【寄稿】『ランボー3』のアフガニスタン 『うえの』4月号

取り急ぎ。寄稿です。

池内恵「『ランボー3』とアフガニスタン現代史」『うえの』2016年4月号、No. 684、32−34頁

『うえの』という月刊の小冊子です。「上野のれん会」加盟の諸店舗に行くと置いてあるのではないかな。定価200円と書いてありますが、部数がある限り、お客さんには無料でくれるのでは。たぶん。

あら、ホームページもあるじゃない、奥様。

表紙はこんな感じ。

うえの2016年4月号

内容は、アフガニスタン現代史を読み解くのに、意外にも、ハリウッド超大作バカ映画っぽい『ランボー3 怒りのアフガン』がかなりいいとこついている、という話。

『ランボー3 怒りのアフガン』といえば、、、

これです。

ランボー怒りのアフガン1

なんでこんな無粋な内容を老舗商店街の小粋な小冊子に書くことになったかというと、上野公園の東京国立博物館で「黄金のアフガニスタン−守りぬかれたシルクロードの秘宝−」展が4月12日から開催されるのです(〜6月19日)

『うえの』では東京国立博物館の特別展に合わせて、関連するテーマでエッセーを依頼するらしいのです。たしか以前にエジプト展の時にもご依頼を受けて書いています。それなので、せっかく再びご依頼いただいたので、つい引き受けてしまいました。

とてつもなく忙しくて気が遠くなりそうなのですが、アフガニスタンといえば『ランボー3 怒りのアフガン』を今見てみると、これが結構面白い、脚本がうまくできている、という話なら新たに調べないでも短い時間で書ける。この映画で1980年のソ連について語られていることは、2000年代以後のアメリカにもそのまま通じる、といった話を、授業とか講演とかでよくしていますから、その下調べに基づいて、一瞬でエッセーを書くならできるかも、と頭の端で考えて引き受けてしまったのです。実際に締め切り日になっても、その一瞬の時間も取れないので、また書くなら書くでかなり頭を捻らないといけないので、かなり焦りましたが。

老舗商店街の月刊小冊子といえば、代表的なのはこの『うえの』と、あと銀座の『銀座百点』がありますね。文系の文筆家にとってはこういうところで力を抜きながら芸を見せるのはある種、腕の見せどころ、と思うのですが、分野が大きく違う私などにもたまに書かせてもらえるというのはありがたいものです。

「守りぬかれた至宝」を壊す側の論理を書いたというのもなんですが、展覧会については学芸企画部長さんが文章を寄せていますし、黄金の秘宝の写真も掲載されています。

【寄稿】『東大教師が新入生にすすめる本 2009−2015』

刊行されました。

『東大教師が新入生にすすめる本 2009-2015』東京大学出版会、2016年

以下、フェイスブックでこの本について掲載した文章をそのまま貼り付けておきます。

春の読書案内にどうぞ。

『東大教師が新入生にすすめる本 2009−2015』(東京大学出版会)。3月末に刊行されたところです。

恒例の、4月に東大出版会の雑誌『UP』が各分野の教師を抽出してアンケートをとって掲載する読書案内の、最新版の書籍化です。これまで二冊、文春新書で出ていたのですが、今回は東大出版が書籍化しました。私は2012年のところに執筆しています。

私の同年代の人も多くなっているなあ。

アンケートを集めただけではなく、本の後半の第II部は「学問の奇跡を読む」と題して12の分野について重要な著作を紹介したエッセーが載っている。

法学(井上達夫。『リベラルのことは嫌いでも〜』の先生)、政治学(宇野重規)、歴史学(宮地正人)、社会学(盛山和夫)といった執筆者が、それぞれの学問の核となる文献や、その分野が取り組んで抱えてきた課題などに切り込んでいる。

私などは「東大教師」と呼ばれるのも恥ずかしい、理工系の研究所にイスラム政治思想という「分野」を設定してもらったおかげで学内ベンチャー企業のように属しているだけなのですが、でも春は法学部・公共政策大学院と文学部、秋は教養学部で精一杯教師やるときはやってます。

同時に必死に研究所で成果出します。邪魔しないでください。善意のご依頼が切実に私の研究の阻害要因
になっていることもあります。

個別にお話ししているともう手が回らないので、非公開のセミナーを専門家やメディア向けに先端研でやろうか、などという話も温めています。そういったいろいろな形で世の中に還元していきます。こういった本もそういった努力の少しの一部です。

【寄稿】『週刊エコノミスト』の読書日記、今回は「文系学部廃止」を考える

5回に1回連載が回ってくる『週刊エコノミスト』の読書日記、今回は、「文系学部廃止」問題を考えております。

池内恵「『文系学部廃止』で考える大学の未来像」『週刊エコノミスト』2016年4月12日号(第94巻第16号通巻4445号、4月4日発売)、59頁


『週刊エコノミスト』2016年04月12日号

この連載の通常通り、Kindleなど電子版には収録されていません。

取り上げたのは、なのですが、コラムでは私の考えていることばかり書いてしまっているので、あまり書評にはなっていないかもしれません。著者は著名な研究者でありつつ大学行政にもかなり関与したことのある人で、実際に研究と教育をする立場からの改革論になっていますので、読んでみてください(関係ないがタイトルに「衝撃」とつけるのがプチ・ブームなのか)。

考えてみると、受けた教育は全く文系ですし、極端に文系人間だと思うのですが、私は職業人としてはほとんど「文系学部」にお世話になったことがありません。

国際日本文化研究センターという、文系の中の異端的な機関に勤めた事はありますが、日本の大学の普通の文系学部とはおそらく全く違う環境だでした。そもそも文系学問をやりつつ、文系学部の弊害を取り払おうというのが一つのコンセプトで出来た機関だったからでしょう。国文学や国史学といったベタでドメスティックになりがちだった文系学問を、無理やり世界や社会に開くことを任務としていて、その代わりに人文研究者にとって最適の環境を与える、なんとも独特の場でした。文系は文系だけど、「学部」でもないですし(大学院博士課程のみですので、「学部」ではないのです。業界用語で分かりにくいかもしれませんが)。

今は東大の中の先端科学技術研究センターというところで、イスラム政治思想の「分野」というものを作ってくれたので、かろうじて東大の中にいますが、もはや「文系」でも「学部」でもないですね。最初の就職先もアジア経済研究所という経済産業省所管の開発研究を行う機関でしたし。

