【地図で読む】「アサド朝シリア」を支えるロシア軍基地

今日の地図。

アサド領とロシア軍事支援

“Russia’s move into Syria upends U.S. plans,” Washington Post, September 26, 2015.

記事そのものは、意訳・抜粋すると、「ロシアのアサド政権軍事支援の増強で、米国のシリア反体制派支援は完膚なきまでに終了」といった感じの記事です。

最近いろいろ報道されている、ロシアがシリア西部地中海沿岸地区のラタキア付近やタルトゥースに築いている軍事拠点が概観されています。それによって守ろうとするアサド政権の実効支配領域も。

「アサド政権とは戦わない反体制派を募集して訓練する」という米国の政策があまりに意味不明なので、米国の対シリア政策が失敗することは最初からわかっているのだが、問題はロシアが解決策を提示しているのかということ。

ロシアが自ら泥沼に入って犠牲を多大に出すまでに支援しない限り、アサド政権がシリアの全土の掌握を回復できるかというとこれが心もとないので(だから政権支持層まで難民になって出て行っている)、現実に起こりそうなのは、アサド政権が堅固に掌握した首都中心部や宗派コミュニティの故地ラタキアと両者をつなぐ地域を死守し、分裂が固定化すること。「アサド派シリア」というか世襲王朝化しているので「アサド朝シリア」みたいのができて、それを支えるのが域外大国のロシアという構図になるのでしょうか。

暫定クルド自治区とか、反体制派各種がトルコと米国に庇護されて「自由シリア」の離れ小島に立てこもり、イラク・シリア国境エリアにカリフ制「イスラーム国」が居座るという構図。(そこまではこの記事には書かれていません。地図を見ていろいろ考えましょう)

【地図で読む】国境フェンスのグローバル化

グローバル化が進展すると人の動きが活発になるが、同時に人の動きを妨げるフェンスの設置や、国境管理の復活も生じてくるという話、前回からの続き。

国境フェンスや分離壁・壁の設置は、ヨーロッパの各種境界に現れるだけではない。Economistが、世界規模でまとめてくれている。

防御フェンスの地政学

 

出典:“More neighbours make more fences,” The Economist, 15 September 2015.

赤がすでに完成したか建設中のフェンスや分離壁。緑が計画段階。

フェンス等の設置理由は様々で、朝鮮半島の南北のような、冷戦時代から続いている分断国家の緩衝地帯もある。南北キプロスもよく見ると描いてありますね。

グローバル化への対応として出てきたのが、経済移民の制限のための国境管理の一環としての物理的な障壁となる有刺鉄線やフェンス。米国とメキシコの国境が代表的。米国は移民国家だが無尽蔵には受け入れられない。不法移民と取締当局のいたちごっこの中で、フェンスや防護壁が作られては破られる。

そして最近の、難民そしてテロの阻止のための防御壁やフェンス。堀みたいのもある。

これが中東に多くできてきている。Economistの記事はより詳細な地図も提供してくれている。

Economist border_3

今年3月のチュニジアのテロの後には、リビアとの国境への分離壁建設が着手された。エジプトはガザとの間に分離壁を建設中。同様にサウジアラビアもイエメンとの間にフェンスを築いてしまおうとしている。

シリアとイラクはもう壁で囲って外に漏れ出さないようにして放置しようとでも言うのか。

「分離壁」と言えば、最も悪名高いのがイスラエルがヨルダン川西岸やガザを囲んで建設した壁でしたが、あまり問題視されないようになりましたね。世界中で常態化したからか。

一つ一つのフェンス・防御壁の事例を、国名とキーワードで検索してみると面白いですよ。いろいろな形態があり、有刺鉄線から壁まで、土塁や堀みたいなものまであり、古代や中世の築城技術とハイテクを組み合わせたような、近未来的かつミレニアム先祖返り的な世界が、末端では生じてきている。

【寄稿】プーチンの国連総会演説はシリア問題を解決に向かわせるか

本日9月28日にニューヨークの国連総会で行われるロシアのプーチン大統領の一般討論演説は、最近のシリア・アサド政権への軍事支援増強を背景に、シリア政策で欧米に同意を迫る、ついでにウクライナなど他の問題でも屈服させようとする、なかなか気合の入ったものになりそうなので、『フォーサイト』の「中東の部屋」に、事前にコメンタリーを書いてみました。実際にどうなるかはいろいろ報道されるでしょうから新聞・テレビ等でどうぞ。

池内恵「国連総会の焦点はプーチンのシリア政策」『フォーサイト』《中東の部屋》2015年9月28日

【地図で読む】グローバル化すると壁が増える逆説

「日めくり古典」は少しお休みしてまた再開するとして、「地図」を、もっと連載化したいところ。

難民問題についてはいくつか取り上げてきたのだが【】【】、その続き。

シリア難民(を偽装するその他の国からの難民・移民も含めて)の殺到に対して、EUの外縁に位置する東欧・中欧諸国がフェンス構築を進める。例えばこの地図。

シリア移民と防護フェンス構築

出典:“Closing the Back Door to Europe,” The New York Times, September 18, 2015.

