陰謀論に花束を

今日の、BSスカパー「Newsザップ」出演では、12時から午後3時までずっとスタジオに座りっぱなしだったので、極度に疲労しました。こんなことはしょっちゅうやってられませんね。

Newsザップ

おまけに、今日に限って、米国ダラスの病院内でのエボラ出血熱の二次感染の事例が生じて米国が浮き足立っているので、CNNは特別編成でアマンプールの番組が取り止め。BBCもトップニュースでこの話題に。

毎時0分や30分の定時ニュースで、シリアやイラク、イエメンやリビアの話題は省略されるか、後の方(毎時20分ごろや、50分ごろ)に回されたので、ザッピングの対象にならず。

それでも中東の話をしましたが。

レギュラー・ゲストのアーサー・ビナードさん。

詩人。

国際政治については、典型的な米国超リベラル派らしく、陰謀論炸裂。

まあ中東政治に陰謀はつきものだけど、その多くは米国主体ではなく、現地の諸勢力が地域大国と域外大国とNGOとかを盛大に巻き込みながらやっているのだから、なんでも米国が動かしていると言っていては、中東は分かりません。

中東に盛んな陰謀論とは別に、もっと現実的で厄介な陰謀がたくさんあるのです。それを読み解けないと、手玉に取られてしまいます。

あまりにひどい時はこちらも重ねてどのように見ればいいかを解説しましたが、思想・言論は自由なので、たいていはスルーして放置しておきました。

詩人なんだからどうぞ奔放に。

ただし、メディアがそういう詩人の政治論と私の分析を同列に扱って、かつ一般読者・視聴者に「印象がいい」「良い人」に見える(とメディアが考える)方に軍配を上げるような扱いをした時には、私は徹底的に怒るけれどね。

それは私にとって譲れない倫理の問題だから。

今から10年前のとある事件(それは今イラクとシリアで生じていることに、紆余曲折ありながらつながっている)についてのとあるメディア企業のやり方については、今でも、許しも忘れもしていない。『イスラーム世界の論じ方』の注を詳細に見ていただければ、ぼんやりと何がどうだったか分かるかもしれない。

ビナードさん、最近うちの父といくつも一緒に仕事してくださっているらしい。うちの父も政治の話になると、まあビナードさんと似たような感じのぽわっとした現実感のなさがある。

ただし父は、人間社会の本質に関しては、政治の制度や社会構造に関する情報は恐ろしく皆無なのにもかかわらず、ある面で異様に勘が鋭い。もし理屈で説明させれば陰謀論みたいなものになってしまうのだろうが、そういうことは人前で決して言わない防衛本能は鋭い。なので、明らかにおかしいだろ、という政治的発言をしたのは見たことがない(いや、探せばいろいろあるかもしれませんが・・・)。その辺、世の文系知識人とは全く違うと思う。それがどこからきているのかは私にもよく分からない。文学だ学問だ云々というよりももっと深いところでの人間としてもって生まれた知覚・防衛本能なんだろう。外当たりはいいけれども、あの人は、お人よしではないですよ。

ビナードさんがしゃべっている間に浮かんだポエム。

みえるもののむこうがわに
みえないものをみるのはいい
みえないものだけをみはじめると
なにもみえなくなる

さとし

お粗末でした。早々に宗教政治思想に路線転換しておいてよかった~

【テレビ出演】16日12時~15時、スカパーの「Newsザップ」(無料放送)でトーク

テレビ出演です。明日16日の正午から3時間にわたって、スカパーのZAP(でいいのかな)という無料チャンネル(だと思う)で最近始まった、BBCやCNNを見ながら解説、トークをするという番組に出ます。

News ザップ

こんなチャンネルと番組があるんですね。

Newsザップ

BSのリモコンで241chを押せば見られるそうです。

実はまだ見たことありません。明日まで見る時間はないので、ぶっつけ本番で臨みます(今日は日帰り京都出張。なんの楽しいこともありません。研究会そのものは楽しいが)。

想像するに、補助輪付きのBBCお試し視聴みたいなものか。しかしそうやって見ていれば、毎日の重要なニュースのかなりの部分は契約しないでも見られてしまうのでは?

原稿が重なっているのに本当はこんなことやっていられないのですが、しかし国際ニュースは毎日見るのが仕事でもあるので、仕事しながら解説仕事もしてしまえ、という投げやりな気分。

新しいことを提案されるとつい乗ってしまう性分なのです。

逆に、「いつもの雑誌のいつものコーナーを埋めないといけない、「イスラーム国」とか日本人説教師とかなんか話題らしいから電話一本で話させて下ごしらえやらせてやれ、つまんなかったら取り上げない」という怠惰な態度の雰囲気の依頼がくると返り討ちにしたりしています。ごめんねイライラしてて。

【学生向け事務連絡(2):イスラーム政治思想史概説】6日に台風で欠席の受講希望者へ

【学生向け事務連絡】

文学部「イスラーム政治思想史概説」に参加希望のみなさん

10月6日(月)は、午前中は台風の影響で一斉休講でしたが、午後は自主判断だったため、また天候が持ち直したため、初回の授業を予定通り行いました。

事務当局からの休講の決定や連絡が直前だったことや、午前中は非常に天候が悪かったことを勘案して、初回欠席の学生も二回目からの出席を認めます。

次回までのテキストは配布していますので、入手している人からコピーさせもらってください。

入手できない場合は、代替として、下記のブログページを熟読して、関連する文献を検索・読解しておいてください。

「イスラーム国」の黒旗の由来

まだ受講者が固まっていない段階での連絡のため、公開のブログを使っていますが、授業が立ち上がり次第、非公開のメーリングリストやストレージ・サービスなどに連絡・配布手段を切り替えます。

池内恵(10月11日)

【学生向け事務連絡:14日台風の場合】教養学部後期課程「中東地域文化研究」の初回開講

【東大・学部生向け事務連絡】

冬学期の教養学部後期課程「中東地域文化研究」に参加希望のみなさんへ。

第1回の授業は14日(火)です(先週7日は秋季入学式のため授業休止日でした)。教室・時間割等は便覧あるいはオンラインで確認してください。

14日は台風の影響を受ける可能性があります。

学部の事務局から一律に休講措置等が取られる場合は、14日(火)午前6時30分に教養学部のホームページに掲載されるとのことです。まずここを確認してください。

朝の段階では午前中の講義にのみ全学部的な休講措置が取られ、午後の授業に関しては、明確な措置が講じられない可能性もあります。また、学部によっては、午後については教員の判断に任せるといったあいまいな指示が出ることもあります。

学部事務局からの午後についての指示が曖昧な場合は、当日の正午に、このブログで休講・開講のいずれかをお伝えします。

演習に近い形式の初回のため、参加者の人数や関心などを把握するためにも、できる限り授業を行ないたいと考えていますが、往復のいずれかに危険を感じる場合はそれぞれの判断で欠席してかまいません。その場合、出席希望を学内メールで池内宛に送信してください。

なお、今回は初回授業のため、連絡手段がなく、やむを得ず公開のブログで情報を発信していますが、受講生が定まり次第、閉鎖系のメーリング・リスト等に切り替えます。

池内恵(10月11日)

自由主義者の「イスラーム国」論~あるいは中田考「先輩」について

10月7日のニュースウォッチ9で使われたコメントはほんの1行だけでしたが、この日報じられた二つの事案に関連したコメントとしてはこれだけで十分でしょう。

NHKニュースウォッチ9_10月7日

このキャプチャ画面(おでこが保守系政治家並みにテカってるのはブラインドの隙間から西日が当たっているから。カメラマンがすごく気にしていましたが、時間がないので続行しました)はコメントの後段部分ですが、この前に、日本には、イスラーム国、あるいはイスラーム教一般に対して、社会の周縁や、文科系知識人の間でのぼんやりとした流行として、自らの不満や願望を投影して勘違いして賛同・共鳴・期待する動きがサブカル的にあり(もちろん膨大な世間一般保守層にとっては単に印象が劣悪なんだろうけど)、そういった経路で情報を仕入れた、現実をよく知らずにそれぞれの特殊な不満を持っている人が、打ちどころが悪くて武器をもって参加してしまう例は今後も出るだろう、という旨を語ってあります(実際にはもうちょっと言葉を選んで婉曲かつ厳密にしゃべっていますけれども、まあ真意はこうであるということはまともな人には分かるでしょう)。

おそらく今後五月雨式に出てくる事例のほうが、今回のものより、影響も、主体の意図や能力においても、深刻なものになるでしょう。

翌日付でNHKのホームページに特集を文字で再現したものが掲載されています。

7日の放送は録画してありますがきちんと対照させる時間がないので正確には分かりませんが、ホームページのものはおそらく放送されたニュース特集で時間の関係で盛り込めなかった部分をごくわずか補ったものでしょう。私のコメントについても、放送された部分と若干異なっているかもしれませんが、包括的にコメントを出してあるので、私がしゃべった部分であることは確かです。

このニュース特集については、7日に少し書きましたが、9月29日に収録したもので、26歳の北大生がイスラーム国への参加を図って取り調べを受けた件の発覚する以前に話したものです。一般論・理論的な話をしたものの一部です。

元来は、このニュース番組でも少し取り上げられた別の26歳の男性(U氏)がシリアの武装勢力に参加したという件を軸に、日本人がもし「イスラーム国」に加わっていた場合、それが何を意味するのか、どのような国際的影響が考えられるのかなどを課題にするはずであった(少なくとも私に対してはそのような設問で取材をし、コメントを収録した)のですが、その後の新たな事件の発生や、放送時間を制約する別のニュースの出現が相次いだことで、放送される量が変わり、重点を置かれる論点も若干変わっていったのかもしれないと推測します。

なお、私自身はU氏のインタビューや発言内容を知らされずにコメントをしており、U氏の行動や発言そのものを分析をしたものではありません。しかし私が思想史と中東研究の経験から類推して提示した、日本側の参加者の人物類型や思想傾向、シリア側の武装勢力の状況や受け入れ態勢を、ほとんどそのままU氏が語っていました。双方の状況において、典型的なケースと思います。

なお、この特集と私のコメントは有為転変を経ております(先日ちょっと書きましたが)。9月23日に電話で取材を受けて詳細に問題の構図を伝えており、その後私のコメント内容を打ち合わせたうえで9月29日の収録となったわけですが、27日の御岳山噴火の影響で、いつこの問題を放送できるかが分からなくなり、お蔵入りしかけていました。それが、10月6日に発覚した「イスラーム国」への参加希望学生の問題の浮上で、急遽これについての報道と抱き合わせで7時のニュースで一部の素材を使うことにしたようです。

しかし、ご案内の通り、10月7日夕方には「日本人(日系アメリカ人含む)3人ノーベル物理学賞受賞」という、全てを上回るメガトン級のニュースが落ちてきて、まず7時のニュースは特別編成になり、私のコメント部分は省略(ついでに7時30分からの牧原出先生のクローズアップ現代・公文書管理特集も飛んでしまったようです・・・先端研受難の日。こちらは日を改めて放送されるようですので期待しましょう)。

9時からのニュース番組に移されたものの、「イスラーム国」参加希望北大生と、顔も名前も出していいという、別の武装集団に参加して帰ってきた26歳の男性の両方についての映像や本人の発言が長い時間をかけて流れる中で、問題の全体像を包括的に語った私のコメントのうち、放送されたのはほんの一瞬だけとなりました。しかし重ねて言いますが、この二人についてのみ取り上げるならば、放送されたコメントの部分だけで十分と思います。

U氏については、実名で顔を出して、その主張がかなり長く放送されました。売名行為・承認欲求を満たす場になりかねないので、極めて浅く未熟な行動とその理由づけの論理を、NHKニュースで流すことには弊害もあると思います。しかしこういった人々が現実に社会の中にいることを伝えたという意味で、メディアの役割は果たしたと言えるのではないかと思います。ある考えが報じられるということはそれが正しいということを意味しない、そもそも正しいと認定する主体は存在しない(少なくともNHKではない)という、最低限のメディア・リテラシーさえあれば、見紛うことのない映像であったと思います。

一昔前の、父権主義的な制約と配慮が多く加味されたニュース番組であれば、「本人が自分がやっていることの意味を深く分かっていないのではないか」「社会に知らせれば本人の将来のためにもならず、社会不安も生じさせるのではないか」といった様々な配慮から、U氏の発言はほとんど報じられず、顔も名前も伏せられたかもしれません。

しかし、現在の日本は自由な社会なので、法の範囲内で、自由にものを考えて発言することはまさに自由であり、本人が同意の上で公言したこと、やってしまったことを報じられて、それによってその後の人生に不利益をこうむることもまた自由です。自由主義社会とは愚行を犯す権利を認める社会であり、それによってもたらされる不利益を自らが担う義務を負うという条件の下で、今回の二人はそれを行使したということであると考えています。

