5月21日に発表された、シリアでの2名の邦人人質殺害事件についての政府の検証委員会報告書の作成に、外部の有識者として参加した。報告書は全文をダウンロードできる。
一般公開の報告書に載せられなかったのは次のような情報だ。
ご遺族あるいは関係者のプライバシーに関わる情報。
外国の政府機関から秘密を前提に提供された情報。
これについては、各官庁はプライバシーや秘密の範囲を厳密に広く取ろうとするのに対し、外部委員は可能な限り広く公開しようとする。その結果、「判断した根拠は秘密情報だがその結果は公知の事実だから書いてもいい」という形で表に出した部分がかなりある。そうするとまた新聞は「根拠が書いていないから検証ではない」と言い出すので、役所の人からは恨まれているかもしれないが。
ただ、テロはこれで終わりではなく、今後も生じてくる。今後の事件に際して政府が行う施策の「手の内」は明かせないことは確かだ。そこから大々的には書きにくいがひっそりと記されていることもある。これだって役所の人は「これを出すと将来に危険が生じかねない」と恨めしそうにしていたものもある。報告書を隅々まで読んでみれば、「政府がやっていない」と、一部の、さほど情報はないが声高な人たちから非難されていることも、実際には政府がやっていたことが見えてくる場合もある。政府としては「こんなこともやっていたんですか」と聞かれて「そうです」と答えなければならないとそれはそれで今後武装集団に狙われたりしかねないので私にこんなことを書かれたりはしたくないだろうが、しかしここでは報告書に明文で書いてある範囲のことを言っている。実際には、「やっていたこと」について「もっとやるべきだったのか」「もっとやればどれだけのリスクが生じたか」「それを国民が求めているのか」を議論するべきであるが、現状の日本のメディアの問題設定能力の水準からは、そのような有意義な議論が可能になるとは思えず、単に不要な政治問題化の根拠とされるだけと予想されるため、外部委員としてもある程度以上の詳細な記述は求められなかった部分がある。
この事件は日本政府が人質をとって殺害したわけでもなく、日本政府がシリアに人員を送り込んで人質にされる原因を作ったわけでもないので、政府が責任を負うなどという検証結果が出ることは、よほどの驚天動地の資料が発見されない限りは、ありえない。
言うまでもなく、「二人の人質が取られているにもかかわらず衆議院を解散して選挙を行った」「人質を取られているのに中東歴訪を行って人道支援のスピーチをした」ということをもって政府や首相の責任を問え、という議論は、民主主義の原則を根底から覆し、暴力によって政策の変更を迫る暴論である。問題はこれが「言うまでもない」ことであるということを、大新聞ですらも理解していないことが明白な報道・論評があったことだ。もしこの論理が許されのであれば、今後は気に入らない政権がいればどこかで人質を取って殺害すれば政権に責任を負わせられることになる。どれだけ恐ろしい憎しみの論説を日々垂れ流しているのか、記者たちは己の罪深さを知るべきだろう。いったい誰が民主主義を破壊するのか、歴史を振り返って考えてみるといい。
報告書が出てもなお、民主主義の原則を根本的に履き違えた議論が、インターネット上の無謀な論客からだけでなく、大新聞・地方紙の社説にもあったことは、残念なことである。要するに「政府の責任だ」「首相やめろ」と言わなければ検証ではない、というのだから、話にならない。話にならないことを連呼する人たちは、信用されなくなる。あるいは、もし万が一、日本国民の多数が「話にならない」議論を大真面目にするようになれば、それはそのような愚かな社会だったというだけである。どちらに転んでもろくなことはない。今のところは多数がそのような議論はしていないにしても、24時間飽くことなく憎しみを垂れ流す人たちの影響力は侮れない。まともな仕事をしている人たちは忙しいから24時間対応しているわけにはいかず、放置しているうちに、憎しみの言説が支配的になってしまい、「空気」に阿る多数派を作り出してしまうこともあるかもしれないからである。
この事件を検証するならば、シリアのような紛争地において邦人を保護する政府の能力・態勢が現状どのようなものであり、今後どのようなものであるべきか、そのためにはどれだけの人員や予算が必要か、そもそもそれを国民が望んでいるのか、という問題を検討しなければ意味がない。
これについての新聞やインターネット・SNS上の議論は、おそらくそのほとんどが、報告書を読まずに行われている。まずは全文を読み通して、問題の構造と論点を理解してから、発言してほしい。
