「イスラーム国」の戦闘に参加を目指した日本人が摘発されたとのこと。
事実関係はほとんど伝わってきていません。どのような思想的背景があるのか、あるいはむしろ非常に軽率に参加しようとしたのか、事実関係が分からない限り、この事件そのものについては議論しようがありません。しかし、日本の社会の固有の文化的・宗教的・政治的な通念と、イスラーム教の政治・軍事理念とが触れると、社会の周縁部で非常に特異なタイプの過激派を生みかねないことは、一般的な危険性として存在し、今後も様々な事例が、日本社会の規模からは少数の末端の事象と言いうるものの、発生するでしょう。
今回、刑法93条の「私戦予備及び陰謀」という、聞き慣れない規定が適用されたことは重要です。
9月24日の国連安保理決議では、シリア・イラクに越境して戦闘に参加する者を阻止し、資金の流入を止めるための法整備を行うよう各国に求めています。しかし日本では新たに強制力のある対テロ法制を整備することはまず不可能でしょう。特定秘密保護法であんなとんでもないおどろおどろしいキャンペーンを新聞各紙が張ったのですから。
そこで、捜査当局は、既存の法体系の底から、戦後の日本でほとんど顧みられることのなかった、死文化していたものの国家の本質にかかわる重要な条文を持ち出してきた。これはかなり衝撃的な出来事です。
国家が独占するべき戦争と武装の権利を、個人・集団が勝手に保有して行使することは、近代国家においては許されないことです。しかし、国家が武力を保持し、戦争を行う権利を有するということそのものから国民集団が目を背けてきた日本では、「私戦」を禁ずるという刑法上の規定を、呑み込むことは大変でしょう。メディアはどう反応するのでしょうか。
そして、ここに宗教が絡んでいることも、日本の通り一遍の宗教認識では、理解が不能でしょう。宗教は平和の教えであり、軍事とは何の関係もない、政治とも関係ない──としばしば日本では教えられますが、日本の歴史を見ても、そして世界史と現代の国際政治を見ても、それは事実ではありません。宗教と軍事は人類史上、きわめて長い時間、多くの場所で、ぴったり結びついてきました。
このことを社会全体で認識することを避けてきたがゆえに、ごく少数ですが、宗教の絶対的な統治規範に関わる規定、あるいは軍や戦闘に関わる側面を教えられると、免疫がありませんから、まさに「天啓」を受けたような気になってしまう人々が出てきます。
社会の周辺にいて、「日本社会は間違っている」「世界はおかしい」と一方的に思いを募らせるタイプの人が、世界宗教が明確に「正しい戦争」「正しい軍事行動」「あるべき統治のあり方」を示してくれると、一気にかぶれてしまうのです。イスラーム教については、世間一般の関心は薄い代わりに、少数のそういった「絶対」を求める人々が集まってきます。
そのような事情は広く世間には知られていません。
前提として影響しているのは、日本では「イスラーム」は非常に肯定的なものとして、かつ日本の価値観と適合するものとして、専門家や大手メディアによって表象されてきたという事実です。有力な学者は(あるいは学者の世界で有力となるためには)、日本社会に行き渡る価値規範と親和的なものとしてのみ「イスラーム」を論じてきた。しかし実際には学者にはそれほど影響力はありません。むしろ、特定の、読者にとって心地いいタイプの「イスラーム」認識を、権威的な少数の学者の説を引用しながら報じてきた、大手メディアによる社会教育の効果は計り知れません。なんとなく、現代世界の抱える問題のすべてに「イスラーム」が解決策を持っているかのような幻想を、日本の知識人は持ちがちですし、それを大手の新聞などは引用します。
新聞や本を断片的に読んで信じてしまうような、真面目で単純な若者が、「イスラーム」がマジックのように現代社会の問題を解決するかのような幻想を抱いて接触を求め、「当たりどころ」が悪いと、ジハードによる武装闘争を通じた支配権力の獲得や、イスラーム教徒と異教徒の権利に明確に差をつけた統治制度など、それまで日本では知られていなかった側面に触れ、むしろそこに力強さ、正しさを感じてしまう。そういった経路が、日本に特有な過激化の進展過程として考えられます。
「正義の名の下での暴力や支配」という思想の「魔力」に感化されやすい若者は、どのようにして生まれるのでしょうか。
私は、例えば次のような社説によって、日々作られていっていると考えています。
「(社説)テロリスト 生まない土壌つくろう」『朝日新聞』2014年10月6日05時00分
どこがおかしいか数点指摘しておこう。全文に渡って全ての問題点を検討して指摘する時間はない。
まず、
「なぜ若者が過激派に走るのか。その土壌となっているそれぞれの国内問題に取り組み、「テロリストを生まない社会」を築く努力が必要である。」
というのが(なんだかここを読んだだけでもとてつもなくくだらないですが)、この社説の一番の論点であると思われます。タイトルにも取り入れられています。
しかしここで「それぞれの国内問題」とありますが、「どこの」国内問題なのでしょうか?
