【寄稿】金子光晴の政治思想――『自由について』(中公文庫)への解説

3月の末ごろに「二つほど、文庫や全集に寄せた解説が刊行されました。そのうち一つは・・・」と書いて、『井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』の月報に寄稿したことをお知らせしましたが、二つ目の方をアップしていませんでした。フェイスブックでは通知していたのですけれども。

ブログに載せる時間がないのも当然で、その間に2冊本を完成させていました。

一冊は『増補新版 イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2016年)
で、そこにはこの井筒俊彦全集第12巻の月報に載せた「言語的現象としての宗教」が早くも収録されています。まあ月報目当てに全集を、それも井筒俊彦の書いた大昔のアラビア語の教科書の巻を買うかどうか決める人もいなさそうなので、早めに採録させてもらいました。私がずっと書きたいと思っていたテーマですし。予定より長めになってしまったにもかかわらず会議をして予定を変更して月報に載せてくださった慶應義塾大学出版会の皆様に感謝しています。

さらにもう一冊、新潮選書で『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』という本を書きおろしていました。奇跡的に終わりました(まだ細部の最終作業中です。連休中ずっとこれをやります)。なお、当初の予定では、新潮選書としてはこれまでにない薄さにして、ブックレットにするという私の企画意図から、税込み972円となっていましたが、結局バリバリと書いて1.5倍以上になってしまったので頁を増やし、税込み1080円になりました

ものすごい勢いで執筆したので、終わった瞬間にパソコンが壊れてしまいました。マウスが動くが左クリックが効かないという、まるっきり物理的損傷・・・『イスラーム国の衝撃』を書く直前に思い立って導入したMacBook Air。最大限スペックを積んだところ非常に快適で、作業効率が断然上がりました。これで執筆も事務作業もブログ発信もSNS遊びも、同時にやって、まったく快適。本当によく働いてくれました。MacBook塚があったら持って行って供養したい。

ただいま古い予備のパソコンを引っ張り出して仕事していますので、以前よりずっと時間がかかります。

さて、3月末にアップしようとしていてできないでいたのが、金子光晴の文庫オリジナル・エッセー集への解説です。

池内恵「解説」金子光晴『自由について』中公文庫、2016年3月、247-260頁


『自由について – 金子光晴老境随想』(中公文庫)

中公文庫は金子光晴の代表作を多く出版してきましたが、今回は全集からあまり知られていないコラムを選んできて、文庫オリジナル編集。『自由について』というタイトルも今回のオリジナルです。編集さん頑張りました。

3月末に発売されましたので、まだ本屋にあるでしょうきっと。

このブログで以前、マレーシアに行ったときに金子光晴の話を書いたのが、編集者の目に留まったようです。

私も未読の、随想や聞き書きばかりでしたら、軽く読めるようでいて、端々に面白いところがある。面白いところを浮き立たせるように解説を書きました。かなり読み込んで書いたので、ぜひ手に取ってお読みください。

金子光晴が現代に生きていたら何て言っただろうな・・・と思うことが多いです(まあ、ボケてズレて見当はずれなことを言ったんではないか、という危惧の念もないではないですが、それも含めて。現代に甦るにして、何歳の人間として甦るかによって変わってきますね~)。

金子光晴を現代の話題に引き付けて読む、というか、現代の話題は実は過去にとっくの昔に議論されていて、それに対する金子の立場が筋が通っていて面白いのだ、というところが論旨です。

例えば解説の冒頭はこのように書き出しました。

「大学の文学部とはいったい何のためにあるのだろう。法学部なら役人を養成する。経済学部なら企業社会に人員を送り込む。このように、日本の近代の大学は、最初からそういった職業教育的機能を担ってきた。それでは文学部は何を養成するのか。これが分からないから文学部の学生は悩む」(247頁)

この自問にどう自答しているかは解説をお読みください。

人文系の意義とか、言論のガラパゴス化とか、今話題になっていることの多くについて、金子は独特の立場を示していてくれる(ように読める)のだが、これらのエッセーに一貫するテーマは、リベラリズムとヒューマニズムに対する問いかけだろう。そして、それを日本でやることについての、覚悟と諦めが、交互に去来する。そこがこの本の読みどころだろう。

不羈の精神の持ち主である金子の、軍国主義と戦争への批判は、おそらく生理的な嫌悪に根差したもので徹底的である。軍国主義の暴虐を生々しく描くことにかけて実に巧みである。しかしそれは軍と軍人に責任を押し付ける通俗的な議論ではない。日本の軍国主義が日本社会の底流に根差したものであったところにこそ、金子は深い恐れを抱いている。

「戦争中、もし日本が占領され、日本でレジスタンスをやったら、隣のおばさんはかくまってくれなかったと思う」(134頁)という日本社会の一般庶民への不信感と、「いわゆる進歩思想というものもあったが、あれ、個人の出世の綱でね」(同―135頁)という知識人・言論人への冷めた評価は対になっている。

「最近~になった」という話は、そういう話を作らないと商売にならない人たちが言っていることなので、たいていあてにならない(学者の言うことを信じると毎年「分水嶺」「ターニングポイント」が来ていることになってしまいます)ということがよく分かる本でもあります。

例えば次の文章なんて、金子が今の時代に生きていて、ぼそっとつぶやいたようにしか見えませんね。

「今日の若い世代がもっている『正義派』の気まぐれともおもえるイノセントぶりが、相当な来歴のある人生のタレントたちを屡々、コロリとまいらせる。不信に蝕まれてない新しい世代が、正面舞台からせりあがってきたという、期待の満足からとも察しられるが、むしろ、その感激のほうがイノセントな光景であろう。若さだけに惚れこむなんて、危険千万なことだ」(55頁)

「SEALs萌え」の作家・大学教員・メディア企業社員などにぜひ読んでもらいたい一文である。

石原慎太郎のスパルタ教育論の批判(「ぶんなぐられ教育」198-199頁)とか、時代の変わらなさにクラクラする。

これらはほんの一部分で、本文はもっと多岐にわたって論点が出てきますから、是非お手に取ってみてください。連休中ぐらいまでは本屋にあると思います。

ところで『自由について』は、その前の月に刊行された『じぶんというもの』とセットになっている。こちらは若者論、というか金子の晩年に若者向けに(『高一時代』などの媒体に掲載されたものが多い)に書いたコラムを集めたものなのだけれども、媒体の性質上求められる説教めいた話は早々に切り上げて、一向に生臭さが抜けない自分自身について、つまり「老い」についての自省録になっている。若者論こそ最大の老年論で、老年論こそが若者論になる、というのはもしかしたら鉄則かもしれません。読まされている方は何が何だかわからないだろうというのもまた鉄則。時間は一方向にしか流れませんからね。

