トルコの戦勝記念日(共和国の領土の確保)

今日までイスタンブールにいる。昼過ぎから、仕事が一息ついて、夜便に乗って帰る前にちょっと街に出られた。

今日はトルコの戦勝記念日で祝日

街は赤地に白抜きの新月と星のトルコ国旗で溢れている。

トルコ戦勝記念日の国旗街中

アンカラでは就任三日目のエルドアン大統領が一日がかりの式典で、建国の父で戦勝の功労者ケマル・アタチュルクを顕彰し、来賓をもてなしていた。

トルコ戦勝式典8月30日

ちょうどいい。

このブログの「地図で見る中東情勢」のシリーズの一環として、「第一次世界大戦後のオスマン帝国の過程における民族・国民国家の切り分け」をテーマに地図をまとめて紹介しようと思っているが、なかなか時間がなくてできないできた。

トルコの戦勝記念日は、オスマン帝国の崩壊から現在のそれぞれの民族・国民国家への分割独立までの間のもっとも重要な画期の一つ。

トルコの「戦勝」から今年は92周年だという。どこを相手の戦勝かというとギリシャに対して。トルコ共和国が独立する際に周辺諸国と戦った(トルコ側はこれをトルコ独立戦争と呼ぶ)が、一番大きな敵がギリシア。

第一次世界大戦でのオスマン帝国の敗北に乗じて、1919年侵攻してきたギリシアの軍勢を、ケマル・アタチュルク率いるトルコ軍が撃退して現在の領域を確保したのが1922年8月30日。この日が戦勝記念日とされている。

詳細を記せば、8月26日-30日の「ドゥムルプナルの戦い(Battle of Dumlupınar)」あるいはトルコの言い方で「総司令官の野戦(Başkumandanlık Meydan Muharebesi)」 でトルコがギリシアに勝利し、トルコ独立戦争の大勢が決したのがこの日。

近代のトルコ共和国が現在の領域に、国際社会の承認を得て正式に成立したのはその翌年の1923年。その実質が戦場で定まったのが1922年の8月30日ということになる。

第一次世界大戦の終結からこの日まで、イスタンブール周辺とアナトリア半島、また現在はギリシアに属する旧オスマン帝国領土では戦乱が続いた。

1914年に始まった第一次世界大戦は1919年に終結。しかし中東、特にアナトリア半島では戦火は収まらず、むしろ激化した。

(1)サイクス・ピコ協定(1916年)

ドイツの側について敗れたオスマン帝国は、大戦中に、映画『アラビアのロレンス』で描かれているような、英仏を背後にしたアラブ人の反乱で、支配下のアラブ領土を失っていた。

アラブ領土の分配についての大戦中の密約は有名なサイクス・ピコ協定。これについてはまた書きますが、一応ここで掲げておきましょう。

サイクス・ピコ協定DW
出典:Deutsche Welle

しかしアラブ領土を手放すだけではすまず、トルコ人が多く住むイスタンブール周辺やアナトリア半島の大部分まで、近隣のギリシアやイタリア、あるいは独立を主張していたアルメニア人、クルド人などの領域として、あるいはそれらの背後にいる欧米列強の支配領域として、分配されそうになった。

弱体化したオスマン帝国に侵攻する、かつて支配下に置いていた諸民族や近隣諸国と、その背後にいる列強(英・仏、そして忘れられがちだが、オスマン帝国の領土の多くを奪ったのは帝政ロシアおよびソ連である)の領土割譲要求に対して、オスマン帝国スルターンは譲歩を重ねた。

(2)セーブル条約(1920年)

その最たるものが、セーブル条約(Treaty of Sevres)。1920年4月19日から26日にかけてイタリア西部のフランスとの国境に近いイタリアン・リビエラと呼ばれる風光明媚な地域にある保養地サンレモ(San Remo)で開かれたサンレモ会議での協議に基づき、同年8月10日にパリ郊外のセーブルで調印された。

