あまりに忙しくて、今やること、先にやるべきこと、やるべきでないかもしれないがやらなければならないことなどが混乱していて回らなくなっている。
自分への整理のために。今年何をしていたのだっけ、と振り返る。
研究にはインプットとアウトプットという性質を異にする段階があり、しかも複数のテーマについて並行して考えているので、あるテーマについてのインプットを行いながら、別のテーマについてのアウトプットを出すべく踏ん張っていたりして、もともとバランスを保つのは難しい。
大学内にある「附置研究所」の所属なので研究が中心といえども、大学の中の各学部からの講義の依頼を受けると引き受けているので、普通の教師としての任務も多くなっている。授業はある時間、ある場所に固定するというコミットメントが必要なので、研究のインプット・アウトプットの作業の最適化を時に制約することがある。
その合間に海外に行く。よく「しょっちゅう現地に行かれるんですか?」と聞かれるが、地域研究をやっている人間にはイラっとくる質問だろう。地域研究者が経歴のある段階で「現地」に行くことは重要で不可欠だが、ある程度方向性を固めてからは、むやみに「現地」で見聞きしたことをそのまま書いたり話したりはしない。そんな簡単な問題ではないということが分かるようになるからである。現地で感じる新鮮な驚きのようなものを常に忘れてはならないが、「現地の現実」はそう簡単に、ちょっと行ってきたぐらいで見いだすことはできないし事実として確定して表現はできない。そのことにある段階で気づかなければ、ほとんど地域研究者失格と言っていい。だから素人の質問に「イラっ」とするのである。また、口々に皆そう訊くので、困ったことである。
実際には、海外出張に行っているときのほうが、忙しくないとも言える。会議であれば会議に集中するしかない。現地調査であれば、比較的自分の自由になる時間を最初から作っている。日本にいる時よりも自分のペースで仕事ができる。
ただ、海外にいる間は日本での仕事は止まるので、行く前と、帰ってからとてつもなく忙しくなる。月に一度ぐらい海外に行っていると、日本にいる間はきわめてせわしなくなる。
私の今年の課題はインプットよりアウトプットであり、そのためには日本にいて、かつ事務仕事や細々とした仕事に煩わされずに研究室にこもる時間をどれだけ作れるかが勝負である。そのためには、緊張する海外での仕事は刺激になるとはいえども、アウトプットの量を阻害しているのではないかという気がして常に不安である。もちろん海外でのやり取りやそこから自然に生まれるインプットは将来の仕事の質と量を支えるのだが。インプットをやめれば将来に制約要因となるので、苦しくとも行き続けるしかない。
今年は例年に比べて、海外渡航が多かった年ではない。どちらかというと、アウトプットを出そうと極力日本にいたが、それでも短期出張が飛び飛びに入ってしまった、といった具合の年だった。中東の現地調査をやりにくい国が増えてしまったこともあり現地渡航がそれほど多くなかったが、塵も積もればといった具合に海外渡航の数が重なった。年初からの海外渡航の記録を振り返り、3月の年度末までの今のところ入っている予定だけでも見てみよう。
2015年
1月 アメリカ合衆国(ニューオーリンズ)
2月 チュニジア(チュニス)
6月 アラブ首長国連邦(アブダビ)
8月 ドイツ(ミュンヘン)、ロシア(ウラジオストク)
9月 イギリス(ロンドン)
11月 インドネシア(ジャカルタ)
12月 アメリカ合衆国(ワシントンDC)
2016年
1月 プエルトリコ(サンファン)、カタール(ドーハ)
2月 イギリス(ロンドン)、中東某国
こう一覧にしてみると、中東の現地調査と欧米での学会・会議発表、それにちらほらと東南アジアやロシアも入ってきていたりする。プエルトリコは学会発表です。
1月には、7日のシャルリー・エブド誌襲撃事件と、20日の日本人人質殺害脅迫映像の公開の間に、アメリカで学会発表に行っていたのを思い出す。ちょうどその日に『イスラーム国の衝撃』が発売された。
1月20日の殺害脅迫映像で始まったこの事件が、2月1日の陰惨な結果に終わった後、予定通りチュニジアに調査に行った。その翌月、チュニスのバルドー博物館へのテロが起き、チュニジアへの攻撃と動揺が表面化した。
3月から5月は、新学期の立ち上げと同時に、人質事件への検証委員会というものに入って忙殺されていた。それが終わったころにアブダビに行ったが、その間にもクウェートやチュニジアでのテロなどがあって緊張した。
その後は、会議・学会・会議・・・という感じの短期出張の繰り返しですね。行って帰ってきて時差を直すだけでなく、書類なども大変だ。
しかしこうして渡航日程を見ると、私の年代の似たような仕事をしている研究者の中では、決して多い方ではないと思う。
どうも、国際問題に関して一般書であまりにも研究業績に基づかない発言を繰り返す論者が「学者」であるかのような誤解が広まってしまったため、実際に国際問題を扱って議論をするならどのような生活をしていなければならないかがあまり理解されていないような気がする。
私の適性に対応してそれほど会議の依頼が多くはこないのと、今年は特に、執筆のために、私自身が意識して海外渡航を減らしてしているがゆえにこの程度で済んでいる。
海外に行っていない月は、これは日本での職業上の制約からまったく行けないから行っていないのです。大学で教えていると学期中に海外に行くのはもともと大変だが(先端研という職場は特殊に自由にしてもらっています)、学期初めの4・5月などはまあよほど無理をしないと行けないですよね。
同世代の活躍している国際政治学者は、もっと頻繁に海外に行っている。近年は、アカデミックな教育を受けた人間が日本を代表して話すことが以前よりも強く求められる。またその意味がようやく理解されてきたこともあり、日本から送り込む人間が求められている。そういった選考にどこかで引っかかってきて依頼が来ると、日程が調整可能で、テーマが私に対応できそうなものであれば、極力対応している。しかしあくまでもアウトプットの邪魔をしない限りにおいてである。
また、依頼・招待ではない英語での学会発表は年に何回かは自発的にやることにしています。不利な条件下で、前提が全然違う人たちに向けて話すことは訓練になりますからね。また、世界中の、同じ問題について異なることを考えている人たちと会うことができます。
私は「会議屋」(この言葉は自嘲気味に使われることもあるが、ここでは肯定的にそういった能力を捉えている)としての適正な訓練を受けていないので、国際会議での発言は見よう見まねであり、できればより適性がある人に回したいという仕事も多い。問題はあまり適正のある人が多くないので、私などにも多く仕事が降ってきてしまう。適性のある人が多くないという事実については、教育の問題でもあり、教育にも最近は少しずつ携わるようになった人間として、やがては若干の責任も負うことになるかもしれない。今のところは、上の世代のツケが回ってきているということをひしひしと感じる。
しかし、教育は社会の需要がないことについては成果が出ない。社会はそもそもどのような人材を求めるべきか、という次元から問題提起をしていかなければならないのかな。
今日は少し取り止めのない話になってしまった。年の暮れが迫ってくると、今年の仕事の棚卸しをしながら、来年を考えるようになる。