北大生については顔と名前が伏せられていますが、これは今現在捜査中で立件されるか否かが不分明であることと、本人の発言の不明瞭さの次元がより著しいため、公開することがふさわしいか否かの判断が留保されたものと推測しています。U氏の場合は、発言の表面上の矛盾がより少なく、コメンテーターや評論家が流している程度のずさんさの社会批判であるため、それがなぜシリアでの戦闘と結びつくかにおいて飛躍が著しいものの、顔と実名を出して発言が報じられたものと考えられます。

そのような愚行をNHKの公共の電波がニュースとして流すか否かという問題に関して、重要なのは客観視・相対化する視点を番組が備えているかです。それを私のコメントが果たしたのかもしれません。ただし私はU氏の行動の詳細や発言映像を見ずにコメントしていますので、本来ならコメンテーターあるいはキャスターが加えるべき批判的・相対的・批評的な言及を、具体的にU氏の発言や行動に関して行ったわけではありません。その意味では、若干足りないところがある番組構成であったと思います。

ただし、私の事前コメントで想定した人物類型と関与形態であったため、実質的には客観視・相対化・批判的言及を行なった形になりました。

なお、この報道では二点の極めて重要な情報に触れられていません。①U氏が元自衛官であること、②U氏が加わった武装集団の名前。

①については、自衛隊出身者が海外で勝手に紛争に参加したことが政争の的になりかねないことが配慮されたのかもしれません。しかしU氏がなぜ武装集団に受け入れられたか、という点を見る際に、この情報があるのとないのとでは全く異なります。この点、毎日新聞の報道は有益でした。

「シリア:戦闘に元自衛官 けがで帰国「政治・思想的信条なし」」『毎日新聞』2014年10月09日 東京夕刊

②はその武装集団が、後にアル=カーイダあるいは「イスラーム国」といった国際的に、特に米国によってテロ組織認定を受けている組織に統合されている可能性が考えられます。

確証がないのでここでは名前を挙げませんが、おそらくU氏は、アレッポ北方・トルコとの国境近くのアザーズで勢力を保っていた組織に加わったのではないかと思います。その当時は独立していたが、その後合併あるいはより強い勢力による征服で異なる組織の傘下に入り、結果として上部勢力の指導部が「イスラーム国」に忠誠を誓う表明を行ったとみられています。

直接・同時期ではないにせよU氏が「国際テロ組織」の傘下に後に入る組織に加わっていたことになれば、北大生の場合以上に、「私戦」を行なったとして刑法上の疑義も生じかねず、そのような人物の体験談と主張を放送することがふさわしいかという問題になり得るが故に武装勢力の名前を言及するのを本人が避けたあるいはNHKが報じなかったのではないかと推測しています。これらは私の研究者としての推測で、NHKからは何も説明を受けていません(問うてもいません)。

そもそもこういった現地の複雑な情勢を理解できる人たちが番組を作っているかどうかも定かでなく、単によく分からなかったから報じなかった可能性もあります。また、本人が明確に武装集団の名前を覚えていないか発音できないといった可能性もあり得ます。

確かにこれらは厄介な問題ですが、こういった側面もテレビ局が報じることができ、かつ知識人も政治家も、感情論や表層的なこじつけによる、短絡的な政争の議論に持ち込むのでなく、本質的な政治問題として分析したうえで議論できるようになれば、日本も真の意味での近代の自由社会になったと言えると思います。それができないうちは、補助輪付きの自由にとどまると言っていいでしょう。

単に「NHKは自主規制・配慮するな」という問題ではなく、それを受け止める成熟した知性が社会に存在するか、というところがより本質的な問題であると思います。メディアはその国の市民社会の程度を反映したものにしかなりえないのです。

また、この段階では顔と名前が出ていませんでしたが、元同志社大学神学部教授の中田考氏の関与をめぐる捜索についても番組では取り上げられていました。

中田考氏は東京大学文学部イスラム学科という、日本の大学の中では稀な学科の一期生です。1982年設立と歴史も新しく、3年時にこの学科を選んで進学してくる者の数も極めて少数に限られています(2人か、1人か、0人か、というのが通例と思われます。あと学士入学・修士からの入学者がそれ以上にいます)。

実は私もまたこの学科を卒業しており、1994年に進学しているので、一回り下の後輩ということになります(なんでこの学科に入ったかはココで)。私自身は大学院は地域研究に移っており、1・2年の教養学部においてもイスラム思想以外のさまざまな学問に触れており(そもそも家庭教育で全然別のことを仕込まれていた)、イスラム学のみを自分の学問の基礎とはしておりませんが、同時に最も重要な学部3・4年を過ごしたことから、今に至るまで強い影響を受けてきたと自覚しています。この学科の一期生が、このような形で脚光を浴びるに至ったことには、卒業生として他人事とは見ていられず、世間一般にとっては奇異・不可解にのみ見えかねない状況を少しでも理解しやすくしておきたいという気持ちがあります。

この学科は歴代の卒業生を合わせてもそれほどの数ではなく、特に一期生は、業界内ではいろいろな意味で目立つ人たちであり、学生時代から意識せざるを得なかったことから、中田考氏についてはその人となりと思想・行動を私なりに理解しているつもりです。

いくつか言えることを記すと、まず、彼は顔を隠したり、思想や実際に行った行動について問われて否定することはないだろう、ということです。彼にとっては、「アッラーの教えに従った正しいこと」をしていると信じているがゆえに、「無知な異教徒」に積極的に話す必要はないが、問われれば話してもいい、ということであろうと思います。現にその後顔と名前を出したインタビュー記事が表に出るようになっています。

中田氏自身は日本の刑法に明確に触れるようなことはしていないと思いますが、ジハードによる武装闘争をシリアで行うことには強く賛同していると見られます。「イスラーム国」についてはその手法の一部が適切ではないと批判していますが、イスラーム法学的に明確に違法とまでは言えないと解釈しているようであり、その存在を肯定的に見て、接触を図っていることは、公言している通り、おそらく事実であると思われます

そのことだけでも、日本の法制度では「私戦」の予備あるいは陰謀に関与したととらえられる可能性が、法の解釈と適用の裁量如何ではあり得るものであり、そのことも、現在の中田氏は自覚していると思います。日本の刑法の存在と実際の効力は認めているものの、本人の思想によって超越的な視点から日本の刑法の価値を(「永遠の相の下では」)限定的(あるいは無価値)と捉えているため、刑に問われる可能性を認識しつつ、それほど意に介していないのではないかと思われます。

ただし2014年9月24日の国連安保理決議で「イスラーム国」への支援を阻止することが各国に義務付けられる以前には、この規定の適用によって「イスラーム国」への支援・参加を処罰することが現実的にあり得ると周知されていたわけではありません。死文化していたこの条文を適用して公判維持が可能なほどの犯罪事実を、9月24日から10月6日までの間に中田考氏が行ない得ていたかどうかを考えると、そのようなことはなかろうとかなり確信を持って言えます。

ジハードに関する中田考氏の立場は、イスラーム世界の中で、少なくともアラブ世界においては、さほど極端な意見ではなく、一つの有力な考え方であると見られます。ただし実際に実践することができる人はそれほど多くないとされる立場です。尊重されるが必ずしも多くによって実践されることのない、アラブ世界において一定の有効性を保っている思想を、ほぼそのままの形で日本に伝えてくれるという点で、中田考氏は貴重な存在です。日本向けに、日本社会に受け入れられることを主眼として、現実のアラブ世界ではさほど通用していない議論を「真のイスラーム」として発言する方が、長期的には認識と対処策を誤らせると考えます。

「イスラームは平和の宗教だ、対話せよ、共生せよ」といった議論を表向き行なっている人物が、学界の権力・権威主義・コネクションを背景に、気に入らない相手に公衆の面前で暴力をふるうに及ぶ(そして高い地位にある教授のほぼすべてが一堂に会しておりながら黙認して問わない)、といった事例さえ複数回体験している私にとっては、中田考氏からは、現世的な意味での権威主義を嫌い、暴力を忌避する、温和で、概して公正な人物であるという印象を受けます。その評価は、この事件に関する報道を見た上でも、変わっていません。

ただし、いくら現実が欺瞞に満ちたものであり、浅薄で劣悪な人間が世にはびこっているとしても、それに対抗して別の世界から何か絶対的な超越的な価値基準を持ってきてそれを当てはめて現実を全否定しても、自己満足以外に得るものはあまりないと私は考えています。

中田氏の日常・対人関係における穏和さは、イスラーム教によって示された真理を自分が知っているという確信から来るものであるため、「それを知らない・知ろうとしない異教徒」である私に対しては、別種の超越的な権威主義をもって接してくるため、かなり遠い過去に何度かあった会話の機会において、それほど話が通じたとは思いません。(そもそもまともに話したのはかなり若い時であり、年齢や研究者としての経験が違い過ぎたという事情もありました。また、イスラーム法学者としての聖典・法学解釈の運用能力を普遍的に価値的に優越したものととらえる中田氏からは、私の議論はそもそも前提としてなんら評価に値しないといった理由もあります)。

そして、中田氏の宗教信仰からもたらされる政治規範では、異教徒にはイスラーム教徒よりも制限された権利が与えられ、その価値を一段劣るものとして認定され、その立場と価値基準を受け入れる限りにおいて生存が許されることになっており、それを受け入れることは自由主義の原則の放棄を意味し、近代的な社会の崩壊を容認するに等しいと考えており、私は強く反対しています。

しかし立場が異なる人々の思想を、それが他者への危害を加えない範囲であれば認めるのが近代の自由主義の原則です。中田氏の思想に内包する危険性を認識しつつ、それを日本において実効的に他者に対して強制する機会が現れない段階では、中田氏の思想表現に規制をかける正当性は、自由主義社会の原則に照らせば、ないと考えています(そもそも人の頭の中身は外から規制できませんが)。そのことは中田氏の思想そのものを真理であるとか優越したものであると私が認めているということではありません。

イスラーム思想研究者としては、中田氏はまったく異なる見地から私と同じものを見ているということではないかと考えています。もちろん、中田氏の方では私がイスラーム教を日本の言説空間に紹介する際に「正直に話している」という点においては一定の評価をしつつ、(アッラーの下した唯一絶対の真理を認識することができないという意味で)「無知である」と認識しておられ、そもそもそのような「無知(超越的な視点からの)」であるにもかかわらずイスラーム教について発言することが本来(超越的な視点から)は許されないことであると考えていることを、いくつかのインターネット上の発言などから見知っています。中田氏の立場からは論理的必然としてそのような認識になることを私は理解しており、私の発言を実効的に制約したり物理的危害を加えることを自ら行うか教唆したりしない限りにおいては、表現の自由の範囲内であろうと考えています(受け取る人が中田氏の真意や思想体系を理解しておらず、中田氏の私に対する批判を異なる目的のために利用することは困ったことだとは考えていますが、基本的にそれは受け取って利用する人の理解力や品性の問題であると考えています。誤解による利用に中田氏がまったく責がないとも無意識・無垢であるとも思いませんが・・・)。

中田氏は、今回の事案を受けてのさまざまなインタビューでおそらく公に認めていることではないかと思いますが(活字になっているかどうかは別として)、正しい目的のためのジハードで軍事的に戦うことは正しい行いであり、そのような行いを目指す人物が自分を頼ってきたときにはできるだけの手助けをする、という信念を持ち実際にその手助けを行なっているものと思われます。これは、アラブ世界で(あるいはより広いイスラーム世界で)非常に多くの人が抱いており、可能であれば実践しようとしている考えであり、だからこそ国家間の取り決めによるグローバル・ジハード包囲網に効果が薄く、「イスラーム国」あるいはそれと競合する諸武装勢力への、多様なムスリム個々人による自発的な支援や参加が有効に阻止できていないのだと思います。

中田考氏が「イスラーム国」のリクルート組織の一員か?と問われれば、私は捜査機関ではなく、個人的に付き合いもないので本当のところは調べようがないのですが、イスラーム政治思想を研究し、グローバル・ジハード現象を研究してきた立場からは、「中田氏は組織の一員とは言えない」と推論します。

その理由は、中田氏がジハードに不熱心だとか組織と意見が違うといったことではなく、そもそも「イスラーム国」やアル=カーイダは明確な組織をもたずに運動を展開しているからです。シリア・イラクの外で「イスラーム国」に共鳴している人物・集団のうち、中田氏に限らず、シリア・イラクの「イスラーム国」そのものとの組織的なつながりが実証されうる人物や集団は、ごく限られていると考えられます。

しかし共鳴した人物・集団がもし実際に国境を超えて「イスラーム国」に合流し武装闘争に有機的に統合されれば、紛れもなくその組織の一員となります。中田氏はおそらく年齢・体力的にもそれは困難で、本人がインタビュー等で認めているように、組織の一員の友人、あるいはその紹介で訪れた客人、という立場を超えることはおそらくなかったのではないか、と推測します。