社説全体を見ると、これは「先進国」の国内問題であるようです。しかし書き手は自分が「先進国の問題」を取り上げていることを自覚していない。つまり対象となる問題を適切に分節化・規定できていない。そのことが結局議論を迷走させ、脱線させ、最終的に夜郎自大の「先進国」批判に行きつきます。
「「イスラム国」には、約80カ国から1万5千人以上が戦闘員として合流したとみられる。フランスや英国、ドイツなどからは数百人単位に達するという。」
と、対象となる問題を特定しています。
しかし、この数値だけでも変なところがあります。全体の数が「1万5千人」であるのに対して、フランス・英国・ドイツ(など)からは「数百人」であるので、そもそも全体の中での割合も、先進国からの総数も分からない、というどうしようもない数値で、こんな数値を並べるレポートが出てきたら不可でしょう。
実際には、この数値(をいくらなんでももっと厳密な数値に置き換えた上で、ですが)からは、「イスラーム国」に流入する外国人戦闘員の多数は西欧先進国からではない」ということを読み取らないといけないはずです。ヨルダン、チュニジア、サウジアラビア、モロッコなどアラブ諸国からが圧倒的多数。これにチェチェンなどイスラーム諸国からの戦闘員が多く加わっています。その次に、欧米先進国から、移民の子孫や改宗者が加わっている、という順序です。
そうであれば、まずはアラブ諸国やイスラーム諸国の「それぞれの国内問題」に原因を求めなければならないはずです。
ところがそうせずに、もっぱら「先進国」に矛先を向けてしまう。いつものよくあるパターンです。
しかし、もし「先進国に不満を抱く若者がいる」という問題認識が正しいとして、「それがイスラーム国に行ってテロを行う」ことにどうつながるのでしょうか。
百歩譲って、「フランス社会に不満を抱く若者がフランス社会にテロを行う」のであれば、その行為を許容はできませんが、いちおう当人たちの意識としての因果関係は認められると言えるかもしれません。しかし、「フランス社会に不満を抱く若者がシリアに行ってテロをやる」というのは、因果関係の繋がりが通常の意味では存在しない、かなり奇異な現象だと受け止めなければなりません。その上で、一見奇異に見える現象の中に、別のメカニズムを特定すれば理解できてくる、という議論でなければならないはずです。
そのメカニズムには宗教と軍事、宗教と政治の関係も必然的にかかわってきます。厄介な問題ですが、避けて通れません。
しかしこの社説には、現実を見てそういった最低限の疑問を抱いて考えた形跡がまるで見られません。
結局、批判しやすい、自由で先進的な社会に文句をつけて、カッコ良いことを言いたいだけなのではないかな、としか思えません。
この社説の問題は、大前提となる対象の認識があやふやなことです。
「それぞれの国のイスラム系移民社会の出身者や、キリスト教からの改宗者が目立つ。多くは、貧困や失業に直面し、差別や偏見を受けて、母国で疎外感を抱いた若者たちだ。」
この認識は妥当なのか。これはかなり疑わしい。
現地の情勢の分析なき決めつけ。情報や議論が古い。10年以上古い。
参考になるのは、次のような記事です。
「フランス:若い女性や中流・富裕層出身者がイスラム国参加」『毎日新聞』2014年09月18日19時30分(最終更新 09月18日 22時44分)
いくつか引用しましょう。
「イスラム教スンニ派過激派組織「イスラム国」への欧米最大の戦闘員供給源となっているフランスでは、従来多かった家庭環境に恵まれない若者だけでなく、若い女性を含めた生活水準の比較的高い家庭出身者が戦闘地域に流入するケースも目立つ。」