『じぶんというもの』への解説は、ヤマザキマリさん。本文を原作に短編漫画化。それ目当てに勝っても損はないです。金子の若者論を通じた老年論の、鮮烈なコントラストの哀切さが、絵で浮かび上がってくる。これこそ文庫オリジナル。


『じぶんというもの – 金子光晴老境随想』(中公文庫)

【寄稿】ティラン海峡2島の帰属をめぐって『中東協力センターニュース』4月号に

寄稿しました。リンクをクリックするとPDFが直接ダウンロードされます。

池内恵「エジプト・サウジのティラン海峡二島『返還』合意」《連載「中東 混沌の中の秩序」第5回》『中東協力センターニュース』2016年4月号, 9−20頁

今月号に掲載の他の論考はこちらのページから。

今、次の本(正確には次の次に出る本)の最終段階で大幅にテコ入れするべく、とてつもなく忙しくなっていますので、短い時間で急いで書きました。サウジの「紅海国家化」という若干の(かなりの)憶測が入っています。お楽しみください。

今回は、いつにも増して日程が苦しく、常識で考えれば書けないのですが、昨年4月の『中東協力センターニュース』の月刊化を機会に、それ以前のように不定期連載ではなく、四半期に1回必ず書いて載せると自分に課してしまったので、とにかく書きました。それによって自分の本が遅れたりすることがなければいいのですが・・・

「中東 混沌の中の秩序」と題して連載をリニューアル・定期化してから、今回は5回目になります。

(第2回をブログに掲載し忘れていたことに気づいたので、以下に連載リニューアル以来の、前回までのタイトルとダイレクトリンクを貼っておきます。また、それ以前の連載「アラブの春後の中東政治」については、当ブログの項目を参照。2012年の6月から延々続いています。このブログを「中東協力センターニュース」で検索するとさらに出来てます)

池内恵「中東情勢を読み解く7つのベクトル」《連載「中東 混沌の中の秩序」第1回》『中東協力センターニュース』2015年4月号

池内恵「4つの内戦の構図と波及の方向」《連載「中東 混沌の中の秩序」第2回》『中東協力センターニュース』2015年7月号

池内恵「ロシアの軍事介入による「シリアをめぐる闘争」の激化」《連載「中東 混沌の中の秩序」第3回》『中東協力センターニュース』2015年10月号

池内恵「サウジ・イラン関係の緊張―背景と見通し」《連載「中東 混沌の中の秩序」第4回》『中東協力センターニュース』2016年1月号

「教育歴」を固定ページに追加しました

新年度の授業が順次始まっています。

過去の講義を振り返りながら、新しい課題を盛り込んだり、抜本的に見直したりといった作業を進めています。

この機会に、ブログに新しい固定ページ「教育歴」を加えました。ページの上部のタブのプロフィール論文単行本と並ぶ位置に設置しました。プロフィールや論文リストは代表的なもの、簡略なものだけなので、いつか時間ができたら完備したものを掲載しようかと思います(が、とても時間がありません)。現状分析など、ウェブに掲載されたものをリアルタイムで反映する仕組みをつくって、このブログを見れば私の議論についてはポータルになるようにしたいのですが、極端な忙しさに紛れて道半ばです。

これまで私は本務校としては、「学部」に勤めたことがありません。アジア経済研究所国際日本文化研究センター(大学院は総合研究大学院大学国際日本研究専攻)→東京大学先端科学技術研究センター(大学院は工学系研究科先端学際工学専攻)と移ってきており、最初のアジア経済研究所は経済産業省系の独立行政機構(JETROと統合)のため授業はなし(アジ研に付設の開発スクール(IDEAS)はありますが、私は担当していませんでした)、その後も大学院博士課程のみの研究所に勤めてきましたので、文系の研究者には珍しく、学士課程の「学部」で教えることを主たる任務とした経験がありません。

しかし、学内の学部から依頼を受けて出講したり(学内非常勤)、他の大学から依頼を受けて集中講義で出講する(非常勤講師)ことはあります。

特に東大では、先端研に着任する以前から単発で教養学部や法学部・公共政策大学院で非常勤講師をしたこともありますし、東大内に来てからは学内非常勤で文学部(大学院人文社会系研究科と合併講義)・教養学部(後期課程)で授業を担当しており、今年度は法学部・公共政策大学院でも授業を担当しています。

また、東大内のプログラムとしては、社会人向けのエグゼクティブ・マネージメント・プログラム(EMP)に、第5期から現在まで続けて出講しています。

日本では中東・イスラーム研究は中世の歴史・思想研究が中心で、特に東大ではそうなのですが、それですと学生や社会人学生の現代中東・イスラーム世界への高まる関心に応えきれないので、先端研という少し離れた場所にいる私ですが、依頼を受ければなるべくお引き受けすることにしています。

(なお、学内非常勤に報酬はありません。もともと外部から来ていただく非常勤講師にも本当に本当に微々たるお給料しかお支払いできないのですが)

本務校・所属部局以外のいろいろなところで非常勤で講師をすることを繰り返すうち、どこで何をやったかわからなくなるといけないので、授業の準備をしながら、過去の記録を引っ張り出して、整理してみました。

こうして並べてみると、だんだん進歩しているように?見えてきますがどうでしょうか。

それよりも、中東やイスラーム世界に関する世の中の関心の量と質が、この間に決定的に変わりましたね。それは中東・イスラーム世界そのものの変化に対応しています。

学問の世界がその変化に適切に手対応して行っているか、その点でも考え直す必要がありそうです。

【寄稿】『ランボー3』のアフガニスタン 『うえの』4月号

取り急ぎ。寄稿です。

池内恵「『ランボー3』とアフガニスタン現代史」『うえの』2016年4月号、No. 684、32−34頁

『うえの』という月刊の小冊子です。「上野のれん会」加盟の諸店舗に行くと置いてあるのではないかな。定価200円と書いてありますが、部数がある限り、お客さんには無料でくれるのでは。たぶん。

あら、ホームページもあるじゃない、奥様。

表紙はこんな感じ。

うえの2016年4月号

内容は、アフガニスタン現代史を読み解くのに、意外にも、ハリウッド超大作バカ映画っぽい『ランボー3 怒りのアフガン』がかなりいいとこついている、という話。

『ランボー3 怒りのアフガン』といえば、、、

これです。

ランボー怒りのアフガン1

なんでこんな無粋な内容を老舗商店街の小粋な小冊子に書くことになったかというと、上野公園の東京国立博物館で「黄金のアフガニスタン−守りぬかれたシルクロードの秘宝−」展が4月12日から開催されるのです(〜6月19日)

