イスラーム政治思想のことば(2)アラブ世界のリベラル派は少数派支配

なぜアラブ世界のリベラル派はふがいないのか。政治基盤がないにもかかわらず、影響力や発言力はある。それはある種の「支配」と言っていい。しかし肝心な時になると頼りにならず、特にムスリム同胞団など大衆的なイスラーム主義が伸長してくると、軍の暴力にすがる。リベラル派は肝心な時にリベラリズムを放棄する。

「少数ではあるが、自由主義者は大なり小なり現代のムスリム世界を通じて、少数者支配に近い地位にある。もし自由主義者がそれほど強いものなら、なぜ自由主義は弱いのだろうか。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、109頁)(2013年8月26日

【新企画】イスラーム政治思想のことば(1)イスラーム諸国で近代のリベラリズムが抱える制約と限界

新コーナーです。

「イスラーム政治思想のことば」と題して、イスラーム政治思想の有名な著作から一節を抜き書きしたり、イスラーム政治思想を論じる際に不可避の論点を特定した、長期的に残る研究書の名著から、主要な論点に関わる部分を転記して、簡単なコメントで補足します。

まず、近代のイスラーム政治思想を論じる際の最も大きな論点である、リベラリズムについて、古典的な研究書から少しずつ抜き出していきましょう。

まず、最初の数回にわたって取り上げるのはウィルフレッド・キャントウェル・スミスの『現代イスラムの歴史』(中村廣治郎訳)です。

原著はWilfred Cantwell Smith, Islam in Modern History, Princeton University Press, 1957です。

邦訳書は、中村廣治郎先生(私の学部時代の先生です)による翻訳で、1974年に紀伊國屋書店から『現代におけるイスラム』として刊行され、それが1998年に題を改められ上下巻で中公文庫に入りました(現在は絶版のようです)。

キャントウェル・スミスの該当書(訳書)からの抜書きは、実は今回このために新たに作成するのではなく、2013年8月26日に、Facebookのアカウント(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi)でフォロワー向けに書き記したものがあるので、それを探してきて、転記します。

なぜ2013年の8月に、イスラーム教とリベラリズムに関する古い研究書から読みどころを抜粋して紹介する作業をしていたかというと、おそらく、2012年6月に誕生したエジプトのムスリム同胞団の政権が、軍との対立を深めて2013年7月のクーデタで放逐された、その余韻冷めやらぬ時期であったからだと思います。エジプトの「革命」のサイクルを一通り目撃した上で、一連の動きを根底で規定する理念的な問題に考えを及ぼすと、アラブ世界の近代のイスラーム思想の発展の抱えた限界、特にリベラリズムの発展の限界について取り組んだ、古典的な研究書が現在でもなお有効であることを思い知らされざるを得ませんでした。

エジプトの2011年の「アラブの春」から2013年のクーデタまでの間にリベラル派が見せた振る舞いや、それと対象的で、競合・対立したムスリム同胞団の思想と行動、あるいは軍の動きとそれを支持する多数の市民の存在は、50年以上前のエジプトを対象にしてこの研究書が特定していたイスラーム教とリベラリズムの間にある問題を、今でもなお根強く存在していることを、あからさまに思い出させるものでした。この本の、時代を超えた有効性が明らかになった瞬間でもありました。

Facebookでまだそれほど多くの読者がいなかった(直接知っている人たちだけが読者だった)頃に、試験的にFacebookに主要なテキストの主要部分を抜書きしてみたのですが、Facebookは検索機能が弱いとか、アカウントがない人が見られないといった理由から、古典的な文献の抜粋を恒久的に提供して議論の支えにするという目的には相応しくないと考えて、試みが途絶していました。

その後このブログを立ち上げ、読者が増えたFacebookと連動させたり、ブログ上の様々な試み、例えば現代中東情勢のリアルタイムの分析などが、『フォーサイト』の固定ページとしてスピンオフしていきましたが、今回、このブログで、恒久的に、イスラーム政治とその分析に関わる主要な文献の、エッセンスを伝える部分を、日本語で提示しておく欄を設定してみようという気になりました。

今回転記する抜き書きを作成してから4年近くが経ちますが、「アラブの春」や、それをきっかけに新たに活動を拡大したイスラーム主義のさまざまな現象を対象にする論文や本を書き続ける中で、今度は私自身が立て続けに「イスラーム教とリベラリズム」の思想問題に取り組み何らかの形で解明する学会報告や論文提出を次々に求められることになり、自分の頭の整理のためにも、それらの学会報告を聞き、論文を読む人の予備知識のためにも、あえて論文に引用しないかもしれない、大前提となるテキストや、古典的で今も生きている研究書の著名・有力フレーズを、ブログで蓄積してデータベース化しておくことが有益と考えるに至りました。

今後私が書く本や論文を読む際にも(これまでの本を読む際にもそうですが)、「イスラーム政治思想のことば」に載せられているテキストは、前提中の前提になっていると考えていただけるといいと思います。

