今年の1月以来、リアルタイムの情報発信にはフェイスブック(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi)を多用していますが、このブログも今後も引き続き活用していきたいと思います。中東に関する記事の断片的な紹介などはフェイスブックの方に回し、ブログでは従来からの情報のストック・データベース構築の場としての意味を一層強めたいと考えています。
次の本の完成のために限界まで執筆作業をしており、なかなかブログにまで手が回りませんが、一旦緩急あれば、公的な発言の定式版はやはりこのブログに掲載することになりそうです。
さて今回はこのブログの基本モードの「最近の寄稿」の記録。
ちょっと連絡が遅れましたが、5号に1回のペースで連載中の『週刊エコノミスト』の「読書日記」も、もう9回目になりました。(連載の立ち上がりから5回目までをまとめた項目はこちら、「新書」についてぼやいた回はこちら、前回の待鳥聡史『首相政治の制度分析』についてはこちら)
池内恵「日本で理解されない政教分離の思想」『週刊エコノミスト』2015年3月3日号(2月23日発売)、75頁
今回も電子版・Kindle等では読めません。
バックナンバーがなくなって中古になると値が上がりますのでご注意。
本当は、シャルリー・エブド紙襲撃殺害事件の際も、マーク・リラにコメントを取りに行くようなセンスのいい新聞文化部があったらよかったんだけどね。
この記事について、フェイスブックで2月24日に言及していましたので、その部分を再録します。個人的な通信も入っており、ややくだけた文体であることはメディアの性質上、ご容赦ください。
なお、末尾で触れた『シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神』読売新聞の書評で取り上げ、『書物の運命』にも再録してあります。
マーク・リラって、思想史界のウッディ・アレンみたいな人だと考えると分かりやすい。難しそうなことを言っているが実はユーモアで、わかる人にしかわからない。
#書評
中東より帰国直後から時差ぼけで寝不足のまま講演・大学事務・原稿等々仕事していたら「くらっ」ときて倒れましたので今日明日安静にしています・・・しかしこれだけは通知しておかないと。
昨日2月23日(月)発売の『週刊エコノミスト』3月3日号の読書日記を掲載しています。
今回取り上げたのはマーク・リラ『神と国家の政治哲学 政教分離をめぐる戦いの歴史』。政教分離の思想史。政教分離の確立の歴史と共に、どういうときに揺らぐかも、過去の例から示している。形式的には、今起こっている揺らぎも同じもの。政教分離への挑戦の主体が若干変わっているだけ。
シャルリー・エブド紙襲撃殺害事件についても、あるいは「イスラーム国」の統治や世界秩序への挑戦の何が問題であるかについても、日本での議論はピントが外れていた。なぜか、というと、政教分離の意味を日本では大多数が、いわゆる「西洋」を典拠にする知識人すらも、わかっていないからだ。我々の自由がこれに依拠しているということをあまりにも軽く放棄してしまいすぎる。だから自由がないんだよ。
また、シャルリー・エブド紙襲撃殺害事件について、フランスの知識人の発言とされるものを、新聞や雑誌等で紹介されるものを見た限りでは、こちらもあまり要領を得ていなかった。どこに限界がありどこに挑戦を受けていて、何を守らなければならないのか。結局狭い党派の議論に流れて、問題を認識できていない。
フランスの知識人が、自分が依拠してきた党派や枠組みでは捉えきれない現実の変化に向き合いきれず、自分の社会の問題、自分の思想の弱点を相対化できていないのではないかな。
要領を得ない代表的な思想家はエマニュエル・トッド。彼の説ではアラブ人は婚姻を通じてフランス社会に現実に統合されているはずだった。それが「文明の接近(ランデブー)」説。日本では、これが翻訳された時には「アメリカのハンチントンの文明の衝突説を超えた」等々、これを持ち上げる論集なども出た(私もこれに依頼されたので、風刺する一文を寄稿したが、編集者はすごい嫌な顔をした。これには後日談があるが・・・)。
しかしアラブ人が統合されていなかった、というのであれば、あなたの説のどこがまちがっていたのですか?と日本のメディアは聞かないといけないのに、誰も聞いていない。トッドによる「フランスでは僕の話を聞いてくれない」なんて泣き言を日本の各紙が紹介したが、彼については聞いてもらえない理由があるだろう。「統合されている」という説が間違っていた、とみなされているんだから。
西欧については、米国の西欧通の知識人の一部に、西欧が近代にもたらした貢献を受け継ぎつつ相対化する、非常に良い視点がある。アメリカの大学世界でのヨーロッパ現代思想の需要は浅薄なことも多いが、リラのような第一級の公共的知識人の著作を読むと、やはり今現在のアメリカの知識社会の広さと資源の厚みは、西欧より上だなと思う。それは過去1世紀にわたって超大国の地位にい続け、過去20年以上単極支配をしてきた超大国だから、文化面でも余裕が出るのは当然なのだろう。多少くたびれてきても、余裕が違うなと思う。西欧は「貧すれば鈍す」なんだよ。日本は全く人のこと言えないけどね。
マーク・リラはそういった、超大国だからこそ持っている豊富な隙間、懐に生まれてくる知識人だな、と感じる人の一人(『シュラクサイの誘惑―現代思想にみる無謀な精神』も抱腹絶倒。哲学者はいかに政治家に期待しては裏切られるか・・・の思想史)。