があった方が分かりやすいかもしれないが、より生のニュースに近い「ワールドニュース」の方が、長期的には得るものが大きいのではないかと思う。

 1局あたりは10分にも満たないのだから、1日見ただけでは大したものに感じられないかもしれない。しかし毎日10分を大学4年間見続ければ、ものすごい蓄積になる。もちろん毎朝この時間に起きて見られないこともあるだろう。だから録画しておく。興味を持てないニュースは早送りすればいい。私の場合、50分の番組を早送りやスキップを使って20分ぐらいで見ている。

 また、いろいろ諸事情があってニュースなど見る気がなくなってしまったり旅行に行ったりして、何日も、あるいは何週間も間が空いてしまったとしても、ハードディスクにためておいてまとめて見ると追いつける。

 実は、毎日見るよりもまとめて見た方が効果的かもしれないとすら思っている。例えばアル=ジャジーラの朝の10分弱だけを、1か月分まとめて見ても、3時間ぐらいあれば見られるだろう。その3時間で、1か月の中東の動きが、個々の断片的なニュースの「点」を結んだ「線」のように見えてくる。さらに「ワールドニュース・アジア」でのアル=ジャジーラの毎日5分を足せば、「線」がもっと滑らかになる。

 なお、ニュース番組は、画質なんて落として録画してかまわない。そもそも外国から転送されてくる映像の中には、データ形式を変えたり圧縮したり解凍したりしているうちに画質が悪くなっているものがある(アル=ジャジーラなど)。だから画質を落として録画しても、もはやほとんど変わらない。10倍以上にしても、アル=ジャジーラの字幕はちゃんと読めます。

 いちおうレコーダーの設定を確認して、二重音声で副音声がちゃんと残って録画されることを確認したほうがいい。英語やフランス語の勉強にも最適。もちろんアラビア語にも。

 3月末までは「ワールドWave」「ワールドWave Morning」「ワールドWaveアジア」と呼ばれていた番組が、「ワールドニュース」「ワールドニュース・アジア」「キャッチ!世界の視点」にそれぞれ変わったようだが、「ワールドニュース」「ワールドニュース・アジア」の方は、内容はそれまでと全く変わらない。アナウンサーも変わっていない。「キャッチ!世界の視点」も、キャスターは入れ替わったけれども、「ワールドWave Morning」と基本的な趣旨は同じだと思う。

 なお、上の一覧では挙げなかったが、夜の10時からの国際ニュース番組は、3月までの「ワールドWave Tonight」から「国際報道2014」になった。

 内容が一番変わったのはこれではないか。「Tonight」の方は、基本は他の「ワールドWave~」と同じ海外放送局の映像を用いて、その上で記者の解説や日本の専門家の解説が入るというものだった(私も何度か解説で出たことがあります)。

 それが、新番組の「国際報道2014」では、NHKの撮ってきた映像をより多く使い、NHKの方で組み立てたニュースを中心に報じようとしているようだ。そして、コンセプトとして最も重要な変化は、国際ニュースを「日本」が絡むものを中心に取り上げようとしているところだ。

 国際ニュース番組を「日本」に引きつけて構成することには、良し悪しがある。日本と関係している国際問題を取り上げる、あるいは日本の視点から国際問題を見るということは悪いことではない。むしろこれまでのNHKBS1の国際ニュース番組がすべて(夜の「ワールドWave Tonight」を含めて)、日本と切り離されたものとして国際ニュースを扱ってきたことの方が「異常」と言おうとすれば言える。

 しかし、「日本」に引きつけることで、下手をすると陥ってしまいかねない罠がある。第一に、「日本の視聴者の抱いている(と番組制作者が想像する)、ズレた視点でニュースを選択し、解釈し」てしまいかねないこと。地上波の各局ニュース番組の中東報道などはほぼ確実にこの種のものなので、私は「中東分析」の情報源としては一切見ていない。「日本での(中東に関する)論調」を調べるという目的のためにたまには見ますが、ほんのたま~に、どうしても必要を感じた時だけです。

 第二に、さらに問題なのは、日本が絡んだ国際問題(中国とか韓国とかアメリカとか)を、NHKの記者やキャスターが本当に日本の政治的思惑から中立的に、批判的に報じられるかということ。それができないならば、「日本に引きつける」という新コンセプトの新番組は、せっかくの数少ないお金を出してまで見る価値のあるBS1の国際ニュース番組から時間を奪う効果しかなくなる。

 変に方々に「配慮」して意味不明にたわめた解説や編集を施して、元々のニュース映像の意味するところをぼかしたり、単に勘違いして解説したりするよりは、各国のニュースをそのまま流してほしい。各国の報道機関の生のニュース映像から伝わってくるものは、インテリジェンスの情報源の基本中の基本で、最も価値があるものだ。

 外交や通商貿易や情報に携わる官庁や、あるいは巨大企業でもなければ取りまとめることのできないような各国情報を、主要放送局の定時ニュースのダイジェストというやや簡便な形だけど、受信料を払うだけで国民全員が見られるというのは、日本にいて数少ない国際情報上の特権だ。

