革命のクライマックスとしての憲法制定について:アレントを手掛かりに

チュニジアの立憲プロセスに関して補足。

そもそも、「革命」の成果の確定としての「憲法制定」の重要性、というものが日本ではきちんと理解されていないのかもしれない。だからチュニジアでの成果について、日本と欧米とでここまで報道が異なるのかもしれない。

「革命」の最重要部分としての立憲政治については、ウェブ上で論説を書いたことがある。

池内恵「「アラブの春」は今どうなっているのか?――「自由の創設」の道のりを辿る」『シノドス』2013年12月9日
その一部分を引用しておく。

(前略)
ハンナ・アレントは、世界史上に数多く起きてきた「革命」の多くは実は「反乱」に過ぎず、それが「自由の創設」をもたらすという「奇蹟」を伴わない限り、多くは混乱と分裂のもとで再び独裁の軛に繋がれる結果に終わったと指摘する。しかし往々にして人々の関心は「反乱」の劇的な側面に向けられ、「自由の創設」の地味な側面への関心は高まらない。

「歴史家は、反乱と解放という激烈な第一段階、つまり暴政にたいする蜂起に重点を置き、それよりも静かな革命と構成の第二段階を軽視する傾向がある」(ハンナ・アレント『革命について』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1995年、223頁)

静かな革命における「構成」とはすなわち憲法制定(コンスティチューション)である。アレントによれば「根本的な誤解は、解放(リベレイション)と自由(フリーダム)のちがいを区別していないという点にある。反乱や解放が新しく獲得された自由の構成を伴わないばあい、そのような反乱や解放ほど無益なものはないのである」(アレント『革命について』224頁)。

アラブ世界の社会・政治変動に関するわれわれの関心も、ともすれば「反乱」の局面にのみ向けられてはいなかったか。デモよりも内戦よりも、自由の構成=憲法制定という地道で労の多い過程こそが、革命のもっとも重大な局面であるとすれば、「アラブの春」を経たチュニジア、エジプト、リビア、イエメンは、この段階での困難に直面しているといえる。それは成功を約束されたものではないが、失敗を運命づけられてもいないし、まだ終了してしまったわけでもない。

(以下はシノドスで)


ハンナ・アレント『革命について』 (ちくま学芸文庫)

チュニジアではなぜうまくいって、エジプトではなぜうまくいかないのか

それにしても日本ではなぜチュニジアの動きが報じられないのだろう。

エジプトで2011年1月25日に始まった大規模デモを起点にして、現在の情勢が「アラブの春から3年」という切り口で報じられることが多いので、1月26日の日曜日の各局のニュース番組を見てみた。

すると、チュニジアで今まさに起っている、欧米メディアでは伝えられている重要な動きが、まったく取り上げられていなかった。

ここは日本のメディア関係者の限界。物事を概念でとらえられない。そのような教育を受けていない。そもそも世界全体をよく知らない、という前提の知識の欠如がありますが。

特にすごかったのは、BS朝日の「いま世界は」。かなり長い時間かけて「アラブの春から3年」について、あんまり代わり映えのしない映像や紙芝居を流して、だらだらコメントしていたが、エジプトやシリアと共に、せっかくチュニジアにも触れながら、「首相が辞任で混乱」というだけの話になっていた。

憲法はどうなったの?今まさに世界中のメディアがチュニジアの立憲プロセスについて報じて、論じているところじゃないの?

番組では、ようするに「アラブの春後の3年で、どの国でも混乱していてよく分からない」という趣旨の報道とコメントに終始していた。混乱しているのはアラブ世界だけでなく、日本の記者やコメンテーターの頭の中身ではないか。

しかしチュニジアでの今月の立憲プロセスの進展を受けて、少なくとも欧米圏で(アラブ圏でも)提起されている、重要な論点は「なぜチュニジアでうまくいって、エジプトではうまくいっていないのか」というものだ。

日本のように、「混乱している」「よく分からない」とだけ言っていれば給料をもらえる人たちって何なんだろう。若い人たちから、メディアが「既得権益」とみなされて、ニュースが信用されなくなるのも分かる。

「チュニジアではなぜ移行期プロセスがうまくいっているのか」(1月25日)で書いたが、チュニジアでは憲法草案の全条項がまさに立憲議会で承認されたところ。

23日の段階で、すでに立憲議会で憲法草案確定を祝っている。チュニジアの場合は、直接選挙で選ばれた立憲議会がそのまま憲法草案を作成し採択するので、憲法全体について改めて採決して3分の2の賛成を得れば、信任投票なしに憲法となる。すでに各条項についての議論で3分の2の賛成を得ているので、最後の最後の段階での微修正はあっても、プロセス全体が今からひっくり返るとは考えにくい。

このブログでは憲法の全条項についての修正動議が終わった23日の段階で掲載したが、イスラーム主義派と世俗主義派の間の主要な争点についての妥協がなされた段階で、欧米の主要紙はすでに憲法の制定見通しとその意義を報じていた。

