【先端研公開】6月3日の「政治寄席2017スペシャル」に登壇

今年も東大駒場リサーチキャンパス公開が行われます。6月2日(金)・3日(土)の二日間に渡って、理工系の研究室公開や、文系は講演会・シンポジウムなどが行われます。

私は6月3日の13時からの「政治寄席2017スペシャル」で登壇します。先端研の政治系の教員で、学内向けに月一回、「先端政治寄席」という催しを行なっているのですが、今回はそれを一般向けに公開します。

以下が公式プログラムに載った案内です。

「政治寄席2017スペシャル」
先端科学技術研究センター
牧原出教授、御厨貴客員教授、池内恵准教授、佐藤信助教
6月3日(土)13:00~14:45
先端科学技術研究センター 3号館南棟1階ENEOSホール

毎月一回好評「政治寄席」の90分スペシャル。レギュラーメンバーに加えて、現代政治行政のリアルな考察で有名な飯尾潤(政策研究大学院大学教授)をゲストに迎える。各自が15分程度、持ちネタを披露したあとは、司会者に仕切ってもらいながら、メンバー全員の乱取り合戦をくり広げる。お題は見てのお楽しみ。

イスラーム政治思想のことば(9)イスラーム教の高揚は近代の問題に解決策を示すよりも、解決の失敗に苛立つ人々を酔わせる

社会全体の問題をムスリム同胞団はもっともよく体現している:

「カイロ市の焼打ち、首相たちの暗殺、キリスト教徒に対する脅迫、その出版物に見られる狂暴性と憎悪──これらすべては、進路を見失ってしまい、自ら引き継いだ過去の遺産が近代生活に相応しないことが判明し、その指導者たちは不正直で、そして理想が色あせてしまった民族の立場として理解されなければならない。この点からいえば、新しいイスラムの高揚は、問題を解決する力ではなく、その解決の失敗にもはや我慢ができなくなった人々を酔わせる力なのである。
同様団の指導者やその運動の大部分の公的文書は、この情動主義と暴力に対して直接的には責任はない。事実、それらをおし留めるための対策が時として取られたくらいである。同胞団について判断を下したり、またその昂揚期においては明らかに同時に作用していた善悪両要素を区別することは、たぶんまだ早すぎるし、ましてやそれらを分類して一方は真の宗教、他は神経症的ファシズム、真摯な理想主義と破壊的な狂暴というように分けてしまうことにおいてはなおさらである。前者を否定することは誤りであるし、後者の可能性を無視することはたぶん危険であろう。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、260-261頁)

長くなりましたが、ぜひ本を手に取って読んでいただけるといいですね。中央公論新社、アラブの春からもう2年半ですから、良い本を無駄にせず、再刊してください。(2013年8月26日

【追記】これを記してからさらに4年近く経ちましたが、その間の事態の進展は、スミスが半世紀からほとんど一世紀近く前に観察した、1920年代から50年代にかけての出来事を、いよいよ正確に反復するかのようでした。なぜ、アラブ世界の近代のリベラリズムとイスラーム主義は、それぞれの限界に繰り返し突き当たるのか。これは最も重要な課題と思われます。

イスラーム政治思想のことば(8)ムスリム同胞団の失敗は、感情の捌け口を求める動き、暴力へと発展する

ムスリム同胞団の問題と限界3:

「第二の失敗はこれと関連するが、ある意味では、それは運動としての同胞団の失敗というよりはむしろ、その活動舞台となった社会の失敗である。つまり、その社会は、もはや【260頁】暴力がほとんど避けられない地点まで悪化してしまっているのである。同胞団がそれを救済しようと試みることは、その暴力に機会を与えるだけのものであったろう。そこでは、イスラムを再確認しようとすることは、現代生活での失敗に立ち向かう努力であるが、それを超克することには成功しないであろう。不幸にして、同胞団のある成員たち、さらには彼らに同調したり、また彼らと同じ道をたどる多くの人々にとっては、このイスラムの再確認は、納得のいくようなプラン、周知の目的、あるいはせめて切実に感じられている理想に基づく建設的なプログラムを意味するのではなく、むしろ感情のはけ口であった。それは永い間、貧困、無能、恐怖の餌食となっていた人々の憎悪、欲求不満、虚栄、破壊的暴力の表現であった。近代的世界にはもう飽き飽きしている人々の不満は、すべて同胞団のような運動にその行動と充足を見出すことができるものである。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、259-260頁)(2013年8月26日