中田考氏は、そもそも正しいことをしているという信念が前提にあるために、インタビュー等で実際の行動や意図を偽ることはないと思います。ただし、その行動や意図の「正しさ」の基準が、イスラーム法学であるために、日本の一般的な聞き手や読み手には、真意が測りがたく、冗談か不真面目なウケ狙いの回答であるかのように見えてしまう場合もあるかと思います。また、イスラーム教を世界に広め、守ることを本分とするイスラーム法学者の役割に忠実であるため、異なる価値観が支配的な日本において、イスラーム教そのものへの強い批判や排斥を招きかねないと考える主張については、聞き手・読み手の誤解をあえて誘う立論を行なって関心を逸らす、あるいは肯定的な誤解をさせるということも、イスラーム教を広め守るための教義論争上のやむを得ない戦術として肯定しているのではないかと思われる節があり、日本の読み手が自らの論理や規範の範囲内で額面通りに受け取ることも、若干の危険性があるのではないかと危惧します。しかしそのような発言も自由の行使の範囲内であって、重要なのは、編集者や読み手が、発言の前提となる極めて異なる価値観(それはイスラーム世界では非常に支配的な価値観である)を認識した上で中田氏の意図を読み解くことであろうかと思います。

「イスラーム国」をはじめとしたグローバル・ジハードの諸運動については、「日本に組織ができたら危険だ」/「日本には組織がないから安全だ」という議論も、「あの人は組織に入っているからテロリストだ」/「組織に入っていないから無関係で無実だ」といった議論も、的を外しています。組織がないにもかかわらず、自発的に、一定数の支持者・共鳴者を動員できることにこそ、グローバル・ジハード運動の特徴があり、日本社会あるいはその他の社会にとっての危険性があります(それを支持する人にとっては「可能性」があります)。「イスラーム国」そのものにしても、複数の小集団のネットワーク的なつながりしかないものと考えています。イスラーム教の特定の理念、つまりカリフ制といった誰もが知る共通の理念の実現という目標を一つにしているからこそ、つながりのない諸集団がほぼ統一した行動を結果的に行っているものと考えています。

宗教者がテロを教唆したか否か、という問題には、人間の意志と行動との間の、非常に複雑で実証しがたい関係を含んでいます。

宗教者として一定の尊敬を集める人物が、例えば「ジハードに命をささげるのはアッラーに大きな報奨を受ける行為だ」と発言した場合、世界宗教であるイスラーム教の明文規定に支えられているために、信仰者あるいは異教徒のいずれの立場からもその発言を批判することは困難です。そして、このような一般的な発言を行なうことで、結果的に一定数の聞き手が武器を取って紛争地に赴き、状況によってはテロと国際社会から認定される行為を行うことは、一定の蓋然性をもって予測されます。しかし一般的な宗教的発言と受け手の行動との間に因果関係を実証することは容易ではなく、宗教者が意図を持って行った教唆として認定することも容易ではないため、法の支配の理念を堅持した法執行機関の適正な運用による対処を行なって実効性を得るには、困難が伴います。

分かりにくいと思いますが、この問題について、事情をよく分かっていないまま勘違いして発言・反応する人を含めた様々な人たちから揚げ足を取られないように書くには、このような書き方になります。

グローバル・ジハードへの動員は、日本では極めて小さな規模で、日本のサブカル的文脈でガラパゴス的な形で発生しています。しかし西欧社会では大規模な移民コミュニティを背景に、非常に大きな規模で、この「組織なき動員」が生じています。そのため、問題の対処は緊急性を帯び、かつ困難を極めています。

日本でも、やがてこの問題にもっと正面から向き合わなければならなくなると思います。

火山の噴火による多くの方々の死傷、日本出身者のノーベル賞受賞、いずれも重大なニュースです。しかし日本が将来に直面する問題の先触れとして、今回の、多くの人にとっては奇異なことばかりに見える「イスラーム国・その他武装勢力への参加希望者出現」という話題は、もしかすると、より重要な意味を持っているのではないかと思います。


【本エントリが増補のうえ、中田考『イスラーム 生と死と聖戦』(集英社新書)に解説として収録されました】

【テレビ出演】ニュースウォッチ9で録画コメント放映(おそらく)

ノーベル物理学賞を日本人3人が受賞したというニュースで、ニュース7の録画コメントは飛んでしまいましたが、ニュースウォッチ9では使用されるという連絡が。

NHKニュースウォッチ9予告

まだ油断できません(笑)。

明らかに、ノーベル賞の方が重要なニュースとは思います。

しかし社会のフリンジで過激化する人たちのメカニズム(そこには研究者やメディアもかかわっている)は、今後より深刻な形で出てくるでしょう。そのための先触れとして、今回のかなり馬鹿げた事案もあったのではないでしょうか。

これから仮眠して、昨夜以来のメディア対応で遅れている論文・著書を進めます。一歩一歩進むしかありません。

【テレビ出演】本日NHKニュース7で日本人の過激派への参加の可能性について

本日午後7時からのNHKニュース7でコメントが放映される模様。

NHKニュース7放映予定

ニュースウォッチ9でももしかしたら使用されるかもしれませんが、まだ決まっていません。

テーマは「イスラーム国」への日本人戦闘員の参加の問題。

なお、コメントの収録は9月29日で、今回の事件発覚よりかなり以前に行われたものです。

もともとは、「日本人の戦闘員がいるのか、いたらどうなるのか」という「警鐘」を鳴らす類の、ニュース番組内での小特集の一環として、コメントを求められ、応じて収録しました。

このブログを読んでいる人であれば分かると思いますが、私は今の日本のメディア企業についてきびしい認識を持ち、厳しい姿勢で臨んでいますが(世界中の標準的な知識人であれば、現在の日本のメディアに対しては、期待を込めて、厳しく接することになると思います。莫大な制度・設備と視聴者・読者を持っていながら、業界・社内の縛りで沈下している・・・)、4月24日のクローズアップ現代「復活するアルカイダ」が、6月のモースル大攻勢でイスラーム国が注目を集める前に放映されていたように、お金と人を使って物事を先から取材・報道しておく姿勢があるところには、多少無理してでも協力する用意はあります。

収録後に御嶽山の噴火などもあり、特集自体が延期されたのか流れたのかという曖昧な状態のまま今日に至り、未遂と言えど「既発」の事件になってしまって、その報道に絡めて私のコメントが放映されることになった模様です。

ですので、本日のNHKのニュース報道は、速報だけでなく、これまでに準備してきたものも出してくるということですので、よそとは一味違う深いものになるか、期待して見てみましょう。

日本人が「イスラーム国」を含むシリアでの戦闘員になる、という問題について、日本人戦闘員志願者の事例が公然化した今と以前で、私の言うことは変わりませんし、そのまま背景説明になっていると思います。ですので以前に収録した映像から抜き出してニュースで使うことを許可しています。

私自身は、今回捜査の対象となっている学生その人と、「イスラーム国」との橋渡しをした可能性で聴取を受けている「元大学教授」の実際に行った行為について、確たる根拠のある論評をできる立場ではありませんので、今回の事件そのものについてのコメントは新たに収録していません(そんなこと私に聞いたら駄目でしょう)。その背景にある思想的・政治的問題についてお話しました。

【コメント】毎日新聞に「イスラーム国」参加未遂の日本人問題について

今朝の毎日新聞にコメントが掲載されています。

夜遅くの校了寸前に連絡があって、偶然、この問題についてニュースを読んで考えていたので、答えてしまいました。本当はすぐに出さねばならない原稿・書籍が複数積もっていて編集者が待っているのですが・・・

毎日新聞はイスラム国関連で頑張って取り組んでいると思うので、非常識な時間でしたが受けてしまいました。また、「自由な社会からの逃走」が先進国で一定数生じるという普遍的な問題として日本人の過激化の問題も捉えられるという視点が入ったので掲載を許可しました。こういう論点が当たり前に乗るのが本来の新聞だったはずですが。教養主義はかつてのファッションで、今は時代遅れなんですね。今こそこういった概念を用いて論じることが必要な段階に日本社会も入ったということでしょう。以前は自由すらなかったから「逃走」は単なるファッションだった。

「イスラム国:26歳北大生ら、参加を計画 識者の話」『毎日新聞』(2014年10月07日 東京朝刊)

 ◇不満持つ若者が傾倒−−中東に詳しい池内恵・東京大准教授
 イスラム教徒は自らの思想に肯定的な人物に対して同胞意識が強いため、日本の若くて体力のある人が希望すれば、イスラム国の即戦力として戦闘に加わることも可能ではないか。先進国では、自由な社会で明確な目的を与えられないことに不満を持つ一部の若者が、絶対の真理を教えると主張するイスラム教の強い思想にのみ込まれ、過激化する傾向がある。

日本人の「イスラーム国」参加未遂の報道に思う

「イスラーム国」の戦闘に参加を目指した日本人が摘発されたとのこと。

事実関係はほとんど伝わってきていません。どのような思想的背景があるのか、あるいはむしろ非常に軽率に参加しようとしたのか、事実関係が分からない限り、この事件そのものについては議論しようがありません。しかし、日本の社会の固有の文化的・宗教的・政治的な通念と、イスラーム教の政治・軍事理念とが触れると、社会の周縁部で非常に特異なタイプの過激派を生みかねないことは、一般的な危険性として存在し、今後も様々な事例が、日本社会の規模からは少数の末端の事象と言いうるものの、発生するでしょう。

今回、刑法93条の「私戦予備及び陰謀」という、聞き慣れない規定が適用されたことは重要です。

9月24日の国連安保理決議では、シリア・イラクに越境して戦闘に参加する者を阻止し、資金の流入を止めるための法整備を行うよう各国に求めています。しかし日本では新たに強制力のある対テロ法制を整備することはまず不可能でしょう。特定秘密保護法であんなとんでもないおどろおどろしいキャンペーンを新聞各紙が張ったのですから。

そこで、捜査当局は、既存の法体系の底から、戦後の日本でほとんど顧みられることのなかった、死文化していたものの国家の本質にかかわる重要な条文を持ち出してきた。これはかなり衝撃的な出来事です。

国家が独占するべき戦争と武装の権利を、個人・集団が勝手に保有して行使することは、近代国家においては許されないことです。しかし、国家が武力を保持し、戦争を行う権利を有するということそのものから国民集団が目を背けてきた日本では、「私戦」を禁ずるという刑法上の規定を、呑み込むことは大変でしょう。メディアはどう反応するのでしょうか。

そして、ここに宗教が絡んでいることも、日本の通り一遍の宗教認識では、理解が不能でしょう。宗教は平和の教えであり、軍事とは何の関係もない、政治とも関係ない──としばしば日本では教えられますが、日本の歴史を見ても、そして世界史と現代の国際政治を見ても、それは事実ではありません。宗教と軍事は人類史上、きわめて長い時間、多くの場所で、ぴったり結びついてきました。

このことを社会全体で認識することを避けてきたがゆえに、ごく少数ですが、宗教の絶対的な統治規範に関わる規定、あるいは軍や戦闘に関わる側面を教えられると、免疫がありませんから、まさに「天啓」を受けたような気になってしまう人々が出てきます。

社会の周辺にいて、「日本社会は間違っている」「世界はおかしい」と一方的に思いを募らせるタイプの人が、世界宗教が明確に「正しい戦争」「正しい軍事行動」「あるべき統治のあり方」を示してくれると、一気にかぶれてしまうのです。イスラーム教については、世間一般の関心は薄い代わりに、少数のそういった「絶対」を求める人々が集まってきます。

そのような事情は広く世間には知られていません。

前提として影響しているのは、日本では「イスラーム」は非常に肯定的なものとして、かつ日本の価値観と適合するものとして、専門家や大手メディアによって表象されてきたという事実です。有力な学者は(あるいは学者の世界で有力となるためには)、日本社会に行き渡る価値規範と親和的なものとしてのみ「イスラーム」を論じてきた。しかし実際には学者にはそれほど影響力はありません。むしろ、特定の、読者にとって心地いいタイプの「イスラーム」認識を、権威的な少数の学者の説を引用しながら報じてきた、大手メディアによる社会教育の効果は計り知れません。なんとなく、現代世界の抱える問題のすべてに「イスラーム」が解決策を持っているかのような幻想を、日本の知識人は持ちがちですし、それを大手の新聞などは引用します。

新聞や本を断片的に読んで信じてしまうような、真面目で単純な若者が、「イスラーム」がマジックのように現代社会の問題を解決するかのような幻想を抱いて接触を求め、「当たりどころ」が悪いと、ジハードによる武装闘争を通じた支配権力の獲得や、イスラーム教徒と異教徒の権利に明確に差をつけた統治制度など、それまで日本では知られていなかった側面に触れ、むしろそこに力強さ、正しさを感じてしまう。そういった経路が、日本に特有な過激化の進展過程として考えられます。

「正義の名の下での暴力や支配」という思想の「魔力」に感化されやすい若者は、どのようにして生まれるのでしょうか。

私は、例えば次のような社説によって、日々作られていっていると考えています。

「(社説)テロリスト 生まない土壌つくろう」『朝日新聞』2014年10月6日05時00分

どこがおかしいか数点指摘しておこう。全文に渡って全ての問題点を検討して指摘する時間はない。

まず、

「なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、「テロリストを生まない社会」を築く努力が必要である。」

というのが(なんだかここを読んだだけでもとてつもなくくだらないですが)、この社説の一番の論点であると思われます。タイトルにも取り入れられています。

しかしここで「それぞれの国内問題」とありますが、「どこの」国内問題なのでしょうか?