チュニジアの立憲プロセスの進展は、エジプトでの翼賛的な立憲プロセス・統治と対照させて、成功事例と言っていい。そこから、「移行期でどうするとうまくいき、どうするとうまくいかないか」という議論が喚起されている(少なくとも欧米やアラブ世界の知識階層の間では)。

ほんの一例では、英『ガーディアン』のこの記事。
“The Arab spring: made in Tunisia, broken in Egypt,”The Guardian, Thursday 16 January
タイトル見ただけでもわかりますね。「アラブの春:チュニジア製、エジプトで故障」。気が利いていますし、本質をついていますね。

大学の教養課程ぐらいの英語の読み物にちょうどいいのは『ニューヨーク・タイムズ』の「アラブの隣国は憲法で道を別った」。
“Arab Neighbors Take Split Paths in Constitutions,” New York Times, January 14.

この文章の比較論を掘り下げれば、比較政治学の議論として面白い。

ここではチュニジアとエジプトの2011年の政権崩壊の際に、どのような政府機構が残されたか、その相違によって現在の立憲プロセスの帰結の差を説明している。もちろん因果関係はこれだけではないだろうが、まずこうやって分析して行かなければ話が始まらない。

チュニジアではベン・アリー大統領を支えていた治安警察が、政権崩壊と共に弱体化。軍は歴史的に政治に関与してこなかった。チュニジアではイスラーム主義派と世俗主義派の勢力が比較的拮抗していて、選挙でイスラーム主義派は第1党にはなれても過半数は取れなかった。イスラーム主義派と世俗主義派の双方が相手を必要としたので妥協が成立した。

対照的に、エジプトでは、現体制の基礎を作ったナセルの1952年のクーデタで軍が政治権力を握ったという歴史があり、ムバーラク大統領を排除した際にもその部下だった軍人が暫定統治を担った。イスラーム主義派は選挙で勝てるがゆえに妥協せず、それに対抗する勢力は選挙で勝てないと悟って、軍を頼った。

こういった経緯の上で、チュニジアの憲法制定プロセスで、イスラーム主義派と世俗主義派の間に、宗教と政治の関係や、宗教法(シャリーア)をめぐって妥協が成立したことを画期として、チュニジアの立憲プロセスに肯定的な評価を与えて報じている。

非常に妥当な解説だろう。その後の憲法諸条項の審議が、いわば「消化試合」で、スムーズに進んでいくことを見越して早めに記事を出した判断も正しかった。

記事では論理だけでなく、比喩的な表現も使ってイメージを伝えているので、堅苦しい感じの記事ではない。
“‘Train wreck’ might be a charitable way to describe where Egypt is right now,” said Nathan Brown, an expert on Arab legal systems at George Washington University. In Tunisia, he said, “Everybody keeps dancing on the edge of a cliff, but they never fall off.”

代表的なアラブ政治研究者であるネイサン・ブラウン先生に聞きにいって、「エジプトでは脱線」「チュニジアでは、誰もが崖っぷちで踊っていたが、誰も落ちなかった」という対比論を語ってもらっている。

ブラウン先生はジョージ・ワシントン大学の教授で、元中東研究所所長であるだけでなく、カーネギー平和財団の中東プログラムの客員を長くやっていて、「アラブの春」以後の急変期の分析でも着実・正確だった。その分析レポートはカーネギー平和財団のホームページで無料で誰でもダウンロードできる。

今回取り上げた記事が特に優れているとか、特筆すべき新情報が加わっているとか、また学問的に斬新な議論が含まれているとかいうことではない。重要なのはこの程度の水準の分析が欧米の主要紙ではごく普通に載っていて、少なくとも英語圏のエリート層は、アラブ世界について専門にしていなくとも、この程度の認識は持っているということだ。

この程度の水準の記事を恒常的に書ける記者が各分野にいて、記者が常に大学とシンクタンクの蓄積から知見を的確に引き出せて、実際に紙面にできるかどうか、それによって国民がこういった水準の記事に触れているかどうかは、国力の差に反映されるだろう。

「いま世界は」に出ている、コメンテーターというよりはタレントであるパックンについて言及するのは野暮だが、今回の番組でも、IQを自慢したり、ハーバード卒というお決まりのネタでひとしきり話していたけど、「アラブの春から3年」については局の構成の中での日本的なコメントに終始していた。『ニューヨーク・タイムズ』も『ガーディアン』も読んでいないんだろうか。

「外人コメンテーター」という枠でも、もう少しましなことを言う人を起用しないと、「グローバル人材」に関する誤った情報が流れてしまうのではないか(もしかしてそれこそがCIAの陰謀?だったらパックンはすごい高等なエージェントですね。ニッポン愚民化政策の先鋒、ということになる)。

先ほど、「比較政治学の議論として面白い」と書いたけど、「趣味でオタクでやるために面白い」と言っているのではないですよ。現象を比較して論理化して客観化して議論することで、はじめて、前提を共有していない世界中の人たちに、現実を説明し、そして自分の立場を説得できるのです。

