検証委員会への外部有識者としての参画について:「イスラーム国」による日本人人質殺害事件

本日11時の官房長官記者会見に合わせて公表されたように「イスラーム国」による日本人人質事件に関する検証委員会に有識者メンバーとして参加することになりました(他のメンバーは、長有紀枝・立教大教授▽小島俊郎・共同通信デジタル執行役員▽田中浩一郎・日本エネルギー経済研究所中東研究センター長▽宮家邦彦・立命館大客員教授)。

 この問題が日本国内の政治対立の中で大きな政治問題となったことから、一定の注目を集めており、報じられているようです。

「「イスラム国」人質事件検証委の有識者選定」『日本経済新聞』(2015/3/12 12:05)

「政府、IS邦人人質事件検証委の有識者メンバー発表」『朝日新聞』(2015年3月12日12時27分)

「人質事件検証、有識者に池内氏ら」時事通信(2015/03/12-13:18)

ロイター「イスラム国事件の検証委、有識者に中東専門家ら5人=菅官房長官」(2015年 03月 12日 14:03 JST)

 この有識者メンバーの性質について「菅長官は、政府対応全般について意見を聴取するため、守秘義務のかかる非常勤の国家公務員として発令したと説明」という部分が、行政・行政学を知る人からは、「これまでの外部委員に対するよりも多くの情報が開示され、踏み込んだ検証が可能になる」と受け止められ、逆にこの問題を政府批判案件として受け止めている人からは「秘密にしてごまかすつもりだな」と受け止められるものと思われます。

 私は、やり方次第でどちらにもなりうると思っています。
 
 外部の委員にも守秘義務を課さなければ、役所側が重要な資料を見せることはない、ということは事実と思います。ただし、役所は基本的に何にでも秘密の判子を押します。本当に秘密にする必要があるから押している場合もありますが、大部分は、押さないで外に漏れて責任を問われるのが嫌だから担当者が機械的に押しているだけと思われます。ただ、秘密の判子を押しても平気で漏れている情報は多くあるので、秘密と判子を押しておけば流出しても、「なぜこんな重要な書類を秘密にしなかったんだ」と怒られないから押す、という本末転倒になっている場合が多いと思います。
 そもそもこの有識者メンバーの就任についても、打診の際に「本人限りで」(「秘密」と明確に文書で示されたわけではありませんが)と言われていましたが、あっという間に報道されていました。そもそも形式的とはいえ兼職する形になるので職場に言わないわけにはいきませんから、本人限りにはなり得ません。私のところにも取材がきていましたが、本を書いていてものすごく忙しいのと、どうせ公開されるのだからと放っておいたところ、私と宮家氏以外のメンバーの名前がNHKで早い時期に報じられていた記憶があります。正式に辞令をもらっていない人事については肯定も否定もしないというのは、一般常識としてあると思います。同時にその任命や役割に政治的な意味があるのであれば報じる意味があります。本人に対しては「しゃべらないで」と言っておきながら、政府内の人がメディアにしゃべっているのですから「しょうがないなあ」とは思いますが、そんなものでいいと思います(検証委員会の有識者メンバーの名前すら秘密になったら検証になりません)。

 もし国家公務員としての守秘義務の範囲を拡大解釈すると、今後私がこの問題について一切発言しないということにすらなりかねません。「見てしまったものは消せない」という問題ですね。しかし国家公務員法の原則と、前提となる法秩序の原則に照らせば、検証委員会から提示された明示的に秘密情報とされる情報以外を用いて、今後も議論していくことになんら不自由はありません。
 
 なお、この守秘義務はすべての国家公務員に過去からかかっているものに過ぎず、私の言論活動を制約するものではありません(法人化される前の国立大学教員も国家公務員でしたし、政府の委員会に任命されればそこで職業上知り得た秘密に関する守秘義務はかかっていました)。
 
