【日めくり古典】イデオロギーで権力闘争を覆い隠すのはむしろ当然

ゆったりと今日もモーゲンソー。なんとなく始めた「日めくり」連載ですが、長くかかりそうです。今忙しいのでまとめて予約自動投稿です。連休中仕事で出かけています。私を探さないでください。私はここにはいません。

フェイスブックなどでも当分通知できないかもしれないので、日本時間朝7時に毎日自動で投稿されますので、読みたい方は読みに来てください。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

引き続きイデオロギーの話。しつこいですか。しつこいぐらいがいいです。

「人間は自己の権力への欲求を正当なものと考える一方で、彼に対する権力を獲得しようとする他者の欲求を不当なものと非難するであろう。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、227頁)

権力政治批判というのは、自分の持つ権力は正しくて、他人が持っている権力は悪い、という批判に過ぎないことが往々にしてあります(*研究者が「往々にしてある」と言うときは「いつもそうだ」ということの婉曲表現であることが往々にしてあります)。

これをモーゲンソーは「価値二面性」とも呼んでいます。ただし、モーゲンソーは、だからイデオロギーは悪い、イデオロギーで権力政治を覆い隠すのはやめろ、権力政治を剥き出しにしろ、などとは主張していないのです。

「このような価値二面性は、権力の問題に接近するすべての国家に特徴的なことであるが、それは国際政治の本質に内在するものでもある。イデオロギーを排除して、権力が欲しいなどと率直に言明する一方で、他国の同じような欲望に反対するような国家は、権力闘争において大きな、おそらくは決定的な不利を被ることをたちまち思い知らされるであろう。権力への欲求をこのように率直に告白してその意図を明言する対外政策は、結局、他の諸国家を団結させて、それに対する激しい抵抗を呼びさますことになるだろうし、その結果、その国はそうしなかったとき以上に力を行使しなければならなくなるであろう。」(同、228頁)

剥き出しの権力闘争は自国民の支持も受けないだけでなく、それに対する他国の警戒と団結を呼び覚まし、いっそう剥き出しの権力行使を必要としてしまう。であるがゆえに、嘘であれ幻想であれ、国家はなんらかの道義や正義や、あるいは時代によっては「生物学的必要」といった観念で自らの政策を正当化することが不可避であり、ある意味で合理的でもある、というのです。

「イデオロギーは、すべての観念がそうであるように、国民の士気を高め、それによって国家の力を高める武器であると同時に、その行為そのものが敵対者の士気を弱める武器である。」(同、229頁)

国際政治は単なる力と力の戦いではなく、不可分に道義や正義といった観念を駆使した戦いなのです。政治の学はそのことを客観視しなければならない、というモーゲンソーの主張は、この道義や正義の観念が、「現状」(それが「いつ」であるのかは、この本が第二次世界大戦直後の1948年に刊行されてから、70年代に入っても著者自らの手で改定され続け、邦訳は1978年の改訂第5版に基づいているので、そう簡単に確定できない問題ではありますが)では、むしろ対立を困難なものにしているという認識から導かれるのです。

まだまだ、続きます。

【日めくり古典】もっと、モーゲンソー『国際政治』ですが。。。

政治とイデオロギーの関係についての続き。よっぽどこれに頭を悩ませているらしい。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「まず、これらのイデオロギーは、特定個人の偽善の偶然の産物ではないということである。そのようなものなら、対外問題を立派に処理させるために、もっと誠実な別の人にそれを委ねてしまえばすむはずである。フランクリン・D・ルーズヴェルトやチャーチルの対外政策の虚偽性をあばくことに最も口やかましかった反対派の人びとが、ひとたび対外問題を処理する責任を負わされると、こんどは彼ら自身イデオロギーによる偽装を利用して支持者たちを驚かしたものである。政治舞台の行動主体が、自己の行動の直接目標を隠すのにイデオロギーを利用せざるをえなくなるのは、まさしく政治の本質である。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、226頁)

ありますね、これ。他人を口を極めて罵倒する人たちが、自分たち自身がイデオロギーの虜であるという場合。問題をある政治家の人格や思想に還元してしまうことが問題であるだけでなく、そのような批判をする人たち自身が無自覚にもっと難のある人格や思想をむき出しにしていたりする。

これに続く部分が重要です。

「政治行為の直接目標は権力であり、そして政治権力は人の心と行動に及ぼす力である。だが、他者の権力の客体として予定された人びとも、彼ら自身、他者に対する権力の獲得の意図をもっているのである。こうして、政治舞台の行動主体は、つねに、予定された主人であると同時に、予定された従者なのである。彼は他者に対する権力を求めるが、他者も彼に対する権力を求めるのである。」(同頁)

批判のための批判が正しい、とする開き直りの姿勢は、近代国家の市民は、「主人」であり「従者」でもあるということを、忘れているのです。

【日めくり古典】まだまだ、モーゲンソーの見る政治イデオロギー


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「政治の基本的な発現形態、すなわち権力闘争は、しばしばありのままにはあらわれない。このことは、国内政治にせよ国際政治にせよ、あらゆる政治に特有なことである。むしろ、追求されている政策の直接目標としての権力の要素は、倫理的、法的あるいは生物学的な用語で説明されたり正当化されたりするものである。いってみれば、政策の真の性格は、イデオロギー的正当化や合理化によって隠されるのである。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、222頁)

モーゲンソーは法と道義、理想主義の価値を否定するものではない。そもそもリアリズムの祖とされる『国際政治』を紐解いてみると、勢力均衡とか国力の話はほんの少しで、大部分が様々な理念の話である。ただし、人間は理念を掲げて政治を行うが、それが権力政治を覆い隠してしまう。それによって実際の政治は見えにくくなるとともに、理念に覆われた権力政治は人間により大きな災厄をもたらすことがある。人間が理念を掲げ、イデオロギーに覆い隠して権力政治を行う存在であることから、それらを剥ぎ取ったリアリズムの視点が必要とされる。そこにこそ政治についての学の存在意義がある。