フェイスブックでは昨日5月26日に長めのポストを投稿しておいた。かなり読者が多いようなのと、シェアしにくいようなので、この文章の後ろに貼り付けておく。
私の昨日のフェイスブックの投稿は、岩田健太郎さんのブログポスト「リスクマネージメントについて 邦人人質事件検証委員会、群馬大学病院、そして若者の失敗」をシェアする形だった。そのため、私の文章ではなく岩田さんの文章がシェアで回ってきた人も多いようだが、実際、説得的な文章なので、読んでみてください。
誰かの「責任」を追求することを使命と履き違え、今回の事件のように、政府側に責任をとらせることがどう考えても不可能な場面でさえもそのような責任を追求してみせれば、事実の究明はむしろなされなくなる。不当に罵られ辞めさせられるのであれば、誰も態勢の不備を検証などしなくなる。今回は私は外部委員として参与することで、政府の現在の態勢の不十分さについての指摘や、今後取りうる措置についての検討課題を、隅々に滑り込ませることができたと考えている。そして、官庁の態勢の手薄な部分は、一部は官僚組織が持つ弱点であるし、またその他の一部は、これまでの国民の意思によって望まれないとされてきたがゆえに手薄にされてきた部分である。政府に要求するだけでなく、究極的には国民の意思を問うしかない。国民の意思を問うためには、政府・関係省庁は選択肢を整理すべきだ、というのが有識者側の要望で盛り込んだ点の大部分の結論だろう。また、メディアの(フリージャーナリスト含む)、荒唐無稽な批判であっても、逐一反論するようにと要請した。反論しなければ事実であると思い込む人も多いからである。このことも官庁側は嫌がった。相手にすると正当性があるように見えてしまうという言い分であり、これはこれでもっともであるが、私はもう少し官庁は市民社会とコミュニケーションをとる能力を身につけるべきであると思う(それに対応して市民社会の側にも対話能力が育ってくることを私は願っている)。
考えてみると、文章を書くということを「専業」にしている、新聞記者やフリージャーナリストや作家たちから、人質事件に関してだけでなく、中東問題一般についても、このお医者さんが今回この報告書に反応して書いたような筋の通った、先を見通す一筋の光のような文章を、読ませてもらったことがほとんどない。少なくとも近い過去には思い出せない。
私自身が、文学・文化に埋め尽くされた家に育って、大学も当然のように文学部に行きながら、徐々に「文」の業界からは距離を置いていった経緯を、ふと思い出した。私は、日本の文学・文化やジャーナリズムといった業界に染まった大部分の人たちの、日本の外の世界に対する全般的で決定的な無知、論理的な思考能力の欠如、自由人ぶっていながら実は業界の「空気」を読んで流行に同調することが求められる不自由さ、そしてそのような自らが自らに選んで課しているはずの不自由さの由来を自覚することを可能にする内省の契機を備えていないように見えること、あまつさえその不自由さを外部の責に帰する言動が相次ぐことを、たび重なり積み重なって目撃した末に、ある時期から耐えられないほど、嫌になったのである。それは、私が生まれ育って学んで触れて憧れてきた「文」の美質とは、無縁であった。ある国の「文」はその社会の文化的生活を反映しているのだろう。そうであればなぜ、日本の「文」はなぜここまで貧しくなってしまったのか。あるいは「文」が精神の豊かさや高貴さではなく、貧しさや浅ましさだけを反映するような、何らかの変容が起こったのだろうか。
その後も私はごく自然に欧米圏の文化・文学には触れているし、アラブ圏の文学・文化にも研究対象としての興味を抱いている。そこには何か光るものが今でもある。しかし日本におけるその対応物には、かなり以前に深い失望を抱いて以来、触れていない。仕事で依頼されるとその瞬間だけ触れるが、仕事が終わると全て処分して忘れてしまう。「文学的」ということが事実に基づかず国際性がなく非論理的で情緒的に叫ぶことと同一視されるようになったのはいつからなのか。「哲学的」ということが頑固な思い込みを権柄づくでゴリ押しすることと同一視されるようになってしまったのはいつからなのか。
それに比べると、「流れ」で関わることになってしまった、テロ、エネルギー、安全保障といった泥臭く無骨な業界の現場の人たちと接する機会は、はるかに清新であった。
実際のところ私は、そのような複数の「現業」部門との接触で揉まれながら、ずっと一貫して「文」をやってきたつもりである。
(ちなみに日本の大学の文学部っていうのも、本来は「文学」をやるところじゃなくて、哲学を基礎とした諸学の体系としての「文」学部だったんだからね。いつから「文学」それもなぜか「小説」を読むところだという誤解が生じてしまったのだろうか)。
