シリア難民の西欧(特にドイツ)への大量流入が話題になっているが、問題自体は2011年の「アラブの春」で各国の政権が揺れたり内戦が生じたりしてすぐに発生しており、2013年頃から激化していた。
そしてこれはシリアから難民が発生しているというだけの問題ではなく、アフガニスタンやアフリカ諸国からの難民・移民が地中海南岸のアラブ諸国に到達して、そこから西欧への渡航を目指すというより大きな問題の一部です。
昨年から今年の初めまでは、むしろサブサハラ・アフリカ諸国や東アフリカからの移民が、モロッコのスペイン領飛び地のセウタとメリリャに侵入しようとする問題に焦点が当たっていた。しかしこれについてはモロッコと西欧諸国の両方の協力による取り締まり・対策強化で一定の沈静化が見られた。しかしこれはモグラ叩きの一部で、今年に入るとリビア内戦の混乱の隙をついて密航業者がリビアに多く現れ、リビアからマルタやイタリアやギリシアへ移民・難民を「泥舟」的な密航船に乗せる動きへと焦点が移った。これに対しても、イタリアなどは密航船の接収・破壊などで対処したが、リビア側の対処が不十分で効果は限定的だ。
また、ここでドイツや北欧のような内陸諸国と、イタリアやギリシアのような地中海に接していて移民・難民の上陸地点となる諸国との温度差が表面化した。
そこにはユーロ経済の中で「一人勝ち」で経済が好調で、高齢化・少子化による人手不足も抱えているドイツと、経済的な苦境にあり失業率が高いギリシアやスペインやイタリアとの事情の違いも大きい。
今年の2月頃には、リビアからイタリアへ向けて出航して転覆する密航船が相次ぎ、人道危機が明確になった。これに対する対処でEU諸国がもめている間に、今度はシリアから船でギリシアに渡ったり、陸路ブルガリアを突破したりしてドイツ・北欧を目指すシリア難民の波が加わった。
このような地理的な焦点の移動やそれに伴う移民・難民の構成要素の変化について、BBCが地図と図表を駆使して概観してくれている。
“EU migration: Crisis in graphics,” BBC, 7 September 2015.
まず全体像がこれですね。
この記事では次のように分類している。
西地中海(濃い緑):モロッコからスペインへ
中央地中海(赤):リビアやチュニジアからイタリア(シチリア島)へ
東地中海(黄緑):トルコからギリシアへ
西バルカン(紫):ギリシアからマケドニアやセルビアを経由してハンガリーへ
(これ以外にアルバニアからギリシアに入るルートや、東欧を経由してスロバキアに入るルートも示されている)
今話題のドイツへのルートは、東地中海ルートと西バルカン・ルートのこと。
ここではブルガリアのルートが書いてありませんが、これも問題化しています。
これらのルートを辿る昨年と今年の難民・移民の数がグラフで示されている。
西地中海ルートでスペイン入りする数は2014・2015年は相対的に小さくなっている。
中東地中海ルートで昨年は大規模に人間が動き、今年もそれが続いている。東地中海と西バルカンルートが、今年になって激増し、年の半ばにしてすでに昨年比で倍増しており、このままのペースだと昨年の4倍にも達しようとしていることがわかる。
それぞれのルートを渡る移民・難民の主要な出身国はそれぞれ次のようになっています。
チュニジアやリビアを経由する中央地中海ルートでは多数が、東アフリカのエリトリアや西アフリカのナイジェリア、その他のサブサハラ・アフリカからきている。
それに対して東地中海ルートや西バルカン・ルートではシリアやアフガニスタンから多くがきている。
さらにいくつか地図を見てみよう。
西地中海のルートの一つが、なんとかしてモロッコの沿岸のスペイン飛び地に入って難民申請すること。モロッコのスペイン飛び地という、15世紀末 にさかのぼる特殊事情が関係している。
“Ceuta, Melilla profile,” BBC, 16 March 2015.
これを阻止するために二つの町の周囲に巨大なフェンスが設置されるようになっているが、今でもそれを突破しようとする移民が跡を絶たない。
これ以外に、以前はモロッコの西岸から大西洋のスペイン領の島に密航しようとして、これも「泥舟」に乗せられて命を落とす事例が相次いだが、取り締まり強化で減ってきたようだ。
それに対して、東地中海ルートの最大の難関は、トルコまでやってきてそこからギリシア領の島にたどり着くこと。一つはブルガリアで陸路、徒歩やトラックの背や荷台に乗った密航による。
もう一つがトルコのエーゲ海沿岸から、すぐ沖合に位置するギリシア領の島に渡るやり方。
ギリシアの島の人気のないところに上陸し、島で難民申請を行って、その後は安全にフェリーなどでギリシア本土に上陸し、その後は陸路ひたひたとドイツを目指すのです。
トルコのエーゲ海沿岸のすぐ向かいには、ギリシア領のレスボス島、キオス島、サモス島、コス島などが点在する。トルコの主要都市イズミル近辺にはサモス島が、欧米でも人気の保養地ボドルムの向かいにはコス島がある。距離は狭いところでは10−20キロほどしかない。
フェリー会社の地図があったので見てみましょう。
出典:http://ferries-turkey.com/popup-route/routemap-800-e-europe.html
拡大地図を見てみましょう。
こんな感じです。アナトリア半島の本土はトルコ領で、目と鼻の先の島々はギリシア領。普通は陸地のすぐそばも同じ国の領土ですよね。しかしトルコ・ギリシアの国境はちょっと変わっています。
これは、第一次世界大戦中・戦後のオスマン帝国領をめぐる戦乱で、ギリシアが一時アナトリア本土まで占領した後に、トルコ民族主義勢力が本土を奪還した経緯から定まった国境線です。
以前に記したましたが(「トルコの戦勝記念日(共和国の領土の確保)」)、1920年のセーブル条約でギリシアがイズミルを中心としたアナトリアの領土を主張したのに対し、トルコ民族主義勢力が盛り返して1923年にローザンヌ条約で、本土とエーゲ海の島々の間にトルコとギリシアの国境線を引きました。それらの地図については以前のエントリを見ていただきたい。
最近こんな記事も出ていました。
Nick Danforth, “Forget Sykes-Picot. It’s the Treaty of Sèvres That Explains the Modern Middle East,” Foreign Policy, August 10, 2015.
「本当に重要なのはサイクス・ピコ協定じゃなくて、セーブル条約だよ!」というタイトル。一理あります。
この記事の装画には、ギリシアがエーゲ海沿岸を現在のトルコ領まで領土に組み入れようとした1920年のセーブル条約の地図のギリシア・トルコ・シリアの部分があしらってあります。
セーブル条約からローザンヌ条約の過程で、戦争と難民流出と住民交換で、多くの人命が失われるとともに、住民構成が大きく変わりました。100年後の今再び、この近辺で住民構成の変化を伴う戦乱が生じていることになります。トルコ本体もクルド武装勢力との紛争が激化していますから、変動の波は当分収まりそうにありません。