トルコはもう「三丁目の夕日」じゃないよ

都市部の世俗派を中心にした反政府デモに続いて、今度は政権内の汚職と、汚職追及の背後にいるイスラーム系団体との仲間割れで揺れるトルコ、エルドアン政権について、英『エコノミスト』誌は示唆に富む論説を載せてくれている。

最近のものではこのあたりか。

Turkish politics: No longer a shining example
Turkey’s government disappoints because of allegations of sleaze and its increasingly authoritarian rule

The Economist, Jan 4th 2014

Corruption in Turkey: The Arab road
The government of Recep Tayyip Erdogan has grave questions to answer

The Economist, Jan 4th 2014
【翻訳「トルコの汚職:アラブへの道」

Turkey’s economy: The mask is off
Political turmoil exposes economic malaise

The Economist, Jan 11th 2014
【翻訳「トルコ経済:手本とされた経済モデルの化けの皮」

昨年、安倍首相は、トルコを二度も訪問した【5月】【10月】。

このこと自体は、全く文句のつけようのない、結構なことだ。毎月一度外国訪問をすると宣言して、実際に行っている。戦略的な場所を選んでいる。物見遊山になりようのない、資源や戦略上の要地を選び、世界の注目を集める会議や場所に出ていくようにしている。極東だと時差があるし、中国のように国家主席やら首相やら共産党の序列何位やら、政治権力者がいっぱいいて手分けして各国に行ける国と比べると日本は不利だ。それなのにここまでやっているのは本当に頭が下がる。今後のいかなる首相も手本にしてほしいものだ。

そこでトルコを重視するというのも悪くない。ヨーロッパ、中東、アフリカ、コーカサスからロシア、中央アジアに至るまでの世界経済の重要地域や新興市場、資源産出地域への、ハブとなり、拠点となる可能性を秘めている。ヨーロッパとの経済統合は進み、中東・イスラーム世界への足掛かりになり、それらの国の中では格段にインフラが整い、経済的な水準が高い。

ただ、「遅すぎる」。これは現政権の責任ではないが。むしろ大企業を中心とした日本の経済社会の問題。

今頃になってやっと、政府に旗振ってもらって、あるいは日経新聞などの「トルコが熱い」的記事に煽られて、日本企業がぞろぞろトルコ詣でをするというのは、もう本当に頭が痛くなるほど遅い。

今頃来ても、そんなに儲からないと思うよ。

トルコに進出を決断するのだったら、12年前だった。『エコノミスト』誌の「トルコ経済:手本とされた経済モデルの化けの皮」では、「トルコは突如として、同国が12年前に影の中に置き去りにしようとした国のように見える。インフレ率は7%を超えて推移しており、通貨は下落傾向 にあり、経常収支の赤字は国内総生産(GDP)比7%前後となっている。民間貯蓄、外国からの投資、輸出はいずれも減少している」とある。

2000年前後からトルコは経済的な苦境を脱し、高成長時代に入った。その前提は、インフレを抑え込んだこと。

1990年代のトルコは、国家主導型経済から市場経済への移行の痛みに苦しみ、慢性的なインフレでトルコリラの桁はむやみに大きく、内需は伸び悩んだ。

2003年に誕生したエルドアン政権の長期化の原因は何よりも経済政策の成功。2006年のトルコリラの100万分の1のデノミは、インフレ抑制策の締めくくりだった。

単に政策がうまくいったというよりは、社会経済的な大きな変化が背後にあった。エルドアン政権と穏健イスラーム主義政党AKPの支持層である、地方から都市に出てきた新興企業家・中間層の上昇に押し上げられて政権につき、彼らの活力に支えられて経済発展・安定化が成し遂げられたと言える。

しかし政権の長期化が汚職を生むように、トルコの経済的隆盛にも限界や負の側面が現れてきたように思う。

これでトルコ経済が終わるわけではない。単に、トルコ国内の要因からも、急激な経済成長はいつまでも続かないし、高成長を可能にしてきた地域・国際環境も変わってくる、というだけだ。

トルコの地政学的・国際政治経済的な重要性は以前から明らかだったのだから、インフレを抑え込んだと見た瞬間に行けばよかった。そうすれば急成長の果実を享受できた。実際に欧米企業も中東諸国の気の利いた企業もそうしていた。

