メディアと政治の関係と、それを支えていたムラ社会の崩壊はどこまで及ぶか

これは重要なコラム。

三浦瑠璃「メディア「ムラ」は民主的に統制されるべきか?―高市総務相の放送法発言問題」『山猫日記』ブログ、2016年2月16日

浅薄な党派性や、学者業界のやっかみ、色々なゲスの勘ぐりとかは別にして、自分の拠って立つ根拠を問い直すのに有用な論説です。

メディアへの政治の介入がメディア産業大手の媒体で盛んに議論されるけれども、どこかピンとこない。

言論が不自由になっているというが、不自由になったとされる事例の大部分は、メディア産業の内部で勝手に自粛し、勝手に忖度して不自由にしているだけだ。確かに政治家の圧力はあるだろう。しかしなぜそれにメディアが脆弱になったのか?

ここで三浦さんはメディア産業のムラ社会としての崩壊あるいは弱体化を真の理由としています。

私がもっと大雑把に単刀直入に言ってしまうと、今の政治家が昔よりメディアに圧力をかけるようになったというよりは、今のメディア産業が以前より財政面でも、知的な優位性や排他性を根幹とした競争力といった存立根拠の面でも脆弱になり、その結果、政治家の顔色を伺うようになったのです。

過去の政治家なんてそれはもう、様々な恫喝を繰り返していたわけです。しかし今のように問題になることは少なかった。今の社会が右傾化したから問題になるのか?そうではありません。

今は政治家が何も言わなくても、メディア企業の現場が(特に中間管理職が)萎縮して、先回りして忖度して、企画を潰し、出演者をすげ替え、番組をなくしていく。そこが問題なのです。それはなぜなのか?

以前は政治家の圧力があまり問題にならなかった理由は、一つは、「昔はそんなことが当たり前だったから」ということもあります。昔は今よりもっと理不尽がいっぱいの世の中だったんです。だから一つ一つの理不尽はあまり問題視されなかった。昔は今よりずっと身分制社会でした。専門能力を高めても報われず、家系とか大学学歴(学校歴)と最初の就職先で決まった身分差が、徳川時代の家格差のように一生固定されて、その中でのお役目を演じていなければならなかった。男女の役割ももっともっと、もっともっともっともっと・・・固定的だった。

SNSもないから、人々はあらゆる理不尽を、黙って耐え忍ぶしかなかった。時々出てくる「コンピュータ付きブルドーザ」とか(知らない人はググってね)、最近では(もう最近ではないか)何かと官僚を土下座させて従わせた北の代議士さんとかが秩序を一時的にひっくり返してくれることに、民衆は快哉を叫んだのですが、それで大勢は変わらなかった。

もう一つは、ここで三浦さんが指摘しているように、かつては政治は政治、メディアはメディアでムラ社会があって、その中の秩序には外の介入を(ある程度)はねのけるという形で、一定の抑止力が働いていたのです。政治家の介入に対して、「相打ち」ぐらいにはできた。メディア・ムラの中の誰かが何かの番組で政治家とトラブっても、相互にクビを賭けるぐらいの重大事になると、メディアがムラをあげて擁護してくれて、喧嘩両成敗ぐらいに持ち込んでくれた。それで理不尽に飛ばされたり辞めさせられたりしても、ムラの中のどこかで処遇してもらえたのです。

これはメディア産業に限ったことではなく、土建だの鉄鋼だの銀行だの、あるいは各省庁や公営企業などにそれぞれ、業界がありムラ社会がありました。たとえば極端な話、企業が汚職で時々特捜部に挙げられても、社員を差し出して社全体あるいは上層部には累が及ばないようにした。検察を含めた政府もそれぐらいで矛を収めたわけです。社員は肝心なことに口を割らなければ、出所してからムラのどこかで人知れず処遇された。おおっぴらに復権することすらあった。国家の法すら、ムラ社会がある程度介入を阻止していたのです。

