この記事についてFacebookで書いたら結構流通しているようだ。
「容赦なき師弟対談——上野千鶴子×開沼博 上野千鶴子「『はじめての福島学』ってタイトルからしてひっかかるのよね」」
有料媒体の無料記事なので、炎上商法に協力して無防備な議論をしているのかと疑ってしまうが、ある意味で興味深いのでシェアしておいた。
この記事が目に入ったのは、来週号の『週刊エコノミスト』で取り上げられた本を書評しているから。
池内恵(いけうち さとし)が、中東情勢とイスラーム教やその思想について、日々少しずつ解説します。有用な情報源や、助けになる解説を見つけたらリンクを張って案内したり、これまでに書いてきた論文や著書の「さわり」の部分なども紹介したりしていきます。予想外に評判となってしまったFC2ブログ「中東・イスラーム学の風姿花伝(http://chutoislam.blog.fc2.com/)」からすべての項目を移行しました。過去の項目もここから全て読めます。経歴・所属等は本ブログのプロフィール(http://ikeuchisatoshi.com/profile/)からご覧ください。
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「容赦なき師弟対談——上野千鶴子×開沼博 上野千鶴子「『はじめての福島学』ってタイトルからしてひっかかるのよね」」
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連続講座のようになってきた。今回が第3回となるのか。
まず、日本では宗教を「こころ」の問題と捉えることで、イスラーム教の律法主義的な原則が捉えにくくなる。
それに対して、欧米のリベラル派は、リベラルな価値観が普遍的だと信じるあまり、「本当のイスラーム教はリベラルで、リベラルではないイスラーム教徒は何か間違っている、物質的原因によって強制されているのか、教育が足りない」と思ってしまう。さらには「イスラーム教がリベラルではないと分析する観察者はオリエンタリズムだ、イスラーモフォビアだ」と断定してしまって、現実に目を向けなくなる。
日本と欧米である種の論者がそれぞれ囚われているバイアスが、イスラーム教を見えにくくしている。
欧米では、自らの宗教改革の歴史を普遍的なものと捉え、世界に適用してしまうことで、イスラーム教徒が抱えている思想的課題が見えにくくなるという、もう一つ別のバイアスもある。
これについて指摘したのが、この論考。
Mehdi Hasan, “Why Islam doesn’t need a reformation,” The Guardian, 17 May 2015.
欧米では、「イスラーム国」の蛮行がイスラーム教の教義に基づいているという認識が出てきて、そこで「宗教改革をやれ」と問題化されるようになった。しかし、その際にイスラーム教でどのような宗教改革が必要なのかを理解せず、欧米の歴史をそのまま援用して論じてしまう。そこから、イスラーム世界にルターのような人物が出てきて、原典に立ち返り、教会権力と聖職者たちから解釈権を奪って宗教解釈を民主化すれば、テロも人権抑圧もなくなる、と安易に前提にしてしまう、というのがざっくりとまとめるとメフディ・ハサンがここで議論している内容だ。
イスラーム教のスンナ派では元々が聖職者によるヒエラルヒーや教会権威はない。ヨーロッパのプロテスタントが行った「純化」はすでにイスラーム教においては行われた。サウジアラビアはまさにそこから生まれた。
The truth is that Islam has already had its own reformation of sorts, in the sense of a stripping of cultural accretions and a process of supposed “purification”. And it didn’t produce a tolerant, pluralistic, multifaith utopia, a Scandinavia-on-the-Euphrates. Instead, it produced … the kingdom of Saudi Arabia.
異なる宗教には異なる歴史的経緯があり、教義の体系があるのだから、どこの宗教にも「ルター」が出てくるわけではないし、「ルター」が出て来れば宗教改革になるわけではない。むしろ、イスラーム世界にルターが現れるとすれば、それはまさに「イスラーム国」のバグダーディーのような言動をとるだろう、とも言うのである。
With apologies to Luther, if anyone wants to do the same to the religion of Islam today, it is Isis leader Abu Bakr al-Baghdadi, who claims to rape and pillage in the name of a “purer form” of Islam – and who isn’t, incidentally, a fan of the Jews either. Those who cry so simplistically, and not a little inanely, for an Islamic reformation, should be careful what they wish for.
ところが欧米では、イスラーム教徒を出自とする論者がルター風な宗教権威批判をすると、それこそが未来のイスラーム教解釈だと思い込んでもてはやされてしまい、現実を見失う、というのがこのコラムでの批判である。
これもまた頷けるところが多い議論だ。
昨日紹介したシャーディー・ハミードの論考でもこの点は触れられている。
The Muslim world, by comparison, has already experienced a weakening of the clerics, who, in being co-opted by newly independent states, fell into disrepute.
宗教権威が弱くなったことで、イスラーム主義者が台頭し、「イスラーム国」のような種類のものも現れてくる。
また、イスラーム世界に「ルター」に相当する人物を探すなら、それはサウジアラビアの厳格な宗教解釈を形作ったイブン・アブドルワッハーブだろう、と言う。
Some might argue that if anyone deserves the title of a Muslim Luther, it is Ibn Abdul Wahhab who, in the eyes of his critics, combined Luther’s puritanism with the German monk’s antipathy towards the Jews.
ルター的な宗教改革は現在のイスラーム世界で求められてもいないし、必要でもない。
もちろんある種の宗教改革は必要であるという。ムスリムは自らの伝統遺産の中から多元主義と寛容と相互尊重の理念を見出してこなければならない。
Don’t get me wrong. Reforms are of course needed across the crisis-ridden Muslim-majority world: political, socio-economic and, yes, religious too. Muslims need to rediscover their own heritage of pluralism, tolerance and mutual respect – embodied in, say, the Prophet’s letter to the monks of St Catherine’s monastery, or the “convivencia” (or co-existence) of medieval Muslim Spain.
不要なのは、非ムスリムあるいは離教ムスリムによる、非歴史的で反歴史的な改革要求であるという。
What they don’t need are lazy calls for an Islamic reformation from non-Muslims and ex-Muslims, the repetition of which merely illustrates how shallow and simplistic, how ahistorical and even anti-historical, some of the west’s leading commentators are on this issue.
私自身も『イスラーム国の衝撃』の中で、「宗教改革を必要とする時期にきているのではないか」という旨を簡潔に記しておいた。イスラーム教の固有の発展を踏まえた、現段階で必要な宗教改革とはどういうものなのか。私自身も議論を進めてみたいと思う。
昨日の「「こころ教」のガラパゴス」(2015年6月10日)が随分シェアされて、いいねが1100を超えている。イスラーム教の宗教規範について、日本の規範と対比させることで理解しやすくなった人もいるのではないか。
日本では「こころ」に特化した宗教認識が広がることで、それを「常識」「普遍」と受け止めてしまい、それに合わないイスラーム教が「宗教ではない」ように見えてしまったり、「真のイスラームはそんなものではない、もっとひとりひとりの『こころ』を大事にしたものであるはずだ」と強弁して中東の現実から目を閉ざしたりしてしまう。
これについては、読んだ人自身が思い当たるところがあったのではないだろうか。イスラーム教をなんとか知ろうとして手に取った本にそんなようなことが書いてあったりもしたはずだ。
少し構図は違うのだが、欧米でも固有の条件下で同様の障壁があり、認識や議論が阻害されている。欧米の議論は日本でそれを一知半解に受け売りする人たちによってさらに歪みを増幅させて、日本国内での知的権力構造の中で移入され拡散されるので、新たな誤解と障壁を生む。
「欧米のイスラーム理解は誤っている」という議論は多いが、実際にはそういった議論は、欧米のリベラル派の立場からイスラーム教の実際の信仰のあり方に目を閉ざし、欧米での議論を保守派・宗教右派批判という文脈で一方的に表象しているため、それ自体が政治的な意図やバイアスを大いに含み、誤解を生んでいる。
欧米の議論の、本当の意味での制約やバイアスについては、「イスラーム国」をどう理解すればいいのか、という議論が湧き上がる中で、これまで躊躇していた人たちが、慎重に、あるいは思い切って、提起し始めている。
例えばこれ。
著者のシャーディー・ハミードは、「イスラーム国」の参加者たちは、宗教を「イデオロギーとして利用」しているのではなく、本当に信じているのだ、という点を、どうにか欧米の読者に理解させようとする。
In this most basic sense, religion—rather than what one might call ideology—matters. ISIS fighters are not only willing to die in a blaze of religious ecstasy; they welcome it, believing that they will be granted direct entry into heaven. It doesn’t particularly matter if this sounds absurd to most people. It’s what they believe.
これは「リベラル・バイアス」の問題だろう。いくつもある、欧米の主流派の議論が、善意のつもりで帰って中東の現実を見誤ってしまう原因の、一つである。これ以外にプロテスタント的な宗教改革をイスラーム世界に生じさせれば問題は解決すると信じるいわば「ルター・バイアス」や、宗教解釈を民主化して一般信徒が解釈できるようにして聖職者・教会権力の支配を解体すれば一般信徒は穏健な解釈をするようになる、という「民主化バイアス」もあると思われるが、これについては別のエントリで論じよう。
ハミードは、欧米の政治学者(ハミード自身を含む。彼はアラブ系だが欧米で教育を受けて欧米の研究機関に勤める、明らかに個人的信条としてはリベラルな人である)は、イスラーム教徒が非リベラルな宗教教義を自発的に信じていることを理解しがたいという。宗教やイデオロギーやアイデンティティを、物質的な要因によって引き起こされるものだと捉えるように、欧米の政治学者は教育・訓練される。これは、政治学者だけでなく、合理的・個人主義的で世俗主義的な世界観を持つ欧米の一般的な人、その中でも特に知識階層に共通すると言ってもいいだろう。それが、「イスラーム国」が依拠する、多数のイスラーム教徒が実際に信じている信条や行動原理を、理解することを妨げているというのだ。
Political scientists, including myself, have tended to see religion, ideology, and identity as epiphenomenal—products of a given set of material factors. We are trained to believe in the primacy of “politics.” This isn’t necessarily incorrect, but it can sometimes obscure the independent power of ideas that seem, to much of the Western world, quaint and archaic.
