【連載】今年も続きます『中東協力センターニュース』

 ここのところ年度末・年初ということもあって、研究プロジェクトを閉じたり開いたりの事務書類のやり取りや、各種連絡に追われている。本をまとめる作業も複数進行中。

 ついでに自分の書いてきた原稿も整理中。どこに何を書いたかがだんだん分からなくなってくるからね。

 今回リストアップしてみるのは、『中東協力センターニュース』で行っている連載「『アラブの春』後の中東政治」です。

 中東協力センターというのは、経済産業省所管の一般財団法人で、エネルギーを軸とした中東との通商貿易・産業協力の手助けをする。大まかにいえば「業界団体」ということでいいのかな?

 そこが出している雑誌に依頼を受けて連載を始め、1年半が過ぎた。こちらは今年度も継続とのことです。
 
 2012年の6月から、だいたい2号に一回のペースで連載している。この雑誌は隔月刊なので、4カ月に一回ということですね。ときたまテーマに連続性がある時は二号連続で書きます。

 ある程度「概説」を意識して書いているのが、この連載。

 直接の読者は、中東に仕事上関係することがある人向けに限定されているのであまり初歩の初歩からは書かなくていい。とはいっても中東政治やイスラーム政治思想の学術的な議論と、中東に関わっているとはいえ非専門家の認識・知識の差は著しいので、そこを埋めるのが直接の目的。

 とはいえ、雑誌がほぼそのままウェブ上でPDFで公開されるので、一般向けも多少意識して書いている。

 私自身がいろいろ興味を持って専門的に研究をしていることのダイジェストをここにまとめるというような使い方をしている。

 私は基本的に同じことを二度書かないことにしているのだけど、この連載だけは、他のところで取り上げたテーマや論点を少し分かりやすくしたり読みやすくして提供していることがある。「最近やっている、関心を持っていることのご紹介」という性質の欄と思ってください。

 ただし、連載第5回(2013年10月)の、クーデタ後のエジプトの「ナセル主義」についての稿は、他ではあまりまとめて書いていない内容を盛り込んである。写真を多く使えるというこの媒体の性質を生かしてみたかったものですから。

『中東協力センターニュース』掲載の論稿をダウンロードできるバックナンバーのページが各年度ごとに設けられていて、過去のもダウンロードできる(リンクは2013年度分)。

下記にはこれまでの連載のタイトルを一覧にしておきますので、ダウンロードページからどうぞ。

(1)
池内恵「エジプトの大統領選挙と「管理された民主化」『中東協力センターニュース』2012年6/7月号、41-47頁
【JCCMEライブラリー2012年度】

(2)
池内恵「政軍関係の再編が新体制移行への難関──エジプト・イエメン・リビア」『中東協力センターニュース』2012年10/11月号、44-50頁
【JCCMEライブラリー2012年度】

(3)
池内恵「『政治的ツナミ』を越えて─湾岸産油国の対応とその帰結─」『中東協力センターニュース』2013年4/5月号、60-67頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

(4)
池内恵「アラブの君主制はなぜ持続してきたのか」『中東協力センターニュース』2013年6/7月号、53-58頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

(5)
池内恵「エジプト暫定政権のネオ・ナセル主義」『中東協力センターニュース』2013年10/11月号、61-68頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

(6)
池内恵「エジプトとチュニジア──何が立憲プロセスの成否を分けたのか」『中東協力センターニュース』2014年2/3月号、74-79頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

「危機の震源」がだんだん近づいてきますね

 ウクライナ危機の陰で進んでいた、台湾の学生を中心とした、台中サービス貿易協定締結強行に反対する、反政府抗議行動の高まり

 思考実験として、そして将来への現実的な備えとして考えておかなければならないのは、もしこの抗議行動が激化して、一部に武装集団なども現れ、大規模な騒乱状態になった場合、あるいは馬英九政権が倒れるような事態になった場合、どうなるか、ということ。
 
 中国との貿易協定で「中国の植民地になる」と危機意識を高めた国民の反政府運動の盛り上がりで政権が倒れたり紛争になって、中国がこれを機会に軍事侵攻をしたらどうなるだろうか。

 ついでに想像するならば、ロシアがクリミアでやったように、ワッペンを外した大量の軍人を送り込んで、制圧した上で「中国本土との一体化を求める住民投票」を行わせて「圧倒的多数が支持」したら?それに反する多数の台湾人が反対運動を続けて、日本や、米国に助けを求めてきたら?

 ウクライナでの危機と同様の事態が、一気に、日本を主要な当事者として、生じることになります。

 日本は何もしない、ということでいいのでしょうか?あるいはアメリカに「何かしろ」と要求するだけなのでしょうか。
 
 さらに、もしアメリカが何かすると、今度は「不当な介入だ」と言う人がまた出てくるのでしょうか。たぶん出てくるでしょうが、より近傍の核・軍事大国がもっと手荒なことをしても批判しないのだったら、そういう議論はついに説得力を失うでしょう。

 2013年にはシリア問題やイラン問題で、あるいはエジプトやトルコやイラクでも、冷戦後の世界政治の一極支配の中心だったアメリカの限界が露見した。

 2014年の各地の動きは、その後の世界秩序の再編をめぐる大きな動きが現れていると言っていい。少なくとも、そのようなものとして解釈され、新たな将来像が見通されていくだろう。

 中東で先駆けて生じた変化が、まずウクライナに転移した。その次はどこに出るかわからないけれども、もしかすると、台湾に波及するかもしれない。まだその可能性は低いけれども。

 実際に、国際的な論調では、ウクライナ問題をめぐる米露関係は、ほとんど常に、シリア問題やイラン問題を踏まえて、あるいはそれらと絡めて、論じられ、東アジアへの波及は含意が取り沙汰される。

 ウクライナとか台湾とか、専門でない分野についてあれこれ語る気はないのだけれども、それら全体を通底する問題、認識枠組みや概念については、中東を見るという作業と不可分である。そのため、このブログでもウクライナ問題について何度も取り上げたように、各地の事象に常に注目して検討している。

 私にとっての「中東を見る」ということはそのようなグローバルな視野で各地の動きを見ることと一体。

 中東を中心に、国際情勢の分析をするようになったのは、依頼を受けて書くようになってからだ。

「中東 危機の震源を読む」という連載タイトルで中東情勢の定点観測をし始めたのが2004年の暮れ。第一回はこんなんでした。「イラクの歩みを報じるアラビーヤの登場」《中東 危機の震源を読む(1)》『フォーサイト』2005年1月号

 連載の前半は本になっている。

 中東 危機の震源を読む
『中東 危機の震源を読む(新潮選書)』

 かなり分厚くなった。ほぼ中東全域をカバーして、時々フィリピン・ミンダナオなどのイスラーム世界や、欧米のムスリム移民の問題、米国の中東政策なども取り上げている。2011年の変化に至る様々な予兆なども、結構とらえていたと思います、今読むと。

 今やっている現状分析は大部分、この本に収められている毎月の分析を書く中で身に着けた感覚・能力・手法をベースにしている。

 「中東 危機の震源を読む」の連載そのものは、『フォーサイト』がウェブ化されてからも続いて、今88回になっている。それ以外に、ブログの「中東の部屋」にも2011年9月から書くようになって、そこではインターネット時代の国際政治の急速な変化に即応して、早期の情報発信を試みてきた。月刊誌というメディアには、国際政治を素材とするためには明らかに限界がある。ただし、混沌としてきた国際情勢の中長期的な見通しを示すには、月刊誌という媒体の方がウェブよりも有効ではないかとも思うけれども。

 『フォーサイト』が紙媒体の月刊誌だった時、毎月一回、印刷と発送から逆算して締切日があって、それに縛られている、というのは、かなりの制約というか苦痛だった。

 分からないことを、分からないうちに書かなければならない。自分で締め切りを設定できるなら、これはという確信が持てるぐらい情報が集まったり分析が進んでから書きますよね。ただし待ちすぎると、結論に確信を持てた頃にはもう情報は陳腐化していて、分析の必要がなくなっている。実際、『フォーサイト』がウェブ化されて、必ずしも月一回というペースで書かなくてよくなると、これがなかなか書かなくなるんですねー。

