イラク・シリアの内戦と介入は原油価格を下落させた

ある程度ものの分かった専門家の間でやり取りする際に常識となっている話が、その外に広まるまでにはタイムラグがある。結局伝わらない場合も多い。

中東情勢が原油市場に及ぼす影響というのもそんな課題の一つだ。

その関係で、やっとまともな報道になったな、と思わせてくれる記事があった。その記事で引用されている図を見れば一目瞭然だ。

WTI石油先物1-9月2014年毎日新聞9月30日
出典:「原油価格:下落続く 欧州、中国の景気懸念 需要先細り」『毎日新聞』2014年09月15日10時34分(最終更新 09月15日 12時21分)

イラク・シリアの内戦が「イスラーム国」の伸長に結びつき、それに対する米国の軍事介入という事態に至って、やおら「中東の地政学的リスクの高まり」が議論されるようになりました。

中東専門家の個別利益としては、「リスクの高まり」を煽る側に回れば、講演の依頼などで引っ張りだこになり、「日本政府は対策を取っているのかー」とか叫べば、政府・官庁のなんとか委員になれたりして、いろいろお得なのだろうが(じっさい、「えらく」なった先生は、過去の言動をトラッキングすると、こういう機会にこういう立ち回りをすることに機敏であったことが分かる)、私はそういうことは人生の目的ではないのでしない。

中東専門家として、あるいは国際政治を広く見ながら生活をしている人間として言えば、「地政学的リスクが高まったという認識は広まったが、国際市場への原油・天然ガスの安定・妥当な価格での供給を阻害するという意味でのリスクは高まっていない」というのが、「イスラーム国」の伸長・米国の介入の影響を現地情勢や諸指標を見て引き出せる結論。

これについては、モノの分かった諸専門家(地域情勢・エネルギー・原油市場に関する)と議論すれば、ほぼ同意してもらえる。「専門家」を名乗っていてもそうでない人がいる、という話には、私は関知しない。

この図の読み方ですが、「イラクとシャームのイスラーム国」が、イラク北部に急激に勢力を拡大したのが6月初頭。6月9日から10日にかけてモースルを占拠したのが世界に衝撃を与えた。この時期にだけ若干原油市場は上昇圧力を受けた。

しかし6月20日の近年の最高値(107.26ドル/バレル)を最後に、下落に転じ、ほぼ一直線に90ドル/バレル近くまで下がっている。

日本で原油価格下落の効果が感じられないって?
円安だからです。

90ドル/バレルという水準は、2月以前の水準だ。つまり、ウクライナ問題が紛糾して、クリミアやウクライナ東部をめぐって米露対決が激化する過程で押し上げられた分も帳消しにするほど下がっているのである。

地政学的リスクが原油市場に与えた影響ということで言えば、
(1)ウクライナ問題をめぐる米露対決では、原油市場は「買い」の反応をし、
(2)イラク・シリア問題が紛糾し「イスラーム国」が伸長し米国が軍事介入に踏み切ると、原油市場は「売り」の反応を示したことになる。

WTIをもう少し長期的に振り返ってみても、中東情勢の混乱は必ずしも原油価格の上昇に結びついていない。

2008年9月のリーマン・ショックで、それ以前の狂乱の高騰に見舞われていた原油価格はガクッと下がった。WTIでは、2008年の7月11日に一瞬つけた147.27ドル/バレル を最高値に、年末には一バレル30ドル台の前半にまで下がっていた。

これが2009年から2011年まで緩やかに回復していった。2011年1月以来のアラブ諸国の政権の動揺に際しても、さほど上がらず、1バレル100ドルの前後を行ったり来たりして安定してきた。

ウクライナ問題の勃発で、2014年の3月には105ドル/バレル水準に押し上げられ、さらに6月の「イスラーム国」の伸長で数日間は107ドル台に上がったものの、6月20日以来一貫して下落し、ウクライナ問題以前の水準に下がっている。

