『公研』の12月号に対談が収録されています。
『公研』は会員企業と関係官庁にのみ配布される媒体なので、フォロワー・友達が1万2000人以上に増えてしまった私のフェイスブックのウォールでの告知は控えています。もし「ください」という一般読者から連絡が殺到したら、『公研』の小さな編集部が崩壊してしまいますから。
黙っているつもりだったのですが、目ざとい編集者などが見つけて「面白い」といってくるので、私自身も備忘録としてここに載せておきます。確かに面白い。勉強にもなるが、とにかく面白い。しかしこの面白さは、SNSとかでみだりに拡散するようなものではないと思うんですね。拡散させれば、より多くの人に届くだろうけれども、同時に余計なことを言ってくる人の邪魔が入って本来伝わるべきことが伝わらなくなる。ここは、『公研』の元来意図された範囲の読者に着実に届けることを優先させ、その後間接的に広がって、最大限の効果が上がるのを待つ方がいいのではないか、と思っています。
なお、『公研』は決して怪しい媒体ではありません。会員となっている老舗大企業とか公営企業とかあるいは関連するお役所の部署、そしてなぜか知らないがどこかから手に入れてくる編集者などの間では『公研』はかなり有力な媒体として結構熱心に読まれている。会員向けならではの、大向こう受けを狙わない着実な編集で、商業媒体では維持できない水準を維持している。一般の媒体では「読者に難しすぎるからちょっと・・・」と言われてしまう内容を普通に話して載せてくれます。その方が実際には読者に優しいと思うんですけどね。
待鳥聡史・池内恵「政治の『再生産ストーリー』を超えて」『公研』2015年12月号(No. 628)、公益産業研究調査会、36−53頁
あと、オマケなんですが、メインの日本政治に関する対談の後に急遽、編集部からの依頼で、「イスラーム国」とそれに触発されたグローバル・テロリズムについて、待鳥さんが聞き役で私が答えるような形の対談が行われ、それも収録されました。
待鳥聡史・池内恵「『イスラーム国』は空爆できる対象なのか?」『公研』2015年12月号(No. 628)、公益産業研究調査会、54−59頁
表紙はこんな感じ。
対談の内容は、今の日本政治について、特に議会政治とメディアについて、安保法制の前後の騒擾も踏まえて、理論的・歴史的に捉えてみる、その中でざっくばらんに率直に現在の政治状況とメディアに対して批評・批判の言も連ねた、といった具合なのだと思う。私のつたないまとめでは。
このまとめでは伝わらない面白さについては対談を手にとって読んでみられれば分かると思うが、上に書いたように一般にはほとんど流通していない。また、もし広く一般に流通させたらこのような議論を行う場は失われてしまうだろう。
ただ、『公研』を無理して入手することそのものにはあまり意味がない。『公研』が目につく範囲の場所に落ちていない人はむしろ、対談での議論の前提になっているこの本を読んでみるといいと思う。
待鳥聡史『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』講談社選書メチエ、2009年
意外にも少し昔の本ですね。もちろんこの対談は直接にはこの本に関するものではなく、対談の中でも言及されていません。
しかし私自身は今、出来上がってきた『公研』の対談を読みながら、この本を読み返して、いろいろ腑に落ちています。
対談は冒頭に私が問いかける形で始まっています。ご指名なので喜んで出向いたのですが、日本政治や政治学の理論的な話に入ってしまえば私はもう頷いているしかないですし、余計なことを言う意味はないので、最初に、私の個人的なエピソードから始めました。90年代前半の学生時代に、通学しながらアメリカのラジオ番組を聞いていて、majority rule, minority rights というフレーズに触れた話です。以前にフェイスブックで書いてかなりシェアされ、『週刊エコノミスト』の読書日記でも要点を記したことがあります。
私は民主的な政治を安定的に運営している地域を研究していないので、「政治学」といっても、本場のアメリカや日本を研究している待鳥先生とは見ているものもそこから導き出す学説も天と地の差があります。自然と、日本政治の現状を対象にした今回の対談に専門的見地から取り立てて言うべきことが見つからず、苦し紛れの個人エピソードから入ったのですが、これにも待鳥先生はさらっと反応して容易に理論的・概念的な整理を行い、アメリカ政治と日本政治に共通する民主的政治制度とその運用に関わる問題へと、話を持っていってくださいました。さすが学者さんです。素人が思いつくようなことについては全て、すでに理路整然と本に書いてありました。