 それもあってより気軽に書けるブログの「中東の部屋」も引き受けたのだった。

 連載なので、テーマはほぼ自分で設定できる。企業や官庁のアナリストでは、求められるテーマについて分析することも多いだろう。それに比べると制約は少ない。ただし、そもそも何が問題なのか自分で発見して提示するというのはかなり大変。テーマを与えられた方が楽と言えば楽。

 中東研究は大学・大学院でやってきたけれども、東大に中東現代政治についての体系だった授業があったわけでもない。強いて言えば、半年だけ、放送大学の高橋和夫先生が非常勤で来ていた授業があった。米国の中東政策を軸として、イラン・イラクを中心としたペルシア湾岸の地域政治を含めた、中東国際政治の授業だった。非常によく整理された計算されて考え抜かれた、東大では受けたことがなかったタイプの授業だった。今でもよく覚えています。

 それ以外の授業は現代でも社会経済史とか、それ以外は中世文学とかしか、中東地域に関する授業はなかった。

 ですので中東政治の情勢分析について公式的な形で、体系的に訓練を受けたわけではなく、依頼を受けて毎月やっているうちに、そこそこできるようになってきた、というオン・ザ・ジョブ・トレーニングの結果です。

 9・11事件を受けて、グローバルなイスラーム主義の政治運動の動きについて、理論・思想を踏まえながらある程度現状分析をするというタイプの文章をいくつか書いた。「社会思想」の枠で幅広く各国の社会・政治を見ていたので、各国の現状分析にそれなりに適応する素地はあった。そういった観点から単発でいくつか書いた現状分析を見て『フォーサイト』編集部が、イスラーム教やイスラーム主義に限らない中東情勢分析全般にわたる連載を依頼してくれた。

 その時、連載のタイトルをいろいろ考えたのだけれども、中東の特性と、私の方向性・適正から、自然に「中東 危機の震源を読む」に落ち着いた。

 それは、中東を見ることは単に遠い特定の世界の分析をすることに限定されない、と思っていたからだ。中東を見ることは、やがては日本にも重要な影響を及ぼすような事象が生じるのを、いち早く目撃するということ。

 世界政治を動揺させるような変化の先駆けは往々にして中東で先駆けて起る。あるいは、中東で起った事象の影響が波及して世界に及ぶ。

 直接的には、中東から「イスラーム世界」というつながりで南アジア・東南アジアに向けて影響力が及んだり、「欧米VS非欧米」という対立の最前線である中東での動きが世界各地の非欧米諸国での動きを誘発したりするけれども、間接的にも、世界全体の趨勢を中東が最も早く反映して変化が現れる、ということがよくある。

 「中東が好きだから」中東をやっているわけではない私としては(まあ好きではありますけど。楽しい世界ですよ)、中東の定点観測は、単に遠いエキゾチックな世界の出来事を伝えるだけでなく、やがてそれが我々の世界に

 「ホルムズ海峡が閉鎖されたら日本の石油はどうなる」といった、それ自体重要ではあるが、中東の重要性はそれには限られないことを、ことさらに、中東研究の重要性や(あるいは「自分の」重要性・・・)を宣伝するために強調して煽る手法が出回っているけれども、私はそういったことには興味がない。

 中東の動きを大枠から微細なところまで見続けていると、われわれの生活に身近で根底的なところから影響を及ぼすような変化が先立って見えてくる。その面白さをこれからも示していたい。

 年度初めにちょっと考えたことでした。

 在庫の棚卸し&整理に戻ります。

『外交』に連載した英語書籍の書評リスト

 先ほど、『書物の運命』以来書評は書いていない、と記しましたけれども、例外的に、外務省発行の『外交』にだけは書評連載を一年半ほど持っていました。

 この時も、ご依頼に対して条件を付けた逆提案をしたところ、それを呑んでくれたので連載に至りました。

 ご依頼では、ごく通常の雑誌書評、ただし『外交』なので国際政治・安全保障や、私なら中東ものを中心に、というご要望でしたが、私の方のモチベーションや読書習慣から、「外国語の本のみを取り上げる。新刊でなくていい。学術書でもいい」という条件を出しました。

 なぜそのような条件でなら引き受けたかというと、専門に関わる英語の本は職業上・必要上、目を通すが、必要な情報の読み方があって、全部読み通すことが少ない。要するにイントロダクションと結論だけ読んで、これはという部分だけ読んで内容を把握するので、全部読まないのである。専門研究のための読み方としてはそれでいい。しかし一般読者に紹介するとなると、徹底的に読んで、論や学説の適切さや妥当性を見極め、現実に起っていることとの関連でその本が存在する意義、読む価値を示さないといけない。

 そういう文章でも書く仕事を引き受けないと、英語の本を必要に応じてちゃっちゃっと読むだけになってしまって身につかないな、と思ったから。純粋な釣りとは言えないが、あえて一本釣りをして見せる役割を買って出ることで釣りの技術を忘れないようにする、というような。

 全く自分のための、自分に向き合った連載ですね。すみませんでした。

 最初の半年間は月に一回(年度末まで)、2010年9月から2011年3月までの6回。時事通信社の編集。次の一年間は二ヶ月に一度で6回。今度は都市出版社の編集。外務省による入札方式が揺れたため、年ごとに編集や出版感覚が変わりましたが、私の連載は二年度続いたことになります。

 連載が始まった頃はまだ「アラブの春」の前でした。むしろ「9・11」以後の対テロ戦争が収束に向かう段階。米国のリーダーシップや政治的意思決定過程に対して強い批判や問い直しが提示され、ブッシュやブレアなどの回顧録も出ていました。この書評欄はそれらを淡々と紐解いていくきっかけになりました。

 それが連載の後半から、「アラブの春」の急速な広がりで、過去に出ていた基礎的な学術書から、急速に流動化する事態を読みとくための手掛かりを切に必要とする状況になり、書評欄がいっそうアクチュアルなものになりました(本人としては)。

 これらの書評は単行本にはまだ収録されていません。

 『外交』は現在24号まで出ていますが、12号までは無料で外務省のホームページにPDFが公開されているので、リンクが生きている間は、読めるという意味では読めてしまう。

 下記の連載リストの各タイトルをクリックすると、外務省のサイトから直に私の記事だけが(他の記事も一部一緒のファイルに入っているが)PDFファイルでダウンロードされます。【あくまでリンクがまだ生きている場合だけです。おそらく8回目まではリンクが生きているのではないか。追記:2016年1月23日】

(1)
池内恵「リベラルたちの「改心」、あるいはアメリカ外交史のフロイト的解釈」『外交』Vol. 1, 2010年9月 156‐159頁

(2)
池内恵「グローバル都市ドバイが映し出す国際社会の形」『外交』Vol. 2, 2010年10月, 176‐179頁

(3)
池内恵「将軍たちは前回の戦争を準備する」『外交』Vol. 3, 2010年11月, 146‐149頁

(4)
池内恵「善政のアレゴリー、あるいはインテリジェンスの哲学」『外交』Vol. 4, 2010年12月, 164‐167頁

 この年イギリスのケンブリッジ大学に行っており、そこでインテリジェンスのセミナーを見たり、ちょうど相次いで出版されていたインテリジェンス機関の歴史書や、インテリジェンスの理論書を取り上げた。中にはその後翻訳が出たものもある。

(5)
池内恵「聖人と弁護士──ブッシュとブレアの時代」『外交』Vol. 05, 2011年1月, 168‐171頁
(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/gaikou/vol5/pdfs/gaikou_vol5_31.pdf)

 ブッシュとブレアの回顧録で「対テロ戦争」の時代を振り返りましたが、この号が出る頃から、「アラブの春」が一気に広がります。

(6)
池内恵「『革命前夜』のエジプト」『外交』Vol. 06, 2011年2月, 182‐185頁

 ムバーラク政権の来るべき崩壊を予言していたジャーナリストによる「革命前夜」のエジプトに関する描写で問題の真相を探る。原稿を書いた時にはムバーラク政権は倒れていなかったが、『外交』が出た時はもう政権崩壊していた。

