『週刊エコノミスト』の読書日記は、いったい何のために書いているのか、について

『週刊エコノミスト』に連載の読書日記、第5回が発売になりました。

池内恵「帰省して「封建遺制」を超えた祖父の書棚へ」『週刊エコノミスト』10月7日号(9月29日発売)、67頁

エコノミスト2014年10月7日号

今回はちょっと私的なことを書いてみました。紀行文風ですが、実際には今後ゆっくり書いていきたいことの種を方々に仕込んであります。かつての日本の学問と「養子」という制度の関係とか、明示的ではないのだけれども、私的なところを出発点に、地下茎のように伸ばしていきたいテーマがあります。直接的には9月の連休に、祖母のいる金沢に久しぶりに帰った際に見たものや読んだものを扱っているのですが、本当はいくつかの発展させたいテーマについての布石です。

『週刊エコノミスト』の「読書日記」欄は、連載と言っても5人の執筆者が順に担当するので、5号に1回廻ってくる私の回を続き物として認識している人は、このブログを丹念に読んでくれている人だけだろう。

5回目になって、どうやら節目のようなので、この連載(私の回だけの「続き物」としての)で何をやろうとしているのか、改めて書いてみよう。

本人の意識としては、壮大なパズルの小さな小さなピースを一個ずつ、各所に置き始めた段階なので、自分以外には全体像は見えないと思う。

まずこれまでの連載を列挙して振り返ってみたい。ブログで毎回告知してきたので、エントリへのリンクを付しておこう。

(-1)読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)

4月1日に、今年度の決意のような形で、この連載の趣旨を書いておいた。多くはここですでに書いてある。連載が始まる前に、カウントダウンのように2回予告のエントリがある。

4月1日のエントリでは、書評(あるいは読書日記)という、日本の新聞・雑誌に確立した様式・制度から、非常に逸脱したものを意図していることを記してある。

以下要点を《 》内に再録してみよう。

まず、「書評はもうやりたくない」と書いてある。

《『書物の運命』に収録した一連の書評を書いた後は、書評からは基本的には遠ざかっていた。たまに単発で書評の依頼が来て書くこともあったけれども、積極的にはやる気が起きず、お断りすることもあった。たしか書評の連載のご依頼を熱心にいただいたこともあったと思うが、丁寧に、強くお断りした。》

その理由はいろいろ書いておいたが、一番の理由はこれ。

《新書レーベルが乱立して内容の薄い本が乱造され、「本はタイトルが9割」と言わんばかりの編集がまかりとおる出版界の、新刊本の売れ行きを助けるための新聞・雑誌書評というシステムの片棒を担ぐのは労力の無駄と感じることも多かった。なので、書評は基本的にやらない、という姿勢できた。》

それでは何故今回やる気になったかというと、次のような条件を出してもなお編集部が呑んでくれたからです。

《「新刊本を取り上げるとは限らない。その時々の状況の中で読む意義が出てきた過去の本を取り上げることも読書日記の主要な課題とする。さらに、読書日記であるからには、外国語のものや、インターネット上で無料で読めるシンクタンクのレポートやブログのような媒体の方を実際には多く読んでいるのだから、それらも含めて書く。その上でなお読む価値のあるものが、日本語の、書店で売られている、あるいはインターネット書店で買うことができる書物の中にあるかどうか検討して、あれば取り上げる」。》

これは、日本の出版慣行・制度から見ると、とんでもないことを言っています。

まず「新刊を取り上げる義務はない」。

これは出版業界では、不穏・不遜な発言です。

新聞・雑誌など商業出版での書評という制度は、基本的に「新刊」を取り上げることに、経済的な意義があります。書評で取り上げられた本を取次が積極的に本屋に卸し、本屋は良い場所に並べる。そうすると売れる。自治体の図書館も、購入する際に書評を参考にする。

新刊でないものを取り上げると、在庫がなかったり、取り寄せるのに時間がかかったりして、本屋で目立つところに置かれるまでにタイムラグが出るので、あまり効果がない。

書評欄がある新聞・雑誌には、出版社は新刊を無料で送ってきたりして便宜を図る。書評欄が充実している新聞・雑誌には出版社は本の広告も出す。そうやって新聞・雑誌と出版社の間の持ちつ持たれつの関係ができ、取次や本屋や自治体図書館を含めた商売のサイクルができる。

書評の書き手とは、そういう商売のサイクルの一端を担っているのです。純然たる商行為の歯車である、というところは否めません。

その立場を拒否する「新刊は取り上げないかもよ」という条件は、「じゃ連載は止めてください」と言われても仕方がないものです。

逆に私から言えば、現在の新聞・雑誌の媒体で、報酬面なども含めて、従来型の制度の末端の「歯車」としての書評の書き手になるインセンティブがあるかというと、全然ありません。

ですので、まず「新刊本でなくてもいい」という条件は、譲れないものです。なんでたいしたことがない本を苦労して紹介しなければならないのか。その時間があれば他のことに頭を絞れます。

しかしそれだけにとどまらず、上記の引用を見ていただきたいのですが、私は「日本語の本でなくてもいい」という条件を付けています。

これは日本の出版業界では、もはや宇宙人のような発言です。

出版の技術として多言語対応が困難であるだけでなく、言語の壁は、日本の新聞・雑誌・出版の世界を守る非関税障壁のようなものです。

しかし英語での世界の議論がまるで存在しないかのようにふるまえる日本の言論空間・知的社会教育の行き詰まりと限界は、言語で守られたメディア・出版業界が固定化してきたものでもあり、書評欄という制度もそれを支える一つの部分でありました。その意味で、日本の言論をましなものにするには、多言語空間へのインターフェースを作る必要があります。別に日本人同士が英語でやり取りしなくていいですが、英語圏で先進的な知見については、タイムラグなく同期していける仕組みが必要です。

しかし読書日記で、あるテーマを取り上げ、「これについては日本語では読むべき本がないので、英語で最新の○○、シンクタンクの報告書××を紹介します」と書いた場合、英語の本はすぐに読みたければアマゾンで注文するでしょう。いっそアマゾンの電子書籍を買ってダウンロードしてしまうかもしれません。英語圏のシンクタンクの報告書はほぼタダでダウンロードできます。

そうなると、この書評によって、日本の出版社にも、取次にも、本屋にも(あと著者にも)、一円もお金が落ちません。税金すらおそらくほとんど日本政府に入らないでしょう。

そうなると、日本の国民経済を死守する立場からは、そのような書評は、おおげさに言うと、「非国民」扱いをされかねないものです。

しかし、国民の知的水準の向上という意味では、この書評には公益性があります。日本の非関税・言語障壁で遮られた空間で、一流でない知的産物を国民が売りつけられて消費している場合と、最先端のものを外国語であれ苦心して求めて摂取している場合とで、どちらの国民が文化的に進んでいるでしょうか。後者でしょう。

出版やメディアが「単なる商売ではない=何らかの公益性がある」とみなすならば、必要なときは後者の経路を可能にする、積極的に支えるものでなければなりません。それを排除するカルテルを結んだりするのであれば、その業界は公益性のない、単なる私益・利権集団ということになります。そういうものがあってもかまいませんが、税制優遇とか、規制による保護とか、かつて行われた政府資産の優先的払下げ割り当てとか、再考しないといけない面が出てくるでしょうね(ギラリ)。

