韓国語版『イスラーム国の衝撃』

久しぶりに、『イスラーム国の衝撃』についてアップデート。

『イスラーム国の衝撃』には韓国語訳があります。かなり前に出ているはずです。しかし手元に送られてこないのです。翻訳されてもなかなか著者の手元に来ないということはよくあることです。日本語に訳されている外国語の本についても、日本語だとよく分からないということもあり、原著者の手に訳本が渡っていないケースは目撃してきました。私自身もそのような状態にあるわけです。

ふと思い出したので文藝春秋を通じて調べてもらっているのですが、とりあえず韓国語訳についての出版社のホームページはありました。

http://21cbooks.book21.com/book/new_book_view.php?bookSID=3979

タイトル(らしき)ところを見ると그들은 왜 오렌지색 옷을 입힐까とあります。自動翻訳にかけてみますと、「彼らはなぜオレンジ色の服を着るのか」といった訳が出てきます。

表紙の写真を見ると、そこにはISと大きく書いてあります。

韓国語版『イスラーム国の衝撃』表紙

たぶんこれであっているようです。

ホームページには日本語原著タイトルだけは日本語で表示されております。その下は私の名前のハングル表記。

이케우치 사토시, 그들은 왜 오렌지색 옷을 입힐까, 21세기북스, 2015.

ということでいいのかな、書誌情報的には(勉強していない言語なのであてずっぽうですが、自動翻訳という人工知能でこの程度はわかるものなのだなあ、あらかじめ知っている内容であれば)。3月29日に刊行されていたようです。日本語版が1月20日に出た後に交渉がありましたから、早いですね。かなりの速度で翻訳されて出たようです。

この本の韓国での翻訳権は競りにかけて、諸条件を勘案して比較的良さそうな条件を出してきた出版社にしました。競合して条件を提示した新聞社系の出版社も良さそうでしたが、新聞社系ではない文藝春秋の本ですので、同じような性質の出版社に出して欲しいですね。韓国の学者による独自の解説などをつけるという提案があると、かえって本文と別の議論がなされるかもしれず予測がつかないので、そのようなものがつかないこの出版社にした記憶があります。

例えば外国の本で、日本語訳では例えば佐藤優さんや池上彰さんの解説がついて、表紙でも帯でもそちらの名前と写真が大きく出ているようなことがありますが、そのような事態がなるべく起こらないようにと考えたのです。

ただ、韓国の出版事情にそれほど詳しくないので、出版社の性質や、どのような売り出し方、売れ行き、受け止め方であったかなどは、分かっていません。調査中。

 

 

 

『中東戦記』のアマゾン注文が再開 ブログもリニューアルを思案中

数日ごぶさたしておりました。週末に原稿書きで取り込んでおりました。ああもう夕暮れ。

ジル・ケペル著の『中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)』の少部数の増刷について以前に通知したところ(「『中東戦記』が少部数のみ増刷に」2015年4月20日)、アマゾンでは連休中に在庫数より多くの注文が多く入ったため自動的に注文も不能な状態になっていましたが、回復したとのことです。


中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド (講談社選書メチエ)

現状ですでに「残り4冊」となっていますが、講談社には在庫はそれなりにあるようなので、注文すれば入手可能です。こういった売れることが予想されていない本に注文が重なって、注文・予約が在庫予測を一定割合以上超えると、自動的に注文自体を取らなくなるようなので、またしばらく注文ができない状態に逆戻りするかもしれません。

このブログももう少し広く役に立つようにリニューアルしようかなどと考えているため、若干発信が滞ったり、連載の自動送信にしたりしております。近く新たな形でお見せできると思いますので、しばしお待ちください。

といっても本を必死に書いているので、頭のリニューアルの方が真剣に進行中。

ジル・ケペル『中東戦記』を、市場からなくなる前にどうぞ

このブログで紹介しようと思いつつ、自著(翻訳ですが)なので後回しにしてきたこの本。


ジル・ケペル著(池内恵訳注・解説)『中東戦記 ポスト9.11時代への政治的ガイド』(講談社選書メチエ、2011年)