(7)
池内恵「エジプトを突き動かす「若者」という政治的存在」『外交』Vol. 07、2011年5月、138-143頁

 これはアハマド・アブダッラーという政治学者へのオマージュ。自ら学生運動の指導者でもあり、若者の政治的な可能性を深く追求し、実践活動も行いながら、道半ばで夭折。エジプトの政治活動家の間での伝説的な人物。アジア経済研究所に勤めていた時に、客員研究員でいらっしゃいました。彼に革命を見せたかった。 

(8)
池内恵「イエメン 混乱の先の希望」『外交』Vol. 08, 2011年7月、154-157頁

 イエメンについては数名の専門家が非常によく知っており、それ以外の誰もがよく知らない。

(9)
池内恵「ポスト9・11」の時代とは何だったのか──ジル・ケペルの軌跡」『外交』Vol. 09、2011年9月、154-157頁

 ジル・ケペルは確かに中東研究に一時代を築いた。

(10)
池内恵「シリア・アサド政権の支配構造」『外交』Vol. 10、2011年11月、146-149頁

 オランダの外交官が、アサド政権の宗派的、地域的、党派的構成について調べ上げた比類のない書。

(11)
池内恵「中東の要所、サウジアラビアにおけるシーア派反体制運動」『外交』Vol. 11、2012年1月、158-161頁

(12)
池内恵「ギリシア 切り取られた過去」『外交』Vol. 12、2012年3月、156-159頁

 この連載もまた、くたびれ果てて終了しました。いい勉強になりました。

【追記】(11)(12)はなぜかリンクが機能しませんが、総目次のところからVol.11, Vol.12のPDFというページを開いて行くと各論稿をダウンロードできます。Vol.11はなぜかリンクが間違っていて、「巻頭随筆」の浜中さん・吉崎さんのところをクリックすると、書評欄のファイルがダウンロードされます。逆に書評欄をクリックすると巻頭随筆がダウンロードされてしまうようです。

【追記の追記】
外務省のホームページがしょっちゅう変わるのでどんどんリンク切れになったり、リンクが間違って貼られていたりします。

よって、このブログのリンクも大幅に構築し直す必要がありますが、時間がないのでできません(2016年1月23日)

読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)

 そうそう、すぐ近くにあるけどめったに行かない東大教養学部まで歩いたのは、桜を見るのが目的ではありませんでした。大学生協の書店に行ったのでした。先端研のある駒場Ⅱキャンパス(駒場リサーチキャンパス)は、学部がなく、理工系の研究所だけなので、生協はあるが本がほとんどない。それでは教養学部の生協まで行って買うかというと、歩いて10分もしないのだけれども、それすら時間のロスがもったいないほど忙しく、しかも行っても欲しい本があるとは限らないので、結局インターネット書店で買ってしまっていた。

 ここ数年、出張先の書店で買う以外には、リアルな書店で本を買うことがほとんどないのではないか。そもそも研究上必要な本の大部分は外国語なので、英語ならアマゾンで、アラビア語は現地に出張に行った時にトランク一杯と段ボール一箱に詰めて帰ってくる(それでも入らないほどある場合は引っ越し貨物の扱いにする)。日本語の本はあくまでも、「日本語の市場でどのようなものがあるのかな」「このテーマについてどういうことを言っている人がいるのかな」と調べるためにあるだけで、引用することもほとんどない。残念なことだが。

 書店で本を選んで買うという作業は、高校生の頃から大学・院生時代には、尋常ではないほどの規模で行っていたのだが、ある時期からまったくそれをしなくなった。

 学生時代を終えて、就職して半年で9・11事件に遭遇し、その後ひたすら書くためだけに本を読む、大部分は外国語の資料、という生活をしてきたので、純粋に娯楽や好奇心で本屋に行くということは、めったになくなった。

 日本語の本にも目を通してはきた。しかしそれは「書評委員として、新聞社の会議室で、その月に出た本を全部見る」といった通常ではない形で見ているので、本当の意味で本を選んでいたとは言えない。

 たのしみのための読書ではなく、職業としての読書になってしまっていた。

 例えて言えば、「釣り」の楽しみを味わうことのない「漁」になってしまったんですね。網で何100匹も一度に魚を獲ったとして、職業上の達成感や喜びはあるだろうが、それは釣りの楽しみとは違いますよね。

 なので、今本屋に行くと「浦島太郎」のような状態。こんな新書がこんなところにある。こんなシリーズがあったのか。なんでこんな本ばかりがあるのか。こんな人が売れているなんて・・・

 話が遠回りしたけれども、なぜ久しぶりにわざわざ生協の本屋に行ったかというと、今月から月に一回、『週刊エコノミスト』で読書日記のようなものを担当することになったからだ。私の担当の第一回は4月21日発売号に載る予定。

 『書物の運命』に収録した一連の書評を書いた後は、書評からは基本的には遠ざかっていた。たまに単発で書評の依頼が来て書くこともあったけれども、積極的にはやる気が起きず、お断りすることもあった。たしか書評の連載のご依頼を熱心にいただいたこともあったと思うが、丁寧に、強くお断りした。

 理由は、そもそも人様の本を評価する前に、自分で、人様に評価されるような本を書かねばならないことが第一。そのためには研究上必要な本をまず読まねばならず、それはたいていは外国語で、専門性の高いものばかり。それでは一般向けの書評にはならない。自分が今は読みたいと思わない本について、しかも引き受けたからには必ず何かしらは褒めなければならない新聞・雑誌の書評は苦痛の要素が大きい。

 世の中には、書評委員を引き受けていると、出版社や著者からタダで本が送られてくるから、書評してもらえるかもと愛想良くしてくれるから、とそういったポジションを求めて手放さない人もいると聞くが、まあ人生観の違いですね。

 また、新書レーベルが乱立して内容の薄い本が乱造され、「本はタイトルが9割」と言わんばかりの編集がまかりとおる出版界の、新刊本の売れ行きを助けるための新聞・雑誌書評というシステムの片棒を担ぐのは労力の無駄と感じることも多かった。なので、書評は基本的にやらない、という姿勢できた。

 それではなぜここにきて書評を引き受けてもいいという気になったかというと・・・・

 まあ、「気分がちょっと変わったから」しか言いようがないですが、強いて言えば、『週刊エコノミスト』に何度か中東情勢分析レポートを書いて、書き手としてのやりがいや、読者の反応が、「意外に悪くない」と感じたことが一因。紙媒体で見開きぐらいの記事が、企業とか官庁とかの組織の中でコピーされたり回覧されて出回るというのが、インターネットが出てきた後もなお、日本での有力なコミュニケーションのあり方だろう。

 その最たるものは「日経経済教室」ですね。とにかく一枚に詰め込んであって、勉強しようとするサラリーマンはみんな読んでいる(ことになっている)。

 ネットでのタイムラグのない情報発信も『フォーサイト』などで試みてきたし、これからも試みていくけれども、やはり固い紙の活字メディアの流通力は捨てがたい。

 ずっと以前の『週刊エコノミスト』の編集方針や論調には正直言って「?」という感じだったので、おそらく編集体制がかなり変わったのだろう。そうでないと私に依頼もしてこないだろう。

 ただし、引き受けるにあたってはかなり異例の条件を付けた。それは次のようなもの。「新刊本を取り上げるとは限らない。その時々の状況の中で読む意義が出てきた過去の本を取り上げることも読書日記の主要な課題とする。さらに、読書日記であるからには、外国語のものや、インターネット上で無料で読めるシンクタンクのレポートやブログのような媒体の方を実際には多く読んでいるのだから、それらも含めて書く。その上でなお読む価値のあるものが、日本語の、書店で売られている、あるいはインターネット書店で買うことができる書物の中にあるかどうか検討して、あれば取り上げる」。
 
 こういった無茶な原則を編集部が呑んでくれたからだ。当初の依頼とはかなり違ったものだ。

 考えてみれば、雑誌の書評欄というものは、「新刊本を取り挙げる」というのが大前提で成り立っている。雑誌に書評が出れば書店がそれをコーナーに並べてくれるようになるから売れ行きが伸びる(かもしれない)。だからこそ出版社も雑誌に広告を出したり、編集部に本を送ってきたり情報を寄せたり中には著者のインタビューを取らせたりと、便宜を図る。そういうサイクルの中で新聞や雑誌の「書評欄」というものは経済的に成り立っている。それを「新刊はやりません」と言ってしまったら雑誌に書評欄を設ける意味が、経済的にはほとんどなくなってしまう。「新刊本をやらなくていいという条件ならいかが」と言われて呑んだ編集部はなかなか度胸がある。