 外務省が各国大使館から集めてくる「公電」だって、もちろん中には外交官が特殊なコネクションを使って足で集めてきたものもあるけれども、数からすれば圧倒的多数は新聞の切り抜きやニュース報道のダイジェストだ。そういう公開情報を定点観測・定時観測する地味な作業によってインテリジェンス情報は形成されるのであって、007みたいな捕り物をして取ってくる情報なんてめったにないし、ろくなもんじゃない。

 なんでここまで「ワールドWave」→「ワールドニュース」に熱く肩入れするかというと、そもそも私はテレビがない家に育ったので、就職して家を出るまでこの番組を見ていなかった。

 「テレビがなければ、ネットでみればいいじゃん」というのはマリー・アントワネットのような話で、当時はインターネットはございませんでした。念のため。

 小学生ぐらいからこれが家で毎日流れていたら、よっぽど「国際人」(最近なら「グローバル人材」か)になれたと思う。これから勉強する人(若い人も、もうそう若くない人も)に、日本国内にだけ毎日流されている、こんな良質の情報の宝庫を見逃してほしくない。

 もちろん私自身は、大学に入って中東を研究するようになってから、現地語で独自の高度な資料を扱うようになった。ニュースにしても、これらの番組で流しているものの数十倍を毎日処理している。けれども、それは自分の関心に沿って掘り下げて集めたもので、抜け落ちる部分も多い。毎日欠かさず定時にニュースを録画してダイジェストして翻訳までつけるというのは、個人にはできない。

 中東の政治や社会の流れを見る時に、自分の趣味嗜好で集めた情報ではなく、定時ニュースを機械的にダイジェストしてくれた「ワールドニュース」の録画をまとめて見るという作業は、どっちかの方向に偏りかけた頭をチューニングするような効果がある。

 「国際報道2014」のコンセプトが悪いと言っているのではない。むしろ必然的な変化だろう。つい5年前ぐらいまでは、外国の放送局が報じる国際情勢と、日本社会で関心を持って見られる政治・国際問題の間には、確かに乖離があった。そこで、地上波のNHKニュースでは日本社会向けのきわめて狭く切り取られた「世界の話題」を流し、BS1ではそれと隔絶した「外の世界」で流通するニュースをそのまま流すという「分業」が成り立ち、またそれがある程度現実に適合していたのだと思う。

 いわば「ガラパゴスとその外」に、現実に距離があった。日本は国際政治にあまり影響を与えなかったし、国際政治の動きが日本の政治や社会に目に見える直接的な形で影響を与えることは少なかった。

 その前提は変わってきたと思う。アメリカやイギリスや中国や韓国のニュース番組の中に、日本がより頻繁に、それも経済や文化ではなく政治的な問題として報じられるようになってきたのだ。

 実は、NHKBS1の少し前の国際ニュース番組に携わっていた人に、聞いたことがある。その人は「この番組はやりがいがある。NHKでは考えられないぐらい自由にできる。ニュースの内容が日本に関係ない限りは、好きなだけ高度な内容、真実を追求できる」といったことをやや屈折した言い方ながら肯定的に述懐してくれた。

 皮肉な話で、特派員経験のある記者にとって、地上波で多くの視聴者に向けて報じようとすると、多大な制約が課せられる。BSでは、報じたい国際ニュースを、「日本と関係ないものであれば」自由に報じたいように報じられた。

 しかし日本がより深く国際情勢に組み込まれていく中で、国際ニュースと国内ニュースの画然とした住み分けは、もう不可能になったのかもしれない。

 その意味では、今後もBS1が図らずも提供してくれている貴重なインテリジェンス情報を利用しつつ、「国際報道2014」の、日本と不可分のものとしての国際ニュースの報道という新たな試みに期待したいものだ。

 くれぐれも、「中国の一方的な主張・宣伝を日本のNHKが流すなんてけしからん」とクレームをつける見当はずれな代議士の圧力などに負けないようにしてほしい。隣国の国営放送の傍受・解析はインテリジェンスの基本で、それを国民全員がやろうと思えばやれる状態になっているなんて、すごいことなのにね。

「危機の震源」がだんだん近づいてきますね

 ウクライナ危機の陰で進んでいた、台湾の学生を中心とした、台中サービス貿易協定締結強行に反対する、反政府抗議行動の高まり

 思考実験として、そして将来への現実的な備えとして考えておかなければならないのは、もしこの抗議行動が激化して、一部に武装集団なども現れ、大規模な騒乱状態になった場合、あるいは馬英九政権が倒れるような事態になった場合、どうなるか、ということ。
 
 中国との貿易協定で「中国の植民地になる」と危機意識を高めた国民の反政府運動の盛り上がりで政権が倒れたり紛争になって、中国がこれを機会に軍事侵攻をしたらどうなるだろうか。

 ついでに想像するならば、ロシアがクリミアでやったように、ワッペンを外した大量の軍人を送り込んで、制圧した上で「中国本土との一体化を求める住民投票」を行わせて「圧倒的多数が支持」したら?それに反する多数の台湾人が反対運動を続けて、日本や、米国に助けを求めてきたら?