【日めくり古典】良い動機が良い政策や良い結果をもたらすとは限らない

承前


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

第二に、政治家の意図や動機が立派なものであったとしても、それが道義的な政策をもたらすとは限らないし、成功する政策をもたらすとも限らないからである。

「われわれは、政治家の対外政策が道義的に立派であるとかあるいは政治的に成功するだろうとかいうことを、彼の善良な意図から結論づけることはできない。われわれは、彼の動機から判断して、彼が道義的に悪い政策を故意に追求することはないだろうと論ずることはできても、その政策の成功する可能性については何もいえないのである。もしわれわれが彼の行動の道義的な質と政治的な質を知りたいなら、われわれはその行動をこそ知らなければならないのであって彼の動機を知る必要はない。政治家が世界を改革しようという欲求に動機づけられながら、結局は世界をさらに悪くしてしまうことがいかに多くあったことか。また彼らがある目標を追求して、結局は期待も望みもしなかったものを得てしまうということがどれほど多かったであろうか。」(原彬久訳、上巻、46頁)

これは今現在も通用する真実ではないでしょうか。

モーゲンソーは例としてチェンバレンとチャーチルを比較しています。よく言われることですが、チェンバレンの宥和政策は「個人的権力」の獲得の欲求によって動機づけられていたわけではなく、「平和を維持しようとし、あらゆる当事者の幸福を確かなものにしようとした」が、しかしそれは第二次世界大戦を避けがたいものにしてしまった(46頁)。

それに対して、チャーチルは個人的な利益や国家権力の獲得という動機によって方向づけられていたとみられる。しかし「これら劣勢の動機から生まれたチャーチルの対外政策は、彼の前任者たちが追求した政策よりも確かに道義的、政治的な質において優れていたのである」(47頁)。

また、これもまたよく挙げられる例だが、フランス革命時のロベスピエール。

「ロベスピエールは、その動機から判断すれば、史上最も有徳な人物のひとりであった。しかし、彼が自分自身よりも徳において劣った人びとを殺し、みずから処刑され、彼の指導下にあった革命を滅ぼすに至ったのはほかでもない、まさにあの有徳のユートピア的急進主義のせいであった。」(同頁)

ロベスピエールは数多くの敵対勢力を断頭台に送り、最後は彼自身が断頭台の露と消えました。

「お前は人間じゃない」「叩っ斬ってやる」の元祖と言うべきでしょうか。

【日めくり古典】政治家の動機を探ることは無益

この「日めくり」シリーズでは、必ずしも体系的に、また標準的な教科書として、古典を解説しようとは考えていません。そういうものがお望みの方は他所を当たってみてください。気が向いたら解説書・研究書の紹介もします。

モーゲンソー『国際政治』には、昔の教科書では参照されることも多かった、基本概念をある程度網羅的に列挙して定義づけた部分があります。「政治的リアリズムの六つの原理」(上巻、40頁〜)や「政治権力の区分ーー四つの区分」(上巻、96頁〜)といった部分です。

それらを体系的に紹介するのはこのブログの趣旨ではありませんので、私自身がパラパラめくって、最近の世界情勢とか私の個人的な興味とかに照らして面白いな、と思ったのは、「政治的リアリズムの六つの原理」のその二で取り上げられている、国際政治は力(パワー)によって定義される利益(インタレスト)の概念から見ていくべきだ、という方法論の部分です(43頁〜)。

そこで、「われわれは、政治家は力として定義される利益によって思考し行動する、と仮定する」(原彬久訳、上巻、43頁)と記されています。「仮定する」のです。政治家が常に力として定義される利益によって思考し行動しているかどうかは、わかりません。わかりませんが、政治家が他のものによって思考し行動する、と仮定するよりは、この定義の方がマシだから、このように仮定しているのです。

よく行われるけれども有害無益であるとモーゲンソーが主張するのが、政治家の行動準則を、政治家の「動機」に求める考え方。これは、なぜ政治家がそのような判断をして行動したかの原因・結果を論じるときにも、政治家の行動が道義的に正しい動機に基づいていたか、あるいは正直に「真意」に基づいていたかを判定するときなどに、意識的にであれ、無意識的にであれ、用いられている考え方です。これがなぜ無益なのか。

第一に、そもそも政治家の動機を正確に判定することは困難だからです。

「対外政策の解明の手がかりをもっぱら政治家の動機のなかに求めることは、無益であると同時に人を誤解させる。なぜ無益かといえば、動機は心理学データのうちで最も非現実的であるからである。つまり動機は、しばしば見分けがつかないほどに行動主体と観察者双方の利益および感情によって曲解されるのである。われわれは、自分の動機が何であるかを本当に理解しているだろうか。またわれわれは、他人の動機についていったい何を知っているであろうか。」(同、45頁)

そうですね。他人の動機がよくわからないどころか、考えてみれば自分がやっていることだって、動機が何かと問われたら、わからないことが多いんじゃないですか?

第二に・・・

(以下次号)

【日めくり古典】国際政治の比較と予測

モーゲンソー『国際政治』(上巻、岩波文庫)からのメモの続き。

国際政治の研究には「比較」は欠かせない。しかし、国際政治学が扱う対象はあまりに曖昧だ。モーゲンソーはモンテーニュを引用して、事物と事物の「経験から引きだされる相対関係はつねに不備、不完全である。しかし人は、どこかの点で比較をしてお互いを結びつける。そんなわけで法則もまた重宝なものになる。法則は、幾分歪曲された、こじつけの、偏ぱな解釈によってわれわれの出来事のひとつひとつに適合するのである」(75頁)という。よって「偏ぱな」解釈につねに気をつけなければならないが、それでもわれわれは比較せざるを得ない。

そして、曖昧な対象を扱う以上、どこかに直感に頼らなければならないところが出てくるし、その直感を経験によって確かめられることもあれば、確かめられないこともある、という(83頁)。

「国際政治の研究者が学ばなければならない、そして決して忘れてはならない第一の教訓は、国際事象が複雑なために、単純な解決や信頼出来る予言が不可能になる、ということである。ここにおいて学者といかさま師とは袂を分かつのである。国家間の政治を決定する諸力を知ることによって、そしてこれら国家間の政治関係がどのように展開するかを理解することによって、国際政治の諸事実がいかに曖昧であるかが明らかになる。政治状況においてはすべて相矛盾する傾向が作用している。これらの傾向のうちひとつは、ある条件の下では比較的優位になりやすい。しかし、どの傾向が実際に優勢になるかは予測しがたい問題である。したがって、研究者にせいぜいできることは、ある国際状況のなかに潜在力として内在するいろいろな傾向を突きとめることである。彼は、ある傾向を別の傾向よりも広がりやすくしている諸条件をいろいろ指摘することができるし、また最終的には、いろいろな条件や傾向が実際に広がるその可能性を評価することができるのである。」(原彬久訳、上巻、83−84頁)