社説全体を見ると、これは「先進国」の国内問題であるようです。しかし書き手は自分が「先進国の問題」を取り上げていることを自覚していない。つまり対象となる問題を適切に分節化・規定できていない。そのことが結局議論を迷走させ、脱線させ、最終的に夜郎自大の「先進国」批判に行きつきます。

「「イスラム国」には、約80カ国から1万5千人以上が戦闘員として合流したとみられる。フランスや英国、ドイツなどからは数百人単位に達するという。」

と、対象となる問題を特定しています。

しかし、この数値だけでも変なところがあります。全体の数が「1万5千人」であるのに対して、フランス・英国・ドイツ(など)からは「数百人」であるので、そもそも全体の中での割合も、先進国からの総数も分からない、というどうしようもない数値で、こんな数値を並べるレポートが出てきたら不可でしょう。

実際には、この数値(をいくらなんでももっと厳密な数値に置き換えた上で、ですが)からは、「イスラーム国」に流入する外国人戦闘員の多数は西欧先進国からではない」ということを読み取らないといけないはずです。ヨルダン、チュニジア、サウジアラビア、モロッコなどアラブ諸国からが圧倒的多数。これにチェチェンなどイスラーム諸国からの戦闘員が多く加わっています。その次に、欧米先進国から、移民の子孫や改宗者が加わっている、という順序です。

そうであれば、まずはアラブ諸国やイスラーム諸国の「それぞれの国内問題」に原因を求めなければならないはずです。

ところがそうせずに、もっぱら「先進国」に矛先を向けてしまう。いつものよくあるパターンです。

しかし、もし「先進国に不満を抱く若者がいる」という問題認識が正しいとして、「それがイスラーム国に行ってテロを行う」ことにどうつながるのでしょうか。

百歩譲って、「フランス社会に不満を抱く若者がフランス社会にテロを行う」のであれば、その行為を許容はできませんが、いちおう当人たちの意識としての因果関係は認められると言えるかもしれません。しかし、「フランス社会に不満を抱く若者がシリアに行ってテロをやる」というのは、因果関係の繋がりが通常の意味では存在しない、かなり奇異な現象だと受け止めなければなりません。その上で、一見奇異に見える現象の中に、別のメカニズムを特定すれば理解できてくる、という議論でなければならないはずです。

そのメカニズムには宗教と軍事、宗教と政治の関係も必然的にかかわってきます。厄介な問題ですが、避けて通れません。

しかしこの社説には、現実を見てそういった最低限の疑問を抱いて考えた形跡がまるで見られません。

結局、批判しやすい、自由で先進的な社会に文句をつけて、カッコ良いことを言いたいだけなのではないかな、としか思えません。

この社説の問題は、大前提となる対象の認識があやふやなことです。

「それぞれの国のイスラム系移民社会の出身者や、キリスト教からの改宗者が目立つ。多くは、貧困や失業に直面し、差別や偏見を受けて、母国で疎外感を抱いた若者たちだ。」

この認識は妥当なのか。これはかなり疑わしい。

現地の情勢の分析なき決めつけ。情報や議論が古い。10年以上古い。

参考になるのは、次のような記事です。

「フランス:若い女性や中流・富裕層出身者がイスラム国参加」『毎日新聞』2014年09月18日19時30分(最終更新 09月18日 22時44分)

いくつか引用しましょう。

「イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」への欧米最大の戦闘員供給源となっているフランスでは、従来多かった家庭環境に恵まれない若者だけでなく、若い女性を含めた生活水準の比較的高い家庭出身者が戦闘地域に流入するケースも目立つ。」

「2月に「イスラム過激派参加防止センター」を創設し、フランス人の若者のイスラム過激派入りを防ぐ運動をするドゥニア・ブザル氏は、「父親なし、人生の羅針盤なし」という定着しつつある、イスラム過激派に転化する若者のイメージに疑問を投げかける。「以前は社会的、家庭的に恵まれない若者だった。今は、中流・富裕層の出身者が参加している。過激化する時間は以前より短くなり、信仰心の薄い若者を数週間で変えてしまう」と指摘する。」

先進国の問題としては、「別に経済的にも不自由ないのに「イスラーム国」に向かう人々が出てきている」ということが注目されているのです。

それに対して、チェチェンからの転戦組とか、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国からの流入者は、政治的な弾圧の影響もありますし、貧困が原因で「傭兵」的に集まってきた者たちもいるでしょう。こちらはこちらで問題です。

この二つを混同すると、「イスラーム国」への対処策は適切に立てられなくなります。

「イスラーム国」へ流入する戦闘員の問題は、最低限でも、(1)先進国から流入する目立つけれども全体の中での割合は少ない集団に特有の問題・背景と、(2)シリアとイラクの周辺のアラブ諸国やイスラーム諸国から流入する多数を占めるイスラーム教徒の抱える「それぞれの国内問題」に分けて、それぞれを議論しなければ意味がありません。あっちの国の貧困の問題を、こっちの国の暇を持て余した中間層の行動の原因として繋ぎ合わせることはできないのです。

朝日新聞の10月6日の社説は、先進国に特有の問題と、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国の抱える問題を混同しています。そしてその混同によって、ここでは先進国の問題を取り上げているにもかかわらず、「貧困が原因だ」という、どちらかというと近隣アラブ諸国やイスラーム諸国(の紛争・貧困国)からの戦闘員流入の背景にあるであろうと考えられる問題に責を帰する議論を行うことで、問題の所在や発生原因を混同し、現実認識を困難にしています。そもそも、より根本原因と考えられる、シリア・イラクそのものの国内問題にはじまり、大多数の戦闘員を送り出している周辺アラブ諸国やイスラーム諸国の国内問題を、等閑視しています。

そして、このような「とにかく欧米社会が悪い」と言ってしまって自足する議論の根底にある発想は、現地の事情をよく分かりもせず、関係もないのに、ただ戦闘に参加したいと言い出す若者の発想と、同根ではないかとすら思うのです。

テロをめぐる朝日新聞の論評は、「むしゃくしゃしてやった」といったどう考えても薄弱な動機で殺人を犯す人物が現れるたびに「むしゃくしゃさせた社会が悪い」と論評しているようなものです。「むしゃくしゃした」ことと「人を殺す」ことの間を何が繋いでいるのか?という謎に正面から向き合わないのであれば、こういった論評は、テロを容認する社会規範を事実上広めているとすら言い得るものです。

「ボーダーレスのいま、日本人が攻撃に遭う可能性もある。テロと向き合う国際論議に私たちも積極的に参加すべきだ。」という結びの言も、間が抜けています。「日本人が加害者になる可能性もある」という当たり前の現実に全く気づいていない様子で、無自覚です。遠くの「欧米」の「国内問題」と断定して安心して、よく知らないのにあげつらっているので、状況が違う日本でも出てきてしまう問題であることに気づいていないのです。

日本からイスラーム主義過激派に入るテロリストが出たら、やはり「日本社会の問題」として糾弾するのでしょうか。するかもしれませんが、するとしても、おそらく間違った方向でする、ということはこの社説の程度を見ても明らかでしょう。その意味で、日本社会の問題は根深い。

トルコのシリア北部に対する政策は1991年のイラク北部に対するものとそっくり

トルコ国会は10月2日(木)にシリアとイラクへ軍の越境攻撃を認める決議を採択した

これによってエルドアン大統領・ダウトウル首相の現政権はシリア・イラク情勢に軍事的に対処するためのフリーハンドを得たことになる。

米主導のイラクとシリアでの「対イスラーム国」への空爆にトルコが参加を渋ってきたことはすでに書いた。空爆に参加しないだけでなく、NATOに提供してきたインジルリク空軍基地の使用をこの件に関しては拒否した。

それではこの決議で、トルコの立場は変わったのだろうか?

おそらくそうではない。その後の閣僚の発言や軍の実際の動きを見ても、トルコの立場は変わっていない。

シリアとイラクへの軍事介入を一つの選択肢として承認したことは、自動的に米主導の軍事行動に参加することを意味しない。軍事行動はとるかもしれないが、手段も目標も米が湾岸産油国とヨルダンを従えて行なっている軍事行動とは異なるものとなるだろう。なぜならば、トルコが考える介入の目的と、アメリカの介入の目的が食い違っているからだ。

そのことはシリアのアサド政権も当然分かっていて、米が実際にシリアを空爆してもなんら阻止する手立てを講じておらず、事実上受け入れている(シリアの親分イランのローハーニー大統領がこれに苦言を呈していたりする)のに対して、トルコ国会が武力行使を承認しただけで強く反発している

先日書いたように、トルコはシリア領内での「安全地帯」設置を掲げている。今回の決議も、「安全地帯」構想を実現するための手段としての軍事行動を承認したものと考えていいだろう。「安全地帯」構想は、シリアの領土の実質上の分割と、北部がトルコの実質的な勢力圏に入ることを意味し、アサド政権の長期的な排除を意味する。

米国のシリアでの軍事行動の目的は「イスラーム国」の抑制と破壊のみである。それに対してトルコは国境を接し、国境を超えた住民のつながりや経済圏を有するがゆえに、シリアをめぐる国益はもっと複雑であり、単に「テロリストを空爆する」というだけの政策では受け入れられない。「イスラーム国」が手が付けられないほどに伸長するのは困るが、イスラーム国だけを攻撃しても問題は解決しないとする立場だ。

トルコとしては、アサド政権が統治できなくなったシリア北部でクルド人武装勢力が伸長し、トルコ領内のクルド人の反政府武装勢力PKKと一体化することを恐れている。押し寄せてくる難民は経済的・社会的負担を招くだけでなく、武装勢力・不安分子の侵入をもたらしかねない。クルド人難民がシリアに戻って「イスラーム国」やアサド政権と戦うならともかく、トルコのクルド武装勢力に合流してトルコ政府と戦いかねないのである。「イスラーム国」に対抗する地上部隊勢力を育成するという形で、欧米やイランがシリアのクルド人武装勢力に武器を提供する動きに、トルコは神経をとがらせている。シリア北部のクルド人勢力の中で台頭している武装勢力YPG(人民保護部隊)はPKKとの関係がささやかれる。「イスラーム国」対策に供給した武器は、その武器はやがてトルコに向けられかねない。

また、YPGはアサド政権と決別したわけではない。アサド政権が存続すれば、政権の手先としてトルコ側にクルド独立闘争を仕掛けてきかねない。イランの属国となったシリア・アサド政権がクルド人勢力を手先にして国境越しに攪乱工作を仕掛けてくる、というのはトルコにとって耐えがたい。

こういった複雑な事情を抱えているトルコにとって、「テロの脅威がある」といって「イスラーム国」だけ破壊して米国が去れば、極端な話、トルコ・シリア国境がアフガニスタン・パキスタン国境のようになりかねない。

トルコにとっては、欧米が主導してシリア北部に安全地帯を設定し、実際に空軍力でそれを実施するのであれば、トルコも重要な役割を担い、それによって勢力拡大という利益を得たい、というのが原則的な立場だと思われる。

もちろん「同盟国ではないのか」「イスラーム国の伸長を黙認してきたのではないか」という米側からの批判の声が高まるのは避けたいので、若干米の意に沿う形での介入を行うかのような印象を醸し出している様子がないわけではない。決議に際しては、対「イスラーム国」であることを協調しているものの、実態は異なるだろう。

野党のCHP(共和人民党)は、武力行使承認決議は対「イスラーム国」ではなく、対アサド政権だ、と批判しているが、実態としてはそのような側面を含むだろう。

エルドアン政権は軍事行動の選択肢にフリーハンドを得たうえで、「安全地帯」構想を受け入れるよう米に求めて、交渉が続いている模様だ。
“Turkey to sit down at negotiation table with US after mandate vote,” Hurriyet Daily News, Oct. 3, 2014.