 ウクライナでの危機と同様の事態が、一気に、日本を主要な当事者として、生じることになります。

 日本は何もしない、ということでいいのでしょうか?あるいはアメリカに「何かしろ」と要求するだけなのでしょうか。
 
 さらに、もしアメリカが何かすると、今度は「不当な介入だ」と言う人がまた出てくるのでしょうか。たぶん出てくるでしょうが、より近傍の核・軍事大国がもっと手荒なことをしても批判しないのだったら、そういう議論はついに説得力を失うでしょう。

 2013年にはシリア問題やイラン問題で、あるいはエジプトやトルコやイラクでも、冷戦後の世界政治の一極支配の中心だったアメリカの限界が露見した。

 2014年の各地の動きは、その後の世界秩序の再編をめぐる大きな動きが現れていると言っていい。少なくとも、そのようなものとして解釈され、新たな将来像が見通されていくだろう。

 中東で先駆けて生じた変化が、まずウクライナに転移した。その次はどこに出るかわからないけれども、もしかすると、台湾に波及するかもしれない。まだその可能性は低いけれども。

 実際に、国際的な論調では、ウクライナ問題をめぐる米露関係は、ほとんど常に、シリア問題やイラン問題を踏まえて、あるいはそれらと絡めて、論じられ、東アジアへの波及は含意が取り沙汰される。

 ウクライナとか台湾とか、専門でない分野についてあれこれ語る気はないのだけれども、それら全体を通底する問題、認識枠組みや概念については、中東を見るという作業と不可分である。そのため、このブログでもウクライナ問題について何度も取り上げたように、各地の事象に常に注目して検討している。

 私にとっての「中東を見る」ということはそのようなグローバルな視野で各地の動きを見ることと一体。

 中東を中心に、国際情勢の分析をするようになったのは、依頼を受けて書くようになってからだ。

「中東 危機の震源を読む」という連載タイトルで中東情勢の定点観測をし始めたのが2004年の暮れ。第一回はこんなんでした。「イラクの歩みを報じるアラビーヤの登場」《中東 危機の震源を読む(1)》『フォーサイト』2005年1月号

 連載の前半は本になっている。

 中東 危機の震源を読む
『中東 危機の震源を読む(新潮選書)』

 かなり分厚くなった。ほぼ中東全域をカバーして、時々フィリピン・ミンダナオなどのイスラーム世界や、欧米のムスリム移民の問題、米国の中東政策なども取り上げている。2011年の変化に至る様々な予兆なども、結構とらえていたと思います、今読むと。

 今やっている現状分析は大部分、この本に収められている毎月の分析を書く中で身に着けた感覚・能力・手法をベースにしている。

 「中東 危機の震源を読む」の連載そのものは、『フォーサイト』がウェブ化されてからも続いて、今88回になっている。それ以外に、ブログの「中東の部屋」にも2011年9月から書くようになって、そこではインターネット時代の国際政治の急速な変化に即応して、早期の情報発信を試みてきた。月刊誌というメディアには、国際政治を素材とするためには明らかに限界がある。ただし、混沌としてきた国際情勢の中長期的な見通しを示すには、月刊誌という媒体の方がウェブよりも有効ではないかとも思うけれども。

 『フォーサイト』が紙媒体の月刊誌だった時、毎月一回、印刷と発送から逆算して締切日があって、それに縛られている、というのは、かなりの制約というか苦痛だった。

 分からないことを、分からないうちに書かなければならない。自分で締め切りを設定できるなら、これはという確信が持てるぐらい情報が集まったり分析が進んでから書きますよね。ただし待ちすぎると、結論に確信を持てた頃にはもう情報は陳腐化していて、分析の必要がなくなっている。実際、『フォーサイト』がウェブ化されて、必ずしも月一回というペースで書かなくてよくなると、これがなかなか書かなくなるんですねー。

 それもあってより気軽に書けるブログの「中東の部屋」も引き受けたのだった。

 連載なので、テーマはほぼ自分で設定できる。企業や官庁のアナリストでは、求められるテーマについて分析することも多いだろう。それに比べると制約は少ない。ただし、そもそも何が問題なのか自分で発見して提示するというのはかなり大変。テーマを与えられた方が楽と言えば楽。

 中東研究は大学・大学院でやってきたけれども、東大に中東現代政治についての体系だった授業があったわけでもない。強いて言えば、半年だけ、放送大学の高橋和夫先生が非常勤で来ていた授業があった。米国の中東政策を軸として、イラン・イラクを中心としたペルシア湾岸の地域政治を含めた、中東国際政治の授業だった。非常によく整理された計算されて考え抜かれた、東大では受けたことがなかったタイプの授業だった。今でもよく覚えています。

 それ以外の授業は現代でも社会経済史とか、それ以外は中世文学とかしか、中東地域に関する授業はなかった。

 ですので中東政治の情勢分析について公式的な形で、体系的に訓練を受けたわけではなく、依頼を受けて毎月やっているうちに、そこそこできるようになってきた、というオン・ザ・ジョブ・トレーニングの結果です。