どうやら在庫僅少らしい。もし重版されないと、手に入らなくなりますので、お求めの場合はお早めに。最近売れているので店頭では品薄になって、出版社の在庫もほとんどないらしい。

アマゾンの在庫は切れているようだし、ジュンク堂を検索してみると、見事にほぼ全ての店舗で在庫僅少の△になっている

この本は、編集者との会話の中で、私が提案して私が訳して、詳細な訳注をつけて出したもの。

副題の「政治的ガイドブック」というのは私がつけたもので、原著のフランス語版に、英訳版でついた論考も加えて、さらに訳注を全ページの下に詳細につけて、どこにもない決定版にした。

9・11以後の時代のイスラーム世界の基調となるトレンドを、皮膚感覚でとらえた「フィールド記録文学」とも言える名著です。哲学と社会科学と文学が連続しており、知識人が社会的発言をすることが原則という、アメリカとは異なるフランスからでこそ生まれる作品でしょう。実証性がない!とアメリカの学会では怒られそうですが。

著者はイスラーム主義過激派の研究の先駆者のジル・ケペル。フランスのパリ政治学院の先生です。1981年にエジプトでジハード団がサダト大統領暗殺事件を起こしたその時にまさにエジプトでイスラーム主義過激派の研究をまとめようとしていた。

その後、フランスの郊外問題としてのイスラーム主義の台頭を先駆的に問題視した。世界的なジハードの広がりにも早くから注目して大著を現していた。典型的なヴィジョナリーです。

そのまま訳すと、中東の社会に触れたことのない日本の読者にはわからない部分が多いかと思って、訳注それ自体を、中東の政治・社会・文化のガイドブックのつもりで詳細に書いておきました。あと、文中の地図はすべて私が講談社の編集者を泣かせながら作ったものです。

この本の価値は時間が経っても変わらないと思うけど、今時の出版社がちょっとずつしか売れない本を持ちこたえられるかわからないから、市場からなくなる前にどうぞ。

『現代アラブの社会思想ーー終末論とイスラーム主義』が9刷に

『現代アラブの社会思想ーー終末論とイスラーム主義』の第9刷が、先月から市場に出ています。

Kindle版も出ていました。

9刷の部数は2100部、と細かい。新しい帯が付いています。

累計は5万6100部になりました。

2002年の1月に刊行されてから13年間、よく長く生き続けてきました。長く生き続けるということこそが、評価の一つと思っています。

この本は、自分自身の研究者としての歩みを振り返る時に、忘れることのできない本です。

なによりも、あの時点でしか書けない本でした。

あらゆる研究者は、最初の研究で、最もオリジナルなものを出さねばなりません。世界中でまだ誰も言っていないことを言わないといけないのです。

しかしなかなかそれはできません。思想史であれば、大抵の影響力のある思想テキストは全て隅々まで読み尽くされ、論文の対象にされ尽くしているからです。

私の学部から大学院にかけてのエジプトでの資料収集で、いくつかのテーマと資料群が浮かび上がりましたが、その中で言及することが最も厄介で、かつ先行研究がない対象が、アラブ世界に広がる、膨大な終末論文献でした。

この本の後半部分を構成し、最もオリジナルな部分は、2001年11月に刊行されていた論文「前兆・陰謀・オカルト──現代エジプト終末論文献の三要素」末木文美士・中島隆博編『非・西欧の視座』(宝積比較宗教・文化叢書8、大明堂、2001年、96-120頁)からなります。

宗教学・思想史の固い叢書に、全く新しい、つまり評価の定まっていないテーマと資料についての、全く無名の著者による論文の収録を認めてくださった編者の先生にはひたすら感謝しておりますが、それを新書という一般書の枠に収めるというものすごく無茶な構想を受け入れた、当時の講談社現代新書の編集者の大胆さも、今振り返ると、傑出したものでした。

そして、2002年1月という時期に出せたことが、何よりも今となってはかけがえのないことです。時間を巻き戻すことはできません。今なら、もっと完成度の高い、整った形で書けるかもしれませんが、それを2002年に戻って出すことはできません。