【日めくり古典】政治とイデオロギーは古来不可分(理論的分析は別の視点から)

もう少し、モーゲンソーの『国際政治』を。4回目。

政治の理論的な分析は、往々にして人びとの同意を得ることができないとモーゲンソーはいう。それは人びとが政治を理念やイデオロギーと絡めて理解しているからで、それ自体は不可避であるし正当であるとも言える。リベラルな理念からは権力政治はあってはならない、やがてなくなるものに見えるし、イデオロギーは権力闘争を覆い隠す。それが政治である。人間は「思いちがい」をすることで政治に満足する、とモーゲンソーは達観する。その上で、政治理論はそれらの思いちがいから中立であるようにしていかないといけない、と宣言するのである。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「日々機能している人間精神は、政治の真理をまともに直視することができないのである。それは、真理を偽り、歪曲し、見くびり、そして粉飾するにちがいない。しかも、そうであればあるほど、個人はますます政治の過程、とくに国際政治の過程に積極的にかかわることになる。なぜなら人間は、政治の本性と、彼が政治舞台で演ずる役割とについて思いちがいをすることによって初めて、政治的動物として自分自身および他の人びととともに満足して生きていくことができるからである。
 だから、人びとがその目で見たいと思う国際政治よりも、むしろ、現にあるがままの国際政治や、その本質からいって当然そうあるべき国際政治を理解しようとする理論は、他の大半の学問分野がしなくてもすむような心理的抵抗を必ずや克服しなければならないのである。したがって、国際政治の理論的理解にあてられた書物は、特別の説明と正当化を必要とするわけである。(原彬久訳、上巻、68−69頁)

【日めくり古典】政治学の様式とは

こないだからの続きでっせ。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「たとえば、近代経済学者は誰にしても、自分の科学、およびその科学と他の人間諸科学との関係について自分の思惟様式以外のやり方では考察しないであろう。経済学が人間の経済行動に関する独立した理論として発展してきたのは、まさにこのように他の思惟基準からそれが分離する過程をつうじてであり、さらには、その主題にあてはまる思惟基準を発展させてきたためである。政治の分野でこれと同じような発展に貢献するということは、実に政治的リアリズムの目標なのである。」(原彬久訳、上巻、67頁)

【帰ってきた】おじさん雑誌レビュー『中央公論』10月号は、戦後70年談話のテキスト分析から欧州の終焉まで

『中央公論』は最近中堅どころの研究者の原稿をよく掲載するようになって、研究者同士で議論するような内容を一般向けに載せてくれているので、毎号興味深いものをメモしておこうと思うのだが、出張に行っていたり時間がなくて時期を逸したりして結局メモできていない。そういえば以前、【新企画】と銘打って「おじさん雑誌レビュー」なるカテゴリを新設したが、ボランティアで論壇時評なんてとてもやる時間ないので(←頼まれたってやりませんよ)、自分の文章が掲載されたときに、ついでに他の文章も読んでコメントするぐらいで企画が立ち消えになっていた。

今回は自分の文章は掲載されていないが、偶然、刊行されてすぐ手に取ったので取り急ぎ。論文に集中しすぎて逆に滞っているので気分転換。

巻頭連載コラムの「時評2015」の一つ、宇野重規「『I』と『We』と『Japan』–戦後70年談話の複雑な構造」(22−23頁)が面白かった。

8月14日に安倍首相によって発表された戦後70年談話は、思想史家が考察するに値するテキストである(本文は首相官邸ホームページからダウンロードできる。英語版、中国語版、韓国語版もアップロードされており、それぞれが興味深い)

「謝罪」をするのかしないのか、というところばかりを日本のマスコミが追及してしまったので、「主語が不明確だ」などと糾弾する論調も直後にはあったが、適切な批判とは思えない。宇野コラムでは、談話をパートに分け、それぞれが扱う対象や内容に即して主語が移り変わるところを分析している。論者は安倍首相の政治的立場にはかなり懐疑的と思われるが、好き嫌いや思い込みでの断定はしていない。

「パートによって語りかける相手が微妙に変化し、あるパートではあえてすべてが宙づりになっていることは、談話が文章として出来が悪いことをけっして意味しない。むしろ、日本政府が世界や日本国民に対して、いかなるメッセージを発するべきか、実に微妙である現状をよく示しているのかもしれない。」(23頁)

そして「この複雑さを自らの行動を通じていかに明確化していくかが、日本政府の次なる課題となるはずである」と締め括っているのも示唆的である。この談話の直後にマスメディアの反応に見られた、この談話が安倍氏個人の真意かどうかを問う議論はあまり意味がない。日本政府としてこの談話の内容に即した政策を採用していくかどうか、将来にアカウンタビリティーを問うて行くことにこそ意味がある。「口のきき方が気に食わん」「本気で言ってんのか」と「因縁をつける」のではなく、「言ったことを実行しているか」を問うことこそが近代的な責任倫理に基づいたアカウンタビリティを確保するための正しい反応であり、近代的な政治システムの中での公共的議論の機能だ。

まさに、首相としての「私」として語るべきところと、内閣あるいは日本国としての「私たち」の名で語るべきところと、第三者的な歴史(といってもその視点や判断基準の客観性は当然争われる。それこそが歴史学である)として叙述するべきところを、明確に分けたことこそが、この談話の一つの要点である。それによって、日本国民の可能な限り多数の意思を代表しようとする意思を見せた文章となっていることに、日本の政治に重要な一歩の前進があったと私は考える。それぞれの主語で語られた内容には、立場によって異論は当然あるだろう。そういう話題を扱っているからである。ただし、国民の意思を可能な限り表出したものと言えることは、世論調査の反応からも明らかだろう。穏健なリベラルな基調のこの談話への支持の高さが、穏健で中道な日本の世論の現実を現していると思われる。