「イスラーム国」は、リベラル派が信奉する決定論、すなわち歴史は合理的で世俗的な未来へと発展していくことを運命づけられているという決定論が、中東の現実を説明できないことを明らかにした、とハーミドは論じる。
The rise of ISIS is only the most extreme example of the way in which liberal determinism—the notion that history moves with intent toward a more reasonable, secular future—has failed to explain the realities of the Middle East.
ここでハミードは、「イスラーム国」は「イスラーム的」と言えるのか?という核心をついた、専門家が誠実であれば誰もが内心は問いかけつつ、表向き表現することに躊躇する問いを立てる。そして、「イスラーム的だ」と答える。イスラーム教徒の多数派が「イスラーム国」を支持するわけではない。しかし、「イスラーム法によって統治されるカリフ制を復興すること」そのものについては異論がない。
ISIS draws on, and draws strength from, ideas that have broad resonance among Muslim-majority populations. They may not agree with ISIS’s interpretation of the caliphate, but the notion of a caliphate—the historical political entity governed by Islamic law and tradition—is a powerful one, even among more secular-minded Muslims.
「イスラーム教徒は我々と同じように育っているじゃないか、同じもの食べて、同じように子供達を育てているじゃないか」といった、おそらくは善意からの共感の言説は、実態から目を逸らすだけである。大多数のイスラーム教徒にとって、平和を求めることと、離教者には死刑で臨むべき、姦通には石打ちの刑を、と信じることの間に矛盾はないのだから、とハーミドは世論調査の結果を踏まえて言う。
This is why the well-intentioned discourse of “they bleed just like us; they want to eat sandwiches and raise their children just like we do” is a red herring. After all, one can like sandwiches and want peace, or whatever else, while also supporting the death penalty for apostasy, as 88 percent of Egyptian Muslims and 83 percent of Jordanian Muslims did in a 2011 Pew poll. (In the same survey, 80 percent of Egyptian respondents said they favored stoning adulterers while 70 percent supported cutting off the hands of thieves).
ハミードの議論はまだ続くのだけれども、それはまた別の論考とも合わせて議論することにしよう。
このようなことも言っている。
イスラーム教の教義体系にムスリムが完全に縛られているわけではないが、完全にそれから脱することもできない、というのだ。
Muslims are not bound to Islam’s founding moment, but neither can they fully escape it.
イスラーム教は教義の構造上、信者個々人が自由に選んだり捨てたりできるものではない。根幹の部分を変えることも難しい。ただ「棚上げ」して実際には適用しない、という便法が社会的な合意があれば通用するだけだ。その合意も簡単に壊れてしまう。
ハミードのこういった議論は、「アラブの春」以後の民主化の試みによって、実際にアラブ諸国の多数派のムスリムの民意が選挙で表出されたことを踏まえている。そこからハーミドが出した結論は、「政治的な自由化が行われば、非リベラルな思想の持ち主が多数派を占めるアラブ世界では、非リベラルな民主主義が誕生しかねない」というものだ。
これがハミードが昨年刊行した『権力の誘惑ーー新しい中東におけるイスラーム主義者と非リベラルな民主主義』(オクスフォード大学出版会)の中核的な議論である。
Shadi Hamid, Temptations of Power: Islamists and Illiberal Democracy in a New Middle East, Oxford University Press, 2014.
ハミードはこれを東欧やラテン・アメリカなど欧米的な価値観を基本的に受容した地域の事例とは異なる、世界の民主化の中での新たな事例としてとらえる。東欧やラテン・アメリカでは、社会の多数派の信条としては欧米的なリベラルな思想が広がっているにも関わらず、政権は言論の自由とか人権とか法の支配といったリベラルな規範を実現すると権力を維持できないから、それらを制限する。そこで、何らかの原因で制限が弱くなれば、リベラルな民主主義が実現しうる。ところがアラブ世界の場合は、社会の側が非リベラルな信条を抱いているために、民主化して多数派の意見が取り入れらると、非リベラル化してしまう、という。
アラブ世界のイスラーム教徒の多数派が実際に信じているものを、そのまま見つめれば、事態はかなり分かりやすくなる。欧米の議論のゆがみとは、実際には、現実のアラブ世界のイスラーム教徒はリベラルではないにも関わらず、リベラルな価値や世界観が普遍的であると信じている欧米のリベラル派がそのことを認められないがゆえに議論が混乱しているのである。
しかし欧米のリベラル派はしばしば、「アラブ世界のイスラーム教徒は実際にはリベラルなのに、欧米がオリエンタリズムによる誤った表象によって非リベラルであると誤認している、そのことが中東で問題を引き起こすのだ」という議論をする。しかし実際に選挙をやってみると、本当に非リベラルな主張が票を得て当選して権力を握ってしまう。民主化を是とするならば、非リベラルな、他者に寛容ではない民主主義を受け入れるのか?それが、中東に出自を持つ、リベラルな欧米人であるシャーディー・ハミードの問いかけである。
最近、いろいろな聴衆に向けて『イスラーム国の衝撃』を叩き台にして話す機会が多いのだけれども、イスラーム教の本来の教義・規範・体系を話しても、必ずと言っていいほど「分からない」と言われる。
かなり単純化して基本的なところを話しても「分からない」と言われるので、問題はイスラーム教の教義そのものやそれを私がどう解説するかではなく、日本の聞き手の側に、「宗教」というものに対する頑迷な思い込みがあるからではないかと痛感する。
日本の現在の宗教認識について、ヒントになる論説があったので紹介してみよう。
「「こころ教」と「原理主義」の時代が来る? ビジネスパーソンのための仏教入門(4)」
この記事は、浄土真宗の僧侶で仏教学者でもある佐々木閑氏へのインタビューである。佐々木氏はここで、日本の既成仏教の「こころ教」化という概念を提示し、批判している。メインストリームの「こころ教」化が、そこで満たされない層の「原理主義」化をももたらす、という見立てだ。
また、宗教には本来「原理主義」的な側面があるということを指摘し、さらにそこに僧侶としてコミットする姿勢も若干ながら示している。
日本仏教の「こころ教」化というのはどういうことかというと、佐々木氏はこのように語っている(記者によるまとめだから正確かどうかわからないけれども)。
この傾向は私にも確かに感じられる。宗教を「ひとりひとり」の「こころ」の問題と捉え、「あなたがどう受け止めるか、あなたがどう信じるか次第なのです」と教える宗教言説は、俗流宗教論の定番であり、メディアに出てくる不確かなコメンテーターの発言や、作家の出す癒し本の中だけでなく、宗教者とされる人たちが出す本や発言にも充満している。そして宗教を「こころ」の問題であるとする考え方からは、宗教規範を掲げて社会的・政治的な行動に出る人たちは「原理主義」ということになり、「本来の宗教ではない」と安易に結論づけられてしまう。しかしそういった議論では、「原理主義の何が悪いのか」と真っ向から主張する人たちの行動を止められず、説得もできない。「こころ教」は原理主義に、説得ではなく村八分にすることでしか対抗できないのだ。
ただし、下記の部分で、イスラーム教にも同じ「こころ教」化が起こっていると論じているのは間違いである。
「科学とうまくすり合わせできないことを、「心の問題」に置き換えて解釈しようとするのは仏教だけに限りません。キリスト教、イスラム教も今、同じようなことを言いだしています。すべてのものを、心の中に落とし込んでいく手法です。」