本来であれば、この対談は、待鳥さんが今年刊行した2冊の本、特に最近出たばかりのこの本をきっかけとして企画されたものと思われます。
待鳥聡史『代議制民主主義−「民意」と「政治家」を問い直す』中公新書、2015年
一般向けの新書として書かれたこの本は、用いられる概念の広がり・深みを探るのに不可欠な次の本と併せて、今年の政治学を代表するとして記憶・記録されるのでしょう。
待鳥聡史『政党システムと政党組織(シリーズ日本の政治6)』東京大学出版会、2015年
その前の著作で、サントリー学芸賞も受賞した名著の『首相政治の制度分析』については、『週刊エコノミスト』の読書日記で取り上げたことがあるので、もしかしたらそのご縁もあっての企画かもしれません。
待鳥聡史『首相政治の制度分析- 現代日本政治の権力基盤形成』千倉書房、2012年
ですので、本来ならば最新刊の中公新書の『代議制民主主義』の話題をとっかかりに、私が司会のように待鳥先生の議論を引き出す導入を話さなければいけないのですが、しかしこの対談は中公新書の刊行直後に行われており、私がジャカルタに行って帰ってきた直後だったので、中公新書の方はまだ手にしておらず、東大出版の方の学説・分析概念の話に入るのも唐突ですし、『首相政治』の方は議会政治を基礎にした執政府の話なので、最終的にはこの対談の想定する話題に密接に関係しているとはいえ、選挙制度改革と対になった行政改革や官邸主導の執政制度改革の結果としての安倍政権についていきなり話を立ち上げるのは私には荷が重く、苦し紛れに漠然と「民主主義」についての私の思い出話から入ってしまったのですが、それが結果的に、待鳥さんのさらに以前の著作『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治』の内容にぴったりはまる話題で、しかも今回のテーマである日本政治を論じる際の枠として役立つということで、結果オーライということになりました。「なりました」って言ったって待鳥さんがそのようにもっていってくれたからそうなったんであって、普通なら対談のテーマに直接関係ないだろうと途方に暮れているところです。全て分かっている学者さんというのは自由自在なものです。
自分が聞き役になって対談をして改めて『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治』の深い意味が分かった、と言いますか、この本を踏まえて現代日本政治に適用する講義、いや家庭教師レクチャーを受けた感じですね。贅沢な。それも自分の聞き取ったおぼろげなノートではなく、編集部が講義録を作ってくれたので読み返して勉強になります。対談の場で出た比喩とか政治家の評とか、さすがにヤバそうなところは削除してありますが。媒体の性質もあり慎重になっております。でも媒体の性質もあり、下手すると言いがかりつけられて炎上しかねないところも、論者の意向を尊重して残してくれています。普通は事なかれ主義で全部削除なんですが、そこのところ対談の趣旨も汲んでくれています。
・・・・対談を読まないと(読んでも)何言っているか分からないような話になってきたので、そしてこのブログの趣旨は対談を読んでもらうことではなく、本来読むべき、手に入る本、対談を読みたいと思ったらその前に読んでほしい本を紹介するということなので改めてもう一度、この本を紹介しますよ。これを読んだ上でどうしても対談を読みたいと思ったら、その時は多分なんとかして手に入るでしょう(どうやって)。
待鳥聡史『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』講談社選書メチエ、2009年
えーと、アマゾンではKindleで電子書籍になっているんですね。紙の方が絶版になったかどうか知りませんが、アマゾンの上では中古が今のところはほどほどの値段で出ている。これはなくなると高くなりそうです。
この本は教科書としてもいいので、Kindleだけではなく紙のものがほしいですね。一般教養の政治学の教科書にして、学生が一学期かけてこの本を理解したら、すごい公民教育になると思うんですけどね。大部分の学生にとっては政治学の入門書は「学説史」である必要はない。政治学の学者になるわけではないから。この本は学説を踏まえてある種の学説を提示してもいる本なのだけれども、それが民主主義の国に生きていく際に必要な「政治の仕組み」についての入門書になっている。
出たばかりの中公新書『代議制民主主義』については他の人が書くでしょうから、私としてはこちらの本を紹介しておきます。