談話が首相の歴史観の真意と違う、と追及する議論は、公職にある人間の公的発言についての、近代的な原則を理解していないのではないかと疑わせる足る議論だ。まず、首相にむやみにその瞬間の歴史観の真意などを語られたら困るのである。

そして、歴代の首相あるいは政治家一般は、みだりに「真意」をダダ漏れにさせてきた。国内支持者やマスコミにはそれこそが人間味であると評価されたり足を引っ掛けられてから騒ぎの種になって国際的に日本国民にとって否定的な効果を生み出しつつ、国内的にはやはり悪名は無名に勝るだとかいった、とにかくもうどうしようもない世界であった。言葉に与えられた価値が軽すぎた。どういう経緯があったにせよ、国際的にみて国や大企業の公的なスピーチで凝らすべき思考と工夫が形式にも表れている演説が行われるようになったことは、日本社会の前身だろう。

これまでの日本の首相や大臣の発言は、(1)官僚の作文=各部署からの持ち上がりを「ホチキス」で束ねたような、各部分部分でそれぞれの業界に配慮した、全体としては一貫性や通底する理念が見えないもの、むしろ見えないようにしてあるもの、あるいは(2)政治家による場への迎合=原稿にないぶっちゃけた下卑た話をしてウケたり、その時にいる聴衆にだけ分かる・喜ばれることを言う=cf. 神道の団体に行くと「日本は神の国」とか言っちゃって後で問題になる、というものが多かった。「神の国」が真意かどうかなど誰にもわからない。その場でウケることを本能的に言っているということはわかる。真意というよりは場への迎合なのであり、その場その場で最も上手に迎合することが日本における正しい「真意」として評価されるのである。うっかりウケないことを言ったら、それは「真意じゃなかった」のである。これこそ、いいかげんにしたらどうだという世界である。

スピーチライターが入って、学者にたたき台を出させて、政治的な配慮と仕掛けを凝らして、練り込んだスピーチを提示するという先進国の指導者なら誰でも毎週のようにやっていることを、日本の政治家はしてこなかった。官僚が時に一生懸命工夫して書いても、「こんなの役人の作文だあ」と原稿放り投げてアニメだとかなんだとかぶっちゃけ話をするとドカンドカン受ける、マスコミも報じる、という何ともはやな世界であった。

しかし安倍首相というのは、某有力英語スピーチライターを第一次政権時代から重用し、国際的に作り込んだスピーチを何度も行っているという意味で、これまでの首相とは大きく異なる。国際的にみれば言っておくべきだが、本人の元来の信念や思考とはかけ離れているかもしれないことを、ここぞという時は得意ではない英語で必死に練習して読み、また別のここぞという時には某大物スピーチライター自身が通訳ブースで渋く読み上げる国際政治上の巧みなレトリックを駆使した英文の方がまるで正文のように聞こえ、首相が読んでいる日本語版は実質アテレコ状態、日本語を聞いているのはついてきた日本の記者団だけ、みたいな、ニッポンのエラいさんたちが通常なら耐えられないような状況に置かれても、まるで苦にしないでこなすというのは、これまでの歴代の首相にはなかった行動様式だろう。いったい何がそのようにさせたのか、のちの時代の日本政治史家は大いに興味をそそられるだろう。

なお、『中央公論』10月号には対談で、山内昌之・佐藤優「ラディカル・ポリティクス−−いま世界で何が起きているか」(152−161頁)が載っていて、ここでも戦後70年談話(こちらは「安倍談話」と呼んでいる)を取り上げている。宇野コラムでは批判的に言及されていた、日露戦争での日本の勝利が「植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」という部分について、山内・佐藤対談では「しかし、安倍さんの指摘自体は事実なのです」(山内氏)としているのも興味深い。おそらく宇野氏は「アジア」の特に中・韓の反応をもって疑問視しているのに対して、山内氏は「でも、「勇気づけられた」度合いは、日本から離れるに従って正比例しました。イランやトルコはもとより、アラブ世界の場合は特に顕著なのです」と広い視野から位置づけている。トルコやイランやアラブ世界の「親日感情」の根幹は、「遠く離れていて植民地支配をしたことがない」日本が、欧米に対して日露戦争で勝利したり、第二次世界大戦で軍事的に挑戦したことにあるのは、文献学的にも裏づけられた事実だからである。

文献学的な裏づけとしては、比較文学・文化史の、杉田英明『日本人の中東発見』(東京大学出版会、1995年)が今でも基本図書だろう(できの悪いかつての生徒に推薦されて不快なことと思いますが・・・)。


『日本人の中東発見―逆遠近法のなかの比較文化史』

私が少し前に読んだ、パレスチナの知識人の日記などにも、第二次世界大戦時に、反英独立闘争を志すパレスチナのアラブ人たちが、風の噂で日本がドイツと一緒にイギリスに挑んでいるらしいと伝え聞いて、もしかすると日本の勝利で英国の支配から自分達を解放してくれるかもしれない、と淡〜く期待しているところがあった。日記はすぐに別のテーマに移ってしまって、日・独が劣勢になると日本のことを噂していたこと自体、全く取り上げられなくなってしまうのであるが。

対談者の山内氏は有識者懇のメンバーなのだが、佐藤優氏は戦後70年談話を「『アカデミズムと政治がどのように折り合いをつけるか」という観点からすると、結果的に理想的な形に落ち着いたんじゃないか」「過去にこれほどアカデミズムの成果と政治家の主張が重なった談話の類はありません。私は、そこを一番評価したいのです」と繰り返し絶賛しているが、有識者懇の当事者を目の前にしてこうまで言っているところは、読む方としては若干鼻白むという気がしないでもない。

学者の議論の取り入れ方や首相演説の文法・語彙として、佐藤優氏の評価自体には私自身も同意するのだが、もう少し第三者的な立場での評価や議論ができないかな、と思う。

『中央公論』は安倍政権の歴史認識をめぐる公的表現をめぐって、当事者として関係した様々な学者が頻繁に登場するので、客観的な評価の場というよりは、評価する際の資料の宝庫といった感がある。