考えてみると、東大で現代中東をやっている人は昔も今もほとんどいなくて、社会的要請といったものに実際に応えてくれるのは理工系の学部であったりする現実も、身を以て感じています。しかも、別にグローバル・ジハードがここまで大問題になった現在じゃなくて、全くそんなものが話題にならなかった2008年に迎えてくれていたんだからね(私は大学院では工学系の先端学際工学専攻を担当しています)。理工系の人の独特の勘とか先読み力とか行動力を文系学部の人もちょっとは見習って欲しいと、私としては思います。(こういうことはコラムには書いていません)

しかし文系学部の担っているものは確かに非常に大きくて、それは目に見えないかもしれないが、なくなると非常に困る。文系学部はもともと小さな資源しか配分されていないので、無くしたってたいした節約にならない。ただ、文系学部が今のままでいいかという、そうでもないんじゃないかという気がするが、それは外からいじって良くなるものでは全くない。知りもしない人、知ったつもりになった人たちが外からいじればいじるほど悪くなるといってもいい。私自身は文系学部の中で仕事をしたこともないのだが、外からの観察をボソッとつぶやいたのが今回のコラム。

【寄稿】井筒俊彦全集第12巻の月報に井筒俊彦における宗教と言語の関係について

二つほど、文庫や全集に寄せた解説が刊行されました。

そのうち一つは『井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』の月報に書いたものです。

「月報」というのは、全集などが刊行される際に挟み込まれている冊子です。解説というよりは、井筒俊彦の思想そのものについて、そしてこの巻の主題となる「言語」についての、論考を寄稿しました。

池内恵「言語的現象としての宗教」『月報 井筒俊彦全集 第12巻 アラビア語入門』慶應義塾大学出版会、2016年3月


『アラビア語入門 』(井筒俊彦全集 第十二巻)

井筒俊彦全集の全貌についての、慶應義塾大学出版会の特設サイトはこちらから

私の寄稿のタイトル「言語的現象としての宗教」は、井筒の論文「言語的現象としての『啓示』」をちょっと意識しています(こちらは第11巻に収録されています)。私なりに、井筒における言語と宗教の関係を、対象化してみました。井筒のイスラーム論の特性と、その受容の際の日本的バイアスについては、過去に論文を書いてみましたが、今回はその続きとも言える論考です。

慶應義塾大学出版会の井筒俊彦全集は、全12巻+別巻で計13巻出ることになっています。次回の別巻で、いよいよ完結です。最後から二番目の巻で月報に滑り込むことができて、大変光栄でした。

なお、第12巻(詳細目次はこちらから)の主体をなす『アラビア語入門』が刊行されたのは1950年・・・。今でも役に立つのか?というと、たぶん、実用的にアラビア語の勉強を始めたいという人には、さすがに、向かないのじゃないかと思います。

ですが、アラビア語をできるようにならなくてもいい、という人にとってむしろ有益なのではないかと思います。そして日本人の圧倒的多数は、アラビア語を実用的にはやる必要がないでしょう。しかし日本語とも英語とも全く異なる言語体系がある、ということを感じ取るには、もしかすると井筒の大昔の入門が、最適かもしれません。

そして、井筒の本は多くが文庫になっていますが、さすがに『アラビア語入門』は文庫になっていませんし、今後もならないでしょう。そういう意味で、今回の全集で一番意義がある一冊と、言えるのかもしれません。全集で買わなければ手に入らない。これまでは入手が極めて困難だったのですから。

井筒俊彦は著作集が1991−93年に中央公論社から刊行されています。そちらは全11巻+別巻1の計12巻で、そこではアラビア語入門は収録されていませんでした。待望の一冊、と言えるでしょう。アッカド語やヒンドゥスターニー語についての論考・解説など、異世界に遊ぶには最適の一冊と言えるでしょう。

井筒俊彦全集12

【寄稿】(補遺)パリ同時テロ事件について『ふらんす』増刊に書いていた

年末年初の出版物の通知を忘れていました。

昨年暮れから今まで、プエルトリコ、テキサス、ニューヨーク、神戸、シンガポール、ロンドンと回っていましたので、その間にいくつか抜け落ちていました。

池内恵「『イスラーム国』の二つの顔」白水社編集部編『ふらんす 特別編集 パリ同時テロ事件を考える』
白水社、2015年12月25日発行、106−109頁


『パリ同時テロ事件を考える』

前回、シャルリー・エブド誌襲撃事件の時の『ふらんす 特別編集 シャルリ・エブド事件を考える』に続いての寄稿です。


『シャルリ・エブド事件を考える』

前回と同じく、巻末の収録となりました。

「自由をめぐる二つの公準」
「『イスラーム国』の二つの顔」

どこか韻を踏んでいますね?対になる作品です。前回からすでに今回があることを予想していたわけではないが、対になる部分のことはなんとなく予想していた。

なお、4月末か5月初頭までに、品切れになって入手が難しくなっている『イスラーム世界の論じ方』(中央公論新社、2008年)に、この論考を含めて10本余りを加えて、増補新版を出します。もともと分厚い本がさらに分厚くなりすぎるので、これが決定版。

単行本が出た後に発表した論考だけでなく、もっと前の、2002年の講義録を元にして論文集に収録されていたため前回は収録を見送った幻の論文なども再録します。あの頃、先の先まで考えて、一生懸命書いていたことは、全然古くなっていない。むしろ理論的に想定して仮定に仮定を重ねて書いたことが、どんどん現実化していく。

足掛け15年くらいかけての、イスラーム世界の思想面での年代記となってしまった。

そして、値段は初版と変わらない2600円にする予定なのです。

この本の増補再刊はかなり前から話があったのだけれども、価格と部数について、市場の声を聞くために、クラウドファンディング的なアンケートに協力もお願いした。その後押しもあって、増補したのに本体価格は据え置きの2600円、という現在の萎縮する出版業界では通常はあり得ない条件で刊行作業が進んでいます。皆様に御礼申し上げます。

また通知します。

パリ同時テロ事件を考える

【寄稿】『學士會会報』にグローバル・ジハードについて

寄稿しました。

池内恵「グローバル・ジハードが来た道−−拡大と拡散の往還−−」『學士會会報』No. 917(2016-II), 2016年3月1日, 19-23頁

「イスラーム国」の背後にあるグローバル・ジハードの理論と実践について、歴史的な文脈の前半部分を特に厚めに書きました。このテーマについて講演などで喋りながら頭をまとめている最中です。なおこれは講演録ではなく書き下ろしです。