「2月に「イスラム過激派参加防止センター」を創設し、フランス人の若者のイスラム過激派入りを防ぐ運動をするドゥニア・ブザル氏は、「父親なし、人生の羅針盤なし」という定着しつつある、イスラム過激派に転化する若者のイメージに疑問を投げかける。「以前は社会的、家庭的に恵まれない若者だった。今は、中流・富裕層の出身者が参加している。過激化する時間は以前より短くなり、信仰心の薄い若者を数週間で変えてしまう」と指摘する。」
先進国の問題としては、「別に経済的にも不自由ないのに「イスラーム国」に向かう人々が出てきている」ということが注目されているのです。
それに対して、チェチェンからの転戦組とか、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国からの流入者は、政治的な弾圧の影響もありますし、貧困が原因で「傭兵」的に集まってきた者たちもいるでしょう。こちらはこちらで問題です。
この二つを混同すると、「イスラーム国」への対処策は適切に立てられなくなります。
「イスラーム国」へ流入する戦闘員の問題は、最低限でも、(1)先進国から流入する目立つけれども全体の中での割合は少ない集団に特有の問題・背景と、(2)シリアとイラクの周辺のアラブ諸国やイスラーム諸国から流入する多数を占めるイスラーム教徒の抱える「それぞれの国内問題」に分けて、それぞれを議論しなければ意味がありません。あっちの国の貧困の問題を、こっちの国の暇を持て余した中間層の行動の原因として繋ぎ合わせることはできないのです。
朝日新聞の10月6日の社説は、先進国に特有の問題と、近隣アラブ諸国やイスラーム諸国の抱える問題を混同しています。そしてその混同によって、ここでは先進国の問題を取り上げているにもかかわらず、「貧困が原因だ」という、どちらかというと近隣アラブ諸国やイスラーム諸国(の紛争・貧困国)からの戦闘員流入の背景にあるであろうと考えられる問題に責を帰する議論を行うことで、問題の所在や発生原因を混同し、現実認識を困難にしています。そもそも、より根本原因と考えられる、シリア・イラクそのものの国内問題にはじまり、大多数の戦闘員を送り出している周辺アラブ諸国やイスラーム諸国の国内問題を、等閑視しています。
そして、このような「とにかく欧米社会が悪い」と言ってしまって自足する議論の根底にある発想は、現地の事情をよく分かりもせず、関係もないのに、ただ戦闘に参加したいと言い出す若者の発想と、同根ではないかとすら思うのです。
テロをめぐる朝日新聞の論評は、「むしゃくしゃしてやった」といったどう考えても薄弱な動機で殺人を犯す人物が現れるたびに「むしゃくしゃさせた社会が悪い」と論評しているようなものです。「むしゃくしゃした」ことと「人を殺す」ことの間を何が繋いでいるのか?という謎に正面から向き合わないのであれば、こういった論評は、テロを容認する社会規範を事実上広めているとすら言い得るものです。
「ボーダーレスのいま、日本人が攻撃に遭う可能性もある。テロと向き合う国際論議に私たちも積極的に参加すべきだ。」という結びの言も、間が抜けています。「日本人が加害者になる可能性もある」という当たり前の現実に全く気づいていない様子で、無自覚です。遠くの「欧米」の「国内問題」と断定して安心して、よく知らないのにあげつらっているので、状況が違う日本でも出てきてしまう問題であることに気づいていないのです。
日本からイスラーム主義過激派に入るテロリストが出たら、やはり「日本社会の問題」として糾弾するのでしょうか。するかもしれませんが、するとしても、おそらく間違った方向でする、ということはこの社説の程度を見ても明らかでしょう。その意味で、日本社会の問題は根深い。