今日はまず、2013年8月にFacebookにメモしておいたこの本の紹介を転記します。今回は私が書いた解説的な文章で、まだスミス=中村訳の本文からの引用は出てきません。明日から本文そのものからの引用が始まります。

「イスラーム政治思想のことば」と題した新設コーナーの第一回が、政治思想のテキストそのものではなくそれに取り組んだ古典的研究書を取り上げることになってしまっていますが、今後はもちろん中東のイスラーム政治思想家のテキストそのものから見繕って、今現在の問題を見る際に有用なものを、紹介しようと思っています。

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アラブ世界の現在を理解するために「一冊」を挙げよと言われるなら、下記の名著です。W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(中公文庫、1998年)

なぜアラブ世界で自由主義が短命に終わるのか、自由主義者はその数に比してなぜ過度に発言力があるのか、しかしなぜ肝心な時になると逃げてしまって軍人が出てくるのか、ムスリム同胞団の伸張は社会と歴史の何を背景にしているのか、その限界はどこにあるのか・・・1957年に出版されたものですが、今の状況に照らし合わせて読むと怖いぐらいに良く当たっています。

考えてみればこの本が出たころは、1920-30年代のリベラリズムが衰退し、ムスリム同胞団が伸長し、政治暴力・衝突が激化し、1952年に軍が介入。1954年には議会再開を求めるリベラル派のナギーブ初代大統領とムスリム同胞団を両方ナセルら青年将校たちが排除して、その後長く政党も団体活動も禁じ、メディアを統制し、軍を翼賛するプロパガンダを開始していった。ムバーラク政権に繋がる独裁・抑圧体制が立ち上がったころです。

その頃の状況や構図と現在のものは、非常によく似ている。カナダのマックギル大学教授のスミスは思想史と現代社会分析の双方で優れた人です。訳書は1974年に紀伊國屋書店から出て、その後1998年に上下巻で中公文庫に入っていたのですが、絶版なようです。

「アラブの春」が暗転している現在、近代にアラブ社会が直面している問題についての洞察力を得るのに、最良の一冊ですので、ぜひ再刊してもらいたいものです。(2013年8月26日

【寄稿】『アステイオン』に、国際秩序をめぐる大著の数々を大ざっぱに総覧

長めの論考が『アステイオン』に掲載されました。というか、されます。すでに見本はもらっていますが、奥付上は5月26日に刊行とのこと。書店で予約しておくと真っ先に読めます。

池内恵「二十一世紀の『大きな話』、あるいは歴史を動かす蛮勇」サントリー文化財団・アステイオン編集委員会(編)『アステイオン』Vol. 86、CCCメディアハウス、2017年5月26日発行、168−187頁

『アステイオン』の今号の顔ぶれは、いつにも増して豪華です。目次の詳細と、各論考の冒頭の部分を、サントリー文化財団のウェブサイトで見ることができます。池内の論考の冒頭はこちら。最初の一節でゆるゆるとエッセー風に始めて油断させておいて、本文では世界秩序をめぐる大著の一群を、一気に総覧します。

特集「権力としての民意」(責任編集・待鳥聡史)は、最近流行りの用語で言えば「ポピュリズム論」というところに押し込められかねませんが、通り一遍のありふれたものではなく、ここぞと有力研究者を動員し、よその媒体ではみられない、深いところを理論的に探ったものになっています。

論壇で話題のポピュリズム論のいわば「標準」の地位を獲得している中公新書『ポピュリズムとは何か』を書いた水島治郎さんの「民意がデモクラシーを脅かすとき––ヨーロッパのポピュリズムと国民投票」を筆頭に、岡山裕「アメリカ二大政党政治の中の『トランプ革命』」や、阿古智子「インターネット時代の中国ポピュリズム」等々、欠かせないテーマに、それぞれ代表的な研究者が取り組んでいます。

また昨今の日本でのポピュリズム・大衆扇動政治の代表格といえばそれはもちろん小池都政ですが(私が勝手に決めた)、これについては金井利之さんの「小池都政における都民と “民意”」が載っています。

欧米と中国・日本だけでなく、東南アジアについても、例のコワモテ豪腕のドゥテルテ大統領について、高木佑輔さんの「フィリピン・ドゥテルテ政権の政治––民主化後の政治発展とエドサ連合」が。大変興味深い。

特集の外でも、有力な政治学者たちが次々と論考を寄せています。奈良岡聰智「よりよき公文書管理制度のために––イギリスとの比較に基づいて」や河野勝「安保法制は何を後世に残したのか––もうひとつの安倍政権論」は是非読んでおきたい。

五百旗頭薫さんがここのところ『アステイオン』に毎号のように力の入った論考を寄稿しており、今回は「嘘の明治史––五/七/五で嘘を切る」。

他にもいろいろ載っていて、これで本体価格1000円。もうまったく完全に採算度外視です。

どれだけ採算度外視かというと、ノーベル文学賞級の作家ミラン・クンデラの対談も、はるか後ろの方にあまり目立たない感じで載っています。文芸誌だったら背表紙に名前が載りますよ。