英語の本を紹介しても日本の企業に一円もお金が落ちない、という状況は、そもそも洋書を取り扱う日本の書店が長くカルテルを結び、もっぱらの書い手であった大学に対して法外なレート換算で売りつけ、それを買わざるを得ないようにする役所の書類制度に守られてきたからです。そこに安住している間にアマゾン黒船がやってきて、個人で洋書を買いたい人向けに便利で安価なシステムを提供し、新たな市場を開拓したうえで独占してしまいました。誰が悪いかというと、まあ税金払わないようなシステムを作るアマゾンも悪いですが、カルテルを結んで役所と結託していた洋書屋さん業界がより悪いのです。品揃えも悪く持ってくるのも遅く高い、というどうしようもないものだったのですから。

ですので、そういった業界のしがらみは気にせず、外国語の本もこの読書案内では紹介する。本屋さんは洋書の読書案内を見て洋書コーナーを充実させればいいじゃないですか。それをせずに、「日本語の本を紹介しないこのコーナーは駄目だ」と出版社・本屋が言って、編集部が「そうでございます。これからは日本語の本を書評させますからどうかひとつその」とか言って何か言ってくるようになったら、私としては執筆する意味はなくなります。

もちろん本当は日本語の本を紹介したいんですよ。でも、あるテーマについて、今最も適切な本を示す、という最低の基準は維持しなければならない。単に日本語の市場に出ているから宣伝します、ということをやらないといけないのであれば、あのそれは非常に純然たる商行為ですから、現在の日本の原稿料相場では私は書けませんよ。絶対やらない、とは言わないが「要相談」という別の話になってしまう(=やりませんよ)。

(0)『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)

さて、このようにすでに本質的なところは書いてしまっていたのだが、連載第1回の前にもう一度告知した。私の初回の発売日が1週違っていたから。原稿の締め切りからタイムラグがあるんですな。それがウェブ媒体に慣れた現在ではもう想像できなくなっている。報道記事はぎりぎりまで締め切りを延ばすのだろうけど、連載の文化欄は早めに原稿を取っておくというのが新聞・雑誌業界の慣行。でも私の場合は書評でも時事問題を絡めたりするので、あんまりタイムラグがあると書きにくいという問題はある。まあなんとかなるが。

このように現存の制度の「悪いところ」をいろいろ書いてしまいましたが、わざわざ時間と労力を使って読書日記の企画に踏み出そうとするのですから、もっと肯定的な目標があるのです。英語圏の議論やウェブのコンテンツにも視野を広げた読書日記の新企画を、あえて日本語の経済週刊誌の紙の媒体でやるというのも、考えがあってのことです。

まず、文章技術としては、制約がある方が面白い。

従来型の新聞・雑誌の書評・読書日記を、日本語の新刊本についてやるだけなら、流れ作業のようなものです。そこではもう能力の発達は望めない。面白い本に巡り合うよりも、無理に推薦する労働の苦痛ばかりが降ってくるでしょう。

また、逆に、ウェブで書くなら、多言語だろうがリンクだろうが自由自在に貼れます。好きな本も選べます。しかしウェブの媒体であれば読んでくれる人は、すでに「こちら側」にいる人です。リンクを踏んで英語や、やむを得ない場合はアラビア語などに飛んで行かされても苦にしない人が読んでいるのです。

それに対して、紙の媒体をなおも手にしてくれる人は、ある意味得難く、貴重です。ウェブや英語にはなかなか行かないけれども、紙の本には自然にすぐに目を移してくれる人たちなのです。そうであれば、必然的な制約があっても、紙の媒体で英語にもウェブにも架橋する場所をもし作れれば、そういった読者がさらに知見を積んで、より高度な内容を本に求めるようになるかもしれない。そうなって初めて、書き手として、あるいは読み手・買い手として、より心地よい空間が生まれてくるかもしれない。

誇大妄想気味にこのような課題を設定して、連載に向かいました。

(1)読書日記1「本屋本」を読んでみる『エコノミスト』5月6・13日合併号

さて、前置きが長くてやっとたどり着いた連載第1回ですが、ここでは本屋賛歌。

モノとしての本と本屋に、どのような利点があるのか。これについて数多の「本屋本」からセレクトして、

福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書)
内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)

を選びました。

いずれも、紙の本と本屋を絶対視していない。ウェブに面白いものはいくらでも転がっており、本屋でも新刊本屋と古本屋の両方の選択肢があり、図書館と言う選択肢もあり、という前提の上で、あえてなお紙の本と本屋にはどんな意義があるのか、積極的に問い直してみる。前向きの本です。

(2)週刊エコノミストの読書日記(第2回)~新書を考える

しかし第2回は暗転。実際にそこいらの本屋に行ってみると、読みたい本にたどり着けない。ジャンクフードのような刹那的な本が溢れている。だから、この回は良い本を推薦するという形式ではない。ジャンクフードのジャンクフードたるゆえんはどのような本に現われているか。

だいたい日本の書評の慣行は、批判してはいけないというものです。新聞の書評などでは、特にその縛りがあります。なぜって、すでに書きましたが、商売の歯車だからです。良いものを売れるように一肌脱ぐのは大歓迎ですが、良くないものまでなんで宣伝しないといけないのか、さっぱり分からない。いえ、ぶっちゃけた話、「新聞に書評書いてると、知名度上がりますよ、本も送ってくるようになりますよ」というのが誰も言わないけど過酷な労働条件を呑ませるために提示された給付の暗黙のリストの中に入っているのですが、実態としてこの効果はもはや疑わしい。ちゃんとした文章ならブログで書いている方が効果はあるんじゃないかな。誰を相手に書くかにもよるけど。

まあしかしジャンクフード紹介、では読書日記欄がすさむので、ちょうどその時、別件で頼まれていた、ちくま新書のリストを全部見て1冊お気に入りを紹介という仕事を流用して、リストを見たら載っているこんなにいい本、という趣旨で新書の良書を列挙しておいた。これについてはまた別のところで書こう。

(3)読書日記の第3回は、モノとしての本の儚さと強さ

第3回は、今度は電子書籍論。ただし、電子書籍のパラドクス。

肝心な時に肝心な本が手に入らない。国際情勢が激変して、ウクライナ問題とか、「イスラーム国」とか、想像もしないことが生じたときに、粗製乱造の解説本は出るかもしれないが、本当のことをずっと前に書いていたような本は、絶版・品切れで市場のどこにもなかったりする。

じゃ、全ての本が電子書籍でも出ていれば、手に入らなくなる可能性もないよね?

でもよく考えてみるとそうでもない可能性があります。

人はなぜモノとしての本を買うのか。前提として、「買っておかないとなくなってしまうから」というものがあります。紙の本は、モノである以上、可能性としては水に濡れたり火にくべてしまえば損壊・消滅しますし、売れてしまえば市場になくなる。高価な学術書になると、もともとの部数が少なく、高いので専門家にしか売れないとなると増版もされない。

逆に言えば、だからこそ買っておくわけです。

電子書籍もあるから必要な時が来たらいつでも買えるよ、ということになると紙の本は買わなくなるでしょう。そして、電子書籍も結局買わない。なぜならば、「必要な時」が認識されるような本はごく稀だから。

だったら本って、出なくなりますよね・・・・

(4)週刊エコノミストの読書日記(第4回)学術出版の論理は欧米と日本でこんなに違う

じゃあどうしたらいいんだ、と考えるときに、参考になるのが英語圏の学術出版。学界・大学出版・大学図書館というトライアングルが強固に出来上がっていて、そこで書き手の質が維持され、出版社への利益が確保され、必要な読み手によるアクセスが保障される。必要な読み手とは必ずしも世間一般の読者ではない。大学院生を含めた専門家です。

一般読者の選好を基本的に意識せずに本を作り、売り、届けることができる英語圏のシステムは、一定の規模の学術出版の世界を成立させると共に、社会に知を広めるのにも役割を負っています。ただし、一般読者が単に興味を持って読みたい、という時にフレンドリーかと言うと、そうではないでしょう。一定のディシプリンを身につけていないと読み解けないようなルールの下に本が書かれ、大学院に所属していればどの本もほぼ借り出せるし、大学のアカウントからオンラインで読める場合もある。その対価・使用料が著者や大学出版に入る仕組みになっている。

