これを読んで考えた。
「(ニュースの本棚)ウクライナ 「国民統合」の難しさ 末澤恵美」『朝日新聞』2014年4月20日05時00分
この中で、中井和夫『ウクライナ・ナショナリズム 独立のディレンマ』(東京大学出版会、1998年)が取り上げられています。
中井和夫先生、カッコいいなあ。
何がカッコいいかというと。この本、ウクライナがあんなことになってるから、当然、買ってみたいと思うでしょう?
もちろんこういった専門的な本で、出た当時は全然国際問題にもなっていなかったテーマの本なので、当然今では版元の東京大学出版会でも「品切れ」でございます。
そんなに分厚くもないのに7000円以上もする本ですので、たぶん部数はすごく少ないんでしょうね・・・
もちろんアマゾンなどのインターネット書店でも軒並み全滅、入手不能。
古本屋サイトなどで検索しても、買えませんねー。
じゃ図書館で探すか。
ためしに東大の図書館OPACで検索しても、本郷と駒場に一冊ずつあるけど、はい貸し出し中(4月23日現在)。待っててもいつ読めるかわかりませんよ。
東大生がんばって勉強していますね。よしよし。いや、教員が借りちゃっている可能性も高いが。
手に入らないといわれると欲しくなるでしょ?
実は、私は出た当時に東大生協の書店で生協組合員証を見せて1割引きで買ったものが書庫の奥の奥にあるんだけど、欲しい?いくらなら買う?
売ってあげない。
知識を「マネタイズ」しろなどと小賢しい商売のやり方を売り込むネズミ講みたいな議論がウェブ上には散乱していますが、それは既存の知識を右から左に流しているだけの人たちの話。
本当に意味のある知というものは、別に売れなくたっていいんです。あること自体に価値があって、代替不能。
もちろんそういった「元ネタ」を三重・四重に孫引きして知ったかぶりをしている人(私も含む)はいるが、ではその根拠はというと、別の人に依存せざるを得ないから不安だ。
少なくとも、最終的にどのあたりが正確な元ネタなのかを知っているのと知らないのでは大違いだ。
知というのは、知らない人が損をしているというのが原則。まあ損をしていること自体に本人が気づかないケースが多いのですが。
本当に必要な知識は、お金を出しただけでは、買えない、というのが、より重要な本質なんです。
そのことを示してくれた中井和夫先生、カッコいいなあ。
本の部数が少なくて品切れになっているからって称賛されてもうれしくないでしょうが・・・
しかしお金を出したら市場で売っているわけではない話を聞けるから、頑張って大学入試を突破したりするんですよ。入試ってそういうものなんですよ。受験生も含めて忘れている気がしますが。
ウクライナ問題が(一般の印象では)突然に世界的な問題となって、専門家が少ない。本もほとんど出ていないし流通していない。誰のどの本を読んでいいかわからない。そう思いませんでしたか?
いや、正直、私も思いましたよ。
私の場合は職業的に国際問題を扱っていて、ロシア・東欧専門家と顔を合わせる機会もあるので、そんなときに聞いてみたりできる。英語の新聞・雑誌に目を通していると、一躍脚光を浴びた英語圏の専門家の新著を電子書籍で読んだりして、素人ながら楽しんでいる。
それでも、結局どの本がいいのかは、よく分からない。それは、学生のときちゃんと勉強しなかったから。
ウクライナ問題が急激に深刻化した時、そういえば学生時代の一般教養の国際関係論の先生がウクライナ専門だったな、とじわじわ思い出した。それどころか、この本が出たときには大学院生だったが、大学生協で割引で買っていたことも思い出した。まあそれが、むやみに本を買っていた時だったし、私の専門分野とそんなに重ならないし、ということで結局書庫の奥の段ボール箱の山の中に入ってしまって出てこないんだけどね。
なので、途上国についての専門書がほぼ全部揃っているとある専門図書館に行って借りてきました。
高い本だし、論文をもとにした本だけど、本の体裁の近寄りにくさはともかく、かなり分かりやすく書いてある。書評ではないので内容は紹介しません。
1990年前後に急速に生じた変化を見届け、論文を何本も書いたうえで、1998年に出た本だから、学会誌の論文のような晦渋さはあまりなくなっている。それでも、東西冷戦崩壊、旧ソ連諸国の独立、という出来事が「過去」になったかのように思われた時期に出版された時点では、一般的にはあまり話題にならなかったように記憶している。
東大教養学部の隣の駒場Ⅱキャンパスにある先端研に勤めるようになってからは、ちょっとした用事で教養学部に行ったときに、中井和夫先生とは道ですれ違ったこともあった。
昨年定年になっていらっしゃるんですね。
学生時代の先生方が、団塊世代なので、ごそっと定年になったのを記念して、こんな面白そうな論集も出ている。
ぽちっと買ってみました。
中井先生は私が教養の学生だった頃はまだ助教授だったのか・・・すれ違ったところを見た感じは、昔からずーっと変わらない安定的な風貌という印象でしたが。多分会話したことはありません(もしかして一回ぐらいはあったかな?あったとしても、たぶんすごいバカなことを言ったと思う)。
当時の中井先生は大学院で教えるだけでなく、1・2年の教養課程の必修の社会科学の国際関係論の授業も受け持っていたと思う。あんまりカリキュラム通りに勉強する学生ではなかったので、全てがおぼろげな記憶ですが・・・
必修といっても、いくつかある社会科学の科目の選択肢の中での一つだったと思う。当時のカリキュラムでは、国際関係論と経済学と社会思想史などをいくつか選べばよかったのかな?