 9・11事件を受けて、グローバルなイスラーム主義の政治運動の動きについて、理論・思想を踏まえながらある程度現状分析をするというタイプの文章をいくつか書いた。「社会思想」の枠で幅広く各国の社会・政治を見ていたので、各国の現状分析にそれなりに適応する素地はあった。そういった観点から単発でいくつか書いた現状分析を見て『フォーサイト』編集部が、イスラーム教やイスラーム主義に限らない中東情勢分析全般にわたる連載を依頼してくれた。

 その時、連載のタイトルをいろいろ考えたのだけれども、中東の特性と、私の方向性・適正から、自然に「中東 危機の震源を読む」に落ち着いた。

 それは、中東を見ることは単に遠い特定の世界の分析をすることに限定されない、と思っていたからだ。中東を見ることは、やがては日本にも重要な影響を及ぼすような事象が生じるのを、いち早く目撃するということ。

 世界政治を動揺させるような変化の先駆けは往々にして中東で先駆けて起る。あるいは、中東で起った事象の影響が波及して世界に及ぶ。

 直接的には、中東から「イスラーム世界」というつながりで南アジア・東南アジアに向けて影響力が及んだり、「欧米VS非欧米」という対立の最前線である中東での動きが世界各地の非欧米諸国での動きを誘発したりするけれども、間接的にも、世界全体の趨勢を中東が最も早く反映して変化が現れる、ということがよくある。

 「中東が好きだから」中東をやっているわけではない私としては(まあ好きではありますけど。楽しい世界ですよ)、中東の定点観測は、単に遠いエキゾチックな世界の出来事を伝えるだけでなく、やがてそれが我々の世界に

 「ホルムズ海峡が閉鎖されたら日本の石油はどうなる」といった、それ自体重要ではあるが、中東の重要性はそれには限られないことを、ことさらに、中東研究の重要性や(あるいは「自分の」重要性・・・)を宣伝するために強調して煽る手法が出回っているけれども、私はそういったことには興味がない。

 中東の動きを大枠から微細なところまで見続けていると、われわれの生活に身近で根底的なところから影響を及ぼすような変化が先立って見えてくる。その面白さをこれからも示していたい。

 年度初めにちょっと考えたことでした。

 在庫の棚卸し&整理に戻ります。

【寄稿】(高木徹氏と)「『日中関係の悪化』から考える国際世論を味方に付ける方法」

気が付いたらプロ野球が始まっており、桜が咲きかけていました。今日の風でもまだ大丈夫そうですね。

先日書いた(「日本と国際メディア情報戦」3月1日)、高木徹さんとの対談が『クーリエ・ジャポン』に掲載されました。

特集「世界が見たNippon Special 日本はなぜ「誤解」されるのか」の中での「特別対談」という枠です。

池内恵×高木徹「『日中関係の悪化』から考える国際世論を味方につける方法」『Courrier Japon クーリエ・ジャポン』Vol. 114, 2014年5月号、86-89頁

高木徹さんとは三度目の対談になります。

二人とも2002年に最初の本を講談社から出した、というところがたぶん一つの原因で最初の対談は講談社のPR誌『本』で2003年に行いました。

その時と比べると、国際情勢も、日本の立場も変わりましたね…

高木徹さんが最初の本から一貫して議論してきた「国際メディア情報戦」の重要性・必要性が、やっと国政レベルで議論されるようになりました。

数年に一度、高木さんとの対談や、文庫版解説、新刊書評などのご依頼を受け、「定点観測」をしているような具合です。

2003年の対談のファイルをもらってきたので、今度ブログに載せようかと思います(許可もらっています)。

王柯先生の著作


王柯『東トルキスタン共和国研究―中国のイスラムと民族問題』東京大学出版会、1995年

今日は東大出版会の本の紹介が重なりました。

無事のご帰還を祈ります。

先日は、楊海英『モンゴルとイスラーム的中国』(文春学藝ライブラリー)、2014年2月刊、をご紹介しましたが(「モンゴルとイスラーム的中国」2月19日)、いずれも日本留学で学者となった先生方です。

日本の学界は、適切に運営・支援が行われれば(←ここ重要)、中国に極めて近くに位置して情報を密接に取り込みながら、自由に議論し、客観視できるという強みがあり、欧米へのアドバンテージを得られます。

中国に最も近いところにいる自由世界の橋頭保として日本は輝いていたいものです。

ウクライナ問題(7)沿ドニエストルでもロシア編入への動き?

プーチン大統領は上下両院や連邦政府高官を集めた演説で、クリミア編入への法的措置を取るよう指示を出したとのことなので、やはり本日(18日)未明に載せたエントリ「ウクライナ問題(6)クリミアの次は沿ドニエストル(モルドバ)に注目」の分類での(1)だったようです。

また、このエントリでは、今のところモルドバ(沿ドニエストル Transnistria; Trans-Dniester)は平穏、と書いておきましたが、沿ドニエストルでもロシアへの編入を求める動きが表面化しているようです。

“Moldova’s Trans-Dniester region pleads to join Russia,” BBC News, 18 March 2014 10:38GMT.

