イスラーム法学の政治・軍事に関する規定の入門書(2)

ジハード主義者はどんなものをイメージしてジハードをやるのか。

それはもう、これに決まってます。イブン・イスハークの預言者ムハンマド伝。ハディースに基づき、預言者ムハンマドの生涯を物語った正統的なムハンマド伝です。ムハンマドの生涯がジハードの連続であったことが分かります。

イスラーム法学の解釈とは、コーランの章句を、預言者ムハンマドが実際にどういう場面で神から伝え、それについてムハンマドが何をやって何を言ったかを、踏まえて解釈し規範を導きだします。預言者ムハンマド伝に見られるような正統的な歴史解釈はイスラーム法学解釈の基礎の基礎です。


預言者ムハンマド伝(1)(イスラーム原典叢書)岩波書店

これを原型に、近・現代にも無数のムハンマド伝が、絵本とか映画などのあらゆる形で作られています。

アラビア語では、アラブ世界のどこでも、小さな本屋の店頭にも必ずと言っていいほど売っています。特にモスクの近くの本屋では確実ですね。

日本語訳は丹念に注をつけて、4巻本になっておりますし、高額です。部数が少ないからですね。英語ではもっと安く手に入ります。宣教用の英語訳も、様々なダイジェスト版も多く出版されていますので、今現在もアラブ世界の外でも標準的なムハンマド伝として読まれています

ジハードと聞いてイスラーム教徒が何を思い浮かべるか。第一にそれはまさにムハンマド自身が行ったジハードそのものの事績です。

第1巻はなかなかムハンマドが出てきませんが、大きくなって啓示を受けて宣教を始めるまで進みます。第2巻・3巻となるとこれはもうずっとジハードやってます。

もしかすると2・3巻は版元品切れかもしれないので、アマゾンや各書店の棚の在庫を買えるうちに買っておいたほうがいいかな。こういうものは永遠の古典なので長持ちします。

内容が日本の宗教認識や一般的に流布されたイスラーム認識をはるかに超越したものなので、文庫になるのも難しいと思います。一般的に言って、日本の通常の価値観からはかなり抵抗を乗り越えて読まなければならない部分を多く含みます。


預言者ムハンマド伝(2)(イスラーム原典叢書)岩波書店

第2巻、メディナへの移住(ヒジュラ)直後から。政治共同体の支配者側に立ち、異教徒とのジハードが始まる。


預言者ムハンマド伝(3)(イスラーム原典叢書)岩波書店

クライマックスは第3巻。異教徒と決裂し、徹底的な戦争へと進む。メッカの征服。その後の討伐戦。臨場感がある。ムハンマドは病で床につく寸前まで遠征の指示を出し続ける。

第4巻はイブン・イスハークによる原著にイブン・ヒシャームがつけた注釈と、訳者による注や解説です。これは勉強するには役立ちます。


預言者ムハンマド伝(4)(イスラーム原典叢書)岩波書店

イスラーム法学の政治・軍事に関する規定の入門書(1)

「イスラーム国」がジハードを掲げて異教徒を征服したり、奴隷化したり、殺害したり、世界各地で不信仰者を制圧したりする際に、明示的にイスラーム法的根拠を掲げる。イスラーム法は、イスラーム世界が世界のかなりの部分で支配者側の宗教であり、政治・軍事的に優位で、異教徒を権利の制限の下で従えていた時代に定式化されたものなので、現代の国際秩序の中で「復興」しようとすると、多大な摩擦と混乱、そして戦乱と流血を伴うことにならざるをえない。

イスラーム法はコーランとハディースを典拠に導き出した規範だが、見よう見まねでコーランの断片を読んでみてもイスラーム法の正統な導き方は学べない。1400年の歴史の中で、歴代のイスラーム法学者が議論を重ねて到達したコンセンサスがイスラーム法学の有力解釈であって、それを素人がにわか勉強で覆すのは不可能であると謙虚に思い知った方がいい。

ジハード主義者が掲げる、政治と軍事に関するイスラーム法の根拠について学びたければ、マーワルディーの『統治の諸規則』を読むといいだろう。イスラーム法の観点からの、政治と軍事、あるいはHisbaなどの道徳規範の国家と社会による執行(ある種の強制)の諸制度と根拠が定式化されている。これは権威的、標準的な理論書であり、決して「過激派」の解釈ではない。マーワルディーは、イブン・タイミーヤのような、より「過激派」に好まれる思想家よりもずっと、現存秩序の維持を志向した「体制派」である。