佐々木氏はおそらくイスラーム世界の宗教状況を全く知らないのだろう。もし誤解する要素があるとすれば、日本での「本来のイスラーム教はこうだ」という議論には、イスラーム教も日本的な「こころ教」と「本来は」同様であると議論するものが多く、欧米でもスピリチュアリズムや政教分離思想を普遍的と考える論者が、イスラーム教でも宗教は人間の内面に限定されるのが本来のあり方であるという誤った説明をしているといった事情がある。正確に言えば、「日本で、あるいは欧米でイスラーム教について説明する議論は『こころ教』的なものが多い」ということになる。佐々木さんの目に触れる日本語(あるいは英語・・・読んでないと思うが)の解説が「こころ教」のようなものとしてイスラーム教を解説してしまう、というのはそれ自体が日本や欧米への「こころ教」の浸透の表れであって、対象となるイスラーム教そのものとは関係がない。
アラブ世界でも、イスラーム世界一般でも、「こころ教」化は進んでいない。ごく一部、トルコの極端な世俗主義者とか、東南アジアでアメリカナイズされたり日本の影響を受けたりしたごく少数のムスリムの間にそのような傾向はあるかもしれないが。圧倒的多数は、人間の外部に神が絶対的な規範を定め、それを人間は護持していく義務があるのだ、と信じている。その意味では、イスラーム教徒の大部分は、ここで「こころ教」と対比されている「原理主義」的な信仰を維持している。「イスラーム国」に参加する人も、参加しない人も、基本は共通している。この基本をなぜ日本の宗教者が認識できないかというと、それはやはり、「こころ教」に影響されて日本の外の現実が見えなくなっているからだろう。「こころ教」化に疑問を呈している佐々木氏にしてからが、安易に「イスラーム教にも同じことが起こっている」と思い込んでいる様子だ。
もちろん、佐々木氏がここで「こころ教」という概念を提起したのは、日本の通俗的で強固な宗教言説を相対化するために非常に有益な発言であったと思う。
宗教学的には、これは宗教の中の「律法主義」的な側面と、「霊性主義(スピリチュアリズム)」的な側面の分岐と対立という問題と言い換えていいと思う。日本の現代の宗教においては、宗教を一人一人の「こころ」の問題であり、「たましい」の問題であるとする思想が強固である。諸宗教を比較すれば、大まかにはこのような信仰は「スピリチュアリズム」の一部と言える。日本の宗教はもっぱらスピリチュアリズムの方面で発展している。新興宗教にそれは顕著であるし、既存仏教にも、そして書籍市場などで商業的に流通させられる通俗宗教論においても同じだ(この三者が別のものということではなく、しばしば重なり相互乗り入れしているが)。
日本の宗教に大きく欠けているのは(それがいいか悪いかは別に)、律法主義的な側面だ。「あなたがどう考えるかどうかとは別に、あなたのこころとか世俗社会の論理などの外に、絶対的な規範を示す存在がいて、規範を示しています」ということ信じ、実践する(それぞれのあり方で)のが律法主義と言えるが、日本ではこれを理解できない人が多い。「それは宗教ではないのではないか?」などと言われてしまう。そして一部の新興宗教が律法主義的な側面を強調すると、社会の大多数は「本来の宗教ではない」と頭から否定するのと同時に、一部の人はそれまで教えてもらえなかった宗教の律法主義的な側面にうっかり触れると、「これこそ真の宗教だ」と啓示を受けたかのような錯覚を抱いて飛びつき、それを認めない社会全体から孤立し敵対的になる。一部の思想家・ジャーナリストなどが「反体制」の旗印にこれを応援したりするので、政治問題化してややこしくなる。
私はどのタイプの宗教が正しくて、他は正しくない、という立場ではない。しかし日本の外には律法主義を根幹とし、「本来」のあり方とする宗教があり、人数から言っても、国際世論の中での支配的な地位から言っても、そちらが圧倒的に優位である。このことを知らない、知ろうとしないことは非常な問題であると思う。日本の宗教意識は、「こころ教」に偏ったガラパゴス的発展を遂げているということをもっと知ったほうがいい。「こころ教」が一概に悪いわけではないが、それが世界標準だと思ってはいけない。
イスラーム教を理解できない、という日本の人たちは、あまりにもこの「こころ教」への無自覚な信仰が強すぎるのだろう。これは無自覚であるだけに厄介だ。キリスト教を固く信じているからイスラーム教を認められない、というような人はまだ、自分がどのような規範体系を信じていて、それに対してイスラーム教の規範体系のどの部分が認められない、ということを議論するきっかけがある。しかし「こころ教」の場合は、世界の大多数の人が信じている律法主義的な宗教を丸ごと「宗教じゃないでしょ」と言って頭から退け、自足してしまうのだ。
「こころ教」に似たものは西欧の神秘主義の中にもあり、特に近代になって個人主義化と世俗化が進んだ後には世俗化したリベラルな知識人を中心に広まっている。その文脈で、Zenや武道を欧米の一部の人が受け入れるきっかけにもなった。しかし米国のプロテスタント的な保守派の強さや、ラテンアメリカやフィリピンなどのカトリック信仰の激しさを見れば分かるように、律法主義的な側面は今でも一神教が広まる世界では主流なのだ。なぜならば、それが教義の「本来」の姿だからだ。キリスト教については、存立の当初から律法主義的な外在的な規範を過度に重視することに批判的であったりするので、曖昧で振れ幅があるが。
イスラーム教の解釈の一部に「こころ教」と若干近いものがあるとすれば、スーフィズム(神秘主義)の系統だろう。それはイスラーム教の「本来」の姿というよりは、イスラーム教徒が形作った「イスラーム文明」の発展の中で許容された余剰の部分である。「本来のイスラーム教に帰れ」と言われたら、イスラーム法的な、つまり律法主義的な側面に戻らざるを得ないのだ。だから「イスラーム国」はアラブ世界では反論されにくいのである。しかし日本では、「こころ教」があまりに影響力が強いので、律法主義的な側面を「本来のイスラーム教ではない」と思い込んでしまって、理解が根底から間違ってしまう。
この問題は、私がイスラーム教についての研究を日本語で一般向けに議論するようになった当初から直面している問題である。当初から、イスラーム教(あるいは宗教一般)にある律法主義的な側面と霊性主義的な側面の判別能力の有無が、日本での無理解や抵抗感の根幹にあると私は考えており、折に触れ指摘してきたが、状況はまるで変わっていない。宗教者や宗教学者ですら気づかないのだから、一般人は気づきようがない。
2003年に刊行した共著『一神教文明からの問いかけ』には、「イスラーム教の律法主義と霊性主義」と題した論考を寄稿している。この文章は、本来なら老大家がやるべき概説を、適任者がいないから私がしてしまっているという事実に気が引けたり、「東大講義」とかいう空疎な釣り文句があったりすることも嫌であまり宣伝してこなかったのだが、内容については今もまったく変える必要はないと考えており、いっそうこの問題設定が重要になってきたと思う。
宮本久雄・大貫隆編『一神教文明からの問いかけ―東大駒場連続講義』講談社、2003年、執筆箇所:池内恵「イスラーム教の現在──宗教の復興か、文明の衰退か」(73頁-94頁)、池内恵「イスラーム教の律法主義と霊性主義──真の対話に向けて」(176-197頁)
この本は東大の教養学部のオムニバス形式の講義をまとめたもので、私はゲストで(その頃はアジア経済研究所に勤めていた)二回講義をしに行った。「一神教」とは言っても、9・11事件直後に行われた企画であり、イスラーム教の政治性や軍事との関係についてどう理解するかというテーマこそが最重要のものだったから、私だけ二回講義して章を二つ書かせてもらっている。実際に諸宗教の原典に触れている先生方が編者なので、イスラーム教の教義そのもの、テキストそのものから議論を組み立てた議論に抵抗感が少なかったようだ。「こころ教」に毒された宗教論者・思想家が編者だったら載らなかったでしょう。
『一神教文明からの問いかけ』はとっくの昔に絶版となっており手に入りにくく、私の寄稿した二つの章も別の単行本に収録されていないので、読んだ人は少ないかもしれない。ただ、宗教についての議論を専門的に行う世界の中ではそれなりに反響はあった。
今抱えている多くの仕事を終えて、イスラーム思想の概説・入門書を書けるような段階に来たら、この律法主義と霊性主義の分岐と対比についても再録して改めて論じてみたい。
なお、井筒俊彦は霊性主義の方面を極めて強調したイスラーム思想史叙述を行った。そのことを私は折に触れて指摘し続けている(『井筒俊彦: 言語の根源と哲学の発生 (KAWADE道の手帖)』)。
私は井筒が「偏向」しているとは思わないが、井筒が強調するイスラーム文明史上の思想史の中の霊性主義的側面を、「これこそが真のイスラームだ」と勝手に断定してしまう日本の思想家たちは、まあ端的に無知で無自覚なのである。なぜ知が頭に入ってこないかというと、佐々木氏の言う「こころ教」に支配されていて、そのことに自分自身が気づいていないからだろう。
昨日は原稿を書きながら長野新幹線で往復という慌ただしい1日。今日も休日出勤で朝から晩まで一般聴衆や学生さんの相手します。
というわけで要点だけ。韓国で2次・3次感染が出て大問題になっているMERS(中東呼吸器症候群)について。
結論から言うと、今回は「中東」の問題というよりも韓国の保健衛生体制がなぜ感染拡大を止められなかったか、そもそもなぜ韓国人が多く中東にいるのかといった点に私としては関心が向く。中東で感染爆発が起こっているとは言えないからだ。もちろん、感染源が日本にとっては近くに来たというのは危険ではあるし、世界全体から見ても、感染源の広がりは深刻な危険をもたらす。しかしウイルスの変異によるヒト−ヒト感染力の強まりといった病原体そのものの変化はまだ確認されていない。