アメリカはこれをすぐには受け入れないだろうが、欧米諸国による空爆だけでは「イスラーム国」の攻勢を止められないことが分かってくれば、選択肢の一つに浮上してくるだろう。

これには前例がある。1991年の湾岸戦争の際にも、イラク北部で、現在のシリア北部のように、クルド人難民がトルコ国境に大量に押し寄せる事態が生じた。それに対して当時のオザル大統領は、国境を封鎖し、軍事力でイラク軍とクルド部隊の双方のトルコ側への伸長を阻止したうえで、欧米と協調して、「飛行禁止空域」をイラク北部に設けさせ、現在のクルド自治区(クルド地域政府)の成立の発端を作った。空軍基地の提供などで湾岸戦争の遂行に不可欠の役割を果たす見返りに、国内へのクルド問題の飛び火を阻止するスキームを欧米に受け入れさせ、トルコの勢力圏をイラク内に延伸したと言えよう。トルコの軍事力と地の利を提供して欧米の力と正統性を引き込んで、イラク側にクルド問題を封じ込め、トルコの経済圏として影響下に置いたのである。

上にリンクで示した二つの記事を読んでいると、1991年の話が今の話とほとんど変わりなく感じられる。クルド難民が大量に押し寄せ、トルコが国境地帯に封じ込めようと躍起になっているところとか、状況もそっくり。

おそらく当時のオザル大統領がイラク北部に関してやったことと同様のことを、エルドアン政権はシリア北部について試みようとしているのではないかと思われる。

アサド政権の排除か、それが実現しない間は「安全地帯」のシリア北部への設定が必要、という解決案を示すトルコと、シリア問題への解決案は出さずに、「イスラーム国」のみを対象にした「外科手術」的な介入を行ないたい欧米諸国との立場の隔たりは大きい。

そのため、トルコは当面は「安全地帯」構想を掲げて交渉しつつ、「イスラーム国」とYPGらクルド人武装勢力の「相討ち」による双方の消耗を図る期間が長く続きかねない。必要に応じて、今回の決議で得た越境しての軍事介入の選択肢を限定的に行使しつつ、長期戦で臨むだろう。

これに対してはトルコのクルド武装勢力PKKが反発している。PKKの指導者でトルコの獄中にあるアブドッラー・オジャラン氏は10月1日、シリア北部の国境地帯コバーニーで「イスラーム国」と激しい戦闘を繰り広げているYPGが殲滅させられるようなことがあれば、PKKとトルコ政府との間で進んできた和平プロセスを打ち切ると宣言している。

トルコ(エルドアン政権)・シリア(アサド政権)・クルド武装勢力(PKK/YPG)の3者がトルコ・シリア国境でせめぎ合う中に「イスラーム国」が泳がされている状態だ。

「イスラーム国」の黒旗の由来

イスラーム世界の価値規範と、われわれの世界の価値観で、食い違うところは随所にあります。

もちろん、イスラーム世界一般とは必ずしも常にくくることができず、穏健な一般市民と、過激派の間で同じものを見てもまったく異なる印象を持つ場合はありますが、今回はイスラーム世界一般に、価値規範上、正統とされ高い価値を置かれているシンボルが、事情を知らない日本の一般市民には単に否定的な、邪悪な印象を与えてしまう事例を取り上げてみよう。

この旗を見てください。国際ニュースに注目していた人たちには、すでに見慣れているものと思います。

黒旗_イスラーム国

「イスラーム国」が掲げる旗ですね。この下や上に、「カリフ制イスラーム国」とか、少し前に作ったものでは「イラクとシャームのイスラーム国」と書いてあるものもありますが、基本はこのモチーフです。上の行に白抜きで「アッラー以外に神はなし」と書かれており、その下の白い円の中に黒字で「ムハンマドはアッラーの使徒なり」と書いてあります。正確には、

アッラーの
使徒なり
ムハンマドは

というように、アラビア語で下から上に読むと意味が通るような順序で書いてあります。後で書きますが、これには理由があります。

この黒旗は、「イスラーム国」の専売特許なのかというと、そうではありません。

例えば、ソマリアで勢力を持っているイスラーム過激派の「アッシャバーブ(al-Shabaab)」も、2006年ごろから、つまりほぼ「イスラーム国」の前身となる「イラクのイスラーム国」と同時期に、この旗を使うようになっているのが確認されています。

例えばこんな写真があります。

ソマリアのシャバーブの黒旗
出典:Harakat al-Shabab & Somalia’s Clans

大勢の女子生徒の誘拐で有名になった、ナイジェリア北部のボコ・ハラムが公表した映像ですが、

ボコ・ハラムの少女誘拐声明ビデオと黒旗

左後ろを見ると、やはりこの旗が映りこんでいますね。アラビア語が何だか「金釘流」に見えますが・・・

ソマリアのシャバーブの黒旗abc news
出典:abc news

イエメンに拠点を置いている「アラビア半島のアル=カーイダ」も同じ図柄の旗を用いています。

黒旗イエメンのアルカイダ
出典:The Guardian

「そうか、じゃあ黒旗は過激派の旗なんだ」と思った方は、早とちりです。

“Islamic State flag burning ignites controversy in Lebanon,” al-Monitor, September 29, 2014.

この記事にあるように、うっかりと(おそらくは異教徒が)この黒旗を焼いたりなどして、「イスラーム国」への反対を表明しようとすれば、多数のムスリムから強い反発を受け、暴動が起きかねません。

レバノンの法務大臣も、非難声明を出し、裁きを受けることになる、と警告しています。「イスラーム国」に対してではなく、「イスラーム国」の黒旗を焼く運動に対してです。

“Lebanese minister calls for ISIS flag burners to face trial,” Asharq Al-Awsat, 31 August, 2014.

先代のローマ法王が「イスラーム教がジハードの武力の下で拡大した」と発言したら世界中で暴動が起き、少なからぬ人命が失われましたが、同様の事象すら生じかねないものです。

われわれが「黒旗」に持つイメージと、イスラーム世界の宗教的な伝統・価値規範に根差した黒旗へのイメージは全く異なります。

われわれの「黒旗」へのイメージは、おそらく「海賊旗」に代表されるものでしょう。

海賊旗
海賊旗

こんなのもありましたね。

海賊旗(One Piece)
麦わら海賊団(ONE PIECE)

シリアの戦況を示す地図などを情勢分析のために見ますが、各陣営の配置を旗で示している地図がよく出回ります。シリア政府の旗、シリア反政府勢力(自由シリア軍)の旗がいずれも「三色旗」系統の、近代の民族主義・革命にまつわる配色なのに対して、イスラーム主義系統の諸勢力の旗の国旗は目立ちますし、われわれの抱く認識枠組みでは、「海賊」が迫ってきているかのような不穏な印象を与えます。時代劇でもゲームでも、黒旗はたいてい悪者を意味します。

しかしイスラーム教の文脈では、黒旗は、ムハンマドが戦闘で掲げていたものとされ、極めて肯定的な意味を持ちます。

そしてその黒旗に「アッラー以外に神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒なり」という信仰告白の文言が染め抜かれた、「イスラーム国」らの黒旗は、宗教的に侵すべからざるものとして、政治的な立場に関わらず、多くのイスラーム教徒に受け止められます。ごくごく一部、西欧諸国などで、移民が受け入れ社会の価値観に順応していることを示すために、無理をしてこの旗をからかったり、稀には破いて見せりしますが、むしろその周りで多くのイスラーム教徒を疎外し、憤らせ、かえってテロに向かわせているかもしれません。

これは非常に厄介な問題です。こうすればいい、という解決策はありません。「ある」と言い放っている人たちは、むしろかえって問題をこじらせる側の一部ではないかと思います。たとえ善意や思い込みであっても。

イラクとシリアでの「イスラーム国」の主体や、その制圧した領域の統治のあり方を伝えてくれる写真・映像は、彼ら自身が出してくる宣伝映像を除けば、きわめて限られています。

非常に多く用いられるのが、これでしょう。

黒旗_イスラーム国のラッカ
出典:Reuters/msn news

黒旗を掲げるだけでなく、おどろおどろしい目出し帽をかぶっている、ということで、われわれの目には非常に不気味に恐ろしく感じますね。

しかし次の写真はどうでしょうか。これもまた、欧米の主要メディアでよく用いられている写真です。

黒旗ラッカの若者戦車の上
出典:Reuters/msn news

スポーツ選手が勝利の喜びを表現しているような、爽やかないい顔をしている、とつい思ってしまった人もいるのではないでしょうか。欧米のメディアでは、特に記事の内容が肯定的・否定的であるのには関係なく、これとそれに類似した写真が使われます。単純に「欧米のメディアはイスラーム国を一方的に敵視してイメージ操作をしている」などと、一部の日本の「ものの分かった」風の人が言っているようなことは当たらないことが分かるはずです。

こんな写真もあります。頭の軽そうなお兄ちゃんたちが黒旗を振って走り回っていますね。サッカーのどこかのチームのサポーターかフーリガンでもあるかのようです。

黒旗ラッカのバイク若者
出典:Reuters/msn news

これらの写真はいずれも今年6月のラッカで撮られたとみられるものです。

「イスラーム国」は6月にイラク北部で急激に支配地域を拡大し、同時にシリア東部ラッカでの支配を固めた。このころラッカで「イスラーム国」の戦闘員たちの写真が多く撮影され、ロイターなど国際メディアに渡りました。その後外部からのアクセスが困難になり、住民の行動が制約されたとみられることから、あまり情報が出てきていません。

6月には「イスラーム国」はラッカで戦利品の戦車やミサイルなどを引き出して堂々とパレードをやっていました。シリアのアサド政権もまったくこれに手を付けずに放置していたのです。

黒旗ラッカのパレード
出典:Reuters/msn news

黒旗ラッカ6月戦車と若者
出典:Reuters/msn news

先ほど掲げた「いい顔」してる若者の写真もこういった場面で撮影されたようです。

黒旗を原型にした、県のマークなども作られて、中心広場に塗られました。

黒旗ラッカの広場
出典:Reuters/msn news

黒旗ラッカの県庁
出典:Reuters/msn news

黒旗というのは、もともとムハンマドが戦闘で掲げていたとされることから正統性があり、イスラーム史上の歴代の政権が用いてきました。

また、終末論的にも黒旗は象徴です。世界の終わりが近づくと、東の方角、ホラサーン地方から黒旗を掲げたマフディー(救世主)の軍勢が現れて現世の邪悪な勢力を打倒す、という趣旨のムハンマドのものとされるハディース(発言の伝承)が広く知られています。そこからも現在のジハード主義者たちが、自らが「世直し」の運動であるという自覚と主張を強めるために黒旗を用いるのでしょう。なかなか抵抗しがたい、またイスラーム教徒を引きつけ易いシンボルなのです。

そして、白地の円の中に黒字で「ムハンマドはアッラーの使徒なり」と、下から上に書いてある特徴的なロゴにも、宗教的な意味があります。

ムハンマドは読み書きができなかった、ということはイスラーム教徒の側が誇らしげに語るところです。文字すら解さなかったムハンマドだからこそ、その口から伝えられた啓示は神の言葉であるに違いないと「論証」するのです。

イスラーム教団が強大化し支配地域を広げると、ムハンマドは教祖であるだけでなく政治指導者となり、軍事司令官となりました。家臣に命令を出したり、外国の君主に宣教・宣戦布告の書を送りつけたりする機会が出てくる。そのようなとき、側近が文章を書き、ムハンマドはそれに印章を押しました。

そのいくつかが現存しています(と信じられています)。

例えばこれ。エジプトのムカウキスという統治者あるいは知事に宛てて送ったとされる親書です。

ムハンマドのムカウキスへの親書
出典:Wikipedia

右下に丸い印章が押されているのが見えますね。この印影を図案化したものは広く出回っています。「イスラーム国」をはじめとして、黒旗を振る人たちは、このモチーフを使って、自らの軍勢を「官軍」と主張しているのです。これはシンボル操作としてかなり効果的です。少なくともこの旗そのものにイスラーム教徒であれば誰も正面から異を唱えられないからです。この旗を冒涜したと非難されるような言動をなせば、厳しい社会的制裁を覚悟しなければならない。

単にこの図案がカッコいいから用いたのか、というとそうでもなくて、深い意味があります。

この印章が押された現存するムハンマドの親書には、いずれも周辺諸国の君主・統治者に、イスラーム教に改宗してムハンマドの支配する国家の元に下れ、と呼びかけたものです。コーランの第3章64節を引用するのが通例です。コーラン第3章64節のうちこの部分です。

言ってやるがいい。「啓典の民よ,わたしたちとあなたがたとの間の共通のことば(の下)に来なさい。わたしたちはアッラーにだけ仕え,何ものをもかれに列しない。またわたしたちはアッラーを差し置いて,外のものを主として崇ない。」
日本ムスリム協会ホームページ