『アステイオン』の一つの売りの、各国のハイブロウな著作の書評・紹介をかなり自由に書ける「世界の思潮」では、マルガリータ・エステベス・アベさんがトランプ現象を読み解く二冊を紹介しています。編集の工夫、あるいは幅広いネットワークから常時集めている原稿ストックの豊富さから、特集の外でも特集と響き合う内容の論考が加わって追い討ちをかけます。

そんな豪華執筆陣が、特に今回は政治学や国際関係学者が、勢揃いして、深く・緻密な論考を次々に寄せているところに、私の論考では何を書いたかというと、いきなり冒頭から見出しが「『大ざっぱ』の効用」なのです。

何がどう「大ざっぱ」なのかというと、それは読んでみていただけば分かりますが、大概下記のような趣旨の文章です。

今回の私の論考では、政治学の優秀な研究者による力の入った論文が目白押しである中に混じって、ちょっと箸休め・頭休めのために目を通していただくことを意識して、以前に学会誌に書評を寄せたことのあるウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金』を手がかりに、冷戦後半から冷戦後に時期に提起された、国際秩序・世界秩序論のうち、アカデミックな世界だけでなくより広い読者層に向けて書かれ、読まれて、影響を与えた代表的な作品の変遷を、一筆書き的に紹介しました。文末の注で、原著と邦訳書の書誌情報を一覧に収めてみました。

何事も、時系列に並べると見えてくることがあるものです。学問は、集めて並べてみるのが、まず基本。どういう手法で「集め」「並べ(変える)」かについては、高度で包括的で検証可能な手法などを開発する余地はありますが、何はともあれまず定性的に見て触って読んで、どう並べればいいかをあれこれ考え、並べ替えてみること。

世界秩序をめぐる「デカい話」が周期的に新しいものが提起されて、好評を博し議論の対象になりますが、それらを毎回入手して隅から隅まで読んでいる人はよっぽどの読書家で、大抵は忙しい時期に出た本などはうっかりしているうちに見かけなくなってしまう。タイトルをちょっと聞いたことあるけれども、読んだことがなかった、あんな本こんな本が、読んだ気になる、読んでみたくなる、そんな企画です。お楽しみください。多分今号の全論考の中で一番分かりやすい論考。

今回は注が文献リストのように機能するように意図してつくっています。移り変わる国際秩序と国際世論を、時代ごとに背骨を作ってきた「感動巨編」系の数々を、体系的に、例えば半年で全部読んでみる。大学初年次ゼミとか読書会とかをやる際に、冒頭で配る文献リストと導入・手引きを記したイントロ・テキストとなればいいかな、と思って書きました。

【引用】『ポピュリズムと欧州動乱 フランスはEU崩壊の引き金を引くのか』に『朝日新聞』掲載の発言が再録

昨年10月21日に『朝日新聞』に掲載されたコメントの一部が、最近刊行された本に再録されています。

国末憲人『ポピュリズムと欧州動乱 フランスはEU崩壊の引き金を引くのか』(講談社+α新書、2017年4月20日)

該当箇所は本書の43−45頁にかけて。

国末さんによるインタビューは『朝日新聞』に下記の形で掲載(「奉じる「自由」の不自由さ 東京大学先端科学技術研究センター准教授・池内恵さん」『朝日新聞』2016年10月21日付朝刊)されていたのですが、国末さんがフランス大統領選挙直前に刊行したした著作の中で、私の議論の核心部分を切り出して再録してくださっています。

ここで国末さんは、ムスリム同胞団の創設者ハサン・バンナーの血を引く、ヨーロッパ育ちのイスラーム思想家・活動家のターリク・ラマダーンとの議論を、私との議論と突き合わせて掘り下げ、ムスリムの権利の擁護を主張する議論が西欧の社会規範の前提となる自由を掘り崩すことになる危険性を問いかけています。

日本の西欧政治の専門家は、西欧の学問の世界で支配的なリベラルな前提や通念を拠り所に、イスラーム教の教義は本来はリベラルであり、非リベラルな思想は一部の過激派によるものであるとして、イスラーム教と自由・人権との対立的な関係は存在しない、そのような問題を「ポピュリストが掲げているということは、問題視することが間違いなのである」となぜか一方的に断定して議論することが圧倒的に多く、他の点では傾聴に値する諸先生型の議論に、突然落とし穴が開いていることも稀ではありません。

学者は実際には西欧社会のうちごく一部の、留学した大学の中の、支持した先生の研究室とその関係者、といった限られた世界しか知りませんので、実態を知らずに、聞いた話で、あるいは現地の有力な先生の言葉の端々から「空気を読んで」イスラームとはこうであるはずだ、と類推してしまいます。

西欧社会の規範とイスラーム教の規範がどう齟齬をきたすか、それがどういう形で政治問題化されるか、こそがまさに今問題となっているのですが、しかし肝心の底を対象化できていない議論を見ると、大上段にポピュリストの危険性を論難していればいるほど、白けてしまいます。そういう人が多いから、ポピュリストが力を持つようになるわけですから。