日本がすべて真似しなければいけないわけでもないし、真似もできないだろうけれども、専門的な出版の質と規模を確保するためには、現存する最も高度な仕組みであることは確かだ。そこから漏れる部分もあるけれども。

逆に、日本の場合は、学術出版も多くの場合は商業出版社が行っているから、どうしても消費者の意向(と編集者やら「営業」や、一般的に上の方にいるおじさんたちが「消費者の意向」と信じているもの)に左右されがちだ。もちろん博士論文を出版した、というような固いものもあるけれど、それではその次に本当に出版として意味のあるものを書いて出せるかというと、多くの学者がそのような「書き手」になるには至らない。義務としての最低限の出版をしてからは、出版の世界から退出してしまう。確かに、純然たる商業出版の要請に応えるタイプの芸を持っている人は少ないし、分野によってはまったくお呼びがかからない。学術出版のもっと自立したサイクルがあれば、その中で切磋琢磨して着実に書いていけそうな人たちはいるのだけれども。

そのため、商業出版の要請に応える才覚というか軽率さのある一部の書き手が、新書を中心に膨大な量を生産することになる。そこには、学術的知見をタイムリーに要領よくまとめてくれて刺激になるものもあるが、「もう少し考えればもっといい本になったんじゃないの?」「よく知らないことについて書かない方がいいんじゃないの?」と言いたくなるものが大半だ。要するに、話題になってから急ごしらえで本を作る。それに対応できる、してしまう一部の人だけが請け負って、劣悪な労働条件で商業出版のライターの役割を果たすわけである。日本の学術的知見の多くは、実際には商業出版によって消費者動向に従って出版される。

このような日米の学術出版を対比するのには、日本を「需要牽引型」で、米国を「供給推進型」ととらえるといいのではないか?と普段一部の研究者や編集者との与太話で提案している学説をここで活字にしてしまった。

* * *

さて、こんな感じで、大きなパズルの各所に、最初の小さなピースをいくつか置いてみた、というのが連載の現状。そこで今回は別方向に、自分のルーツをたどるという趣向で、市場の商品、制度の産物という側面とは別の、パーソナルな部分での本との結びつきについて、発端を書いてみた。自分の事ばかり書くのは好きではないので、めったにこの話題には戻ってこないけれども、これまでに公の場で全く書いていないいろいろなことがある。そのうち色々書いてみたい。

今後どうなるんでしょうね。どういう形であれ、連載の依頼を受けたことで刺激を受けて始めてしまった、新しい形の読書論、ゆっくり育てていこうと思っています。

なお、この連載は『週刊エコノミスト』の電子版を契約していただいても読めません。毎日新聞社が提示してくるデジタル版の契約条件が私の基準と合わないので、承諾していないのです。ですので、もし連載が今後も続いて、ご関心がある方は、刊行された週に、本屋でお買い求めください。

私の電子出版に関する基準はいろいろありますが、儲けようとかいうことではなく、「そのやり方で、出版は成長しますか?市場は開拓されますか?本当に考えてやっていますか?」ということを第一に考えたうえで判断している。

大前提は、連載の第3回で書いたことに関わります。「いつでも買えるなら、今週出たものを今買うインセンティブはなくなる」。そして、ウェブ雑誌の形ではなく紙の雑誌のそのままのフォーマットでしかデジタル版が提供されていない場合は、要するに「バックナンバーを買う」のと同様になるのです。実際には、バックナンバーを買う人はあまりいないでしょう。それにもかかわらず、デジタル契約を許諾してしまうと、半永久的に電子版複製の権利が出版社に保持される。かえって流通を阻害します。

紙版はその点良いのですね。なぜならば、モノとしての本・雑誌は、抱え込んでいるとお金がかかるから、やがて絶版になるか、あるいは売り切ってなくなる。出版社の権利とは出版をし続ける義務を伴いますから、絶版・品切れになれば出版社側の権利はほぼ消滅する。作品は、少なくともテキスト部分は、自由に新しい道を歩み出せるのです。電子データは保存するコストが極小なために(そもそも実際に一部ずつ売れるまでは、「存在しない」のだから)、有用な売り方を出版社が知恵を絞って考えたり、もう売れないから絶版にするという判断をするといった労力を省かせ、かえって作品が塩漬けになる可能性があります。

【寄稿】読書日記の第3回は、モノとしての本の儚さと強さ

論文が難航して大変なことに。本も書かねばならないんですが。

しかし明日は朝7時30分から会合が入ってしまった。誰だそんな時間から働きたがっているのは。

それはさておき。『週刊エコノミスト』の読書日記の連載第3回。本日発売です。

池内恵「なくなってしまうからこそ本は買われる」『週刊エコノミスト』2014年7月22日号(7月14日発売), 69頁

5号に一度回ってくるこの連載の私の番は、電子書籍版やネットには載りませんので、ご興味のある方は本屋で今週中にお買い求めください。

まさにこれは今回のテーマで、「モノ」としての本・雑誌は、なくなってしまったら手に入らない。それは不自由のように感じられるが、実はそれが大事なのだ、という点を考えてみた。どういう風に考えたかは本誌で。

第1回以来、私の番だけ連続もののように書いていて、メディア環境も出版も、本の形も、全てが急激に変わっていく中で、どのような手段でどんな本をいつどのように読むかを考え直していく、というのが共通テーマ。

もちろん電子書籍を敵視しているのではない。ウクライナ情勢、イラク情勢について電子書籍で取り寄せた本なども紹介しております。

今号の特集は「地図で学ぶ世界情勢」。

エコノミスト2014年7月22日

本ブログでも地図特集に力を入れてきました。まだ何回分も用意してあるが、時間がなくてアップできていません。競争だ。

アラブの革命と反革命と混乱(・・・以下無限ループ)を記者クラブ講演で辿る

昨日は日本記者クラブでの講演や会合複数でその合間に豪雨にやられたりといろいろ多難な一日でした。(今日は今から学会発表に行きます)

記者クラブでの講演は会員のみとなっていますが、すぐに会見のビデオが公式ユーチューブ・チャンネルで公開され、概要や、テープ起こしをもとにした詳録も(これは毎回ではないが)、ホームページにアップされます。

近く下記のページに順次内容がアップされていきますので、ご関心のある方はどうぞ。今回は詳録も作ってくださる予定です。

池内恵「エジプト・シリア・大統領選後の中東」日本記者クラブ、2014年6月27日

記者クラブでの講演はすべて「会見」ということになっているのですが、もちろん私が新党を結成したり臨時政府を設立したり破局を発表したりはしないので、実態は記者向けの勉強会の講師です。日本記者クラブでは外国から大臣とかが来たときとかに講演をして、そちらは正真正銘の「会見」なのですが、そういった本当の会見ではしゃべる人は海千山千で本当のことは言わないし情報操作するしで、聞く方はちゃんと突っ込みを入れないといけないのですが、遠い国から来たよく知らない要人に突然べらべら勝手な話をされてもそう簡単に突っ込めないので、日々講師を読んで勉強しておこうというような意味で研究会を多数開催しているようです。

そういうわけで、記者さんたちに知恵をつけに行くようなことを定期的にやっています。もちろん中東を長く報道している人たちの中には私などよりもずっと実態をよく知っていて、各国政治指導者の人となりやら政局の裏事情などに通じている人もたくさんいるので、そういう記者とのやり取りから私も学ばせてもらっています。