ブルガリアからギリシアの東の国境では、EU外のトルコとの間にフェンスを設置。そしてハンガリーはルーマニアやセルビアとの間に設置を検討。この記事では一つ一つの事例について詳細な地図と簡単な経緯を記してくれています。

ハンガリーの動きは批判されていますが、ヨーロッパの「防人」の役割を負わされているのに、と不満でありましょう。

EU内に一旦入れば、人間の移動は原則自由なはずだが、問題が生じれば国境管理が最強化される。シェンゲン協定の原則とその運用が今問題の焦点となっている。

シェンゲン協定はEUの理念を現実化する重要な制度だが、協定国はEU加盟国と完全には重なっていないので若干ややこしく、また、一時的に停止あるいは離脱して国境管理を強化する権限も各国にはある。そのあたりも含めてこの地図は解説してくれている。

(1)EU加盟してシェンゲン協定に参加(←これが標準)

(2)EU非加盟だがシェンゲン協定には参加(ノルウェー、スイス、アイスランド)

(3)EU加盟だがシェンゲン協定には不参加(英国、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア)

と3種類の組み合わせがあり、それぞれのカテゴリーの境界に、場合によってはEU内にも、「フェンス」あるいはそれに近い国境管理強化地点が出来てくる。

シェンゲン協定とフェンス

出典:“Map: The walls Europe is building to keep people out,” Washington Post, August 28, 2015.

一番有名なものは、シェンゲン協定に参加していない英国とフランスの間。英国の方が仕事が多くすでに移民している親族などもいるので多くの中東・アフリカ系難民・移民が行きたがる。両国はドーバー海峡で隔てられているのでそう簡単に越境できないが、ユーロトンネルのフランス側まで来てそこで滞留し、 あわよくばトンネルを通るトラックにしがみついて英国入りしようとする。フランス側のカレーに一大「移民村」が出現して緊張が高まっている(地図の4です)。

一旦ギリシアなどEU圏内に入った後、難民受け入れ条件や雇用などが良いドイツなどを目指して再び移動して、バルカンの非EU圏を通って、再びEU圏に入ろうとする箇所にもフェンスが出来かけている。それが例えばハンガリーとセルビアの間(地図の5)。

ところでこの地図を見ていると、ウクライナはロシアとの間に新たな「鉄のカーテン」を引こうとしているのか(6)。

フェンスの先駆例はやはり、モロッコのスペイン飛び地のセウタとメリリャなんですね。2005年にはもう出来ている(1)。セウタとメリリャの高いフェンスを乗り越えるアフリカ系移民と警官隊の攻防戦はもはや風物詩と化している。

セウタ・メリリャ防護壁

こういう「突端」には早くに問題が現実化していることがあるので、やはり世界の端っこに行って見てくることは重要だな。

しかしグローバル化すると人の動きが自由になるはずだったのですが、そして確実に自由にはなっているのですが、同時にこのようなフェンスとか壁を各地に設けなければならなくもなるのですね。グローバル化の逆説。

続く。

【日めくり古典】・・・そして崩壊、そして


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

ヨーロッパ古典外交の最盛期には、ヨーロッパの国際政治に参加する各国の間には、知的・道義的コンセンサスがあった。それを前提として勢力均衡は機能した。しかし、そのような前提が失われれば、勢力均衡は機能しなくなる。

「あらゆる帝国主義に固有に内在する、力への無限の欲求を抑制し、その欲求が政治的現実となるのを阻止したのは、まさにこのようなコンセンサスである。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、128頁)

「このようなコンセンサスがもはや存在しないとか、あるいは、弱体化してしまったとか、さらには、もはや自信がもてないとかという場合には、バランス・オブ・パワーは国際的な安定と国家の独立のためにその機能を遂行することができなくなるのである。」(同頁)