以下は昨日のフェイスブックへの投稿。
人質殺害事件の検証委員会報告書。ほとんど関心を呼ばなかった、あるいは、おざなりな批判報道はあったけれども深い議論をもたらさなかったように思う。参与してしまうと、かえって報告書の利点を言いにくくなってしまう。批判がまともなものがあれば反論したり検討したりできるのだが、今のところほとんどない。
ネット媒体・ソーシャル・メディアは、匿名・「有名」の書き手を含めて、威丈高に威張って発散するだけのメディアになっていると思う。
そんな中で、こういった指摘は有益だと思いました。
【よって、「誰に責任があったのか」という問いを立てられた場合、「誰にも責任はなかった。あのときはみんなそれなりに一所懸命頑張ったのだ」という回答しかでてこないのは必然である。
それを促すのは、「どこに問題があったのか」に無関心で、「誰に責任があったのか」だけを追求し続けるメディアである。だから朝日は社説で「責任のありか」と述べたのである。もちろん、問題なのは朝日新聞だけではない。他社の新聞も、テレビも、雑誌も基本的には「なに」よりも「だれ」にしか関心はない。
これは「最近のマスコミはなってない」という意味ではない。昔っから日本のマスコミは「なっていなかった」のだ。】
個別の対応についてはどう検証しても「現有の日本政府の能力で、現地の実情から行って、この程度のことしかできようがなかった」となるしかないことは、明らかでしたが、もし諸外国と同様の手段・能力を持つべきだとする国民の意思があるのであれば、政府の能力・態勢に不十分な点はいくらでも指摘できると思います。
なお、政府の態勢の不十分さ、改善点については、報告書の各節の後ろについている囲み記事になっている部分で、「有識者」との議論として、官庁が出してくる本文とは若干異なる文体で、書き込んであります。
そのような意味で多くの改善点が「有識者」欄に指摘されているので、「政府の態勢が不十分だ」という批判は当然ありえます。ただし現行の態勢は、戦後の日本が、ロープロファイルの平和主義国家として、対外諜報機関を作らない、紛争地で孤立した日本人を直接助ける手段を持たない(ひたすら当該国・周辺国に頼み込む)、といった制約を自らに課すことによって成り立ってきました。それは(判断が正確であったかどうかはともかく)国民の付託でした。そのことを忘れてはいけません。特にメディアは。政府が海外の邦人保護のために取り得る手段については、メディアが強く縛りをかけてきました。事件が生じた瞬間だけ「態勢がなっていない」と批判しますが、ほとぼりが冷めるとすぐにまた抑制せよと言い出します。
官庁としては、国民から付託されていない出すぎたことを「これまでやっていなかったから問題でした、今後はこれをやります」とは、今回の報告書の策定過程では絶対に書いてこない。そしてそれは正しい。
つまり、(1)情報収集態勢が手薄だということはわかっていることなので、他の先進国並みの諜報機関を作りますとか、(2)海外で人質になった邦人を特殊部隊を出して取り戻せるように法体系を整備します、装備と訓練を充実させますとか、(3)トルコがやったように、大量のイスラーム主義者を拘束した上で人質と交換するといった強権・超法規的措置によって非合法組織を抑制する交渉力をつけますといった、いずれもいわゆる「戦後レジーム」を覆すような検証結果は、もちろん、出していない。
ただし、国民の議論が深まればこれまでにない能力を保持するために選択肢を出す可能性はあるかもしれない、ということは、「有識者」の囲み記事を含む全文をよく読むと示唆されています。
検証委員会は、外部委員も含めて、今後の政策を作る立場ではないので、本当は越権行為かもしれないが、外部の「有識者」の意見という形で、メディア産業(あるいはネット言論)が深めてくれない論点を、報告書の隅々にそれぞれ短く記しておいたことで、将来の議論の基礎となるかもしれないと私は考えています。もちろんたいていのことは無駄になる。すぐにストレートに効果が出ることなどない。それは仕方がない。
もちろん逆に、(4)武装集団が日本人を人質にとっている可能性があるから、首相や官房長官が24時間対応しないといけないから、選挙もやりません、中東訪問もしません、という日本の自由主義と民主主義(あるいは非暴力の原則)を根底から覆すような選択肢を本来採るべきであったにも関わらず採らなかったから問題だ、責任とれ、という結論も、もちろん出していない。それについては、あまりに当たり前なので、様々な立場の外部委員「有識者」のいずれも特に問題視はしていなかったように思う。