国末さんは、そういった「専門家」の通弊から脱しようと様々に思考を凝らしているようです。

まあフランス流の近代合理主義・個人主義を叩き込まれると、なかなかあの「神中心主義」による、「群れない集団主義」とも言えるイスラーム教の動員のプロセスは見えにくくなりますが。

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国末さんはすでにポピュリズムについての世界各地のルポを取り混ぜた『ポピュリズム化する世界 ―なぜポピュリストは物事に白黒をつけたがるのか?』(プレジデント社、2016年9月)を刊行していますが、今回はフランスの大統領選挙に絞り込んだ、いわば「選挙本」になっています。

選挙の背景のフランス内政についての読みやすい解説としてまとまっています。

奥付によると4月20日刊行ですが、本当に4月23日の第一回投票の寸前の、最終段階の情勢を踏まえて、「マクロンとルペンの対決」になりそう、という見通しを示しており、選挙後に読んでも違和感がありません。

私も新潮選書「中東ブックレット」で標榜している「オンデマンド」方式を何らかの編集体制で実現しているようです。

【寄稿】『ブリタニカ国際年鑑』2017年版に昨年のイスラーム教の動向について

今年も、『ブリタニカ国際年鑑』の宗教のセクションの、「イスラム教」の項目を寄稿しました。

池内恵「イスラム教」『ブリタニカ国際年鑑』2017年版、2017年4月、206頁

過去1年のイスラーム世界・イスラーム教についての特筆すべき動向をピックアップするという趣向で、2014年版に最初に依頼を受けて以来、連続して4年執筆しています。期せずして、年に一度のまとめの機会になっています。

今年選んだのは、
「グローバル・ジハード現象の拡散」
「反イスラム感情とトランプ当選」
「イスラム教は例外か」

でした。

「グローバル・ジハード現象の拡散」は、中東から欧米にもまたがる「イスラーム世界」における、前年から引続く事件の連鎖を取り上げました。私としてはもう飽きているのですが(なんて言ってはいけませんね)。

「反イスラム感情とトランプ当選」は、昨年から今年にかけて「イスラーム」が国際社会の中で最も顕著に政治問題化された事例として、年鑑で記録しておくことにそれなりの意味はあるでしょう。

「イスラム教は例外か」というのは、イスラーム教に対する研究や論説の次元での新動向を取り上げたものです。従来の西欧や米国でリベラル派の間で通説であった、「イスラーム(アラブ・中東)例外論を否定する」という議論に対して、米国の移民系市民のリベラル派の論客の中から、イスラーム教がその支配的な解釈において「リベラルではない」という意味では、欧米のリベラル派の想定する「宗教のあるべき(本来の)姿」、あるいは「宗教と政治とのあるべき(本来の)関係の姿」からは「例外」となるがまずこの現実を認めてから対処しないとうまくいきませんよ、という議論が出てくるようになったので、それをキャッチしました。これについては論文や学会発表でより深く取り組んでみようと思います。

ちなみに、過去3年には以下の事項を選んでいました。

2016年版
「『イスラム国』による日本人人質殺害事件」
「グローバル・ジハードの理念に呼応したテロの拡散」
「イスラム教とテロとの関係」

2015年版
「『イスラム国』による領域支配」
「ローンウルフ型テロの続発」
「日本人イスラム国渡航計画事件」

2014年版
「アルジェリア人質事件」
「ボストン・マラソン爆破テロ事件」
「『開放された戦線』の拡大」

何事も積み重ね、ということの意味が、いい意味でも悪い意味でもここのところ分かるようになって来たお年頃ですが、『ブリタニカ国際年鑑』も、自分のテーマでの論文を中断して取り組むのは、毎年辛いものがあるのですが、それでも書いておいてよかったといつか思う日があることを願っています。

年に1度の「定期観測」を、日本語の国際年鑑での「イスラム教」の項目という「定点観測」を兼ねてやっているという具合です。

そういえば、『文藝春秋オピニオン』に、2013年版以来、毎年寄稿し続けているのも、年に1度の中東・イスラーム世界をめぐる日本語での論壇の関心事の定時・定点観測のように機能しはじめているかもしれません。

『ブリタニカ国際年鑑』の方は「イスラム教」の項目、という枠や紙幅は変わらず、その中で私自身が3つ何を選ぶかが、少なくとも自分にとっては有意義な指標となっています。

『文藝春秋オピニオン』は、編集部がその年の中東・イスラーム世界に関する日本の論壇にとって有意義と感じられるもの(かつそれを池内に書かせたいと感じられるもの)を選び、本の中でどこに置いてどれだけの紙幅を割り振るかを決めるのですが、その結果、どのテーマがどれだけの長さでどこに配置されたかが、年ごとに変化していきますので、それが長期的には何らかの指標になるかもしれません。

まあそのうち依頼されなくなるというのも一つの指標でしょうか。

『中東協力センターニュース』が3ヶ月に1回の定時観測で、『フォーサイト』が月刊誌時代には月に1回、ウェブになってからは日々にミクロな変化を記録、という形になっているのと併せて、定時観測・定点観測を異なるサイクルで、異なる形式で複数続けているのが現状です。

