日本の中東論のパラダイム転換(人間社会は進歩しない─ただ変わるだけだ)

今日の朝から午後までは、意を決して予約して病院で徹底検査をしてもらった結果、全然問題なし、きれいな内臓お写真を見せてもらって拍子抜けいたしました。

調子が悪いと思って節制したり船で海籠りして論文書いてたら治ってしまったのだろうか。

というわけで復帰・・・とメールを見たら、なんだかISISの「カリフ制」宣言について一時的にメディアの関心が高まっていたようだ。もう萎んだかも。私が電波の届かない検査室に入っている間に電話やメールで大騒ぎした挙句「連絡つかないのでよそに」なんて人が幾人も。

よそにいくのは構わないけど、まともな人に話を聞いて、まともな人を公共の電波に乗せてよ。

「アラブの春」がシリアに及んで、政権による過酷な大弾圧が執拗に行われ、反体制派はテロリストだ、欧米・イスラエルの手先だと嵐のようなプロパガンダが溢れ、それに対して反体制側には武装化する勢力が浸透していく、という展開になってから、「良識派」と自認しているらしきメディアが取り上げる中東論がさらに混迷を深めたので、胸が悪くなる。そういったストレスは体調に悪いのでなるべく読まないようにはしているが、日本での中東言説という私のかつての一つの研究テーマに関わるので時々戻ってきて見ている。

思い出せば、2001年の当時は、中東・イスラーム学会の大部分の人は、「イスラームは寛容だ、テロなんてない」と現実の認識を拒否し、「対テロ戦争」をやるブッシュ政権・アメリカの方に問題の原因があるのであり、アメリカに非がある(この二つは論理的に別物ですが、たいてい渾然一体になる)と論じていた。

ところが今は、「アラブの春なんてない。デモは欧米の介入だ、実際に存在する反体制派はジハード主義のテロリストだ。テロリストの掃討をやっているアサド政権を批判するアメリカは間違っている。アメリカに非がある」という論理が中東研究者から盛んに出てくる。

そして、『世界』とか『朝日新聞』は、「アメリカに非がある」という結論さえ一緒ならば「良識派」なのかと勘違いして盛んに取り上げるので、今やそういう主張がすっかり権威になってしまっている。

まあ、誰もやりたがらないシリアやイラクや、テロリストの声明ビデオとかを、業務もあってしっかり見ているのは素晴らしいことだ。私の上の世代もその上の世代もそのまた上の世代も、まったく実際にアラブ世界で出されている新聞も読まず、テレビも見ないで勝手に「アラブの民衆」を代弁していた。それが、私の勉強したころからインターネットが出てきて、今の世代はそれが当たり前で、新聞もテレビも、犯行声明も爆破映像もしっかり見て何かを言おうとする。それはかなり大きな進歩と言っていい。

しかし日本の中東研究の業界の世代交代は、まだ真の意味での学問的成果の向上には結びついていないようだ。技術的には進歩したのだろうけど、結局それにもとづく主張においては、単にイデオロギー的な立ち回り方が変わっただけだからだ。もっと「こじれて」しまった感もある。言っていることがもっとトリッキーに、冷笑的に、これまでよりもさらに機会主義的になっている。

2001年当時は、中堅以上の中東研究の人はたいてい左翼だった。年代的には、団塊の世代より下の、東大や外語大に入って極左の先生にオルグされて、他の大多数の学生たちは政治離れしている時代に、ある種のマイナー文化のサークルのようにして遅れてきた学生運動をやっているような人たちが、私の一回り上の先輩方だった。そういう人たちがなぜ中東研究を選んだかというと、欧米中心主義への対抗軸のよりどころとして「アラブ」や「イスラーム」に期待をかける、というのが表面上の論理だったが、その大前提には、日本社会の主流派に対するルサンチマンが濃厚に感じられた。個人史的には、抑圧的な父(の世代)への反発といったものもあっただろう。あの世代のさらに親の世代には、国家とか社会とか個人の人生に関する今では考えられないほどの厳しい制約があったからね。むしろ日本社会への反発が、その背後にあるアメリカという最大の権威・権力への敵意を産んでいるようにも見えた。アメリカに行ったこともない人が多く、認識がかなりヴァーチャルなのである。このあたり、ビン・ラーディンのサウジ社会への反発が米国が支配する世界の体制全体への敵意というより「大きな話」に展開していく点と重なる。そんなわけで、私の上の世代の中東研究者は、世間向けはともかく内輪ではビン・ラーディンにかなり共感的だったし、9・11事件の時に露骨に高揚したり陰謀論を力説している人たちも見かけた。