 Irina Kubanskikh, spokeswoman for the Trans-Dniester parliament, told Itar-Tass news agency that the region’s public bodies had “appealed to the Russian Federation leadership to examine the possibility of extending to Trans-Dniester the legislation, currently under discussion in the State Duma, on granting Russian citizenship and admitting new subjects into Russia”.

A pro-Kremlin party, A Just Russia, has drafted legislation to make it easier for new territories to join Russia. The party told the Vedomosti newspaper that the text was now being revised, in order not to delay the rapid accession of Crimea to Russia.

 ロシアの姿勢の正統性を演出するための側面からの陽動作戦なのか、あるいは以前からもある話を、西欧側がロシアの脅威を感じて敏感に取り挙げているだけなのか。私はこの地域が専門ではないのでよく分かりません。

 そもそもウクライナを背後から揺るがす工作の一環かもしれません。ウクライナ側は、沿ドニエストルでロシアが活動家(工作員?)を募集してウクライナのオデッサに送り込んで攪乱工作をしている、といった主張をアル=ジャジーラに対して行っているようです。

汎アラブ・メディアやトルコ系メディアはこの問題を欧米からともロシアからともちょっと違った横からの、しかし非常に近いところにいる視点で見ている様子があって、興味深いものです。

“Europe fears pro-Russian referendums after Crimea,” World Bulletin, 14 March 2014.

ウクライナ問題(6)クリミアの次は沿ドニエストル(モルドバ)に注目

 お昼休みにウクライナ情勢チェック。当面はクリミアの帰属に焦点が当たっている。
 
 3月11日にクリミア自治共和国議会で独立宣言採択。
 3月16日の国民投票でウクライナからの分離・独立及びロシアへの編入の承認。
 3月17日にロシア・プーチン大統領がクリミアを独立国として承認する大統領令に署名。←今ここ。

 今日(3月18日)夜にはプーチンが上下両院の議員や連邦政府幹部らが出席する連邦会議でクリミア問題について演説するという。

 この演説の内容が、次のどれになるかが、近い将来の展開を分けそうです。

(1)クリミアの編入を行うと宣言し、そのための法的手続きの開始を命じる。
(2)クリミアの独立を称賛、援助を惜しまないと宣言。

 (2)であれば、編入カードを残したまま欧米との交渉の余地を残す意図を示した、宥和的なものとして欧米側では受け止められるだろう。(1)だと当分の間制裁合戦などで国際政治経済が荒れそうですね。ロシアはメディアを使ってかなり盛り上げてしまっているので、「編入してください」という決議・国民投票が曲りなりにもあるのに、プーチンは「まあ待て」と言えるのかどうか。

 日本は頭を低くしているしかないですが、経済制裁に追随する必要はあり、制裁への報復だとか言って日本企業の資産が凍結や接収されたりすると困ります。

 合弁企業で日本の持ち分が凍結された上に、働くだけ働かされ続けたりして。

 さて、その次はどうなるか、ロシア専門家やウクライナ専門家【~日本にもいらっしゃいます~】【クリミア半島奪取でロシアの得た勘定と失った感情】の議論をいろいろ読んでみている。
 
 クリミアにワッペン外した軍を送り込んで制圧、というロシアの行動はいかにも荒っぽくてお友達になりたくない感じがするが、しかし欧米も国際法・秩序の原則に挑戦するものとして批判はしても、実際に実力行使でクリミアからロシアの影響力を排除するとは思えない。

 ロシアによるクリミアの国家承認に限定するのであれば、欧米側はクリミアを承認しないと言い続け、当分の間制裁をしつつ、やがては現状黙認、となってしまいそうだ。編入の場合は当分の間比喩的には「冷戦」的な激しい言葉のやり取りと制裁合戦による関係冷却化が続くだろうけど、「もともとロシアのものだったんだし」というところもある。

 ただ、これがロシアの拡張主義の第一歩で、今後、ソ連だのロシア帝国だのの再興を目指していく、ということになると西欧諸国は黙っていられないだろう。
 
 そうなるとロシアの「クリミア後」に何をしたいのか、意図を探るのが、次の段階の展開を見通すのに不可欠だ。クリミア併合は一回きりの現象で、周辺諸国には影響を与えないのか。それともロシアはこれを皮切りにどんどんせり出してくるのか。

 もちろん「東部ウクライナへの侵攻」なんてことがあれば意図は明白だし混乱は計り知れないが、たぶんそんなことしないでしょう。

 クリミアを承認するだけでなく編入し、さらに、他のロシア系列の「非承認国家」を編入していく動きが始まるのであれば、欧米は最高度の警戒態勢に入り、文字通り「新冷戦」が始まることになってしまうかもしれない。

 現在の段階(独立宣言、ロシアだけが承認)のクリミアと同様の国は、グルジアから独立を宣言してロシア軍の軍事力で維持されていて実質上はロシアだけが承認しているアブハジア、南オセチアがあり、モルドバから実質上独立しロシア軍が駐留しているがロシアは公式には承認していない沿ドニエストル(英語ではTransnistria)がある。

 特に、ウクライナと隣接するモルドバの沿ドニエストルについて、ロシアが公式に承認する、さらに編入する、といった動きがあるのであれば、クリミア後の次の一歩ということになり重大な意味を持つ。その動きがないのであれば、当面は、事態はクリミアに限定されるとみていいのではないのか。

 現状ではモルドバ(沿ドニエストル)情勢は変化なし、だそうです。

 以上は黒海沿岸諸国の専門家トマス・ド・ワールさんの下記の分析を読んでまとめてみたものです。専門家って大事ですね。

Thomas de Waal “Watching Moldova,” Eurasia Outook, Carnegie Moscow Center, March 12, 2014.