マーワルディー(湯川武訳)『統治の諸規則』慶應義塾大学出版会

まずはこの本を読んで、イスラーム法ではカリフ制や戦争や異教徒の扱いについてどのような規定がなされているのか、基本を知ってから、「イスラーム国」という問題について語っても遅くないと思う。

「イスラーム国」は、近代を通じて提起されてきた「イスラーム法の施行」の要求が実際に現実化した時に何が起こるか、社会実験のようなものである。

日本では1990年代後半から2000年代を通じて、「イスラーム復興」といった特殊な観念が研究業界を支配し、イスラーム法が施行されればイスラーム世界の問題はすべて解消するかのような、もし宗教的信仰に基づいている場合を除いては非常に特殊というしかない主張を前提にして、研究が行われた。学界の支配的な主張によって影響される世界史教育などでも混乱が増幅されている。しかし、それは人間が現実を認識する長い困難なプロセスの中での、一時的なブレとして許容していただきたい。イスラーム教やイスラーム世界を日本で受け止めるには、西洋近代を受け止めるのにかかったのと同じぐらいの時間や労力が本来ならいるのであり、そのほんの一部分しかまだ日本は投資していないのである。

日本や欧米の事情で考え出された「本来のイスラーム」についての万巻の書を読んでも、実際に規範性を持つイスラーム教の教義についてはほとんど何もわからない。それらは、日本や欧米で「イスラーム」について何が考えられ、言われているかを知るにはいいが、実際にイスラーム教の教義について手続きを踏んで考える時にどのように考えるかは、ほとんど教えてくれない。頑張って日本語の本を読んで勉強した人には申し訳ないが、日本では特にガラパゴス的な言論状況があり、日本人にとって心地いい形の「イスラーム」がありとあらゆる媒体に載っているため、体系的に誤解が生じていると言っても過言ではない。その誤解は日本人に好印象を与えるため、あるいは少なくとも悪印象を与えることは避けるためという「善意」に基づいているのかもしれないが、実際とは異なる解釈を体系的に刷り込まれると、現実に直面させられた時のショックが大きく、「脱洗脳」に時間がかかる。

コーランを素人考えてひねくり回して「イスラーム国はイスラーム的か」について論じるのは、下手な考え休むに・・・というのにも及ばないということは覚えておいて欲しい。

ただ、この翻訳に見られるように、より着実な研究においては、イスラーム法の政治・軍事に関する入門編は、すでに日本語で数十年前に提供されていた(本書が慶應義塾大学出版会から刊行されたのは2006年だが、遥か以前に学会誌に掲載されていた。本書の形で刊行にする際の翻訳改定には、私もわずかながら参画させていただいた)。その瞬間での「学界の流行」がいかにあてにならないものか、着実な研究が長期的にはいかに重要かを、思い知らされる。

【寄稿】『アジ研ワールド・トレンド』12月号にアジ研図書館について

アジア経済研究所の刊行する雑誌『アジ研ワールド・トレンド』12月号にエッセーを寄稿しました。

「アジ研図書館を使い倒す」の第35回に登場。

池内恵「偽OBが、夜陰に乗じて帰来する」『アジ研ワールド・トレンド』2015年12月号(第21巻第12号、通巻第242号、2015年11月15日発行)、54頁。

「偽OB」とは誰のことか?

賛助会員になっていると『アジ研ワールド・トレンド』の最新号が送付されますが、2ヶ月たつとウェブサイトでダウンロードできるようになります。過去の記事はここから。

地域研究の専門研究書が網羅されているアジ研図書館の使い方について。

趣向は読んでみた人にか分からない方がいいので、ここには書きませんが、文中でも記した「アジア経済研究所賛助会 個人利用会員」は、お勧めです。年会費1万円で、この「アジ研ワールド・トレンド」も毎号届きますし、毎年一冊アジ研の刊行物を選んでもらえる(買うと一冊3000円ぐらいします)。そして、世界に一つしかない地域研究専門の大規模図書館で、貸し出しまで可能になるのです(やる気があるとこれが一番大きな特典ですね)。

アジ研図書館にしかない本も多く、私も仕事で使うので、あんまり教えたくないですが・・・