MERSについては昨年の流行の時期に短く記していた。
「MERS(中東呼吸器症候群)はラクダでうつるらしい(2014年2月25日)」
2012年以来、春から初夏にかけて毎年感染者が出ている。中東では今年が特に多いわけではない。しかし今回は韓国人の帰国者を感染源に院内感染で2次・3次感染が進んだ。ここで封じ込めに失敗すれば中東の外に新たな感染源を作ることになるため、強く関心を寄せていく必要はある。
韓国での感染の事例は、中東以外の国ではイギリスとフランスに次ぐもので、東アジアでは初めてである。しかも中東の外では最大規模の2次・3次感染が生じたことが憂慮される。
ただし、病原体としてのMERSが変異して感染力が強まったといった事実はまだ確認されていない。もしそのような事実があれば次の段階に入ったことになる。そうでなければ、MERSそのものや中東の問題というよりは、一人の中東訪問帰国者の感染者から2次・3次と感染を拡大させることを許した韓国の医療・保健衛生の制度や患者や医師の行動の問題として、日本での今後の対応に生かすためにも注視する必要があるだろう。
MERSは感染症としては一般に次のような特徴を持つ。私が短時間で資料に目を通した限りでは、昨年までと変わっていない。
(1)大部分の感染者はサウジアラビア人である。それ以外の国の感染者も大部分がサウジアラビア渡航・滞在の際に感染したとみられる。
(2)治療薬やワクチンがなく、発症者の3割から4割が死亡するという致死率の高さが特徴。ただし、感染に気づいていないか、病院で診療を受けない事例が多くありそうなことを考えれば、感染者の致死率はもっと低くなる。
(3)コウモリからヒトコブラクダを通じてヒトに感染するルートが知られている。
(4)ヒトからヒトへの感染は起こりにくく、大部分が院内感染か家庭内での感染である。
未解明の部分が多いようだが、中東のヒトコブラクダの多くがMERSウイルスに感染して抗体を持っており、ウイルスがヒトコブラクダと濃密に接触するヒトに感染するようになり、さらに、感染力は弱いもののヒトからヒトへ感染するようになった模様だ。病気のラクダを治療して感染したと見られる事例が知られる。
以上は私が知る限りの事項のまとめですので、感染の広がりの詳細や、潜伏期間や感染力・経路、治療法などの正確なところは、下記のような公的機関のホームページを参照してください。
国立感染症研究所(基礎情報)http://www.nih.go.jp/niid/ja/diseases/alphabet/mers/2186-idsc/5703-mers-riskassessment-20150604.html
厚生労働省(Q&A)http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/mers_qa.html
厚生労働省(アップデート)http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou19/mers.html
日本で関心を集めるのは、単に感染症が恐ろしいというだけでなく、「中東の病気がなぜ韓国で?」という疑問が湧き、「韓国で流行すれば日本にもくるのではないか」と恐れるからだろう。
しかしウイルスの大きな変異がなく感染力が低いままであれば、韓国で感染者が出ていても、それが日本に及ぶルートはかなり絞られてくる。(1)日本人が韓国に行って韓国の病院で院内感染する、(2) 韓国人の感染者が発症前あるいは発症後に日本に渡航して日本の病院で院内感染を広める、といった想定される経路はかなり特殊で、可能性はそれほど高くなく、対策 の用意さえしておけば、パニックになる必要はないのではないかと思う。
「なぜ」の方は、中東に出入りしていると感覚的にわかる。要するに韓国企業の中東進出が著しいのである。企業が進出するだけでなく、「人が多く行っている」ことが、日本と比べた時の特徴だ。おそらく日本と比べると一桁は多い数の韓国人ビジネスマンが中東を出入りしている。
例えば、ドバイで世界一高いビルが建ちましたね。ブルジュ・ハリーファ(ハリーファ・タワー)。
あれの建設を請け負ったのもサムスン建設でした。サムスンが全体を請け負って、人も多く出しつつ、各国・各社の技術や労働者を集めてきて、現地の財閥ゼネコンと組んで建設した。
日本企業は韓国が親請けした大規模プロジェクトに、「納入業者」として入る場合が増えてきている。発電所ならタービンとか、都市交通システムなら列車車両とか。高度な技術やノウハウを必要とする中核的な部分を担っているので、必ずしも「下請け」という雰囲気ではないが、プロジェクト全体やインフラを全面的に担ってリスクを負い利益を得ているわけではない。
それは端的に言うと、日本は中東に大規模に人を送り込むことはできない国なのである。環境が過酷で社会文化的なギャップが大きく政治的な不安定性や不透明性がある中東で、現地の人たちや各国からの労働者達と揉まれてやっていけます、やっていく気があります、という日本人を大人数集めることは難しい。そういう人材が育成されにくいという制度の問題と、そもそもそんなことをやろうという人が少ないという主体の意志の問題は、鶏と卵のような話であって、どっちが原因でどっちが結果かはわからないが、とにかく中東で大きなプロジェクトをやろうとしても現地に行って事業を完遂してくれる人材を集めることが難しいことは確かだ。
ごく一部、日揮のように、かなりの人員を集めて現地に送り込んで巨大プラントを何年もかけて作って引き渡して帰ってきてまたよそに出かけていく、ということを大規模にやり続けていける企業があるが、それは例外。そういう企業には、日本社会の中では珍しい、外向けアニマル・スピリッツが強い人たちが集まってきます。
韓国の場合は、よほどの学歴か、コネでもない限りは就職が難しいので、それぞれが必死にアラビア語とかロシア語とかスペイン語とかできて現地でガツガツやってくる能力を身につけて就職する。現地に何年でも行って来いと言われることを当然と考える人たちがいっぱいいるのでサムスンなどはどんどん受注できるんですね。
このことは、2000年前後に、中東で日本人留学生や駐在員たちのコミュニティを避けて人知れず庶民街で勉強していた時以来、感じているものです。
中東で中の下ぐらいの階層のエリアに行くと、日本人がいない代わりに、とにかくいっぱい韓国人留学生がいたものである。欧米人や日本人が中東で苦労する、慣習やインフラ不備による不快感やギャップをそれほど感じていない様子で、野心的に、実践的に勉強していた。日本の場合はアラビア語ができたって一流企業に就職できなかったから、学者になりたいというような人しか中東に勉強に来なかった。韓国の場合は、語学を身につけて就職→過酷な現場で通訳から叩き上げて中堅社員に、といったキャリアを想定する人たちが大勢来ていた。
かつてはイランのIJPCのように、日本企業が総力を挙げて中東に大規模に人を送り込んで大規模プロジェクト全体を主導するという時代があったが、そのような時代はもう過ぎたということなのですね。韓国だって世代が変わるとどうなるかわからないが。
日本企業では「たとえ経営陣が大規模プロジェクトを受注してきても、組合が許してくれない」などという話も聞く。また、大規模なプロジェクトを請け負って事業を完遂させるまでのリスクを負えなくなっているのではないか。そこで、利幅は限られているがリスクは低く、人員も限定される納入業者の立場に甘んじるしかなくなっている。もちろん、それは産業の高度化とも言えるし、高度技術にシフトして、投資収入やライセンス収入に依存するようになるという、先進国が進まざるを得ない方向に進んでいるとも言えるのだが、人的資源の「空洞化」の側面があることは否めない。
韓国の場合、感染者との接触者がそれを隠して中国に入国したりしているのを見ても、中東に来ていたバイタリティのある人たちを思い出して、さもありなんという気がしてくる。
ちなみに中国人は韓国よりさらに一桁多い数が中東に行っている。それではなぜMERSウイルスの感染・発症例が出ていないのか?という疑問がありうる。
さあ、なぜだかわかりません。偶然まだ感染者が出ていないのかもしれない。感染者が出ていても隠しているという可能性がないではないし、気づかれずに亡くなっていたり治っていたりするという可能性がないわけではない。
ただ、現地情勢を見ている限りでは、中国と韓国では企業の中東での進出の仕方が違うので、現地社会との接触のあり方が違うのではないかとは推測できる。中国企業は確かに膨大な数の中国人労働者を連れてくるが、空港に降りるとそのままバスに乗せて砂漠の中の現場に連れて行ってしまう。だから現地社会との接触があまりなく、そのため感染が起きていないのではないかとも考えられる。
英語でかなりわかりやすいまとめが出ていたので幾つか紹介。
What You Need to Know About MERS, The New York Times, June 4, 2015.
感染症としてのMERSの特性を簡潔にまとめた上で、巡礼などサウジ特有の社会文化との関連性も主要な論点を網羅している。
As MERS Virus Spreads, Key Questions and Answers, National Geographic, June 4, 2015.