學士會とはなんぞや

學士會ロゴ

なお、私、學士會は入っておりません。卒業の時に会費払うのが嫌で入会しないでいるとそのままおそらく一生入らない、という感じなのではないかな。いや、今はホームページから入会申し込みができるそうなので入会資格のある方はどうぞ。「学士」が最終学歴で出身母体や身分みたいになっていた時代がいいとも思わないのだが、たぶん入会資格も時代に合わせて変わっているのではないかと思うが調べていない。

これが「同窓会」とどう違うかもわからない。最近は各大学が寄付を募るためにも同窓会を上から組織化しようとしているようで、それと學士會との関係は・・・なんてことも気にならないわけではないが、現役世代はとにかく仕事が忙しくてそれどころではないのだよ。

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記で『漂流するトルコ』『トルコのもう一つの顔』を紹介

昨日発売の『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)2016年3月8日号掲載の読書日記で、小島剛一『漂流するトルコ』(旅行人)と、『トルコのもう一つの顔』(中公新書)を取り上げました。

以前にフェイスブックでこの2冊について紹介した時は(『トルコのもう一つの顔』『漂流するトルコ』)非常に反響があったので、品薄状態が続いていましたが、そろそろ解消されていると思います。

クルド人勢力への強硬な措置でも、「イスラーム国」との関係でも、シリア内戦をめぐる「問題児」化でも、まさに「トルコのもう一つの顔」が明らかになる今日この頃ですが、そのたびに昔読んだ中公新書を思い出すのです。20年後に出た続編も買っていました。

なお、書評は2月17日のアンカラのテロよりも前に書きました。

今回、書評を書くために段ボール箱の奥から中公新書を引っ張り出してきたのですが、なんと、比較文学をやっていた大学の同級生(一年上だったかな)から借りたもので、ずっと借りっぱなしになっていたということが判明いたしました。そうでした。返していませんでした。すみません。

しかも長く連絡が途絶えていたその友人が、転職して、今は『週刊エコノミスト』を出している毎日新聞社にいると判明。

そういったことも含めて、尽きせぬ特異な力を秘めた本であると再認識いたしました。魅入られてしまった人がずいぶんいる。

池内恵「『新興国の雄』だったトルコの漂流する素顔」『週刊エコノミスト』2016年3月8日号(2月29日発売)、61頁

今回もKindleなど電子版には掲載されていません。

5回に1回担当する読書日記欄ですが、もう19回目になります。このブログでは読書日記の連載をきっかけにして、電子書籍を含む出版のありかたや、書評という制度の役割や可能性、今後のあり方なども考える論考をいくつか掲載してありますので、文化としての出版と書評、そして産業としての出版について、興味がある人は検索してみてください。

【寄稿】『北海道新聞』に待鳥聡史『代議制民主主義』の書評を

このブログで以前に紹介した、待鳥聡史さんの『代議制民主主義』の書評が『北海道新聞』に掲載され、ウェブサイトでも公開されました。

池内恵「書評 待鳥聡史『代議制民主主義』 制度使いこなす「説明書」『北海道新聞』2016年2月21日

書評としては、一般向けにすらすら読める文体と論理展開で書けました。対象となる本が明晰だからですね。

全文を貼り付けておきます。北海道新聞のウェブサイトも探索してみてください。

代議制民主主義 待鳥聡史著
評 池内恵 東京大准教授

制度使いこなす「説明書」

「議会の決定は国民の声を反映していない」「多数決がすべてではない」といった議会制への懐疑論、あるいはあからさまな否定論すら、しばしば耳にする。あるいは「小選挙区制になって、最近の議員は小ツブになった」といった議論も、新聞紙上を含めて、頻繁に目にするだろう。「なぜ自民党内で安倍政権に反旗を翻さないのか。かつての自民党は党内抗争が活発で、そこから論争が起こり、政権交代がなされたのだ」云々(うんぬん)。
 これらは、しかるべき先達と共に議会制と民主主義の原則と制度を根気良く考えていけば、いずれも俗説にすぎず、知ってしまえば恥ずかしくなるぐらいの誤謬(ごびゅう)を含むと分かる。人口に膾炙(かいしゃ)した議論に部分的には多少の真理が含まれていないではないが、それは「三分の理」程度の話である。しかしそのことを分かる機会がある人はそう多くはない。この本をじっくり読んでみる機会を得た人は幸運である。
 骨格となるのは第3章の制度論である。代議制民主主義とはすなわち、委任と責任の連鎖である、と著者は言い切る。委任とは、有権者から政治家を経て官僚に至る、権限の一部が委ねられていく連鎖の仕組みである。有権者はただ権限を委ねてしまうわけではない。委任の連鎖と逆向きに、官僚から政治家を経て有権者に至る説明責任の経路が確保されている。しかし委任と責任を適切に対応させるのは至難の業である。歴史と国柄、その時々の国民の意思によって、そのための制度は異なり、それぞれに得失がある。政治学の研究蓄積を踏まえ、代議制民主主義の可能なあり方が、隅々まで論理的に展開される。
 今の制度が嫌なら別の制度もありうる。重要なのは、選んだ制度を使いこなすことだ。使いこなす主体は議員でもアベさんでもなく、有権者である読者一人一人であり、代議制民主主義の成否は読者にかかっていることを、思い出させてくれる。民主主義とその制度の明晰(めいせき)な「取扱説明書」である。

『コーランの読み方』がポプラ新書から発売・すぐ増刷に

2月1日に翻訳書が刊行されました。そして発売から1週間も経たないうちにすぐに増刷が決まりました。イスラーム教の入門書への高い関心を感じます。

ブルース・ローレンス(池内恵訳)『コーランの読み方 イスラーム思想の謎に迫る』ポプラ新書、2016年

宗教学者・イスラーム思想学者のブルース・ローレンス(デューク大学教授=原著刊行当時:最近名誉教授になったようです)が書いたイスラーム教の入門書・概説書です。2008年にポプラ社から「名著誕生」シリーズの中で単行本として刊行されていましたが(『コーラン(名著誕生)』です。2刷が出ているので今も買えるようです。こちらは巻末に塩野七生さんとの対談が収録されています)、このたび翻訳を検討し直して、そして通常とは異なる読み方になりがちな宗教的な訳語にはルビもふって、初学者にもなじみやすくしました。