 ただしそれは従来までの本屋のあり方に固執すればの話だ。インターネット書店でロングテールで本が売れる時代なのだから、それに合わせた書評欄があっていいはずだ。

 今現在の国際問題・社会問題などを理解するために有益な、忘れ去られた書物を発掘して再び販路に乗せるためのお手伝いをするのであれば、書評欄を担当するなどという労多くして益の少ない作業にも多少のやりがいが出るというものだ(原稿料などは雀の涙なので、大々々々赤字です。この連載を受けると決めてから市場調査的に勝った本だけで、すでに数年間連載を続けても回収できない額になっています)。

 「昔の本など取り挙げてもらっても在庫がないよ、棚にないよ」という出版社・問屋・書店の意向というのは、それは彼らの商売のやり方からは都合が悪い、というだけであって、書物そのものの価値や必要性とは関係がない。

 むしろ本当に良い本が生きるための業態・システムを開発した人たちが儲かるような仕組みがあった方がいい。そのためにも一石を投じるような本の読み方を示したい。

 話が長くなったが、たった10分のところにある生協の本屋に歩いて行く気になったのも、そういった趣旨の連載をやるからには、各地の本屋を見ておかねば、と思ってまずは手直なところからはじめたというわけ。ずいぶん遠回りしたね。

 生協のレジの最年長のお姉さん/おばさんが、学生時代の時と同じ人だったのはびっくり・・・まあ何十年もたったわけじゃないので当然なんだが、こちらはいろいろ外国やらテロやら戦争やらを経験して帰ってきてやっと落ち着いた風情なので、まあ驚くやら安心するやら。

先端研の春

 新学期ですね。いろいろ棚卸し、在庫整理的なことをして終日研究室にて過ごす。

 桜も満開。まだつぼみばかりの枝もあり、とうぶん目を休めてくれそう。

 教養学部の生協の書店まで歩く。先端研のある代々木上原(番地は駒場だが)と、東大教養学部がある駒場にかけての一円にこんなに桜の木が多いなんて、学生の時にも、先端研に就職してからも、気にしたことがなかった。
 
 おそらく学生時代はそんなことにかまっている心の余裕がなく、あまりキャンパスにも来なかった。そもそも中東をぶらぶらしていて日本にいなかった。

 先端研に就職したのが2008年10月、年度の半ばに来たので、桜の季節に新らしい職場に入るという気分を味わうことがなかった。先端研は大きな部屋を渡されて、備品から何から、ゼロから設営するという、ITヴェンチャー企業のインキュベーション・センターのようなところ。

 私に割り当てられた部屋はだだっ広く、ちょっとした図書室が作れる面積。日本語・欧米語・アラビア語で集めてきた書物を、はじめて棚に並べて一覧することができる。

 それまでは箱に詰めてあちこちに収納しておき、あるテーマについて論文を書くとなると出してくる、というふうにするしかなかった。これではどうしても視野が狭く、まとまった仕事ができそうになかった。これまでに集めた本を並べる広さの研究室がもらえる、というのが先端研に来た最大の理由の一つだった。

 しかしそうはいっても、並べるための本棚は自分で予算を見つけてきて発注して設営しないといけない。それだけではなく、それ以前の段階の大問題が発生。私が割り当てられた部屋は、昔使っていた研究室が行った工事の施工が悪かったのか、あるいは重すぎる機器を置いたのか、床が波打ち、へこんでいた。これでは本棚を置けない。まず床下の修理と床の張替の予算を見つけてこなければならなかった。

 そんなこんなで、丸一年はばたばたしていたでしょうか。その間も仮設備で研究はしていたが。

 やっと落ち着いた、という気分になったのが昨年の半ばごろ。先端研に移って来て5年を過ぎ、これまでに務めた職場のいずれよりも長く在職したことになったころから。ジェトロ・アジア経済研究所が3年、国際日本文化研究センター(日文研)が4年半でしたから。

 先端研の中庭グラウンドの桜に目がゆくようになったのは、2年ほど前からでしょうか。ここは近隣の方々が足を延ばして見に来る、ちょっとした桜の名所。今ちょうど満開です。

 本郷キャンパスの安田講堂のような威容ではないけれども、先端研にも時計塔があります。桜吹雪が舞うグラウンドを前景に、レンガ造りの時計塔を後景に入れて撮るのが、先端研のベスト・ショットでしょうか。

 先端研の今のポストは、いつまでいられるか分からない不安定な雇用条件の代わりに、破格の研究環境を(お金ではなく使用面積ですが)与えてくれるという究極の交換で成り立っています。

 この季節が巡ってくるたびに、「あと何回、ここで桜を見られるだろうか」との思いが胸に去来し、散る花がひときわ美しく胸に迫ってきます。

 いい写真が取れたらこのブログにアップしましょうかね。

『UP』連載のリスト

 2011年の「アラブの春」の勃発以来、『UP』では発表の場、思考の場を与えていただきました。

 ここで一連の寄稿をリストにして整理してみたいと思います。

 まず、チュニジアとエジプトでの政権崩壊と、アラブ世界全域への社会変動の波及で騒然としていた時期に、政治学からの分析の視角について、単発で書いたものがこれです。

池内恵「アラブ民主化と政治学の復権」『UP』第462号(第40巻第4号)、東京大学出版会、2011年4月、42‐50頁 

 政権の動揺の仕方やその後の展開を、(1)メディアの変容などに根差す中間層の厚さや性質、(2)政権の反応を左右する要素としての政軍関係、(3)宗派や部族などの社会的亀裂、といった点を提示しておきました。ここで書いていたことが、その後の展開に照らしてあまりに外れていたら、私も「アラブの春」をめぐる比較政治分析にそれほど力を入れることもなかったかもしれません。

 さほど間をおかず、2011年夏には、その後、短期集中での連載を依頼され、現状分析に基づいた先行研究の再検討を主題に「『アラブの春』は夏を越えるか」という緩~い連載タイトルで、3号連続で書きましたしました。
 
《「アラブの春」は夏を越えるか》
(1)
池内恵「中東の政変は「想定外」だったか 「カッサンドラの予言」を読み返す」『UP』第465号(第40巻第7号)、東京大学出版会、2011年7月、33‐40頁

(2)
池内恵「『理論』が現実を説明できなくなる時」『UP』第466号(第40巻第8号)、東京大学出版会、2011年8月、22‐29頁

(3)
池内恵「政治学は『オズィマンディアスの理』を超えられるか」『UP』第467号(第40巻第9号)、東京大学出版会、2011年9月, 12-20頁

 しかし先行研究の問題は明らかとはいえ、そうなるとこれから何を手掛かりにアラブ政治を分析していけばいいのか。現実を見ながら自分で分析枠組みを考える、これまでのものでなおも有効なものを拾い上げる、という作業が必要となりました。これにはかなりの準備作業が必要でした。

 多少はその準備作業ができたかと思われた2012年半ばから、見切り発車ながら、2カ月に一度というペースで、偶数月に「転換期の中東政治を読む」という、事態の変化次第でどうとも変えられる連載タイトルで、終着点もなく、回数も決めずに走りだしました。

《転換期の中東政治を読む》
(1)
池内恵「エジプトの『コアビタシオン』」『UP』第478号(第41巻第8号)、東京大学出版会、2012年8月、13-22頁

 第一回はエジプト。やはりアラブの春と言えばエジプト。話題が尽きませんし、イスラーム主義勢力が公的政治空間に参加を許され、ついこないだまで投獄されていたムスリム同胞団が選挙で台頭し、ムルスィー大統領を誕生させる。それと軍部がどう「コアビアシオン」するか、という前例のない事態を観察しました。

(2)
池内恵「『アラブの春』への政権の反応と帰結──六ヶ国の軌跡、分岐点とその要因」『UP』第480号(第41巻第10号)、東京大学出版会、2012年10月、36-43頁