モーゲンソーが『国際政治』を著したのは、まさにこのようなコンセンサスが存在しない・弱体化してしまった・もはや自信が持てない、という認識のもとにおいてであった。

しかし国際社会に法や道理が失われたわけではない。それらは存在する。しかし国際社会の成員に、それらについてのコンセンサスが自明ではなくなった。コンセンサスなき状況では、法や道義を掲げることによって、かえって各国は戦争に突き進みかねない。第二次世界大戦直後の時代において、いかにしてバランス・オブ・パワーを実現するか。それが『国際政治』の執筆によって突き止めようとする最終的な目的として、現れてきます。

現在は、第二次世界大戦後の秩序が続いていながら、中国の台頭や、冷戦後のロシアの復活(のように見える動き)などによって、さらにもう一度、「コンセンサスが自明でなくなった」時代であるとも言えます。そのように時代が一巡すると、一つ前の時代に、似たような状況に直面して書かれた本が、理解しやすくなる、現代の状況を読み解き先を見通すためのヒントが得られやすくなる、そのようなこともあるのではないか、と思うのです。

【日めくり古典】ヨーロッパ古典外交の成熟と・・・

まだこの本ですよ。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

道義的コンセンサスがあるがゆえに、西欧の国家間の政治的争いが「控えめで節度があった」時期の例として、モーゲンソーは具体的に「一六四八年からナポレオン戦争に至るまで」と「一八一五年から一九一四年に至るまで」を挙げています(126頁)。

これは「ヨーロッパ古典外交」の形成期と成熟期ですね。

ヨーロッパ古典外交の華やかなりし時代には、「バランス・オブ・パワーは、単にその原因であるのみならず、それを具体化するための技術であるとともに、その比喩的かつ象徴的表現でもあるということである。バランス・オブ・パワーが、相反する諸力の力学的な相互作用をつうじて諸国家の権力への欲求を拘束する前に、まずは、競争している諸国家が、彼らの努力の共通枠組みとしてバランス・オブ・パワーのシステムを受け入れることによってみずからを拘束しなければならなかった。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、126頁)

モーゲンソーに触発されて、日本で著された、古典外交についての古典的な著作が、これです。


高坂正堯『古典外交の成熟と崩壊I 』(中公クラシックス)

【日めくり古典】勢力均衡を可能にする条件とは

依然としてこの本ですが。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

ここまでに、モーゲンソーが勢力均衡を評価する部分を見てきました。そうすると、意外にも、モーゲンソーは勢力均衡の限界を説いていたことがわかります。

それでは、モーゲンソーは勢力均衡否定論者だったかというと、もちろんそうではありません。前回までに引用してきた部分は、勢力均衡を求めることで、かえって戦争に至ってしまった場面を特に扱っている部分であって、ヨーロッパ国際政治史において、かなり長い期間、勢力均衡が平和をもたらしていた時期があることを、モーゲンソーはさまざまな例を挙げて論じています。まとめれば「われわれは、一七、一八、および一九世紀におけるバランス・オブ・パワーの全盛期をつうじて、バランス・オブ・パワーが、近代国際システムの安定とそのメンバーの独立の保持に実際に貢献したことをみてきた」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、116頁)ということになるようです。

重要なのは、勢力均衡が機能するときには、ある条件が整っていたということです。その条件とは何か。簡単に言いますと、それは知的・道義的コンセンサスであるとモーゲンソーは指摘します。ギボンやトインビーなど歴史家の著作から引用して、モーゲンソーは、次のように記します。

「その時代の偉大な政治著述家たちは、バランス・オブ・パワーが、以上のような知的、道義的まとまりをその基盤とし、しかもこのまとまりがバランス・オブ・パワーの有益な働きを可能ならしめる、ということを知っていた。」(同、119頁)

さらに、フェヌロン、ルソー、ヴァッテルといった思想家や政治家の記述を引用し、次のように述べます。

「これらすべての宣言および行動から生まれる近代国際システムの安定に対する信頼は、バランス・オブ・パワーによってもたらされるのではなくて、バランス・オブ・パワーおよび近代国際システムの双方が拠って立つ、現実の知的、道義的な多くの要素によってもたらされるのである。」(同、125頁)

これについて次回もう少し見てみましょう。

【日めくり古典】勢力均衡の逆説

中巻に入ったモーゲンソー『国際政治』ですが、現状維持国とそれに挑戦する国(ここでは「帝国主義国」)との間に走る緊張と、その結果としての戦争の危険性の高まり、という話題になりましたので、俄然、現代の問題に近くなりましたね。なりませんか。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