高校や大学の先生が、授業などでイスラーム教・イスラーム思想史の概説する際にもいいですよ。これを日本語で読める、手に取りやすい形でになったことで、イスラーム教やイスラーム思想史の理解に格段の違いが出ると思う。

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記にガザーリーの『哲学者の自己矛盾』を書評

米東海岸を襲った暴風雪が過ぎ去った翌朝、街は雪掻き、交通機関の復旧作業などが淡々と始まっています。ニューヨーク市は観測史上第2位の降雪量だったようです。セントラル・パークの積雪で、これまでの最高記録は2006年2月11−12日の26.9インチなのに対して、2016年1月22−24日かけての降雪は26.8インチとその差僅かに0.1インチ・・・。どうせなら歴代1位を目撃したかった。マンハッタン島への車両の出入りが止められていたので半日間、いわば巨大な歩行者天国となっていた訳ですが、通行止めも解除され、交通が徐々に通常に戻ろうとしています。立ち往生していたニューヨークから順調に抜け出せそうな見通しとなってきました。

それはともかく、米国滞在中の用務の間にいろいろな原稿を書いて出しましたが、そのうちまた一つがそろそろ発売されるはずです。1月15日(月)発売の『週刊エコノミスト』で、5号に1度担当している読書日記の番が回ってきていました。私の担当回も、通算で18回になりました。

池内恵「聖戦テロの根底にある啓示と理性の闘争」『週刊エコノミスト』2016年2月2日号(2016年1月25日発売)、59頁

今回もKindle版には載っていません。紙のものだけに収録です。

アマゾンではこちらから。
『週刊エコノミスト』2016年2/2 号(2016年1月25日発売)

取り上げたのは、平凡社の東洋文庫に入った、中世のイスラーム神学・哲学の代表作、ガザーリー(中村廣治郎訳)『哲学者の自己矛盾』です。


『哲学者の自己矛盾: イスラームの哲学批判』中村廣治郎訳、平凡社東洋文庫、2015年

イスラーム世界はギリシア哲学を受け入れて後世に伝えた、とはよく言われますが、単に受け入れたのではなく、その論理を神学の体系化のために受け入れつつ、神の啓示が哲学・合理主義に優越することを、哲学の論理も用いて「論証」した。それがイスラーム思想がギリシア哲学そのものとは決定的に違うところです。

翻訳・解説は、私が東大文学部イスラム学科で学んだ当時の主任教授の中村廣治郎先生です。ゼミで原点を読んだ覚えがある『中庸の神学』とともに、ガザーリーの最も有名な著作の翻訳を次々に完成させておられます。『中庸の神学』にはガザーリーの精神的遍歴の歴史・知的自伝として有名な『誤りから救うもの』も収録されています。


『中庸の神学: 中世イスラームの神学・哲学・神秘主義』中村廣治郎訳、平凡社東洋文庫、2013年

さて、この書評を含む、さまざまな原稿を書きながら、米国やその先にさらに足を伸ばしたプエルトリコまで、転々と移動していたのですが、途中、テキサス州のダラスでお会いした方に、かつてイラクで日本の会社の社員としてビジネスに携わり、その後米国に移住して飲食店などを経営していらっしゃる方がいました。

その方が経営されている店の一つにお招きいただき、たっぷりおもてなしいただいたのですが、ご一緒にお出ましになった奥様が、イラク人。で、私がイスラーム思想について研究しているというと早速話が弾んだあとに、奥様と日本人の夫との間での、数十年繰り返されてきたと思われる宗教論争が始まりました。

これが実に面白い(と言っては悪いですが)。

日本の相対主義的・不可知論的な宗教・倫理・世界観と、イスラーム教の啓示の絶対性と哲学の論理を組み合わせた「絶対に正しい」とされる論理との間で、延々と行き違いが続くのです。

私も同様の行き違い・堂々巡りを繰り返す「対話」を、学生の頃にアラブ世界に出向いて、向こうの学生たちと夜を徹して議論していた頃に嫌という程体験しましたので、ご夫婦で一生続けておられるのを見ると、なんだか微笑ましく感じて、思わず忍び笑いをしてしまいました。

そして、イラク人の奥様が、真のイスラームを分かっていない(と感じる)夫に理解させようとする内容と論理が、まったくガザーリーがこの本で論証する内容とそのための論証方法と、同じなんです。

それはもちろん、ガザーリーが啓示と理性の対決で、イスラーム教徒の立場からは必然と見える論理を、行き着くところの極限まで考えたからであり、現代の議論はそれをなぞって、繰り返しているのです。

現代の人々が直接ガザーリーを読んで真似しているというよりは、啓示という観念を護持したまま哲学的論理を取り入れれば、自ずから可能な結論は似てくるため、ガザーリーが考えたことが自然と繰り返されるのですね。ガザーリーがたどり着いた結論と、結論に至るための論理的過程は、啓示と理性の間に必然的に立ち上がる問題に対する、ガザーリーの結論です。ガザーリーはこの共通の問題について、最も先の先まで考えた人であった。だからのちの時代の人はガザーリーの論理を直接知っているか知らないかに関わらず、同じようなことを言うのです。

啓示と理性の間での、啓示の優越性への信念や、啓示が理性と同じだけ合理的であると当時に、理性では到達的できない超越した絶対の真理を備えている、という信念、これらは「穏健派」であれ「過激派」であれ、共通しています。

啓示と理性の間に価値の優劣がなく、平行線上にあるということは、奥様は決して受け入れず、神が示した真理である啓示と、人間が考えたにすぎない誤謬を含むものとしての理性を、優劣をつけて理解している。このことは穏健派が自信を持って穏健派でいるために不可欠の基盤です。しかし究極的には過激派が武力・強制力を持って真理を地上に実現させようとする時に、この明確な真理への信念と、優越性の観念が、正統性を与えることにつながってしまう場合がある。それが難しいところです。

【寄稿】年初のサウジ・イラン緊張について『中東協力センターニュース』に

寄稿しました。

池内恵「サウジ・イラン関係の緊張ー背景と見通し」、連載《中東 混沌の中の秩序》第4回、『中東協力センターニュース』1月号、2016年1月20日発行、14ー25頁

中東協力センターニュース2016年1月号表紙

中東協力センターのウェブサイトの「JCCMEライブラリー」から、1月号掲載の各論考を無料でダウンロードできます。

私の論考のダウンロードのためのダイレクトリンクはこちらから。

サウジとイランは1月2日の、サウジによるシーア派説教しの処刑と、それに抗議した群衆によるテヘランのサウジ大使館への焼き討ちを受けて、一時はかなりの対立姿勢を双方が示しました。そこから見えてきたものは何か。