 政軍関係の比較で、「革命」期の「アラブの春」の展開はかなり整理できる。このあたりはかなりまとまりの良い論文です。ただしまとまりがいいということは、世界中で研究者が同じようなことを考えているということですね。世界の最先端に遅れないでいることに意味はありますが、オリジナリティを出すにはもうひとひねり必要です。

(3)
池内恵「エジプト『コアビタシオン』の再編」『UP』第482号(第41巻第12号)、東京大学出版会、2012年12月、37-44頁

 連載三回目で早くもエジプトが激動。ムルスィー大統領がエジプトの強大な大統領権限を行使して軍に対して優勢に立ったかに見えました。

(4)
池内恵「エジプト政治は『司法の迷路』を抜けたか」『UP』第484号(第42巻第2号)、東京大学出版会、2013年2月、28-38頁

 ムルスィー大統領やムスリム同胞団の足を引っ張ったのは、司法。司法の独立性は民主主義の一つの柱ですが、判事が政治的に中立でなく、旧憲法体制を根拠に新憲法制定をことごとく邪魔するという事態。「司法と政治」という分析視角は途上国の政治を見るために有益ではないでしょうか。

(5)
池内恵「イスラーム主義勢力の百家争鳴」『UP』486号(第42巻第4号)、東京大学出版会、2013年4月、51-57頁

 政治的自由化が進んだ各国でのイスラーム主義の台頭をまとめました。

(6)
池内恵「正統性の謎──アラブ世界の君主制はなぜ倒れないか(上)」『UP』488号(第42巻第6号)、東京大学出版会、2013年6月、32-40頁

 「アラブの春」で政権が倒れなかった、比較的揺れが少なかった諸国は、産油国であるか、君主制であるか、あるいはその両方であることが多い。産油国はどのような意味で安定しているのか、君主制だから安定していると言えるのか。これは「アラブの春」が比較政治学に提示した一つの課題でしょう。二回にわたって取り挙げました。

(7)
池内恵「『石油君主国』とその庇護者──アラブ世界の君主制はなぜ倒れないか(下)」『UP』489号(第42巻第7号)、東京大学出版会、2013年7月、39-46頁

 産油国・君主制についての二回目。快調なペースですね。

(8)
池内恵「エジプトの7月3日クーデタ──「革命」という名の椅子取りゲーム」『UP』第490号(第42巻第8号)、2013年8月、東京大学出版会、24-32頁

 そうこうしているうちにもう一度エジプトで大変動が。ムスリム同胞団を放逐し、軍部が一気に台頭。

 このころからシリア問題で紛糾してオバマ政権が政策大転換、さらにイランとの和解に乗り出して、ことは中東に留まらず、中東発の世界政治構造転換の様相を帯びる。そういった点でのメディア向けの論稿なども書かねばならなくなり、しかし同時に私個人的には長年延ばしてきた重要な論文締め切り複数がもはや抜き差しならないところに来る。

 息切れして、2012年10月号掲載予定だったのが、一回休み。
 
(9)
池内恵「アラブ諸国に「自由の創設」はなるか──暫定政権と立憲過程の担い手(上)」『UP』第494号(第42巻第12号)、東京大学出版会、2013年12月、33-40頁

 一回休むと4か月間があるのだが、その間に、もはや「革命」の段階を振り返っている時期ではない、と移行期の4ヵ国比較論を構想し、書きはじめたら膨大な作業になりました。

 最終的には先日お知らせした(「【寄稿】アラブの春後の移行期政治」)『中東レビュー』に掲載された論文になりましたが、その準備段階の作業を『UP』連載で行った形です。

(10)
池内恵「アラブ諸国に「自由の創設」はなるか──暫定政権と立憲過程の担い手(下)」『UP』第495号(第43巻第1号)、東京大学出版会、2014年1月、41-45頁

 前回一回休んで書いていた4ヵ国移行期比較が長くなり過ぎたので、上・下で二号連続で掲載。もう偶数月がどうとか言っていられません。ぜえぜえ。



さらにたたみかける論文締め切りの嵐で追い込まれ、『UP』誌上では音信不通となり・・・

・・・今回の最終回となりました。ああよく死なずに済んだ過去半年。

(11)
池内恵「移行期政治の「ゲームのルール」──当面の帰結を分けた要因は何か」『UP』第498号(第43巻第4号)、東京大学出版会、2014年4月、38-45頁

 というわけで、最終回は、『中東レビュー』で書いた移行期政治の「ゲームのルール」についてさわりの部分を記したり、連載を振り返ったり、今年後半には出したい本の宣言をしたり、この連載ではじめてエッセー風になりました。それまでは毎回論文の準備稿みたいでした。

 毎号大変でしたが、いいトレーニングになりました。

【寄稿】移行期政治の「ゲームのルール」『UP』4月号

 年度末の納入。もう一本。

池内恵「移行期政治の「ゲームのルール」──当面の帰結を分けた要因は何か」《転換期の中東政治を読む11(最終回)》『UP』東京大学出版会、38-45頁

 ほぼ2号に一回のペースで『UP』に2012年8月号から連載してきた「転換期の中東政治を読む」だが、そろそろ潮時、ということでひとまず締めます。今回告知したように、変化していく現状の分析から、2011年以来の政治変動の全体をまとめる本の執筆に全力を注ぎたいものですから。

 この連載では、『フォーサイト』などで行っている現状分析よりもさらに一歩踏み込んで、それらを論文に抽象化するためにはどのような概念構成が有効か、模索する作業をしていました。

 ですので、2カ月に一回、学術論文一歩手前にちょっと及ばないぐらいの文章を書かねばならず、それは大変でした。年に6本も論文のアイデアが出る人はあまりいません。

 この連載をしていると、『UP』のアカデミックな世界での訴求率の高さを再認識しました。本としてまとまりをつける作業が終わったら、また戻ってきたいと思っています。

 なお、今書いている本は、この連載をそのまま再録するという章は一つもなく、また、連載では書いていない要素の方が圧倒的に多いので、この連載でちらちら示した概念や視点は出てくるけれども、まったく別物と考えてください。

 『UP』の連載は「ほぼ2」でやってきましたが、途中から息切れして休んだり、長すぎて二号連続になったりとがたがたになりましたので、私自身にとっても覚書として、次項に一覧を載せておこうと思います。

【論文】「指導者なきジハード」の戦略と組織『戦略研究』14号

 年度末なので、成果物の取りまとめ。まずは論文。

 戦略研究学会の特集号が「戦略とリーダーシップ」だったので、会員になって投稿してみました。依頼される原稿ばかり書いていると自分のテーマが掘り進められませんので、意識して学会・学術論文誌に投稿するよう心掛けています。しかしそうして仕事を増やし過ぎて、依頼された原稿を落としたり遅らせたりするので、昨年は編者にとってはかなり「危険な香り」のする書き手になっていました・・・

戦略研究14号

池内恵「「指導者なきジハード」の戦略と組織」『戦略研究』第14号《戦略とリーダーシップ》、戦略研究学会、2014年3月20日、19-36頁

 9・11と「対テロ戦争」以後のグローバル・ジハード運動の側の戦略論の新展開を、特に2004年末に出たアブー・ムスアブ・アッスーリーの理論を中心にまとめたもの。

 関連論文としては「2013年に書いた論文(イスラーム政治思想)」(1月19日)で挙げておいた下記の(1)(2)と、「2020年に中東は、イスラーム世界はどうなっている?」で挙げておいた(3)があります。

(1)池内恵「グローバル・ジハードの変容」『年報政治学』2013年第Ⅰ号、2013年6月、189-214頁
(2)池内恵「一匹狼(ローン・ウルフ)型ジハードの思想・理論的背景」『警察学論集』第66巻第12号、2013年12月、88-115頁
(3)池内恵「アル=カーイダの夢──2020年、世界カリフ国家構想」『外交』第23号、2014年1月、32-37頁

 (1)では近現代のイスラーム政治思想史の文脈の上に、最近のグローバル・ジハード理論の展開はどのような意味があるのかを問題にしたのに対して、今回の論文「「指導者なきジハード」の戦略と組織」では、グローバル事・ジハード論の最近の展開が戦略論的にみてどのような性質を持ったものといえるのかを検討した。