研究者は生まれてくる時代を選ぶことはできません。

自分が大学院にいる間に現れてきた、まだ他の研究者が触れていない対象に、誰よりも早く手をつけて成果を出さなければならないのです。

中東と、あるいは学術の世界をリードする欧米と、言語や情報のギャップのある日本の研究者として、中東の思想や政治をめぐって誰よりも早く新しいテーマに取り組んで成果を出すことは、至難の技です。

その中で、この本とその元になった論文は、結果として、欧米でこの文献群を用いたまとまった研究が出るのに先んじて発表した形になりました。

その後数年すると、現代の終末論文献を扱って学界に名乗りを上げる若手研究者が、米国でもフランスでも現れてきました。あと数年ぼやぼやしていたら、私の本は「後追い」になってしまったでしょう。

でも当時は日本では「後追い」が普通で、むしろ、全く欧米の先行研究がないものをやると、評価されなかったりしたのです・・・「欧米の権威」がやっていることを輸入するというのが主要な仕事だったのですから。

その後、このテーマは結果的に「欧米の権威」が扱うものとなりました。一つ目はこれ。
David Cook, Contemporary Muslim Apocalyptic Literature, Syracuse University Press, 2005.


Kindleでもあるようです(David Cook, Contemporary Muslim Apocalyptic Literature (Religion and Politics))。

クックさんは短い論文の形では、私より早く現代の終末論文献の存在に着目していたようです。しかしまず古典の終末論について本を出してから、現代の終末論文献に本格的に取り組みました。

古典終末論について書いたのはこの本です。
David Cook, Studies in Muslim Apocalyptic, The Darwin Press, 2002.

クックさんは私と同年代ですが、その後、 米テキサス州のライス大学の准教授になりました。そして、終末論についての研究を一通り発表したのち、ジハードの思想史に取り組んでいます。
David Cook, Understanding Jihad, University of California Press, 2005.

紙版は増補版(Understanding Jihad)が出版される予定のようですが、Kindleでは初版が買えます。研究上は初版が重要です。もちろん、その後の「イスラーム国」に至るジハードの拡大をどう増補版でとらえているか、クックさんの研究がどう進んでいるかにも大いに興味がありますが。

「終末論からジハードへ」という研究対象の変遷は、イスラーム政治思想の内在的構造化が、必然的な道行きと思います。

フランスでも同じ素材で研究が出ました。
Jean-Pierre Filiu, L’apocalypse dans l’Islam, Fayard, 2008.

英訳はこれです。
Jean-Pierre Filiu, tr. by M. B. DeBevoise, Apocalypse in Islam, University of California Press, 2011.

フィリウさんはパリ政治学院で学位を取って母校で教鞭を執っている人です。この著者は研究者になったのは私より遅いのですが、年齢はひと回り上(1961年生まれ)で、まず外交官として中東に関わったとのことです。

私は、フィリウさんが外交官をやめて大学院生になったかならないかぐらいに、のちに彼の指導教官となるジル・ケペル教授に会いに行く機会がありました。その際に出たばかりの私の『現代アラブの社会思想』を見せて、日本語なのでケペル教授は当然読めませんが、資料の写真を多く入れておいたのと文献リストを詳細につけていたことで、扱った文献について話が盛り上がりました。

ケペル教授もこの文献群の存在は認識しており、この文献を扱った本を出したことについては、けっこう驚いているようでした。後に、自分のところに来た学生がこの文献群をテーマとして選ぶ際に、微妙に影響を与えたかもしれません。といってもフィリウさんは私よりずっと以前から中東に関わっているので、とっくにこの文献群の存在と影響には着目していたでしょう。

その後フィリウさんは活発に中東論者・分析家として活躍しています。

私について言えば、この本を書いたのは、日本貿易振興会アジア経済研究所の研究員になって1年目の年でした。終身雇用のアカデミックな研究所に就職して、普通なら放心してだれてしまうところでしたが、就職して半年で9・11事件に遭遇し、中東の激動が始まるわさわさとした予感の中で、衝き動かされたように書きました。