この間の政策論壇の主要な議論をまとめてリンク集を提供する、ワーキング・ペーパーを意図して書きました。現在サウジ論、米中東同盟論が、米のイランとの関係改善を受けて活発になっていますので、主要な議論の整理として、便利ではあると思います。

【寄稿】「アラブの春から5年」をテーマに『毎日新聞』に談話を

寄稿に近い談話とでも言えばいいでしょうか。長い時間話してまとめてもらったものをいろいろ直したものが、『毎日新聞』1月15日付朝刊に掲載されました。

《アラブの春 5年 独裁崩壊の代償 識者は見る》「◆アラブの混乱 地域分裂、危機は深まる 池内恵・東大准教授(イスラム政治思想) 」『毎日新聞』2016年1月15日朝刊

私の発言とされるものの部分の本文を貼り付けておきます。

 「アラブの春」で、独裁者が統治してきたアラブ世界は大きく変わった。もはや独裁は不可能になり、民主化にも行き詰まり、宗派、部族単位の分裂が強まって極めて統治が難しくなったのだ。

 独裁政権の崩壊はメディアの変化によるところが大きい。新聞やテレビなど従来のメディアは、政府などのプロパガンダを伝えていた。ところが突然、衛星放 送や携帯電話、インターネットが登場したことで人々は多様な情報に接し、自ら情報を発信できるようになった。独裁政権は情報統制できなくなり、崩壊すべく して崩壊したと言える。

 ただ、民主化を目指す過程で、各国はそれぞれ困難を抱えた。選挙を行うと組織の結束力が強く、反汚職を掲げるイスラム勢力が勝つ。だが、既得権益層は権 力の移譲や教義の押しつけを認めることができない。その結果、武力で覆すケースが出た。エジプトのクーデターは一例だ。

 リビアは憲法制定を目指して数回の選挙を実施したが、民意はその度に変わった。結果として二つの政府ができ、双方が武力を持って正統性を主張するように なった。イエメンは選挙をせずに多様な勢力の代表による対話を進めたが、結論を認められない反対勢力が政府を放逐した。シリアは政権の弾圧で地方住民が離 反し、義勇兵が入って内戦に陥った。

 アラブ世界は元々、政府が正規軍の他に特殊部隊など複数の武装組織を持っており、政治が分裂すると武力も分裂、拡散する。また各勢力が宗派などを頼りに 周辺国などに援助を求めるため、国際政治も宗派紛争化した。チュニジアは軍が強くなく、労働組合などが政党間を仲介できたため、辛うじて民主化の道を進ん でいる。

 昨年は第二次大戦後最大の人道危機と言われたが、今年はより事態が悪化する可能性がある。今後は長い時間をかけて宗派や部族で似通った人たちが住み分けしていく流れがいっそう進むと思う。その過程で難民はさらに増えるだろう。

 過激派組織「イスラム国」(IS)はアラブの春の混乱で存在が可能になった組織だ。国際社会の攻撃が激しくなれば、今の場所から移動するだろう。無秩序の場所は必ず存在するからだ。

 この混乱は基本的に地元の対立に根ざしているので、国際社会はできるだけ関わらない方がいい。だが、人道危機は進行するし、米国が関与しなければロシアの関与が強まるというのが国際社会のパワーバランスだ。先行きを読むのは難しい。
(構成:三木幸治)

【寄稿】『公研』12月号で待鳥聡史さんと対談・日本政治を語る

『公研』の12月号に対談が収録されています。

『公研』は会員企業と関係官庁にのみ配布される媒体なので、フォロワー・友達が1万2000人以上に増えてしまった私のフェイスブックのウォールでの告知は控えています。もし「ください」という一般読者から連絡が殺到したら、『公研』の小さな編集部が崩壊してしまいますから。

黙っているつもりだったのですが、目ざとい編集者などが見つけて「面白い」といってくるので、私自身も備忘録としてここに載せておきます。確かに面白い。勉強にもなるが、とにかく面白い。しかしこの面白さは、SNSとかでみだりに拡散するようなものではないと思うんですね。拡散させれば、より多くの人に届くだろうけれども、同時に余計なことを言ってくる人の邪魔が入って本来伝わるべきことが伝わらなくなる。ここは、『公研』の元来意図された範囲の読者に着実に届けることを優先させ、その後間接的に広がって、最大限の効果が上がるのを待つ方がいいのではないか、と思っています。

なお、『公研』は決して怪しい媒体ではありません。会員となっている老舗大企業とか公営企業とかあるいは関連するお役所の部署、そしてなぜか知らないがどこかから手に入れてくる編集者などの間では『公研』はかなり有力な媒体として結構熱心に読まれている。会員向けならではの、大向こう受けを狙わない着実な編集で、商業媒体では維持できない水準を維持している。一般の媒体では「読者に難しすぎるからちょっと・・・」と言われてしまう内容を普通に話して載せてくれます。その方が実際には読者に優しいと思うんですけどね。

待鳥聡史・池内恵「政治の『再生産ストーリー』を超えて」『公研』2015年12月号(No. 628)、公益産業研究調査会、36−53頁

あと、オマケなんですが、メインの日本政治に関する対談の後に急遽、編集部からの依頼で、「イスラーム国」とそれに触発されたグローバル・テロリズムについて、待鳥さんが聞き役で私が答えるような形の対談が行われ、それも収録されました。

待鳥聡史・池内恵「『イスラーム国』は空爆できる対象なのか?」『公研』2015年12月号(No. 628)、公益産業研究調査会、54−59頁

表紙はこんな感じ。

『公研』2015年12月号表紙

対談の内容は、今の日本政治について、特に議会政治とメディアについて、安保法制の前後の騒擾も踏まえて、理論的・歴史的に捉えてみる、その中でざっくばらんに率直に現在の政治状況とメディアに対して批評・批判の言も連ねた、といった具合なのだと思う。私のつたないまとめでは。

このまとめでは伝わらない面白さについては対談を手にとって読んでみられれば分かると思うが、上に書いたように一般にはほとんど流通していない。また、もし広く一般に流通させたらこのような議論を行う場は失われてしまうだろう。