メディア産業やSNSで「有名人」がわいわい言っているから、それが事実だ、ということにはならないのです。そんなこと言っていたらすぐまた日比谷焼き討ち事件や満州事変が起きますね。
実際のところ、新聞社説も含め、(4)という結論が出なかったから検証が不十分だ、と実際には言っているに等しいが、露骨にそれを言ってしまうとあまりに異様なので、ぼかしておいて、検証が不十分だという印象を醸し出した論評が大半であった。それは「責任」の追求という論理しか持たず、諜報機関の不在といった「問題」を論じることができないがゆえに生じる不明確さ・曖昧さではないかと思う。
もしかするとこれは、記者に論じる能力がないのではなく、論じると都合が悪いからなのかもしれない。そうであれば、むしろ都合が悪い、と言ってくださったほうが、議論が前に進むのではないか。ただその場合、「責任」追及は今回の事件についてはしにくくなるでしょう。しかし責任は他のところでいくらでも追及する機会があると思います。今回のような、凶悪な集団の暴力の威嚇・殺害の恐怖の力を借りて政敵の責任追及を行うことは、極めて筋が悪いと思います。もし万が一そのような議論が通れば、それは民主主義そのものを崩壊させるからですし、逆にそのような議論を行ったことで国民一般の支持を失えば、政府へのチェック機能を担うはずのメディアの信頼性が落ちるからです。
「有識者」との議論が盛り込まれた囲み記事の隅々まで読んでもらったかどうかわかりませんが、申し訳ないですが、少なくともこの問題については、記者さんが考える程度のことは考えて議論して、それなりに文面にも盛り込まれています。読まないで鼻で笑うのがかっこいい、という風潮は、いつの時代、どこの業界でもありますが、そんな風潮に染まって人生の長い時期を過ごすのは、むなしい。
若い人は、ひとしきりそういったモノ言いに大いにかぶれた上で、大人になってください。寄り道はいい。一直線は良くないよ。誰が信用できる大人で誰がそうでないのか、時に痛い目を見て知るのもいい。そのうち、怪しい論客は顔を見ただけで判断できるようになります。もちろんその傷は簡単には消えないし、うっかりしていると一生疼きながらふわふわと夢のように過ごしてしまうかもしれないけれども。ま、それもいいんじゃないですか。
話を戻すと、このお医者さんの指摘は建設的だなと思う。確かに日本社会には構造的に何か制約があり、問題はある。それをどう越えていくか。実は、多くの人が考えている。考えているが、そう簡単には変わらない。
官庁の組織の人間と、組織との距離の取り方がそれぞれに違う外部の人間が、かなりの労力を使った結果が人質事件の検証委員会報告である。この事件に関して「責任」を取らされるような主体がないことは明白だが、だからといって日本政府の態勢が万全であるわけではもちろんない。もちろんないが、それは誰がいつどのようにして課した制約によるのか、制約を取り外すことがふさわしいのか、できるのか。官庁の外部の人間が入ることで広がりが出たのは例えばこういった面での議論だったと思う。
こういった論点は、この報告書で結論を出すことではないが、将来の議論のきっかけにはしたい。そのように個人的には考えていた。そうでもなければ「責任」を誰かが取って辞めるか否かといった問題では、結論の幅がありようがないこの極端な事件について、多大な時間と労力を使うことに意味を見出しにくい(まあせめて、日本政府が明示的な政策によってシリア北部に人を送り込んだところそれが人質に取られた、という事件でしたら責任問題が発生するかもしれなかったのですが、今回は正反対です)。しかしもし、官庁の中からは考えにくいこと、あるいは個々人の官僚の次元では考えていても言い出しにくいことを、外部の人間が入ることで、官庁の名前で出す報告書に、参考意見とはいえ載ることで、何か将来に変化を残すことができるかもしれない。
このような淡い希望を、ほとんどすべての日々の仕事に際して抱いています。私にとってはそれが「理想」への近づき方です。理想っていうものは、朝の連続テレビ小説で次から次へと力量の足りない脚本家が出してくるような、一方的に突拍子もないものを連打するということではありません。
絶対的な立場に立って(立ったつもりになって)、威勢のいいことを言う人はいつでもどこにでもおり、私は日本がそのような人たち「も」いることのできる社会であって欲しいと思う(そのこともよく読むと報告書の文面には滑り込んでいますし、それ以外のあらゆる手段を用いて実現を図っています。正直に言って、もっと感謝してもらってもいいんじゃないか、と思う人もいます。個人的な付き合いはありませんし付き合いを持とうという気もないのですが)。