すみません。ずっと研究所勤めなので、准教授を名乗っていながら、教育機関としての大学のシステムをよく理解しておりません。そういった正確なところを知りたい人は、より適切な方面にお問い合わせください。
さて、当時の印象では、国際関係論というと汎用性があると思うのか、履修する学生が多くて階段教室でマイクで講義ということになる。私は社会科学といっても、社会思想史のような受講生が少ない方に行っていた気がする。
ただ、国際関係論にも興味はあったので、階段教室の後ろの方で、ちょっと座って聞いていたことはあると思う。そんなときの先生の一言がずっと耳に残っていたりするもんです。
当時はウクライナ?なんでこんなマイナーなことやっている先生が必修の国際関係論なんだ?なんてたぶん思ったこともあったんでしょうね。もしかすると周囲にそんな発言をしたかもしれません。すみません。恥じ入るばかりです。
もっとずっとマイナーな中東やイスラーム学なんて分野に「これだ!」と思って邁進しかけていた奴が何を言っているんでしょうか。
いいんです無知は学生の特権ですから。
重要なことは、無知をフェイスブックやブログで晒して世界ばらまいたり恒久的に記録に残したりしないことです。それさえ守れれば、期間限定でスカーと大気中に無知を放出していいのが大学生。どんどん放出してください。ただし私の周りではやめてください。
うーん思い出してきたぞ。ウクライナとかじゃなくてもっと一般性のありそうな授業はないのかと期待して、理系向けの一般教養の国際政治の授業とかも出ていたような気がします。単位にはならないけど。いや、中井先生の授業がウクライナの話ばかりしていたとは到底思えないんですが。あまり出席してないんでわからないんですよ。それでも期末の試験にぐちゃぐちゃといろいろ書いて、平凡な成績をもらったのではなかったかな。いずれにせよ、よく憶えてません。
しかし今から考えてみると、1992年や93年の段階でロシア・東欧が「マイナー」なものに見えたのは不思議だ。1989年のベルリンの壁崩壊からの連鎖的な東側陣営の崩壊と世界秩序の再編が、国際関係の中心の動きで、新たに引かれた地政学上の最前線のウクライナなんて面白いに決まっていた。それに乗り切れなかったのは、単に私がバカだったのか。多分そうなんだろう。
ただ、私の場合は、学術情報はあふれている家庭に育ったので、今注目されている分野には、すでに専門家がたくさんいて、成果・作品が出ているので、その分野を今から始めても遅い、ということが感覚的に分かっていたせいもあるだろう。流行っている分野に今から参入しても仕事にならない、ということで東欧や民族問題は最初から興味・関心から除外したというところはある。あくまでも職業的な関心から専門分野を探していましたので。そういう意味では教養学部の2年間に就職活動をしていたようなものです。
でもこういうのは後から理屈をつけた説明で、実態はおそらく、20歳前後の頃の時間の感覚はすごく短期的・刹那的だったということではないかな。1989年のベルリンの壁崩壊でなんだかすごいことが起こっている、と中高生の時代に感じたのは確かだが、その後に湾岸戦争とかいろいろ起こっているし、この年頃であれば、3年前なんてものすごく古い時代にしか感じられただろう。
まさに1989年から91年にかけてのソ連邦崩壊で旧東欧(バルト、バルカンを含む)の民族問題が大問題になりかけるというタイミングで、91年に東大に移ってきた生きのいい最先端の助教授の授業も、メモリが短期的な新入生から見ると「古い話してんなー」ということになってしまったのだろう。ああバカでした。
そういえば最近、私がものすごく頑張って論じてきてそれなりに世の中に広まったかな、と思うような説を話すと、学生から「それ、当たり前じゃないですか。常識ですよ」といった反応が返ってくることが多くなってきた。10年前に口にすれば学会では村八分にされ、何もわかっていない権威主義のメディア企業の人などには「問題のある人」とされてしまったような説を、一生懸命頑張って広めてきた結果が、「常識ですよ」と冷たくあしらわれるとは~orz
話を戻しますと、『ウクライナ・ナショナリズム』はたぶん、全国の自治体の図書館にもほとんど入っていませんよ。入っていたらきっと借り出されちゃってますよ。大学図書館は学生等でないと基本的には借りられないし(外部の人も閲覧はできるように徐々になってきています)、当然、目ざとい人が借り出しているから待たないといけない。
で、買おうとすると版元でも品切れで、古本屋にもほとんど出回っていない。
今オークションに出したら高く売れそう(売りませんよ)。
もうちょっと話を天下国家・大所高所に広げれば、こういった本が絶版(品切れ)になってしまっていて流通していない、ということをどう考えればいいのか、どうすればいいのか、という問題については少し考えてみてもいいと思う。
繰り返すと、大前提は、個々人にとっての教訓としては「ある時に買っておけ!借金してでも買っておけ!」ということだけなんです。それでこの話は終わりにしてもいい。