主に医学的・疾病対策的な側面からの詳しいルポ。読み易いが読み応えがある。今後の対策として、人間ではなくラクダにワクチンを打つ方法なども紹介されている。
「反知性主義」が現代社会の重要で興味深い現象であることは確かだ。
それについて読むならこの二冊だろう。
まず、「反知性主義」に対する最近の関心の高まり・深まりを代表するのが、森本あんり『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』(新潮選書)。
基本的には「近年の学問的話題」としての「反知性主義論」の成果はこれだけ。あとは全部便乗本です。最近便乗本を出す速度だけは早くなってきているので、いい本が出ていいテーマが提起されたな、と思う間もなくあっという間に便乗本が溢れて、そういうのは大人数で書いているからそれぞれが大声で宣伝して、実際に学術的な知見を提示している人の声がかき消されてしまう。
この本についての最もいい紹介は「週刊新潮」の匿名記者の短評紹介だったな・・・自社本宣伝とはいえ、いい線をついていた。アメリカの反知性主義とはそれ自体がある種の知性的立場でもあり、近代的の(特にアメリカ的な)な専門家支配とか世俗主義などを疑う、社会の底流から湧き上がる思想でもある。ある意味「週刊新潮は、本来の意味での反知性主義をめざす雑誌です」と静かに宣言しているような短評だった。匿名記者さんがんばってください。といっても私は年に2回ぐらいしか読みませんが。偶然手に取ったらこの本の書評が載っていたので私の中での『週刊新潮』への評価が若干上がった。
『週刊新潮』の短評が最もよく捉えていたように、「反知性主義=バカ」なんて話ではない。この本を書いている著者はまさに神学者だ。サブタイトルとか帯は出版社がつけるのでよくある日本の「反知性主義批判本」におもねっているが、中身はもっとずっと深いし、神学者という著者の立場からの主体的な問いかけであることが明瞭だ。反知性主義とその批判という思想問題は、「俺はかしこい、あいつらバカ」と言い合っている次元の話じゃないんだよ。しつこいけど、何度も言わないとわからん人がいるので。
そしてもう一冊、「反知性主義」を議論するなら、ブームになる前に読んでいなければいけなくて、まだ読んでないんだったらこっそり読んで以前から読んでいたふりしないといけない本はこれでしょ。あえて指摘するまでもないと思って指摘しないでいると、乱造本だけ読んで議論する人たちが出てくるから、そういう面においてこそ「反知性主義」は極まっているなと思うよ。
リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』(みすず書房)
文芸誌の『文學界』の特集「『反知性主義』に陥らないための必読書50冊」に寄稿しました。
池内恵「『日亜対訳クルアーン』(中田考監修、作品社)」文學界、2015年7月号、167-169頁
タイトルを読んで字のごとく、中田考訳・監修の『日亜対訳 クルアーン』を一冊に挙げているのですが、そもそも反知性主義批判を主張する人たちの反知性主義っぷりに呆れて、特集全体に物申している内容のコラムです。
冒頭から、飛ばしています。
(前略)「反知性主義」が日本の出版業界のちょっとした流行りとなってこんな依頼が舞い込んだのだが、世に出る「反知性主義関連本」の著者はというと、どう考えてもまさに反知性主義者そのもの、といった面々が並ぶ。反知性主義に陥りたくなければまず、声高に他人を「反知性主義」と罵っているような人々の名前で出た本は読まない、というところから始めることが鉄則だろう。(以下略)
で、雑誌の頁をめくると前後に早速そういう面々とも数多く出会えるというオツな趣向です。
続きは読んでみてください。
ブログ再構築を指南してもらっている「ほっともっとの人」(→分からない人は検索機能を活用してみましょう)に指摘されて気づいたのですが、『イスラーム国の衝撃』のKindle版が、アマゾンの半額ポイントバック・キャンペーンの対象になっているとのことです。つまり、今買うと、800円の定価に対して400円分のポイントがついて実質半額だそうです。このキャンペーンがいつまで続くか分かりませんが、一度買ったらアマゾンが潰れるまで読めるわけですので、予備の電子版をお求めの方などはこの機会にどうぞ。
(追記:いつまで続いているか分かりませんので、よく確認してからご購入ください)
売れ筋アイキャッチ商品だということなんですね。なんだか隔世の感があります。
マーク•ザッカーバーグのフェイスブック上の読書サロンA Year of Booksで次に取り上げるのはイブン・ハルドゥーンの『歴史序説』だという。
https://www.facebook.com/zuck/posts/10102158767549321
これはもちろん話題になっている。
http://www.businessinsider.com/mark-zuckerberg-the-muqaddimah-2015-6
このブログでもチュニジア紀行文の連載で『歴史序説』を取り上げましたね。ザッカーバーグの使っている写真もチュニスのブルギバ広場のイブン・ハルドゥーン像です。
http://ikeuchisatoshi.com/i-1319/
http://ikeuchisatoshi.com/i-1320/
ブログで記しましたが、日本では責任を持つべき岩波文庫が、『歴史序説』を品切れにして恬然として恥じない。これって『コーラン』が絶版、みたいな話ですよ。これ抜きにしてイスラーム文明を語れるはずがない。中東諸国の混乱を理解するためのヒントも、イスラーム世界が宗教を相対化するための視点も、ここに秘められている。
イブン・ハルドゥーン(森本公誠訳)『歴史序説 (1)』 (岩波文庫)
「英語圏ではすぐ手に入る」ということの意味、彼我の差を、感じてください。
システムで負けてるんです。欧米と違って中東で手を汚していない云々とか日本人の魂とか根性とか細かさが美質だとか気質とか言う前に、システムで対抗してくださいエラい人たち。
すでに各種の英訳が継続して入手可能になっていることを前提に、ザッカーバーグのような訴求力のある人が一声かけると、一層売れる。産業の好循環ができている。
日本だとこれが縮小循環で、非力な私が「これいいよ」と声かけるだけでも例えば数十人が競って買ってしまえば、もう手に入らなくなる。
ザッカーバーグに言われてこんな分厚い本を何千人、いや何万人が「試しに読んでみようか」となって、それに供給するシステムがちゃんとある国にかなうと思いますか?
別の話だが、とあるアメリカの田舎の実業家と交流プログラムで会話させられた時、ハンチントン『文明の衝突』について、「自分は難しい本の良し悪しはわからないが、この本を読んで、自分の子供たちがティーネイジャーになる前に、ハンチントンが示した文明圏をなるべく多く見せてあげたいと思ったんだ」と語り、すでに4つ回った、来年はインドに行くことにしている、といったことをつらつらと語るのを聞いて、その大らかさと突き抜け方に感銘を受けた。
日本だとちまちまと「ハンチントンのここが違う、あれが違う」「アメリカの世界支配のイデオロギーだ」とか文句つけて、知識人たる者ハンチントンを蔑んで見せないといかん、という空気に順応しないといけなくなる。そうではなくて「文明というものがいくつもあるらしいから、自分はそれを知らなかったから、子供達には頭が出来上がってしまう前に見せてあげたい」と考えて本当に連れ歩いてしまうような人がいる国、そういう国に日本もなればいいし、なれると私は思っている。
実は、私は授業で学生に読ませたい本については、意識的にブログで紹介しなかったりしたこともあるんです。すみません。市場にちょっとしかない本を一般読者が好奇心でもって購入すると(すばらしいことです)、日本は本の出版と流通に問題を抱えているから、職業的に今すぐ手にとって線を引いて読んでいなければならない学生の手に渡らないということになり、教育に差し支えるので。
でも今後は手加減しないことにします。学生は好奇心旺盛なオジ様・大姉様・おジー様BAR様方に買い負けるな。得るものは若いうちに読んだ方が大きいはずだ。
なお、イブン・ハルドゥーン『歴史序説』の訳業を成し遂げた森本公誠先生は、イブン・ハルドゥーンの伝記を書いている。これは今読んでも高い水準。文庫版には、僭越ながら私が解説文を寄せさせていただきました。足元にも及ばぬ者が紙幅を費やしたことは恐縮至極だが、せめて普及にお役に立ちたい。
これも品切れっぽいが、Kindle版は買えます。
ブログをリニューアルしました。
2014年の1月に、ふと思い立ってブログを立ち上げたのですが、その時は技術的な知識はまったくゼロ。
米国や英国の若手研究者が専門分野に絞ったブログを設定し、それがその問題に関するポータルサイトのようになって、大学に職を得ることもなく早々と第一人者として扱われていくのを見て、研究者にとって新しいやり方だなあと思って、自分でもやってみるか、と気軽に始めたのがきっかけ。
日本語のブログを読むことはほとんどなかったし、mixiなども使ったことがなかった。
そのため、どのようなサービスがあるのか、どのようなツールを用いるのかもまったく知らず。探したり調べたりする時間もない。wordpressとか一瞬は興味を持ったものの、ちょっと調べると、これは私の現在の生活では習得や管理・維持は不可能、と早々に諦めた。
で、研究室に居ついている、いえいえ長い間研究支援でお世話になっている某研究員に、発注したわけですね。どこで始めればいいか、調べて提案するように、と。
こちらが示した条件が、
(1)使い方がとにかく簡単であること。なーんにも知らんでもできるやつ。
(2)アホな大学生が読んでそうなところであること。
イメージとしては、日本全国の大学生が、レポート書けと言われた時に、適当にググったら出てくるようなものを提供しておけば、成果の普及にはいいんじゃないの?と思ったわけなんです(「ググったら出てくる」状態にするにはどれだけ技術的な仕掛けが必要かなんてことも知りさえもしなかった)。
そうすると、若干ミスコミュニケーションがあった感じもする某研究員の絶妙の提案が、「FC2」だったんですね。とにかく簡単だ、と。
今から考えると、ある意味で的確に、こちらの出した二点の条件を踏まえた提案だったんですね・・・意図してのことかどうかはともかく。