「アラブの春」以後の、有為転変の節目節目で講演させてもらっているので、いつの間にか回を重ねました。だんだん前回どこまで話したか分からなくなってきたりします。

毎回、その時点での最新の事象・状況について、その時点での考えを述べることにしているので、毎回この講演のための準備はそれほどせず、必死になって考えていることの一端をそのまま話してしまいます。その意味では各時点での生の声が出てしまっていると思います。

なお、参加者が聞きに来ていそうな別の財団等の講演会で話してしまったことは話さない(同じことは二度話さない)傾向があるので、一連の記者クラブ講演ですべてを話しているわけではありません。

時には現地で撮影してきた画像を使ってみたり、いろいろ工夫はしていますが、中心はそれらの事実に基づいた「概念化」の作業。

日本の記者は「事実そのもの」を探そうとする姿勢はいいのですが、それを概念化していくという作業に慣れていない傾向があるので、その方面を補うことが、私の役割かなとなんとなく思っています。そのため、その時点での最新の事象について簡単にまとめたうえで、どの事象をどのような立場からどのように概念化すると、現状を理解したり将来を見通すために役立つか、という観点で議論することが多くなっています。

あと、質疑応答で「やはり私はすべての根源はパレスチナ問題と思うんですよ~」的な昔の通念を無自覚に垂れ流す記者OBなどには露骨に嫌な顔をしたり、「日本政府の対応は立ち遅れた」といったありがちな批判を述べる記者には、「今起こっていることはグローバルな市民社会での大変動だ。市民社会は誰が構成するのか。各国では記者、すなわちジャーナリストはその筆頭なんですよ。日本の対応が立ち遅れているとしたら、日本の市民社会、つまりあなた方立ち遅れているんだ」などと私が突然キレて、一同シーンとなったりする場面もあったりします(しかしこの場面をユーチューブで探すには全部で10時間ぐらい見ないといけないので誰も探せないと思いますよ。私はつっかえながら毎回1時間以上、時には1時間半も話しますので)。

今回の講演で司会の脇祐三さん(日経新聞社)が、「池内さんはもう7回目」と仰っていたので、もうそんなになるのか、と思いつつ「あれ?一回多いんじゃない?」と思いました。自分の記憶する大体のイメージでは5回か6回だったのです。調べてみました。

そうすると「アラブの春」後では、今回が6回目。しかしはるか昔、2005年に一度話をさせてもらっていたのでした。脇さんが正解。しかし「アラブの春」後になんとなくシリーズ化したものとしては6回目(と自分の感覚を正当化)。

はるか昔の、番外編的1回目は、私の京都勤務時代で、わざわざ東京に呼んでくれていたのでした。内容は中東分析・イスラーム解釈と、それにまつわる日本の思想状況。ある意味私の原点であります。私が説得的に議論したというよりも、現地の現実が私がぼんやりと描いていたものを、いちいちはるかに鮮明に現実化してくれたので「まあ池内が正しかったんじゃないの。彼のものの言い方が適切だったかは別として」と、業界のしがらみがない人には思っていただけるようになったかな、という感じの時代の流れだと思います。

機会を与えていただいてありがとうございます。

下記に、これまでの日本記者クラブでの講演の基本データや概要、詳録、ユーチューブ画像などのURLを張り付けておきます。革命の高揚感、忍び寄る暗い影、巨大な壁の各地での出現、移行期の分かれ道、大きな脱線、さらなる混迷といった行ったり来たりするアラブ政治・イスラーム主義の展開と、それをその時々に必死に追いかけて把握しようとしてきた、結構恥ずかしい軌跡が浮かび上がります。いつかすべてが美しい思い出になる。きっとなる。

(番外編)池内恵「アラブの政治と思想」日本記者クラブ、2005年4月18日
概要(脇祐三氏)

(1)池内恵「エジプト移行期政治プロセスの進展と中東政治の再編」2011年5月11日

会見レポート(久保健一氏)『日本記者クラブ会報』第496号(2011年6月号)25頁

会見詳録

YouTube(JNPC)

(2)池内恵「一年後のタハリール」日本記者クラブ、2012年2月16日

会見レポート(福島良典氏)『日本記者クラブ会報』第505号(2012年3月号)12頁

YouTube(JNPC)

(3)池内恵「エジプト大統領選挙と民主化の行方」日本記者クラブ、2012年6月29日

会見レポート(松尾博文氏)『日本記者クラブ会報』第509号(2012年7月号)16頁

会見詳録

YouTube(JNPC)

(4)池内恵「革命から2年を過ぎたエジプト政治の行く末」日本記者クラブ、2013年4月15日

会見レポート(出川展恒氏)『日本記者クラブ会報』第519号(2013年5月号)7頁

YouTube(JNPC)

(5)高橋和夫・池内恵「アラブの春から3年:米・中東関係」日本記者クラブ、2013年12月13日

会見レポート(二村伸氏)『日本記者クラブ会報』第527号(2014年1月)13頁

YouTube(JNPC)

(6)池内恵「エジプト・シリア・大統領選後の中東」日本記者クラブ、2014年6月27日

【寄稿】週刊エコノミストの読書日記(第2回)~新書を考える

本日、6月9日(月)発売の週刊エコノミストの「読書日記」欄に寄稿しました。5人の執筆者が順に担当する欄で、二回目。

今回は新書論。

池内恵「『ジャンクフード』と化した新書の読み方」『週刊エコノミスト』2014年6月17日号(第92巻第27号通巻4349号)、55頁

週刊エコノミスト2014年6月17日号

このブログでもこのテーマについてはだらだらと書きましたが、愚痴ばかりではない前向きな情報も加えて、1頁にまとめました。今回も、電子書籍版やデータベースでは読めません!書店でお買い求めください。

別件の依頼で、ちくま新書のリストをさっと見て価値あるタイトルを抜き出すという作業に1時間ほど没頭してしまったのでその成果も部分的に取り入れました。リスト見るといい本あるじゃないですか。本屋の棚での印象と違うな。

ちくま新書は今年で20周年だそうです。講談社現代新書になると50周年だそうなので、タイトルを全部見るのも時間と労力的に無理そうだ。誰にも頼まれていないか。

うちの原稿はどうした!という声が虚空から3つ4つ聞こえた気がした。トカトントン。それじゃ。

【寄稿】読書日記1「本屋本」を読んでみる『エコノミスト』5月6・13日合併号

『週刊エコノミスト』(毎日新聞社)の「読書日記」欄への連載第1回が4月28日(月)に発売されました。

池内恵「ネットで買えるのにあえて書店に行く理由」『週刊エコノミスト』2014年5月6・13日合併号、65頁
週刊エコノミスト2014年5月6日13日号

今回文中で言及した本は、次の二冊でした。


福嶋聡『紙の本は、滅びない』(ポプラ新書)


内沼晋太郎『本の逆襲』(朝日出版社)

(Kindle版)

書店員・書店主による「本屋本」を読んでみた中で引っかかってきた本です。

福嶋聡さんはジュンク堂難波店の店長、内沼晋太郎さんは下北沢の「B&B」の書店主です。

まったく偶然ですが、今日、ジュンク堂梅田店に行ってきました。なかなか壮観、荘厳です。

「読書日記」については、以前にこのブログで書いたことがあります。
 
読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)(2014年4月1日)
『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)(2014年4月16日)

【ご注意】なお、池内の『週刊エコノミスト』「読書日記」欄への連載は、電子書籍版への掲載やデータベース配信は行われません(私が承諾していないので)。

『エコノミスト』読書日記の第1回の発売日は4月28日(5月6日号)

 月一回の読書日記を始めます、と告知したのですが(読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)2014年4月1日)、第1回の掲載号の発売日を誤って4月21日(月)としていました。