しかし、もっと社会工学的な、国民教育政策的な、別に私がしなくてもいいような話をすると、こういった、専門家の間ではごく普通に知られているが、そういう人たちには行き渡ってしまっていてこれ以上ほとんど売れそうになく、通常は一般の人は買わないから出版社も在庫を抱えておけないような本が、いざ必要となると今度は欲しくても誰も買えないし読めないのはどうしたらいいのか、ということについてちょっと考えてみてほしい。
例えば東大出版会は、著作権法上の「出版権者の出版の義務」をきちんと果たしているのかということは、若干問われてもいい。電子書籍も発達してきた現状ではもう少しやりようがあるんじゃないの?と言いたい。
なお、「品切れ」と「絶版」がどう違うのかについては話が長くなるし、今後電子書籍をどう展開していくかという時に結構重要になるので、また議論したい。
とりあえず、この本の場合は、実質上「絶版」だったと考えておいてください。万が一今後重版されることがあっても、それは実質上は「復刊」あるいは「再刊」と言っていいのではないのかな。
ただし、大学出版会(「出版局」等でも同様)のように、書き手も出し手もそれほど商売にこだわっていないと見られる(出して特定の学生・専門家の間で流通させることに公共的な意義を見出している)場合には、「品切れ」「絶版」をどうとらえるかが、通常の商業出版社(大学出版会が全く商業出版社ではないとは言い切れないが)の場合とも異なってくるという点は理解している。
要するに、「絶版(品切れ)になってるじゃないかおかしいじゃないか」とは大学出版会に対してはあまり強く言う気がしない。商業出版の各社に対しては、売る気がないのに絶版にしないで権利を抱え込んでおくのは、特に今後の電子書籍の展開の中では、有害な既得権益の主張になりかねないので、著作権上の「出版の義務」を履行するか、それとも売れなくなった本の出版権を手放すか、そろそろはっきりさせる必要があるとは思うけど。だって出版社が売る気がないし本屋も置く気がないというなら、さっさとウェブサイトで公開してしまいたいですよ。必要な知識には必要な読者がいるんですから。
大学出版会で出すような本は、出たときに大部分の専門家に行き渡り、大学図書館に行き渡り、できれば自治体図書館でも所蔵して一般読者が読みたいときには貸し出しをできるようにし続けてさえくれれば、それでいいんじゃないかという気はする。
ただ、もしこれらの条件が満たされない場合、特に、図書館での所蔵・貸し出しという流通・公開ルートが機能しないような状況になった場合、あるいは図書館で買い支える量が少なすぎて、専門書を出しても出版社に採算が取れないから出せない、といった状況になれば、もう少し考えないといけないと思う。本当に必要な本が、出したいのだけれども出ないとか、出ても読まれない=死んでいる状況が広範に定着すれば、出版社も書店も図書館も、そして書き手も、一度、書き方や出し方や流通のさせ方を、考え直してみる必要が出てくる。
で、今回の件について言えば、私は持っているので、他人のことはどうでもいい、というのが第一。重要なのは、知を短期的にお金に換えるなんてことは究極的にはどうでもいいことで、本当に重要な知は、欲しくなった時にお金で買えるものばかりじゃないよ、ということ。
もちろん、より多くの人が必要性に気づいた時のために、アクセスの機会を用意しておく仕組みは必要だが、あくまでも求めなければ得られない、というのが大前提。いざと言うときにだけ「ないじゃないか」と言っても駄目です。
また、学者の出す本は売れなくていい、霞を食っていろ、ということでもなくて、給料や研究費ちょぼちょぼぐらいはないと研究が進まないだろう。ただし、その成果は、通常は、必要な人にまず届く仕組みがあればいい。
あと、だから学者は本当に重要な仕事をして、一般向けの文章なんか書くな、ということでもないとは思います。「あの人は本当に重要な仕事をするから、売れなくても本を出そう」と言って待ってもらうためには、少なくともそう期待してもらえるだけの何かがありますということは可能な限り示しておかなければならないんじゃないかな。宣伝ばかりが先立つのも困るけど。結局はバランス。
読み手と書き手がほとんど全員知り合いであるような手堅い専門書でも、もし万が一、通常よりも多くの人が読んでみたいというようになった時、お金を出せば手に入る、読めるような仕組みがあれば、それはそれで良いことだ。ただしそのような仕組みを維持・管理するコストはだれが払うの?ということになる。そのコストを引き受けつつ、うまくいったら儲けよう、と考える人が出てきても、それは止めないようにしておいた方がいい。
知は使ってもらってこそ生きることは確かだし、誰かがどこかでお金を出さないと知の生産と継承が続いていかないことも真理ですから、いろいろ新しい出版や流通・公開のあり方が出てくることを期待しています。でも、繰り返すけど、「マネタイズ」なんてことばかりあんまり考えない方がいいよ、ということは今回思った。