クックさんやフィリウさんのような学者が研究を完成させる前に、このテーマについて論文と本を出しておけたことは、今振り返ると、当時の自分を褒めてあげたい気持ちになります。当時は他国の研究者との競争など考えず、ただ無我夢中に論文や著書刊行の機会を求めて、与えられた機会に必死に出しただけだったのですが。

また、この本が広く知られるための後押しとなったのが、この年の暮れに大佛次郎論壇賞を受けたことでした。

どなたかが候補作にあげてくださったのですが、それを審査委員の一人、米国で長く研究をしてきたある先生が、強く推してくださったことで、一気に流れが決まったという裏話を聞きました。どうやらかなりの番狂わせであったような雰囲気でした・・・

当時は「研究員」という立場で賞をもらうことはまずないというのが、日本の言論界の暗黙の前提でした。当時の日本は今よりずっと不自由で、序列を気にするガチガチの社会だったのですね。

また、端正でリベラルな学究の先生が、このような野蛮なテーマを扱った破天荒な学術研究を一番に推してくださったという話も、一般的な印象とは合わないかと思います。

しかしかなり経ってから米国の学術界や社会一般との接点ができるようになったころに気づいたことは、その先生は、この本の出来がいいからとか、完成されているからといった理由でこの本を推したのではないだろう、ということです。

そうではなく、一番変わった説を打ち出している、一番若い人の候補作に、米国での当然の作法として、機会を与えるという意味で賞を与えただけなのでしょう。

米国の社会は、何か人と違うことを考えている人が、一歩前に踏み出して発言しようとした時に、その機会を与えてくれる社会です。何かをやってやるぞという若い人に、まず一回は機会を与える。それが自然に行われています。

機会を与えられて発言を許されたということは、それだけでは何も意味しないのです。その発言が意味のあるものか、社会に何か違いを与えられるか、その後の活動で真価を証明して初めて、その人と作品は評価を得られる。

機会を与えられたということだけでは、評価されたということを意味しないのです。

このあたりは、「発言」があらかじめ「立場」によって決まっており、その評価も立場の上下をもってあらかじめ決まっていかのような前提を抱いている人が多い日本では、あまり理解されていないことかもしれません。そのような前提の下では、発言の機会を確保しているということ自体がなんらかの「上」の立場であることを意味し、すなわち内容の評価を意味するという、強固な観念が生まれます。

米国の社会にも、その社会が生む国際政治の政策にも、悪いところはいくらでもあるでしょう。しかし、「若い人が新しいことをやろうとしているときに、一回は機会を与える」という米国の社会の根っこに強固に定着した原則は、素晴らしいものだと思いますし、それが米国の活力や競争力の源であると思っています。

そのような米国的な発想により、大量の出版物の渦の中で押し流され消えそうになっていたこの本が、拾い上げられ、翼に風を送られたかのように再び浮上したことは、奇跡的であったと思います。この本が今後も飛び続けられるように、私がたゆまず風を送り続けることが、機会を与えてくださった先生に応えることになるのだと思っています。

『中東 危機の震源を読む』が増刷に

2009年に刊行した『中東 危機の震源を読む』が増刷されました。

2004年12月から2009年4月までに、国際情報誌『フォーサイト』誌上で行った、毎月の「定点観測」をまとめたものです。当時は『フォーサイト』は月刊誌でした。

足掛け5年にかけて行った定点観測を見直すと、その先の5年・10年にわたって生じてくる事象の「兆し」があちこちに散らばっています。自分でも、書き留めておいて良かったと思います。そうしないとその瞬間での認識や見通しはのちの出来事によって上書きされ、合理化されてしまいます。

瞬間瞬間での認識と見通しを振り返ることで、現在の地点からの将来を展望する際の参照軸が得られます。

今年になって中東やイスラーム世界が突然話題になったと思っている人は、この本を読んでみれば、今起こっていることの、ほぼ全てが2000年台半ばから後半にかけて生じていたことの「繰り返し」であることに、気づくでしょう。それはより長期的な問題の表れであるからです。