『うえの』では東京国立博物館の特別展に合わせて、関連するテーマでエッセーを依頼するらしいのです。たしか以前にエジプト展の時にもご依頼を受けて書いています。それなので、せっかく再びご依頼いただいたので、つい引き受けてしまいました。

とてつもなく忙しくて気が遠くなりそうなのですが、アフガニスタンといえば『ランボー3 怒りのアフガン』を今見てみると、これが結構面白い、脚本がうまくできている、という話なら新たに調べないでも短い時間で書ける。この映画で1980年のソ連について語られていることは、2000年代以後のアメリカにもそのまま通じる、といった話を、授業とか講演とかでよくしていますから、その下調べに基づいて、一瞬でエッセーを書くならできるかも、と頭の端で考えて引き受けてしまったのです。実際に締め切り日になっても、その一瞬の時間も取れないので、また書くなら書くでかなり頭を捻らないといけないので、かなり焦りましたが。

老舗商店街の月刊小冊子といえば、代表的なのはこの『うえの』と、あと銀座の『銀座百点』がありますね。文系の文筆家にとってはこういうところで力を抜きながら芸を見せるのはある種、腕の見せどころ、と思うのですが、分野が大きく違う私などにもたまに書かせてもらえるというのはありがたいものです。

「守りぬかれた至宝」を壊す側の論理を書いたというのもなんですが、展覧会については学芸企画部長さんが文章を寄せていますし、黄金の秘宝の写真も掲載されています。

【寄稿】『東大教師が新入生にすすめる本 2009−2015』

刊行されました。

『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』東京大学出版会、2016年

以下、フェイスブックでこの本について掲載した文章をそのまま貼り付けておきます。

春の読書案内にどうぞ。

『東大教師が新入生にすすめる本 2009−2015』(東京大学出版会)。3月末に刊行されたところです。

恒例の、4月に東大出版会の雑誌『UP』が各分野の教師を抽出してアンケートをとって掲載する読書案内の、最新版の書籍化です。これまで二冊、文春新書で出ていたのですが、今回は東大出版が書籍化しました。私は2012年のところに執筆しています。

私の同年代の人も多くなっているなあ。

アンケートを集めただけではなく、本の後半の第II部は「学問の奇跡を読む」と題して12の分野について重要な著作を紹介したエッセーが載っている。

法学(井上達夫。『リベラルのことは嫌いでも〜』の先生)、政治学(宇野重規)、歴史学(宮地正人)、社会学(盛山和夫)といった執筆者が、それぞれの学問の核となる文献や、その分野が取り組んで抱えてきた課題などに切り込んでいる。

私などは「東大教師」と呼ばれるのも恥ずかしい、理工系の研究所にイスラム政治思想という「分野」を設定してもらったおかげで学内ベンチャー企業のように属しているだけなのですが、でも春は法学部・公共政策大学院と文学部、秋は教養学部で精一杯教師やるときはやってます。

同時に必死に研究所で成果出します。邪魔しないでください。善意のご依頼が切実に私の研究の阻害要因
になっていることもあります。

個別にお話ししているともう手が回らないので、非公開のセミナーを専門家やメディア向けに先端研でやろうか、などという話も温めています。そういったいろいろな形で世の中に還元していきます。こういった本もそういった努力の少しの一部です。

【寄稿】『週刊エコノミスト』の読書日記、今回は「文系学部廃止」を考える

5回に1回連載が回ってくる『週刊エコノミスト』の読書日記、今回は、「文系学部廃止」問題を考えております。

池内恵「『文系学部廃止』で考える大学の未来像」『週刊エコノミスト』2016年4月12日号(第94巻第16号通巻4445号、4月4日発売)、59頁


『週刊エコノミスト』2016年04月12日号

この連載の通常通り、Kindleなど電子版には収録されていません。

取り上げたのは、なのですが、コラムでは私の考えていることばかり書いてしまっているので、あまり書評にはなっていないかもしれません。著者は著名な研究者でありつつ大学行政にもかなり関与したことのある人で、実際に研究と教育をする立場からの改革論になっていますので、読んでみてください(関係ないがタイトルに「衝撃」とつけるのがプチ・ブームなのか)。

考えてみると、受けた教育は全く文系ですし、極端に文系人間だと思うのですが、私は職業人としてはほとんど「文系学部」にお世話になったことがありません。

国際日本文化研究センターという、文系の中の異端的な機関に勤めた事はありますが、日本の大学の普通の文系学部とはおそらく全く違う環境だでした。そもそも文系学問をやりつつ、文系学部の弊害を取り払おうというのが一つのコンセプトで出来た機関だったからでしょう。国文学や国史学といったベタでドメスティックになりがちだった文系学問を、無理やり世界や社会に開くことを任務としていて、その代わりに人文研究者にとって最適の環境を与える、なんとも独特の場でした。文系は文系だけど、「学部」でもないですし(大学院博士課程のみですので、「学部」ではないのです。業界用語で分かりにくいかもしれませんが)。

今は東大の中の先端科学技術研究センターというところで、イスラム政治思想の「分野」というものを作ってくれたので、かろうじて東大の中にいますが、もはや「文系」でも「学部」でもないですね。最初の就職先もアジア経済研究所という経済産業省所管の開発研究を行う機関でしたし。

考えてみると、東大で現代中東をやっている人は昔も今もほとんどいなくて、社会的要請といったものに実際に応えてくれるのは理工系の学部であったりする現実も、身を以て感じています。しかも、別にグローバル・ジハードがここまで大問題になった現在じゃなくて、全くそんなものが話題にならなかった2008年に迎えてくれていたんだからね(私は大学院では工学系の先端学際工学専攻を担当しています)。理工系の人の独特の勘とか先読み力とか行動力を文系学部の人もちょっとは見習って欲しいと、私としては思います。(こういうことはコラムには書いていません)

しかし文系学部の担っているものは確かに非常に大きくて、それは目に見えないかもしれないが、なくなると非常に困る。文系学部はもともと小さな資源しか配分されていないので、無くしたってたいした節約にならない。ただ、文系学部が今のままでいいかという、そうでもないんじゃないかという気がするが、それは外からいじって良くなるものでは全くない。知りもしない人、知ったつもりになった人たちが外からいじればいじるほど悪くなるといってもいい。私自身は文系学部の中で仕事をしたこともないのだが、外からの観察をボソッとつぶやいたのが今回のコラム。

