ダッカ事件をめぐって(3)ジハードの論理

ダッカ事件に際しての備忘録その(3)。

ダッカ事件に際しては、ジハードという理念を奉じて攻撃を行う場合の、武装集団(あるいは個人)側からの世界の見え方、敵の見え方について、日本の常識や通念からは理解しにくいことにより、知らず知らずのうちに、あるいは半ば意図と願望と思惑に基づく、事件の基本的事実を捻じ曲げる議論が無数に発信されていきました。

これらがSNSで集約され、一定の人間の頭の中では「事実」となっていくのもまた、SNSは可視化してくれます。そのような仮想現実を強固に頭の中に備え付けた人が、メディアなどで影響力を持つことは、民主主義にとって重大なリスクを増大させます。

思い込みから脱洗脳するために、役に立ちそうな記事をいくつかシェアしましたが、その一部にはコメントをつけました。それらのうち1つをここに転載します。これはアゴラにも転載されています。

7月3日 17:14 https://www.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10205282278655536

 池内恵「ダッカテロ 〜 日本人が知らないジハードの論理」『アゴラ』2016年07月03日 18:00

(時事通信)実行犯、20~28歳学生か=標的は「外国人と異教徒」-バングラ

http://www.jiji.com/jc/article?k=2016070300088&g=isk

ジハードの 論理からいって、このような手順は基本。

【また、実行犯は人質になったバングラデシュ人の男性店員に対し、ベンガル語で「心配するな。われわれは外国人と非イスラム教徒を殺しに来ただけだ」と話していた。一人ひとりにイスラム教の聖典コーランの一節を暗唱させ、できなければ殺害したという。】

穏健なイスラーム教徒がこれを回避するには、例えばバングラデシュと日本という国同士が和平を結んでいるから、その国民を殺してはいけない、などと反論できますが、その和平が、多神教徒でイスラームを受け入れない国とのものだから無効、と唱えると、少なくとも平行線になり「見解の相違」になってしまいます。

なお、イスラーム教徒もジハードの一環として攻撃の対象になる場合がありますが(今回は治安部隊の要員が複数亡くなっている)、敵と同盟したことを理由に正当化する思想が強くあります。あるいはなんらかの理由でムスリムではなくなった(背教した=不信仰者・カーフィルになった)ととらえてジハードの対象にすることを「タクフィール」と呼び、今現在のイスラーム過激派の問題の中心の問題です。

それについて日本の多くの人が知らないのはやむをえないですが、知らないからといって存在しないなどと言い張ってはいけません。