イスラーム政治思想のことば(7)ムスリム同胞団には近代の国家と社会への責任感が希薄

ムスリム同胞団の問題と限界1:

「だがしかし、同胞団には、これらの利点のほかに、二つの大きな欠陥がある。これについては、彼らの中の進歩派さえ気づいていないが、これに対立する人々だけは充分感づいている。第一は、近代国家あるいはその社会のもつ現実の問題に対して、それを解決することはさておき、それを現実主義的に認識するということが嘆かわしいほどみられないということである。
同胞団はただ保守的であるというのではない。彼らは自ら所有し経営する近代工業を自分たちで建設したり、労働組合を組織したりした。しかし、彼らが出版する資料からは、近代においてなされなければならない責任ある行為は何か、というより錯綜した問題に対する理解が見られない。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、258-259頁)(2013年8月26日

イスラーム政治思想のことば(6)ムスリム同胞団は共同体の基本的な問題に取り組み、訴えかける

ムスリム同胞団の意味2:

途中を省略したうえで・・・

「これは重要な発展である。われわれの判断では、これがなければ、あるいはこれらに代るようなものが何かなければ、アラブ社会は実際には前進することはできない。ある程度の共通の士気と人を駆り立てる力がなければ、また具体的な実現の機会を求めるある種の実際的な理想がなければ、たとえ最良の社会的ないしは国民的プログラムであっても、それは机上のプランに終わり、アラブ人の生活は夢想家の失敗に留ることになるだろう。同胞団の主張の一部が訴える力をもつ理由は、共同体のもっとも基本的な幾つかの問題に対して前述のような形式で適切な答えを与えようとしている点にある。これらの問題に対して同じように真剣に取り組む意志をもった別の集団が出現するまでは、いくら弾圧されても同胞団は存続してゆくことであろう。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、257頁)(2013年8月26日

イスラーム政治思想のことば(5)ムスリム同胞団は単なる反動ではなく、近代社会の建設に努力する

それに対してムスリム同胞団はというと1:

「われわれの判断によれば、同胞団をまったく反動的なものとみなすことは誤りであろう。なぜなら、そこにはまた、過去からの伝統の中に保持されてきた最良の価値から引き出された正義と人間性の基礎に立って、近代社会を建設しようとする賞賛に値する建設的な努力も作用しているからである。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、257頁)

この後の部分は省略しますが、非常に丁寧に、ムスリム同胞団というものがなぜ支持され、影響力を持つのか、アラブ世界の近代社会の抱えた根深い問題と、その中で一般大衆が抱く希求や絶望に根差した解説を加えていて圧巻です。(2013年8月26日

イスラーム政治思想のことば(4)アラブ世界のリベラリズムには宗教の基盤がない

アラブ世界のリベラル派の弱さについて引用3:

「社会の自由主義的な指導者たちは、彼らの生活や思想にふさわしい宗教的な基盤をほとんどもたなかった。彼らの方は現代と歩調を合わせて進んだのに、イスラムの枠組みは彼らと歩調を合わせて進むことができなかった。その結果、彼らは自分たちのヴィジョンを他人に伝達することができなかっただけではなく、苦境に際しては自らこのヴィジョンを守って戦い抜くに必要な勇気と誠意を欠くことになったのである。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、117頁)(2013年8月26日

イスラーム政治思想のことば(3)イスラーム思想の改革・近代主義には、体系的なリベラリズムが欠けていた

アラブ世界のリベラル派の弱さについて引用2:

「改革者たちの強引な仕事には、有効な体系的理論が欠けていた。」スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、116頁)(2013年8月26日

 

イスラーム政治思想のことば(2)アラブ世界のリベラル派は少数派支配

なぜアラブ世界のリベラル派はふがいないのか。政治基盤がないにもかかわらず、影響力や発言力はある。それはある種の「支配」と言っていい。しかし肝心な時になると頼りにならず、特にムスリム同胞団など大衆的なイスラーム主義が伸長してくると、軍の暴力にすがる。リベラル派は肝心な時にリベラリズムを放棄する。

「少数ではあるが、自由主義者は大なり小なり現代のムスリム世界を通じて、少数者支配に近い地位にある。もし自由主義者がそれほど強いものなら、なぜ自由主義は弱いのだろうか。」W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(上巻、中公文庫、109頁)(2013年8月26日

【新企画】イスラーム政治思想のことば(1)イスラーム諸国で近代のリベラリズムが抱える制約と限界

新コーナーです。

「イスラーム政治思想のことば」と題して、イスラーム政治思想の有名な著作から一節を抜き書きしたり、イスラーム政治思想を論じる際に不可避の論点を特定した、長期的に残る研究書の名著から、主要な論点に関わる部分を転記して、簡単なコメントで補足します。

まず、近代のイスラーム政治思想を論じる際の最も大きな論点である、リベラリズムについて、古典的な研究書から少しずつ抜き出していきましょう。

まず、最初の数回にわたって取り上げるのはウィルフレッド・キャントウェル・スミスの『現代イスラムの歴史』(中村廣治郎訳)です。

原著はWilfred Cantwell Smith, Islam in Modern History, Princeton University Press, 1957です。

邦訳書は、中村廣治郎先生(私の学部時代の先生です)による翻訳で、1974年に紀伊國屋書店から『現代におけるイスラム』として刊行され、それが1998年に題を改められ上下巻で中公文庫に入りました(現在は絶版のようです)。

キャントウェル・スミスの該当書(訳書)からの抜書きは、実は今回このために新たに作成するのではなく、2013年8月26日に、Facebookのアカウント(https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi)でフォロワー向けに書き記したものがあるので、それを探してきて、転記します。

なぜ2013年の8月に、イスラーム教とリベラリズムに関する古い研究書から読みどころを抜粋して紹介する作業をしていたかというと、おそらく、2012年6月に誕生したエジプトのムスリム同胞団の政権が、軍との対立を深めて2013年7月のクーデタで放逐された、その余韻冷めやらぬ時期であったからだと思います。エジプトの「革命」のサイクルを一通り目撃した上で、一連の動きを根底で規定する理念的な問題に考えを及ぼすと、アラブ世界の近代のイスラーム思想の発展の抱えた限界、特にリベラリズムの発展の限界について取り組んだ、古典的な研究書が現在でもなお有効であることを思い知らされざるを得ませんでした。

エジプトの2011年の「アラブの春」から2013年のクーデタまでの間にリベラル派が見せた振る舞いや、それと対象的で、競合・対立したムスリム同胞団の思想と行動、あるいは軍の動きとそれを支持する多数の市民の存在は、50年以上前のエジプトを対象にしてこの研究書が特定していたイスラーム教とリベラリズムの間にある問題を、今でもなお根強く存在していることを、あからさまに思い出させるものでした。この本の、時代を超えた有効性が明らかになった瞬間でもありました。

Facebookでまだそれほど多くの読者がいなかった(直接知っている人たちだけが読者だった)頃に、試験的にFacebookに主要なテキストの主要部分を抜書きしてみたのですが、Facebookは検索機能が弱いとか、アカウントがない人が見られないといった理由から、古典的な文献の抜粋を恒久的に提供して議論の支えにするという目的には相応しくないと考えて、試みが途絶していました。