【寄稿】井筒俊彦全集第12巻の月報に井筒俊彦における宗教と言語の関係について

二つほど、文庫や全集に寄せた解説が刊行されました。

そのうち一つは『井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』の月報に書いたものです。

「月報」というのは、全集などが刊行される際に挟み込まれている冊子です。解説というよりは、井筒俊彦の思想そのものについて、そしてこの巻の主題となる「言語」についての、論考を寄稿しました。

池内恵「言語的現象としての宗教」『月報 井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』慶應義塾大学出版会、2016年3月


『アラビア語入門 』(井筒俊彦全集 第十二巻)

井筒俊彦全集の全貌についての、慶應義塾大学出版会の特設サイトはこちらから

私の寄稿のタイトル「言語的現象としての宗教」は、井筒の論文「言語的現象としての『啓示』」をちょっと意識しています(こちらは第11巻に収録されています)。私なりに、井筒における言語と宗教の関係を、対象化してみました。井筒のイスラーム論の特性と、その受容の際の日本的バイアスについては、過去に論文を書いてみましたが、今回はその続きとも言える論考です。

慶應義塾大学出版会の井筒俊彦全集は、全12巻+別巻で計13巻出ることになっています。次回の別巻で、いよいよ完結です。最後から二番目の巻で月報に滑り込むことができて、大変光栄でした。

なお、第12巻(詳細目次はこちらから)の主体をなす『アラビア語入門』が刊行されたのは1950年・・・。今でも役に立つのか?というと、たぶん、実用的にアラビア語の勉強を始めたいという人には、さすがに、向かないのじゃないかと思います。

ですが、アラビア語をできるようにならなくてもいい、という人にとってむしろ有益なのではないかと思います。そして日本人の圧倒的多数は、アラビア語を実用的にはやる必要がないでしょう。しかし日本語とも英語とも全く異なる言語体系がある、ということを感じ取るには、もしかすると井筒の大昔の入門が、最適かもしれません。

そして、井筒の本は多くが文庫になっていますが、さすがに『アラビア語入門』は文庫になっていませんし、今後もならないでしょう。そういう意味で、今回の全集で一番意義がある一冊と、言えるのかもしれません。全集で買わなければ手に入らない。これまでは入手が極めて困難だったのですから。

井筒俊彦は著作集が1991−93年に中央公論社から刊行されています。そちらは全11巻+別巻1の計12巻で、そこではアラビア語入門は収録されていませんでした。待望の一冊、と言えるでしょう。アッカド語やヒンドゥスターニー語についての論考・解説など、異世界に遊ぶには最適の一冊と言えるでしょう。

井筒俊彦全集12

安田純平さんのビデオ声明について

シリアで消息を絶っている安田純平さんについて、私は個人的には面識がなく、安田さんの交友関係も知らないので、何も情報を持っていませんが、安田さんのものとみられる映像については、Facebookで書いておきました。私にはこれ以上のことは分かりませんし、言うことができません。無事の帰還を祈っています。

安田純平さんが、どの程度、英語を正確に話すのか、私は知らない。ビデオでの発言のこの部分は、英語の語法が不確かなので、意味を正確に理解することは難しい。

“I have to say to something to my country:When you’re sitting there, wherever you are, in a dark room, suffering with the pain, there’s still no one. No one answering. No one responding. You’re invisible.”

しかし、シリア内戦の対立関係と、3月14日に開始されたジュネーブでの和平協議を背景に解釈すると、ほぼ想像できる。「アサド政権の攻撃によってシリアの人々が苦しんでいるのに、日本は何もしていない。日本の声が聞こえてこない」と訴えているのではないか。和平協議によってアサド政権の存続が認められようとしているタイミングで、この映像が発信されたのは、和平協議に反対する意思を伝えるためかもしれない。

「国際社会がアサド政権による空爆や殺害に反対してくれない」という批判は、シリアの反体制派が共通して表明する立場であり、和平協議に参加していないヌスラ戦線の立場でもある。もし安田さんがヌスラ戦線の拘束下にあるのであれば、安田さんがこのように話すのは理解出来る。

また、安田純平さんもある程度反体制派に共感しており、アサド政権による市民の殺害を批判する立場なので、「強制されて言わされている」だけではなく、本心で言っているのかもしれない。

ヌスラ戦線は、ISとは異なり、人質を殺して映像を発信することそのものを、目的にはしていないはずだ。人質を殺せば、シリア反体制派に対する日本の世論は悪くなる。安田さんを生かしておき、日本国民や日本政府に対するメッセージを伝える報道官とすることが合理的だ。私は彼らがそのように決断をすることを願っている。

【テレビ出演】本日の「NHKクローズアップ現代」でグローバル・ジハードの拡散について

本日3月16日午後7時30分からNHKクローズアップ現代「テロ“拡散”時代 世界はどう向き合うか」に出演し、グローバル・ジハードの拡散と拡大のメカニズムについて解説します。(再放送は日付変わって17日の午前1時3分〜)

番組予告はここから

クローズアップ現代

番組予告ではテロの「標的」がソフトターゲットになっていることを強調しているようですが、私自身の解説は、テロの「主体」の側が拡散し分散型・自発的呼応型になっていること、さらにそれがイラクやシリアなどで領域支配を「拡大」することによって、聖域・拠点を得て、拡散にもさらに強度を増したハイブリッド型になっているといった基本ラインを説明しようと思っています。

また、クローズアップ現代のリニューアルも近づいている間近ですので、2001年の9・11事件以来の世界の変動についても振り返ってみたいですね。長かったような、短かったような。

【寄稿】(補遺)パリ同時テロ事件について『ふらんす』増刊に書いていた

年末年初の出版物の通知を忘れていました。

昨年暮れから今まで、プエルトリコ、テキサス、ニューヨーク、神戸、シンガポール、ロンドンと回っていましたので、その間にいくつか抜け落ちていました。

池内恵「『イスラーム国』の二つの顔」白水社編集部編『ふらんす 特別編集 パリ同時テロ事件を考える』
白水社、2015年12月25日発行、106−109頁


『パリ同時テロ事件を考える』

前回、シャルリー・エブド誌襲撃事件の時の『ふらんす 特別編集 シャルリ・エブド事件を考える』に続いての寄稿です。


『シャルリ・エブド事件を考える』

前回と同じく、巻末の収録となりました。

「自由をめぐる二つの公準」
「『イスラーム国』の二つの顔」

どこか韻を踏んでいますね?対になる作品です。前回からすでに今回があることを予想していたわけではないが、対になる部分のことはなんとなく予想していた。

なお、4月末か5月初頭までに、品切れになって入手が難しくなっている『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年)に、この論考を含めて10本余りを加えて、増補新版を出します。もともと分厚い本がさらに分厚くなりすぎるので、これが決定版。