ウクライナ問題(3)クリミア編入が許されるなら東アジアでは・・・

ウクライナ危機について、素人の私をかなり納得させてくれているのが、ジャーナリストの国末憲人さんが『フォーサイト』に書いている一連の分析。

国末憲人「軍事介入はロシアにとって「得」か「損」か」『フォーサイト』2014年3月4日ではかなり見通しがすっきりした(読者コメントのThe Sovereignさんの分析も非常に納得がいった)。でも有料か。

もしロシアが現実的・合理的に行動していると仮定するならば、クリミアはしっかり押さえて、自治を拡大させてロシアの支配下に引き入れながら、ウクライナ東部には脅すだけで侵攻せず、ウクライナ政府に圧力をかけ続けて利益を得続ける、という戦略を採るだろう、という見通しを示してくれていた。現状はその方向に進んでいるのではないか。

この方、確かフランスを中心に、西欧のアル=カーイダなどについても書いていたような記憶があるけど、今は東欧にも強いのかな?

おそらく西欧では、昨年の早い時期からウクライナについてのロシアとの対立を非常に深刻に受け止めているという事情があって、それで東欧に目を向けていたのではないかと想像する。

最新版は無料公開のようです。

国末憲人「バルト諸国が抱く「ロシア系住民保護」への懸念」『フォーサイト』2014年3月10日

日本で考えるべき重要な論点を出してくれている。

ウクライナ危機は、日本にとっても深刻な問題。直接的に戦火が及ぶということはなさそうだからといって、他人事でいるのは、ものすごく見当はずれ。

クリミアでの状況は、「昔ロシア領だった」「ロシア人が住んでいる」「ロシア人がロシアへの帰属を望んでいる」「住民投票をしたらロシア領への編入を求める投票が多数だった(実質上の占領下の威圧の元で)」といった理由で、ある地域の帰属を変更していいのであれば、同じことが東アジアで起っても止められないということになる。

日本は近い将来も中長期的にもどう見ても、謎の武装集団を送り込む側ではなく、どちらかといえば送り込まれる側なのだから、こういった行為に対する国際法秩序の厳正化に、極めて高い国益を有するはずだ。

日本が「北方領土が帰ってくるかもしれないから」という甘い期待や下心によって、現在のロシアの行動を、明確な国際法秩序の侵害であると、原則論として非難しないのであれば、東アジアで同様なことが起こった時に、欧米は日本を支持してくれないだろう。

もちろん一方で、プーチン・ロシアを悪魔化せず、プーチンの死活的な国益への認識を理解し、プーチンの合理的判断・戦略性を分析して対処する必要はある。プーチンはウクライナ東部にむやみに軍事侵攻をしようとはしていないだろう。その意味で「世界大戦」に突入か、といった方向でむやみに騒ぐ必要はない。

だからといって冷静に黙っていればいいということではない。原則論で「ロシアが取った行動は国際法と秩序の原則から許されるものではない」という日本の意思・認識を示しておかなければならない。

「西欧はしょっちゅうダブルスタンダードを使う」「オバマ政権は掛け声だけ高くて実際には何もしない」といった不満や疑念は日本側にあるかもしれない。日本が理念を行ったところで誰が聞くのか、将来に役に立つのか、という限界は当然ある。

しかし何も言わなければ、日本はどちらかといえばロシア側の、欧米諸国とは価値観を共有しない国だと、実質的に依然として国際社会で最も有力な欧米諸国から、みなされてしまう可能性がある。日本はもともとハンディを負っているのだから、原則論はしつこいほどはっきりさせておく必要がある。

日本はかなり遠い将来まで、どちらかといえば、実力行使やその威嚇よりも理念で、自らを守らなければならない立場の国であるはずだ。

直接ロシアに喧嘩を売らなくてもいいが、理念だけは言っておかないといけないのだが、時機を逸してしまっているのではないかと危惧する。ロシアに説教する必要はないが、お題目はお題目として言う必要はあるだろう。

こういった時に「欧米はダブルスタンダードだ」と言ってシニカルな態度を取る人が必ず出てくるのだが、ダブルスタンダード論の大部分は、自らがダブルスタンダードに陥っている。

ロシア・プーチン政権は、エジプトでは軍事クーデタを支持しながらウクライナでは暫定政権は「クーデタだから認めない」とまるっきりのダブルスタンダードだが、「プーチンはダブルスタンダードだ」と批判する人はほとんどいない。これこそダブルスタンダードだろう。