【寄稿】「ソマリエメン」と言ってみたかっただけ?『中東協力センターニュース』4月号に

少しこの欄での通知が遅れましたが、『中東協力センターニュース』4月号に論考を載せております。

池内恵「『ソマリエメン』の誕生? 紅海岸の要衝ジブチを歩く」『中東協力センターニュース』2017年4月号, 10-20頁【ダウンロード

四半期に一回の頻度で定期寄稿している『中東協力センターニュース』ですが、今回は、先月のジブチ訪問の報告として、若干紀行文的な要素を加味した論考です。そうは言っても、結局、かなり解説や分析に近づいた文章になっています。

地図は見繕って便利なものを拝借して載せてみましたので、元の記事に遡って読むなどして見るといいでしょう。

読み直して見ると、一部の箇所で、「ソマリ人」と「ソマリア人」がそれほど意味なく書き分けられてしまっているところがあり、かといって完全にどちらかに統一することも難しいので、次に関連テーマで書く時にはさらに詰めて調べて適切な語用を見出していこうと思います。

また、18頁の19行目の「何時にも渡って」は「何次にもわたって」とするべきでした。いずれにせよ硬さが抜けない文章ですが。

今回は、とにかく世界に先駆けて「ソマリエメン(Somaliemen)」という造語を作って使ってみた、というところが一番の肝でしょうか。

米国が9・11事件以後、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯をひとまとまりのものとして、「アフパック(Af-Pac)」と呼んで統合的な対処策を探ったり、「イスラーム国」がシリアとイラクの国境地帯を制圧し実効支配したことから「シラーク(Syraq)」と呼ばれたといった先例と同様に、ソマリアとイエメンの間の人的・物的・思想的交流のインフラの存在とその深化の可能性や、それと同時に進みかねない、ソマリアのアッシャバーブとイエメンのAQAPの相乗り現象の進展、それに対する米国トランプ政権による対ソマリアと対イエメンでの対テロ作戦の強化と一体化、といった事態がより十全に進めば、やがて「ソマリエメン」が語られることになるでしょう。

四半期に一回のこの定期寄稿は、毎度、逼迫した日程の中で時間を捻出し、最新の情勢や、私自身の研究の展開の中での新しい興味対象などから熟考してテーマ設定を行い、締め切りと校了の最後の最後の瞬間まで頭を捻って(編集部には極度の負担をかけて)脱稿・校了します。

研究者としての利益からは、一つのテーマにもっと長い時間かけて取り組むために、この寄稿のために割いている時間を振り分けたほうが得になる、という考え方もあると思います(今は、研究者の環境が極めて厳しくなっており、私自身が通常よりはるかに厳しい条件を選んで赴任してきているので、本来であれば研究者がするべきではないこのような比較衡量が時に頭をよぎります)。けれども、3ヶ月に一度、必ず、中東と隣接地域や国際社会全体も視野に入れて、今何が重要か、将来に何が重要になるかを徹底的に考え直す時間を作ることは、一つ一つはそれほど重要に見えなくても、積み重ねることで、何かが見えてくるきっかけになるのではないかと信じて続けています。

【書評】webRonzaに『サイクス=ピコ協定』の書評(記録メモ)

『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』への書評をこのブログで記録しておきたいのですが、採録できていないものが多くあります。少し前のものですが、ここでメモしておきます。

木村剛久「[書評]『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』」webRonza、2016年7月14日

ウェブロンザは有料サイトですが、これは無料で読めるようです。「神保町の匠」というコーナーで、三省堂とタイアップしているようです。

非常に丹念に内容を紹介してくださっています。木村さんはこの本の紹介にとどまらず、第一次世界大戦後の戦後の秩序形勢という文脈で、柳田國男が国際連盟の委任統治委員会として提出した英文報告書の内容を引いて、読者にさらなる興味・関心を掻き立ててくれています。

【書評】『望星』で『サイクス=ピコ協定』について

もう一本、じっくり読み込んで書評していただいていたのを、ちょっと遅くなりましたが、紹介します。

丸山純「中東の過去と現在を見通してイスラームとの共生を探る」『望星』2016年12月号(通巻571号)、東海教育研究所、2016年12月1日発行、104−107頁

『望声』は東海教育研究所が発行、東海大学出版部から発売されている。丸山さんは「デジタルエディター」の方です。この雑誌の「忙中本あり 閑中本あり」という書評連載で取り上げてくださっています。

『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』を読み込み、そこで紹介した映画『アラビアのロレンス』を改めて観て、『イスラーム国の衝撃』(文春新書)についても言及があります。

私の本に触れた上で、常岡浩介さんの『イスラム国とは何か』(旬報社)桜木武史さんの『シリア 戦場からの声』(アルファベータブックス)などに手を伸ばす、というところが、いいですね。

【書評】『サイクス=ピコ協定』が『歴史と地理 世界史の研究』(山川出版社)で書評

まず、『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』の7刷が決定しました!