中東の事だけでなく、日本の事を説明するのにも、同じ方法が必要です。

エジプト情勢の今後の見通し

1月24日のテロは、今後のエジプトの政治の展開にどう影響を及ぼすだろうか。

(1)軍・警察が「対テロ戦争」を標榜し、軍主導の政権へのいっそうの翼賛を国民に呼びかける。
(2)スィースィー国防相が軍籍を離脱し「文民」と称して大統領選挙に立候補。反対勢力を排除し、圧倒的な得票率で当選(ただし投票率は低い。賛成票と棄権のみ、という状況で、選挙による体制正当化の効果が薄れる)
(3)カイロなど都市部を中心に中間層がこれを熱狂的に支持してみせる。
(4)軍主導の政権はムスリム同胞団がテロを行ったと主張して弾圧を続行。
(5)世俗派の軍政批判に対しても同様に弾圧を強化。「非国民」と糾弾して封殺。
(6)ジハード主義者に一定の支持が集まり、大規模なテロが頻発する。
(7)いっそう軍への支持が高まり大量逮捕、銃撃による殺害が支持される。
(8)過激化する者も増え、テロリストが増殖。
(9)治安の悪化で観光客は戻らず、投資も戻らない。
(10)雇用が全く増えず、毎年の大学卒業生はそのまま失業者数にカウントされていく。

・・・といった将来が想定されます。

外的環境としては、欧米の先進国で軒並み低成長が恒常化。以前のように移民労働者を受け入れない(例えばスペインからフランスやドイツへ労働移民が大挙して行っていますから、アラブ諸国から受け入れる必要はないでしょう)。

移民という安全弁がなくなって、国内に滞留した若者の不満をどこに逃せばよいのか。当分は「ムスリム同胞団狩り」などを扇動してストレス解消をさせていますが、数年たてば、「少なくともムスリム同胞団の統治の1年はこんなに荒れていなかった」という郷愁が高まる、などということになるかもしれません。

エジプトについてしばしば言われる「軍が出てくれば安定する」という議論は、幻想ではないかと思います。

「現状ではエジプト人の多数派が積極的あるいは消極的に軍政を支持・容認するだろう」という見通しと、「軍が乗り出してくれば安定する」という因果関係の想定は、論理的に別の問題です。前者はおそらくそうでしょうが、後者は自明ではありません。

1990年代にジハード団やイスラーム集団のテロを抑え込んだ「成功体験」を思い起こす人がいるかもしれませんが、当時とは条件がことごとく違っています。

(1)メディア・情報空間の変容、(2)「アラブの春」以後の「革命の文化」の浸透(軍もこれに参入して扇動・大衆動員を繰り返している)、(3)武器の拡散、大規模・高度化、(4)国際環境の変化、米国が最終的に現政権の安全を保障してくれる、とは見られていない(大混乱になれば見捨てる、と思われている)。

軍にとっては、自らの支配を正当化するために、テロが頻発している状態は好都合です。「軍が安定をもたらす」かどうかは分かりません。「軍でなければ安定をもたらすことができない、と人々が思っている状態が軍にとっては望ましい」ということは確かです。でもそれは「安定の実現」ではありませんね。「安定の期待」でしょうか。期待があるうちに現実を変えられればいいですが、期待だけだと、やがては「裏切られた」ということになって事態は悪化します。

しかしカイロの真ん中で「テロとの戦い」をやっていては、軍以外の一般経済、特に観光は大打撃を受けるので、なんら生活改善にはならないでしょう。当分、軍が「革命」を謳って大衆を動員し、「ムスリム同胞団打倒」で熱狂させて気分を逸らして、その間に諸外国から援助を引っ張ってきてばらまいたり住宅バブルを起こして・・・という算段でしょうが、世界経済が減速し、米国の覇権も希薄化しているので、空回りするのではないかと思います。

でも軍とそこに身を委ねた都市中間層は、先のことはもう考えていられないのでしょう。

テロとムスリム同胞団の関係

カイロの警察本部への爆破テロについて、多くの報道が出ている【爆発の瞬間】【エジプトに関して質が高い英語メディアはこれ】。

軍・警察への翼賛体制となっているエジプトでは、今回のテロも「ムスリム同胞団の仕業だ」という議論が活発に行われるだろうが、これは疑わしい。少なくともエジプトが今抱えている政治問題を正確に反映していない。

まず、ムスリム同胞団は、幹部が中枢から末端組織までほぼくまなく逮捕され投獄されているので、ここまで大規模な攻撃を連続して組織し続けることは不可能だろう。

むしろ、
(1)ムスリム同胞団と競合し、対立してきたジハード主義者・武装闘争路線の集団が活性化した、と見る方が自然だ。

そこに、
(2)本来ならムスリム同胞団の政治活動を支持していた層が、一部、軍によって排除されたムスリム同胞団に失望して、ジハード主義側に参加あるいは支援に転じて、結果としてジハード主義勢力が勢力を拡大しているのではないかと疑われる。

