井筒俊彦のイスラーム学

あまりに忙しくて、中東情勢も、トルコ・途上国経済ウォッチングも、ウクライナ情勢横睨みも、合間に続けているけれどもブログにアップする時間が取れない。

それはそうと、本来の本業のイスラーム思想で、鼎談が出ました。

池内恵×澤井義次×若松英輔 「我々にとっての井筒俊彦はこれから始まる 生誕一〇〇年 イスラーム、禅、東洋哲学・・・・・・」『中央公論』2014年4月号(1566号・第129巻第4号)、156-168頁。

日本で「イスラームを学ぶ」というと、最初に手に取る人も多いであろう井筒俊彦。私自身もそうだった。

井筒俊彦のオリジナリティに私も大いに憧れる。

格調高く生き生きとした井筒訳『コーラン』 (岩波文庫)
は今でも最良の翻訳と言っていい。

『「コーラン」を読む』(岩波セミナーブックス→岩波現代文庫)ではコーランのほんの数行の章句の解釈が分厚い一冊に及んで尽きない、人文学・文献学の宇宙を垣間見せてくれる。

そして『イスラーム思想史』 (中公文庫BIBLIO)こそ、イスラーム世界に向かい合う際に座右に置いておいて無駄はない。

個人的には井筒俊彦『イスラーム文化−その根柢にあるもの』(岩波文庫)の、井筒の、井筒による、井筒のための、独断と価値判断に満ちた、一筆書きのような思想史・社会論が好きだ。「井筒個人のイスラーム観」は、このようなものだったと思う。

他の本では、概説のために、ある程度は網羅したり(でもイスラーム法学については興味がないから書かないとか数行で済ませたり)、ある方法論に則って順序立てて書いたりしているが、『イスラーム文化』は、講演ということもあり、さらっと彼の頭の中にある「イスラーム」の歴史と方向性を描いている。言わずもがなだが、「シーア派重視」「神秘主義こそ宗教の発展する道」ということですね。

だが、現代の中東社会の中でイスラーム教やイスラーム思想がどのような影響をもっているかを研究する際には、井筒のイスラーム思想史論がそのまま現地のムスリムの大多数から現に信仰されているものであると考えると間違える。

というか、教育の高いインテリにも「異端だ」と言われてしまう。

井筒を受容したイランのイスラーム思想はかなり変わっているからね・・・革命で無理やりイスラーム化しないといけないぐらい西洋化した国ですし(文化は日本などよりはるかに西欧化・アメリカ化しています)。そういう国でこそ受け入れられた最先端のポスト・モダンな解釈だということ。

私は別に井筒を批判しているわけではない(それどころか日本が誇るイスラーム思想だと思っている)。ただし、それはイスラーム世界の大多数の人にはまだ受け入れられないでしょうね、とは言わざるを得ない。

井筒の言っていることだけを読んでそれが「イスラーム」だと思い込んで、現実のアラブ世界の政治についてまで論評してしまう人が出ると、しかも「現代思想」の分野ではそれが主流だったりすると、頭を抱えます。

でも、そこが学問的には、「ビジネス・チャンス」だったりするんだけどね。

そうこうしているうちに井筒とイスラーム世界を同一視するような「現代思想」は絶滅しかけている。

でも井筒は生きている。

井筒から遠く離れてしまったように見える私の最近の仕事も、本当はどこかで、井筒を通してイスラーム学に入ったあの頃とつながっている。そんなことも想い出すきっかけになった鼎談でした。

あまりブログという形態では思想について語りにくいな、と思っているので、思想史に興味がある人は、例えばこの『中央公論』の鼎談を読んでみてください。