当時からこういった分析を本気で読んでいた方にとっては、今起こっていることは、驚くべきことではなく、「来るべきものが来た」に過ぎないでしょう。

新しい帯が付いています。

中東帯付カバーおもて小

裏表紙側の帯を見てみましょう。

中東帯付カバーうら小

ここで項目一覧になっているのは、この本の目次から抜き出したものです。今新たに作ったキャッチフレーズではありません。

*アメリカ憎悪を肥大させたムスリム思想家の原体験
*イラク史に塗り込められたテロと略奪の政治文化
*「取り残された若者たち」をフランスはどう扱うのか
*風刺画問題が炙り出した西欧とイスラームの対立軸
*安倍首相中東歴訪で考える「日本の活路」

なお、裏表紙の真ん中に刷ってある「イスラームと西洋近代の衝突は避けられるかーー」云々も、初版の2009年の時から印刷してあります。

このような議論は「西洋近代はもう古い」「イスラーム復興で解決だ」と主張していた先生方が圧倒的に優位で、「イスラーム」と名のつく予算を独占していた中東業界や、中東に漠然とオリエンタリズム的夢を託してきた思想・文学業界では受け入れられませんでした。

しかし学問とはその時々の流行に敏感に従うことや、学会の「空気」を読んで巧みに立ち回ることではないのです。学問の真価は、事実がやがて判定してくれます。

『イスラーム国の衝撃』の主要書店での在庫状況を調べてみました

「サポートページ」を立ち上げてみたのだが、そもそも「書店に行っても置いていなかった」「インターネット書店では品切れ」のため手に入らないという声がかなり届く。

増刷がかかっており、1月28日に2刷、1月30日に3刷が流通するとのこと。もう少し待ってください。

ただ、いくらなんでも初刷1万5000部が1日ですべて売り切れたとは思えない。ネットから直接買える経路では売り切れたにしても全国の書店にはまだあるはず。

それで調べてみました。

在庫状況は、文藝春秋のウェブサイト上の『イスラーム国の衝撃』のページの下の方から辿っていくことができます。
http://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166610136

確かにインターネット書店は軒並み売り切れ。1月21日頃にはほとんどすべてのインターネット書店で売り切れていたようです。

中古書店が新品らしきものを1200円〜3000円弱で売りに出している(1月24日現在)。供給が間に合わない間に生じた時限的市場を果敢に開拓しています。
コレクター商品
中古品

丸善・ジュンク堂では全国の店舗での前日集計の在庫状況が一覧で出てくるので便利だ。
http://www.junkudo.co.jp/mj/products/stock.php?isbn=9784166610136
あるという表示がされている。このデータが現実を反映していたらの話ですが。

紀伊国屋では各店舗の在庫状況が、オレンジのアイコンをクリックすると出てくる。
https://www.kinokuniya.co.jp/disp/CKnSfStockSearchStoreSelect.jsp?CAT=01&GOODS_STK_NO=9784166610136

ない店もあるが、ある店もある。

やはり、完全に売りつくしたのはインターネット書店であって、全国のリアル書店の倉庫にはあるはずなんですよね。

これは新書の棚が、一冊あたりで、狭くなっていることが理由です。各出版社が、経営が苦しいので新書をあまりもたくさんの点数を出しすぎなんです。一冊ごとの質が下がるだけでなく、一点あたりの陳列面積が狭くなる。

そうするとこの本のように一時的に爆発的に売れている場合、売場に出してあるものが売れて補充されない間に本屋に行った人は、棚にないのでないものと考えてしまう。そうなると書店で買わずにインターネット書店で買うようになる。しかしそうするとインターネット書店に一度に殺到するので、品切れになって入荷期限未定ということになり、品薄感が仮想的に高まる。