 今気づいたら実際には4月28日(月)発売の5月6日号に掲載でした。すでに原稿は出してあるので、お待ちください。

 今更ながら、書いてからタイムラグがあるんですね。

 2011年の「アラブの春」以来、ウェブ媒体への寄稿に力を入れていましたので、締め切りから発売までの感覚を忘れていました。

 昨年は『エコノミスト』に何度か書きましたが、時事問題についてだったので、校了日ぎりぎりまで締め切りが延びていたのですね。書評などは早めに原稿を確保しておくようです。

 もともと私は、月刊の総合誌・論壇誌に多く書かせてもらってきたのですが、「アラブの春」で、国際政治の動きが新しいメディアに媒介されて加速する現象に直面し、ウェブ媒体の可能性に気づかされたことと、月刊誌・論壇誌の相次ぐ廃刊や部数低下、広い世代への訴求力低下に、方向転換を迫られました。

『フォーサイト』(新潮社)では極限までのリアルタイムの発信を試みてきました。

 今回あえて紙媒体の週刊誌に戻った理由は・・・・

 連載書評でお読みください。

***

 書評といっても、まさにこれだけタイムラグがあるのだから、速報性や話題性を競ってもしょうがない。紙幅に制限があるから情報量も限られている。リンクも貼れない。

 もっと長いスパンで、本を読むこと、買うこと、書くことがどう変わっていっているのか。その中でなおも本を読む価値とは何か。そんなことを、5週に一度という、間延びした間隔ですが、継続して考えていく、そのような欄にしたいと思っています。

 第一回は「本屋に帰ろう」というテーマ。
 
 なお、ウェブ媒体や電子書籍を否定したり敵視したりするつもりはありません。ノスタルジーから本屋と活字・紙媒体を礼賛するのは、あまり意味はない。

 そもそも極端な活字派の私だってこのブログを書いている。

 今回の書評エッセーと本の選択自体が、インターネットで下調べをした結果、ウェブ雑誌の「マガジン航」にヒントを得ていると、文中でも断っております。

 私たちの生活とインターネットや電子書籍は分かちがたくなっていて、そこから大きなものをすでに得ている。だからこそ紙の本にも街の本屋にも新しい価値や役割が生まれてくる。そういう前向きな姿勢の「本屋本」を紹介するのが、今回の趣旨です。

 連載で書ききれなかったことは、このブログにも書いてみましょう。

 4月28日発売号でのエッセーの中核の部分は、本は究極にはデータだけやり取りできればいいように見えるのだけど、でも実は「モノ」として不器用に厳然として存在することにこそ本の強みはある、という点。

 この点は別の場所でもう少し深めてみたいものだ。

 そして、本屋は「モノ」としての本を売っているのだけれども、しかしモノと読者が出会う場と機会という「経験」を提供してこそ意義を持つ。インターネット書店や電子書籍が発達した現在、これは「逆説」に近い。「モノ」としての制約を極力超えてくれるのがインターネット書店や電子書籍の強みなわけで、この点でリアル店舗は不利に決まっている。

 しかし「モノかデータか」という二分法は現実の私たちの生活では無意味なんですね。本がモノとして厳然とあるからこそ、モノと人の出会いというモノならざるものを生み出す人や場所に価値が出てくる。

 インターネット書店は圧倒的に便利です。ウェブ雑誌は効率的で、全国・世界各地の図書館から本やデータを取り寄せることが一層容易になっている。けれどもだからこそ、モノとしての本の価値が出るし、リアル書店も見直される余地が出てくる。

 これまでと同じやり方をしていてはだめだけど、新しいやり方でこれまでの書店や出版社の全員が生き残れるとは限らないけれども、やり方によっては、書き手と書店が新たに読者とつながることができる。可能性はむしろ広がっている。それをどう生かすか、知恵の絞りようだ。

【連載】今年も続きます『中東協力センターニュース』

 ここのところ年度末・年初ということもあって、研究プロジェクトを閉じたり開いたりの事務書類のやり取りや、各種連絡に追われている。本をまとめる作業も複数進行中。

 ついでに自分の書いてきた原稿も整理中。どこに何を書いたかがだんだん分からなくなってくるからね。

 今回リストアップしてみるのは、『中東協力センターニュース』で行っている連載「『アラブの春』後の中東政治」です。

 中東協力センターというのは、経済産業省所管の一般財団法人で、エネルギーを軸とした中東との通商貿易・産業協力の手助けをする。大まかにいえば「業界団体」ということでいいのかな?

 そこが出している雑誌に依頼を受けて連載を始め、1年半が過ぎた。こちらは今年度も継続とのことです。
 
 2012年の6月から、だいたい2号に一回のペースで連載している。この雑誌は隔月刊なので、4カ月に一回ということですね。ときたまテーマに連続性がある時は二号連続で書きます。

 ある程度「概説」を意識して書いているのが、この連載。

 直接の読者は、中東に仕事上関係することがある人向けに限定されているのであまり初歩の初歩からは書かなくていい。とはいっても中東政治やイスラーム政治思想の学術的な議論と、中東に関わっているとはいえ非専門家の認識・知識の差は著しいので、そこを埋めるのが直接の目的。

 とはいえ、雑誌がほぼそのままウェブ上でPDFで公開されるので、一般向けも多少意識して書いている。

 私自身がいろいろ興味を持って専門的に研究をしていることのダイジェストをここにまとめるというような使い方をしている。

 私は基本的に同じことを二度書かないことにしているのだけど、この連載だけは、他のところで取り上げたテーマや論点を少し分かりやすくしたり読みやすくして提供していることがある。「最近やっている、関心を持っていることのご紹介」という性質の欄と思ってください。

 ただし、連載第5回(2013年10月)の、クーデタ後のエジプトの「ナセル主義」についての稿は、他ではあまりまとめて書いていない内容を盛り込んである。写真を多く使えるというこの媒体の性質を生かしてみたかったものですから。

『中東協力センターニュース』掲載の論稿をダウンロードできるバックナンバーのページが各年度ごとに設けられていて、過去のもダウンロードできる(リンクは2013年度分)。

下記にはこれまでの連載のタイトルを一覧にしておきますので、ダウンロードページからどうぞ。

(1)
池内恵「エジプトの大統領選挙と「管理された民主化」『中東協力センターニュース』2012年6/7月号、41-47頁
【JCCMEライブラリー2012年度】

(2)
池内恵「政軍関係の再編が新体制移行への難関──エジプト・イエメン・リビア」『中東協力センターニュース』2012年10/11月号、44-50頁
【JCCMEライブラリー2012年度】

(3)
池内恵「『政治的ツナミ』を越えて─湾岸産油国の対応とその帰結─」『中東協力センターニュース』2013年4/5月号、60-67頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

(4)
池内恵「アラブの君主制はなぜ持続してきたのか」『中東協力センターニュース』2013年6/7月号、53-58頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

(5)
池内恵「エジプト暫定政権のネオ・ナセル主義」『中東協力センターニュース』2013年10/11月号、61-68頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

(6)
池内恵「エジプトとチュニジア──何が立憲プロセスの成否を分けたのか」『中東協力センターニュース』2014年2/3月号、74-79頁
【JCCMEライブラリー2013年度】

『外交』に連載した英語書籍の書評リスト

 先ほど、『書物の運命』以来書評は書いていない、と記しましたけれども、例外的に、外務省発行の『外交』にだけは書評連載を一年半ほど持っていました。

 この時も、ご依頼に対して条件を付けた逆提案をしたところ、それを呑んでくれたので連載に至りました。

 ご依頼では、ごく通常の雑誌書評、ただし『外交』なので国際政治・安全保障や、私なら中東ものを中心に、というご要望でしたが、私の方のモチベーションや読書習慣から、「外国語の本のみを取り上げる。新刊でなくていい。学術書でもいい」という条件を出しました。