(2)でムスリム同胞団の末端の活動に明確に加わっていた者が、(1)のジハード主義勢力に加わった事案が摘発される可能性はある。そこで軍・警察・司法が、いっそうムスリム同胞団の弾圧を強めると思われるが、問題の解決にはつながらない。

一連のテロにはアンサール・バイト・マクディス(聖地エルサレムの支援者)という団体の関与が疑われている。今回の事件の前日にも、エジプトの警察・治安部隊に離反・蜂起を呼びかけるEメールの声明を送りビデオ声明を発している。

なお、エジプトのメディアは早速「犯行声明が出た」と報じたが、そうではない。しかしグローバル・テロリズム情報を収集するSITE社は24日に、アンサール・バイト・マクディスの犯行声明を確認したと発表している。

ムスリム同胞団と、アンサール・バイト・マクディスのようなジハード主義武装闘争路線の集団との関係については、すでにエジプトでの前回の大きなテロ(2013年12月24日のマンスーラでの県警本部爆破事件)に際して『フォーサイト』に書いておいたので、その一部を再録しておく。

 ムスリム同胞団と、「聖地エルサレムの支援者たち」などジハードを掲げる武装闘争路線の過激派は、元来が系統が異なる。両者は長く路線闘争を繰り広げてきた。ムスリム同胞団が、慈善団体や政治団体を通じた、既存の制度内での改革を主張してきたのに対し、1970-90年代のジハード団やイスラーム集団、現在の「聖地エルサレムの支援者たち」のようなジハード主義の過激派諸組織は、制度内での政治参加は無意味であると批判してきた。7月3日のクーデタは、武装闘争路線を取る過激派たちに、「自分たちの主張は正しかった」と確信を強めさせただろうし、一定数の市民から支持や共感を受けたかもしれない(ムスリム同胞団と武装闘争派との対立・競合の歴史については、池内恵「「だから言っただろう!」──ジハード主義者のムスリム同胞団批判」『アステイオン』79号、2013年11月に記してある)。
アステイオン第79号

エジプト・カイロ警察本部への大規模なテロ(1月24日)

エジプトでは昨日1月24日、複数の大規模な爆弾テロがあった。

最も重要なのは、カイロ警察本部の爆破。写真を見る限り、これはもう局地的な「内戦」「軍事攻撃」に近い規模になっているのではないかと思われる。

タハリール広場に近い内務省のビルは、近くの通りをブロックで封鎖して近づけないようにしてあるので、犯人側は、警察本部を標的にしたようだ。エジプトの治安の総本山が、道路に面した部分だけとはいえ、大破するような大規模な攻撃が起こるというのは、元来が治安が良く、一般市民の武装の度合いが低かったエジプトが変質したことを表わしている。

カイロ警察本部はポート・サイード通りという大通りに面していて、ここの交通を止めてしまうわけにはいかないので、守りにくいのは確かだ。

なお、ポート・サイード通りを挟んだ向かいには「イスラーム美術博物館」があり、その裏には「国立図書館」の新館で、中世の高価なマニュスクリプトなどを展示するコーラン展示室がある。どうやらここにも被害は及んだようだ。攻撃あるいは戦闘の規模の大きさをうかがわせる。

エジプトのテロはムバーラク政権時代に抑え込まれ、大規模な攻撃が生じるのはシナイ半島など、辺境地帯に限られていて、カイロなど中心部では事件が起きても小規模だった。それがムバーラク政権の末期から雲行きが怪しくなり、2011年の政権崩壊後に拡散を始めた。

特に、シナイ半島からスエズ運河を超えて、エジプト「本土」に大規模な攻撃が及ぶようになったことは、基本的に「安全」であるといえたエジプト社会が、根底から変わりつつあることを示すのではないか。

2013年9月5日のカイロでの内相爆殺未遂事件【「エジプト内相暗殺未遂事件の深刻さ」『フォーサイト』2013年9月6日」】、同年12月24日の北部マンスーラでの県警本部爆破事件【「エジプトの軍と過激派との全面衝突は「自由からの逃走」を加速させるか」『フォーサイト』2013年12月25日】、と「本土」では前例のない規模の大規模なテロが続いたうえでの、1月24日のカイロ警察本部を標的とした爆破・攻撃だった。

エジプトはどうなってしまうのか。

チュニジアとエジプトの論戦@ダボス会議

チュニジアはエジプトを「反面教師にしている」という話。

チュニジアのイスラーム主義系与党ナハダ党の最高指導者ラーシド・ガンヌーシー氏がダボス会議のパネルでエジプトの元外相・元アラブ連盟事務総長で、クーデタ後の新憲法制定のための「50人委員会」の議長となって、旧体制派の先鋒のようになっているアムル・ムーサ氏を批判。

ダボス会議の会議の英語のホームページではとっさに検索しても出てこないので(アラビア語とフランス語でしかやっていないのかも)、チュニジアのアラビア語の独立系ニュース短信サイトへのリンク