出版社が、自分の経営のために、一時しのぎで膨大な点数の新書を出すことで、必要な本を流通させる機能を書店が果たせなくなっています。出版社が本屋を殺しているんです。

各出版社は粗製濫造の本の出版点数を減らし、一点あたりを大事に作って、長く、たくさん売っていくべきです。

そうすれば隣国ヘイト本や、学者もどきの現状全否定阿保ユートピア本など、煽って短期的に少部数を売り切るタイプの本はなくなっていきます。

元来が出版のあり方について一石を投じるつもりで書いた本でしたが(その意図や、事前の出版社との折衝で何を問題視し何を要求したかなどは、そのうちにここで書きましょう)、結果的に出版界の池に巨石を放り込んだ形になりました。

この本の発売日に、本書の帯に偶然掲載しておいたJihadi Johnが出演する脅迫ビデオが発表されたという、私の一切コントロールできない事情によって販売を促進したという面は多大にありますが、それ以外にも、本ブログでの問題提起が予想外に大規模にシェアされていった現象が大きな影響を及ぼしています。

興味深い現象です。続けてウォッチしていきましょう。

『イスラーム国の衝撃』プレヴュー(1)目次と第1章

文春新書で1月20日に出る『イスラーム国の衝撃』ですが、アマゾンなどの予約注文画面では目次が出ていないので、ここで公開。

1 イスラーム国の衝撃
2 イスラーム国の来歴
3 蘇る「イラクのアル=カーイダ」
4 「アラブの春」で開かれた戦線
5 イラクとシリアに現れた聖域
6 ジハード戦士の結集
7 思想とシンボル−−−−メディア戦略
8 中東秩序の行方
むすびに
文献リスト

「1 イスラーム国の衝撃」では、2014年6月から7月にかけての「衝撃」を描写しつつ、具体的にどこがどう衝撃だったのか概念的に整理しておく。そしてこの本の全体構成。イスラーム政治思想史と中東比較政治・国際関係論の両方から見ていくということですね。これは方法論としてその両方が役立つ、ということです。同時に、対象となる「イスラーム国」の実態が、グローバル・ジハードの思想・理念の展開と、「アラブの春」による中東地域政治の変動が結びついたところにある、ということです。

これがおそらく現在のところ「イスラーム国」を説明するための一番合理的な視点の組み合わせなのではないかなと思います。この見方で見ていくと、イラクやシリアで勢力を伸ばす組織の構造原理や、そこに集まっていくグローバルな人の流れの背後にあるメカニズム、さらにはベルギーやカナダやオーストラリアなどで散発的に生じている「ローンウルフ」型の呼応・模倣の動きとどう関係するのかなど、「イスラーム国」という多角的な現象の総体が統合的に理解できます。

もちろん「俺(私)はずっとイラク(あるいはシリア)を見てきたんだ、イスラーム国はイラクとシリアで活動しているんだから、イラクとシリアの現場のリアルな実感だけが真実なんだ」というタイプの視点からの議論は常に傾聴に値します。それらは「イスラーム国」として現れてくる現象の全体像とは別ですが、全体像を構成するための必要なパーツです(それらが適切に全体と結びつけられれば、の話ですが)。

もちろん、「イスラーム国という現象は実はどうでもいい。本当に日本人が知るべきはイラク(あるいはシリア)だ」という視点・主張はあっていいでしょう。「イスラーム国」について興味を持ったついでに、「イスラーム国」絡みでイラクやシリアの政治・社会について勉強してみる、というのは悪いことではありません。というか、大前提としてイラクについてもシリアについても大多数の人は何も知らないし、知ろうともしていない。「イスラーム国」がらみでにわかに参入してきた社会学者や宗教学者などの書き手においておや、イラクについてもシリアについてもイスラーム思想の基本についてまともに勉強する気がないのです。なのに書く(笑)。なんなんだろう。それでは「イスラーム国」について読み手がよくわからないのは当然です。だって書き手がそもそもわからずに書いているんですから。

(ただし、それぞれの分野について「分かっている」地域研究者は、そちらはそちらで特有のしばしば強烈なバイアスをかけてくるので、それらを差し引いて読んでいく必要があります。初心者にはちょっと難しいかもしれません。「バイアスは中東のスパイス」だと思って読みましょう)。