まさか、トルコのデノミを、「小さな市場しかない遅れた国の変わった政策」と思って日本企業はぽかんと見ていたの?たぶんそうなんだろう。

私の経験から言うと、1990年代前半に東大の同級生に「中東は伸びる、その中で一番有利なのはトルコ」と言ったら、「トルコ?市場小さいじゃん」と言われて終わりだった。

まあ東大生のみんながみんなこんなではなかったが。しかし私の世代の東大生はまだ、成績中くらいの上/上の下ぐらいで必死に頑張っている子たちは、「東大出て銀行に入れば一生安泰」というモデルにしがみついていた(勘のいい連中はうすうす気づいて違う方向を模索していたように思う)。4年生の年に大和銀行ニューヨーク支店の大損が発覚。「銀行に内定したけど行かない、行くところがない」という、当時の東大生にとっては足元の地面が割れるような事件が生じた。そんな事件など忘れてしまうほど、その後の金融業界は様変わりしたけれども、大和銀行ニューヨーク支店事件は、高度成長からバブル期の日本の大企業とその親元=銀行がそろって、グローバル経済の中で御していけない組織と集団になっていたことを暴露した事件だったと思う。

しかしいずれにせよこういう発想の子たちがまあまあの「エリート」候補生として企業に入って、20年後の今中堅なのだから、日経新聞と政府の旗振りで、すっかり成熟して調整期、低成長期に入ろうとしているトルコに、「新興市場に進出でグローバル展開」とか言って入っていって損するというのも目に見えている。それで「行ってみたらレベルが低かった」「インフラもたいしたことない」とか悪口言うのだろう。

同じようなことをドバイについても記憶している。

2008年のリーマン・ショック直前も、日経新聞は散々ドバイの活況を書き立て、進出を促した。その直後にリーマンショックでバブルがはじけ【「世界金融危機で湾岸ドバイが岐路に立つ」『フォーサイト』2008年11月号】、各社が大損して撤退。

そして「羹に懲りて膾を吹く」の通り、ドバイの回復期をむざむざ見過ごして、そして今頃になってやっぱりドバイだと出ていって、高値掴みする人たちが出てきているのだろう。

日本企業は横並びでいくので、ここ数年、トルコ航空のイスタンブール便のチケットが取りにくくて困る。

そして今頃になってやっと(このフレーズもうイヤ)、ANAはイスタンブール便を開設するとのこと。待ちくたびれました。もう結構です、という感じですね。

日本の航空会社は、中東にもアフリカにも、一本も定期直行便を飛ばしていない。日本の航空会社は日本企業が行くところにくっついていくのだから、これらの国と直接に頻繁にやり取りできる日本企業が、まあ航空会社から見て誤差の範囲ぐらいしかないということですね。

なお、ワシントン便もANAだけ。「ナショナル・フラッグ・キャリア」だというJALが東京-ワシントン便をもっていない(人が乗らないからなんでしょう。経営が危なくなるよりずっと前からないですよ)という状態で、本当に「日米同盟が外交の基軸」なのかも疑わしくなってくる。

これらの情報だけを見ると、日本には「アメリカにコネもないし、中東・アフリカに土地勘もない」政治・経済指導者たちばかりだったことになってしまう。そんな人たちに「グローバル人材になれ」などと説教される今の子供たちは本当にかわいそうだ。

それはともかく、トルコの可能性にやっと気づいてくれたことは、今頃になって、とはいえ、うれしい。

ただし、トルコはもう高度成長の段階にはない。トルコに「三丁目の夕日」を夢見る政治・経済指導者は、考えを改めてほしい。

高度成長が終わり、様々な政治・経済問題が今後明らかになって行くだろう中進国としてのトルコの問題に解決策を提供し、それをきちんとビジネスにし、トルコの地の利と能力を活かしてその先の中東やアフリカに展開をしていくことができる企業にだけ、トルコに来てほしいものだ。