 私は先端研に移った頃から、専門のイスラーム政治思想の研究と並行して「副専攻」(「裏専攻」?)のように、日本の中東との関係について、官庁や企業の資料やオーラル・ヒストリー資料を用いて共同研究をしてきました。役所による危機対応の事例を、それこそ「秘密」とぺたぺた押された資料を大量に用いて研究したこともあり、緊急時の情報収集のモードや手段について、ある程度の勘はあります。そういった知見も動員して、対応する日本政府の側で何が起こっていたのか、そして何が行われなかったのかを、役所内部ではやりにくい、政治的な意思決定の問題として論点化して検証することができれば、今後の政策意思決定のために有益な作業となるのではないでしょうか。
 
 もっとも、今回の任命された有識者メンバーは、すでに2月10日に発足して動いている政府内の検証委員会に、後から参与する形です。私が役所内で現資料を探せるわけでもなく、出てこない資料を出させる強制的な権限はないため、「検証作業の検証・チェック」という役割にとどまるのではないかと予想しています。その役割でもかなりのことができます。しかし何もかもはできません。
 
 いわゆる「特定秘密」に該当するものが有識者メンバーに開示されるかどうかは、分かりません。特定秘密というものは「政府内でも見せられる人と見せられない人がいる」という性質のものなので(特に外国政府からそのような条件で伝えられた情報には厳しく開示範囲が付けられていると思います)、外部委員には見せないという可能性はあると思います。そうなると、重要でかつ開示されなかったものがあるかどうかは、研究者の勘で判断するしかありません。
 また、役所の習性として、秘密とは思えないものにも様々な段階の「秘密」の判子を押してしまって、押してしまった後では一枚一枚見て解除するしくみや人員がないので、外に出せなくなる、ということがあります。そういう書類が誰にもどうしようもなくなって、邪魔なので廃棄されながら、うっかり流出した、とみられるものを、まとめて見たことがありますが、政府として秘密にしなければならないものとは思えませんでした。関わった特定の人がバツの悪い思いをする(政策的な意味ではなく、キャラクターがにじみ出ていたりするという問題)という程度のものでも、一旦秘密にすると、解除できないのです。

 検証に関するもっと本質的な問題は、人質略取や脅迫は日本政府が主導して引き起こすものではないので、「作為」において検証する部分だけでは完全ではないということです。外から作り出された状況に対して行った「作為」とともに、「不作為」も検証の対象として、それが日本の政策としてふさわしいのか否か、今後同様の事態にどの程度作為を行うべきかは、今回の事例を踏まえて問題点を洗い出し、選択肢を示して、国民が判断するべき問題と思います。ただ、不作為の証拠は明確なものがあることは稀であるため、どこまで検証できるかは分かりません。

 ただし、これらは、普段、行政資料を用いて研究をする場合に直面する困難と、本質的には同じと思います。経験上は、役所内の「秘密」の大部分は、公開情報に基づいて得られた公知の事実に基づいて推測可能と考えています。ですので、重要なのは「公知の事実」の水準を高めることでしょう。その意味で、私個人は、検証委員会への参画を、私自身が人質事件をめぐる議論を行っていく上で、認識を左右するような、あるいは阻害するような出来事とは考えておらず、(あえて言えば)さほど大きな出来事とはとらえていません。問題は、非常に忙しいのに一層時間がなくなるということでしょうか・・・

『中央公論』4月号の鼎談で「イスラーム国」問題が米欧と国際秩序に及ぼす影響を

『中央公論』4月号(3月10日発売)に鼎談「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」が掲載されています。

夥しい数の「「イスラム国」とテロ」的な特集が(ピケティ特集と並んで)、各紙で行われていますが、この鼎談では、編集部の当初の意図がどうだったのかは知りませんが、それらとは違う次元で考えています。国際秩序を形成する理念と実効性を提供してきた二つの極であるアメリカと西欧、およびそれらが近代世界に示してきた国際秩序は、「イスラーム国」の台頭によってどのような挑戦を受けているのか。国際秩序は今後どう変わるのか。まだ見えない未来を見ようとしています。