単行本が出た後に発表した論考だけでなく、もっと前の、2002年の講義録を元にして論文集に収録されていたため前回は収録を見送った幻の論文なども再録します。あの頃、先の先まで考えて、一生懸命書いていたことは、全然古くなっていない。むしろ理論的に想定して仮定に仮定を重ねて書いたことが、どんどん現実化していく。

足掛け15年くらいかけての、イスラーム世界の思想面での年代記となってしまった。

そして、値段は初版と変わらない2600円にする予定なのです。

この本の増補再刊はかなり前から話があったのだけれども、価格と部数について、市場の声を聞くために、クラウドファンディング的なアンケートに協力もお願いした。その後押しもあって、増補したのに本体価格は据え置きの2600円、という現在の萎縮する出版業界では通常はあり得ない条件で刊行作業が進んでいます。皆様に御礼申し上げます。

また通知します。

パリ同時テロ事件を考える

【寄稿】『學士會会報』にグローバル・ジハードについて

寄稿しました。

池内恵「グローバル・ジハードが来た道−−拡大と拡散の往還−−」『學士會会報』No. 917(2016-II), 2016年3月1日, 19-23頁

「イスラーム国」の背後にあるグローバル・ジハードの理論と実践について、歴史的な文脈の前半部分を特に厚めに書きました。このテーマについて講演などで喋りながら頭をまとめている最中です。なおこれは講演録ではなく書き下ろしです。

學士會とはなんぞや

學士會ロゴ

なお、私、學士會は入っておりません。卒業の時に会費払うのが嫌で入会しないでいるとそのままおそらく一生入らない、という感じなのではないかな。いや、今はホームページから入会申し込みができるそうなので入会資格のある方はどうぞ。「学士」が最終学歴で出身母体や身分みたいになっていた時代がいいとも思わないのだが、たぶん入会資格も時代に合わせて変わっているのではないかと思うが調べていない。

これが「同窓会」とどう違うかもわからない。最近は各大学が寄付を募るためにも同窓会を上から組織化しようとしているようで、それと學士會との関係は・・・なんてことも気にならないわけではないが、現役世代はとにかく仕事が忙しくてそれどころではないのだよ。

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記で『漂流するトルコ』『トルコのもう一つの顔』を紹介

昨日発売の『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)2016年3月8日号掲載の読書日記で、小島剛一『漂流するトルコ』(旅行人)と、『トルコのもう一つの顔』(中公新書)を取り上げました。

以前にフェイスブックでこの2冊について紹介した時は(『トルコのもう一つの顔』『漂流するトルコ』)非常に反響があったので、品薄状態が続いていましたが、そろそろ解消されていると思います。

クルド人勢力への強硬な措置でも、「イスラーム国」との関係でも、シリア内戦をめぐる「問題児」化でも、まさに「トルコのもう一つの顔」が明らかになる今日この頃ですが、そのたびに昔読んだ中公新書を思い出すのです。20年後に出た続編も買っていました。

なお、書評は2月17日のアンカラのテロよりも前に書きました。

今回、書評を書くために段ボール箱の奥から中公新書を引っ張り出してきたのですが、なんと、比較文学をやっていた大学の同級生(一年上だったかな)から借りたもので、ずっと借りっぱなしになっていたということが判明いたしました。そうでした。返していませんでした。すみません。

しかも長く連絡が途絶えていたその友人が、転職して、今は『週刊エコノミスト』を出している毎日新聞社にいると判明。

そういったことも含めて、尽きせぬ特異な力を秘めた本であると再認識いたしました。魅入られてしまった人がずいぶんいる。

池内恵「『新興国の雄』だったトルコの漂流する素顔」『週刊エコノミスト』2016年3月8日号(2月29日発売)、61頁

今回もKindleなど電子版には掲載されていません。

5回に1回担当する読書日記欄ですが、もう19回目になります。このブログでは読書日記の連載をきっかけにして、電子書籍を含む出版のありかたや、書評という制度の役割や可能性、今後のあり方なども考える論考をいくつか掲載してありますので、文化としての出版と書評、そして産業としての出版について、興味がある人は検索してみてください。

【寄稿】『北海道新聞』に待鳥聡史『代議制民主主義』の書評を

このブログで以前に紹介した、待鳥聡史さんの『代議制民主主義』の書評が『北海道新聞』に掲載され、ウェブサイトでも公開されました。

池内恵「書評 待鳥聡史『代議制民主主義』 制度使いこなす「説明書」『北海道新聞』2016年2月21日

書評としては、一般向けにすらすら読める文体と論理展開で書けました。対象となる本が明晰だからですね。

全文を貼り付けておきます。北海道新聞のウェブサイトも探索してみてください。

代議制民主主義 待鳥聡史著
評 池内恵 東京大准教授

制度使いこなす「説明書」

「議会の決定は国民の声を反映していない」「多数決がすべてではない」といった議会制への懐疑論、あるいはあからさまな否定論すら、しばしば耳にする。あるいは「小選挙区制になって、最近の議員は小ツブになった」といった議論も、新聞紙上を含めて、頻繁に目にするだろう。「なぜ自民党内で安倍政権に反旗を翻さないのか。かつての自民党は党内抗争が活発で、そこから論争が起こり、政権交代がなされたのだ」云々(うんぬん)。
 これらは、しかるべき先達と共に議会制と民主主義の原則と制度を根気良く考えていけば、いずれも俗説にすぎず、知ってしまえば恥ずかしくなるぐらいの誤謬(ごびゅう)を含むと分かる。人口に膾炙(かいしゃ)した議論に部分的には多少の真理が含まれていないではないが、それは「三分の理」程度の話である。しかしそのことを分かる機会がある人はそう多くはない。この本をじっくり読んでみる機会を得た人は幸運である。
 骨格となるのは第3章の制度論である。代議制民主主義とはすなわち、委任と責任の連鎖である、と著者は言い切る。委任とは、有権者から政治家を経て官僚に至る、権限の一部が委ねられていく連鎖の仕組みである。有権者はただ権限を委ねてしまうわけではない。委任の連鎖と逆向きに、官僚から政治家を経て有権者に至る説明責任の経路が確保されている。しかし委任と責任を適切に対応させるのは至難の業である。歴史と国柄、その時々の国民の意思によって、そのための制度は異なり、それぞれに得失がある。政治学の研究蓄積を踏まえ、代議制民主主義の可能なあり方が、隅々まで論理的に展開される。
 今の制度が嫌なら別の制度もありうる。重要なのは、選んだ制度を使いこなすことだ。使いこなす主体は議員でもアベさんでもなく、有権者である読者一人一人であり、代議制民主主義の成否は読者にかかっていることを、思い出させてくれる。民主主義とその制度の明晰(めいせき)な「取扱説明書」である。