なぜかというと、第一に、「ダブルスタンダード」を声高に叫ぶ人たちは単にアメリカや西欧にそれを言うことにしか興味がない人たちだからだ。

本当に的確な時に的確な相手に的確な方法で「ダブルスタンダード」を指摘してくれればいいのだが、実際には日本にとって不利になるような状況下で、的確に不利になるようなやり方でそれを言ってくれる人たちが、有力な人たちの中にすらいるので、本当に困る。

見当はずれの野党が言っている分には害はないのですがね。

第二に、プーチンがダブルスタンダードなことは「当たり前」であって、それをあえて言ってもウケないから、あまり言う人がいないのだろう。しかしウケることだけ言っていれば、言論はおかしくなり、変な政治判断を国民が行うことになりかねない。

現在の状況下で、日本がロシアと欧米とどちらに近いか、というと、やはり、人によっては悔しいのかもしれないが、欧米ですよね。

それともワッペン外した武装集団を送り込んで隣国を占領して銃を突き付けて国民投票をやらせる国の方に近いとでも?

それはそうと、これらの記事を書いている国末記者は、ウクライナ問題が急変するまさにその最中の2月20日からちょうど、ウクライナに隣接するモルドバの東部にある、ロシア系住民が分離とロシアへの編入を求めて中央政府の統治が及ばなくなっている「非承認国家」である「沿ドニエストル」に来ていたという。「「モザイク国家」ウクライナ「劇変」の深層」『フォーサイト』2014年2月25日

クリミアもまさに、ロシアの圧力の下で、沿ドニエストル的な「非承認国家」的な存在になることは確実だ。すごく的確な場所からレポートしている。

どこまでウクライナでの事態の展開を想定していたのかは知らないが、ボールが転がってきた時に(偶然)ゴール前にいることもジャーナリストの才能の一つなのだろう。

ウクライナ問題で問われているもの(2)米の対ロ経済制裁で日本は?~対イラン制裁も回想しつつ~

ウクライナ問題で、3月6日に、オバマ大統領は大統領令で対ロシア経済制裁の発動を命令

これは日本にとってどういう意味を持つか。

私としては、米国の対イラン経済制裁に対する日本の反応を思い起こす。

イラン制裁と言っても、歴史的には2回あって、1回目が1980年のもの。1979年11月のテヘラン米大使館人質事件に対して、米国がイランに課した経済制裁に、日本や西欧諸国が追随した。日本政府は具体的には、1980年5月26日に公布され6月2日に施行された「輸出貿易管理令等の一部を改正する政令」というものでこの制裁を実施しています。

安保理決議はソ連などの反対で出なかったので、米国が主導した有志国による制裁に日本も加わった形でした。翌年に人質が解放されると、日本は即座に経済制裁を解除しています。

2回目は現在も続く、核開発疑惑をめぐるもので、2006年の安保理決議に根拠づけられているが、米国はそれ以上を求め、実際に自ら独自の制裁を課し、日本や西欧諸国、さらには韓国などにも強く追随を求めてきました。オバマ政権期には、米国が中心となる世界の金融システムからイランを排除するだけでなく、イランと取引を行った各国企業もまた排除する、という極めて厳しいものとなったわけです。これがイランの立場を変えさせ、昨年の米国への歩み寄りに結びついた、とオバマ政権は自賛しています。今後どうなるかは予断を許しませんが。

私自身は、古い方の、もう終わった方の、1980年の対イラン経済制裁について研究を進めている。先月、とある研究所のプロジェクトで、この問題についての論文予稿を提出し、報告会で発表して、今修正執筆中。近いうちに刊行されます。

報告会でも、「イスラーム思想史や現代アラブ研究をやっているのになぜこのテーマに?」と、聞かれた。

いろいろ偶然もあるのだが、根本的には、日本と中東との関係を見るには、単に現地の思想や政治を知っているという立場からは有意義な問題設定は出来ず、日本側の主要関心事とそれにまつわる活動を踏まえなければならないと思っている。

「日本外交は油乞い外交だ」と中東専門家は批判しがちだが、それは一面で事実だとしても、では油乞い外交には学問的な対象としての意味はないのか?油乞い外交以外の外交をせよ、というのは、往々にして単に「反米になれ」と言っているに過ぎない場合が多い。ではアラブ諸国やイランなどの産油国が反米なのかというと、そうである場合もあるがそうでない場合も多い(そちらの方が圧倒的に多い)。反米になったからといって、「油乞い外交」をしないですむという根拠はまったくない。それどころか米との同盟関係に依存する産油国は日本の足元を見たり距離を置いたりするだろうし、米国への敵対国すら、日本に接近する動機をなくして、冷たくなるだろう。米側陣営を切り崩したい⇒一番切り崩せそうな日本、という想定から日本に接近する訳で、「イランは親日だ」といった外交トークに手もなく転がされている中東論者は、無知なのかあるいは何か意図がある。

油乞い外交にはそれなりの意味があるし、そこに関係して日本の外交だけでなく内政も影響を受けてきた。日本と中東の関係史は、「油乞い」が中心であったという現実に基づいて検討されなければならない。「油乞いがいかん」と主張するのはその後でもいいはずだ。