少部数ずつ小刻みの増刷ですから、累計しても「ベストセラー」というほどの数ではありませんが、刊行から一年あまり、ずっと売れ続けているのは素晴らしいことです。

ずっと紹介したいと思っていたのですが、教育の現場や、ジャーナリストの下調べの段階で、この本が丁寧に読まれ、懇切に書評を書いてくださっている場合が方々にあります。このブログではそれらをまとめて一覧できるようにしておきたいのですが、どうしても手が回りません。気づいたものを急ぎメモしておきます。

近年の教科書は、歴史学で一つ一つの事実を確定する手続きの末生まれた学説を取り入れることにはかなり熱心なのですが(そこで聖徳太子の歴史事実としての記述が消えたりして政治的に物議を醸したりする=個人的には「聖徳太子信仰」は歴史上の重要な事実なので、どのように神話が生まれて影響を持ってきたかを客観的に教える素材としては大変いいと思うのですが、そのような「事実ではないかもしれないが政治的に重要であり続けてきた話」を扱うというのは初中等教育では難しいのかもしれません)、歴史をどう捉えたらいいのかという解釈を見いだすことがいっそう困難になっているようです。

もちろんかつてはマルクス主義のような、目的論的で、終末論的でさえあるストーリーが広く信じられていたため、それに沿って歴史を描けば、とりあえず分かりやすく、さらに、なんとなく勧善懲悪論とも似通っているため、理解しやすく、教えやすかったと思うのですが、そのような時代は終わってしまって、かつ統一的な価値観がなくなっていって、世界史を教える時に方向性を示すことが難しくなっているのが現状でしょう。

歴史の流れ、個々の事象のより大きな枠の中での意味づけという、原史料だけからは出てこないものについて、ある程度の根拠のある形で提示してくれる書物が求められているにもかかわらず、「ちゃんとした研究者」として認められるプロセスの中で、そのようなストーリーを示すことは、それほど重視されていない(場合によってはそんなことをしていると不利になる)ため、あまり書かれることがない。逆に、大胆に「俺の世界史」みたいなものが著名人によって描かれてベストセラーになる傾向もありますが、そういった本は、面白いですが、根拠が不明で、賞味期限も短い。

また、学会で支配的なグランドセオリーのようなものに従って全体の筋書きを描いてしまうと、一部の一方的な見方に偏ってしまったり、学会の世代交代でがらっと変わってしまったりする。教育現場で世界史になんらかのストーリーをつけて教えること自体が、難しくなっているのかもしれません。

『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』は、中東の近代史の事実の群に、それなりに普遍性のある意味づけを行う手がかりを示すことを意図した本で、それが私の「主張」に見える部分もあるのでしょうが、「客観的にこのように見ることもできますよ」と言える概念をいくつか提示している。そこを着実に読み取ってもらっている様子があります。

山本勝次『歴史と地理』第701号・世界史の研究(250)、山川出版社、2017年2月、69頁

「中東をめぐる近現代史が、国際関係を中心に教科書とは違った枠組みで整理されている」とこの本を意味づけて、「本書を読みながら、多くの場面で世界史の意外な関係性に気づかされた」と書いてくださっています。また、「本書の分析視覚を通して、中東情勢を歴史的にとらえることができるようになるだけでなく、二○世紀世界史を俯瞰することも可能にしてくれる」という評価は、まさに私がこの本で意図したことを正面から認めてくださっていて、嬉しいです。

書評を書いてくださった山本先生は、東京学芸大学附属国際中等教育学校教諭とのこと。

歴史を、事実や年号の「暗記もの」として、「覚える」ものとしてではなく、概念を使って把握するものとして教えてもらえる生徒は、大変幸運ではないでしょうか。

『日経新聞』で紹介(記録メモ)

昨日の日経新聞への寄稿をPDFデータで手元に残しておこうと日経テレコンを検索したところ、昨年12月にも『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』について取り上げていただいていたようです。時事問題に関係する本を紹介する「読むヒント」というコーナーで、『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』を中心に、『イスラーム国の衝撃』も併せて言及してくださっています。書き手は松尾博文編集委員。学部時代の先生の中村廣治郎先生の著作と一緒に紹介してくださっているのがありがたいですね。

「「イスラム国」の実態は――中東の構造変化が背景、民衆の不満吸収し成長(読むヒント)」日本経済新聞2016年12月5日

【寄稿】『日経新聞』経済教室にシリアの化学兵器使用と米の空爆について

寄稿しました。

池内恵「米国のシリア攻撃、展望は――米政策の不可測性に長短、強い指導力発揮は望めず(経済教室)」『日本経済新聞』2017年4月18日

過去の日経新聞への寄稿については、このエントリでまとめてあります

【講演】五月祭で軍事史サークル主催にて

東京大学の五月祭で講演をします。

東大戦史研というサークルの主催です。

演題:「グローバル・ジハード――組織なき組織の動員と戦略」
講演者:池内恵(東京大学・先端科学技術研究センター・准教授)
開催日:2017年5月20日(土)
会場:東京大学本郷キャンパス工学部2号館211号講義室
開場:10:50
開演:11:00
終了予定時刻:13:15