ガンヌーシー氏が「民主主義者だったらクーデタを正当化できないだろ」と言ったところ、アムル・ムーサ氏が激昂して発言を遮ろうとした、という瞬間がビデオ映像からキャプチャされている。

「発言を遮る」というのが今のエジプトの為政者の基本モードになっているようです。チュニジアでは「俺たちの方が上」と思っていて、逆にエジプト側では「侮辱された」と怒っているようですね。

チュニジアではなぜ移行期プロセスがうまくいっているのか

日本では誰も注目していないようだけど、1月23日に、「元祖アラブの春」のチュニジアでは立憲議会が憲法草案を確定した。あとは全文について改めて立憲議会で採決するのみ。早ければ26日にも行われるのではないか。

Constitution Passes Milestone, Final Vote Expected in Days, Tunisia-Live, 23 January

長い困難な道のりでしたが、よくここまできました。

エジプトで去年6月30日の反ムスリム同胞団デモと、7月3日のクーデタで、選挙で選ばれた政権を武力で排除、その支持者を幅広く武力弾圧中。大規模なテロが頻発し、低強度の内戦と形容したほうがいい状況になりかけている。

チュニジアもこのモデルを模倣するか、と注目されていたが、各勢力が辛うじて崖っぷちで踏み止まった。

チュニジアでは当初から「エジプトのまねはしない」と、反面教師としてエジプトを見る議論が多かった。

このあたりがアラブ政治の面白いところ。言語や文化が共通しているから、多くの情報は瞬時に伝播する。だけど、単純に同じことをやるのではなく、「あっちでやってうまくいかないからこっちではやらない」「ああならないように事前に対処する」といった反応があるので、各国の対応や帰結も一様にはならない。

チュニジアでは昨年2月6日(シュクリー・ベルイード)と7月25日(ムハンマド・ブラーヒミー)の、左派少数野党勢力の指導者の暗殺をきっかけに、「反イスラーム主義」で野党勢力がまとまって大規模デモやストライキを行い政権の退陣を迫る動きが進んだ。

野党勢力は旧体制派とも合流して、イスラーム主義政党ナハダ党主導の政権に退陣を迫り、退陣を約束させるに至る。このあたりは8月から12月まで二転三転した。

内閣が「やめる」「やめない」の押し問答は「混乱」の印象を誘ったが、重要なことは、軍は中立を守り、政権は退陣を呑んだが、立憲議会の解散(これも野党勢力は求めていた)は拒否し、立憲プロセスは残った。

その結果、イスラーム主義派と世俗派の双方が妥協した文面で憲法草案が確定した。

(1)軍が政治的中立を守ったこと。
(2)司法が不当な介入を行わなかったこと。
(3)文民の労働組合連合会や市民団体が対立する政党間の仲介者となったこと。
(4)イスラーム主義派と世俗派民族主義派がそれぞれ妥協したこと。
(5)ナハダ党・共和主義派の連立政権は退陣を呑んだが、立憲議会の解散は呑まなかった。(正統な立憲プロセスを死守した)

これらの点が、混乱や流血の比較的少ない移行期プロセスのモデルの重要な要件として示されたといえるだろう。

よそのアラブの国がこれに倣うとか、倣う気があるとか、すぐに倣うことが可能かというと、そうではないのですが。

シリア問題をめぐるジュネーブⅡ会議でテロリズムが論点に

1月22日から、スイスのモントルーで、シリア問題をめぐる「ジュネーブⅡ会議」が開かれている。

これについては『フォーサイト』に分析を寄稿したのだけど、その一部を下記に。

アサド政権は何年かかったとしても軍事的に勝利しようとしているため、ジュネーブⅡでまともに話し合う気はない。もっぱら「反体制勢力はアル=カーイダ系のテロリストだ」というプロパガンダで、欧米の介入を阻止しようと考えているようだ。

実際これは効果的で、アル=カーイダの名を出すだけで欧米世論は浮足立ち、アサド政権の存続黙認、という雰囲気になっている。

ワシントン近東研究所のデイビッド・シェンカー研究員は、ジュネーブⅡ会議に先立って会議の方向性を見通したコメントで「もしジュネーブでわれわれがテロリズムについて話し合っていたら、われわれは失敗したということだ」と述べていた。

会議初日、アサド政権はまさにこの「失敗」に持ち込もうと盛大に危機感を煽った。

アサド政権は2011年に反政府デモが始まった当初から、「反政府派は武装したテロリストだ。アル=カーイダだ」と言い続け、残酷な弾圧を正当化してきた。

3年間に渡り、大規模な内戦が続き、国土の大きな部分が焦土と化すうちに、実際に数千人程度のアル=カーイダ的な思想に感化された義勇兵が外国から集まってきている。

そもそもアサド政権は、シリアに国際的なジハード主義者の義勇兵が介入してくることを当初から歓迎していた。

アサド政権は2011年の暮れに、拘留していたアル=カーイダの指導者を釈放した。当初はアサド政権に対する脅威となっても、やがては今のように、国際社会を恫喝したり懐柔したりするのに使えると踏んでいたのだろう。そのことは当時から専門家が観察し論じていた。