モーゲンソーは米国の戦略家として(ただしドイツ生まれでナチスの迫害を恐れて移住しています)、「現状維持国」にいる人間として論じているのですが、帝国主義国(「現状変更勢力」とも呼べるでしょう)の軍備増強に対して、現状維持国が戦争によってこれを抑制することに利益を見出す場面が出てくることを認めます。

「国際政治のダイナミクスーーこれが現状維持国と帝国主義国との間に作用しているのだがーーがバランス・オブ・パワーを必然的に阻害するがゆえに、戦争は、少なくともバランス・オブ・パワーを矯正する機会を現状維持国に有利な形で与える唯一の政策として立ちあらわれるのである。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、109頁)

しかし関係は固定的ではない。そもそも勢力を計ることが困難なのだから、現状維持国のつもりで新興勢力に挑むことで、実際には帝国主義国になっていることもあるという。

「昨日の現状擁護者は、勝利によって今日の帝国主義者に転化し、これに対抗して、昨日の敗北者が明日には復讐の機会をさがし求めるであろう。バランスを転覆できなかった敗北者の遺恨に加えて、バランスを回復するために武器をとった勝利者の野心によって、新しいバランスは、次から次へと起こるバランスの阻害現象に動かされた、実際上目に見えない移行点となるのである。」(同頁)

ややこしいですね。

かなりややこしいヨーロッパの合従連衡の話は置いておいて、一般論として、現状維持国と帝国主義国(現状変更勢力)が時代とともに入れ替わることがあるだけでなく、そのいずれもが勢力均衡の維持や確立を掲げて戦争に踏み切ることがある、と言うことができます。そのことをモーゲンソーは次のようにまとめている。

「帝国を求めている国家は、自国が望むものは均衡に他ならないとしばしば主張してきた。現状を維持しようとしているだけの国家は、ときおり、現状の変化をバランス・オブ・パワーに対する攻撃に見せかけようとした。」(同、111頁)

それによって、

「諸国家の力の相対的地位を正確に評価することが困難であるがゆえに、バランス・オブ・パワーの呪文を唱えることは国際政治の有利なイデオロギーのひとつとなってしまった。」(同、113頁)

バランス・オブ・パワーもまたイデオロギーなんだって。どうすればいいんだ。

続く。

【日めくり古典】勢力均衡はむしろ戦争をもたらしてきた?

さて、モーゲンソー『国際政治』を読み続けていますが、ずっと上巻だったので、今日は中巻に飛んでみましょう。


『モーゲンソー 国際政治(中)――権力と平和』(岩波文庫)

これまでのテーマの続き。イデオロギーとリアリズムの関係。

リアリズムの政治認識は勢力均衡(バランス・オブ・パワー)を原則としますが、モーゲンソーの『国際政治』で、実は勢力均衡について書いてある部分はそれほど多くないのです。多くの部分は、法や道義、慣習や国際世論を扱っています。これまでに見てきたように、モーゲンソーは、これらの理念・観念が平和をもたらすという主張に懐疑的・批判的なのですが、同時に、権力政治のみによる勢力均衡で平和が達成されるなどとも論じていません。

それどころか、第4部「国家権力の制限ーーバランス・オブ・パワー」(第11−14章)の結論部「第14章 バランス・オブ・パワーの評価」では、非常に否定的なのです。節の見出しを見てもそれはわかります。「バランス・オブ・パワーの不確実性」(中巻、91頁〜)、「バランス・オブ・パワーの非現実性」(同、101頁〜)、「バランス・オブ・パワーの不十分性」(同、116頁〜)とあるように、散々な評価です。勢力の均衡点を算出することは困難であり、各国は均衡点を見誤りかねない。であるが故に、少なくとも出し抜かれないように、力の優位を目指すことになる。勢力均衡を求めて各国は戦争をしかねない(例えば、101・102頁)。

次の部分にあるように、モーゲンソーは勢力均衡はそのままでは平和をもたらさない、と突き放しています。

「バランス・オブ・パワーがその安定化作用によって多くの戦争を避ける助けとなった、という主張は、証明することも反証することも永久に不可能であろう。人はある仮定的立場をその出発点にして歴史の道程をふり返ることはできないのである。しかし、いかに多くの戦争がバランス・オブ・パワーの範囲外で起こったかを明言できるものが誰もいない一方では、近代国際システムの誕生以来戦われた戦争のほとんどすべてがバランス・オブ・パワーのなかで起こっている、ということを知るのはむずかしいことではない。」(許世楷翻訳分担、原彬久監訳、中巻、107頁)