参加するには、ウェブサイトのフォーマットから申し込みが必要です。

個人的には全く縁のないサークルですが、おそらく、依頼を受けた経緯は次の通り。昨年の五月祭では小泉悠さんが同じ枠で講演をするという情報がSNSで回って来て、私はそのころ小泉さんに学会や雑誌特集号など複数の依頼をしていた関係から、勉強させてもらおうと出かけていきました。

非常に多くの聴衆が詰めかけていて、また、小泉さんの話ぶりは非常に巧みで内容も深く、私自身も地域研究者としても、いろいろ興味をそそらせるところが多く、楽しめました。モスクワのエレベーターのボックスに座っているおばちゃんの話が特に面白かったですね。

私は立ち見で後ろにいただけだったのですが、何かの具合にで面が割れ、それで依頼を受けたのだと思う。

私は軍事史に詳しくないので、軍事に興味がある方々の関心に会うものはできませんよ、ということをお伝えしてお断りしようとしたのだけれども、それでもいいというので、最近考えているグローバル・ジハード論のあれこれをお話しすることにしました。

軍事そのものに強い関心がある、という人にはちょっと物足りないかもしれませんが、社会学とか国際関係論などに興味がある人にも参考になるところがあるようにしようかと思います。

【寄稿】先端研30周年ウェブサイトでイスラーム教と脳の関係を

このブログではお久しぶりです。新年度になってしまいました。3月は半ばにポーランド・ワルシャワ、そして月末から4月初冬にかけて、年度またぎでジブチとイスタンブールに現地調査に行って来ました。帰国直後から、新学期の複数の授業の立ち上げを行い、シリア化学兵器使用と米国による対アサド政権の空爆について情報を集めるなどしておりました。

通知が遅れてしまいましたが、先端研30周年の特設ウェブサイト上で、同僚の高橋宏知先生と退団しました。准教授を中心に行う「未来論」対談の第一回。

高橋宏知・池内恵「イスラームの宗教と脳の機能は交差する。」対話する未来論・先端研30周年

「脳科学」というと、一般メディアで異様に重宝されることがあり、実証性の乏しい疑似科学や、スピリチュアル系の偽薬みたいなものが多いですが、高橋先生のやっているのは神経工学によるゴリゴリのエンジニアリングというところが、新味のあるところと思います。

キーワードは「言語」です。

【寄稿】伊奈久喜さんの追悼文を『公研』に

日経新聞の記者で、外交コラムで著名だった伊奈久喜さんが昨年4月に亡くなりましたが、今年の1月に追悼の会が開かれたのをきっかけに、追悼文を書いてみました。『公研』2月号に掲載されています。

池内恵「伊奈久喜さんとの2時間」『公研』2017年2月号(第642号), 12-15頁

「めいん・すとりいと」という『公研』の巻頭のエッセー欄には、定期的に依頼を受けて寄稿してきましたが(以前は他の執筆者とものすごく年齢が離れていたのですが、最近、世代交代が進み、多くの同世代の研究者が寄稿するようになっています)、今回もこの枠へのご依頼に対して寄稿したものです。ただし、追悼文ということもあり、言葉を尽くして書くうちに、長大なものになってしまい、通常は見開き2頁のところを、例外的に、おそらくこのコーナー始まって以来初の、4頁の紙幅ををいただいて、なんとか収めました。

『公研』への寄稿は、この雑誌が会員企業のみに送付される、ウェブで全く公開していない雑誌であるため、ご興味を持った方が編集部に問い合わせをしたりすると、対応しきれないと思いまして、このブログでは通常はお知らせしていません

ただ、最近、編集側では、刊行から一定期間を経れば、著者による公開を許可する方針を定めたとのことですので、将来は告知をより頻繁に行い、ウェブ上での公開も考えたいと思います。

ただし、今回は、追悼文という性質からも、ウェブで公開することがふさわしいのかどうか私も判断がつきかねておりますので、当面は公開を見合わせておきます。

おそらく、私が公の場で書いた、初めての追悼文です。

【追記:掲載誌をおそるおそる読んでみたところ、一点、不正確な記述を発見しました。伊奈さんがワシントンで所属したのは「ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院」の「外交政策研究所」であるところが、これを無意識に足し合わせたように「ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所」と記してしまっておりました。また、14頁の上の段「サウジとイランの対立はどこまで対立しているのか」は→「サウジとイランの対立はどこまで緊迫しているのか」ですね。あと、「偲ぶ会」の冒頭に行われたのは「乾杯」ではなく「献杯」なのか形式としては。私の書く初めての追悼文ということで緊張して、ミスが出ています。なにしろ名うての文章家の伊奈さんへの追悼文ですから、上手に書いて見せないといけません。そして合格点になる程度には上手く書けたと内心自負していたのですが、やはり内心の動揺は隠せない。細部に気が及ばなくなるのですね。伊奈さんに見られたら、ささっと「朱を入れ」られるでしょう・・・】