メディアと政治の関係と、それを支えていたムラ社会の崩壊はどこまで及ぶか

これは重要なコラム。

三浦瑠璃「メディア「ムラ」は民主的に統制されるべきか?―高市総務相の放送法発言問題」『山猫日記』ブログ、2016年2月16日

浅薄な党派性や、学者業界のやっかみ、色々なゲスの勘ぐりとかは別にして、自分の拠って立つ根拠を問い直すのに有用な論説です。

メディアへの政治の介入がメディア産業大手の媒体で盛んに議論されるけれども、どこかピンとこない。

言論が不自由になっているというが、不自由になったとされる事例の大部分は、メディア産業の内部で勝手に自粛し、勝手に忖度して不自由にしているだけだ。確かに政治家の圧力はあるだろう。しかしなぜそれにメディアが脆弱になったのか?

ここで三浦さんはメディア産業のムラ社会としての崩壊あるいは弱体化を真の理由としています。

私がもっと大雑把に単刀直入に言ってしまうと、今の政治家が昔よりメディアに圧力をかけるようになったというよりは、今のメディア産業が以前より財政面でも、知的な優位性や排他性を根幹とした競争力といった存立根拠の面でも脆弱になり、その結果、政治家の顔色を伺うようになったのです。

過去の政治家なんてそれはもう、様々な恫喝を繰り返していたわけです。しかし今のように問題になることは少なかった。今の社会が右傾化したから問題になるのか?そうではありません。

今は政治家が何も言わなくても、メディア企業の現場が(特に中間管理職が)萎縮して、先回りして忖度して、企画を潰し、出演者をすげ替え、番組をなくしていく。そこが問題なのです。それはなぜなのか?

以前は政治家の圧力があまり問題にならなかった理由は、一つは、「昔はそんなことが当たり前だったから」ということもあります。昔は今よりもっと理不尽がいっぱいの世の中だったんです。だから一つ一つの理不尽はあまり問題視されなかった。昔は今よりずっと身分制社会でした。専門能力を高めても報われず、家系とか大学学歴(学校歴)と最初の就職先で決まった身分差が、徳川時代の家格差のように一生固定されて、その中でのお役目を演じていなければならなかった。男女の役割ももっともっと、もっともっともっともっと・・・固定的だった。

SNSもないから、人々はあらゆる理不尽を、黙って耐え忍ぶしかなかった。時々出てくる「コンピュータ付きブルドーザ」とか(知らない人はググってね)、最近では(もう最近ではないか)何かと官僚を土下座させて従わせた北の代議士さんとかが秩序を一時的にひっくり返してくれることに、民衆は快哉を叫んだのですが、それで大勢は変わらなかった。

もう一つは、ここで三浦さんが指摘しているように、かつては政治は政治、メディアはメディアでムラ社会があって、その中の秩序には外の介入を(ある程度)はねのけるという形で、一定の抑止力が働いていたのです。政治家の介入に対して、「相打ち」ぐらいにはできた。メディア・ムラの中の誰かが何かの番組で政治家とトラブっても、相互にクビを賭けるぐらいの重大事になると、メディアがムラをあげて擁護してくれて、喧嘩両成敗ぐらいに持ち込んでくれた。それで理不尽に飛ばされたり辞めさせられたりしても、ムラの中のどこかで処遇してもらえたのです。

これはメディア産業に限ったことではなく、土建だの鉄鋼だの銀行だの、あるいは各省庁や公営企業などにそれぞれ、業界がありムラ社会がありました。たとえば極端な話、企業が汚職で時々特捜部に挙げられても、社員を差し出して社全体あるいは上層部には累が及ばないようにした。検察を含めた政府もそれぐらいで矛を収めたわけです。社員は肝心なことに口を割らなければ、出所してからムラのどこかで人知れず処遇された。おおっぴらに復権することすらあった。国家の法すら、ムラ社会がある程度介入を阻止していたのです。

メディア産業の確保していたように見える「自由」は、自由の理念を信奉し守り抜く、意識と能力の高いジャーナリストたちによって成立していたのではありません。ムラ社会の論理でよそ者(政治家を含む)を排除していたことが、あたかも「自由」を獲得しているように見えただけです。

だからムラ社会の中で都合が悪いことについて大いに自由を抑圧して恥じない人たちが、メディア産業の構成員でいられた。そういう人がムラの中で出世した。それは専門能力ともジャーナリストとしての意識の高さとも関係なかった。偉くなった人が偉いジャーナリストと呼ばれていただけなので、昔のジャーナリストとされる人の本を読んでも、ろくなものはありません。そもそも取材力や論理的思考力なんて問われていなかったのです。「政治家の懐に入る」とか、単なる癒着です。メディア・ムラと政治ムラの入会地のような記者クラブとか待合(知らない人はググってね)で、どれだけそれぞれのムラの論理を背負って談合できるかが出世の分かれ道だったのです。

ムラ社会の崩壊は、根本はグローバル化の影響によるものです。特定の会社と、会社が属するムラ社会のしきたりに習熟しているということが、国際比較の上でさほど価値を持たないことがばれてしまったのです。ばれやすい業界から早く潰れて改組されていきました。金融のようにはっきりと海外との力の差が出る業界が先に壊れて、銀行の数はうんと少なくなりました。

金融の世界よりも国際比較がしにくい業界は、改組が遅れましたが、グローバル化がより深く広く浸透することで、やがて既存の業界ムラ社会が立ち行かなくなる時代が、業界ごとに順にやってきています。メディア業界にもついにその波が及んだのでしょう。

なお、政治の世界は、小選挙区制の導入など1990年代の前半の改革で、部分的にグローバル化の影響が及んでいます。だから政治ムラの基本構成単位であった派閥の力も弱くなり、族議員の力も弱まり、以前よりずっと少額の汚職で政治家が捕まるようになり、そして政権交代も生じたのです。

しかし政治家の汚職を、ムラ社会同士の緊張・均衡関係の微妙な間合いで暴いたり黙認したりしていたメディア産業にも、政治の動向とはひとまず関係なく、グローバル化の影響が及びます。日本語という言語障壁に守られていたので、波が及ぶのが遅れたのです。