こういった関心から、日本政治史やイランの外交政策や日米関係史といった、専門ではない不得意な分野にまたがる課題に挑戦している。その際には「資源外交」という大枠を立て、資源外交に関連したり影響を与えたりしてくる事象を幅広く取り上げている。

対イラン経済制裁、というのは資源外交という日本側の対中東外交の主要課題・関心事に、また別の外交・安全保障上の課題が障害となる事例として興味深い。

そして、今回の対ロ経済制裁も、本格化すれば、日米関係と、領土問題および資源外交上重要なロシアとの関係の相克という難題を日本外交に突き付けることになる。

日本による経済制裁という課題は、これまで国際関係論の大きな議論の対象にはなっていなかった気がする(私が知らないだけかもしれませんが)。

その理由は、おそらく、

(1)日本そのものが主導して経済制裁を行った事例が少ないこと(唯一、北朝鮮に対してはある面ではそういうこともあるかもしれません)。

(2)日本が加わってきた経済制裁は、国連安保理決議などに支えられていて、ほとんど議論の余地なく国際社会の多数の意見に従ってきたため、特に日本の立場を論じる意味がなかったこと。

(3)国連安保理決議がない場合も、その多くは米国主導の制裁で、多くの西欧諸国・西側先進国もまた同調していたものに限られること。端的には、経済制裁という言い方はあまりしないかもしれませんが、冷戦期に東側陣営に対して行ってきた貿易制限など、「敵」がはっきりしていた。米国と日本の共通の「敵」に対する制裁であったので、日本側の独自性や主導制はあまりなかった。

もちろん細部では日米間や、西欧諸国との間に、立場の相違や齟齬は常にあったでしょう。対ミャンマー経済制裁などは、あまり積極的に支持していたとはいえない日本の立場は、イギリスなどからかなり嫌がられて非難されていたものでした。

しかし多くの場合は日本が経済制裁に参加するということと、日本の外交・安全保障上の基本的立場にほとんど齟齬はなかったものと思います。

その例外が対イランでした。

それはイランの冷戦時代の特殊な立場と、日本のイランに対する外交姿勢の、外交政策全体の中での特殊性に関係しています。

イランは1979年のイラン革命までは明確に「西側陣営」で、革命後も独自の「イスラーム陣営」に属したものの、東側に移ったわけではありませんでした。

革命後のイランが「西洋」に対して表面上・レトリック上、厳しい、時に敵対的な姿勢を取ったことは確かですが、経済的には引き続き西側陣営との貿易を続け、決定的に断絶することはありませんでした。

その中で、特に日本は、西側諸国の中でもイランの原油に多くを依存してきました。

そのイランが、米国に対しては政治的に特別の敵対姿勢を鮮明にし、テヘラン大使館人質事件で決定的に関係を悪化させ、修復せずに現在まできた。

それによって、日本が維持したい対イラン関係と、日米関係がバッティングする構図が続いています。

なんとかだましだまし行ければいいのだけれども、「立場をはっきりせよ」と双方から言われるような状況が一番困るのです。

「経済制裁」は、「戦争」を除けば、もっともこの「立場の鮮明化」を求められる事態です。対イラン経済制裁は、日本の資源外交、そして資源エネルギー政策を大きく揺るがしかねないものです。

日米関係において、経済制裁への対応が日米関係を緊張させた事例の多くは、対イラン経済制裁であったのではないかと思います。

しかし冷戦終結後は、構図が変わってきて、イランは特殊事例ではなくなってきた。その筆頭はロシア。

ロシアも、その政治体制や統治の手法、国際関係のやり方は別にして、冷戦後は経済的には日本や米国と同じ陣営に来ているわけです。

日本はロシアとの経済関係を独自に深め、そして領土問題も解決したい。

それなのに米国が対ロ経済制裁に踏み切るとなると、日本の立場は苦しくなる。

冷戦終結後は、米ロの関係がそこまで悪化するなどという事態は、想定外だったのです。

そういう意味では、対イラン経済制裁の過去の事例は、かつては「特殊事例」だったのですが、今では、対ロ経済制裁の事例などにも通じる、一般的・普遍的な意味を持つ前例としてとらえ直すことができるのではないか?と(研究上は)期待しています。

もちろん一市民としては、経済制裁の実施や拡大などという事態が生じる前に妥協の地点が見いだせればいい、と願っています。

政府関係者はもちろん、走り回っているでしょう。

1979年から80年にかけての、対イラン制裁をめぐって、米国とイランの板挟みになり、西欧諸国の動向を必死にリサーチしていた政府関係者の動きの詳細な資料を過去1年ほど読んでいたので、現在の動きもなんとなく想像できます。

安倍政権は米国の動きに完全には同調していないようですし、NSC谷内局長が近日中にロシアに派遣されるようです。【安倍首相の発言

米国とロシアの間で日本がどのような立場を見出すか、重大な局面と言えます。

(ウクライナ問題については、トルコからの視点なども含め、いろいろ考えたことを書いてみたいと思います。前回はこれ