ムハンマド自身が、周辺の諸国の統治者に向けて宣教を行ない、その後従わない者たちを討伐していった。その事績を想いおこし、自らを奮い立たせ、人々を従わせるか少なくとも恐れさせる。そのような心理的効果をムハンマドの印章は持ちます。

日本で言えば「水戸黄門の印籠」のようなものです(ちょっと軽すぎますが)。

円の中に、なぜ

アッラーの
使徒なり
ムハンマドは

という順で書かれているかというと、歴史上残っているムハンマドの印章でそのような順で記されているので、そのまま用いているのです。ムハンマドの事跡は絶対的に正しいとされるのですから。

ムハンマドの印章指輪2
このような

ムハンマドの印章指輪1
指輪にして

ムハンマドの印章指輪3
封蝋を押していたとされます。

エジプトでも、ムバーラク政権崩壊後に、タハリール広場に黒旗を掲げた集団が現れたことがあります。

エジプトタハリール広場の黒旗
出典:MEMRI

「アラブの春」後に活動を活発化させた「アンサール・シャリーア(啓示法の護持者たち)」を名乗る各国の集団は盛んに黒旗を用いるようになっています。ムハンマドの印章のモチーフが入っているものを用いる場合と、そうでない場合がありますが、その違いが思想の違いに由来するのか、あまり関係ない単なるデザインなのか、私はまだ判定できていません。

なお、「アンサール(護持者)」とは、ムハンマドがメッカから一度「ヒジュラ(聖遷)」してメディナに移った際に、ムハンマドらを受け入れて助けた「護持者」たちのことを言います。

これらの集団のアル=カーイダの中枢組織あるいは各地のアル=カーイダや「イスラーム国」との関係はまちまちで、共鳴して傘下に入ると申し出る場合もあれば、そうでない場合もあります。これらのシンボルはアル=カーイダや「イスラーム国」の専有物ではないので、勝手に用いても誰も文句を言わないのです。

リビアでは現在激しい戦闘が続き、「アンサール・シャリーア」がベンガジを制圧して「イスラームのアミール国」を宣言してします。イエメンにもアンサール・シャリーアを名乗る集団は出てきています。

ここはチュニジアのアンサール・シャリーアの写真を見てみましょう。

チュニジアのアンサール・シャリーアと黒旗
出典:Magharebia

なお、ムハンマドは白旗も用いていたという伝承もあるので、同じ図柄で白黒を反転させて白旗を掲げていることもあります。例えばこれ(チュニジアのアンサール・シャリーアの記者会見)。黒旗はal-Uqabやal-Ra’yaと呼ばれ、それとは別にal-Liwa’と呼ばれる軍旗(隊ごとに掲げる旗)の白旗があるという具合に、用語を使い分ける傾向があるようですが、素材や使い方などの詳細は私にはよく分かりません。
チュニジアのアンサール・シャリーアの黒旗・白旗
出典:Nawaat

ムハンマドの印章が入っていない、黒地に白で信仰告白「アッラー以外に神はなし。ムハンマドはアッラーの使徒なり」のみを記した旗であれば、もっと前から、諸勢力によって90年代にはすでに広く使われていました。

有名なのはこの場面。

ビン・ラーディンと黒旗

この有名な写真は、1998年の会見の際に撮影されたとみられ、パキスタン人ジャーナリストが撮影したものであるようです

引いてみるとこんな感じ。

黒旗ビンラーディンとザワーヒリー1998年

黒地に文字だけのこのヴァージョンは、もっと広範に広がっています。図柄とその意味は歴史や宗教テキストに由来すると言えども、近年にその政治的意味を定め、多くの組織が用いるようになった転換点は、いつ頃、誰によってもたらされたのか。そこにムハンマドの印章を加えて今の大流行の図柄に仕上げたのは誰なのか。

もう少し調べてみたいと思っています。

【断然】ちくま新書の一冊を選ぶなら『もてない男』だ~忙中閑あり~

一本原稿が終わったので、次の仕事に出かける前の一瞬の間にエントリを一本載せるか。

「ちくま新書の創刊20周年記念「私が選ぶ一冊」 ちくま新書ブックガイド」に短文を寄せました。(この頃に書いていた

無料のパンフレットです。大きな書店に行くと置いてあるかもしれない。9月に出ているからもうなくなっている可能性もあるが、しかしいろいろイベントとかやっているからまだあるだろ。

編集部のアンケートに答えて、いろんな人が【例1】【例2】、自分にとっての「ちくま新書の一冊」を挙げるという企画。

私が選んだのは──

小谷野敦『もてない男』(1999年)

でした──


Kindle版も出てるらしい。

「一冊選ぶ」というのはけっこう難しい。絶対評価でどの本が一位なんてことはあり得ないのだから、基準を設定して、それに照らしてこれが良い、と書いていくのが筋だろう。評者のそれぞれの基準のセンスと審美眼が問われる・・・という訳でこういうアンケートはけっこう鬼門なのです。無視してしまうのが一番かも。そうはせずに編集部の挑戦に答えた116人がそれぞれの理由で「一冊」を挙げている。パラパラめくっているとなかなか面白い。

私は五十音順で父と叔父に挟まれておりまして、手堅い地味な研究者らしく、一冊選ぶ際の基準と定義から入っている。

「新書の利点は、①学識深い研究者による入門、②新進の学者が新説・問題作をあえて世に問う、のどちらかである場合に、もっとも生かされると思う」

という基準を私が勝手に置いて、その基準からすると、①と②を両方備えた本として、『もてない男』が最適なんじゃないの?

一般論として新書はこういうもの、といった具合のことを書いていますが、含意は「ちくま新書」はこういう方面に利点があって、それがもっとも生かされている本はどれかな?と議論しているわけでがあります。「新書の一冊」ではなく「ちくま新書の一冊」なのだからね。そういう意味でちくま新書らしい「一冊」はこれだよね、というところに話が合う編集者とは仕事がしやすい。

もっと簡単に、まったく唐突に「ちくま新書で一冊だけ思い出すタイトルは?」と聞かれたらどの本を思い浮かべるか?

多くのおじさん本読みにとってはこれじゃないのか。意外に他の人が挙げていないな。正直に答えなさい。

さらに実は「一冊」というのも有意な指標でもある。これが「10冊」だったらどうか。そこには学術的な意義や完成度の相対評価とか、あるいはすごく売れて影響力があるといった数値的な要素も、そしてどの分野に何冊を振り分けるかといったバランス感覚、政治的判断も加味されてくるだろう。

場合によっては、「一冊」なら選ぶ本を、「10冊」なら選ばないかもしれない。いえいえその小谷野先生の本はベスト10でももちろん入れますよお願いしますよどうかひとつよろしくそれは。

~アンケートに答えて図書カード3000円貰いました~

『週刊エコノミスト』の読書日記は、いったい何のために書いているのか、について

『週刊エコノミスト』に連載の読書日記、第5回が発売になりました。

池内恵「帰省して「封建遺制」を超えた祖父の書棚へ」『週刊エコノミスト』10月7日号(9月29日発売)、67頁

エコノミスト2014年10月7日号

今回はちょっと私的なことを書いてみました。紀行文風ですが、実際には今後ゆっくり書いていきたいことの種を方々に仕込んであります。かつての日本の学問と「養子」という制度の関係とか、明示的ではないのだけれども、私的なところを出発点に、地下茎のように伸ばしていきたいテーマがあります。直接的には9月の連休に、祖母のいる金沢に久しぶりに帰った際に見たものや読んだものを扱っているのですが、本当はいくつかの発展させたいテーマについての布石です。

『週刊エコノミスト』の「読書日記」欄は、連載と言っても5人の執筆者が順に担当するので、5号に1回廻ってくる私の回を続き物として認識している人は、このブログを丹念に読んでくれている人だけだろう。

5回目になって、どうやら節目のようなので、この連載(私の回だけの「続き物」としての)で何をやろうとしているのか、改めて書いてみよう。

本人の意識としては、壮大なパズルの小さな小さなピースを一個ずつ、各所に置き始めた段階なので、自分以外には全体像は見えないと思う。

まずこれまでの連載を列挙して振り返ってみたい。ブログで毎回告知してきたので、エントリへのリンクを付しておこう。

(-1)読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)

4月1日に、今年度の決意のような形で、この連載の趣旨を書いておいた。多くはここですでに書いてある。連載が始まる前に、カウントダウンのように2回予告のエントリがある。

4月1日のエントリでは、書評(あるいは読書日記)という、日本の新聞・雑誌に確立した様式・制度から、非常に逸脱したものを意図していることを記してある。

以下要点を《 》内に再録してみよう。

まず、「書評はもうやりたくない」と書いてある。

《『書物の運命』に収録した一連の書評を書いた後は、書評からは基本的には遠ざかっていた。たまに単発で書評の依頼が来て書くこともあったけれども、積極的にはやる気が起きず、お断りすることもあった。たしか書評の連載のご依頼を熱心にいただいたこともあったと思うが、丁寧に、強くお断りした。》

その理由はいろいろ書いておいたが、一番の理由はこれ。

《新書レーベルが乱立して内容の薄い本が乱造され、「本はタイトルが9割」と言わんばかりの編集がまかりとおる出版界の、新刊本の売れ行きを助けるための新聞・雑誌書評というシステムの片棒を担ぐのは労力の無駄と感じることも多かった。なので、書評は基本的にやらない、という姿勢できた。》

それでは何故今回やる気になったかというと、次のような条件を出してもなお編集部が呑んでくれたからです。

《「新刊本を取り上げるとは限らない。その時々の状況の中で読む意義が出てきた過去の本を取り上げることも読書日記の主要な課題とする。さらに、読書日記であるからには、外国語のものや、インターネット上で無料で読めるシンクタンクのレポートやブログのような媒体の方を実際には多く読んでいるのだから、それらも含めて書く。その上でなお読む価値のあるものが、日本語の、書店で売られている、あるいはインターネット書店で買うことができる書物の中にあるかどうか検討して、あれば取り上げる」。》

これは、日本の出版慣行・制度から見ると、とんでもないことを言っています。

まず「新刊を取り上げる義務はない」。

これは出版業界では、不穏・不遜な発言です。

新聞・雑誌など商業出版での書評という制度は、基本的に「新刊」を取り上げることに、経済的な意義があります。書評で取り上げられた本を取次が積極的に本屋に卸し、本屋は良い場所に並べる。そうすると売れる。自治体の図書館も、購入する際に書評を参考にする。

新刊でないものを取り上げると、在庫がなかったり、取り寄せるのに時間がかかったりして、本屋で目立つところに置かれるまでにタイムラグが出るので、あまり効果がない。

書評欄がある新聞・雑誌には、出版社は新刊を無料で送ってきたりして便宜を図る。書評欄が充実している新聞・雑誌には出版社は本の広告も出す。そうやって新聞・雑誌と出版社の間の持ちつ持たれつの関係ができ、取次や本屋や自治体図書館を含めた商売のサイクルができる。

書評の書き手とは、そういう商売のサイクルの一端を担っているのです。純然たる商行為の歯車である、というところは否めません。

その立場を拒否する「新刊は取り上げないかもよ」という条件は、「じゃ連載は止めてください」と言われても仕方がないものです。

逆に私から言えば、現在の新聞・雑誌の媒体で、報酬面なども含めて、従来型の制度の末端の「歯車」としての書評の書き手になるインセンティブがあるかというと、全然ありません。

ですので、まず「新刊本でなくてもいい」という条件は、譲れないものです。なんでたいしたことがない本を苦労して紹介しなければならないのか。その時間があれば他のことに頭を絞れます。

しかしそれだけにとどまらず、上記の引用を見ていただきたいのですが、私は「日本語の本でなくてもいい」という条件を付けています。

これは日本の出版業界では、もはや宇宙人のような発言です。

出版の技術として多言語対応が困難であるだけでなく、言語の壁は、日本の新聞・雑誌・出版の世界を守る非関税障壁のようなものです。

しかし英語での世界の議論がまるで存在しないかのようにふるまえる日本の言論空間・知的社会教育の行き詰まりと限界は、言語で守られたメディア・出版業界が固定化してきたものでもあり、書評欄という制度もそれを支える一つの部分でありました。その意味で、日本の言論をましなものにするには、多言語空間へのインターフェースを作る必要があります。別に日本人同士が英語でやり取りしなくていいですが、英語圏で先進的な知見については、タイムラグなく同期していける仕組みが必要です。

しかし読書日記で、あるテーマを取り上げ、「これについては日本語では読むべき本がないので、英語で最新の○○、シンクタンクの報告書××を紹介します」と書いた場合、英語の本はすぐに読みたければアマゾンで注文するでしょう。いっそアマゾンの電子書籍を買ってダウンロードしてしまうかもしれません。英語圏のシンクタンクの報告書はほぼタダでダウンロードできます。