2017年度の学会報告予定

行政的には2016年度がそろそろ終わる時期で、報告書や予算・決算書類作成、必要証票を揃えるので忙しくしていますが、来週末にも、東欧にちょっと行って学会発表をしたり、そして年度末には、マイレージを利用して、将来面白そうなテーマに今のうちに探りを入れるべく、某大陸に踏み入ってきたりします。

しかし新年度の学会発表の依頼を次々に受け、いずれも興味深いand/or断りにくい方面からのご依頼のため次々にお引受けてしていたら年間を通してスケジュールが埋まってしまっている模様です。自分が入っている学会での報告も考えなければならないのに、依頼に応えるだけで精一杯になっている状態です。なんとかならないのか。

考えてみますと、昨年・一昨年度は、日本国際政治学会で企画委員をやっていたので、もっぱら企画し、依頼し、お世話する側の仕事をしていました(一部、例外的に企画委員でかつ登壇したこともありましたが)。企画委員の任期が終わったタイミングでいろいろ依頼が来て、お引き受けしていたところ、何が何だか分からなくなって来たので、ちょっと整理しています。

これ以外に、非公開の研究会や会員のみに向けた報告・講演の依頼が多く入っており、またその間に海外での研究発表に行くことがあるので、実際には来年度の週末はすでにほとんど埋まってしまっているような状態です。

肝心の、自分が入っている学会での自発的な報告を企画・応募する余裕がなさそうなのが、なんとなく気になります。そろそろ生活を変えないといけないのかもしれませんね。しかしまあこれらのご依頼はいずれも私の研究の成果を発表したり、今行なっている研究を発展させる機会になってくれそうなものなので、頑張って対応したら私のためになりそうです。

自分への備忘録も兼ねて、ある程度公開されていそうなものをリスト化しておきます。引き受けていてもとっさに思い出せないものや、原則非公開のものは挙げていませんが、もしかすると会員以外には非公開なものも混じっているかもしれません。また、報告タイトルは仮のもので、セッションの趣旨・主催者からのご要望を勘案し、私の報告論文の執筆を進めて行く過程で、大幅に変更される可能性があります。

それぞれが違うテーマなので、報告論文を各種揃えねばならず、もしかして学会大会ピークの春・秋は1分も休めないのでは、と恐ろしくなってきます。早めに準備をしておきましょう(自分に言い聞かせています)。

4月23日:戦略研究学会
池内恵「紅海岸地域に転移するグレートゲーム」共通論題「国際環境の変化と戦略」
戦略研究学会第15回大会(明治大学駿河台キャンパス リバティタワー7階、2017年4月23日開催)

なお、戦略研究学会では理事と大会・研究会委員というのも命ぜられていて、今年は共通テーマの「国際環境の変化と戦略」に沿った基調講演を中西寛先生にご依頼する役目を拝命いたしております。ご快諾いただき、研究大会の重みがぐっと増しました。

〔基調講演〕中西 寛氏(京都大学大学院法学研究科教授・公共政策大学院長)「現代世界における戦略的思考について」(仮)

また、共通テーマに関するシンポジウムでは、ロシア軍事研究の小泉悠さんなど、世代交代も意図した構成で活発な議論を喚起する予定です。非会員でも学会全体を聞きに行くことができますので、ご興味のある方はぜひ。

5月27日:政治思想学会
池内恵「グローバル言説圏における「イスラーム」をめぐる保守/リベラルの位相」(仮)
政治思想学会第24回大会・シンポジウムⅡ保守の多様性」共通テーマ「政治思想における「保守」の再検討」(早稲田大学、2017年5月27・28日開催)

6月10日:宗教法学会
池内恵「何が宗教過激主義をもたらすのか――イスラーム法学解釈の権威の構造とその近現代における変化」
第35回宗教法制研究会・第74回宗教法学会(青山学院大学、2017年6月10日開催)

6月17日:日本ピューリタニズム学会
「イスラーム教における寛容と政教分離、そして宗教改革」(仮)
日本ピューリタニズム学会第12回大会・シンポジウム「ピューリタニズムとイスラームの対話――政教分離と寛容思想をめぐって」(仮)(青山学院大学、2017年6月17日開催)

11月4日:社会思想史学会
池内恵「社会思想史におけるイスラーム教」(仮)
第42回社会思想史学会大会・シンポジウム「社会思想史における宗教」(京都大学、2017年11月4日・5日開催)

【寄稿】『国際政治』に書評:米国が担う国際秩序形成について

日本国際政治学会の学会誌『国際政治』第186号に書評を寄稿しました。

池内恵「書評 ウォルター・ラッセル・ミード著 寺下滝郎訳『神と黄金(上・下)』」『国際政治』第186号、2017年1月, pp. 169-172.

脱稿が遅れて担当編集の方にはご迷惑をおかけしました。

書評の枠を超えて、関係する書物を網羅した書評論文的なものを書いたところ、規定の枚数の二倍以上を書いてしまい、『国際政治』は字数が極めて厳格なため第1稿のままでは絶対に掲載されないため、絞り込んだ短縮版の第2稿を改めて提出して、掲載にこぎつけました。

長い方はさらに拡充して別の雑誌に載せる予定です。