釈放が報じられた中でもっとも著名なのは、アブー・ムスアブ・アッ=スーリーだった。

2011年12月頃に行われたとみられるスーリーの釈放に関する記事には、英語では、ごく一例を挙げるだけでも、次のようなものがある。

Bill Roggio, “Abu Musab al Suri Released from Syrian Custody: Report,” The Long War Journal, February 6, 2012.
Murad Batal al- Shishani, “Syria’s Surprising Release of Jihadi Strategist Abu Mus’ab al-Suri,” Terrorism Monitor 10-3, February 10, 2012.
“Abu Musab Al-Suri speaks on his Pakistan detention,” The Arab Digest, February 24, 2012.
“Report: Syria’s Assad Releases Alleged al-Qaida Mastermind of 2005 London Bombings,” Haaretz, February 5, 2012.

スーリーは2004年に『グローバルなイスラーム抵抗への呼びかけ』という1600頁に及ぶ著作をインターネット上で発表ており、「グローバル・ジハード」の代表的な理論家である。

スーリーの理論は、一方で「一匹狼型」のテロを扇動しつつ、他方で紛争地域に「開かれた戦線」という聖域を見出して大規模な武装化・領域支配の権力を掌握する、というものだ。

つまり、一方では、昨年のボストン・マラソン・テロのような「一匹狼型」のテロを世界各地で引き起こさせる方向で宣伝活動を行う。個々の攻撃の規模は小さいが、敵の社会に恐怖心を植えつける効果がある【「「ボストン・テロ」は分散型の新たな「グローバル・ジハード」か?」2013年4月25日】

他方で、内戦や秩序の弛緩した地域を見つければ、これを世界中のジハード戦士が集まる聖域として、大規模な組織・武装化を行って領域支配の権力掌握を図る。これをスーリーは「開かれた戦線」での闘争と名づけていた。

2004年に『グローバルなイスラーム抵抗の呼びかけ』でこの理論を発表した時点のスーリーの現状認識は、「開かれた戦線」は現在の時点では存在しないため、「一匹狼型」のテロを各地で引き起こすことに専念し、機会が来るのを待つというものだった。ターリバーン政権下のアフガニスタンに確保していた活動の聖域が、 2001年に米国の大規模な攻撃を受けて消滅するといった事態を受けてのものだった。

しかし、2011年の「アラブの春」後の政治的混乱は、スーリーが遠い将来に望見した「開かれた戦線」の出現を、予想外に早期に実現した。

その最たるものがシリアである。

ただし、最終的にアル=カーイダ系の組織がシリアで領域の一円支配を確立する可能性はまずない。シリアの土着のイスラーム系の反政府組織は昨年11月22日、「イスラーム戦線」を結成し、アル=カーイダ系の「ヌスラ戦線」や「イラクとシャームのイスラーム国家(ISIS)」と一線を画そうとしている。イスラーム戦線とアル=カーイダ系組織との間には衝突も報じられている。

結局は、アル=カーイダ系のグローバル・ジハード主義者の介入は、反政府勢力の戦列を混乱させ、国際的な印象を悪化させてシリア問題から手を引かせる効果しかない。

反政府抗議行動を封殺できないと見たアサド政権が、早期にスーリーを釈放したのも、このような展開になれば、アサド政権の有用性を国際社会に売り込めると読んでいたからだろう。

*  *  *

スーリーの思想・理論については池内恵「グローバル・ジハードの変容」『年報政治学』2013年第Ⅰ号、2013年6月、189-214頁、池内恵「一匹狼(ローン・ウルフ)型ジハードの思想・理論的背景」『警察学論集』第66巻第12号、2013年12月、88-115頁、などに詳述してある。

トルコはもう「三丁目の夕日」じゃないよ

都市部の世俗派を中心にした反政府デモに続いて、今度は政権内の汚職と、汚職追及の背後にいるイスラーム系団体との仲間割れで揺れるトルコ、エルドアン政権について、英『エコノミスト』誌は示唆に富む論説を載せてくれている。

最近のものではこのあたりか。

Turkish politics: No longer a shining example
Turkey’s government disappoints because of allegations of sleaze and its increasingly authoritarian rule

The Economist, Jan 4th 2014

Corruption in Turkey: The Arab road
The government of Recep Tayyip Erdogan has grave questions to answer

The Economist, Jan 4th 2014
【翻訳「トルコの汚職:アラブへの道」

Turkey’s economy: The mask is off
Political turmoil exposes economic malaise

The Economist, Jan 11th 2014
【翻訳「トルコ経済:手本とされた経済モデルの化けの皮」

昨年、安倍首相は、トルコを二度も訪問した【5月】【10月】。

このこと自体は、全く文句のつけようのない、結構なことだ。毎月一度外国訪問をすると宣言して、実際に行っている。戦略的な場所を選んでいる。物見遊山になりようのない、資源や戦略上の要地を選び、世界の注目を集める会議や場所に出ていくようにしている。極東だと時差があるし、中国のように国家主席やら首相やら共産党の序列何位やら、政治権力者がいっぱいいて手分けして各国に行ける国と比べると日本は不利だ。それなのにここまでやっているのは本当に頭が下がる。今後のいかなる首相も手本にしてほしいものだ。