メディア産業の確保していたように見える「自由」は、自由の理念を信奉し守り抜く、意識と能力の高いジャーナリストたちによって成立していたのではありません。ムラ社会の論理でよそ者(政治家を含む)を排除していたことが、あたかも「自由」を獲得しているように見えただけです。

だからムラ社会の中で都合が悪いことについて大いに自由を抑圧して恥じない人たちが、メディア産業の構成員でいられた。そういう人がムラの中で出世した。それは専門能力ともジャーナリストとしての意識の高さとも関係なかった。偉くなった人が偉いジャーナリストと呼ばれていただけなので、昔のジャーナリストとされる人の本を読んでも、ろくなものはありません。そもそも取材力や論理的思考力なんて問われていなかったのです。「政治家の懐に入る」とか、単なる癒着です。メディア・ムラと政治ムラの入会地のような記者クラブとか待合(知らない人はググってね)で、どれだけそれぞれのムラの論理を背負って談合できるかが出世の分かれ道だったのです。

ムラ社会の崩壊は、根本はグローバル化の影響によるものです。特定の会社と、会社が属するムラ社会のしきたりに習熟しているということが、国際比較の上でさほど価値を持たないことがばれてしまったのです。ばれやすい業界から早く潰れて改組されていきました。金融のようにはっきりと海外との力の差が出る業界が先に壊れて、銀行の数はうんと少なくなりました。

金融の世界よりも国際比較がしにくい業界は、改組が遅れましたが、グローバル化がより深く広く浸透することで、やがて既存の業界ムラ社会が立ち行かなくなる時代が、業界ごとに順にやってきています。メディア業界にもついにその波が及んだのでしょう。

なお、政治の世界は、小選挙区制の導入など1990年代の前半の改革で、部分的にグローバル化の影響が及んでいます。だから政治ムラの基本構成単位であった派閥の力も弱くなり、族議員の力も弱まり、以前よりずっと少額の汚職で政治家が捕まるようになり、そして政権交代も生じたのです。

しかし政治家の汚職を、ムラ社会同士の緊張・均衡関係の微妙な間合いで暴いたり黙認したりしていたメディア産業にも、政治の動向とはひとまず関係なく、グローバル化の影響が及びます。日本語という言語障壁に守られていたので、波が及ぶのが遅れたのです。

インターネットやSNSなど情報コミュニケーション・ツールの発展と普及が、ついに日本のメディア産業にもグローバル化の影響を十全にもたらしました。海外のニュース・メディアから簡単に国内で情報を入手できるようになり、AIやクラウド的に効率的に情報が取捨選択されるようになると、そこに介在していたメディア産業の優位性は薄れます。

かつては新聞社や通信社は高い契約料を払ってロイターから記事を買っていました。テレックスからぺろぺろと出てくる紙を見て、それを元にちょいちょいと潤色して記事を書いていれば、日本の誰よりも知っているような顔をできたのです。

ところが、今やロイターも、インターネット上で英語で主要記事はほぼ全部リアルタイムで無料で公開してくれています。高い講読料を払える会社とか官庁とかに属していないと海外情報を得られないという時代ではなくなったのです。それによってメディア産業の内部にいる人の知的な比較優位は劇的に低減しました。これは金融業界どころではない暴落ぶりです。

同じように、かつては外務省の中にいて、大使館からくる「公電」を読めることが、海外事情に関する圧倒的な優位性を外交官にもたらしていました。

しかし実際にはその「公電」の大部分は現地の新聞をクリッピングしたものなので、インターネットで現地の報道をリアルタイムで見られる現在、公電を読める官僚の優位性もかなり低下しています。これはロイターとそれを後追いする特派員を置いていた新聞の優位性が崩れたのと同じ道理です。

かつては宮澤喜一さんが毎朝英字新聞を読んでいるというだけで、政治ムラでもメディア・ムラでも尊敬されていて、実際一足早く情報をつかめていたんです。信じられないですね。それではもう、外交・安全保障で欧米に負けますよね。向こうには何万人も何十万人も「毎朝英字新聞をきちっと読んでいる宮澤さん」程度の人はいるんですから(もっといるか)。逆に、欧米企業も日本市場のことを分からなかった。日本市場に入るには日本のそれぞれの業界のムラ社会を仕切る企業と組むしかなかった。