「イスラーム国」の「衝撃」とは結局、国際秩序に対する理念的な挑戦なのだろうと思います。私が時差ぼけでくらっとしたりしていて迷惑をかけましたが、貴重な機会となりました。

ピケティに対するまとまった批判的検討の特集も、必要なものと思います。明らかに、日本の「格差」とアメリカとは異なり、西欧とも異なります。そして数で言えば世界の大多数をしめる途上国とも異なります。

読売新聞の電子版では『中央公論』のピケティ検証特集のうち、森口千晶・大竹文雄対談を取り上げ、日本の場合は、年収750万~580万円という(米国で言えば感覚的には「中の中」ぐらい)の収入層が、所得上位5~10%に相当することを示し、この層は実際には増えているという根拠から、ピケティの議論を表面的に日本に当てはめることはできず、ピケティの処方箋も日本では有効でないという可能性を示しています。これは頷ける議論です。

「日本「年収580万円以上」増加…米と構造違う」Yomiuri Online 2015年3月10日

もちろん、日本にも(メディアや扇動論者の無根拠な議論を別にして)、なんらかの「格差」が認識されており、それを支えるなんらかの現実があるのでしょう。格差には絶対的な富や機会に関するものと、格差をめぐる認識とその認識が顕在化する条件に関わるものの、両方あります。

そもそも580万円−750万円の所得層が上位の5−10%の位置にあるということは、欧米と比べて日本の家計がそもそもそんなに豊かではないという基礎的な制約条件でしょう。少なくとも、上位1%が莫大な富をかき集める米国とはかけ離れています。「ほどほどの豊かさを分かち合う」形の分配が上位の収入層にはあると言えるのかもしれません。その場合、歴史上のある地点では、「金持ちでもほどほど」「ほどほどの人がけっこういる」ことを社会の多数が是として、将来に自分あるいは自分の子孫がその域に達することができると予想できればそれで「格差」認識は生じなかった可能性もあります。逆に、「上位」に入っている人でも過剰な犠牲を払わないとその経済水準に達することができず、その水準を将来にわたって維持することに大きな不安がある場合は、「中間層の消滅」という、データ的に正確かどうか分からない認識・危機意識も生まれるでしょう。

そして、「ほどほどの」上位10%とは別に、貧困すれすれの下位の収入層がどれだけ増えているかが、「格差」問題で重要になるのは当然です。しかしこれも正確に測定するのは困難ではあります。高齢化が進むと多くの世帯は収入が減りますので、貧困家庭が続出しているように見え兼ねません。

若年層に下位の収入層と「上位」(が何を指すのか通常は明確ではありませんが)との間に、世代を超えて恒久的に移動が不可能な障壁があったり、埋められない文化的な差異があるか生まれている場合は、格差社会、あるいは「階層社会」としての認識が妥当となるでしょう。

もし「上位5−10%」がこの程度の収入層でそれがまあまあ増えており、同時に下位の収入層も増えているのであれば、根本的に、日本は欧米諸国と比べて収入面であまり豊かではないということになるのではないでしょうか。「清貧」と「ジリ貧」の違いは、多くは将来に対する希望の有無やそれによって規定されるパーセプションによります。

日本社会の経済階層構造が「金持ちもタカが知れている、多くがジリ貧」ということになるのであれば、ピケティに託して語られる凡百の格差社会論が漠然と提示する「金持ちから取れ」という話ではなく、別の対策を真剣に考えないといけません。「金持ちから取ってこい」と言っても単に無い袖は触れなかったから取ってこれなかった、ということになり兼ねません。そういえば国の財政では「埋蔵金」なんて話もありましたね。結局なかった。

これまでもみんなで分かち合っていたところ、分かち合うパイが減ってきたので苦しくなった、というだけなのであれば、やはりパイを増やすように努力しないといけないのではないでしょうか。「パイを増やさないでいい」という主張が通れば、日本にそれなりにいる「ほどほどの金持ち」は「清貧」で耐え忍んでデフレスパイラルに逆行し、下位収入層は次第に窮乏する、ということにしかならないでしょう。