 なぜそのような条件でなら引き受けたかというと、専門に関わる英語の本は職業上・必要上、目を通すが、必要な情報の読み方があって、全部読み通すことが少ない。要するにイントロダクションと結論だけ読んで、これはという部分だけ読んで内容を把握するので、全部読まないのである。専門研究のための読み方としてはそれでいい。しかし一般読者に紹介するとなると、徹底的に読んで、論や学説の適切さや妥当性を見極め、現実に起っていることとの関連でその本が存在する意義、読む価値を示さないといけない。

 そういう文章でも書く仕事を引き受けないと、英語の本を必要に応じてちゃっちゃっと読むだけになってしまって身につかないな、と思ったから。純粋な釣りとは言えないが、あえて一本釣りをして見せる役割を買って出ることで釣りの技術を忘れないようにする、というような。

 全く自分のための、自分に向き合った連載ですね。すみませんでした。

 最初の半年間は月に一回(年度末まで)、2010年9月から2011年3月までの6回。時事通信社の編集。次の一年間は二ヶ月に一度で6回。今度は都市出版社の編集。外務省による入札方式が揺れたため、年ごとに編集や出版感覚が変わりましたが、私の連載は二年度続いたことになります。

 連載が始まった頃はまだ「アラブの春」の前でした。むしろ「9・11」以後の対テロ戦争が収束に向かう段階。米国のリーダーシップや政治的意思決定過程に対して強い批判や問い直しが提示され、ブッシュやブレアなどの回顧録も出ていました。この書評欄はそれらを淡々と紐解いていくきっかけになりました。

 それが連載の後半から、「アラブの春」の急速な広がりで、過去に出ていた基礎的な学術書から、急速に流動化する事態を読みとくための手掛かりを切に必要とする状況になり、書評欄がいっそうアクチュアルなものになりました(本人としては)。

 これらの書評は単行本にはまだ収録されていません。

 『外交』は現在24号まで出ていますが、12号までは無料で外務省のホームページにPDFが公開されているので、リンクが生きている間は、読めるという意味では読めてしまう。

 下記の連載リストの各タイトルをクリックすると、外務省のサイトから直に私の記事だけが(他の記事も一部一緒のファイルに入っているが)PDFファイルでダウンロードされます。【あくまでリンクがまだ生きている場合だけです。おそらく8回目まではリンクが生きているのではないか。追記:2016年1月23日】

(1)
池内恵「リベラルたちの「改心」、あるいはアメリカ外交史のフロイト的解釈」『外交』Vol. 1, 2010年9月 156‐159頁

(2)
池内恵「グローバル都市ドバイが映し出す国際社会の形」『外交』Vol. 2, 2010年10月, 176‐179頁

(3)
池内恵「将軍たちは前回の戦争を準備する」『外交』Vol. 3, 2010年11月, 146‐149頁

(4)
池内恵「善政のアレゴリー、あるいはインテリジェンスの哲学」『外交』Vol. 4, 2010年12月, 164‐167頁

 この年イギリスのケンブリッジ大学に行っており、そこでインテリジェンスのセミナーを見たり、ちょうど相次いで出版されていたインテリジェンス機関の歴史書や、インテリジェンスの理論書を取り上げた。中にはその後翻訳が出たものもある。

(5)
池内恵「聖人と弁護士──ブッシュとブレアの時代」『外交』Vol. 05, 2011年1月, 168‐171頁
(http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/gaikou/vol5/pdfs/gaikou_vol5_31.pdf)

 ブッシュとブレアの回顧録で「対テロ戦争」の時代を振り返りましたが、この号が出る頃から、「アラブの春」が一気に広がります。

(6)
池内恵「『革命前夜』のエジプト」『外交』Vol. 06, 2011年2月, 182‐185頁

 ムバーラク政権の来るべき崩壊を予言していたジャーナリストによる「革命前夜」のエジプトに関する描写で問題の真相を探る。原稿を書いた時にはムバーラク政権は倒れていなかったが、『外交』が出た時はもう政権崩壊していた。

(7)
池内恵「エジプトを突き動かす「若者」という政治的存在」『外交』Vol. 07、2011年5月、138-143頁

 これはアハマド・アブダッラーという政治学者へのオマージュ。自ら学生運動の指導者でもあり、若者の政治的な可能性を深く追求し、実践活動も行いながら、道半ばで夭折。エジプトの政治活動家の間での伝説的な人物。アジア経済研究所に勤めていた時に、客員研究員でいらっしゃいました。彼に革命を見せたかった。 

(8)
池内恵「イエメン 混乱の先の希望」『外交』Vol. 08, 2011年7月、154-157頁

 イエメンについては数名の専門家が非常によく知っており、それ以外の誰もがよく知らない。

(9)
池内恵「ポスト9・11」の時代とは何だったのか──ジル・ケペルの軌跡」『外交』Vol. 09、2011年9月、154-157頁

 ジル・ケペルは確かに中東研究に一時代を築いた。

(10)
池内恵「シリア・アサド政権の支配構造」『外交』Vol. 10、2011年11月、146-149頁

 オランダの外交官が、アサド政権の宗派的、地域的、党派的構成について調べ上げた比類のない書。

(11)
池内恵「中東の要所、サウジアラビアにおけるシーア派反体制運動」『外交』Vol. 11、2012年1月、158-161頁

(12)
池内恵「ギリシア 切り取られた過去」『外交』Vol. 12、2012年3月、156-159頁

 この連載もまた、くたびれ果てて終了しました。いい勉強になりました。

【追記】(11)(12)はなぜかリンクが機能しませんが、総目次のところからVol.11, Vol.12のPDFというページを開いて行くと各論稿をダウンロードできます。Vol.11はなぜかリンクが間違っていて、「巻頭随筆」の浜中さん・吉崎さんのところをクリックすると、書評欄のファイルがダウンロードされます。逆に書評欄をクリックすると巻頭随筆がダウンロードされてしまうようです。

【追記の追記】
外務省のホームページがしょっちゅう変わるのでどんどんリンク切れになったり、リンクが間違って貼られていたりします。

よって、このブログのリンクも大幅に構築し直す必要がありますが、時間がないのでできません(2016年1月23日)

読書日記の連載を始めます(週刊『エコノミスト』)

 そうそう、すぐ近くにあるけどめったに行かない東大教養学部まで歩いたのは、桜を見るのが目的ではありませんでした。大学生協の書店に行ったのでした。先端研のある駒場Ⅱキャンパス(駒場リサーチキャンパス)は、学部がなく、理工系の研究所だけなので、生協はあるが本がほとんどない。それでは教養学部の生協まで行って買うかというと、歩いて10分もしないのだけれども、それすら時間のロスがもったいないほど忙しく、しかも行っても欲しい本があるとは限らないので、結局インターネット書店で買ってしまっていた。

 ここ数年、出張先の書店で買う以外には、リアルな書店で本を買うことがほとんどないのではないか。そもそも研究上必要な本の大部分は外国語なので、英語ならアマゾンで、アラビア語は現地に出張に行った時にトランク一杯と段ボール一箱に詰めて帰ってくる(それでも入らないほどある場合は引っ越し貨物の扱いにする)。日本語の本はあくまでも、「日本語の市場でどのようなものがあるのかな」「このテーマについてどういうことを言っている人がいるのかな」と調べるためにあるだけで、引用することもほとんどない。残念なことだが。