その中でも、先月号に掲載された北岡伸一「侵略と植民地支配について日本がとるべき姿勢」『中央公論』2015年9月号、112−119頁は、戦後70年談話の位置づけや、「侵略」の定義、「謝罪」と「反省」の関係、日本は植民地支配を終わらせるために戦争をしたわけではないが結果的に植民地諸国は独立した、戦後生まれには「謝罪」する必要はないが、「過去の侵略の歴史を忘れず、記憶にとどめる」ことについて「責任」がある、といった談話の骨格がここにある。談話に二度出てくる「挑戦者」という表現も、北岡論考の締めくくりの「日本はかつて国際秩序に対する挑戦者となって、これを崩壊させてしまった」(119頁)という形で出てくる。

佐藤優は返す刀で言論人としての原点と言える外務官僚・キャリア官僚批判の得意舞台に持ち込んで数名を実名で攻撃して火だるまにしたりしていて、いつも通りやけに面白いのだが、雑草のような視点から政治家や検察やメディアなどの、権力者・権力に近寄ろうとする人たちと渡り合い、手玉に取り取られしてきたこの人が、安倍首相の「周囲にいる人たちが、問題アリ」という時の「周囲」には、潜在的にどこまで含まれうるのかということまで想像を膨らませると、この対談はさらに面白くなる。権力者の背後の「黒子」の立場から権力に群がる人たちを冷たく見て生きてきたこの人の目に映る世界はどのようなものだろうか。

『中央公論』10月号では他にも面白そうな記事が多い。特集は中国・習近平政権で、白石隆・川島真(対談)「習近平は真に強いリーダーかー権力基盤、海洋進出、経済戦略」(30−41頁)をはじめ、対外政策や政軍関係について踏み込んだ記事が並んでいる。中国経済の先行きについては津上俊哉「ピンチに喘ぐ中国経済の実態」(42−47頁)で株と金利と通貨の話がまとめられている。

そして『中央公論』で最近力を入れているようなのが、長大論考の「公論2015」。書くの大変そうだ。

今回は、ギリシアの債務危機から、西欧に大挙して押し寄せる移民・難民の問題まで、細谷雄一「『ヨーロッパ危機』の本質−−−−内側からの崩壊を止められるか」(86−100頁)は後でじっくり読んでみたい。

細谷氏はこの本が静かな反響を呼んでいる。この本についてはどこかでまた改めて書いてみたい。


『戦後史の解放I 歴史認識とは何か: 日露戦争からアジア太平洋戦争まで』(新潮選書)

ちなみに、『中央公論』の今年の4月号では、私と、この著者も含めた鼎談で、「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」というものを載せています。この鼎談で、まさに私は今年は「欧州普遍主義の終焉」の年だと断定してしまったのだけれども、まさに大量移民・難民問題は、欧州の理念を一貫して適用するとその重みで欧州自体が崩壊してしまうような圧力をかけています。

4月号の鼎談では、「私は移民を『植民地主義の出前』と呼んでいます。かつて欧米の人たちが世界中に出かけて行って植民地にした。搾取はいけないということで引き上げたら、植民地化されていた方の人たちはそれでは食っていけにあので今度は大挙して欧米の都市の郊外に「出前」されてきた。便利だと使っていたが、都合よく丼を持って帰ってくれるわけではない」(93頁)などと、これだけ取り出すと文句言われそうなことも私は言っていますが、前後も読んでみてください。本当に大規模に、注文もしていないのに「出前」されてくるようになってしまったなあ。

個人的にも中東の動きも急激だったので、今年の4月がすごい昔に感じられるのだけれども、たいして時間たっていない。

【日めくり古典】モーゲンソーにとっての政治と宗教

前回に引き続きこれ。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「政治的リアリズムは、人間性にはいろいろな側面がある、ということを認めるとともに、これら諸側面のうちのひとつを理解するためにはわれわれがその側面独自の条件でそれを扱わなければならない、ということをも承認する。すなわち、私が「宗教人」を理解したいと思えば、私は、人間性の他の諸側面から当分の間離れて、その宗教的な面を、あたかもそれが唯一無二の側面であるかのように扱わなければならないのである。そのうえ私は、宗教の領域に対しては、その領域に妥当する思惟基準を適用しなければならない。しかもその場合、私は、他の基準の存在と、人間の宗教的な属性に対してこれらの基準が実際に及ぼしている影響についてつねに知っている必要があるわけである。人間性のこの側面についていえることは、他のすべての面についてもあてはまる。」(原彬久訳、上巻、66−67頁)

【寄稿】トルコの暗部・ネオナチ的民族至上主義が露呈

トルコ各地でクルド系政党HDPに対する襲撃が生じる中で、寄稿しておきました。

池内恵「トルコ民族主義の暴発が秘める内政・外交の危険性」《中東―危機の震源を読む(89)》『フォーサイト』2015年9月10日

トルコには、「世俗主義V.S.イスラーム主義」という対立軸に加えて、根底では20世紀前半の西欧の人種主義を「冷凍保存」したようなトルコ民族主義があり、クルド民族主義とは特に対立している。

それはおそらく、かつてのクルド民族の存在を全否定して、遅れた未開の「山岳トルコ人だ」と言っていた時代の支配的なイデオロギーなのだろう。イスラーム主義の与党AKPも、もちろんかつての与党の流れをくむ世俗主義のCHPも、それほどむき出しにしないまでもこの要素を共有しているはずだ。動乱の中でトルコの負の側面が表に出てきている。

トルコの底堅い民主主義と自由なメディア・市民社会が、これを克服していってくれることを願う。

【日めくり古典】リアリズムは法・道義や宗教をどう扱うか

連日、現在進行中の中東情勢の変動とその国際的波及と、それらを理論的に整理する枠組みと概念をパズルのように組み立てる作業を繰り返している。

そんな中、一瞬だけ目に付いた古典に帰ると、これまでに目に止めなかったところが目に止まり、重要性に合点がいっていなかった部分が浮き立ってくる。

そんな中から少しずつノートを作っていってみよう。

まずはモーゲンソー『国際政治 権力と平和』(原彬久訳)から。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