その後このブログを立ち上げ、読者が増えたFacebookと連動させたり、ブログ上の様々な試み、例えば現代中東情勢のリアルタイムの分析などが、『フォーサイト』の固定ページとしてスピンオフしていきましたが、今回、このブログで、恒久的に、イスラーム政治とその分析に関わる主要な文献の、エッセンスを伝える部分を、日本語で提示しておく欄を設定してみようという気になりました。

今回転記する抜き書きを作成してから4年近くが経ちますが、「アラブの春」や、それをきっかけに新たに活動を拡大したイスラーム主義のさまざまな現象を対象にする論文や本を書き続ける中で、今度は私自身が立て続けに「イスラーム教とリベラリズム」の思想問題に取り組み何らかの形で解明する学会報告や論文提出を次々に求められることになり、自分の頭の整理のためにも、それらの学会報告を聞き、論文を読む人の予備知識のためにも、あえて論文に引用しないかもしれない、大前提となるテキストや、古典的で今も生きている研究書の著名・有力フレーズを、ブログで蓄積してデータベース化しておくことが有益と考えるに至りました。

今後私が書く本や論文を読む際にも(これまでの本を読む際にもそうですが)、「イスラーム政治思想のことば」に載せられているテキストは、前提中の前提になっていると考えていただけるといいと思います。

今日はまず、2013年8月にFacebookにメモしておいたこの本の紹介を転記します。今回は私が書いた解説的な文章で、まだスミス=中村訳の本文からの引用は出てきません。明日から本文そのものからの引用が始まります。

「イスラーム政治思想のことば」と題した新設コーナーの第一回が、政治思想のテキストそのものではなくそれに取り組んだ古典的研究書を取り上げることになってしまっていますが、今後はもちろん中東のイスラーム政治思想家のテキストそのものから見繕って、今現在の問題を見る際に有用なものを、紹介しようと思っています。

***

アラブ世界の現在を理解するために「一冊」を挙げよと言われるなら、下記の名著です。W・C・スミス(中村廣治郎訳)『現代イスラムの歴史』(中公文庫、1998年)

なぜアラブ世界で自由主義が短命に終わるのか、自由主義者はその数に比してなぜ過度に発言力があるのか、しかしなぜ肝心な時になると逃げてしまって軍人が出てくるのか、ムスリム同胞団の伸張は社会と歴史の何を背景にしているのか、その限界はどこにあるのか・・・1957年に出版されたものですが、今の状況に照らし合わせて読むと怖いぐらいに良く当たっています。

考えてみればこの本が出たころは、1920-30年代のリベラリズムが衰退し、ムスリム同胞団が伸長し、政治暴力・衝突が激化し、1952年に軍が介入。1954年には議会再開を求めるリベラル派のナギーブ初代大統領とムスリム同胞団を両方ナセルら青年将校たちが排除して、その後長く政党も団体活動も禁じ、メディアを統制し、軍を翼賛するプロパガンダを開始していった。ムバーラク政権に繋がる独裁・抑圧体制が立ち上がったころです。

その頃の状況や構図と現在のものは、非常によく似ている。カナダのマックギル大学教授のスミスは思想史と現代社会分析の双方で優れた人です。訳書は1974年に紀伊國屋書店から出て、その後1998年に上下巻で中公文庫に入っていたのですが、絶版なようです。

「アラブの春」が暗転している現在、近代にアラブ社会が直面している問題についての洞察力を得るのに、最良の一冊ですので、ぜひ再刊してもらいたいものです。(2013年8月26日

【寄稿】『アステイオン』に、国際秩序をめぐる大著の数々を大ざっぱに総覧

長めの論考が『アステイオン』に掲載されました。というか、されます。すでに見本はもらっていますが、奥付上は5月26日に刊行とのこと。書店で予約しておくと真っ先に読めます。

池内恵「二十一世紀の『大きな話』、あるいは歴史を動かす蛮勇」サントリー文化財団・アステイオン編集委員会(編)『アステイオン』Vol. 86、CCCメディアハウス、2017年5月26日発行、168−187頁