これに続く箇所では戦争のタイプを次のように分類して、いずれも勢力均衡の下で生じているという。

「次に挙げる戦争の三つのタイプが、バランス・オブ・パワーの力学と密接に関連している。すなわち、すでに言及した予防戦争ーーそこでは、通常両方とも帝国主義的目標を追求しているーーや反帝国主義戦争、そして帝国主義戦争そのものである。」

モーゲンソーが『国際政治』を書いた時点で(繰り返すがそれが「いつ」であるのかはこの本の成り立ち上、流動的なので、本当に正確なところはこの問題の専門家に聞いてみないといけないが)、「予防戦争」「反帝国主義戦争」「帝国主義戦争」が具体的にどのような歴史事実を指すのかは、皆様が本を手にとって読んでみてください。

しかしこの直後にもいくつか例が挙げられている。

「バランス・オブ・パワーの状況下において、一個の現状維持国ないし現状維持国同士の同盟と、一個の帝国主義国ないし帝国主義国の集団との間の対抗は非常に戦争を起こしやすい。カール五世からヒトラーおよび裕仁(ルビ:ひろひと)に至るまでの多くの実例において、彼らは実際に戦争を導いた。明らかに平和の追求に貢献し、現在もっているもののみを保持したいと思っている現状維持国は、帝国主義的膨張に専念している国家に特有の、力のダイナミックかつ敏速な増強に肩を並べていくことはほとんどできない。」(同、107−108頁)

最近では、戦後70年談話に盛り込まれて一部で話題になった、「国際秩序への挑戦者」という問題ですね。

長くなってきたので続きはまた明日にしましょう。

【寄稿】『UP』8月号には『アラブの春とはなんだったのか?』へのプレビュー

滞っていた寄稿情報の追加。

『UP』(東大出版会)の8月号には、当初今年4月に予定していた刊行を延期してじっくり取り組んでいる『アラブの春とはなんだったのか』のプレビューとも言えるエッセーを寄稿した。本のさわりのさわり、雰囲気や目的などをちらっと書いたものです。実際はもっとどんより重いものです(嘘)。

池内恵「アラブの春とはなんだったのか? 民主化と独裁の二分法を超えて」『UP』2015年8月号(第44巻第8号、通巻514号)、2015年8月5日発行、37−45頁

『UP』は大手書店では無料で配布しているが、すぐになくなってしまう。定期購読していらっしゃる方には届いていると思います。講読料はなんと年間1000円、海外でも2000円!!

アラブの春以来の変動を、『UP』の場を借りていろいろ考えさせてもらっていました。そろそろ締めくくりに入るところです。ミネルヴァの梟は・・・の謂いのように、国際情勢は次の段階に入っているようですが。

【寄稿】『読売クオータリー』に講演「イスラム思想と中東情勢」の要旨が

このブログの基本機能は、寄稿した文章をその都度広報しつつ書誌情報を記録しておいて、溜まってしまうと面倒な執筆リスト作成の土台とするためだったが、最近寄稿情報のアップが滞っている。一生懸命論文書いているから。

「日めくり古典」はちょっとお休みして、ここのところ刊行されたものを順次記録しておこう。なお、会員のみに配布されるといった媒体への寄稿は原則としてブログには載せていない。

池内恵「イスラム思想と中東情勢」『読売クオータリー』No. 34(2015年夏号)、2015年7月31日発行、98−107頁

『読売クオータリー』は、読売新聞東京本社調査研究本部が出している季刊の雑誌。調査研究本部で記者さんたちに向けて行った講演の要旨。報道で踏まえるべき歴史的基礎や、私自身が色々と考え中のことを話せて頭の刺激になった。結論は出ていないが、後戻りを含めた途中経過の記録も必要か。

この雑誌は前の前の号(第32号)にも、インタビューが掲載されている。

池内恵「若者はなぜイスラム国を目指すのか」『読売クオータリー』No.32(2015年冬号)、2015年1月30日発行、62−70頁

このインタビューは後に読売新聞のオンラインに転載され、結構読まれているようです。

Yomiuri Online 2015年02月04日、「若者はなぜイスラム国を目指すのか…池内恵氏インタビュー」

このインタビューは、『イスラーム国の衝撃』の前に行われ、再構成して掲載された時にはすでに『イスラーム国の衝撃』が刊行されていたという、そういう経緯のあるもの。いやそのまとめが遅かったとかではなく、『イスラーム国の衝撃』がいかに電光石火で書かれたかということ。こういったインタビューのために考えたり、記者と話して頭をまとめたのは執筆の役に立ちました。