インターネットやSNSなど情報コミュニケーション・ツールの発展と普及が、ついに日本のメディア産業にもグローバル化の影響を十全にもたらしました。海外のニュース・メディアから簡単に国内で情報を入手できるようになり、AIやクラウド的に効率的に情報が取捨選択されるようになると、そこに介在していたメディア産業の優位性は薄れます。

かつては新聞社や通信社は高い契約料を払ってロイターから記事を買っていました。テレックスからぺろぺろと出てくる紙を見て、それを元にちょいちょいと潤色して記事を書いていれば、日本の誰よりも知っているような顔をできたのです。

ところが、今やロイターも、インターネット上で英語で主要記事はほぼ全部リアルタイムで無料で公開してくれています。高い講読料を払える会社とか官庁とかに属していないと海外情報を得られないという時代ではなくなったのです。それによってメディア産業の内部にいる人の知的な比較優位は劇的に低減しました。これは金融業界どころではない暴落ぶりです。

同じように、かつては外務省の中にいて、大使館からくる「公電」を読めることが、海外事情に関する圧倒的な優位性を外交官にもたらしていました。

しかし実際にはその「公電」の大部分は現地の新聞をクリッピングしたものなので、インターネットで現地の報道をリアルタイムで見られる現在、公電を読める官僚の優位性もかなり低下しています。これはロイターとそれを後追いする特派員を置いていた新聞の優位性が崩れたのと同じ道理です。

かつては宮澤喜一さんが毎朝英字新聞を読んでいるというだけで、政治ムラでもメディア・ムラでも尊敬されていて、実際一足早く情報をつかめていたんです。信じられないですね。それではもう、外交・安全保障で欧米に負けますよね。向こうには何万人も何十万人も「毎朝英字新聞をきちっと読んでいる宮澤さん」程度の人はいるんですから(もっといるか)。逆に、欧米企業も日本市場のことを分からなかった。日本市場に入るには日本のそれぞれの業界のムラ社会を仕切る企業と組むしかなかった。

このような理由で、現在、メディア産業は、財政的にだけでなく、その根幹の知的優位性で、存立根拠を掘り崩されてしまっているのです。一般読者がインターネットを通じて情報を得てしまうことを、ムラ社会の論理で止めることはできません。特に国際分野ではそれが顕著です。外にある情報の方が一次情報に近く、国内のメディア・ムラはそれをかつて独占的に入手して翻訳して色をつけていただけだった(かえって分かりにくくしていたりした)のですが、ほぼ無料か、安価な講読料で誰でも元のソースに当たれるようになったので、「鞘抜き」をしていた業界の基盤が一気に失われてしまったのです。

このような根本的な変化による苦境に目を向けると、そもそも今いる社員の大部分はこのままでは今後のあるべき組織では必要ない、と言われてしまいかねませんので、見ないようにしたい。まずは規制の維持や税制面を含む優遇措置でなんとかムラ社会の優位性を保ちたい、と努力するわけですから、政治にこれまで以上に依存するようになります。そうなるとやたらと忖度するようになるのです。個々のメディア企業人も、クビになってももうムラの中で処遇してもらえないし、財政基盤や職業機会そのものが細っているのを知っているから、しがみつく。しがみつくために忖度する。政治家が「あれがね〜」と言っただけで「あれですね!これですね!」と忖度して打ち止めにしたり降ろしたりしてしまう。

ここまでメディアが脆弱になったんだから、ただでさえ顔色伺うんだから、政治家はあまり厳しく言わんといてくれ、口には気をつけてくれ、というのは私も思わないではないですが、 それをジャーナリスト自らが言ってしまうのは、あまりに嘆かわしいのではないでしょうか。

では、どうしたらメディア産業人が政治家の顔色を伺わないでよくなるのか、といえば、簡単な話で、個々の記者の専門能力といった根本的なところから、企業・業界の体質改善をしなければなりません。情報そのものの価値を高めて政治への依存を低めるという形で、肯定的な意味でムラ社会の崩壊を乗り越えないといけないのです。

(そのためには、大学院に来て鍛えなおしましょうよ!と大学業界に利益誘導してみる、というのはちょっと本気の冗談です。本気ですいえ冗談です)

個々の記者にはそういった努力をしている人は結構いますが、そうでない人を守るのがムラ社会の論理であり、そうでない人の方が数としては多いのが世の常でしょう。これまでやってきたこと、自分が築き上げてきたものを否定することはつらいものです。できれば逃げ切りたい。

でも、もう逃げ切れないんじゃないかな・・・ということを、すでに多くは気づいているんでしょうが、なおも認めてはいない。認めるということこそが、ムラ社会の掟を破ることだから。多くが気づいているんだけれども、認められないでいる。

こういう状態は、政治学・社会科学的にはかなり研究されています。そして、どこかで閾値を超えたときに、大きな変化が起こることも知られています。閾値がどこかは、変化が生じてみないと分かりません。それは社会科学の限界です。

しかしおおよそ言えることを挙げておくと、一つには世代交代が影響を与えるでしょう。頑固にムラ社会を守ってきた上の世代が退き、若い世代はもう「逃げ切れない」と感じて、ムラ社会の既存秩序の維持にコミットしなくなる。その時に大きな変化が訪れるでしょう。

ただ、お神輿と同じで、本当にどうしようもずっしりと重くなるまでは、担いでいるフリをする人が多いですから、誰もがいつ逃げ出せばいいかわからない。でも気づいた時には、全員が担いだフリをしているだけになって、突然ドカンと神輿が落ちてしまう。

私自身は、萎縮や番組改編をめぐって今現在特に話題になっているテレビ、あるいは日本では戦後の長い自民党支配の下で政策によって産業構造的にテレビと不可分になっている新聞を主とするメディア産業だけでなく、その一部とも言えるが、部分的に重なる別の産業とも定義次第では言える出版産業もまた、大きな変化が生じる閾値の限界まできていると感じています。それは日々のやりとりで、「あ、ここ危ないな」と感じる、私の勘に過ぎませんので、杞憂であってくれることを望みます。でも取次とかどんどん潰れているということは、従来の形の流通が立ち行かなくなっているのでしょう。取次から回収できないで損失を被っている出版社も多いでしょう。幾つかの出版社を採算度外視で支えてくれていたスポンサー企業も、それがメディア産業であれば、苦しくなっているでしょう。