そこでトルコを重視するというのも悪くない。ヨーロッパ、中東、アフリカ、コーカサスからロシア、中央アジアに至るまでの世界経済の重要地域や新興市場、資源産出地域への、ハブとなり、拠点となる可能性を秘めている。ヨーロッパとの経済統合は進み、中東・イスラーム世界への足掛かりになり、それらの国の中では格段にインフラが整い、経済的な水準が高い。

ただ、「遅すぎる」。これは現政権の責任ではないが。むしろ大企業を中心とした日本の経済社会の問題。

今頃になってやっと、政府に旗振ってもらって、あるいは日経新聞などの「トルコが熱い」的記事に煽られて、日本企業がぞろぞろトルコ詣でをするというのは、もう本当に頭が痛くなるほど遅い。

今頃来ても、そんなに儲からないと思うよ。

トルコに進出を決断するのだったら、12年前だった。『エコノミスト』誌の「トルコ経済:手本とされた経済モデルの化けの皮」では、「トルコは突如として、同国が12年前に影の中に置き去りにしようとした国のように見える。インフレ率は7%を超えて推移しており、通貨は下落傾向 にあり、経常収支の赤字は国内総生産(GDP)比7%前後となっている。民間貯蓄、外国からの投資、輸出はいずれも減少している」とある。

2000年前後からトルコは経済的な苦境を脱し、高成長時代に入った。その前提は、インフレを抑え込んだこと。

1990年代のトルコは、国家主導型経済から市場経済への移行の痛みに苦しみ、慢性的なインフレでトルコリラの桁はむやみに大きく、内需は伸び悩んだ。

2003年に誕生したエルドアン政権の長期化の原因は何よりも経済政策の成功。2006年のトルコリラの100万分の1のデノミは、インフレ抑制策の締めくくりだった。

単に政策がうまくいったというよりは、社会経済的な大きな変化が背後にあった。エルドアン政権と穏健イスラーム主義政党AKPの支持層である、地方から都市に出てきた新興企業家・中間層の上昇に押し上げられて政権につき、彼らの活力に支えられて経済発展・安定化が成し遂げられたと言える。

しかし政権の長期化が汚職を生むように、トルコの経済的隆盛にも限界や負の側面が現れてきたように思う。

これでトルコ経済が終わるわけではない。単に、トルコ国内の要因からも、急激な経済成長はいつまでも続かないし、高成長を可能にしてきた地域・国際環境も変わってくる、というだけだ。

トルコの地政学的・国際政治経済的な重要性は以前から明らかだったのだから、インフレを抑え込んだと見た瞬間に行けばよかった。そうすれば急成長の果実を享受できた。実際に欧米企業も中東諸国の気の利いた企業もそうしていた。

まさか、トルコのデノミを、「小さな市場しかない遅れた国の変わった政策」と思って日本企業はぽかんと見ていたの?たぶんそうなんだろう。

私の経験から言うと、1990年代前半に東大の同級生に「中東は伸びる、その中で一番有利なのはトルコ」と言ったら、「トルコ?市場小さいじゃん」と言われて終わりだった。

まあ東大生のみんながみんなこんなではなかったが。しかし私の世代の東大生はまだ、成績中くらいの上/上の下ぐらいで必死に頑張っている子たちは、「東大出て銀行に入れば一生安泰」というモデルにしがみついていた(勘のいい連中はうすうす気づいて違う方向を模索していたように思う)。4年生の年に大和銀行ニューヨーク支店の大損が発覚。「銀行に内定したけど行かない、行くところがない」という、当時の東大生にとっては足元の地面が割れるような事件が生じた。そんな事件など忘れてしまうほど、その後の金融業界は様変わりしたけれども、大和銀行ニューヨーク支店事件は、高度成長からバブル期の日本の大企業とその親元=銀行がそろって、グローバル経済の中で御していけない組織と集団になっていたことを暴露した事件だったと思う。

しかしいずれにせよこういう発想の子たちがまあまあの「エリート」候補生として企業に入って、20年後の今中堅なのだから、日経新聞と政府の旗振りで、すっかり成熟して調整期、低成長期に入ろうとしているトルコに、「新興市場に進出でグローバル展開」とか言って入っていって損するというのも目に見えている。それで「行ってみたらレベルが低かった」「インフラもたいしたことない」とか悪口言うのだろう。

同じようなことをドバイについても記憶している。

2008年のリーマン・ショック直前も、日経新聞は散々ドバイの活況を書き立て、進出を促した。その直後にリーマンショックでバブルがはじけ【「世界金融危機で湾岸ドバイが岐路に立つ」『フォーサイト』2008年11月号】、各社が大損して撤退。