こちらとしては何一つ情報がないので、是も非もなくこの案を採用して設定してみたところ、確かに簡単。ブログについて何一つ知らなくとも始めることができました。
それが、『中東・イスラーム学の風姿花伝』旧バージョン(http://chutoislam.blog.fc2.com/)でした。
しかし予想外に、ブログへのアクセス数が上がって行ったんですね。元来が、じわじわと読者が増えている感触はあったのだが、昨年10月の「北大生イスラーム国渡航未遂」事件に「中田考」というコンテンツが加わって倍増。そして「人質事件」で爆発的にアクセスが上昇してしまい、あらゆるところで「読んでますよ」と言われるようになってしまった。ほんのイタズラのつもりで始めたんですが・・・
SEOとか一切考えず、というかそもそもこの言葉すらよく知らずに、ただ簡単だ便利だといってあれこれ書き込んでいたら、私の扱うテーマの方が勝手に「炎上」してしまってブログの読者が増えてしまったのですね。
おかげで、本を出して新聞・雑誌に書いているだけでは到底得られない読者の広がりを持つようになりました。ありがたいことです。
しかしそうなると、いつまでも無料のブログ、それもいわくつきのFC2でやり続けることは不適切ではないかとのご指摘を方々から受けるようになりました。そうはいっても私としては技術的な知識ゼロのままやってきたので、ブログ移行なんて無理無理。そのための技術を勉強するなんて時間も気力も、まったくない。本業の方で必死に勉強するだけでも溺れそうです。
原付バイクみたいなものが置いてあったから乗っかって試しに動かしてみたらすごい勢いで動き始めてしまい、気づいたらサーキットで先頭を走っていて、しかし実は止め方も降り方も知らない、というような状態(加速の仕方だけはなぜか知っているんですが)。
しかしいつまでもそうしていられないな、と思っていたところ、手を差し伸べてくれる方がいたので(わかる人にはわかる、「ほっともっと」の人)、こうして独自のドメインまで得て、こちらが理想と考えていたデザイン・構成で、再出発することになりました。
というわけで、新バージョンの「中東・イスラーム学の風姿花伝」(ikeuchisatoshi.com)をよろしく。
旧バージョンからの記事も移行を済ませておりますので、これまでの記事を全て読むことができます。右側のサイドバーの下の方のアーカイブやカレンダーをたどって読んでみてください。
唯一残念なのは、旧ブログでついたFacebookの「いいね」は、移行できないのです。記事のURLが変わりますから。歴史的事件に際して、数万の読者を得た記事などは、歴史的記録として「いいね」の数も保存しておきたいものですが、そうもいかないようです。
むしろ、そのような短期的に高い関心を呼ぶ「フロー」ではなく、積み重ねの「ストック」として、新ブログは長く読まれていくことを願っています。
そうはいっても、「フロー」としての活用も意識して、新ブログは設計しました。
画面右にツイッターの窓を設け、@chutoislamというアカウントから、英語の記事をリツイートする形で、中東・イスラーム世界に関する最新の議論を紹介していくことにします。絞り込んだ数のアカウントをフォローして、手が空いた時に見てささっとリツイートするだけですので、網羅的ではありませんが、世界の中東をめぐる議論がフラッシュニュースのように流れる趣向になっています。
また、カテゴリーを一つの記事に複数設定できるようになりましたので、新たに「本の紹介」というカテゴリーを設け、いろいろなテーマの話をしながらちょこっとずつ本を紹介してきたものを、ひとまとめにできるようになりました。本は厳選して紹介してきましたので、読書案内にもなっているかと思います。
それではまた。
『イスラーム国の衝撃』の受容のされ方の一面を示すデータ。
『イスラーム国の衝撃』が2月・3月の二ヶ月連続で、東大生協の書籍部(本郷)のベストセラー1位を記録。【「大学生協が3月のブックベスト10…東大2か月連続1位「イスラーム国の衝撃」」2015年4月27日】
うれしいね。
元データは全国大学生活協同組合のホームページ。各大学の毎月のベストセラー10位までを発表している。
2015年2月
2015年3月
授業のない2月・3月に1位ということは、純粋に興味関心からということなのか。
他の大学でも、京大と阪大ではランクインしている。推移を比べると・・・
東大 1位(2月)→1位(3月)
京大 4位(2月)→7位(3月)
阪大 5位(2月)→ランク外
他の大学ではランク外。やはりね、という感じがする結果ではある。慶應などでもよく売れてはいるのだろうけれども、全体の中での多数派ではないのだろう。
生協のランキングを見ていると、ものすごく実用的な本ばかり売れる大学とか、公務員試験のテキストがランキング上位を総なめにする大学とか、特徴が出ていて面白い。
まだ読んでいない方はぜひこちらから。
Kindle版でもどうぞ。(時によってポイントが半額分の400ポイントだったりする)
以前にこの件についてはフェイスブックで書いたのだけれども、検索しにくいのでブログに記しておこう・・・と書き始めたら、実はもう4月の集計も出ていた。東大ではまだ5位に残っている。えらい。
抜いていったのは、松尾豊さんの『人工知能は人間を超えるか』なのだが、これは頷ける。先日も某経済政策官庁の研究所でブラウンバッグ・ランチの告知が来ていたが、瞬時に満席になっていた。
松尾さんとは面識はないが、民主党政権下で内閣府の国家戦略室の傘下で開かれた巨大会議群「フロンティア分科会」(←注意:ホームページがものすごく読みにくい)にどちらも参加していたので存在を認識していた。大学の世界は年齢層が上に偏っているので、少し前までは同年代がいるとすぐ目に付いた。
この会議については誰も記憶していないと思うし、そもそも報告書を出した当時もほとんど誰も気にも留めなかったと思うのだが、それなりの労力を使った仕事であった。そうだった、私は国際問題を扱う「平和のフロンティア部会」の委員として、松尾さんは「叡智のフロンティア部会」委員として(分科会・部会名が大仰なのは末端のヒラ委員の責任ではありません)、別の場所で同様に「老害批判」をしたというのでなんとなく同類視する人がいたのだった。
私の方はまあ、「ええその、私は決して「老人」がいけないと言っているのではありませんのでして、「老人支配」が良くないと言っているのでありまして、そのあたりはぜひ誤解なきようにと・・・」などと腰低く老害批判をしていたらちょうどそこに全体の座長の大西隆先生(日本学術会議会長・以前に先端研のエラい教授でもあった)がひょっこり登場して「すみません、お呼びですか?」みたいなことを言って一同爆笑、といった和気藹々としたものであったが、松尾さんの方はなんかもう40歳以上はみんな粛清だ、みたいなポルポト派的雰囲気だったらしいと伝え聞くがオフレコで記録残ってないので確かめようがない。話に尾ひれがついているかもしれん。
ちなみにあちらは工学系研究科の技術経営戦略学所属で若干文系っぽく、こちらは工学系研究科の先端学際工学と先端科学技術研究センターの所属でなぜか思想史で全くの文系。工学系で文系に近いことをやっていると老害批判に走る傾向が出るのか。
5月21日に発表された、シリアでの2名の邦人人質殺害事件についての政府の検証委員会報告書の作成に、外部の有識者として参加した。報告書は全文をダウンロードできる。
一般公開の報告書に載せられなかったのは次のような情報だ。
ご遺族あるいは関係者のプライバシーに関わる情報。
外国の政府機関から秘密を前提に提供された情報。
これについては、各官庁はプライバシーや秘密の範囲を厳密に広く取ろうとするのに対し、外部委員は可能な限り広く公開しようとする。その結果、「判断した根拠は秘密情報だがその結果は公知の事実だから書いてもいい」という形で表に出した部分がかなりある。そうするとまた新聞は「根拠が書いていないから検証ではない」と言い出すので、役所の人からは恨まれているかもしれないが。
ただ、テロはこれで終わりではなく、今後も生じてくる。今後の事件に際して政府が行う施策の「手の内」は明かせないことは確かだ。そこから大々的には書きにくいがひっそりと記されていることもある。これだって役所の人は「これを出すと将来に危険が生じかねない」と恨めしそうにしていたものもある。報告書を隅々まで読んでみれば、「政府がやっていない」と、一部の、さほど情報はないが声高な人たちから非難されていることも、実際には政府がやっていたことが見えてくる場合もある。政府としては「こんなこともやっていたんですか」と聞かれて「そうです」と答えなければならないとそれはそれで今後武装集団に狙われたりしかねないので私にこんなことを書かれたりはしたくないだろうが、しかしここでは報告書に明文で書いてある範囲のことを言っている。実際には、「やっていたこと」について「もっとやるべきだったのか」「もっとやればどれだけのリスクが生じたか」「それを国民が求めているのか」を議論するべきであるが、現状の日本のメディアの問題設定能力の水準からは、そのような有意義な議論が可能になるとは思えず、単に不要な政治問題化の根拠とされるだけと予想されるため、外部委員としてもある程度以上の詳細な記述は求められなかった部分がある。
この事件は日本政府が人質をとって殺害したわけでもなく、日本政府がシリアに人員を送り込んで人質にされる原因を作ったわけでもないので、政府が責任を負うなどという検証結果が出ることは、よほどの驚天動地の資料が発見されない限りは、ありえない。
言うまでもなく、「二人の人質が取られているにもかかわらず衆議院を解散して選挙を行った」「人質を取られているのに中東歴訪を行って人道支援のスピーチをした」ということをもって政府や首相の責任を問え、という議論は、民主主義の原則を根底から覆し、暴力によって政策の変更を迫る暴論である。問題はこれが「言うまでもない」ことであるということを、大新聞ですらも理解していないことが明白な報道・論評があったことだ。もしこの論理が許されのであれば、今後は気に入らない政権がいればどこかで人質を取って殺害すれば政権に責任を負わせられることになる。どれだけ恐ろしい憎しみの論説を日々垂れ流しているのか、記者たちは己の罪深さを知るべきだろう。いったい誰が民主主義を破壊するのか、歴史を振り返って考えてみるといい。