ただ、『公研』を無理して入手することそのものにはあまり意味がない。『公研』が目につく範囲の場所に落ちていない人はむしろ、対談での議論の前提になっているこの本を読んでみるといいと思う。


待鳥聡史『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』講談社選書メチエ、2009年

意外にも少し昔の本ですね。もちろんこの対談は直接にはこの本に関するものではなく、対談の中でも言及されていません。

しかし私自身は今、出来上がってきた『公研』の対談を読みながら、この本を読み返して、いろいろ腑に落ちています。

対談は冒頭に私が問いかける形で始まっています。ご指名なので喜んで出向いたのですが、日本政治や政治学の理論的な話に入ってしまえば私はもう頷いているしかないですし、余計なことを言う意味はないので、最初に、私の個人的なエピソードから始めました。90年代前半の学生時代に、通学しながらアメリカのラジオ番組を聞いていて、majority rule, minority rights というフレーズに触れた話です。以前にフェイスブックで書いてかなりシェアされ『週刊エコノミスト』の読書日記でも要点を記したことがあります

私は民主的な政治を安定的に運営している地域を研究していないので、「政治学」といっても、本場のアメリカや日本を研究している待鳥先生とは見ているものもそこから導き出す学説も天と地の差があります。自然と、日本政治の現状を対象にした今回の対談に専門的見地から取り立てて言うべきことが見つからず、苦し紛れの個人エピソードから入ったのですが、これにも待鳥先生はさらっと反応して容易に理論的・概念的な整理を行い、アメリカ政治と日本政治に共通する民主的政治制度とその運用に関わる問題へと、話を持っていってくださいました。さすが学者さんです。素人が思いつくようなことについては全て、すでに理路整然と本に書いてありました。

本来であれば、この対談は、待鳥さんが今年刊行した2冊の本、特に最近出たばかりのこの本をきっかけとして企画されたものと思われます。


待鳥聡史『代議制民主主義−「民意」と「政治家」を問い直す』中公新書、2015年

一般向けの新書として書かれたこの本は、用いられる概念の広がり・深みを探るのに不可欠な次の本と併せて、今年の政治学を代表するとして記憶・記録されるのでしょう。


待鳥聡史『政党システムと政党組織(シリーズ日本の政治6)』東京大学出版会、2015年

その前の著作で、サントリー学芸賞も受賞した名著の『首相政治の制度分析』については、『週刊エコノミスト』の読書日記で取り上げたことがあるので、もしかしたらそのご縁もあっての企画かもしれません。


待鳥聡史『首相政治の制度分析- 現代日本政治の権力基盤形成』千倉書房、2012年

ですので、本来ならば最新刊の中公新書の『代議制民主主義』の話題をとっかかりに、私が司会のように待鳥先生の議論を引き出す導入を話さなければいけないのですが、しかしこの対談は中公新書の刊行直後に行われており、私がジャカルタに行って帰ってきた直後だったので、中公新書の方はまだ手にしておらず、東大出版の方の学説・分析概念の話に入るのも唐突ですし、『首相政治』の方は議会政治を基礎にした執政府の話なので、最終的にはこの対談の想定する話題に密接に関係しているとはいえ、選挙制度改革と対になった行政改革や官邸主導の執政制度改革の結果としての安倍政権についていきなり話を立ち上げるのは私には荷が重く、苦し紛れに漠然と「民主主義」についての私の思い出話から入ってしまったのですが、それが結果的に、待鳥さんのさらに以前の著作『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治』の内容にぴったりはまる話題で、しかも今回のテーマである日本政治を論じる際の枠として役立つということで、結果オーライということになりました。「なりました」って言ったって待鳥さんがそのようにもっていってくれたからそうなったんであって、普通なら対談のテーマに直接関係ないだろうと途方に暮れているところです。全て分かっている学者さんというのは自由自在なものです。

自分が聞き役になって対談をして改めて『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治』の深い意味が分かった、と言いますか、この本を踏まえて現代日本政治に適用する講義、いや家庭教師レクチャーを受けた感じですね。贅沢な。それも自分の聞き取ったおぼろげなノートではなく、編集部が講義録を作ってくれたので読み返して勉強になります。対談の場で出た比喩とか政治家の評とか、さすがにヤバそうなところは削除してありますが。媒体の性質もあり慎重になっております。でも媒体の性質もあり、下手すると言いがかりつけられて炎上しかねないところも、論者の意向を尊重して残してくれています。普通は事なかれ主義で全部削除なんですが、そこのところ対談の趣旨も汲んでくれています。

・・・・対談を読まないと(読んでも)何言っているか分からないような話になってきたので、そしてこのブログの趣旨は対談を読んでもらうことではなく、本来読むべき、手に入る本、対談を読みたいと思ったらその前に読んでほしい本を紹介するということなので改めてもう一度、この本を紹介しますよ。これを読んだ上でどうしても対談を読みたいと思ったら、その時は多分なんとかして手に入るでしょう(どうやって)。


待鳥聡史『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』講談社選書メチエ、2009年

えーと、アマゾンではKindleで電子書籍になっているんですね。紙の方が絶版になったかどうか知りませんが、アマゾンの上では中古が今のところはほどほどの値段で出ている。これはなくなると高くなりそうです。

この本は教科書としてもいいので、Kindleだけではなく紙のものがほしいですね。一般教養の政治学の教科書にして、学生が一学期かけてこの本を理解したら、すごい公民教育になると思うんですけどね。大部分の学生にとっては政治学の入門書は「学説史」である必要はない。政治学の学者になるわけではないから。この本は学説を踏まえてある種の学説を提示してもいる本なのだけれども、それが民主主義の国に生きていく際に必要な「政治の仕組み」についての入門書になっている。

出たばかりの中公新書『代議制民主主義』については他の人が書くでしょうから、私としてはこちらの本を紹介しておきます。

アメリカの80年代以降の政党政治の展開で明らかになってきた、「代表」の論理と「統治」の論理の相克と調和(の試み)というものは、民主主義の政体の少なくともあるタイプの制度においては必然的に内在するものでしょう。私が個人的に印象深く感じたクリントン政権期は、特に1994年の中間選挙で共和党が多数党となってからの米議会は、「代表」と「統治」の二つの論理がぶつかりながらそれぞれを明確にしていく場だったとこの本を読んだ今となっては考えられます。