『読売クオータリー』は値段は514円と安い。年間購読しても2000円ちょっと。出版社でいうPR誌に準ずる扱いなのかもしれない。半系もB5版で一緒だが、PR誌よりは厚い。

意外に、商店街の書店の棚の隅に置いてあったりします。中央公論系の雑誌などと一緒に配本しているのでしょうか。

【日めくり古典】モーゲンソー『国際政治』から翻訳者に遡ってみた

ここのところずっとこの本からの抜き書きをしているのだが、

今日は一休みして回り道。

この本は、私は学生時代に読んだはずなんだけれども、こんなに読みやすかった印象がない。私の方で何かが変わったのか、世の中が変わってリアリズムがより受け入れやすくなったのか。

2013年に文庫化されて、手軽に安価に手に取れるようになったというのがかなり大きい要因かもしれない。単行本はとにかくでかくて重くて活字も古くていかにも古色蒼然とした本に見えた。ところが文庫になると肩に力を入れずに読める。

あと、原彬久先生の訳文が読みやすい。この本は元々は1986年に福村出版から刊行されたもので、「現代平和研究会」による共訳で、代表者が原先生ということになっている。各章の翻訳担当者は各巻の冒頭に記されているが、私などは名前だけしか知らない上の世代の、いずれも錚々たる学者である。

文庫版では原先生が監訳者となっている。翻訳代表者・監訳者がどれだけ全体の訳文に手を入れて統一させたかは、かなりよく調べてみないとわからないが、全般に読みやすいものになっていると思う。ここまでのところは総論・序論である第一部から引用してきたが、監訳者の原先生の担当部分であった。そういえば、E・H・カーの『危機の二十年』は以前から岩波文庫に入っていたけれども、読みにくかった。この本を2011年の新訳ですごく読みやすくしてくださったのも原彬久先生だった。


『危機の二十年――理想と現実』(岩波文庫)

単に訳文が読みやすくなっただけでなく、カーの新訳が出た頃から、国際政治、特にリアリズムの古典について、それを読むわれわれの側で何かが変わったような気がする。翻訳者も訳しやすくなったということかもしれない。

そんなことを考えながら原先生の著作をアマゾンで見ていたら(個人的に面識はありません。一度何かの会合で同じ大きな部屋にいたことがあるぐらいでしょうか)、なんだかどれも今読むと面白いんじゃないか?というタイトルだ(以前に読んでも面白かったですすみません)。中東とはまったく関係ないんだが、日本の今夏の政治・思想状況を思い起こすと、涼しくなった秋に頭を冷やして読み直したほうがよさそうだ。

まず、最近出た、オーラル・ヒストリーの総まとめ的な本から。


『戦後政治の証言者たち――オーラル・ヒストリーを往く』

で、いったいどういう対象にオーラル・ヒストリー聞き取りを行ってきたかというと、一方で岸信介。


『岸信介証言録』 (中公文庫)

上記はオーラル・ヒストリーの原資料的なもの(もちろんある程度編集してあるが)だけれども、それに基づいた成果はもっと以前に刊行されている。

それがこれ。


『岸信介―権勢の政治家』 (岩波新書)

これが出た時は、このテーマはまったく違う政治的位相の元で読まれていた気がする。

遡っていきましょう。これ。これも昔読んだと思うけど、今読めばまったく違う印象だろう。

『日米関係の構図―安保改定を検証する (NHKブックス)

そして60年安保の結果として固定化された日本政治の構図の中で、岸の対極に位置して存在してきた野党=社会党的なるものも同時に研究対象になっている。

あの「記念受験」かつ「同窓会」的な発想のデモと国会審議を見てしまうと、社会党的なるものは今こそ客観視できるような気がする。そうなるとこれ、今絶対読みたい。締め切り抱えているから今読めませんが。

『戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか』(中公新書)

岸信介を岩波新書で、社会党を中公新書で、というクロスオーバーのバランス感覚が絶妙でたまらんですな。こういうところが日本の出版文化の妙だったんですが、硬直党派化・短期商売窮乏化して貧して鈍して失われかけているものでもあります。

こうなるとまったく専門に関係ないから読んでいなかったこの本も、現代日本への興味から読んでみたくなる。取り寄せてみよう。モーゲンソー『国際政治』、カー『危機の20年』の翻訳と60年安保の政治学とのつながりが見えてきますね。
原彬久「戦後日本と国際政治」
原彬久『戦後日本と国際政治―安保改定の政治力学』中央公論社、1988年