そうなると、この書評によって、日本の出版社にも、取次にも、本屋にも(あと著者にも)、一円もお金が落ちません。税金すらおそらくほとんど日本政府に入らないでしょう。

そうなると、日本の国民経済を死守する立場からは、そのような書評は、おおげさに言うと、「非国民」扱いをされかねないものです。

しかし、国民の知的水準の向上という意味では、この書評には公益性があります。日本の非関税・言語障壁で遮られた空間で、一流でない知的産物を国民が売りつけられて消費している場合と、最先端のものを外国語であれ苦心して求めて摂取している場合とで、どちらの国民が文化的に進んでいるでしょうか。後者でしょう。

出版やメディアが「単なる商売ではない=何らかの公益性がある」とみなすならば、必要なときは後者の経路を可能にする、積極的に支えるものでなければなりません。それを排除するカルテルを結んだりするのであれば、その業界は公益性のない、単なる私益・利権集団ということになります。そういうものがあってもかまいませんが、税制優遇とか、規制による保護とか、かつて行われた政府資産の優先的払下げ割り当てとか、再考しないといけない面が出てくるでしょうね(ギラリ)。

英語の本を紹介しても日本の企業に一円もお金が落ちない、という状況は、そもそも洋書を取り扱う日本の書店が長くカルテルを結び、もっぱらの書い手であった大学に対して法外なレート換算で売りつけ、それを買わざるを得ないようにする役所の書類制度に守られてきたからです。そこに安住している間にアマゾン黒船がやってきて、個人で洋書を買いたい人向けに便利で安価なシステムを提供し、新たな市場を開拓したうえで独占してしまいました。誰が悪いかというと、まあ税金払わないようなシステムを作るアマゾンも悪いですが、カルテルを結んで役所と結託していた洋書屋さん業界がより悪いのです。品揃えも悪く持ってくるのも遅く高い、というどうしようもないものだったのですから。

ですので、そういった業界のしがらみは気にせず、外国語の本もこの読書案内では紹介する。本屋さんは洋書の読書案内を見て洋書コーナーを充実させればいいじゃないですか。それをせずに、「日本語の本を紹介しないこのコーナーは駄目だ」と出版社・本屋が言って、編集部が「そうでございます。これからは日本語の本を書評させますからどうかひとつその」とか言って何か言ってくるようになったら、私としては執筆する意味はなくなります。

もちろん本当は日本語の本を紹介したいんですよ。でも、あるテーマについて、今最も適切な本を示す、という最低の基準は維持しなければならない。単に日本語の市場に出ているから宣伝します、ということをやらないといけないのであれば、あのそれは非常に純然たる商行為ですから、現在の日本の原稿料相場では私は書けませんよ。絶対やらない、とは言わないが「要相談」という別の話になってしまう(=やりませんよ)。

(0)『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)

さて、このようにすでに本質的なところは書いてしまっていたのだが、連載第1回の前にもう一度告知した。私の初回の発売日が1週違っていたから。原稿の締め切りからタイムラグがあるんですな。それがウェブ媒体に慣れた現在ではもう想像できなくなっている。報道記事はぎりぎりまで締め切りを延ばすのだろうけど、連載の文化欄は早めに原稿を取っておくというのが新聞・雑誌業界の慣行。でも私の場合は書評でも時事問題を絡めたりするので、あんまりタイムラグがあると書きにくいという問題はある。まあなんとかなるが。

このように現存の制度の「悪いところ」をいろいろ書いてしまいましたが、わざわざ時間と労力を使って読書日記の企画に踏み出そうとするのですから、もっと肯定的な目標があるのです。英語圏の議論やウェブのコンテンツにも視野を広げた読書日記の新企画を、あえて日本語の経済週刊誌の紙の媒体でやるというのも、考えがあってのことです。

まず、文章技術としては、制約がある方が面白い。

従来型の新聞・雑誌の書評・読書日記を、日本語の新刊本についてやるだけなら、流れ作業のようなものです。そこではもう能力の発達は望めない。面白い本に巡り合うよりも、無理に推薦する労働の苦痛ばかりが降ってくるでしょう。

また、逆に、ウェブで書くなら、多言語だろうがリンクだろうが自由自在に貼れます。好きな本も選べます。しかしウェブの媒体であれば読んでくれる人は、すでに「こちら側」にいる人です。リンクを踏んで英語や、やむを得ない場合はアラビア語などに飛んで行かされても苦にしない人が読んでいるのです。

それに対して、紙の媒体をなおも手にしてくれる人は、ある意味得難く、貴重です。ウェブや英語にはなかなか行かないけれども、紙の本には自然にすぐに目を移してくれる人たちなのです。そうであれば、必然的な制約があっても、紙の媒体で英語にもウェブにも架橋する場所をもし作れれば、そういった読者がさらに知見を積んで、より高度な内容を本に求めるようになるかもしれない。そうなって初めて、書き手として、あるいは読み手・買い手として、より心地よい空間が生まれてくるかもしれない。

誇大妄想気味にこのような課題を設定して、連載に向かいました。

(1)読書日記1「本屋本」を読んでみる『エコノミスト』5月6・13日合併号

さて、前置きが長くてやっとたどり着いた連載第1回ですが、ここでは本屋賛歌。

モノとしての本と本屋に、どのような利点があるのか。これについて数多の「本屋本」からセレクトして、

福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書)
内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)

を選びました。

いずれも、紙の本と本屋を絶対視していない。ウェブに面白いものはいくらでも転がっており、本屋でも新刊本屋と古本屋の両方の選択肢があり、図書館と言う選択肢もあり、という前提の上で、あえてなお紙の本と本屋にはどんな意義があるのか、積極的に問い直してみる。前向きの本です。

(2)週刊エコノミストの読書日記(第2回)~新書を考える

しかし第2回は暗転。実際にそこいらの本屋に行ってみると、読みたい本にたどり着けない。ジャンクフードのような刹那的な本が溢れている。だから、この回は良い本を推薦するという形式ではない。ジャンクフードのジャンクフードたるゆえんはどのような本に現われているか。

だいたい日本の書評の慣行は、批判してはいけないというものです。新聞の書評などでは、特にその縛りがあります。なぜって、すでに書きましたが、商売の歯車だからです。良いものを売れるように一肌脱ぐのは大歓迎ですが、良くないものまでなんで宣伝しないといけないのか、さっぱり分からない。いえ、ぶっちゃけた話、「新聞に書評書いてると、知名度上がりますよ、本も送ってくるようになりますよ」というのが誰も言わないけど過酷な労働条件を呑ませるために提示された給付の暗黙のリストの中に入っているのですが、実態としてこの効果はもはや疑わしい。ちゃんとした文章ならブログで書いている方が効果はあるんじゃないかな。誰を相手に書くかにもよるけど。

まあしかしジャンクフード紹介、では読書日記欄がすさむので、ちょうどその時、別件で頼まれていた、ちくま新書のリストを全部見て1冊お気に入りを紹介という仕事を流用して、リストを見たら載っているこんなにいい本、という趣旨で新書の良書を列挙しておいた。これについてはまた別のところで書こう。

(3)読書日記の第3回は、モノとしての本の儚さと強さ

第3回は、今度は電子書籍論。ただし、電子書籍のパラドクス。

肝心な時に肝心な本が手に入らない。国際情勢が激変して、ウクライナ問題とか、「イスラーム国」とか、想像もしないことが生じたときに、粗製乱造の解説本は出るかもしれないが、本当のことをずっと前に書いていたような本は、絶版・品切れで市場のどこにもなかったりする。

じゃ、全ての本が電子書籍でも出ていれば、手に入らなくなる可能性もないよね?

でもよく考えてみるとそうでもない可能性があります。

人はなぜモノとしての本を買うのか。前提として、「買っておかないとなくなってしまうから」というものがあります。紙の本は、モノである以上、可能性としては水に濡れたり火にくべてしまえば損壊・消滅しますし、売れてしまえば市場になくなる。高価な学術書になると、もともとの部数が少なく、高いので専門家にしか売れないとなると増版もされない。

逆に言えば、だからこそ買っておくわけです。

電子書籍もあるから必要な時が来たらいつでも買えるよ、ということになると紙の本は買わなくなるでしょう。そして、電子書籍も結局買わない。なぜならば、「必要な時」が認識されるような本はごく稀だから。

だったら本って、出なくなりますよね・・・・

(4)週刊エコノミストの読書日記(第4回)学術出版の論理は欧米と日本でこんなに違う

じゃあどうしたらいいんだ、と考えるときに、参考になるのが英語圏の学術出版。学界・大学出版・大学図書館というトライアングルが強固に出来上がっていて、そこで書き手の質が維持され、出版社への利益が確保され、必要な読み手によるアクセスが保障される。必要な読み手とは必ずしも世間一般の読者ではない。大学院生を含めた専門家です。

一般読者の選好を基本的に意識せずに本を作り、売り、届けることができる英語圏のシステムは、一定の規模の学術出版の世界を成立させると共に、社会に知を広めるのにも役割を負っています。ただし、一般読者が単に興味を持って読みたい、という時にフレンドリーかと言うと、そうではないでしょう。一定のディシプリンを身につけていないと読み解けないようなルールの下に本が書かれ、大学院に所属していればどの本もほぼ借り出せるし、大学のアカウントからオンラインで読める場合もある。その対価・使用料が著者や大学出版に入る仕組みになっている。

日本がすべて真似しなければいけないわけでもないし、真似もできないだろうけれども、専門的な出版の質と規模を確保するためには、現存する最も高度な仕組みであることは確かだ。そこから漏れる部分もあるけれども。

逆に、日本の場合は、学術出版も多くの場合は商業出版社が行っているから、どうしても消費者の意向(と編集者やら「営業」や、一般的に上の方にいるおじさんたちが「消費者の意向」と信じているもの)に左右されがちだ。もちろん博士論文を出版した、というような固いものもあるけれど、それではその次に本当に出版として意味のあるものを書いて出せるかというと、多くの学者がそのような「書き手」になるには至らない。義務としての最低限の出版をしてからは、出版の世界から退出してしまう。確かに、純然たる商業出版の要請に応えるタイプの芸を持っている人は少ないし、分野によってはまったくお呼びがかからない。学術出版のもっと自立したサイクルがあれば、その中で切磋琢磨して着実に書いていけそうな人たちはいるのだけれども。

そのため、商業出版の要請に応える才覚というか軽率さのある一部の書き手が、新書を中心に膨大な量を生産することになる。そこには、学術的知見をタイムリーに要領よくまとめてくれて刺激になるものもあるが、「もう少し考えればもっといい本になったんじゃないの?」「よく知らないことについて書かない方がいいんじゃないの?」と言いたくなるものが大半だ。要するに、話題になってから急ごしらえで本を作る。それに対応できる、してしまう一部の人だけが請け負って、劣悪な労働条件で商業出版のライターの役割を果たすわけである。日本の学術的知見の多くは、実際には商業出版によって消費者動向に従って出版される。

このような日米の学術出版を対比するのには、日本を「需要牽引型」で、米国を「供給推進型」ととらえるといいのではないか?と普段一部の研究者や編集者との与太話で提案している学説をここで活字にしてしまった。

* * *

さて、こんな感じで、大きなパズルの各所に、最初の小さなピースをいくつか置いてみた、というのが連載の現状。そこで今回は別方向に、自分のルーツをたどるという趣向で、市場の商品、制度の産物という側面とは別の、パーソナルな部分での本との結びつきについて、発端を書いてみた。自分の事ばかり書くのは好きではないので、めったにこの話題には戻ってこないけれども、これまでに公の場で全く書いていないいろいろなことがある。そのうち色々書いてみたい。

今後どうなるんでしょうね。どういう形であれ、連載の依頼を受けたことで刺激を受けて始めてしまった、新しい形の読書論、ゆっくり育てていこうと思っています。

なお、この連載は『週刊エコノミスト』の電子版を契約していただいても読めません。毎日新聞社が提示してくるデジタル版の契約条件が私の基準と合わないので、承諾していないのです。ですので、もし連載が今後も続いて、ご関心がある方は、刊行された週に、本屋でお買い求めください。

私の電子出版に関する基準はいろいろありますが、儲けようとかいうことではなく、「そのやり方で、出版は成長しますか?市場は開拓されますか?本当に考えてやっていますか?」ということを第一に考えたうえで判断している。

大前提は、連載の第3回で書いたことに関わります。「いつでも買えるなら、今週出たものを今買うインセンティブはなくなる」。そして、ウェブ雑誌の形ではなく紙の雑誌のそのままのフォーマットでしかデジタル版が提供されていない場合は、要するに「バックナンバーを買う」のと同様になるのです。実際には、バックナンバーを買う人はあまりいないでしょう。それにもかかわらず、デジタル契約を許諾してしまうと、半永久的に電子版複製の権利が出版社に保持される。かえって流通を阻害します。