台風の中、電車の中でこの本を読んでいて、特に注視して読んだのは、リアリズムの観点からの国際政治の把握が、法や道義的観点や、宗教的観点からの国際政治論とどう違うのか、それらの規範的な立場からの主張をどう扱えばいいのか、という問題について。

思想史という、規範的な価値とイデオロギーを必然的に含んだ対象を扱う領域に注目し、イスラーム教という宗教的価値規範を対象にしつつ、現実政治の中での思想と宗教の発現を対象化する作業をしていると、リアリズムと規範のせめぎ合いで視点がぶれそうになる。また、政治学の方法論には、人間を経済学的な合理的個人と仮定することで物事のある側面を浮き立たせるものがある一方で、それで捨象されてしまう集団や価値や非合理の要素に目を向けなければ説明できない現実の事象が無数にある。方法論をどの次元で設定するべきか。

それに対してモーゲンソーはどう言っているのか。上巻の最初の方。

「リアリストが他の思惟様式による邪魔だてに抗して政治的領域の自律性を守ろうとすることは、これら他の思惟様式の存在と重要性を無視することを意味するものではない。それはむしろ、おのおのの思惟様式がそれ独自の領域と機能を配分されるべきである、ということを意味している。政治的リアリズムは、人間性の多元的な概念に基礎づけられている。現実の人間は、「経済人」、「政治人」、「道徳人」、「宗教人」等々からなる複合体である。「政治人」以外の何物でもない人がもしいるとすれば、その人は野獣である。なぜなら、彼は道義的自制を全く欠いているからである。単に「道徳人」である人は愚者である。というのは、彼は完全に慎慮を欠いているからである。「宗教人」にすぎない人がいるとすれば、その人は聖者である。なぜなら、彼は世俗的欲望を全く欠いているからである。」(原彬久訳、上巻、66頁)

【寄稿】シリア難民に対する西欧の倫理的義務とは

8月末から9月初頭にかけて、シリア難民の波が、難民申請受理の条件を緩めたドイツを目指して殺到しているのが国際メディアで伝えられる。

これは私がここのところ難産の論文で理論的に取り組んでいる、中東の過去5年間の急激な変動の、国際社会に及ぼした一つの帰結だが、それによって今後生じる西欧社会そのものの変質や摩擦といった別の問題を引き起こしていくだろう。

根本原因であるシリア内戦の構造については多くが語られてきたが、必ずしも理解が浸透しているとは言えない。シリア問題をイデオロギー的な争点として議論することで、実態がぼやけてしまっている。まさにイデオロギーに立て籠もって「三分の理」を主張して欧米諸国を牽制しつつ、あとは実力行使で乗り切るのが中東の諸政権の基本姿勢だが、そういった中東の独裁政権の手法で問題が解決できなくなったので、ここまで長引いている。アラブ人は独裁政権に従っていればいい、という前提に立つ外部の「解決策」は、当のアラブ人がそういうつもりになっていないのだから実現しない。そして独裁政権に従えと外から強制することは誰にもできない。せめて「偽善」で黙認するだけであるが、黙認されるほどの実効支配をアサド政権が行いえなくなって久しい。

西欧社会が難民に対して、人道主義の理念から、また「良きサマリア人」たるべしという信念から手を差し伸べていることには、深く敬意を表したい。ただし、西欧社会が関与してくることで、シリア内戦に意図せざる効果をもたらしてしまいかねないことにも注意する必要がある。

西欧諸国がシリア難民を積極的に受け入れることで、シリアから、特定の地域や特定の民族や階層の人たちが一層大規模に、まとまって流出することが予想される。そうなると、シリアの人口構成が恒久的に変わる、実質上の「民族浄化」を進めかねない。

もちろん、難民の中にジハード主義者などが意図的に潜入すれば直接的な紛争の発火点となり、対立を帰って激化させかねない。

根本的な解決は、シリア内戦を終わらせ、難民たちが戻って経済生活を営めるようにすることである。これについて、ポール・コリアーの論考が簡潔に指針を示していて参考になる。『フォーサイト』の「中東通信」に急ぎ要点を解説しておいたので、ここに再録する。英語の文章の教材としてもいいのではないかと思う。

 

池内恵「『汝、誘惑することなかれ』−−−−西欧の本当の倫理的義務とは何か(ポール・コリアー)」『フォーサイト』《池内恵の中東通信》2015年9月8日 15:46

シリア難民のドイツへの大量到着で、ある種のカタルシスが西欧には湧いているが、やがて深刻な現実に直面せざるを得ない。

「最底辺の10億人」のポール・コリアーが7月に書いていたことを改めて読んでみる。

Paul Collier, “Beyond The Boat People: Europe’s Moral Duties To Refugees,” Social Europe, 15 July 2015.

Around 10 million Syrians are displaced; of these around 5 million have fled Syria. The 5 million displaced still in Syria should not be forgotten: just because they have not left does not imply that their situation is less difficult: they may simply have fewer options. Genuine solutions should aim to help them too. Of the other 5 million who have fled Syria, around 2 per cent get on boats for Europe. This small group is unlikely to be the most needy: to get a place on a boat you need to be highly mobile, and sufficiently affluent to pay several thousand dollars to a crook. A genuine solution must work for the 98 per cent as well as for the 2 per cent. Most of these people are refugees in neighbouring countries: Jordan, Lebanon and Turkey. Giving these people better lives is the heart of the problem.

「シリアの難民500万のうち、ヨーロッパに向かって海を渡るのは2%だ。残りの98%はシリアの周辺諸国、ヨルダン、レバノン、トルコなどにいる。また、シリア内部の避難民が別に500万人いる。そちらも支援するべきだ。ヨーロッパにたどり着けるのは比較的裕福な層だ」といった基本構図を指摘している。

ヨーロッパにたどり着く人数が500万人の2%にあたる10万人で済むかどうかは今後の政策次第だが(すでにこの数値を突破しているようにも見えるが)、まさにコリアーが提起するような、周辺諸国での支援と、シリア内戦の終結後の帰還・経済再建の支援が行われなければ、そして安易にヨーロッパで受け入れるという印象を与える発信がなされれば、爆発的に増えるかもしれない。コリアーは「汝、誘惑する(tempt)ことなかれ」という旧約聖書のモーゼへの十戒第7を引いて、安易な人道主義による受け入れを戒める。

The boat people are the result of a shameful policy in which the duty of rescue has become detached from an equally compelling moral rule: ‘thou shall not tempt’. Currently, the EU offers Syrians the prospect of heaven (life in Germany), but only if they first pay a crook and risk their lives. Only 2 percent succumb to this temptation, but inevitably in the process thousands drown.