私も地域研究者としてはそういったパーツの開発を細々とやっていますが、同時にそれらのパーツが持つ意味をどう評価するかは、全体像との総合に依存しているので、余計な価値判断や業界の自己主張抜きで全体像の構成と個々のパーツの評価を行うにはどうすればよいかを常に考えていて、その一つの結論をこの本に書いてあります。

また、イスラーム思想の研究は、それぞれの思想が生まれ出てくる根拠となる地域性を詳細に見極める必要が常にあり、地域研究的視点は絶対に不可欠と考えていますが、同時に、一旦思想として発信されてしまうとその後は特定の地域に限定されずに広がるところにイスラーム思想の特徴があり、そこは「自分は特定の地域の地域研究者である」というアイデンティティ・プライドに過度にこだわらずに視野を広く取ってみていく必要があると考えています。極東の島国の一人の中東研究者のアイデンティティや、身も心も縛られた業界論理などというものは、中東の現実にはまーーーったく関係がない、ということに気づかされる瞬間を、中東に関わっていれば幾度も経験するはずです。

(話は飛ぶようだが、NHK「マッサン」の描写にイライラする人たちにはわかってもらえるかもしれない。それも芝居の中のマッサンにではなく、そのようなマッサンしか造形できない脚本家にイライラする人たちには。理想とか大義を追求する人、というものを現代の日本の脚本家は描けなくなっているのではないかな。筋を通す人=未熟で空疎な「理想論」を振りかざす人、ということになってしまうんだよね現代の日本の脚本家に描かせると。大義を追求するってもっと違うやり方で実際にやって見せている人はあちこちにいると思うんだが、多分脚本家の身近にそういう人がいないんだろうな、という気がする。「清濁併せ呑む」タイプの人物造形はやたらとうまい、というところから、今時の脚本家の生態・交際範囲がそこはかとなく伝わってくる。まあそれもいいんだけどね。マッサンについては脚本グズでも俳優が美男だからこれでもなんとか許せるとかいう次元の話になってしまっている気がするが・・・)

もちろん「イスラームは近代西洋の領域国民国家を超えるんだ、リベラリズムは偽善だ、世俗主義は差別だ」といった信念・願望・主張などを「イスラーム国」をネタにしてガンガン連打するといった本があってもいいですが、それは日本の書き手(あるいはそれを受容する読み手)の心を自然主義的に表出しているという意味ではリアルかもしれませんが、イラクやシリアや中東やイスラーム世界の現実を写し取る枠組みとしてはそれほど適切ではないと考えています。そういう本は固定読者層がいるのである程度売れますし喜んで出すメディア企業は数多ありますが、「イスラーム国」理解にも中東理解にも直結はしません。ある種の勇ましいモノ言いから勇気をもらうタイプの特定ファン層への訴求力が抜群に高い「関連商品」として買うならいいのではないかな。

ただ、「なんでも否定」系の人たちが一定数以上になると社会不安、政治システム崩壊の原因になるので、超越願望・支配欲求・現状否定が強すぎる書き手と読者の存在はある程度注視していた方が、市民社会を守り育てていくためには重要なことだと思います。

そのためにも、言論の自由は重要。

自由にしておくから無茶・無謀・妄想・陰謀論的なことを言って恥じない人たちが可視化されるのです。同時に、「あ、これ陰謀論ね」ときちんと指摘してあげないと市民社会は育たない。面倒臭いが仕方がない。そういう人たちから悪口とか言われていろいろ妨害される立場になるとさらに鬱陶しいし個人的には不自由になるんだが仕方がない。

「イスラーム国に共感する若者」なるものは日本には社会・政治現象として取り上げるに値する規模では存在しないと思いますが、「イスラーム国に共感する若者」なる言説に「萌えて」しまっている年配(高齢)の方々は、メディア・言論業界を中心に多くいます。これは一種の社会現象・思想的現象と言ってもいいかもしれません。その背後には日本社会の逆ピラミッド的な人口構成からもたらされる特定世代に付与された過度の発言力や、団塊世代からバブル入社世代の知識人(*注1)に特有の、世代・職能的(*注2)な固定観念(とそれを赤裸々に吐露することが許される社会環境、権力関係)があると思われます。