報告書が出てもなお、民主主義の原則を根本的に履き違えた議論が、インターネット上の無謀な論客からだけでなく、大新聞・地方紙の社説にもあったことは、残念なことである。要するに「政府の責任だ」「首相やめろ」と言わなければ検証ではない、というのだから、話にならない。話にならないことを連呼する人たちは、信用されなくなる。あるいは、もし万が一、日本国民の多数が「話にならない」議論を大真面目にするようになれば、それはそのような愚かな社会だったというだけである。どちらに転んでもろくなことはない。今のところは多数がそのような議論はしていないにしても、24時間飽くことなく憎しみを垂れ流す人たちの影響力は侮れない。まともな仕事をしている人たちは忙しいから24時間対応しているわけにはいかず、放置しているうちに、憎しみの言説が支配的になってしまい、「空気」に阿る多数派を作り出してしまうこともあるかもしれないからである。
この事件を検証するならば、シリアのような紛争地において邦人を保護する政府の能力・態勢が現状どのようなものであり、今後どのようなものであるべきか、そのためにはどれだけの人員や予算が必要か、そもそもそれを国民が望んでいるのか、という問題を検討しなければ意味がない。
これについての新聞やインターネット・SNS上の議論は、おそらくそのほとんどが、報告書を読まずに行われている。まずは全文を読み通して、問題の構造と論点を理解してから、発言してほしい。
フェイスブックでは昨日5月26日に長めのポストを投稿しておいた。かなり読者が多いようなのと、シェアしにくいようなので、この文章の後ろに貼り付けておく。
私の昨日のフェイスブックの投稿は、岩田健太郎さんのブログポスト「リスクマネージメントについて 邦人人質事件検証委員会、群馬大学病院、そして若者の失敗」をシェアする形だった。そのため、私の文章ではなく岩田さんの文章がシェアで回ってきた人も多いようだが、実際、説得的な文章なので、読んでみてください。
誰かの「責任」を追求することを使命と履き違え、今回の事件のように、政府側に責任をとらせることがどう考えても不可能な場面でさえもそのような責任を追求してみせれば、事実の究明はむしろなされなくなる。不当に罵られ辞めさせられるのであれば、誰も態勢の不備を検証などしなくなる。今回は私は外部委員として参与することで、政府の現在の態勢の不十分さについての指摘や、今後取りうる措置についての検討課題を、隅々に滑り込ませることができたと考えている。そして、官庁の態勢の手薄な部分は、一部は官僚組織が持つ弱点であるし、またその他の一部は、これまでの国民の意思によって望まれないとされてきたがゆえに手薄にされてきた部分である。政府に要求するだけでなく、究極的には国民の意思を問うしかない。国民の意思を問うためには、政府・関係省庁は選択肢を整理すべきだ、というのが有識者側の要望で盛り込んだ点の大部分の結論だろう。また、メディアの(フリージャーナリスト含む)、荒唐無稽な批判であっても、逐一反論するようにと要請した。反論しなければ事実であると思い込む人も多いからである。このことも官庁側は嫌がった。相手にすると正当性があるように見えてしまうという言い分であり、これはこれでもっともであるが、私はもう少し官庁は市民社会とコミュニケーションをとる能力を身につけるべきであると思う(それに対応して市民社会の側にも対話能力が育ってくることを私は願っている)。
考えてみると、文章を書くということを「専業」にしている、新聞記者やフリージャーナリストや作家たちから、人質事件に関してだけでなく、中東問題一般についても、このお医者さんが今回この報告書に反応して書いたような筋の通った、先を見通す一筋の光のような文章を、読ませてもらったことがほとんどない。少なくとも近い過去には思い出せない。
私自身が、文学・文化に埋め尽くされた家に育って、大学も当然のように文学部に行きながら、徐々に「文」の業界からは距離を置いていった経緯を、ふと思い出した。私は、日本の文学・文化やジャーナリズムといった業界に染まった大部分の人たちの、日本の外の世界に対する全般的で決定的な無知、論理的な思考能力の欠如、自由人ぶっていながら実は業界の「空気」を読んで流行に同調することが求められる不自由さ、そしてそのような自らが自らに選んで課しているはずの不自由さの由来を自覚することを可能にする内省の契機を備えていないように見えること、あまつさえその不自由さを外部の責に帰する言動が相次ぐことを、たび重なり積み重なって目撃した末に、ある時期から耐えられないほど、嫌になったのである。それは、私が生まれ育って学んで触れて憧れてきた「文」の美質とは、無縁であった。ある国の「文」はその社会の文化的生活を反映しているのだろう。そうであればなぜ、日本の「文」はなぜここまで貧しくなってしまったのか。あるいは「文」が精神の豊かさや高貴さではなく、貧しさや浅ましさだけを反映するような、何らかの変容が起こったのだろうか。
その後も私はごく自然に欧米圏の文化・文学には触れているし、アラブ圏の文学・文化にも研究対象としての興味を抱いている。そこには何か光るものが今でもある。しかし日本におけるその対応物には、かなり以前に深い失望を抱いて以来、触れていない。仕事で依頼されるとその瞬間だけ触れるが、仕事が終わると全て処分して忘れてしまう。「文学的」ということが事実に基づかず国際性がなく非論理的で情緒的に叫ぶことと同一視されるようになったのはいつからなのか。「哲学的」ということが頑固な思い込みを権柄づくでゴリ押しすることと同一視されるようになってしまったのはいつからなのか。
それに比べると、「流れ」で関わることになってしまった、テロ、エネルギー、安全保障といった泥臭く無骨な業界の現場の人たちと接する機会は、はるかに清新であった。
実際のところ私は、そのような複数の「現業」部門との接触で揉まれながら、ずっと一貫して「文」をやってきたつもりである。
(ちなみに日本の大学の文学部っていうのも、本来は「文学」をやるところじゃなくて、哲学を基礎とした諸学の体系としての「文」学部だったんだからね。いつから「文学」それもなぜか「小説」を読むところだという誤解が生じてしまったのだろうか)。
以下は昨日のフェイスブックへの投稿。
人質殺害事件の検証委員会報告書。ほとんど関心を呼ばなかった、あるいは、おざなりな批判報道はあったけれども深い議論をもたらさなかったように思う。参与してしまうと、かえって報告書の利点を言いにくくなってしまう。批判がまともなものがあれば反論したり検討したりできるのだが、今のところほとんどない。
ネット媒体・ソーシャル・メディアは、匿名・「有名」の書き手を含めて、威丈高に威張って発散するだけのメディアになっていると思う。
そんな中で、こういった指摘は有益だと思いました。
【よって、「誰に責任があったのか」という問いを立てられた場合、「誰にも責任はなかった。あのときはみんなそれなりに一所懸命頑張ったのだ」という回答しかでてこないのは必然である。
それを促すのは、「どこに問題があったのか」に無関心で、「誰に責任があったのか」だけを追求し続けるメディアである。だから朝日は社説で「責任のありか」と述べたのである。もちろん、問題なのは朝日新聞だけではない。他社の新聞も、テレビも、雑誌も基本的には「なに」よりも「だれ」にしか関心はない。
これは「最近のマスコミはなってない」という意味ではない。昔っから日本のマスコミは「なっていなかった」のだ。】
個別の対応についてはどう検証しても「現有の日本政府の能力で、現地の実情から行って、この程度のことしかできようがなかった」となるしかないことは、明らかでしたが、もし諸外国と同様の手段・能力を持つべきだとする国民の意思があるのであれば、政府の能力・態勢に不十分な点はいくらでも指摘できると思います。
なお、政府の態勢の不十分さ、改善点については、報告書の各節の後ろについている囲み記事になっている部分で、「有識者」との議論として、官庁が出してくる本文とは若干異なる文体で、書き込んであります。
そのような意味で多くの改善点が「有識者」欄に指摘されているので、「政府の態勢が不十分だ」という批判は当然ありえます。ただし現行の態勢は、戦後の日本が、ロープロファイルの平和主義国家として、対外諜報機関を作らない、紛争地で孤立した日本人を直接助ける手段を持たない(ひたすら当該国・周辺国に頼み込む)、といった制約を自らに課すことによって成り立ってきました。それは(判断が正確であったかどうかはともかく)国民の付託でした。そのことを忘れてはいけません。特にメディアは。政府が海外の邦人保護のために取り得る手段については、メディアが強く縛りをかけてきました。事件が生じた瞬間だけ「態勢がなっていない」と批判しますが、ほとぼりが冷めるとすぐにまた抑制せよと言い出します。
官庁としては、国民から付託されていない出すぎたことを「これまでやっていなかったから問題でした、今後はこれをやります」とは、今回の報告書の策定過程では絶対に書いてこない。そしてそれは正しい。
つまり、(1)情報収集態勢が手薄だということはわかっていることなので、他の先進国並みの諜報機関を作りますとか、(2)海外で人質になった邦人を特殊部隊を出して取り戻せるように法体系を整備します、装備と訓練を充実させますとか、(3)トルコがやったように、大量のイスラーム主義者を拘束した上で人質と交換するといった強権・超法規的措置によって非合法組織を抑制する交渉力をつけますといった、いずれもいわゆる「戦後レジーム」を覆すような検証結果は、もちろん、出していない。
ただし、国民の議論が深まればこれまでにない能力を保持するために選択肢を出す可能性はあるかもしれない、ということは、「有識者」の囲み記事を含む全文をよく読むと示唆されています。
検証委員会は、外部委員も含めて、今後の政策を作る立場ではないので、本当は越権行為かもしれないが、外部の「有識者」の意見という形で、メディア産業(あるいはネット言論)が深めてくれない論点を、報告書の隅々にそれぞれ短く記しておいたことで、将来の議論の基礎となるかもしれないと私は考えています。もちろんたいていのことは無駄になる。すぐにストレートに効果が出ることなどない。それは仕方がない。