私がボー然と聞いていた、1994年中間選挙で勝利した共和党右派に大人気だったラジオ・パーソナリティーのラッシュ・リンボーの雄叫びはまさに、待鳥さんの言う「代表」の論理を振りかざすものだった。しかし共和党も実際に多数党化すると議会では必ずしもイデオロギーを振りかざすだけではいられなくなった。与党となることで「統治」の論理に従わざるを得なくなる場面に直面するからだ。共和党に多数を取られ、議会と共に、しばしば議会主導で、行政府の長として「統治」の論理を全うしなければならなくなったクリントンはまさに、「majority rule, minority rights」の原則にあらゆるところで立ち戻って考えざるを得なかったに違いありません。私が拙いヒアリング能力で聞き取ったフレーズとそれが発せられた場面は、クリントン政権期に幾度となく繰り返されてきたものだったのでしょう。

そして90年代のアメリカ政治に明確になった民主制における「代表」と「統治」の相克と調和の課題は、まさに日本で今、本来なら問題として注目されなければならないものである。1990年代の選挙制度改革や執政制度改革(それらが十分なものではないことはこの本にも、また『首相政治』にも記されているが)を経た日本は、米国と同じではないが、共通する制度的前提を持ち始めている。そのことも2009年のこの本の最終章で簡潔に書かれている。

小選挙区制や、そこから生じる公認権や党議拘束の強化による「政党」の重要性の上昇は、日本が自民党一党支配の下で金権・汚職にまみれながら談合し、理念なき派閥政治で権力闘争を繰り返してきた過去から決別するために導入された民主制の道具立てだった。それを使って民主党への政権交代もなされたはずだ。

ところが制度が変わったのに、当事者の政治家・政党人や、それを意味づけて報じるメディアの認識が追いついておらず、新制度の目的に沿った行動・競争を行わず、旧制度・旧時代の環境の下での「主流派・非主流派」の役割が今でも有効であるかのように振る舞う。それが現実とずれた政治のストーリーの再生産につながり、そのストーリーをなぞる非生産的な行動につながる。「シールズ」を持て囃す野党とメディアなども、そのような構造の中で現れる末端の、絶望的な現象なのです。

「そういう若い人たちの一生懸命さや可能性の『生き血』を吸うようなことをなぜするのかなと私は思うんですよ。本当にそれでいいのか」(48頁)という、待鳥さんの、ふだんの端正な著作では表面上見せることのない「叫び」を読めると言う意味で『公研』の読者は特権を享受しています。

・・・考えてみれば、『〈代表〉と〈統治〉のアメリカ政治 』が講談社選書メチエという形で出たきっかけは、私が『現代アラブの社会思想』の編集者を待鳥先生に紹介して、その後その編集者が現代新書から選書メチエに移ったため、ちょうど適切な媒体となったという経緯があったような気がする。いずれにせよ出る本なので私が紹介したことにあまり意味はないが、しかし専門家向けの学術書だけ書いていても本が出続け、評価され続ける著者は、一般向け媒体にはあえて出るきっかけがないので、紹介しないとこのような一般向け、大学教養課程でも学べるような形では出なかった可能性はないではない。

編集者と引き合わせた時に、別に私は本の内容に口を出す必要もないし能力もないのだが、まあ何も言わないのもなんだから、「要するに『アメリカの民主主義』みたいなタイトルで」と私が言ったところ、待鳥先生は苦笑して「いや、いくらなんでも、アメリカ政治研究者としては、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』と同じタイトルでは書けませんよ」とおっしゃっていたのを思い出すが、そりゃそうだね。素人って怖い。しかし結果的に「アメリカの民主主義とは『代表』と『統治』という時に相反する論理の対立と調和だ」という、制度論を一般向けに最大限分かりやすく噛み砕いた本を何年かたって届けてくれたので、素人の無茶振りにも意味はあるのかもしれない。

【発表】『PHPグローバル・リスク分析』2016年版

『2016年版 PHPグローバル・リスク分析』が、本日午後、発表されました。

PHPグローバル・リスク分析2016年版

私も末席で参加させていただき、普段あまり顔をあわせる機会がない様々な業界の皆様の、談論風発に大いに触発され、ほんのわずかですが貢献もいたしました。

「グローバル・リスク分析」プロジェクトは2012年から始まって今回が5回目。私は2013年版から参加させてもらっています。

今年はこれまでと少し趣向を変え、10のリスクについて、箇条書きスタイルで一枚にまとめ、単刀直入な見やすさを重視しています。オーバービューを地図に埋め込んだり、各専門家が一致できる10のリスク以外にも「ブラックスワン」の出現の兆候となるノイズあるいはシグナルに耳を澄ますための「Buzzwords」といった新コーナーを設置。これまでは各リスク項目について、それをリスクとみなす文脈やインプリケーションをかなり詳細に書き込んできたのですが、読む側も書く側もマンネリ化してくるといけないので、ここらで新機軸です。

PHP総合研究所のウェブサイトから、10の項目だけここに書き写しておきます。【全文はここをクリックするとPDFでダウンロードできます

年明けには、イアン・ブレマー氏のやっているユーラシア・グループの「世界の10大リスク」も発表されることでしょう。対照させてみてください。

また、こういった定時観測は、過去のものから順に読んでいくと面白いです。PHP総研のウェブサイトで2012年版から全て見られます。昨年のものについてこちらから

◆グローバル・リスク2016
リスク1. 中国経済悪化と国際商品市況低迷に挟撃されるアジア中進諸国
リスク2. 止まらない中国の海洋進出が招く緊張の増大と拡大
リスク3. 深まる中国依存と主体思想の狭間で揺れ動く北朝鮮
リスク4. テロと移民問題がもたらすEUの亀裂と反統合の動き
リスク5. グローバル化するISILおよびその模倣テロ
リスク6. 加速するサウジアラビアの国内不安定化と原油市場の混乱
リスク7. 地域覇権をめざし有志連合内で「問題児化」するトルコ
リスク8. 選挙イヤーが宙づりにする米国の対外指導力
リスク9. 金融主導グローバル化の終焉で幕が開く、大企業たたきと「P2P 金融」時代
リスク10. 加速するM2M/IoTが引き金を引くサイバー脅威の現実化

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記は『小泉今日子書評集』

本日発売の『週刊エコノミスト』の読書欄、5回に一度回ってくる連載読書日記では、小泉今日子さんが出版した書評集を取り上げています。

池内恵「新聞書評の制度が生んだ小泉今日子という書き手」『週刊エコノミスト』2015年12月22日号(12月14日発売)、77頁

取り上げたのはこの本です。


『小泉今日子書評集』

詳しくは『週刊エコノミスト』を買って読んでいただきたいのですが(いつもどおり、電子版には収録されていません)、今回はこの本を手に取ったきっかけについて多くを記しています。


