されどわれらが日々

引き続き体力の限界まで二本の論文を書きながら火曜日にある別の論文の報告会の準備。

というわけで中東情勢解説はお休みして、最近出たインタビューの紹介。
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「アメリカの覇権にはもう期待できない──大国なき後の戦略を作れ」『文藝春秋』2014年3月号(第92巻第4号)、158-166頁。

雑誌全体は、今回の芥川賞発表と、ちょうど150回になる芥川賞の歴史を振り返る号なので、なかなか面白いです。「レガシー・メディア」の面目躍如というべきでしょうか。

村上龍・宮本輝対談を読むと、村上龍(75回・1976年上半期)の方が宮本輝(78回・1977年下半期)よりも受賞が先だというのが今から見ると不思議な感じ。「泥の河」「螢川」を書いている最中の宮本輝が「限りなく透明に近いブルー」を読んで焦った、という話。歴史は一方向的には進みませんね。

両者は友好的・常識人的に対談していますが、最後の方で村上龍が「乱暴に言えば」とことわって、「近代文学の役割とは〔中略〕近代国家が発展するなかで、置き去りにされた少数派の声を代弁したり、個人と共同体の軋轢によって生じる「悲しみ」を描くことだった」と本当に乱暴にまとめてしまって、「レコード大賞」と「紅白歌合戦」と宮本輝的な小説を同列に並べ「近代文学の代表としてまだまだ頑張ってくださいね」と芥川賞選考会の後に声をかけたなんて言い放っています。

ようするに近代文学はもう「オワコン」だが、伝統芸能のように続けてくれる人がいるとありがたい、ということですか。

芥川賞=日本の近代文学の社会的機能のもっとも明確な表出、という意味では、記憶に残る受賞作として柴田翔「されどわれらが日々──」を挙げている人が多いのが興味深い。「作家」としてフルタイムで活動していた時期はほとんどないであろう、端正な独文学者のこの小説は、今この雑誌を読み、執筆を依頼される年代・階層の人生に深く影響を残したのでしょう。柴田翔さん自身のエッセーも載っています。毎回同じことを書いているような気がしますが、やはりいいですね。

小説が歴史を写すというよりは、この小説と柴田さん自身が、日本近代史の欠かせない一部なので、定期的に同じことを回顧するのが御役目のようで、それをいつも通り果しておられます。超秀才の近代西洋文学研究者が、日本のある段階に適用して近代文学を「実作」して、それが成功したという、学者作家の不滅のサクセス・ストーリーで、誰も真似することはできないでしょう。

この方に大いにお世話になったであろう、また憧れ、目標にした時期もあるであろうこの人、今こんなことをしているようで。

近所の商店街の本屋で街歩きガイドのところに平積みになっていたので表紙に衝撃を受けて思わず買ってしまった(汗)。不穏当な発言はありませんでした(安堵)。

柴田翔さんと同じことをやってもできないしやってはいけない、と思い定めるという意味で、その後の方向性に大きな影響を与えたのではないかと思います。

柴田翔先生は、本当に重要なことをして、それ以外では無用に「渦中」にいようとしない、一度当たったスポットライトを二度三度求めて右往左往しない、という生き方を示してくれているという点でも尊敬しています。それも、日本の近代史の一段階を体現するような作品を残してしまったことからくる余裕や責任感に由来するのでしょう。もちろん人間だから焦燥感とか、もしかして嫉妬心とかも一瞬湧くのかもしれませんが、と下世話に想像しますが(すみません)、それを表に出すことは決してない。

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私のインタビューの方は、内容は、中東情勢を見ている人間が日本と東アジア情勢を見たらどう見えるか、というような内容。靖国参拝問題なども、遠ーくからはどう見えるか。

結論は「だから大学院を活用してください」だったりする。

日本は巨大な知の消費国であることは確かでそれは素晴らしいことなのだけれども、二次使用どころか三次使用・四次使用の方ばかり活発で洗練されていて、根本的なアイデア(第一次情報)を生み出しているかというと、そこに社会的関心(時間と労力)も、お金もたいして払われていないというところがある。

大学院は博士課程以上で第一次的な知を生産して、それを真っ先に有効に活用できる人材を修士課程で育成して企業・官庁に循環させる、というのが本来のあり方。

日本の大学は役に立たない、というのは、日本のエラいさんたちが自分が大学に通った(通わなかった)時代を回顧した、まったく現実に合わない認識に基づいている。

東大などは研究と共に、高度の教育機能を果せるような実態はある。なぜかというと教員は入れ替わっているから。大学の人事の流動性が低いと言っても、財界と比べればきちんと定年があるから入れ替わっていますよ。政治家と違って二世が学科を継いだりしないし。

日本の大学を企業や官庁などがもっと有効に使ってくれればいいのにね。社員が20代半ば、30代半ばで一回ずつ修士に一年ずつくるような人事をやっている会社はほとんどないので、国際的にみると個人の力が弱い、視野が狭いという点が否めない。「グローバル人材」というならまず自国の研究・教育機関を活用しないと。社会の側が利用しないなら、大学院ではこれまで通り研究者養成に特化するしかない。だって研究者になりたい人しか来ないんだから。

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仕事でよくご一緒する先生方は、近年盛んにこういった場に出ていって発言してくださっていますので心強いのですが、私は純粋ドメスティック人材として、レガシー・メディア(日本の大学を含め)再興に尽くしていきたいと思います。

最終的に文化の水準というのはその国の言語でどれだけ活気のある議論が成り立っているかで測られると思いますので。