紙版はその点良いのですね。なぜならば、モノとしての本・雑誌は、抱え込んでいるとお金がかかるから、やがて絶版になるか、あるいは売り切ってなくなる。出版社の権利とは出版をし続ける義務を伴いますから、絶版・品切れになれば出版社側の権利はほぼ消滅する。作品は、少なくともテキスト部分は、自由に新しい道を歩み出せるのです。電子データは保存するコストが極小なために(そもそも実際に一部ずつ売れるまでは、「存在しない」のだから)、有用な売り方を出版社が知恵を絞って考えたり、もう売れないから絶版にするという判断をするといった労力を省かせ、かえって作品が塩漬けになる可能性があります。

イラク・シリアの内戦と介入は原油価格を下落させた

ある程度ものの分かった専門家の間でやり取りする際に常識となっている話が、その外に広まるまでにはタイムラグがある。結局伝わらない場合も多い。

中東情勢が原油市場に及ぼす影響というのもそんな課題の一つだ。

その関係で、やっとまともな報道になったな、と思わせてくれる記事があった。その記事で引用されている図を見れば一目瞭然だ。

WTI石油先物1-9月2014年毎日新聞9月30日
出典:「原油価格:下落続く 欧州、中国の景気懸念 需要先細り」『毎日新聞』2014年09月15日10時34分(最終更新 09月15日 12時21分)

イラク・シリアの内戦が「イスラーム国」の伸長に結びつき、それに対する米国の軍事介入という事態に至って、やおら「中東の地政学的リスクの高まり」が議論されるようになりました。

中東専門家の個別利益としては、「リスクの高まり」を煽る側に回れば、講演の依頼などで引っ張りだこになり、「日本政府は対策を取っているのかー」とか叫べば、政府・官庁のなんとか委員になれたりして、いろいろお得なのだろうが(じっさい、「えらく」なった先生は、過去の言動をトラッキングすると、こういう機会にこういう立ち回りをすることに機敏であったことが分かる)、私はそういうことは人生の目的ではないのでしない。

中東専門家として、あるいは国際政治を広く見ながら生活をしている人間として言えば、「地政学的リスクが高まったという認識は広まったが、国際市場への原油・天然ガスの安定・妥当な価格での供給を阻害するという意味でのリスクは高まっていない」というのが、「イスラーム国」の伸長・米国の介入の影響を現地情勢や諸指標を見て引き出せる結論。

これについては、モノの分かった諸専門家(地域情勢・エネルギー・原油市場に関する)と議論すれば、ほぼ同意してもらえる。「専門家」を名乗っていてもそうでない人がいる、という話には、私は関知しない。

この図の読み方ですが、「イラクとシャームのイスラーム国」が、イラク北部に急激に勢力を拡大したのが6月初頭。6月9日から10日にかけてモースルを占拠したのが世界に衝撃を与えた。この時期にだけ若干原油市場は上昇圧力を受けた。

しかし6月20日の近年の最高値(107.26ドル/バレル)を最後に、下落に転じ、ほぼ一直線に90ドル/バレル近くまで下がっている。

日本で原油価格下落の効果が感じられないって?
円安だからです。

90ドル/バレルという水準は、2月以前の水準だ。つまり、ウクライナ問題が紛糾して、クリミアやウクライナ東部をめぐって米露対決が激化する過程で押し上げられた分も帳消しにするほど下がっているのである。

地政学的リスクが原油市場に与えた影響ということで言えば、
(1)ウクライナ問題をめぐる米露対決では、原油市場は「買い」の反応をし、
(2)イラク・シリア問題が紛糾し「イスラーム国」が伸長し米国が軍事介入に踏み切ると、原油市場は「売り」の反応を示したことになる。

WTIをもう少し長期的に振り返ってみても、中東情勢の混乱は必ずしも原油価格の上昇に結びついていない。

2008年9月のリーマン・ショックで、それ以前の狂乱の高騰に見舞われていた原油価格はガクッと下がった。WTIでは、2008年の7月11日に一瞬つけた147.27ドル/バレル を最高値に、年末には一バレル30ドル台の前半にまで下がっていた。

これが2009年から2011年まで緩やかに回復していった。2011年1月以来のアラブ諸国の政権の動揺に際しても、さほど上がらず、1バレル100ドルの前後を行ったり来たりして安定してきた。

ウクライナ問題の勃発で、2014年の3月には105ドル/バレル水準に押し上げられ、さらに6月の「イスラーム国」の伸長で数日間は107ドル台に上がったものの、6月20日以来一貫して下落し、ウクライナ問題以前の水準に下がっている。

つまり、8月7日のイラク空爆表明、9月10日のシリアへの空爆拡大表明を経て、実際に現地で戦闘が激化し空爆が拡大してもなお、一貫して原油先物価格は下がり続けているのである。

要因を推測すれば、

(1)国際市場の側には、中国をはじめとした新興国市場の需要の鈍化があり、ヨーロッパの経済不振の長期化の見通しがある。

(2)中東側から見れば、リビアにせよ、イラクにせよ、あるいは小規模だがシリアやイエメンにせよ、国が内戦や混乱状態にあっても、民兵集団が跋扈して油田・石油精製施設が掌握されても、密輸を含んだ非合法な形を含んで、原油は国際市場に出る、という経験知が共有された。

そこから、「イスラーム国」の伸長に対しても原油市場はあまり反応せず、むしろ米国が介入して鎮静化することを見越して(あるいはイスラーム国への関心が高まることでウクライナをめぐる米露対決が緩和されることも見越して)、価格が下落したのではないかと思われる。

なんてことは、最近頻繁に出席させられる各種会合で議論していて、ごく自然に専門家に受け入れられていたのだが・・・

ああやってくれてしまった、藤原帰一先生・・・

藤原帰一「紛争から見える世界 − 権力が競合する時代に」東京大学政策ビジョン研究センター(朝日新聞夕刊『時事小言』2014年9月16日から転載)

昨今の国際情勢に共通する要素として「紛争が世界経済に及ぼす影響が大きい」として、その筆頭に「イラクとシリアの内戦は、原油価格の高騰を刺激した。」と書いてしまっている。

ですから、高騰していないんです。

ウクライナ問題による「地政学的リスク」は高騰要因になったかもしれませんが、イラク・シリア問題は逆にそれをも打ち消すような市場の動きを招いています。

「アラブの春」以来の有為転変を逐一目撃しながら抱いた雑感、「どんなに混乱していても原油は市場に出るんだなあ…」は、国際政治学者には共有されていないものだったのですね。

中東のことを不用意に語りさえしなければ素晴らしい先生なんだけどな・・・「国際政治学」が専門だからと言って国際政治の森羅万象が分かるはずはないのだから。

私の方は、9月12日の日経新聞朝刊「経済教室」に寄稿した拙稿でも、次のように書いておいてあります。まだその先にもっと価格が下落すると決まった段階ではなかったのですが、押し上げ効果も大したことなかったし、原油は変わらず出ているんだから、リスクリスクと騒ぐことない、と水をかけておきました。編集部側は「地政学的リスクの高まりが・・・」というテーマ設定をしているんだから「高くなりましたッ」と迎合して書いておけばもっと仕事来そうなもんだが、性格的にそういうことができないんですよ。でも結果として下がったでしょ。

以下抜き書き。全文はウェブ版を契約して読んでください。

「中東の地政学的リスクとはいかなるものなのだろうか。」

「中東産原油・天然ガスの国際市場への安定供給についていえば、これほどの混乱にもかかわらず、むしろ原油は値引きした密輸を含んだ自生的なルートで市場に流れ続けており、原油価格の急騰や供給・運搬ルートの途絶といった事態が近く生じるとの観測は、むしろ沈静化している。」

「イランの核問題での対立によるホルムズ海峡の閉鎖や、パレスチナ問題をめぐる地域規模の動乱といった、周期的に危機意識があおられるものの現実化しなかった致命的な一撃の可能性も低い。」

それではどういうリスクなのかというと・・・

「中東全域の治安や政治の安定度がおしなべて低下することで、中東地域に対する政治的・経済的な関与への自由で安全なアクセスが制約されること」

「「複雑怪奇」な中東情勢がもたらす多種多様な地政学的リスクの回避に、多大な労力を払わなければならない」

「リスクは、均等にではなく特定の国にかかってきかねない。」

「中東の石油を死活的に必要とする国とそうでない国で、混乱がもたらすリスクへの認識は異なる。」

といった話です。

ジョージ・フリードマン『続・100年予測』に文庫版解説を寄稿

以前にこのブログで紹介した(「マキャベリスト・オバマ」の誕生──イラク北部情勢への対応は「帝国」統治を学び始めた米国の今後を指し示すのか(2014/08/21))、地政学論者のジョージ・フリードマンの著作『続・100年予測』(早川文庫)に解説を寄稿しました。帯にもキャッチフレーズが引用されているようです。


ジョージ・フリードマン『続・100年予測』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

単行本では邦訳タイトルが『激動予測』だったものが、文庫版では著者の前作『100年予測』に合わせて、まるで「続編」のようになっている。


ジョージ・フリードマン『100年予測』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

確かに、『激動予測』ではありふれていてインパクトに欠けるので、文庫では変えるというのは良いが、かといって『続~』だと『100年~』を買ってくれた人が買ってくれる可能性は高まるかもしれないが、内容との兼ね合いではどうなんだろう。

英語原著タイトルはThe Next Decadeで、ずばり『10年予測』だろう。100年先の予測と違って、10年先の予測では個々の指導者(特に超大国の最高権力者)の地政学的認識と判断が現実を左右する、だから指導者はこのように世界情勢を読み解いて判断しなさい、というのが基本的な筋立てなのだから、内容的には「100年」と呼んでしまっては誤解を招く。

こういった「営業判断」が、日本の出版文化への制約要因だが、雇われで解説を書いているだけだから、邦訳タイトルにまで責任は負えません。

本の内容自体は、興味深い本です。それについては以前のブログを読んでください。

ただし、鵜呑みにして振りかざすとそれはそれでかっこ悪いというタイプの本なので、「参考にした」「踏まえた」とは外で言わないようにしましょうね。あくまでも「秘伝虎の巻・・・うっしっし」という気分を楽しむエンターテインメントの本です。

まかり間違っても、「世界の首脳はフリードマンらフリーメーソン/ユダヤ秘密結社の指令に従って動いている~」とかいったネット上にありがちな陰謀論で騒がんように。子供じゃないんだから。

フリードマンのような地政学論の興味深いところ(=魔力)は、各国の政治指導者の頭の中を知ったような気分になれてしまうこと。政治指導者が実際に何を考えているかは、盗聴でもしない限り分からないのだから、ごく少数の人以外には誰にも分からない。しかし「地政学的に考えている」と仮定して見ていると、実際にそのように考えて判断し行動しているかのように見えてくる。

今のオバマ大統領の対中東政策や対ウクライナ・ロシア政策でも、見方によっては、フリードマンの指南するような勢力均衡策の深謀遠慮があるかのように見えてくる。

しかし実際にはそんなものはないのかもしれない。単に行き当たりばったりに、アメリカの狭い国益と、刹那的な世論と、議会の政争とに煽られて、右に行ったり左に行ったり拳を振り上げたり下げたりしているだけなのかもしれない。あるいは米国のリベラル派の理念に従って判断しつつ保守派にも気を利かせてどっちつかずになっているのかもしれない。

でも、行き当たりばったり/どっちつかずにやっていると、各地域の諸勢力が米側の意図を読み取れなくなって、米の同盟国同士の関係が齟齬をきたしたり、あるいは敵国が米国の行きあたりばったりを見切って利用したり、同盟国が米国に長期的には頼れないと見通して独自の行動をとったりして、結局混乱する。しかしどの勢力も決定的に状況を支配できないので、勢力均衡的な状況が結果として生まれることも多い。

で、その状況を米国の大統領が追認してしまったりすると(まあするしかないんだけど)、あたかも最初からそれを狙っていた高等戦術のようにも見えてくる、あるいはそう正当化して見せたりもする。

そうするとなんだか、世界はフリードマン的地政学論者が言ったように動いているかのようにも見えてくるし、ひどい場合は、米国大統領がフリードマンに指南されて動いているとか、さらに妄想をたくましくしてフリードマンそのものが背後の闇の勢力に動かされていて、この本も世界を方向付ける情報戦の一環だとか、妄想陰謀論に支配される人も出てくる。

本って怖いですね。いえ、だから素晴らしい。

でもまあ結局この本で書いてあることは、常にではないが、当たることが多い。商売だから、「外れた」とは言われないように仕掛けもトリックも埋め込んで書いている。「止まった時計は、一日に二回正しい時を刻む」的な議論もあるわけですね。その辺も読み取った上で、「やっぱり読みが深いなあ」という部分を感じられるようになればいいと思う。

改めて、決して、外で、「読んだ」っていわないように。