『エコノミスト』2015年12/22号

読売新聞の(他の新聞もそうですが)日曜日には、ページを何度もめくっていった真ん中の方のページに書評欄があります。ここで取り上げる本を選び、書評を書く「読書委員」を、小泉さんが2005年から10年ほど務めて、そこで書いた書評を集めたのがこの本なのです。実は私も2004年から2年間、読書委員を務めたので、小泉さんが読書委員になって書評を始めた最初の一年間、ご一緒しました。

その頃から読売新聞の文化部は、読書欄、中でも読書委員制度にかなり力を入れていて、小泉さんのような異例の書き手を発掘したり、読書委員の会議を充実させて、終わった後も懇談会・二次会・三次会までやっていました。そんなところにも当時の小泉さんは律儀に顔を出してくれました。私は遠まきにしてみていましたが、喜色満面で隣の席をゲットして関西弁で喋りまくる某著名教育社会学者などの話相手も、小泉さんは自然にこなしておられました。その頃は少し時間に余裕がある時代だったのかな・・・

その後いろいろな活動で繰り返し話題になりましたが、やはり「あまちゃん」で私でも見るような当たり役を演じたのは長く記憶に残ることでしょう。

私の方は、読書委員の通常の二年の任期の二年目で、やっと慣れた頃でしたが、まだ30歳そこそこで研究者として書評をやるには非常に若かったので、毎回緊張して会議に臨んでいました。二年間で大量に書いた書評は、他の読書エッセーと一緒に、2006年には『書物の運命』(文藝春秋)として刊行しました。この本で翌年に第5回毎日書評賞までいただいてしまいました。機会を与えてくれた読売新聞社文化部には感謝の気持ちでいっぱいです。

その当時、小泉さんの書いた書評が載っているのを目にしても、一本単位では、あるいは取り上げられている小説などを読んでみる時間もなかったからか、それほどピンとこなかったのですが、小泉さんが特別に10年間も読書委員を続けて、書いてきた97の書評時系列に並べて読んでみると、一つの時代の世相とその映り行きが、浮かび上がってきて、なんとも言えず良いですね。

やはり、時代を映してきた女優さんの感性は鋭い。文章が上手いとか下手とかいう話ではないのですね。

取り上げられた作品と、それについての小泉さんの反応を読んでいると、振り返って思い出すこともあり、また、新たな発見も多くありました。

そして、読売新聞の文化部が読書欄に力を入れて、読書委員会という制度を最大限使いこなして、小泉さんという書き手を押し出したことの価値がよく分かる本でもあります。メディアは文化を消費するのではなく、作る、のですね。

この本の末尾には、読売文化部の小泉さん担当の記者(村田さん)が、読書委員会の思い出や観察を聞いているインタビューが掲載されていて、これだけでも非常に面白いのですが、回想されるのは主に1年目の、私も読書委員会にいた頃のことが大半です。やはり小泉さんにとっても、読書委員になった最初の一年の印象が鮮烈なのでしょうか。

当時の裏話などが思い出されてきて、個人的にも大いに楽しめました。

軽く読めるこの書評集ですが、時代を映すデータ集としても、色々と示唆的なのではないでしょうか。そんなわけで熟読してみました。

10年間の、時代の写し絵として、「『小泉今日子書評集』を読む」を近くブログ連載しますので、乞うご期待。

無粋なやり方ですが、統計数値を出すように数えてみるとなかなか面白い。例えば、書評でしょっちゅう、小泉さんが「私は泣いた」というところがあるのですが、それでは小泉さんは10年間で何回泣いたのでしょうか?ブログで取り上げると思いますが、皆さんも是非数えてみては。

女性の作家を取り上げていることが多い気がするのですが、取り上げられる本の著者の男女比はどれぐらいか、とか、数えると面白い傾向が見えてきます。何回泣いたか、女性作家の割合はどれだけかなどは、そのうちまたブログで書くとして、あらかじめ記しておくと、男性作家からは、勇気をもらったり爽快な気分になったりしても、泣いてはいないようですね。やはり共感のツボが違うようです。

【掲載】読売新聞12月7日付の論壇時評「回顧2015」で、年初の鼎談が紹介

嬉しいですね。

読売新聞12月7日朝刊の文化面では「回顧2015」と題して、ここ1年の動きをまとめています。

「回顧2015 *論壇 『テロの時代』に揺らぐ欧州」『読売新聞』2015年12月7日

この日は「論壇」が対象になっていて、各種論壇誌に載った記事が改めて紹介され、講評されている。そこで、『中央公論』の4月号に載った鼎談での私の発言が取り上げられています。

以下に言及箇所を引用します。

中東研究の池内恵氏は鼎談「『イスラム国」が映し出した欧州普遍主義の終焉」(『中央公論』4月号)で、欧州世界が域内の「内なるイスラム教徒」に対し「リベラルな多文化主義、普遍主義による統合」を諦め、「外は外で勝手にやってください」と思い始めたと分析。

とのことです。宇野重規さん、三浦瑠麗さんと並んで写真も掲載されている。

論壇の1年間の回顧の中で取り上げられたのはこの鼎談。

池内恵×中山俊宏×細谷雄一「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」『中央公論』2015年4月号(3月10日発売)、92−101頁

私はこの鼎談では、今年1月7日のシャルリー・エブド紙事件や「イスラーム国」の挑戦が何を意味するかについて論じ、それは「ヨーロッパの近代の普遍主義の限界を露わにした」からこそ意味が大きいのだと指摘しました。

結果的に、2015年の世界の思潮を規定する要素を、年初の段階で指摘していたことになったと思います。そのことを覚えていてくださって、こうして年末に評価して取り上げてくださったことは、嬉しいですね。文化部の記者の上田さんありがとうございます。

読売の文化部とは10年前にかなり緊密に一緒に仕事をしたことがある。「読書委員」という制度を通じてのものだった。

ちょうど、週明けに出る『週刊エコノミスト』で、この時のことを書いたばかりだった。読売新聞の文化部と小泉今日子さんと、そして私も一時加わった読書委員会について。書評という制度について。そこで文化部の記者が果たす役割について。

月曜日にはブログで改めて通知します。