学者の仕事って、何十年も経ってから読まれる本を何冊書けるかが勝負なので、そういうテーマに当たるか、その時間と環境があるか、考えれば1分も無駄にはできない。

「息の長い」って言葉も考えてみれば怖い言葉で、すごい時間がたっても無知無理解・暴論が飛び交っていても、とにかく生き延びて、「死んでない、息してる」ってことが重要だということだからね。

私は息も絶え絶えです。

【日めくり古典】イデオロギーで権力闘争を覆い隠すのはむしろ当然

ゆったりと今日もモーゲンソー。なんとなく始めた「日めくり」連載ですが、長くかかりそうです。今忙しいのでまとめて予約自動投稿です。連休中仕事で出かけています。私を探さないでください。私はここにはいません。

フェイスブックなどでも当分通知できないかもしれないので、日本時間朝7時に毎日自動で投稿されますので、読みたい方は読みに来てください。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

引き続きイデオロギーの話。しつこいですか。しつこいぐらいがいいです。

「人間は自己の権力への欲求を正当なものと考える一方で、彼に対する権力を獲得しようとする他者の欲求を不当なものと非難するであろう。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、227頁)

権力政治批判というのは、自分の持つ権力は正しくて、他人が持っている権力は悪い、という批判に過ぎないことが往々にしてあります(*研究者が「往々にしてある」と言うときは「いつもそうだ」ということの婉曲表現であることが往々にしてあります)。

これをモーゲンソーは「価値二面性」とも呼んでいます。ただし、モーゲンソーは、だからイデオロギーは悪い、イデオロギーで権力政治を覆い隠すのはやめろ、権力政治を剥き出しにしろ、などとは主張していないのです。

「このような価値二面性は、権力の問題に接近するすべての国家に特徴的なことであるが、それは国際政治の本質に内在するものでもある。イデオロギーを排除して、権力が欲しいなどと率直に言明する一方で、他国の同じような欲望に反対するような国家は、権力闘争において大きな、おそらくは決定的な不利を被ることをたちまち思い知らされるであろう。権力への欲求をこのように率直に告白してその意図を明言する対外政策は、結局、他の諸国家を団結させて、それに対する激しい抵抗を呼びさますことになるだろうし、その結果、その国はそうしなかったとき以上に力を行使しなければならなくなるであろう。」(同、228頁)

剥き出しの権力闘争は自国民の支持も受けないだけでなく、それに対する他国の警戒と団結を呼び覚まし、いっそう剥き出しの権力行使を必要としてしまう。であるがゆえに、嘘であれ幻想であれ、国家はなんらかの道義や正義や、あるいは時代によっては「生物学的必要」といった観念で自らの政策を正当化することが不可避であり、ある意味で合理的でもある、というのです。

「イデオロギーは、すべての観念がそうであるように、国民の士気を高め、それによって国家の力を高める武器であると同時に、その行為そのものが敵対者の士気を弱める武器である。」(同、229頁)

国際政治は単なる力と力の戦いではなく、不可分に道義や正義といった観念を駆使した戦いなのです。政治の学はそのことを客観視しなければならない、というモーゲンソーの主張は、この道義や正義の観念が、「現状」(それが「いつ」であるのかは、この本が第二次世界大戦直後の1948年に刊行されてから、70年代に入っても著者自らの手で改定され続け、邦訳は1978年の改訂第5版に基づいているので、そう簡単に確定できない問題ではありますが)では、むしろ対立を困難なものにしているという認識から導かれるのです。

まだまだ、続きます。

【日めくり古典】もっと、モーゲンソー『国際政治』ですが。。。

政治とイデオロギーの関係についての続き。よっぽどこれに頭を悩ませているらしい。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「まず、これらのイデオロギーは、特定個人の偽善の偶然の産物ではないということである。そのようなものなら、対外問題を立派に処理させるために、もっと誠実な別の人にそれを委ねてしまえばすむはずである。フランクリン・D・ルーズヴェルトやチャーチルの対外政策の虚偽性をあばくことに最も口やかましかった反対派の人びとが、ひとたび対外問題を処理する責任を負わされると、こんどは彼ら自身イデオロギーによる偽装を利用して支持者たちを驚かしたものである。政治舞台の行動主体が、自己の行動の直接目標を隠すのにイデオロギーを利用せざるをえなくなるのは、まさしく政治の本質である。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、226頁)