そして「羹に懲りて膾を吹く」の通り、ドバイの回復期をむざむざ見過ごして、そして今頃になってやっぱりドバイだと出ていって、高値掴みする人たちが出てきているのだろう。

日本企業は横並びでいくので、ここ数年、トルコ航空のイスタンブール便のチケットが取りにくくて困る。

そして今頃になってやっと(このフレーズもうイヤ)、ANAはイスタンブール便を開設するとのこと。待ちくたびれました。もう結構です、という感じですね。

日本の航空会社は、中東にもアフリカにも、一本も定期直行便を飛ばしていない。日本の航空会社は日本企業が行くところにくっついていくのだから、これらの国と直接に頻繁にやり取りできる日本企業が、まあ航空会社から見て誤差の範囲ぐらいしかないということですね。

なお、ワシントン便もANAだけ。「ナショナル・フラッグ・キャリア」だというJALが東京-ワシントン便をもっていない(人が乗らないからなんでしょう。経営が危なくなるよりずっと前からないですよ)という状態で、本当に「日米同盟が外交の基軸」なのかも疑わしくなってくる。

これらの情報だけを見ると、日本には「アメリカにコネもないし、中東・アフリカに土地勘もない」政治・経済指導者たちばかりだったことになってしまう。そんな人たちに「グローバル人材になれ」などと説教される今の子供たちは本当にかわいそうだ。

それはともかく、トルコの可能性にやっと気づいてくれたことは、今頃になって、とはいえ、うれしい。

ただし、トルコはもう高度成長の段階にはない。トルコに「三丁目の夕日」を夢見る政治・経済指導者は、考えを改めてほしい。

高度成長が終わり、様々な政治・経済問題が今後明らかになって行くだろう中進国としてのトルコの問題に解決策を提供し、それをきちんとビジネスにし、トルコの地の利と能力を活かしてその先の中東やアフリカに展開をしていくことができる企業にだけ、トルコに来てほしいものだ。

シリアの「中道」勢力はどこに?

ちょっとおもしろいな、と思った記事。

「アサド政権元官僚が、置き去りにされた一般シリア人を代弁すると主張(Ex-Official Claims to Speak for Sidelined Syrians)」『ニューヨーク・タイムズ』1月18日(電子版)に出ていました。たしか無料で月何本か読めるのではないかな。

より細かなインタビュー記事はここ

ジハード・マクディスィーというのは、シリア問題を追いかけている人にとっては馴染みの名前と顔。
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元シリア外務省報道官。完璧な英語で、どんな不利な状況でもアサド政権を擁護する弁舌を振るっていました。有名なのは、2012年5月のホウラ村付近での虐殺の際、アサド政権側民兵の関与を全否定し、「ウソのツナミだ」と叫んだ

ホウラの虐殺に対してシリア政府は、「調査委員会」なるものを設定し、「反政府側による親アサド派の虐殺」「国際介入を呼び込むための自作自演」と散々宣伝し、ドイツの『フランクフルター・アルゲマイネ』がこの説に乗っかったせいもあって、「反政府派の自作自演」説が広まり、シリアの人道状況に対する関心が低まるきっかけとなりました。

その後の国連の調査や、ドイツの『シュピーゲル』誌の調査などで、やはりアサド政権側民兵の犯行ではないかと見るのが主流になっていますが、世界中の人はそれほどシリアに継続的に関心を持っていないため、一度焼き付けられた印象はそう簡単に変わりません。

日本では、「南京大虐殺はなかった」「従軍慰安婦は捏造だ」といった議論を支持する右派層を中心に、シリアに対する何の知識もないとみられる人たちが、「ホウラの虐殺は捏造」というアサド政権の主張と、これを宣伝する一部のアサド政権大好き専門家の発言を妙に素直に鵜呑みにして、一気にアサド政権支持に回った・・・という悲劇が展開しました。「欧米のメディアは偏向している」と言える素材なら何でもいい、ということですね。

しかしアサド政権による捏造説に安易に乗っかると、自分たちの主張もそのような強権的な立場による無根拠で卑劣な主張、と見られてしまって、国際社会ではかえって逆効果になる可能性が、きわめて高いと思います。日本の立場はあくまでも、国際社会の良識ある立場に沿わせて主張していくことが、国益を最大化するためには絶対に必要でしょう。

アサド政権の宣伝工作の大ヒットと言える「ホウラの虐殺捏造説」で大活躍したジハード・マクディスィー報道官は、その後、辞任して国外に亡命。自分の言っていることがウソと分かっているからこそ、相手を「ウソのツナミだ」などと言っていたんだろうなあ、と思わされました。

ただしマクディスィーは反政府派にも明確には与せず、中立の立場を保って機会をうかがっていたようです。政治的な実力者ではないでしょうが、シリア政府の「顔」として最も重要な時期に頻繁に出てきていたので、関係者であれば皆知っています(少なくとも顔と語り口だけは)。

アサド政権派と反政府派で「生きるか死ぬか」の闘争を繰り広げてしまっている現状で、マクディスィーさんはそのどちらにも与しない中道派の顔となれるのでしょうか。