格差あるいは階層の実態を見極めないと、適切な対策は取れないでしょう。

「イスラーム国」の問題も同じですね。

その意味で、目次に記されている、田原総一朗×古市憲寿「「イスラム国」とオウムの奇妙な相似」対談には、まだ読んでいませんが、大いなる不安を持って見守っているわけです・・・今雑誌が手元にないし確認する時間もないんだが、単に表面上「若者が・・・」というだけで「似ている」とか言ってないよね?大丈夫だよね?似ているというのであれば、せめて、仏教とイスラーム教のそれぞれの教義の中の政治や暴力についての思想史を確認した上で、オウムあるいは「イスラーム国」へ参加する「若者」はそのどのようなタイプの思想でもってモチベーションにしているかとか、調べてから言っているんだよね?参加する「若者」といってもアラブ諸国からなのか、西欧諸国からなのか、日本からなのか、区別してどれなのかきちんと分節化して議論している?

【訂正 3月13日】
実際に『中央公論』を手に取ってみますと、田原総一朗・古市憲寿対談のタイトルは「草食社会ニッポンの成熟と衰退」でした。「「イスラム国」とオウムの奇妙な相似」は、次の宮台真司論考「「終わりなき日常」が今も続く理由」に付いた副題(?)でした。ウェブの目次を見間違っていました。

読んでみると宮台論考はまさに、「似ている」論のオンパレードでありました。「社会学者」と名乗れば日本のことから類推して世界中の社会を語っていい、という日本のローカル慣行はやめたほうがいいんじゃないの?と思いました。しかしフランスをやっているという社会学者も、実際にはフランスの特定の先生の説を引き写した上で、安易に日本との類推をしていることがシャルリー・エブド紙事件の際の議論で露呈したので、より広く深い日本の知的社会の問題かなと思います。

なお「草食社会ニッポン・・・」の方にもやはり、オウムの話をしながらなし崩しに「「イスラーム国」に参加する若者」という話になり、あれこれ想像して茶飲み話している部分があります。それでも古市氏の「僕は日本人はISILにあまり行かないんじゃないかと思う。」という議論は事実に即していると思います。これは古市氏の議論の流れからは、そうならざるを得ないし、実際にそうなんだが。【付記終わり】

こういったジジ&ジジ殺し対談にも、日本の社会と言論の現状と未来の何かが表出されているとは思う。

それはともかく、最近の中央公論活性化してきていると思うので、是非読んでみてください。

池内恵×中山俊宏×細谷雄一「『イスラム国』が映し出した欧州普遍主義の終焉」『中央公論』2015年4月号(3月10日発売)、92−101頁

中央公論2015年4月号鼎談「イスラム国」拡散するテロ

『週刊エコノミスト』の読書日記(9)は政教分離の思想史

今年の1月以来、リアルタイムの情報発信にはフェイスブック(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi)を多用していますが、このブログも今後も引き続き活用していきたいと思います。中東に関する記事の断片的な紹介などはフェイスブックの方に回し、ブログでは従来からの情報のストック・データベース構築の場としての意味を一層強めたいと考えています。

次の本の完成のために限界まで執筆作業をしており、なかなかブログにまで手が回りませんが、一旦緩急あれば、公的な発言の定式版はやはりこのブログに掲載することになりそうです。

さて今回はこのブログの基本モードの「最近の寄稿」の記録。

ちょっと連絡が遅れましたが、5号に1回のペースで連載中の『週刊エコノミスト』の「読書日記」も、もう9回目になりました。(連載の立ち上がりから5回目までをまとめた項目はこちら「新書」についてぼやいた回はこちら前回の待鳥聡史『首相政治の制度分析』についてはこちら

『週刊エコノミスト』2015年3月3日号(2月23日発売)表紙

池内恵「日本で理解されない政教分離の思想」『週刊エコノミスト』2015年3月3日号(2月23日発売)、75頁

今回も電子版・Kindle等では読めません。

バックナンバーがなくなって中古になると値が上がりますのでご注意。