ありますね、これ。他人を口を極めて罵倒する人たちが、自分たち自身がイデオロギーの虜であるという場合。問題をある政治家の人格や思想に還元してしまうことが問題であるだけでなく、そのような批判をする人たち自身が無自覚にもっと難のある人格や思想をむき出しにしていたりする。

これに続く部分が重要です。

「政治行為の直接目標は権力であり、そして政治権力は人の心と行動に及ぼす力である。だが、他者の権力の客体として予定された人びとも、彼ら自身、他者に対する権力の獲得の意図をもっているのである。こうして、政治舞台の行動主体は、つねに、予定された主人であると同時に、予定された従者なのである。彼は他者に対する権力を求めるが、他者も彼に対する権力を求めるのである。」(同頁)

批判のための批判が正しい、とする開き直りの姿勢は、近代国家の市民は、「主人」であり「従者」でもあるということを、忘れているのです。

【日めくり古典】まだまだ、モーゲンソーの見る政治イデオロギー


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

「政治の基本的な発現形態、すなわち権力闘争は、しばしばありのままにはあらわれない。このことは、国内政治にせよ国際政治にせよ、あらゆる政治に特有なことである。むしろ、追求されている政策の直接目標としての権力の要素は、倫理的、法的あるいは生物学的な用語で説明されたり正当化されたりするものである。いってみれば、政策の真の性格は、イデオロギー的正当化や合理化によって隠されるのである。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、222頁)

モーゲンソーは法と道義、理想主義の価値を否定するものではない。そもそもリアリズムの祖とされる『国際政治』を紐解いてみると、勢力均衡とか国力の話はほんの少しで、大部分が様々な理念の話である。ただし、人間は理念を掲げて政治を行うが、それが権力政治を覆い隠してしまう。それによって実際の政治は見えにくくなるとともに、理念に覆われた権力政治は人間により大きな災厄をもたらすことがある。人間が理念を掲げ、イデオロギーに覆い隠して権力政治を行う存在であることから、それらを剥ぎ取ったリアリズムの視点が必要とされる。そこにこそ政治についての学の存在意義がある。

【日めくり古典】良い動機が良い政策や良い結果をもたらすとは限らない

承前


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

第二に、政治家の意図や動機が立派なものであったとしても、それが道義的な政策をもたらすとは限らないし、成功する政策をもたらすとも限らないからである。

「われわれは、政治家の対外政策が道義的に立派であるとかあるいは政治的に成功するだろうとかいうことを、彼の善良な意図から結論づけることはできない。われわれは、彼の動機から判断して、彼が道義的に悪い政策を故意に追求することはないだろうと論ずることはできても、その政策の成功する可能性については何もいえないのである。もしわれわれが彼の行動の道義的な質と政治的な質を知りたいなら、われわれはその行動をこそ知らなければならないのであって彼の動機を知る必要はない。政治家が世界を改革しようという欲求に動機づけられながら、結局は世界をさらに悪くしてしまうことがいかに多くあったことか。また彼らがある目標を追求して、結局は期待も望みもしなかったものを得てしまうということがどれほど多かったであろうか。」(原彬久訳、上巻、46頁)

これは今現在も通用する真実ではないでしょうか。

モーゲンソーは例としてチェンバレンとチャーチルを比較しています。よく言われることですが、チェンバレンの宥和政策は「個人的権力」の獲得の欲求によって動機づけられていたわけではなく、「平和を維持しようとし、あらゆる当事者の幸福を確かなものにしようとした」が、しかしそれは第二次世界大戦を避けがたいものにしてしまった(46頁)。

それに対して、チャーチルは個人的な利益や国家権力の獲得という動機によって方向づけられていたとみられる。しかし「これら劣勢の動機から生まれたチャーチルの対外政策は、彼の前任者たちが追求した政策よりも確かに道義的、政治的な質において優れていたのである」(47頁)。

また、これもまたよく挙げられる例だが、フランス革命時のロベスピエール。

「ロベスピエールは、その動機から判断すれば、史上最も有徳な人物のひとりであった。しかし、彼が自分自身よりも徳において劣った人びとを殺し、みずから処刑され、彼の指導下にあった革命を滅ぼすに至ったのはほかでもない、まさにあの有徳のユートピア的急進主義のせいであった。」(同頁)

ロベスピエールは数多くの敵対勢力を断頭台に送り、最後は彼自身が断頭台の露と消えました。

「お前は人間じゃない」「叩っ斬ってやる」の元祖と言うべきでしょうか。