もちろん逆に、(4)武装集団が日本人を人質にとっている可能性があるから、首相や官房長官が24時間対応しないといけないから、選挙もやりません、中東訪問もしません、という日本の自由主義と民主主義(あるいは非暴力の原則)を根底から覆すような選択肢を本来採るべきであったにも関わらず採らなかったから問題だ、責任とれ、という結論も、もちろん出していない。それについては、あまりに当たり前なので、様々な立場の外部委員「有識者」のいずれも特に問題視はしていなかったように思う。
メディア産業やSNSで「有名人」がわいわい言っているから、それが事実だ、ということにはならないのです。そんなこと言っていたらすぐまた日比谷焼き討ち事件や満州事変が起きますね。
実際のところ、新聞社説も含め、(4)という結論が出なかったから検証が不十分だ、と実際には言っているに等しいが、露骨にそれを言ってしまうとあまりに異様なので、ぼかしておいて、検証が不十分だという印象を醸し出した論評が大半であった。それは「責任」の追求という論理しか持たず、諜報機関の不在といった「問題」を論じることができないがゆえに生じる不明確さ・曖昧さではないかと思う。
もしかするとこれは、記者に論じる能力がないのではなく、論じると都合が悪いからなのかもしれない。そうであれば、むしろ都合が悪い、と言ってくださったほうが、議論が前に進むのではないか。ただその場合、「責任」追及は今回の事件についてはしにくくなるでしょう。しかし責任は他のところでいくらでも追及する機会があると思います。今回のような、凶悪な集団の暴力の威嚇・殺害の恐怖の力を借りて政敵の責任追及を行うことは、極めて筋が悪いと思います。もし万が一そのような議論が通れば、それは民主主義そのものを崩壊させるからですし、逆にそのような議論を行ったことで国民一般の支持を失えば、政府へのチェック機能を担うはずのメディアの信頼性が落ちるからです。
「有識者」との議論が盛り込まれた囲み記事の隅々まで読んでもらったかどうかわかりませんが、申し訳ないですが、少なくともこの問題については、記者さんが考える程度のことは考えて議論して、それなりに文面にも盛り込まれています。読まないで鼻で笑うのがかっこいい、という風潮は、いつの時代、どこの業界でもありますが、そんな風潮に染まって人生の長い時期を過ごすのは、むなしい。
若い人は、ひとしきりそういったモノ言いに大いにかぶれた上で、大人になってください。寄り道はいい。一直線は良くないよ。誰が信用できる大人で誰がそうでないのか、時に痛い目を見て知るのもいい。そのうち、怪しい論客は顔を見ただけで判断できるようになります。もちろんその傷は簡単には消えないし、うっかりしていると一生疼きながらふわふわと夢のように過ごしてしまうかもしれないけれども。ま、それもいいんじゃないですか。
話を戻すと、このお医者さんの指摘は建設的だなと思う。確かに日本社会には構造的に何か制約があり、問題はある。それをどう越えていくか。実は、多くの人が考えている。考えているが、そう簡単には変わらない。
官庁の組織の人間と、組織との距離の取り方がそれぞれに違う外部の人間が、かなりの労力を使った結果が人質事件の検証委員会報告である。この事件に関して「責任」を取らされるような主体がないことは明白だが、だからといって日本政府の態勢が万全であるわけではもちろんない。もちろんないが、それは誰がいつどのようにして課した制約によるのか、制約を取り外すことがふさわしいのか、できるのか。官庁の外部の人間が入ることで広がりが出たのは例えばこういった面での議論だったと思う。
こういった論点は、この報告書で結論を出すことではないが、将来の議論のきっかけにはしたい。そのように個人的には考えていた。そうでもなければ「責任」を誰かが取って辞めるか否かといった問題では、結論の幅がありようがないこの極端な事件について、多大な時間と労力を使うことに意味を見出しにくい(まあせめて、日本政府が明示的な政策によってシリア北部に人を送り込んだところそれが人質に取られた、という事件でしたら責任問題が発生するかもしれなかったのですが、今回は正反対です)。しかしもし、官庁の中からは考えにくいこと、あるいは個々人の官僚の次元では考えていても言い出しにくいことを、外部の人間が入ることで、官庁の名前で出す報告書に、参考意見とはいえ載ることで、何か将来に変化を残すことができるかもしれない。
このような淡い希望を、ほとんどすべての日々の仕事に際して抱いています。私にとってはそれが「理想」への近づき方です。理想っていうものは、朝の連続テレビ小説で次から次へと力量の足りない脚本家が出してくるような、一方的に突拍子もないものを連打するということではありません。
絶対的な立場に立って(立ったつもりになって)、威勢のいいことを言う人はいつでもどこにでもおり、私は日本がそのような人たち「も」いることのできる社会であって欲しいと思う(そのこともよく読むと報告書の文面には滑り込んでいますし、それ以外のあらゆる手段を用いて実現を図っています。正直に言って、もっと感謝してもらってもいいんじゃないか、と思う人もいます。個人的な付き合いはありませんし付き合いを持とうという気もないのですが)。
今年も東大・先端研のキャンパス公開が行われます。6月5・6日。金曜日と土曜日です。
私は6月6日(土)午前の、御厨・牧原先生のイベントにちょこっと出演する予定。詳細は先端研ウェブサイトの特設ページで順次更新されていきます。
(関係ないが、関西圏で「先端研」とグーグル検索すると立命館の方が出てくるのね)
刊行を遅らせている本の構成を思いっきり改造中。
ブログも改造中です(こちらはエンジニアに任せてあります)。
余談ですが、偶然録画が取れていた「情熱大陸 山口晃」を逃避して見てしまった。
個展に未完成の来迎図が展示されて、個展の開催終了まで描き続けても終わっていない(笑)。
しかし大作が完成してスポットライトを浴びて例の音楽が流れて大団円、なんてことは実際の画家の生活にはないのだろうから、情熱大陸のカメラの前だからこそ、意図してか無意識にか、完成途上を演じ続けたかのように見えてくる。密着取材そのものが「戯作」か。
そう思ってしまうのも、この人の場合はこれまでに積み上げてきた実績があるからだろう。駆け出しの新人が個展に未完成のものを出すわけにはいかない。
東大出版会のPR誌『UP』は巻末の「すゞしろ日記」だけ読んでいる人も多いと聞く。
画質はあんまりよくないけれど、この回はYouTubeのMBS公式チャンネルでも見られるようだ。
刺さった言葉。
「仕上がっていないのは当人の力量の話だと思っていますけれども、ええ」
「仕上げると、だいたい、塗り絵になっちゃうもんですから」
「かといって塗らないと途中に見えるんで・・・」
数日ごぶさたしておりました。週末に原稿書きで取り込んでおりました。ああもう夕暮れ。
ジル・ケペル著の『中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)』の少部数の増刷について以前に通知したところ(「『中東戦記』が少部数のみ増刷に」2015年4月20日)、アマゾンでは連休中に在庫数より多くの注文が多く入ったため自動的に注文も不能な状態になっていましたが、回復したとのことです。
中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)
現状ですでに「残り4冊」となっていますが、講談社には在庫はそれなりにあるようなので、注文すれば入手可能です。こういった売れることが予想されていない本に注文が重なって、注文・予約が在庫予測を一定割合以上超えると、自動的に注文自体を取らなくなるようなので、またしばらく注文ができない状態に逆戻りするかもしれません。
このブログももう少し広く役に立つようにリニューアルしようかなどと考えているため、若干発信が滞ったり、連載の自動送信にしたりしております。近く新たな形でお見せできると思いますので、しばしお待ちください。
といっても本を必死に書いているので、頭のリニューアルの方が真剣に進行中。
『中東協力センターニュース』に寄稿しました。
池内恵「中東情勢を読み解く7つのベクトル」《中東 混沌の中の秩序(1)》『中東協力センターニュース』2015年4月号、8−16頁
【ココをクリックすると直接ダウンロードされます】
『中東協力センターニュース』には2012年以来連載を続けてきています。前回までは「『アラブの春』後の中東政治」という連載タイトルにしていましたが、前回の寄稿で告知したように、このタイトルも役割を終えたと思われますので、新たな連載タイトル「中東 混沌の中の秩序」を設定し、改めて第1回と致しました。通算では9回目になります。
これまでの連載については、以下を参照してください。
「【連載】今年も続きます『中東協力センターニュース』」(2014/04/03)
「【寄稿】イラク情勢12のポイント『中東協力センターニュース』」(2014/07/03)
「【寄稿】『中東協力センターニュース』に寄稿」(2014/11/08)
また、『中東協力センターニュース』そのものが今号からリニューアルされ、次の二点が変更になっています。
(1)隔月刊から月刊へ
(2)印刷物から電子版・ニュースレター配信へ
これまでは隔月刊の二号に一回程度の間隔で連載を寄稿しており、それが滞ったりするとさらに不定期になっていたのですが、4月から月刊になったことをきっかけにして、三号に一回のペースに固定して、「四半期」ごとの認識を書いて残しておこうと思っています。
なお、ニュースレター配信となったので、ココから登録しておくと無料で毎号メールで雑誌全体を送ってくれます。ホームページでは論考ずつダウンロードできます。
印刷・隔月刊時代のものも、各論考がウェブにPDFで掲載されているので、遡ってダウンロードすることができます。各論考の水準にはばらつきがありますが、一般読者にとっても有益な論考が含まれています。
学問・研究と、その成果を伝えるメディア・出版のあり方について、このブログの通奏低音として断続的に実例(実作)を示しながら議論していますが、「業界」向けの媒体には、特有の可能性があると考えています(もちろん限界もある)。
「業界」の雑誌は、ある程度事情を知っている人たち、あるいは事情を知らないといけないはずの人たちに集中的に届く媒体という意味で効果的です。また、そういう媒体に適切な議論を載せていくことが、専門業界を通じて結果として日本社会の中東に関する判断能力・実施能力を高めることにつながると考えています。