このような理由で、現在、メディア産業は、財政的にだけでなく、その根幹の知的優位性で、存立根拠を掘り崩されてしまっているのです。一般読者がインターネットを通じて情報を得てしまうことを、ムラ社会の論理で止めることはできません。特に国際分野ではそれが顕著です。外にある情報の方が一次情報に近く、国内のメディア・ムラはそれをかつて独占的に入手して翻訳して色をつけていただけだった(かえって分かりにくくしていたりした)のですが、ほぼ無料か、安価な講読料で誰でも元のソースに当たれるようになったので、「鞘抜き」をしていた業界の基盤が一気に失われてしまったのです。

このような根本的な変化による苦境に目を向けると、そもそも今いる社員の大部分はこのままでは今後のあるべき組織では必要ない、と言われてしまいかねませんので、見ないようにしたい。まずは規制の維持や税制面を含む優遇措置でなんとかムラ社会の優位性を保ちたい、と努力するわけですから、政治にこれまで以上に依存するようになります。そうなるとやたらと忖度するようになるのです。個々のメディア企業人も、クビになってももうムラの中で処遇してもらえないし、財政基盤や職業機会そのものが細っているのを知っているから、しがみつく。しがみつくために忖度する。政治家が「あれがね〜」と言っただけで「あれですね!これですね!」と忖度して打ち止めにしたり降ろしたりしてしまう。

ここまでメディアが脆弱になったんだから、ただでさえ顔色伺うんだから、政治家はあまり厳しく言わんといてくれ、口には気をつけてくれ、というのは私も思わないではないですが、 それをジャーナリスト自らが言ってしまうのは、あまりに嘆かわしいのではないでしょうか。

では、どうしたらメディア産業人が政治家の顔色を伺わないでよくなるのか、といえば、簡単な話で、個々の記者の専門能力といった根本的なところから、企業・業界の体質改善をしなければなりません。情報そのものの価値を高めて政治への依存を低めるという形で、肯定的な意味でムラ社会の崩壊を乗り越えないといけないのです。

(そのためには、大学院に来て鍛えなおしましょうよ!と大学業界に利益誘導してみる、というのはちょっと本気の冗談です。本気ですいえ冗談です)

個々の記者にはそういった努力をしている人は結構いますが、そうでない人を守るのがムラ社会の論理であり、そうでない人の方が数としては多いのが世の常でしょう。これまでやってきたこと、自分が築き上げてきたものを否定することはつらいものです。できれば逃げ切りたい。

でも、もう逃げ切れないんじゃないかな・・・ということを、すでに多くは気づいているんでしょうが、なおも認めてはいない。認めるということこそが、ムラ社会の掟を破ることだから。多くが気づいているんだけれども、認められないでいる。

こういう状態は、政治学・社会科学的にはかなり研究されています。そして、どこかで閾値を超えたときに、大きな変化が起こることも知られています。閾値がどこかは、変化が生じてみないと分かりません。それは社会科学の限界です。

しかしおおよそ言えることを挙げておくと、一つには世代交代が影響を与えるでしょう。頑固にムラ社会を守ってきた上の世代が退き、若い世代はもう「逃げ切れない」と感じて、ムラ社会の既存秩序の維持にコミットしなくなる。その時に大きな変化が訪れるでしょう。

ただ、お神輿と同じで、本当にどうしようもずっしりと重くなるまでは、担いでいるフリをする人が多いですから、誰もがいつ逃げ出せばいいかわからない。でも気づいた時には、全員が担いだフリをしているだけになって、突然ドカンと神輿が落ちてしまう。