ところが、2011年以降は、私と同じぐらいか、少し下の世代の中東研究の人たちが出てきた。その世代はかなりネトウヨ的な性格を帯びた人たちが多くなっている。こちらは反米右翼的な立場から、アラブ世界によりどころを見出そうとする。そこではアメリカから発せられる民主主義とか自由主義の説教には虫唾が走る、といった感情的な反発が見られる。民主主義や自由主義の観点からは否定的に評価される独裁政権の方が実は優れている、と様々な方法で主張する。これも欧米中心主義を批判しているように見えて、その実、今の日本の世の中で信じられていることはすべて間違いで、自分だけは真実を知っている、という全能感を得ることが初発の欲求なんではないか、という疑いを禁じ得ない言動が日々に漏れ出てくる。若い時はみんなそんなものかもしれないけど、そのまんまの意識で説を立てて、それが専門家が少ないがゆえにメディアを通じて社会に流れてしまうのは、日本社会の中東認識と政治判断を誤らせる。

外見上は、「反米」というところで私の上の世代と下の世代は一致している。両方とも結論としては「テロとの戦いの破綻」といった言辞を掲げるので、私の上の世代も下の世代も『世界』『朝日新聞』の覚えがめでたい。私の方はというと、ほぼ出入り禁止になっている。まあ他にも行くところはいくらでもありますからいいんですけどね。インターネットが権威主義を崩した。遅れてきた権威主義者が必死に旧来の権威的メディアに登用されようと必死になっているが、何の意味もない。

私の上の世代の中東研究者の主張は「イスラームはテロではない。だからアメリカの対テロ戦争は間違っている」という論理だった。ところが私の同世代の一部や下の世代になると「イスラームなんて言っている奴はテロリストだ。それを掃討してくださるアサド様の対テロ戦争は正しい。それを支援しないアメリカは間違っている」という論理になっている。

時代は変わりましたな。

その変化に多少の影響を与えることに私の青春時代は費やされたんだが、結局時代が良い方に行くなんてことはなかったんだよ・・・てことですね。

両方とも結論は「アメリカは間違っている」なんだけど、まったく違う話しているよね?『世界』『朝日新聞』の編集者さんたち、ここは気づいたうえで誌・紙面に載せているんだよね?もしかして気づいていない?そうだとするとリテラシーにかなり問題ありますが?

気づいていないといけないからダメ押しするけど、後者の論客たちは、面と向かっては言を左右するかもしれないけど、その論理構成や本音は明確に、「アサド政権は反体制勢力を殺しつくせ」と言っているんだよ?「市民」なんて冷笑しているんだよ?「イスラームなんて言っててどうせテロリストだろ」て言っているんだよ?思想信条は自由だけれども、それは「良識派」ではないよね?9・11事件からイラク戦争の時に盛んに『世界』や『朝日新聞』が主張していたこととは正反対なんだよ?それは分かっているよね?

世界の諸悪の根源は米国だと、何らかの理由で(つらい生い立ちとか、抑圧的な親への反発とか、志望の大学に受からなかったとか、モテなかった学生時代とか、そういったことから抱いた日本のエスタブリッシュメントへの漠然とした反感とか、あるいはとにかく米国・日本政府に文句をつけることが存在意義になっている業界や企業に就職しちゃったからとか)で固く信じるに至ったとしても、アサド政権が反米だからと言って、反米ならなんでも正しいというところまでは退化しないでほしいものだ。それともそこまで追い詰められているのだろうか。これは中東研究者にも、それを一知半解で取り上げる「良識派」のメディア企業人の両方に対しても共通に抱く疑念だ。