【日めくり古典】イデオロギーで権力闘争を覆い隠すのはむしろ当然

ゆったりと今日もモーゲンソー。なんとなく始めた「日めくり」連載ですが、長くかかりそうです。今忙しいのでまとめて予約自動投稿です。連休中仕事で出かけています。私を探さないでください。私はここにはいません。

フェイスブックなどでも当分通知できないかもしれないので、日本時間朝7時に毎日自動で投稿されますので、読みたい方は読みに来てください。


モーゲンソー『国際政治(上)――権力と平和』(岩波文庫)

引き続きイデオロギーの話。しつこいですか。しつこいぐらいがいいです。

「人間は自己の権力への欲求を正当なものと考える一方で、彼に対する権力を獲得しようとする他者の欲求を不当なものと非難するであろう。」(高柳先男翻訳分担、原彬久監訳、上巻、227頁)

権力政治批判というのは、自分の持つ権力は正しくて、他人が持っている権力は悪い、という批判に過ぎないことが往々にしてあります(*研究者が「往々にしてある」と言うときは「いつもそうだ」ということの婉曲表現であることが往々にしてあります)。

これをモーゲンソーは「価値二面性」とも呼んでいます。ただし、モーゲンソーは、だからイデオロギーは悪い、イデオロギーで権力政治を覆い隠すのはやめろ、権力政治を剥き出しにしろ、などとは主張していないのです。

「このような価値二面性は、権力の問題に接近するすべての国家に特徴的なことであるが、それは国際政治の本質に内在するものでもある。イデオロギーを排除して、権力が欲しいなどと率直に言明する一方で、他国の同じような欲望に反対するような国家は、権力闘争において大きな、おそらくは決定的な不利を被ることをたちまち思い知らされるであろう。権力への欲求をこのように率直に告白してその意図を明言する対外政策は、結局、他の諸国家を団結させて、それに対する激しい抵抗を呼びさますことになるだろうし、その結果、その国はそうしなかったとき以上に力を行使しなければならなくなるであろう。」(同、228頁)

剥き出しの権力闘争は自国民の支持も受けないだけでなく、それに対する他国の警戒と団結を呼び覚まし、いっそう剥き出しの権力行使を必要としてしまう。であるがゆえに、嘘であれ幻想であれ、国家はなんらかの道義や正義や、あるいは時代によっては「生物学的必要」といった観念で自らの政策を正当化することが不可避であり、ある意味で合理的でもある、というのです。

「イデオロギーは、すべての観念がそうであるように、国民の士気を高め、それによって国家の力を高める武器であると同時に、その行為そのものが敵対者の士気を弱める武器である。」(同、229頁)

国際政治は単なる力と力の戦いではなく、不可分に道義や正義といった観念を駆使した戦いなのです。政治の学はそのことを客観視しなければならない、というモーゲンソーの主張は、この道義や正義の観念が、「現状」(それが「いつ」であるのかは、この本が第二次世界大戦直後の1948年に刊行されてから、70年代に入っても著者自らの手で改定され続け、邦訳は1978年の改訂第5版に基づいているので、そう簡単に確定できない問題ではありますが)では、むしろ対立を困難なものにしているという認識から導かれるのです。

まだまだ、続きます。