つまり、8月7日のイラク空爆表明、9月10日のシリアへの空爆拡大表明を経て、実際に現地で戦闘が激化し空爆が拡大してもなお、一貫して原油先物価格は下がり続けているのである。

要因を推測すれば、

(1)国際市場の側には、中国をはじめとした新興国市場の需要の鈍化があり、ヨーロッパの経済不振の長期化の見通しがある。

(2)中東側から見れば、リビアにせよ、イラクにせよ、あるいは小規模だがシリアやイエメンにせよ、国が内戦や混乱状態にあっても、民兵集団が跋扈して油田・石油精製施設が掌握されても、密輸を含んだ非合法な形を含んで、原油は国際市場に出る、という経験知が共有された。

そこから、「イスラーム国」の伸長に対しても原油市場はあまり反応せず、むしろ米国が介入して鎮静化することを見越して(あるいはイスラーム国への関心が高まることでウクライナをめぐる米露対決が緩和されることも見越して)、価格が下落したのではないかと思われる。

なんてことは、最近頻繁に出席させられる各種会合で議論していて、ごく自然に専門家に受け入れられていたのだが・・・

ああやってくれてしまった、藤原帰一先生・・・

藤原帰一「紛争から見える世界 − 権力が競合する時代に」東京大学政策ビジョン研究センター(朝日新聞夕刊『時事小言』2014年9月16日から転載)

昨今の国際情勢に共通する要素として「紛争が世界経済に及ぼす影響が大きい」として、その筆頭に「イラクとシリアの内戦は、原油価格の高騰を刺激した。」と書いてしまっている。

ですから、高騰していないんです。

ウクライナ問題による「地政学的リスク」は高騰要因になったかもしれませんが、イラク・シリア問題は逆にそれをも打ち消すような市場の動きを招いています。

「アラブの春」以来の有為転変を逐一目撃しながら抱いた雑感、「どんなに混乱していても原油は市場に出るんだなあ…」は、国際政治学者には共有されていないものだったのですね。

中東のことを不用意に語りさえしなければ素晴らしい先生なんだけどな・・・「国際政治学」が専門だからと言って国際政治の森羅万象が分かるはずはないのだから。

私の方は、9月12日の日経新聞朝刊「経済教室」に寄稿した拙稿でも、次のように書いておいてあります。まだその先にもっと価格が下落すると決まった段階ではなかったのですが、押し上げ効果も大したことなかったし、原油は変わらず出ているんだから、リスクリスクと騒ぐことない、と水をかけておきました。編集部側は「地政学的リスクの高まりが・・・」というテーマ設定をしているんだから「高くなりましたッ」と迎合して書いておけばもっと仕事来そうなもんだが、性格的にそういうことができないんですよ。でも結果として下がったでしょ。

以下抜き書き。全文はウェブ版を契約して読んでください。

「中東の地政学的リスクとはいかなるものなのだろうか。」

「中東産原油・天然ガスの国際市場への安定供給についていえば、これほどの混乱にもかかわらず、むしろ原油は値引きした密輸を含んだ自生的なルートで市場に流れ続けており、原油価格の急騰や供給・運搬ルートの途絶といった事態が近く生じるとの観測は、むしろ沈静化している。」

「イランの核問題での対立によるホルムズ海峡の閉鎖や、パレスチナ問題をめぐる地域規模の動乱といった、周期的に危機意識があおられるものの現実化しなかった致命的な一撃の可能性も低い。」

それではどういうリスクなのかというと・・・

「中東全域の治安や政治の安定度がおしなべて低下することで、中東地域に対する政治的・経済的な関与への自由で安全なアクセスが制約されること」

「「複雑怪奇」な中東情勢がもたらす多種多様な地政学的リスクの回避に、多大な労力を払わなければならない」

「リスクは、均等にではなく特定の国にかかってきかねない。」

「中東の石油を死活的に必要とする国とそうでない国で、混乱がもたらすリスクへの認識は異なる。」

といった話です。