私自身は、萎縮や番組改編をめぐって今現在特に話題になっているテレビ、あるいは日本では戦後の長い自民党支配の下で政策によって産業構造的にテレビと不可分になっている新聞を主とするメディア産業だけでなく、その一部とも言えるが、部分的に重なる別の産業とも定義次第では言える出版産業もまた、大きな変化が生じる閾値の限界まできていると感じています。それは日々のやりとりで、「あ、ここ危ないな」と感じる、私の勘に過ぎませんので、杞憂であってくれることを望みます。でも取次とかどんどん潰れているということは、従来の形の流通が立ち行かなくなっているのでしょう。取次から回収できないで損失を被っている出版社も多いでしょう。幾つかの出版社を採算度外視で支えてくれていたスポンサー企業も、それがメディア産業であれば、苦しくなっているでしょう。

たとえ今年や来年に危機が現実化しなかったとしても、それは危機を回避した、乗り越えたということではなく、破局が先延ばしになっているだけではないか、むしろなんらかの無理な外在的な支えによって、あるべき再編が先延ばしになり、将来にもっとひどい状態になってからギブアップするのではないか、とも危惧します。その時こそ、メディアは「第二の敗戦」と自らのムラ社会の終焉を報じるのでしょうか(そもそもその時に残っているメディアとはどういうものなのでしょうか)。

さて、メディアと出版に一定程度関係があり、部分的に依存している面がある大学という産業も、グローバル化の波を受け続けています。末端の教員の質や授業の内容などでは、2−30年前とは大きく変わっている部分があります。留学が一生に一度の「洋行」だった時代とは異なり、日々の研究・調査で常に外国の最先端の議論に触れ、やり取りすることが可能になった現在、個々の研究者は、その最先端では急速にグローバル化していることを、付き合いのある同世代の研究者たちの動きや成果を見て感じます。近年の大学改革議論が、そういったグローバル化の波を受けなかった時代に教育を受けた官僚や企業人、旧来の基準で評価され本を出し重用されてきた人たちによって主導されていることを、私は危惧します。

同時に、「学部の自治」という日本の固有の慣習や、国際的な基準をある程度取り入れた「研究者の相互評価(ピア・レビュー)」「学者の終身任用制(テニュア)」によって、大学内には一定の連続性が保たれているとともに、それが実態上は単に学者の世界のムラ社会の支配を温存させるだけで、学的卓越性の向上には繋がっていない場面もしばしば見かけます。しかし外部から改革圧力をかけることが、それらのムラ社会を一層頑なにし、ムラ社会の異分子を排除して縮小均衡を図ることに終わり、「改革者」は偽りの「成果」を手に天下っていく、といった残念な結果に終わりかねないことも予感しています。大学は政治による介入とは根本的に相容れないところがあります。

長い話になってしまいましたが、私が本当に言いたかったことはこの最後の部分なのかもしれません。メディアと政治の関係の変貌に、日本型ムラ社会の崩壊を見る三浦さんの視線は、もしかすると、おそらく、いや、きっと大学というムラ社会の基礎が掘り崩されていることも、見通しているのではないか。

三浦さんとはお会いしたことがありませんが、大学のムラ社会での登用という意味ではさほどプラスにならないどころか害になりかねない、先例のない大胆な形式で世の中に影響を与える大々的な言論活動に踏み切った三浦さんの発言には時折、いやしょっちゅう、何かを考えさせられます。

日本政治については実はそれほど関心がない私にとって、むしろ三浦さんの立っている場所と、そこから可能になる視点が気になります。「研究員」という、大学世界の内側を知っているアウトサイダーの立場からは、大学という世界にも、ムラ社会の存立根拠の溶解が進行していることがもっともっと明らかに見えており、完全にその中に入ってコミットする価値が、少なくとも三浦さんの立場からは感じられない、という程度のものになっているのではないか。

そして、大学というムラ社会の弱体化を一定の距離を置いて見る視点からこそ、メディアと政治の関係も、一歩引いてムラ社会の崩壊の余波として見ることができるのではないか、と。

もしかするとこれは今現在の私の関心事に過ぎないのであって、三浦さんのメディア政治論から多くを読み取り過ぎているのかもしれませんが。