 書店で本を選んで買うという作業は、高校生の頃から大学・院生時代には、尋常ではないほどの規模で行っていたのだが、ある時期からまったくそれをしなくなった。

 学生時代を終えて、就職して半年で9・11事件に遭遇し、その後ひたすら書くためだけに本を読む、大部分は外国語の資料、という生活をしてきたので、純粋に娯楽や好奇心で本屋に行くということは、めったになくなった。

 日本語の本にも目を通してはきた。しかしそれは「書評委員として、新聞社の会議室で、その月に出た本を全部見る」といった通常ではない形で見ているので、本当の意味で本を選んでいたとは言えない。

 たのしみのための読書ではなく、職業としての読書になってしまっていた。

 例えて言えば、「釣り」の楽しみを味わうことのない「漁」になってしまったんですね。網で何100匹も一度に魚を獲ったとして、職業上の達成感や喜びはあるだろうが、それは釣りの楽しみとは違いますよね。

 なので、今本屋に行くと「浦島太郎」のような状態。こんな新書がこんなところにある。こんなシリーズがあったのか。なんでこんな本ばかりがあるのか。こんな人が売れているなんて・・・

 話が遠回りしたけれども、なぜ久しぶりにわざわざ生協の本屋に行ったかというと、今月から月に一回、『週刊エコノミスト』で読書日記のようなものを担当することになったからだ。私の担当の第一回は4月21日発売号に載る予定。

 『書物の運命』に収録した一連の書評を書いた後は、書評からは基本的には遠ざかっていた。たまに単発で書評の依頼が来て書くこともあったけれども、積極的にはやる気が起きず、お断りすることもあった。たしか書評の連載のご依頼を熱心にいただいたこともあったと思うが、丁寧に、強くお断りした。

 理由は、そもそも人様の本を評価する前に、自分で、人様に評価されるような本を書かねばならないことが第一。そのためには研究上必要な本をまず読まねばならず、それはたいていは外国語で、専門性の高いものばかり。それでは一般向けの書評にはならない。自分が今は読みたいと思わない本について、しかも引き受けたからには必ず何かしらは褒めなければならない新聞・雑誌の書評は苦痛の要素が大きい。

 世の中には、書評委員を引き受けていると、出版社や著者からタダで本が送られてくるから、書評してもらえるかもと愛想良くしてくれるから、とそういったポジションを求めて手放さない人もいると聞くが、まあ人生観の違いですね。

 また、新書レーベルが乱立して内容の薄い本が乱造され、「本はタイトルが9割」と言わんばかりの編集がまかりとおる出版界の、新刊本の売れ行きを助けるための新聞・雑誌書評というシステムの片棒を担ぐのは労力の無駄と感じることも多かった。なので、書評は基本的にやらない、という姿勢できた。

 それではなぜここにきて書評を引き受けてもいいという気になったかというと・・・・

 まあ、「気分がちょっと変わったから」しか言いようがないですが、強いて言えば、『週刊エコノミスト』に何度か中東情勢分析レポートを書いて、書き手としてのやりがいや、読者の反応が、「意外に悪くない」と感じたことが一因。紙媒体で見開きぐらいの記事が、企業とか官庁とかの組織の中でコピーされたり回覧されて出回るというのが、インターネットが出てきた後もなお、日本での有力なコミュニケーションのあり方だろう。

 その最たるものは「日経経済教室」ですね。とにかく一枚に詰め込んであって、勉強しようとするサラリーマンはみんな読んでいる(ことになっている)。

 ネットでのタイムラグのない情報発信も『フォーサイト』などで試みてきたし、これからも試みていくけれども、やはり固い紙の活字メディアの流通力は捨てがたい。

 ずっと以前の『週刊エコノミスト』の編集方針や論調には正直言って「?」という感じだったので、おそらく編集体制がかなり変わったのだろう。そうでないと私に依頼もしてこないだろう。

 ただし、引き受けるにあたってはかなり異例の条件を付けた。それは次のようなもの。「新刊本を取り上げるとは限らない。その時々の状況の中で読む意義が出てきた過去の本を取り上げることも読書日記の主要な課題とする。さらに、読書日記であるからには、外国語のものや、インターネット上で無料で読めるシンクタンクのレポートやブログのような媒体の方を実際には多く読んでいるのだから、それらも含めて書く。その上でなお読む価値のあるものが、日本語の、書店で売られている、あるいはインターネット書店で買うことができる書物の中にあるかどうか検討して、あれば取り上げる」。
 
 こういった無茶な原則を編集部が呑んでくれたからだ。当初の依頼とはかなり違ったものだ。

 考えてみれば、雑誌の書評欄というものは、「新刊本を取り挙げる」というのが大前提で成り立っている。雑誌に書評が出れば書店がそれをコーナーに並べてくれるようになるから売れ行きが伸びる(かもしれない)。だからこそ出版社も雑誌に広告を出したり、編集部に本を送ってきたり情報を寄せたり中には著者のインタビューを取らせたりと、便宜を図る。そういうサイクルの中で新聞や雑誌の「書評欄」というものは経済的に成り立っている。それを「新刊はやりません」と言ってしまったら雑誌に書評欄を設ける意味が、経済的にはほとんどなくなってしまう。「新刊本をやらなくていいという条件ならいかが」と言われて呑んだ編集部はなかなか度胸がある。

 ただしそれは従来までの本屋のあり方に固執すればの話だ。インターネット書店でロングテールで本が売れる時代なのだから、それに合わせた書評欄があっていいはずだ。

 今現在の国際問題・社会問題などを理解するために有益な、忘れ去られた書物を発掘して再び販路に乗せるためのお手伝いをするのであれば、書評欄を担当するなどという労多くして益の少ない作業にも多少のやりがいが出るというものだ(原稿料などは雀の涙なので、大々々々赤字です。この連載を受けると決めてから市場調査的に勝った本だけで、すでに数年間連載を続けても回収できない額になっています)。

 「昔の本など取り挙げてもらっても在庫がないよ、棚にないよ」という出版社・問屋・書店の意向というのは、それは彼らの商売のやり方からは都合が悪い、というだけであって、書物そのものの価値や必要性とは関係がない。

 むしろ本当に良い本が生きるための業態・システムを開発した人たちが儲かるような仕組みがあった方がいい。そのためにも一石を投じるような本の読み方を示したい。

 話が長くなったが、たった10分のところにある生協の本屋に歩いて行く気になったのも、そういった趣旨の連載をやるからには、各地の本屋を見ておかねば、と思ってまずは手直なところからはじめたというわけ。ずいぶん遠回りしたね。

 生協のレジの最年長のお姉さん/おばさんが、学生時代の時と同じ人だったのはびっくり・・・まあ何十年もたったわけじゃないので当然なんだが、こちらはいろいろ外国やらテロやら戦争やらを経験して帰ってきてやっと落ち着いた風情なので、まあ驚くやら安心するやら。

『UP』連載のリスト

 2011年の「アラブの春」の勃発以来、『UP』では発表の場、思考の場を与えていただきました。

 ここで一連の寄稿をリストにして整理してみたいと思います。

 まず、チュニジアとエジプトでの政権崩壊と、アラブ世界全域への社会変動の波及で騒然としていた時期に、政治学からの分析の視角について、単発で書いたものがこれです。

池内恵「アラブ民主化と政治学の復権」『UP』第462号(第40巻第4号)、東京大学出版会、2011年4月、42‐50頁 

 政権の動揺の仕方やその後の展開を、(1)メディアの変容などに根差す中間層の厚さや性質、(2)政権の反応を左右する要素としての政軍関係、(3)宗派や部族などの社会的亀裂、といった点を提示しておきました。ここで書いていたことが、その後の展開に照らしてあまりに外れていたら、私も「アラブの春」をめぐる比較政治分析にそれほど力を入れることもなかったかもしれません。