『アステイオン』の今号の顔ぶれは、いつにも増して豪華です。目次の詳細と、各論考の冒頭の部分を、サントリー文化財団のウェブサイトで見ることができます。池内の論考の冒頭はこちら。最初の一節でゆるゆるとエッセー風に始めて油断させておいて、本文では世界秩序をめぐる大著の一群を、一気に総覧します。

特集「権力としての民意」(責任編集・待鳥聡史)は、最近流行りの用語で言えば「ポピュリズム論」というところに押し込められかねませんが、通り一遍のありふれたものではなく、ここぞと有力研究者を動員し、よその媒体ではみられない、深いところを理論的に探ったものになっています。

論壇で話題のポピュリズム論のいわば「標準」の地位を獲得している中公新書『ポピュリズムとは何か』を書いた水島治郎さんの「民意がデモクラシーを脅かすとき––ヨーロッパのポピュリズムと国民投票」を筆頭に、岡山裕「アメリカ二大政党政治の中の『トランプ革命』」や、阿古智子「インターネット時代の中国ポピュリズム」等々、欠かせないテーマに、それぞれ代表的な研究者が取り組んでいます。

また昨今の日本でのポピュリズム・大衆扇動政治の代表格といえばそれはもちろん小池都政ですが(私が勝手に決めた)、これについては金井利之さんの「小池都政における都民と “民意”」が載っています。

欧米と中国・日本だけでなく、東南アジアについても、例のコワモテ豪腕のドゥテルテ大統領について、高木佑輔さんの「フィリピン・ドゥテルテ政権の政治––民主化後の政治発展とエドサ連合」が。大変興味深い。

特集の外でも、有力な政治学者たちが次々と論考を寄せています。奈良岡聰智「よりよき公文書管理制度のために––イギリスとの比較に基づいて」や河野勝「安保法制は何を後世に残したのか––もうひとつの安倍政権論」は是非読んでおきたい。

五百旗頭薫さんがここのところ『アステイオン』に毎号のように力の入った論考を寄稿しており、今回は「嘘の明治史––五/七/五で嘘を切る」。

他にもいろいろ載っていて、これで本体価格1000円。もうまったく完全に採算度外視です。

どれだけ採算度外視かというと、ノーベル文学賞級の作家ミラン・クンデラの対談も、はるか後ろの方にあまり目立たない感じで載っています。文芸誌だったら背表紙に名前が載りますよ。

『アステイオン』の一つの売りの、各国のハイブロウな著作の書評・紹介をかなり自由に書ける「世界の思潮」では、マルガリータ・エステベス・アベさんがトランプ現象を読み解く二冊を紹介しています。編集の工夫、あるいは幅広いネットワークから常時集めている原稿ストックの豊富さから、特集の外でも特集と響き合う内容の論考が加わって追い討ちをかけます。

そんな豪華執筆陣が、特に今回は政治学や国際関係学者が、勢揃いして、深く・緻密な論考を次々に寄せているところに、私の論考では何を書いたかというと、いきなり冒頭から見出しが「『大ざっぱ』の効用」なのです。

何がどう「大ざっぱ」なのかというと、それは読んでみていただけば分かりますが、大概下記のような趣旨の文章です。

今回の私の論考では、政治学の優秀な研究者による力の入った論文が目白押しである中に混じって、ちょっと箸休め・頭休めのために目を通していただくことを意識して、以前に学会誌に書評を寄せたことのあるウォルター・ラッセル・ミード『神と黄金』を手がかりに、冷戦後半から冷戦後に時期に提起された、国際秩序・世界秩序論のうち、アカデミックな世界だけでなくより広い読者層に向けて書かれ、読まれて、影響を与えた代表的な作品の変遷を、一筆書き的に紹介しました。文末の注で、原著と邦訳書の書誌情報を一覧に収めてみました。