要約すると、「援助の手を差し伸べることは義務だが、同程度に『汝、誘惑することなかれ』という義務にも従わないといけない。2%の比較的裕福な層に、ドイツに行けば天国が待っているかのような印象を与えて誘惑して、ならず者に法外な手数料を払って命を賭して渡航するという誘惑に身を委ねさせ、数千人に命を落とさせてはならない」ということ。

【地図】地中海の難民・移民の流れ

シリア難民の西欧(特にドイツ)への大量流入が話題になっているが、問題自体は2011年の「アラブの春」で各国の政権が揺れたり内戦が生じたりしてすぐに発生しており、2013年頃から激化していた。

そしてこれはシリアから難民が発生しているというだけの問題ではなく、アフガニスタンやアフリカ諸国からの難民・移民が地中海南岸のアラブ諸国に到達して、そこから西欧への渡航を目指すというより大きな問題の一部です。

昨年から今年の初めまでは、むしろサブサハラ・アフリカ諸国や東アフリカからの移民が、モロッコのスペイン領飛び地のセウタとメリリャに侵入しようとする問題に焦点が当たっていた。しかしこれについてはモロッコと西欧諸国の両方の協力による取り締まり・対策強化で一定の沈静化が見られた。しかしこれはモグラ叩きの一部で、今年に入るとリビア内戦の混乱の隙をついて密航業者がリビアに多く現れ、リビアからマルタやイタリアやギリシアへ移民・難民を「泥舟」的な密航船に乗せる動きへと焦点が移った。これに対しても、イタリアなどは密航船の接収・破壊などで対処したが、リビア側の対処が不十分で効果は限定的だ。

また、ここでドイツや北欧のような内陸諸国と、イタリアやギリシアのような地中海に接していて移民・難民の上陸地点となる諸国との温度差が表面化した。

そこにはユーロ経済の中で「一人勝ち」で経済が好調で、高齢化・少子化による人手不足も抱えているドイツと、経済的な苦境にあり失業率が高いギリシアやスペインやイタリアとの事情の違いも大きい。

今年の2月頃には、リビアからイタリアへ向けて出航して転覆する密航船が相次ぎ、人道危機が明確になった。これに対する対処でEU諸国がもめている間に、今度はシリアから船でギリシアに渡ったり、陸路ブルガリアを突破したりしてドイツ・北欧を目指すシリア難民の波が加わった。

このような地理的な焦点の移動やそれに伴う移民・難民の構成要素の変化について、BBCが地図と図表を駆使して概観してくれている。

“EU migration: Crisis in graphics,” BBC, 7 September 2015.

まず全体像がこれですね。

地中海難民全体像

この記事では次のように分類している。

西地中海(濃い緑):モロッコからスペインへ
中央地中海(赤):リビアやチュニジアからイタリア(シチリア島)へ
東地中海(黄緑):トルコからギリシアへ
西バルカン(紫):ギリシアからマケドニアやセルビアを経由してハンガリーへ
(これ以外にアルバニアからギリシアに入るルートや、東欧を経由してスロバキアに入るルートも示されている)

今話題のドイツへのルートは、東地中海ルートと西バルカン・ルートのこと。

シリア難民トルコ・ギリシア・ルート

ここではブルガリアのルートが書いてありませんが、これも問題化しています

これらのルートを辿る昨年と今年の難民・移民の数がグラフで示されている。

地中海難民の焦点の移行

西地中海ルートでスペイン入りする数は2014・2015年は相対的に小さくなっている。

中東地中海ルートで昨年は大規模に人間が動き、今年もそれが続いている。東地中海と西バルカンルートが、今年になって激増し、年の半ばにしてすでに昨年比で倍増しており、このままのペースだと昨年の4倍にも達しようとしていることがわかる。

それぞれのルートを渡る移民・難民の主要な出身国はそれぞれ次のようになっています。

地中海難民の出身地別

チュニジアやリビアを経由する中央地中海ルートでは多数が、東アフリカのエリトリアや西アフリカのナイジェリア、その他のサブサハラ・アフリカからきている。

それに対して東地中海ルートや西バルカン・ルートではシリアやアフガニスタンから多くがきている。

さらにいくつか地図を見てみよう。

西地中海のルートの一つが、なんとかしてモロッコの沿岸のスペイン飛び地に入って難民申請すること。モロッコのスペイン飛び地という、15世紀末 にさかのぼる特殊事情が関係している。

アフリカ移民モロッコ・ルート
“Ceuta, Melilla profile,” BBC, 16 March 2015.

これを阻止するために二つの町の周囲に巨大なフェンスが設置されるようになっているが、今でもそれを突破しようとする移民が跡を絶たない。

これ以外に、以前はモロッコの西岸から大西洋のスペイン領の島に密航しようとして、これも「泥舟」に乗せられて命を落とす事例が相次いだが、取り締まり強化で減ってきたようだ。

それに対して、東地中海ルートの最大の難関は、トルコまでやってきてそこからギリシア領の島にたどり着くこと。一つはブルガリアで陸路、徒歩やトラックの背や荷台に乗った密航による。

もう一つがトルコのエーゲ海沿岸から、すぐ沖合に位置するギリシア領の島に渡るやり方。

ギリシアの島の人気のないところに上陸し、島で難民申請を行って、その後は安全にフェリーなどでギリシア本土に上陸し、その後は陸路ひたひたとドイツを目指すのです。

トルコのエーゲ海沿岸のすぐ向かいには、ギリシア領のレスボス島、キオス島、サモス島、コス島などが点在する。トルコの主要都市イズミル近辺にはサモス島が、欧米でも人気の保養地ボドルムの向かいにはコス島がある。距離は狭いところでは10−20キロほどしかない。