 (2)ではより戦術レベルの話「一匹狼型テロ」を奨励する「個別ジハード」論や、それを国際的に宣伝するメディア『インスパイア』の分析など。

 これらはいずれもスーリーの理論についての分析を主にしていたのだけれども、(3)ではそれ以外の若い世代の認識や世界観、見通しについて、2005年に発表されたヨルダン人ジャーナリストによる研究をもとに議論している。

 ジハード思想がグローバル化し、かつ宗教・倫理思想よりも戦略論・戦術論の方向に流れていった2000年代前後について、地道にまとめる作業をしています。

【論文】アラブの春後の移行期政治

 年度末のためか成果が多く出てきています。

 原稿用紙(←もう使わないか)で165枚以上、の大論文が刊行されました。

中東レビューVol1

池内恵「『アラブの春』後の移行期過程」『中東レビュー』Volume 1、アジア経済研究所、2014年2月、92-128頁

 無料でダウンロードできます。(今見てみたら、93頁のフッター・ページ番号が欠けているようで、言って直してもらいます。内容は、ところどころ冗長なのを除けば大丈夫と思います)
 
 「アラブの春」で政権が倒れた国の、その後の移行期政治の事実を、ひたすら列挙して、それなりにまとめたものです。暫定的なものですが、事実関係を現時点で押さえておきたいという人向け。

 これで頭を整理して、各国や、比較論で論文を書くような人がいるといいのですが。その意味では、インフラ整備のための公共工事のような論文と考えていただけるといいかなと。

 対象国はチュニジア、エジプト、リビア、イエメン。

 だいたい皆さんもう、「アラブの春」後の各国の動きを理解できなくなっているのではないか。

 エジプト一国でも、専門にしている人以外にはもはや展開は意味不明だろう。いや、専門の人でも投げ出してしまっているかもしれない。

 ましてやリビアやイエメンなんて、ある程度中東に興味を持っている人にしても、「まったく何が起きているのかわからない」というのが正直なところではないだろうか。

 各国それぞれの前提や動きが異なっていて、かつ複雑で、また日本のメディアで報じられることがほとんどないので、訳が分からなくなってしまっても当然です。

 「革命」と比べて、国造り・体制づくりは地味ですし、法的な問題とかややこしいですから。

 「そもそもリビアでの今回の選挙は何回目で何のためのものなの?」「イエメンでは誰が何を話し合っている間に何が起こっているの?」

 といった当たり前のことだがややこしいことを、整理してくれる人がいないんですよね。

 本当はリビア研究者、イエメン研究者がやってくれないといけないんだが、日本にはほとんどいないか、あるいはいてもタイムリーに発信してくれていない。

 錯綜した移行期政治を、下記の三つの切り口から、各国ごとに時間軸で並べ直してみました。

(1)初期条件(旧政権の倒れ方)
(2)暫定政権のタイプ
(3)移行期の「ゲームのルール」

 何かセオリーを出したり結論づけたりする以前の覚書のようなものですが、事実関係を網羅して整理するための準備作業です。

 これを書いたところで「頭がいい」とか褒められたりしないようなものですが、ものすごい時間と労力がかかりました。この4ヵ国比較をまじめにやろうとしている人は世界中にほとんどいません。

 ひとまず事実関係を論文でまとめておかないと、アラブの移行期政治について何を議論しても、読んだ人には前後関係や事実関係が分からないので意味不明、ということになるというボトルネックがあって議論が進まない、広がらないため、ここで突貫工事で道路を作ったような、そういった趣旨です。

 意図して冗長ですが、経緯のうち必要なところは全部載っているはずです。

 論文では、英語のニュースへのリンクを大量に体系的につけてあります。中東専門ではない人へのアウトリーチを意識しています。

 掲載誌『中東レビュー』はアジア経済研究所がウェブ雑誌として創刊したもの(今号の目次)。中東の現代を扱った論文が載る論文誌は貴重なので、ぜひ発展していってほしいですね。私も論文を寄稿するという形で貢献していきたいです。

【寄稿】(高木徹氏と)「『日中関係の悪化』から考える国際世論を味方に付ける方法」

気が付いたらプロ野球が始まっており、桜が咲きかけていました。今日の風でもまだ大丈夫そうですね。

先日書いた(「日本と国際メディア情報戦」3月1日)、高木徹さんとの対談が『クーリエ・ジャポン』に掲載されました。

特集「世界が見たNippon Special 日本はなぜ「誤解」されるのか」の中での「特別対談」という枠です。

池内恵×高木徹「『日中関係の悪化』から考える国際世論を味方につける方法」『Courrier Japon クーリエ・ジャポン』Vol. 114, 2014年5月号、86-89頁

高木徹さんとは三度目の対談になります。

二人とも2002年に最初の本を講談社から出した、というところがたぶん一つの原因で最初の対談は講談社のPR誌『本』で2003年に行いました。

その時と比べると、国際情勢も、日本の立場も変わりましたね…

高木徹さんが最初の本から一貫して議論してきた「国際メディア情報戦」の重要性・必要性が、やっと国政レベルで議論されるようになりました。

数年に一度、高木さんとの対談や、文庫版解説、新刊書評などのご依頼を受け、「定点観測」をしているような具合です。

2003年の対談のファイルをもらってきたので、今度ブログに載せようかと思います(許可もらっています)。

マニラ2000

 ミンダナオ和平の話のついで。

 そういえば2000年にもマニラに立ち寄ったことがあった。その時も新聞を開けばミンダナオ紛争ばかりだった。2000年にMILFとフィリピン政府は全面的な衝突を繰り広げていた。その時はエストラーダ大統領だった。

 マニラに着いて乗ったタクシーの運転手がムスリムで、興奮してメッカの写真を掲げて「ジハード・ジハード!」と言っていた。マニラでも熱くなっていたんですね。

 この時は外務省のサウジとの若者交流かなんかで、同年代の商社マンやメーカー社員や自衛官などと一緒に、サウジのリヤードに行った帰りだった。サウジ側から渡されたチケットがフィリピン航空だったので、帰りにマニラに一泊したのだった。
 
 商社マン達はフィリピンの歩き方などはよくご存じだったのだろうが、私と東大出のNHKのディレクターは一番無縁な感じで、並んで飛行機に座って、二人でフィリピン航空のキャビン・アテンダントに「マニラで一泊しないといけないんだけどどこ見物したらいい?」とうきうきと聞いたら、即座に「Girls」と言われて開いた口が塞がりませんでした。

一応ナショナル・フラッグ・キャリアの乗務員がこう答えるって・・・それにびっくりしている我ら(私だけか)が一番びっくりかもしれませんね。幼き日々。

 2000年は大学院生最後の年で、サウジ訪問でフィリピンに立ち寄った時にはちょうど翌年からの就職が決まったという通知も受けて、私にとっては考えてみればあの時が今の仕事につながる何もかもが始まるちょっと前の静かな時間だったかもしれません。

 中東とイスラーム世界そのものも、今につながる動きが始まる少し前。

 翌年の2001年の9・11事件から、あらゆることがある方向に動き出す。

 私自身のキャリアの方向性、将来への想定も、それ以前と以後で、まったく違うものになりました。
 
 サウジ訪問そのものはそれほど記憶にない(毎日3回おざなりに供される変わり映えのしないビュッフェとか、アルコールがないから一行がずらっとペリエを飲んでいたとかいった点は、その後湾岸諸国のいろいろな会議などに送られた際に、似たような状況があって思い出しますが)。
 
 むしろ、マニラに向けて戻ってくる途中の飛行機の中で読んだ新聞で、ミンダナオ紛争の前線の状況とか、タイでタクシンが首相になるための法的な障害とか(たしか大株主であることを隠蔽・偽装工作していた問題)を読んだことが記憶に残っています。大学に入って、特に大学3年からは中東の事ばかりしてきたけれども、日本と中東の間にはこんなにいろいろな世界があるんだな、と空を飛んでいて実感したのでしょうか。

 2000年はタクシンがまだ首相になっていなかったんですねーー。あれからいろいろなことがありました。

 そういえばこの時のサウジ滞在中に小さなテロがあったことを思い出しました。2001年への予兆はすでにありました。その時には将来を何も予想できませんでしたが。
 
 年度末につれづれなるままに。

ミンダナオ紛争で和平合意が調印

 3月27日に、フィリピンで政府とモロ・イスラーム解放戦線(Moro Islamic Liberation Front: MILF)が「包括和平合意文書」に調印した。

(リンクはなんとなくマレーシア・ボルネオ島のウェブ新聞にしてみました・・・マニラより近いし。フィリピンの新聞だと『フィルスター』とか『インクワイアラー』なのかな?)
 