 さほど間をおかず、2011年夏には、その後、短期集中での連載を依頼され、現状分析に基づいた先行研究の再検討を主題に「『アラブの春』は夏を越えるか」という緩~い連載タイトルで、3号連続で書きましたしました。
 
《「アラブの春」は夏を越えるか》
(1)
池内恵「中東の政変は「想定外」だったか 「カッサンドラの予言」を読み返す」『UP』第465号(第40巻第7号)、東京大学出版会、2011年7月、33‐40頁

(2)
池内恵「『理論』が現実を説明できなくなる時」『UP』第466号(第40巻第8号)、東京大学出版会、2011年8月、22‐29頁

(3)
池内恵「政治学は『オズィマンディアスの理』を超えられるか」『UP』第467号(第40巻第9号)、東京大学出版会、2011年9月, 12-20頁

 しかし先行研究の問題は明らかとはいえ、そうなるとこれから何を手掛かりにアラブ政治を分析していけばいいのか。現実を見ながら自分で分析枠組みを考える、これまでのものでなおも有効なものを拾い上げる、という作業が必要となりました。これにはかなりの準備作業が必要でした。

 多少はその準備作業ができたかと思われた2012年半ばから、見切り発車ながら、2カ月に一度というペースで、偶数月に「転換期の中東政治を読む」という、事態の変化次第でどうとも変えられる連載タイトルで、終着点もなく、回数も決めずに走りだしました。

《転換期の中東政治を読む》
(1)
池内恵「エジプトの『コアビタシオン』」『UP』第478号(第41巻第8号)、東京大学出版会、2012年8月、13-22頁

 第一回はエジプト。やはりアラブの春と言えばエジプト。話題が尽きませんし、イスラーム主義勢力が公的政治空間に参加を許され、ついこないだまで投獄されていたムスリム同胞団が選挙で台頭し、ムルスィー大統領を誕生させる。それと軍部がどう「コアビアシオン」するか、という前例のない事態を観察しました。

(2)
池内恵「『アラブの春』への政権の反応と帰結──六ヶ国の軌跡、分岐点とその要因」『UP』第480号(第41巻第10号)、東京大学出版会、2012年10月、36-43頁

 政軍関係の比較で、「革命」期の「アラブの春」の展開はかなり整理できる。このあたりはかなりまとまりの良い論文です。ただしまとまりがいいということは、世界中で研究者が同じようなことを考えているということですね。世界の最先端に遅れないでいることに意味はありますが、オリジナリティを出すにはもうひとひねり必要です。

(3)
池内恵「エジプト『コアビタシオン』の再編」『UP』第482号(第41巻第12号)、東京大学出版会、2012年12月、37-44頁

 連載三回目で早くもエジプトが激動。ムルスィー大統領がエジプトの強大な大統領権限を行使して軍に対して優勢に立ったかに見えました。

(4)
池内恵「エジプト政治は『司法の迷路』を抜けたか」『UP』第484号(第42巻第2号)、東京大学出版会、2013年2月、28-38頁

 ムルスィー大統領やムスリム同胞団の足を引っ張ったのは、司法。司法の独立性は民主主義の一つの柱ですが、判事が政治的に中立でなく、旧憲法体制を根拠に新憲法制定をことごとく邪魔するという事態。「司法と政治」という分析視角は途上国の政治を見るために有益ではないでしょうか。

(5)
池内恵「イスラーム主義勢力の百家争鳴」『UP』486号(第42巻第4号)、東京大学出版会、2013年4月、51-57頁

 政治的自由化が進んだ各国でのイスラーム主義の台頭をまとめました。

(6)
池内恵「正統性の謎──アラブ世界の君主制はなぜ倒れないか(上)」『UP』488号(第42巻第6号)、東京大学出版会、2013年6月、32-40頁

 「アラブの春」で政権が倒れなかった、比較的揺れが少なかった諸国は、産油国であるか、君主制であるか、あるいはその両方であることが多い。産油国はどのような意味で安定しているのか、君主制だから安定していると言えるのか。これは「アラブの春」が比較政治学に提示した一つの課題でしょう。二回にわたって取り挙げました。

(7)
池内恵「『石油君主国』とその庇護者──アラブ世界の君主制はなぜ倒れないか(下)」『UP』489号(第42巻第7号)、東京大学出版会、2013年7月、39-46頁

 産油国・君主制についての二回目。快調なペースですね。

(8)
池内恵「エジプトの7月3日クーデタ──「革命」という名の椅子取りゲーム」『UP』第490号(第42巻第8号)、2013年8月、東京大学出版会、24-32頁

 そうこうしているうちにもう一度エジプトで大変動が。ムスリム同胞団を放逐し、軍部が一気に台頭。

 このころからシリア問題で紛糾してオバマ政権が政策大転換、さらにイランとの和解に乗り出して、ことは中東に留まらず、中東発の世界政治構造転換の様相を帯びる。そういった点でのメディア向けの論稿なども書かねばならなくなり、しかし同時に私個人的には長年延ばしてきた重要な論文締め切り複数がもはや抜き差しならないところに来る。

 息切れして、2012年10月号掲載予定だったのが、一回休み。
 
(9)
池内恵「アラブ諸国に「自由の創設」はなるか──暫定政権と立憲過程の担い手(上)」『UP』第494号(第42巻第12号)、東京大学出版会、2013年12月、33-40頁

 一回休むと4か月間があるのだが、その間に、もはや「革命」の段階を振り返っている時期ではない、と移行期の4ヵ国比較論を構想し、書きはじめたら膨大な作業になりました。

 最終的には先日お知らせした(「【寄稿】アラブの春後の移行期政治」)『中東レビュー』に掲載された論文になりましたが、その準備段階の作業を『UP』連載で行った形です。

(10)
池内恵「アラブ諸国に「自由の創設」はなるか──暫定政権と立憲過程の担い手(下)」『UP』第495号(第43巻第1号)、東京大学出版会、2014年1月、41-45頁

 前回一回休んで書いていた4ヵ国移行期比較が長くなり過ぎたので、上・下で二号連続で掲載。もう偶数月がどうとか言っていられません。ぜえぜえ。



さらにたたみかける論文締め切りの嵐で追い込まれ、『UP』誌上では音信不通となり・・・

・・・今回の最終回となりました。ああよく死なずに済んだ過去半年。

(11)
池内恵「移行期政治の「ゲームのルール」──当面の帰結を分けた要因は何か」『UP』第498号(第43巻第4号)、東京大学出版会、2014年4月、38-45頁

 というわけで、最終回は、『中東レビュー』で書いた移行期政治の「ゲームのルール」についてさわりの部分を記したり、連載を振り返ったり、今年後半には出したい本の宣言をしたり、この連載ではじめてエッセー風になりました。それまでは毎回論文の準備稿みたいでした。

 毎号大変でしたが、いいトレーニングになりました。

【連載】もっと先を知りたい人へ『フォーサイト』

このブログでは、とにかく短く、なるべくなら一日一回、中東やイスラーム世界について気が付いたことを書いてみることにします。ですので、あくまで初心者向け、広く一般向けを目指しています。

専門家やメディア関係者、官庁や関連業界関係者など、もっと詳しく読みたい、と思われる方々は、有料ですが、ぜひ『フォーサイト』(新潮社)の中に設置したブログ「中東の部屋」と連載「中東 危機の震源を読む」を読んでみてください。中東やイスラーム世界で何か重大なことがあった時は、論文や大学の仕事の合間に、時間の許す限り、情報発信と解説をするようにしています。

特に、新聞休刊日の前の週末に中東で大きな政治変動が起きている場合などは、勝手に使命感を感じて、徹夜で何本もアップデートしたことがあります。