アメリカの80年代以降の政党政治の展開で明らかになってきた、「代表」の論理と「統治」の論理の相克と調和(の試み)というものは、民主主義の政体の少なくともあるタイプの制度においては必然的に内在するものでしょう。私が個人的に印象深く感じたクリントン政権期は、特に1994年の中間選挙で共和党が多数党となってからの米議会は、「代表」と「統治」の二つの論理がぶつかりながらそれぞれを明確にしていく場だったとこの本を読んだ今となっては考えられます。
私がボー然と聞いていた、1994年中間選挙で勝利した共和党右派に大人気だったラジオ・パーソナリティーのラッシュ・リンボーの雄叫びはまさに、待鳥さんの言う「代表」の論理を振りかざすものだった。しかし共和党も実際に多数党化すると議会では必ずしもイデオロギーを振りかざすだけではいられなくなった。与党となることで「統治」の論理に従わざるを得なくなる場面に直面するからだ。共和党に多数を取られ、議会と共に、しばしば議会主導で、行政府の長として「統治」の論理を全うしなければならなくなったクリントンはまさに、「majority rule, minority rights」の原則にあらゆるところで立ち戻って考えざるを得なかったに違いありません。私が拙いヒアリング能力で聞き取ったフレーズとそれが発せられた場面は、クリントン政権期に幾度となく繰り返されてきたものだったのでしょう。
そして90年代のアメリカ政治に明確になった民主制における「代表」と「統治」の相克と調和の課題は、まさに日本で今、本来なら問題として注目されなければならないものである。1990年代の選挙制度改革や執政制度改革(それらが十分なものではないことはこの本にも、また『首相政治』にも記されているが)を経た日本は、米国と同じではないが、共通する制度的前提を持ち始めている。そのことも2009年のこの本の最終章で簡潔に書かれている。
小選挙区制や、そこから生じる公認権や党議拘束の強化による「政党」の重要性の上昇は、日本が自民党一党支配の下で金権・汚職にまみれながら談合し、理念なき派閥政治で権力闘争を繰り返してきた過去から決別するために導入された民主制の道具立てだった。それを使って民主党への政権交代もなされたはずだ。
ところが制度が変わったのに、当事者の政治家・政党人や、それを意味づけて報じるメディアの認識が追いついておらず、新制度の目的に沿った行動・競争を行わず、旧制度・旧時代の環境の下での「主流派・非主流派」の役割が今でも有効であるかのように振る舞う。それが現実とずれた政治のストーリーの再生産につながり、そのストーリーをなぞる非生産的な行動につながる。「シールズ」を持て囃す野党とメディアなども、そのような構造の中で現れる末端の、絶望的な現象なのです。
「そういう若い人たちの一生懸命さや可能性の『生き血』を吸うようなことをなぜするのかなと私は思うんですよ。本当にそれでいいのか」(48頁)という、待鳥さんの、ふだんの端正な著作では表面上見せることのない「叫び」を読めると言う意味で『公研』の読者は特権を享受しています。
・・・考えてみれば、『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』が講談社選書メチエという形で出たきっかけは、私が『現代アラブの社会思想』の編集者を待鳥先生に紹介して、その後その編集者が現代新書から選書メチエに移ったため、ちょうど適切な媒体となったという経緯があったような気がする。いずれにせよ出る本なので私が紹介したことにあまり意味はないが、しかし専門家向けの学術書だけ書いていても本が出続け、評価され続ける著者は、一般向け媒体にはあえて出るきっかけがないので、紹介しないとこのような一般向け、大学教養課程でも学べるような形では出なかった可能性はないではない。
編集者と引き合わせた時に、別に私は本の内容に口を出す必要もないし能力もないのだが、まあ何も言わないのもなんだから、「要するに『アメリカの民主主義』みたいなタイトルで」と私が言ったところ、待鳥先生は苦笑して「いや、いくらなんでも、アメリカ政治研究者としては、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』と同じタイトルでは書けませんよ」とおっしゃっていたのを思い出すが、そりゃそうだね。素人って怖い。しかし結果的に「アメリカの民主主義とは『代表』と『統治』という時に相反する論理の対立と調和だ」という、制度論を一般向けに最大限分かりやすく噛み砕いた本を何年かたって届けてくれたので、素人の無茶振りにも意味はあるのかもしれない。