 フィリピン南部のミンダナオ島の西部の一部とスールー諸島には、1990年以来、ムスリム・ミンダナオ自治地域(ARMM)が設定されているが、これを改組し、自立性を強化した「バンサモロ(モロ民族)」の自治政府を2016年に設立する。MILFは武装解除する、というのが和平合意の主要な内容。

 1970年代初頭から、40年以上続いてきたミンダナオ紛争だが、これで収拾に向かうとすれば歴史的な合意だ。

 今後は和平協議の段階から、自治の統治機構を創設する段階に入る。ゲリラをやっているのとはまったく異なる仕事が待っているが、MILFや「バンサモロ」にそういった人材はいるのだろうか。また、どのような統治を行うのだろうか。

 経済的な可能性はあるというけれども

 MILFは組織名に「イスラーム」を冠してはいるが、果たしてどの程度イスラーム的な統治を目指しているのか、また何を持ってイスラーム的な統治とするのか、あまりはっきりしていない。

 個人的には、大学に入ってイスラーム世界を研究対象にしようと決めたころから続くMILFの反政府武装闘争が終わるということで、一定の感慨がある。

 ミンダナオ紛争は当初、1970年結成のモロ民族解放戦線(Moro National Liberation Front: MNLF)が主導していた。1976年にリビアのカダフィの仲介でMNLFはマルコス政権とトリポリ協定を結んだが、MNLFが分裂して内戦終結ならず。翌年にMILFが結成される。

 結局1996年にMNLFが政府と停戦協定を結んで、武装解除して政治参加に踏み切る。ヌル・ミスアリMNLF議長はARMMの知事選挙に立候補して当選。
 
 しかし政治参加するとミスアリもMNLFもフィリピン政治のご多分に漏れず汚職・専横を極めて、政府からの切り崩し工作にもはまり、MNLFは分裂、ミスアリは失脚。

 並行して、1996年の和平合意を拒否して内戦を続行していたMILFが勢力を拡大し、MNLFをしのぐようになった。フィリピン政府もMILFの方を和平協議のカウンターパートとして認め、1997年以来交渉を続けてきた。

 マレーシアを仲介役にして行われてきた現在の交渉の大枠は2001年以来のもの。2003年に停戦合意を結び、それに基づいて交渉を進め、2008年8月にはいったん和平合意に調印する寸前まで行ったのだけれども、自治拡大で利権を奪われるミンダナオ島のキリスト教徒有力者層などが反発して、法廷闘争に持ち込み、最高裁が調印を寸前に差し止める、という形で頓挫した。その直後は武装闘争が再発して60万人とも言われる避難民が出た。

 私はその時偶然、マニラに2日ぐらい立ち寄っていたので、情報をかき集めてこんなものを書いてしまいました。フィリピン専門の人ごめんなさい。

池内恵「フィリピン政治で解決不能 ミンダナオ和平の「不遇」」『フォーサイト』2008年10月号

 ほんの数日で勉強しただけなので、多少のあらがあるかもしれません・・・

 和平への障害は、イスラーム主義とか民族意識といった理念の問題よりも、中央政府・地方政府の統治能力の問題だな、ということがマニラでいろいろ調べてみると見えてきた。和平協議破綻後に一時的に紛争は激化したけれども、MILFも政府軍も本気で武装闘争をやりたがっているわけではないな、とも感じた。

 全体の大枠としては、当時のアロヨ大統領が、一期6年で再任なしというフィリピンの大統領制の特性からも死に体になっていて(素人なんで分かりませんが、独裁・終身化したマルコス大統領を1986年のピープル革命で打倒した後に、大統領権力を制限したこんな制度になったんですよね?)、各地の支配層に抑えが利かなくなっているんだなあ、というふうに感じました。

 2001年1月に前大統領が弾劾されたことにより副大統領から昇格したアロヨ大統領は、2004年に自ら出た大統領選挙で勝利して例外的に2期目に入っていたが。2008年8月の段階では任期の終わりが見えてきて支持勢力が四散している感じだった。結局、自分の任期の初期に始まった交渉を任期中に終えられなかったので交渉が一度ご破算になったのだなあ、というのが外から見た漠然とした印象だった。

 それを考えると、2010年当選のアキノ大統領が、2012年の10月15日調印の「枠組み合意」を結んで、包括和平合意までの工程表に合意し、それに基づいて今回の和平合意調印まで進んだのは、フィリピン内政の時間軸からいうとぴったりというか、これ以上遅らせられないぎりぎりの日程に近い【2011年から今までの交渉のタイムライン】。

 任期が切れる2016年にまさにバンサモロ自治政府設立の期限が設定されているが、大統領の影響力が必然的に低下する過程でどうなるのかが若干心配である。

 大統領がふらついたり議会が邪魔する、というのが次にありうる展開。

 大統領の任期と議会有力者との関係というのはほんの大枠の大枠に関わる部分に過ぎない。和平と自治の実質に関わる土地や地方権力をめぐるローカルな事情はもっと重要なのだろうが、私にはよく分からない。たぶん非常に複雑で紛糾しているのだろう。

 和平を阻害する現象としては、MILFの統制下にない、あるいは対立・競合する組織が武装闘争や小規模のテロを行う、といったものが心配される。MNLFの一部が武装闘争に舞い戻って要求を突き付けるかもしれない。

 MILFは局地的な反政府武装組織としては有力だけれども、自治政府として半ば独立するバンサモロの領域一体にはMNLFの在地有力者が影響力を持っている。反政府闘争から自らを統治する段階に移ると、バンサモロ内部での新旧指導者層の権力争いから、紛争が生じかねない。ARMMの地方政府はいったん解体されるということだけど、ここに務めている人ってようするにMNLFのコネだったりするんではないか?それが(MILF主導となるであろう)バンサモロ自治政府で再雇用されるかを不安視する声なども早速挙がっている
  
 2013年9月9日には、MNLFの一派がミンダナオ島西南端の主要都市サンボアンガの市庁舎を攻撃し、人質を取って立て籠もった。同じころ、ザンボアンガの対岸のスールー諸島バシラン島のラミタンでは、2008年8月の和平協議崩壊の際にMILFから分派した「バンサモロ・イスラーム自由戦士(Bangsamoro Islamic Freedom Fighters)」と、イスラーム過激派のアブー・サイヤーフ(Abu Sayyaf)の残党が合流して、政府軍と戦闘を繰り広げた。

 2016年の大統領任期切れと、自治政府設立の期限に向けて、ちらちらと目を向けておこうかと思っています。

 なお、日本政府もミンダナオ和平には積極的な支援を行っている。

【寄稿】オバマの「サウジ訪問」隠れた争点は「エジプト」『フォーサイト』

 ドーハから帰国しました。滞在中に合間に書いていた論稿が『フォーサイト』に掲載されました。

 明日28日の米オバマ大統領のサウジ訪問を迎える、サウジとGCCの現状について。

 池内恵「オバマの「サウジ訪問」隠れた争点は「エジプト」」『フォーサイト』2014年3月27日

 速報性を重視してブログの「中東の部屋」にアップすることが多かったので、「中東 危機の震源を読む」という連載枠ではここのところあまり書いていなかったのですが、こちらの枠での執筆も再開したいと思っています。ブログ「中東の部屋」と連載の「中東 危機の震源を読む」では、質にそれほど違いはないのですが、連載欄の方がもう一押ししつこくテーマを追い詰める傾向があります。

アラブ連盟サミットに向けて

 カタールのドーハに来ています。

 先日書いたように(「オバマ大統領のサウジ訪問でGCCの内紛は収まるのか」)、オバマ大統領のサウジ訪問の際に行われる予定だった米・GCC首脳会議が中止になり、GCCの内紛の激化が印象づけられましたが、その渦中のカタールです。

 といっても、私の出る会議は宗教・政治の関係なので、直接外交問題については議論にならないだろう。若干、一人の参加者に陰で聞けたらいいなと思うことはあるが、そもそもこの状況下では来ないかも・・・
 