たとえ今年や来年に危機が現実化しなかったとしても、それは危機を回避した、乗り越えたということではなく、破局が先延ばしになっているだけではないか、むしろなんらかの無理な外在的な支えによって、あるべき再編が先延ばしになり、将来にもっとひどい状態になってからギブアップするのではないか、とも危惧します。その時こそ、メディアは「第二の敗戦」と自らのムラ社会の終焉を報じるのでしょうか(そもそもその時に残っているメディアとはどういうものなのでしょうか)。

さて、メディアと出版に一定程度関係があり、部分的に依存している面がある大学という産業も、グローバル化の波を受け続けています。末端の教員の質や授業の内容などでは、2−30年前とは大きく変わっている部分があります。留学が一生に一度の「洋行」だった時代とは異なり、日々の研究・調査で常に外国の最先端の議論に触れ、やり取りすることが可能になった現在、個々の研究者は、その最先端では急速にグローバル化していることを、付き合いのある同世代の研究者たちの動きや成果を見て感じます。近年の大学改革議論が、そういったグローバル化の波を受けなかった時代に教育を受けた官僚や企業人、旧来の基準で評価され本を出し重用されてきた人たちによって主導されていることを、私は危惧します。

同時に、「学部の自治」という日本の固有の慣習や、国際的な基準をある程度取り入れた「研究者の相互評価(ピア・レビュー)」「学者の終身任用制(テニュア)」によって、大学内には一定の連続性が保たれているとともに、それが実態上は単に学者の世界のムラ社会の支配を温存させるだけで、学的卓越性の向上には繋がっていない場面もしばしば見かけます。しかし外部から改革圧力をかけることが、それらのムラ社会を一層頑なにし、ムラ社会の異分子を排除して縮小均衡を図ることに終わり、「改革者」は偽りの「成果」を手に天下っていく、といった残念な結果に終わりかねないことも予感しています。大学は政治による介入とは根本的に相容れないところがあります。

長い話になってしまいましたが、私が本当に言いたかったことはこの最後の部分なのかもしれません。メディアと政治の関係の変貌に、日本型ムラ社会の崩壊を見る三浦さんの視線は、もしかすると、おそらく、いや、きっと大学というムラ社会の基礎が掘り崩されていることも、見通しているのではないか。

三浦さんとはお会いしたことがありませんが、大学のムラ社会での登用という意味ではさほどプラスにならないどころか害になりかねない、先例のない大胆な形式で世の中に影響を与える大々的な言論活動に踏み切った三浦さんの発言には時折、いやしょっちゅう、何かを考えさせられます。

日本政治については実はそれほど関心がない私にとって、むしろ三浦さんの立っている場所と、そこから可能になる視点が気になります。「研究員」という、大学世界の内側を知っているアウトサイダーの立場からは、大学という世界にも、ムラ社会の存立根拠の溶解が進行していることがもっともっと明らかに見えており、完全にその中に入ってコミットする価値が、少なくとも三浦さんの立場からは感じられない、という程度のものになっているのではないか。

そして、大学というムラ社会の弱体化を一定の距離を置いて見る視点からこそ、メディアと政治の関係も、一歩引いてムラ社会の崩壊の余波として見ることができるのではないか、と。

もしかするとこれは今現在の私の関心事に過ぎないのであって、三浦さんのメディア政治論から多くを読み取り過ぎているのかもしれませんが。

『イスラーム国の衝撃』が「新書大賞」の第3位に

「2016新書大賞」(中央公論新社後援)で、『イスラーム国の衝撃』
が第3位になっています。

『中央公論』3 月号143頁に『イスラーム国の衝撃』についての主要な選評の抜粋が載っています。135頁に20位までの順位表が。

「目利き28人が選ぶ2015年私のオススメ新書」(150−167頁)、永江朗・荻上チキ(対談)「『ぶれない軸」を持っているかがレーベルの明暗を分けた」(168−177頁)での選評もどうぞ。

『2016新書大賞」は、2015年内に刊行された新書を対象に、書店員、各社新書編集部、新聞記者、その他有識者などを含めた82人がそれぞれ5点を選んで集計したものです(正確には2014年12月から2015年11月発行の新書が対象なようです(『中央公論』3月号135頁)。

このブログで何度も書いているように、私は現在の出版業界の新書乱立、雑誌の特集一本程度の薄い内容で短期間に売る商法を好ましいとも持続可能とも思っておらず、距離を置いていますが、どうしても必要と考えて、狙った時期に投げ込んだ本が読者に受容され、このように評価も受けるのは、大変に嬉しいことです。

今年の新書大賞(第1位)は井上章一『京都ぎらい』(朝日新書)でした。

井上章一さんは、京都の日文研で同僚だったこともある先生ですが、確かに面白い。何度も書いたいつものテーマを二番煎じぐらいにすると、一般向けに売れて評価されるようです。著者インタビュー(138−141頁)で本人も「そんなに力を入れて書いた本ではないので(笑)」(138頁)と仰っています。井上先生が京都ネタを語る時に常に出す、(1)京都の旧家として有名な杉本秀太郎先生(フランス文学者・元日文研教授)に初対面の時に「嵯峨出身」と告げると、「あのあたりにいるお百姓さんが、うちへよう肥をくみにきてくれたんや」と言われたという衝撃の原体験、そして(2)京都府出身のプロレスラー「ブラザー・ヤッシー」の「京都凱旋」に対して会場の客が「お前は宇治やないか」とヤジが飛んだ、という鉄板ネタが、すでに活字でも何度見たか知りませんが、今回も目にすることができます。

『コーランの読み方』がポプラ新書から発売・すぐ増刷に

2月1日に翻訳書が刊行されました。そして発売から1週間も経たないうちにすぐに増刷が決まりました。イスラーム教の入門書への高い関心を感じます。

ブルース・ローレンス(池内恵訳)『コーランの読み方 イスラーム思想の謎に迫る』ポプラ新書、2016年

宗教学者・イスラーム思想学者のブルース・ローレンス(デューク大学教授=原著刊行当時:最近名誉教授になったようです)が書いたイスラーム教の入門書・概説書です。2008年にポプラ社から「名著誕生」シリーズの中で単行本として刊行されていましたが(『コーラン(名著誕生)』です。2刷が出ているので今も買えるようです。こちらは巻末に塩野七生さんとの対談が収録されています)、このたび翻訳を検討し直して、そして通常とは異なる読み方になりがちな宗教的な訳語にはルビもふって、初学者にもなじみやすくしました。

高校や大学の先生が、授業などでイスラーム教・イスラーム思想史の概説する際にもいいですよ。これを日本語で読める、手に取りやすい形でになったことで、イスラーム教やイスラーム思想史の理解に格段の違いが出ると思う。