何事も、時系列に並べると見えてくることがあるものです。学問は、集めて並べてみるのが、まず基本。どういう手法で「集め」「並べ(変える)」かについては、高度で包括的で検証可能な手法などを開発する余地はありますが、何はともあれまず定性的に見て触って読んで、どう並べればいいかをあれこれ考え、並べ替えてみること。

世界秩序をめぐる「デカい話」が周期的に新しいものが提起されて、好評を博し議論の対象になりますが、それらを毎回入手して隅から隅まで読んでいる人はよっぽどの読書家で、大抵は忙しい時期に出た本などはうっかりしているうちに見かけなくなってしまう。タイトルをちょっと聞いたことあるけれども、読んだことがなかった、あんな本こんな本が、読んだ気になる、読んでみたくなる、そんな企画です。お楽しみください。多分今号の全論考の中で一番分かりやすい論考。

今回は注が文献リストのように機能するように意図してつくっています。移り変わる国際秩序と国際世論を、時代ごとに背骨を作ってきた「感動巨編」系の数々を、体系的に、例えば半年で全部読んでみる。大学初年次ゼミとか読書会とかをやる際に、冒頭で配る文献リストと導入・手引きを記したイントロ・テキストとなればいいかな、と思って書きました。

【引用】『ポピュリズムと欧州動乱 フランスはEU崩壊の引き金を引くのか』に『朝日新聞』掲載の発言が再録

昨年10月21日に『朝日新聞』に掲載されたコメントの一部が、最近刊行された本に再録されています。

国末憲人『ポピュリズムと欧州動乱 フランスはEU崩壊の引き金を引くのか』(講談社+α新書、2017年4月20日)

該当箇所は本書の43−45頁にかけて。

国末さんによるインタビューは『朝日新聞』に下記の形で掲載(「奉じる「自由」の不自由さ 東京大学先端科学技術研究センター准教授・池内恵さん」『朝日新聞』2016年10月21日付朝刊)されていたのですが、国末さんがフランス大統領選挙直前に刊行したした著作の中で、私の議論の核心部分を切り出して再録してくださっています。

ここで国末さんは、ムスリム同胞団の創設者ハサン・バンナーの血を引く、ヨーロッパ育ちのイスラーム思想家・活動家のターリク・ラマダーンとの議論を、私との議論と突き合わせて掘り下げ、ムスリムの権利の擁護を主張する議論が西欧の社会規範の前提となる自由を掘り崩すことになる危険性を問いかけています。

日本の西欧政治の専門家は、西欧の学問の世界で支配的なリベラルな前提や通念を拠り所に、イスラーム教の教義は本来はリベラルであり、非リベラルな思想は一部の過激派によるものであるとして、イスラーム教と自由・人権との対立的な関係は存在しない、そのような問題を「ポピュリストが掲げているということは、問題視することが間違いなのである」となぜか一方的に断定して議論することが圧倒的に多く、他の点では傾聴に値する諸先生型の議論に、突然落とし穴が開いていることも稀ではありません。

学者は実際には西欧社会のうちごく一部の、留学した大学の中の、支持した先生の研究室とその関係者、といった限られた世界しか知りませんので、実態を知らずに、聞いた話で、あるいは現地の有力な先生の言葉の端々から「空気を読んで」イスラームとはこうであるはずだ、と類推してしまいます。

西欧社会の規範とイスラーム教の規範がどう齟齬をきたすか、それがどういう形で政治問題化されるか、こそがまさに今問題となっているのですが、しかし肝心の底を対象化できていない議論を見ると、大上段にポピュリストの危険性を論難していればいるほど、白けてしまいます。そういう人が多いから、ポピュリストが力を持つようになるわけですから。

国末さんは、そういった「専門家」の通弊から脱しようと様々に思考を凝らしているようです。

まあフランス流の近代合理主義・個人主義を叩き込まれると、なかなかあの「神中心主義」による、「群れない集団主義」とも言えるイスラーム教の動員のプロセスは見えにくくなりますが。