*注1 「知識人」は大学院に何年か在籍してから就職→言論活動を開始することが多いのと、一般に社会の流れから若干遅れるので、一般の「バブル入社世代」の+3〜5年以降に社会的に存在し始めます。
*注2 「職能的」というのは、大学院などを経由したりメディア産業に関わったりすると、社会全体、あるいは同世代とはずれた価値観や思想を内在化することが多いので(多くは大学院やメディア業界内で支配的な上の世代の価値観に順応・同質化・擬態するため)、世間一般を対象にした世代論と、メディア・言論人についての世代論は多少/かなり/すごくずれざるをえません。

ただし、上に示した第1章の概要でわかるように、私の本ではこれらの日本のグダグダについては、書いてありませんので、それらを期待する読者は買わないでください。最初から最後まで、ごくわずかな例外を除いて、中東とイスラーム思想についての本です。日本のイスラーム理解についての論争とかはしていません。一冊の本という限られたスペースに、重要なことをどれだけ入れられるかを追求した本ですので、それらの極東の島国の浜辺に届いた余波的な部分は全部省略されています。

万が一誤った期待に基づいてこの本を買ってしまって、不愉快な思いをされる方々が出ないようにするためのお知らせです。

* * *

このブログは「今すぐ伝えたい中東情勢分析」と、「本には書きたくない日本のグダグダ」が交互に現れるぐらいのバランスを意識していますが、最近グダグダ記述多いかなとここで反省。しかし分析は本に書いているものですから、ここに書く頻度が減ります。

さて、この本の全体構成、コンセプトや第1章について冒頭で若干記しましたが、内容はあくまでも本の本体を読んでみてください。このブログ・エントリを素材に議論しても意味ありませんので。

本が出る前に時間ができたら第2章以降も紹介したいですね。しかし今年は5日(月)早々から大量の成果物を提出していかなければならず、その準備を年末年始ずっとやってきてまだまだ終わっていないので時間がありません。第2章は、2001年の9・11事件から今までの、グローバル・ジハードの展開とアメリカ主導の対テロ戦争との相互作用を、一気にまとめるという、今回の本で一番苦労した章です。この章だけで1冊以上本が書けそうですが、それを1章に濃縮しました。それではまた。

書物の運命、の運命

考えてみれば、作りかけの「土台と柱だけ」の建物が居並ぶ街並みの風景は、私にとってのアラブ世界の原風景。ブロックを積み重ねて何年もかけて建物を作るのが現地のやり方です。

この風景について、ずっと昔、「屋上に立つドア」というエッセーを書いたことがあります(『文藝春秋』2003年4月号)。この雑誌に初めて書かせてもらった時じゃないのかな?

まだ20代の、何ら実績も経験もない書き手が、大御所たちと並んでしまう巻頭のエッセー欄で、なんとか恥ずかしくないようにと気を張って、ずっと年上の読者に精一杯楽しんでもらおうと思って書いていたことを思い出しました。

初心忘るべからず。

このエッセーが収録された、池内恵『書物の運命』(文藝春秋、2006年)は、毎日書評賞までいただいてしまいました(推薦してくださった皆様、ありがとうございます)。

ですが・・・残念ながら、絶版となるとの連絡を版元から昨年末に頂きました。

この本は、風合いのいい和紙系のカバーや、さりげないところに鍍金をあしらうなど、採算度外視かと思うほどに、本づくりの妙を尽くしていただき(装丁は菊地信義さん!)、世の本好きに向けて強く押し出していただいたのに、販売的には、ほどほどのところで力尽きた、という具合でした。わが身の非力さを思い知るばかりです。

けれども、思いもかけず毎日書評賞を頂くことになって、あの時は本当にうれしかったです。

古本屋さんで見かけたらどうぞ。