フェリー会社の地図があったので見てみましょう。

エーゲ海フェリー地図

出典:http://ferries-turkey.com/popup-route/routemap-800-e-europe.html

拡大地図を見てみましょう。

トルコ沿岸のギリシア諸島

こんな感じです。アナトリア半島の本土はトルコ領で、目と鼻の先の島々はギリシア領。普通は陸地のすぐそばも同じ国の領土ですよね。しかしトルコ・ギリシアの国境はちょっと変わっています。

これは、第一次世界大戦中・戦後のオスマン帝国領をめぐる戦乱で、ギリシアが一時アナトリア本土まで占領した後に、トルコ民族主義勢力が本土を奪還した経緯から定まった国境線です。

以前に記したましたが(「トルコの戦勝記念日(共和国の領土の確保)」)、1920年のセーブル条約でギリシアがイズミルを中心としたアナトリアの領土を主張したのに対し、トルコ民族主義勢力が盛り返して1923年にローザンヌ条約で、本土とエーゲ海の島々の間にトルコとギリシアの国境線を引きました。それらの地図については以前のエントリを見ていただきたい。

最近こんな記事も出ていました。
Nick Danforth, “Forget Sykes-Picot. It’s the Treaty of Sèvres That Explains the Modern Middle East,” Foreign Policy, August 10, 2015.

「本当に重要なのはサイクス・ピコ協定じゃなくて、セーブル条約だよ!」というタイトル。一理あります。

この記事の装画には、ギリシアがエーゲ海沿岸を現在のトルコ領まで領土に組み入れようとした1920年のセーブル条約の地図のギリシア・トルコ・シリアの部分があしらってあります。

セーブル条約1920年

セーブル条約からローザンヌ条約の過程で、戦争と難民流出と住民交換で、多くの人命が失われるとともに、住民構成が大きく変わりました。100年後の今再び、この近辺で住民構成の変化を伴う戦乱が生じていることになります。トルコ本体もクルド武装勢力との紛争が激化していますから、変動の波は当分収まりそうにありません。

【寄稿】ミュンヘンに到着するシリア難民の足取り

先月の末に、ミュンヘンで、日本の官民の中東関係者が年に一度集まる会議に読んでもらったので、行って話をしてきた。近年は湾岸産油国やトルコのイスタンブールなどで行ってきたのだが、今年はミュンヘンとなった。もちろん安全懸念への配慮からである。

私はここのところ、チュニジアに行くとその後テロが起こり、湾岸産油国に行くとその間に湾岸産油国の隣国でテロが起こるなどの偶然が相次いだので、「私が帰ったら今度はミュンヘンでも何か起こるかもしれませんよ」などと冗談を言っていたら、事件どころか中東問題そのものがミュンヘンに押し寄せてきてしまった。ハンガリーでの足止めを突破して、オーストリアを経由してハンブルグ中央駅に到着する

欧米にいっても、中東の人間が立ち回る場所やルートを自然に辿ってしまうのが中東関係者の宿命なのだろうか。シリア難民が経由するウィーン西駅などは、トランジットの際の定宿にしていた安ホテルがあるなど、馴染みがある。移民が行き来するところに私も足が向かってしまう。

そんなことをつらつらと、『フォーサイト』の「中東の部屋」に書いてみた。

池内恵「ミュンヘン中央駅に到達するシリア難民」『フォーサイト』《中東の部屋》2015年9月8日

【寄稿】先週発売の『週刊エコノミスト』に読書日記が

ここのところしばらく、極力インターネットから遠ざかって論文を書いていました。

ここのところ頭を悩ませてきた難題は、インターネットの影響による個々人の態度の変化が、実際に各国の個別の文脈でどのように社会運動や政治変動につながるか(つながらないか)、というものでした。逆接的ですが、オンラインの影響について徹底的に考えるには、どこかでオフラインに引きこもる必要があるようです。オンラインでの情報収集や発信はもちろん重要なのですが。引きこもって論文を書く際にも、データベースからダウンロードした大量の論文を参照しているのですが、ここでさらにその先を調べようとネットに繋がってしまうと、気が散るんですよね。

そして、研究テーマそのものに関しても、オンラインでの「盛り上がり」がオフラインでの現実にどう反映されるかは、かなり複雑な、各国によって異なる条件・文脈が関係しているようです。そのことをオフラインの状態でずっと考えていました。ややこしいパズルを解いています。しかしこのあたりが地域研究と政治学を思想史と絡めながらやっていることで見つかる面白いところです。

そうこうしているうちに、気がつけば、先日事前にちらっとお知らせしていた、『週刊エコノミスト』でやっている読書日記の連載第14回が出ていました。


エコノミスト 2015年 9/8 号 [雑誌]

しまったもう次の号が今日あたりに出てしまっている。私の連載ページは、週刊エコノミストの電子版(Kindle等)には載っていないので、現物が手に入らなくなるとそれっきりです。

アマゾンなら現物が買えそうです。今回は逃避効果なのか、楽しく勢いよく書けたので、忙しい方の暇つぶしにぜひ。

池内恵「中東から逃避するための大人の夢物語」『週刊エコノミスト』2015年9月8日号(8月31日発売)、57頁

先日のエントリ(「逃避の書」)でも書きましたが、取り上げたのはこの本です。


イエメンで鮭釣りを (エクス・リブリス)

・・・アマゾンでは新品がなくなっている。多分一時的に在庫が切れただけだと思うんですけれど・・・白水社の在庫を調べている時間がない。たぶんあります。ご関心のある向きは紀伊国屋書店や丸善・ジュンク堂などで検索してみると良いのでは。

読書日記の一部を引用すると、

「しかし問題はすでに末端部局の判断を超えていた。中東問題で成果を出し、メディアの注目を集めたい首相が、外務大臣も差し置いて、この案に飛びついた。「イエメンで鮭釣りを」が国家的プロジェクトに膨らんで、その実現が、キャリア・ウーマンの妻にも馬鹿にされているしょぼくれた中年窓際学者の肩にかかってしまったのだ。どうする?行く手には、立ちはだかる難題だけでなく、婚約者がイランで消息を絶った傷心の美女も現れて・・・」

・・・と映画配給会社の宣伝部員がチラシ用にやっつけで書いたような文体を意図して使っています。意図しなくてもそうなってしまったのかもしれません。なにしろ忙しいもんで。