***

国末さんはすでにポピュリズムについての世界各地のルポを取り混ぜた『ポピュリズム化する世界 ―なぜポピュリストは物事に白黒をつけたがるのか?』(プレジデント社、2016年9月)を刊行していますが、今回はフランスの大統領選挙に絞り込んだ、いわば「選挙本」になっています。

選挙の背景のフランス内政についての読みやすい解説としてまとまっています。

奥付によると4月20日刊行ですが、本当に4月23日の第一回投票の寸前の、最終段階の情勢を踏まえて、「マクロンとルペンの対決」になりそう、という見通しを示しており、選挙後に読んでも違和感がありません。

私も新潮選書「中東ブックレット」で標榜している「オンデマンド」方式を何らかの編集体制で実現しているようです。

【寄稿】『ブリタニカ国際年鑑』2017年版に昨年のイスラーム教の動向について

今年も、『ブリタニカ国際年鑑』の宗教のセクションの、「イスラム教」の項目を寄稿しました。

池内恵「イスラム教」『ブリタニカ国際年鑑』2017年版、2017年4月、206頁

過去1年のイスラーム世界・イスラーム教についての特筆すべき動向をピックアップするという趣向で、2014年版に最初に依頼を受けて以来、連続して4年執筆しています。期せずして、年に一度のまとめの機会になっています。

今年選んだのは、
「グローバル・ジハード現象の拡散」
「反イスラム感情とトランプ当選」
「イスラム教は例外か」

でした。

「グローバル・ジハード現象の拡散」は、中東から欧米にもまたがる「イスラーム世界」における、前年から引続く事件の連鎖を取り上げました。私としてはもう飽きているのですが(なんて言ってはいけませんね)。

「反イスラム感情とトランプ当選」は、昨年から今年にかけて「イスラーム」が国際社会の中で最も顕著に政治問題化された事例として、年鑑で記録しておくことにそれなりの意味はあるでしょう。

「イスラム教は例外か」というのは、イスラーム教に対する研究や論説の次元での新動向を取り上げたものです。従来の西欧や米国でリベラル派の間で通説であった、「イスラーム(アラブ・中東)例外論を否定する」という議論に対して、米国の移民系市民のリベラル派の論客の中から、イスラーム教がその支配的な解釈において「リベラルではない」という意味では、欧米のリベラル派の想定する「宗教のあるべき(本来の)姿」、あるいは「宗教と政治とのあるべき(本来の)関係の姿」からは「例外」となるがまずこの現実を認めてから対処しないとうまくいきませんよ、という議論が出てくるようになったので、それをキャッチしました。これについては論文や学会発表でより深く取り組んでみようと思います。

ちなみに、過去3年には以下の事項を選んでいました。

2016年版
「『イスラム国』による日本人人質殺害事件」
「グローバル・ジハードの理念に呼応したテロの拡散」
「イスラム教とテロとの関係」

2015年版
「『イスラム国』による領域支配」
「ローンウルフ型テロの続発」
「日本人イスラム国渡航計画事件」

2014年版
「アルジェリア人質事件」
「ボストン・マラソン爆破テロ事件」
「『開放された戦線』の拡大」

何事も積み重ね、ということの意味が、いい意味でも悪い意味でもここのところ分かるようになって来たお年頃ですが、『ブリタニカ国際年鑑』も、自分のテーマでの論文を中断して取り組むのは、毎年辛いものがあるのですが、それでも書いておいてよかったといつか思う日があることを願っています。

年に1度の「定期観測」を、日本語の国際年鑑での「イスラム教」の項目という「定点観測」を兼ねてやっているという具合です。

そういえば、『文藝春秋オピニオン』に、2013年版以来、毎年寄稿し続けているのも、年に1度の中東・イスラーム世界をめぐる日本語での論壇の関心事の定時・定点観測のように機能しはじめているかもしれません。

『ブリタニカ国際年鑑』の方は「イスラム教」の項目、という枠や紙幅は変わらず、その中で私自身が3つ何を選ぶかが、少なくとも自分にとっては有意義な指標となっています。