ブログ・タイトルの由来

このブログの開設を知った人から、「風姿花伝」と銘打っているということは、中東・イスラーム学の名人が極意を教えてくれるということかね?と聞かれました。

決してそういうことではありません。

むしろ自分自身に対する呼びかけです。

なぜこのブログを立ち上げる気になったかというと、1973年9月生まれの私はもう40歳になってしまった、ということを正面から見つめようという気になったからです。

何で40歳になったから「風姿花伝」なのかというと、、、

ちょっと話が遠回りします。

私の場合、世の中に向けて文章を書き始めるようになったのは、通常より早く、20代の後半からでした。私が公に文章を書く機会を得た日は明確に特定できます。2001年の9月11日でした。

日本のイスラーム学会の業界では絶対に許されない説を最初の論文で書いてしまい、とある有力教授から学会の満座の席で恫喝され、その瞬間から、同分野の大学院生が文字通り目の前にいても一言も口をきいてくれなくなった、というのがこの年の早い時期にありました。

この年の4月からアジア経済研究所に就職していたため、終身雇用は保障されていました。

ただし、学会の枠で仕事をするつもりでいれば、一生文章を書く機会を得られないことは確実視されていました。

学会の有力者におもねって心にないことを論文に書けば、やがてそれが自分自身の学説の発展を縛ることになりますから、書けません。信じるところを信じるとおりに書いたことの結果は甘受するつもりでした。

しかしそれは若者の無謀な侠気というもので、実際に、世の中に向けて書く機会が一生ないかもしれない、ということの意味は、日に日に重くのしかかってきました。海浜幕張の職場の、陽だまりの中で、何度か呼吸困難になって倒れました。

元来が、やがては世の中でものを書いて生きていく、という目標・目的があり、その素材として中東・イスラーム学を選んだという事情がありますから、一生その機会を得られそうもない、という見通しは、途方もなく厳しいものだったのでしょう。

学会の枠の外で、なおかつ中東・イスラーム学について書く機会を得られた直接のきっかけは、2001年の9・11事件。

その瞬間、私は27歳で、翌日からアジア経済研究所の机に座っていると、次々に新聞社・通信社から電話がかかってきました。「イスラームを専門にしている人ならだれでもいい、説明してくれ」という様子でした。

基本的には、私の今現在の生活は、その時から連続しています。原稿の依頼は、時と共に性質を変えながら、途切れることなく続いています。飛んできたさまざまな球をひたすら打つ、という生活が続いてきました。

それまで日本の現代イスラーム研究は、「イスラーム復興」「イスラームが解決する」「イスラーム的システム」といった、日本の現代思想・文学界の期待に応えた「夢」を語ることに長けていました。中東研究やイスラーム学への入り口が限られているため、これに反する議論を行うことは、即排除されることを意味しました。また、特定の、野心的な教授が、予算やポストを獲得して、忠実な弟子にのみ配分する、ということが行われてきました(今も行なわれています)。

現実に即した中東・イスラーム分析が求められるようになったのは、現実に起きた事件の前に、一見難解な説を振りかざして、独善的に世の中に対して説教する教授、それにひたすら追随する弟子たちに、世間一般、特に出版・メディア界の一部から疑いの目が向けられたからだと思います。そこから、偶然のことながらこの年の4月からアジア経済研究所に就職していた私に、文章を書く機会の隙間がわずかに開けました。そこから入る以外に、もう道はありませんでした。

振り返ると、最初に発表した一般向けの文章は、「イスラーム原理主義の思想と行動」というもので、時事通信社から2001年9月13日に配信されています(池内恵『アラブ政治の今を読む』中央公論新社、に再録)。

9月11日夜(日本時間)に事件が起きて、翌朝職場に行って電話を受け、さらにその翌日には配信されているのですから、よっぽど短時間に書いたというのが分かります。

当時、「原理主義」という言葉を使うだけで、研究者として失格、と烙印を押されたものでした。ですから、この言葉を意図して使って現象を説明する第一歩を踏み出したことは、学会に対する挑戦状と言っていいものでした。

もちろん、通信社配信の、無名の若手研究員の論説など、地方紙に掲載されても、ほとんど人目に留まることはなかったでしょう。しかしその時から、次々と舞い込んでくる依頼に応えて、同じことを繰り返し書くのではなく、こちらの中にある書きたいある対象を一部分ずつ、一側面ずつ描いて発表してゆけば、やがてどこかで一冊の本になる、という将来像が浮かびました(こうやって書いたものをテーマごとに時系列に並べたのが2004年刊行の『アラブ政治の今を読む』です)。