セーブル条約(1920)
出典:Wikipedia

セーブル条約によって、オスマン帝国の領域は黄色の部分だけになってしまう。青色に塗られた領域、つまりアナトリア半島のエーゲ海沿岸のイズミルを中心とした範囲、そしてヨーロッパ側の主要都市エディルネを中心としたトラキアを、ギリシアが得るものとされた。水色に塗られたアナトリア半島東部には、大規模なアルメニア人国家が成立するものとされた。アルメニア人を背後で支援していたのはソ連だった。

当時の地図ではこのように描かれていた。

セーブル条約の地図原本(1920)
出典:Wikipedia

(3)トルコ独立戦争(1919‐1922)

これをオスマン帝国スルターンは受け入れた。しかしケマルらトルコ軍将校たちは受け入れず、戦争を続けた。ここからオスマン帝国の消滅と、民族国家としてのトルコ共和国の建国という道筋が決定的になる。ケマルらトルコ民族主義者たちは軍事的に侵入勢力を撃退していくと共に、1920年4月にアンカラで大国民議会を招集した。これがイスタンブールのオスマン帝国スルターンと帝国議会に代わる、トルコ民族を代表する独立政権に発展していった。

戦線は東部(主に対アルメニアとソ連)・南部(対フランス・シリア)・西部(対ギリシア)とあった。それぞれを示すのがこの地図。

トルコ独立戦争の際の戦線地図
出典:Wikipedia

(4)アンカラ条約(1921年)

大国民議会側の勢力は、侵攻する周辺諸国と列強勢力の足並みの乱れにもつけこんで形勢を逆転していった。

1921年10月20日に、トルコ大国民議会とフランスが結んだのがアンカラ条約。

この条約でフランスがトルコとの戦争を終結させるとともに、サイクス・ピコ協定に基づきセーブル条約で確認されていたトルコとシリアの間の国境を、トルコに有利に引き直した。それによって、メルスィン、アダナ、アンテプ(現ガーズィーアンテプ)、キリス、ウルファ(現シャンルウルファ)、マルディンといったアナトリア南部の諸都市をトルコ側に編入した。トルコ大国民議会勢力は、サイクス・ピコ協定に基づいて第一次世界大戦中に奪われた領土の一部を実力で取り戻し、セーブル条約でオスマン帝国が認めた国境線を引き直した形になる。トルコの対アラブでの国境画定はこの時点でほぼ終わった。

「ほぼ」というのは、1939年に、第二次世界大戦直前の国際情勢を背景にしてトルコはフランスに対して優位に交渉を進め、フランス委任統治領シリアからイスケンデルン(現ハタイ)を割譲させるからである。

(5)ローザンヌ条約

1922年8月30日の対ギリシア戦勝を受けて、1923年7月24日にローザンヌ条約が結ばれた。これによって第一次世界大戦とそれによって引き起こされたオスマン帝国の崩壊が完了したことになる。

トルコの版図を決めた条約の地図
出典:Wikipedia

東部ではアルメニアの領域を縮減し、アナトリアからギリシアの勢力を駆逐しての独立だったが、オスマン帝国支配下の土地には諸民族が混住していた。第一次世界大戦の間から、トルコ独立戦争にかけての時期に、さらに戦争終結後の国境画定に伴い、アルメニア人の強制移住や、トルコ人とギリシア人の住民交換によって、多くの人々が難民となると共に、戦火の中で、あるいは虐殺によって多くが命を落とした。

トルコの抱える「歴史認識問題」としての「アルメニア人虐殺」の問題や、トルコとギリシアの住民交換という事象については、また書いてみたい。ギリシア人が多く住む都市としてのスミルナ(現イズミル)や、トルコ人が多く住む(ケマルもここの出身)サロニカ(現テッサロニキ)といった都市が、物理的には存続しても、住民の入れ替えによって実質上消滅・変質した。こういった相次いだ歴史の悲劇については多くの書物が書かれている。それらもそのうち紹介しましょう。

今回はトルコ共和国の領土の確定を軸に第一次世界大戦が中東秩序の形成にもたらしたものを解説したのだけれども、アラブ諸国を軸にしたり、アルメニア、あるいはクルドを軸にすればまた違う書き方ができる、シリーズ化して解説していきましょう。