『文藝春秋オピニオン』は、編集部がその年の中東・イスラーム世界に関する日本の論壇にとって有意義と感じられるもの(かつそれを池内に書かせたいと感じられるもの)を選び、本の中でどこに置いてどれだけの紙幅を割り振るかを決めるのですが、その結果、どのテーマがどれだけの長さでどこに配置されたかが、年ごとに変化していきますので、それが長期的には何らかの指標になるかもしれません。

まあそのうち依頼されなくなるというのも一つの指標でしょうか。

『中東協力センターニュース』が3ヶ月に1回の定時観測で、『フォーサイト』が月刊誌時代には月に1回、ウェブになってからは日々にミクロな変化を記録、という形になっているのと併せて、定時観測・定点観測を異なるサイクルで、異なる形式で複数続けているのが現状です。

【寄稿】「ソマリエメン」と言ってみたかっただけ?『中東協力センターニュース』4月号に

少しこの欄での通知が遅れましたが、『中東協力センターニュース』4月号に論考を載せております。

池内恵「『ソマリエメン』の誕生? 紅海岸の要衝ジブチを歩く」『中東協力センターニュース』2017年4月号, 10-20頁【ダウンロード

四半期に一回の頻度で定期寄稿している『中東協力センターニュース』ですが、今回は、先月のジブチ訪問の報告として、若干紀行文的な要素を加味した論考です。そうは言っても、結局、かなり解説や分析に近づいた文章になっています。

地図は見繕って便利なものを拝借して載せてみましたので、元の記事に遡って読むなどして見るといいでしょう。

読み直して見ると、一部の箇所で、「ソマリ人」と「ソマリア人」がそれほど意味なく書き分けられてしまっているところがあり、かといって完全にどちらかに統一することも難しいので、次に関連テーマで書く時にはさらに詰めて調べて適切な語用を見出していこうと思います。

また、18頁の19行目の「何時にも渡って」は「何次にもわたって」とするべきでした。いずれにせよ硬さが抜けない文章ですが。

今回は、とにかく世界に先駆けて「ソマリエメン(Somaliemen)」という造語を作って使ってみた、というところが一番の肝でしょうか。

米国が9・11事件以後、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯をひとまとまりのものとして、「アフパック(Af-Pac)」と呼んで統合的な対処策を探ったり、「イスラーム国」がシリアとイラクの国境地帯を制圧し実効支配したことから「シラーク(Syraq)」と呼ばれたといった先例と同様に、ソマリアとイエメンの間の人的・物的・思想的交流のインフラの存在とその深化の可能性や、それと同時に進みかねない、ソマリアのアッシャバーブとイエメンのAQAPの相乗り現象の進展、それに対する米国トランプ政権による対ソマリアと対イエメンでの対テロ作戦の強化と一体化、といった事態がより十全に進めば、やがて「ソマリエメン」が語られることになるでしょう。

四半期に一回のこの定期寄稿は、毎度、逼迫した日程の中で時間を捻出し、最新の情勢や、私自身の研究の展開の中での新しい興味対象などから熟考してテーマ設定を行い、締め切りと校了の最後の最後の瞬間まで頭を捻って(編集部には極度の負担をかけて)脱稿・校了します。

研究者としての利益からは、一つのテーマにもっと長い時間かけて取り組むために、この寄稿のために割いている時間を振り分けたほうが得になる、という考え方もあると思います(今は、研究者の環境が極めて厳しくなっており、私自身が通常よりはるかに厳しい条件を選んで赴任してきているので、本来であれば研究者がするべきではないこのような比較衡量が時に頭をよぎります)。けれども、3ヶ月に一度、必ず、中東と隣接地域や国際社会全体も視野に入れて、今何が重要か、将来に何が重要になるかを徹底的に考え直す時間を作ることは、一つ一つはそれほど重要に見えなくても、積み重ねることで、何かが見えてくるきっかけになるのではないかと信じて続けています。