確かに、書くことは得意でした。時事通信に書いた原稿は、「数時間後」という締め切りにもかかわらず、パソコンに向かって書いてみたらあっという間に書けて、むしろ時間が余ってしまったことを覚えています。

これは生得、というか育ちのせいで、いばれるものではありません。活字以外にまったく情報を与えられない生活をしてきたので(『書物の運命』のあちこちにちらほらとそのあたりの事情が書いてあります)、一つの文章を発想すると、一瞬で目の前に文頭から文末までが映像のように、ただしすべてが活字で現れる、という具合になっていました。この頃は、浮かんでくる文章の写真を「なぞる」だけで文章が書けるような感覚がありました。

また、原稿用紙に万年筆で原稿を書いてファックスで送り、それがゲラになって送り返されてきてまたそれに手を入れてファックスで送り、それがやがて新聞や雑誌や本という形で送られてくる、という父の生活を家で毎日見ていましたから、出版の工程や、世の中に発するタイミング、書いてから出るまでのタイムラグも、書き手の立場から、かなり正確にわかっていました。

なお、私自身は大学入学と同時にワープロ、そしてすぐにウィンドウズのパソコンを使い始めたので、手書きで原稿を書いたことはありません。

もし手書きで書かなければならないのだったら・・・もしかすると文章を書く仕事をしていないかもしれませんね。大学受験の準備であまりに多くの筆記をし、腱鞘炎気味になり、手で書くという作業自体はできれば避けたかったですから。

私が20代の半ばまでに身に着けていた「書く」という行為は、純粋にキーワードや文体や構成や出だしや結語を発想することだけで、具体的な中身が必ずしも伴っているわけではありませんでした。いくら文章の構想や構成がうまくても、オリジナルな研究の蓄積がなければ研究者は隅々まで文章を書ききれません。

普通は研究者は研究を積み重ね、論文を苦労して書きながら、文章の構成法や表現を覚えていくのですが、私の場合は、特殊な育ち方があったため、研究を積み重ねる前に文章だけは異様に書けるようになっていました。

また、中身と文章は不即不離なので、文章の論理や構成を見て「おかしい」文章は、研究内容からもおかしい、ということが、直感的に分かるようになっていました。ある学説について、事実を積み上げて「おかしい」と証明することはできないが、論理的に、この方向性で行くと、やがて何らかの意味で行き詰る、ということは分かるようになったということです。

たとえそれが世間的に評価されており、学会でもてはやされている学説であっても、論理構成としておかしければ、どうしてもおかしいと感じられ、それに則って文章を書くことが生理的にできない、という状態でした。

言っておきますが、今はそんなことは感じません。文章がおかしいように見えても偉大な発見や発想を含んでいる論文や著書はいくらでもあります。

また、文章だけを見て極端に先の先まで勘を働かせるというか、強く感じて思い込むということが、もう知的にも、体力的にもできなくなっています。

そして、自分の書く文章もまた、最初から最後まで見通せるかのような感覚は薄れ、いつまでたっても終着点が見えない課題に取り組み続け、書き続けることに耐えられるようになりました。つまり、かなり鈍感になったということです。

まだ部分的に子供と言っていいぐらいの若い時に、一時的にある能力が、突出して鋭敏に発達するということは、よくあることなのではないでしょうか。

文章に対する異様な感覚という点だけで言えば、中学2年生の時がおそらくもっとも敏感だったでしょう。瞬時に与えられた言葉を用いて回文を作ったり、何の変哲もない事務的な用語を韻を踏んだり意味をずらしたりしてとてつもなく面白い文章にするといったことができました(そんな能力はすぐに消えました。ずっと続いていたら病んでいたでしょう)。

子供の敏感な感性のしっぽを残しながら、ある程度は大人の研究も積み重ねていた20代半ばには、「文章は書きたいが素材がない。素材をくれたら、調べてきた人の何倍も上手に書ける」という状態だったのです。

そのような状態で2001年の9月11日を迎えます。

(続く)