 クウェートで25・26日に行われるアラブ連盟首脳会議に先立って、22日にアラブ連盟外相会議が行われてアジェンダ設定がなされたが、シリア問題でも、エジプト問題でも、対イランでも歩調が合わず(「アラブ連盟サミットを対立が支配する」アル=ジャジーラ3月24日)、GCCの内紛の調停についても表立っては進展がなさそう

 今回の議長国はクウェートだが、サウジとカタールの対立ではクウェートは中間の立場におり、仲介役が期待されている。クウェートはGCC諸国の中で唯一、それなりに権限のある議会を選挙で選出しており、メディアの自由度も高い。ムスリム同胞団やシーア派にも政治的な発言権や事実上の結社の自由を与えている。

 この点で、「シーア派⇒完全に沈黙させる」「ムスリム同胞団⇒テロ組織と認定して完全に息の根を止める」というサウジ・バーレーン・UAEの立場とは異なる。

 かといってカタールのやっている、自国では政治的権利を厳しく制限しておきながら、他国ではムスリム同胞団などを支援し、カタールを批判しないという暗黙の了解の下で民主化活動家にカタール内に拠点を作らせ資金を与える、というような手法はクウェートは取っていない。

 こういった背景から、クウェートの立場はサウジとカタールの中間に位置する。

 カタールとしてはクウェートを引きつけておいてGCC内での孤立を防ぎつつ、サウジとの緊張緩和の糸口も探りたいのか、クウェートでのアラブ連盟首脳会議には積極的に参加しているようだ。

 カタールとしては、舞台裏で和解に向けた協議が行われそうだ、という印象は醸し出して、先行き不安を打ち消そうとしている模様です。

 サウジの方は、国王もサミットに来ないし、多国間の枠組みは当面無視して、エジプトの軍主導の政権を個別に支援する、シリアで忠実なイスラーム主義勢力を選別して支援する、といった動きを強めそうです。

 エジプトでは3月24日に、南部メニヤの裁判所がムスリム同胞団の主要幹部から末端の活動家まで529名に一度に死刑判決を出すという、馬鹿馬鹿しい状況になっていますが(政府に反対する者には何でもかんでも「懲役」「死刑」を宣告する一人の判事が中心にいます)、こういった動きの増長の背景には、サウジとUAEの個別経済支援への期待があることは確かです。

オバマ大統領のサウジ訪問でGCCの内紛は収まるのか

 オランダのハーグで行われる第3回核安全保障サミットに注目が集まる。ロシアのプーチン大統領が欠席するので、ウクライナ危機について西側諸国が一致してどのような対応を取れるのかが問われる。

 日本にとっては、日米韓の首脳会談が行われるかどうか、そこで韓国の朴大統領がどのような態度に出て、オバマがどう反応するかが、今後の日本の外交の方向性あるいは少なくとも「雰囲気」をかなり強く規定するだろう。

 というわけで結局、米国オバマ大統領の動向が軸になる。オバマ大統領/政権の外交に関しては世界的に期待値がかなり下がっているけれども(そもそも期待値を下げることがミッションだと心得ている大統領なのかもしれない)、いっそうその期待値が下がりそうな欧州歴訪であり、それによって生じる余波が各地・各方面で心配である。

 「どれだけ米国の大統領が影響を与えたか」よりも「どれだけ米国の影響力が下がったか」が注目され確認される歴訪となるかもしれない。

新聞記事などによると、たぶんこういう日程。

3月24-25日 オランダ・ハーグ 核安全保障サミット
3月26日 ベルギー・ブリュッセル EUと会議
3月27日 イタリア・ローマ バチカン訪問、イタリア首相と会談
3月28日 サウジ・リヤード アブドッラー国王と首脳会談

 あんまり知られていないかもしれないけれども、オバマは欧州歴訪後にサウジの首都リヤードに立ち寄る。

 これは中東専門家にとってはかなり感慨深い訪問。

 前回のオバマのサウジ訪問は、2009年6月3日。あまり記憶している人はいないと思う。

 翌6月4日に、エジプト・カイロで、いわゆる「カイロ演説」を行った。こちらはずいぶん話題になった。
 
 しかし、幾億光年遠ざかったか、と思えるほどの、その後の状況変化。中東も、アメリカの立場も。

 私も当時オバマ演説について解説を書いたけれども、

池内恵「洗練の度を深めるオバマの対イスラーム言説」『フォーサイト』2009年7月号
 その後、オバマ大統領の言説の華やかさ、洗練の度合いの高さと、政権が実際に行うこととの落差の激しさを幾度となく味わうことになった。

 今回のサウジ訪問では、当然サウジアラビア発のニュースでは、「米・サ関係維持・強化」を謳い上げるだろうが、実態はそのようなものではなく、白けた空気が現地でも世界全体でも漂うだろう。

 「アラブの春」でムバーラク政権を早期に見捨て、ムスリム同胞団の政権に期待をかけたオバマ政権にサウジは大きく失望している。シリア問題では理念を高く掲げながら何もしない口先介入を繰り返し、そしてイランとの取引にのめり込むオバマ政権とサウジとの関係悪化は周知の事実。

 そこでサウジは中国に秋波を送ったりしている。

 しかしサウジにとってアメリカ以外に頼れる安全保障の保証人がいないことも事実。

 そして、サウジを筆頭にしたGCC(湾岸協力会議)諸国の結束が今、大きく揺らいでいる。中核はサウジとカタールの間の対立。欧米的な民主化・市民社会勢力の一部を支援し、ムスリム同胞団に強く肩入れするカタールと、ムスリム同胞団を「テロ組織」に指定(3月7日)して、エジプトのクーデタで生まれた政権を全面的に支援するサウジとの対立が抜き差しならなくなった。

 3月5日にはサウジが属国のようなバーレーンに加えUAE(アラブ首長国連邦)と共に、カタールから大使を引き揚げた。

 大使を引き揚げるだけならよくある揉め事のようにもみえるが、どうももっと深刻な話らしい。政策が王族・首長の内輪で決まる、透明性がない国々だから、詳細はもっとじっくり分析してみないといけないが、短期間に収まる話ではないようだ。

 カタールはサウジアラビアから突き出した小さな半島なのだが、サウジはカタールへの制裁で物資や人の流れを止めることまでちらつかせている。

 本来は、今回のオバマ大統領のサウジ訪問では、GCC諸国の首脳が一堂に会して米・湾岸首脳会議を行う予定だったが、GCCの首脳同士が相互の激しい対立で同席できる状態ではなく、サウジ国王だけがオバマと会うことになった。

 GCC諸国とは米国は個別に安全保障協定を結んで、それぞれが実質上の米の同盟国である。

 米国の覇権の希薄化が、米同盟国同士の対立を抑制する力を弱めていると考えてよいだろう。

 GCCの結束の乱れは、ペルシア湾岸産油国の政治的脆弱さにつながりかねない。それは日本のエネルギー安全保障に大きな影響を及ぼす。

 今回のオバマのサウジ訪問を通じて、「米国にとってはもうペルシア湾岸産油国はそれほど重要ではない」という印象が広まると、各国の内政や、地域国際政治に不透明性が増す。日本にとっては依然として重要な地域なので、気になるところである。

それにしても

 先日の朱建栄先生の件も、今回の王柯先生の件も(もし政治的事案なのであれば)、中国共産党の見解もかなり取り入れて日本社会に説明するような姿勢をもった人の方が、中国に戻った時に問題にされているというのはどういうことなんでしょうね。

 朱建栄先生などは明確に中国政府の日本向けの弁護士のようで、まさにdevil’s advocateという言葉の好例だなあと思うのですが。

 中国政府の見解と全面的に対立している人はそもそも中国に入国しない/できないのかもしれません。

 あるいは、もはやウイグル族の民族問題が存在すると言及すること自体が「アウト」になっているのか。そうだとすると事態はかなり緊迫しているのかもしれません。

 また、日本社会に説得力のありそうな人を引き締めにかかって「再教育」するプログラムがあるのかも、などと想像しますが、よくわかりません。

 でも帰ってきて人が変わったようになっていたら誰も信用しませんよねえ。